肉球のついた手のひらに乗せた、  
小さな耐熱紙のカップに詰め込まれた様々な食材が、  
色と香りを自己主張している。  
あとは少し焼くだけ。  
(美味しく出来上がるといいな……)  
最初に味見をするのは、そのために呼んだ、彼。  
もう数分もしないうちにここに来るだろう。  
 
 この幸せな時間がいつまでも続けばいいのに──  
 わたしが彼のことを、愛し続けられればいいのに──  
 
食材の匂いを、細長く飛び出した鼻の先からすぅーっと吸い込み、  
ケイティ・パーカーはゆっくりと目を閉じた。  
 
くりくりとした可愛い、丸い瞳。  
小さなオオカミを思わせる灰褐色の毛皮。  
ちょこんと飛び出した立ち耳とふかふかの襟毛。  
くるりと巻き上がった柔らかい大きな尾。  
全身がふかふかの縫いぐるみみたいな姿の中型犬、キースホンド、  
またの名をウルフ・スピッツというオランダ原産の犬種。  
それが彼女の今の姿だ。  
 
温暖化と人口増による深刻な資源の枯渇から人類を救済する策として、  
小型で人間より遥かに代謝のよい体を手に入れる、獣化政策が推進された。  
身体のベースに選ばれたのは 'domestic dog'、つまり「犬」である。  
通常の犬の同一の犬種と比べて小さくデザインされた体は人間の体重の1/5にもなり、  
高効率の代謝は長寿とほとんど病気に罹らない頑強さを生んだ。  
寿命は第一世代の技術で、想定250年から300年とされる。  
外見は完全に犬と酷似していたが、  
骨盤など下半身の構造は二足歩行に適して安定している。  
腕も関節の自由度が高く、指先は長く、5本に分かれていた。  
獣化人の女性の体には通常の犬と明らかに違う部分がある。  
それは乳房で、人間と同様、妊娠しなくても性徴を迎えると発達する。  
犬科に共通で平均8から10個ある乳房は、胸部の1対だけが大きく、  
残りの3ないし4対はあまり存在を主張しない、なだらかな盛り上がりになっている。  
一番下の下腹部の乳房、1対または2対を衣服から覗かせておくのがお洒落だとされていた。  
ケイティも、その姿が好きだったし、下半身は裸のままでいることにも平気だ。  
人間だったときとはまるで羞恥における感覚が違うのである。  
木製の家屋に石かまど(これは料理を職にしている者の家にだけある)の生活。  
広い土地に離れて住み、互いを訪ねるときは四つ足で駆けることもある。  
主に第一次産業と第二次産業に従事する、旧時代的な文化が住人の間に根差している。  
かつてのアラスカ大陸にあるここは、カナリア(「犬の」という意味)国と呼ばれる、  
新しい人類の生活の舞台だ。  
 
ケイティ・パーカーは資産家の娘で、15歳のときに獣化処置を受けた。  
第一世代の獣化技術では、女性の場合、元の人間の体が子供を産める分だけ複雑なゆえか、  
成功率は男性ほどには高くなかった。  
ほとんどの場合、失敗は死を意味する。人間の知性を完全に失うこともあると言われる。  
それでもケイティが犬の姿になることを選んだのは、  
父であるパーカー家当主レイ・パーカーが私財を投げ打って獣化政策に貢献したことと、  
贅沢を知って育った自分が率先して資源を浪費しない体になることが、  
社会に対する責務と考えたからである。  
当時のことはもう彼女の記憶にはない。  
カナリアの国に住んで20年近くが過ぎようとしていた。  
そんな中で彼女は、黒い毛並の犬の青年、ジェイクと知り合っていた。  
 
美味しいよ、と彼は言った。  
ケイティの顔をじっと見る、アーモンド形の優しい目。  
立ち耳と美しい流線を描く垂れ尾。  
全身を覆う漆黒の被毛は長く、滑らかで、光を受けると輝くように見える。  
ジェイクは、黒いベルジアン・シェパードの体を持つ男性だ。  
ケイティより頭ひとつ分、大きな体は肉体労働に従事する獣化人に与えられるもので、  
彼は家屋の修繕などを生業にしていた。  
以前は新規建築のために駆り出されることもあったが、  
ケイティたちの住んでいるあたりではもう数年ほど人口は増えていなかった。  
肩を締め付けるくらい小さな厚い生地のベストを着るのが男性の間の流行りで、  
閉じ切れないベストの前から胸のふかふかした毛を覗かせている。  
下半身は当然のように裸だが、短毛種ならともかく、  
彼の場合は犬科の大きな性器も長い毛に埋もれていて、目立たない。  
 
「ありがとう。ジェイクがそう言うなら、満点だよね」  
あなたは裏表がないから、とケイティは言ってにっこり微笑んだ後、  
視線を落としてふぅ〜っと溜息をつく。  
「どうしたの? 君の料理はいつも絶品だよ」  
彼女が作っていたのは、品評会に出す料理だった。一口で食べられるサイズで、  
優秀な作品は量産されて配給されることになっていた。  
ケイティ・パーカーの料理、と言えば有名だ。  
だが、彼女自身はその評判を受け止めかねていた。  
(だって、一年前に自分が作ったものを──、覚えていないんだもの……)  
大きな体のジェイクに後ろからそっと抱き締められ、ケイティはドキッとする。  
遠慮のないジェイクの態度は、いつも彼女にとって嬉しいものだ。  
「そっか、そろそろあれの時期だからね。不安なんだろう?」  
そう言いながら、細長く尖った鼻先を押し付け、  
甘噛みをするようにケイティの後頭部をわしわしと毛繕いする。  
嬉しい。嬉しいのに、ケイティの目には涙が浮かぶ。  
「ごめんね。わたしはまた、あなたのことも忘れてしまうんだから──」  
 
第一世代の獣化人の女性には、年に一度、転機が訪れる。  
それはまだ未発達な技術がコントロールし切れなかった、  
牝獣の体が持つ宿命──、発情期。  
発情期を迎えた女性は、人口管理局の施設にいったん収容される。  
体が異性を求めて暴走し、一時的に理性の無い獣そのものになってしまうからだ。  
収容された先で、性欲を抑える処置を施される。  
当人たちには一切知らされていなかったが、想像するに、  
おそらく専任の男性と交尾を繰り返すことになるのだろう。  
獣化人は一代限りの種族で、生殖能力は失っている。それでも女性には発情期があり、  
男性に性衝動はあるのだ。  
発情期を終えた女性は記憶を全て失くしている。  
ここで記憶と言うのは、「想い出」と呼ばれる類の部分で、  
言語能力や身体の制御に関わる経験などには影響がないのが不思議ではある。  
 
「大丈夫、僕は君の後見人登録をしているし、これまでもそうしてきたように、  
 この先もずっと、記憶を失くしたあとしばらくの世話は喜んでするよ。  
 だから、安心して」  
この「後見人」とは、昔の概念で言う、財産の管理を任される者のことではなく、  
発情で記憶を失くした女性の引き取り手のことだ。  
ただ、ケイティにとってそれが将来に渡ってジェイクである必要はないのでは、  
と思い、彼女の気持ちはまた沈む。  
 
発情期が終わり、人としての意識を取り戻すときのことだけは、何故か覚えている。  
柔らかなベッドの上で、薄いネグリジェを着せてもらった自分がそっと目を開く。  
その目覚めのときに自分の中に残っている記憶は、そればかり。  
何度も繰り返し目覚める自分が居る。  
じわじわと身を包む、生きてきた基盤、想い出が無いという不安──。  
最後の目覚めの直後、ケイティはジェイクが誰だか分からず、拒絶した。  
いつもそうなんだよ、と彼が言ってくれても、そうしてしまったことが悔やまれる。  
「あなたがわたしのことを愛してくれていても、  
 もしかしたら、次に会うわたしはあなたのことを好きにならないかもしれない……」  
料理のことは体が不思議と覚えている。  
だから、記憶を失っても少し訓練をすれば再び同じ職に就けるのだ。  
でも、ジェイクへの愛は、簡単に消え去ってしまう「想い出」という、  
曖昧なものの中にしかなかった。  
ケイティの古い持ち物に、人間だったときの写真がある。  
飼い犬と思われる黒いベルジアン・シェパードと一緒に写っている写真だ。  
自分がジェイクを好きになるのは、体のどこか深い部分にその愛犬への想いが  
刻まれているからかもしれない。  
いや、それならば、同じ犬種であればジェイクでなくともよいとは言えないか?  
そこに写っているのは本当に愛犬なのか。ただの知り合いの犬ではないのか──。  
考え始めると不安は募るばかりだった。  
「ケイティ!」  
ジェイクの呼びかけに、ケイティははっとして振り向いた。  
優しい瞳で微笑む黒い犬の顔が目の前にある。  
「必ず、僕のことを好きにさせてみせるから」  
そうだよね、と思う。  
あの写真の存在に気付くのは決まって、彼への愛情が再び生まれてから後のことだ。  
つまり、ケイティは過去何度も、例外なくジェイクに惚れ直しているのであり、  
次だってきっと大丈夫だと自分に言い聞かせるのだった。  
 
「ねえ、ジェイク……」  
安心すると同時に、ふと思ったことを口に出してしまう。  
「もしかしてあなたは、発情したわたしと……、交尾したことがある?」  
人口管理局に専任の男性が居て性欲処理をしてくれる、というのは勝手な想像だ。  
ジェイクに肉体まで愛されているのだとしたら、素敵なことに違いない。  
ただ、これまでそのことを知らされていないのは、  
女性が事実を知るのがタブーであるからのようだ。  
予想通り、ジェイクは困惑した表情を見せる。  
「教えちゃいけないことになってる。でも──」  
何かを言いかけてすぐ口をつぐんだジェイクは、  
時計を見て仕事があるから、と言って部屋を出ようとする。  
「変なことを聞いてごめんね……」  
耳をぺったりと寝かせて謝るケイティを振り返り、  
ジェイクは彼女の下腹部に見える小さな乳房にそっと指先を当てると、小声で  
「でも、君がどうされるのが好きか、よく知っている」  
と囁いた。  
 
嬉しかった。  
ジェイクの去った部屋で、ケイティは自らの肩をぎゅっと抱き、喜びを噛み締める。  
全く記憶にはないけれど、きっとそうされていた、  
逞しい黒い毛並の彼に抱かれる自分を想像してうっとりした。  
しかし、悩みがひとつ増えたのも事実だ。  
発情が始まってしまえば、それ以降のことは覚えていない。  
ケイティはジェイクと愛し合っていながら、  
彼の体を自分の身に受け入れる喜びを永久に知らぬまま寿命を迎えるのだ。  
 
あと、二百と数十年。それは耐え難い長さのように思えた。  
 
 
──数日が経ち、ケイティは自分の住むアンカレジ区にある人口管理局に来ていた。  
人間が人の姿で暮らしていた頃の何の変哲もない煉瓦造りの庁舎は、  
小さな体の犬たちには荘厳な建築に見える。  
発情管理局と呼ばないのは、今はまだそれが主な目的であるが、  
第二世代以降の獣化人に子孫を作る能力を持たせる研究も行っているからだ。  
第一世代の女性にはどう手を尽くしても繁殖を行わせることはできないとされていた。  
代わりに与えられている、生活上の優遇措置と制約。  
彼女たちは発情を迎えたら、性欲を感じ始める前にここへ出頭するのが義務である。  
 
(ジェイクだって、わたしと交尾ができても、言葉を交わすことはないのだし、  
 それは本当に愛し合っていると言えるのか、悩んでいるんじゃないのかな……)  
寿命を迎えるまでずっと、  
好きな相手と体を合わせる本当の喜びを知らずに居るのは彼とて同じこと。  
ケイティはそう思い、再び沈んだ気持ちになっていた。  
(本当にどうにもならないのかなぁ。ねぇ、ジェイク……)  
 
管理局の窓口で受け付けを済ませると、ケイティは診察棟の一室に送られた。  
出迎えたのは、白衣を着た獣化人の医師。ジェイクと似た黒い毛並の獣人だった。  
(ジェイク?)  
一瞬、先ほどから想い続けていた恋人の姿と重ねてしまったが、  
すぐに彼がケイティの倍もある体格の持ち主だと気付く。  
実物の犬と変わらない大きさの体は、役人や医師などの権威ある職業に就く者だけに与えられる。  
ジェイクに比べると口吻が尖っておらず、横に広い笑ったような口元をしている。  
垂れた耳と豊かな毛量のブラシのような尾。黒い滑らかな長毛は、  
このフラットコーテッド・レトリバーという犬種の特徴だ。  
よく見れば、黒毛で長毛というところ以外はジェイクに似ていないように思えてくる。  
性格もジェイクと違い、元の犬種の特徴がそのまま移ったような、  
陽気で人当りの良いタイプのようだった。  
「胸、苦しいでしょ?  
 体中が感じやすくなっているはずだから。  
 前を開けるといいよ。  
 ああ、恥ずかしがらなくていい。  
 見慣れてるからね、僕は──」  
言われるままに、ケイティはボタンを外し、衣服の前を開いた。  
形の良い乳房が飛び出す。列の高さと左右の大きさが綺麗に揃った8つの乳房は、  
彼女の密かな自慢だった。ジェイクに見てもらいたいと何度も思いながら、  
結局見せていない。  
それを医師はじっくりと眺めて、言った。  
「相変わらず、可愛いね。  
 君のおっぱいを見るのは、三度目だ」  
彼はペロッと舌を出す。  
知らない人に自分のことを知られている不思議な感覚には何度遭っても慣れない。  
恥ずかしさと騙されたような気持ちで困惑するケイティに、  
医師はいきなり抱き付いた。  
後頭部の毛を甘噛みされ、敏感になり始めた発情期の肌を刺激されたケイティは、  
体に電撃が走ったように感じた。  
「ジェイクによくこうされてるの?」  
「えっ?」  
「三度目の自己紹介をしておこうか。僕はこのアンカレジ区の医師長、アレン。  
 人間だった頃のジェイクの兄さ。  
 今はこんな体で、血の繋がりも何も無いけどね」  
それでもあいつは可愛い弟で、君はその大事な彼女だ、と言うアレンに、  
ケイティはほっとして気を許すのだった。  
記憶には無くとも、昔からよく知っている相手のように感じるのだ。  
何気なく、ジェイクによくしているように彼の太く立派な首に腕を伸ばし、  
抱きつこうとしてしまう。  
アレンは「触らないで。あいつに怒られる」と笑いながら言って身を引いた。  
 
「それじゃあ、膣にこの検査棒を入れて」  
アレンに渡された少し弾力のある細長い棒を、  
ケイティは戸惑いながら膣に挿し込んでいく。  
前にも同じことをしたのだろうが、全く覚えていない。  
ケイティにとっては処女地に初めて異物を侵入させる行為になる。  
(奥、けっこう深いんだ……)  
ケイティはまた、そこにジェイクのものを受け入れてみたい衝動に駆られ、  
たまらなくなった。  
アレンはケイティから返された検査棒に、何種類かの薬品を塗って変化を確かめた。  
「うん、あと5日ほどで本格的な発情期に入るね。  
 もう準備はして来てるよね? ここに居室を用意しよう。  
 何か食べたいものはある? ケイティ・パーカーの料理、とかさ」  
アレンに言われて、ケイティは5日経てば自分が自分でなくなることを実感する。  
今までは平気だったのだろうが、今回はジェイクに対する想いが捨てられずに居る。  
忘れたくない、のだ。  
「悩みがあるなら、ここで全部吐き出しておいた方が楽だよ。  
 カウンセラーをつけようか?  
 君のカルテの記録を見ると、その必要はなかったみたいだけど……」  
すぐに記憶はリセットされるからね、と彼は軽い口調で言った。  
まさに、それがケイティの悩みだとは知らない様子だ。  
「あの……」  
「ん?」  
ケイティは思い切って、彼に相談することにした。  
「発情しても好きな人のことを覚えていられる方法って、  
 本当に無いんですか?」  
 
アレンの表情が険しくなる。  
「本気でそれを望んでいるのかい?」  
先ほどまでのふざけた調子とは変わって、真剣な声で彼は問う。  
「できるの?」  
目を輝かせる彼女に、アレンは厳しい表情で言った。  
「仮にできるとして、君は……、そうだな、  
 今ここで、料理が二度とできなくなっても平気かい?」  
彼は薬品棚の奥から、一粒の錠剤を取り出した。  
「これを舌に乗せるんだ」  
何の薬だか分からないが、それはケイティから料理の腕を奪うものらしい。  
ジェイクへの愛を除けば、料理は彼女の生活の全てだ。  
さすがに決心がつくのに時間がかかったが、アレンの言う通りにした。  
錠剤が舌の上で溶けると、味を感じなくなっていた。  
ケイティはぞっとする。自分の大事にしていた能力があっさりと奪われてしまった。  
しかし、気を強く保とうと顔を上げ、ケイティはアレンを見詰める。  
どうしても諦められなかった。ジェイクと愛し合うことを。  
「いい覚悟だ」  
アレンは言う。  
「すべてが終われば、味覚を失うどころじゃ済まないよ。  
 それでもいいと言えるかい?」  
ケイティはその問いに、即座に頷いていた。  
「ジェイクは幸せ者だな……」  
アレンは、ふと遠くを見るような目をしたかと思うと、  
すぐに人懐っこい顔に戻って、ぺろりと舌を出す。  
「舌はすぐに戻るよ。ただの麻痺剤だから。  
 味覚がなければキスをしても味気ないだろ?  
 じゃあ、ついておいで」  
ケイティは、彼に試されていたのだと知った。  
 
 
管理局の事務棟へケイティを連れて行ったアレンは、  
人目を避けるようにして薄暗い通路をいくつか辿り、地階への階段を降りる。  
自分たち以外に人の活動する音が聞こえなくなった、しんとした地下の通路の左右に、  
重そうな鉄の扉が並ぶ。その一つの前でアレンは立ち止った。  
「この扉を開けたら、後戻りはできない。君はここで知ったことを忘れないからだ。  
 つまり、確実に君の望みは叶うだろう。  
 どうだい? 覚悟はいい?」  
このように念押しするからには、ケイティにとって何か代償が必要だということなのだろう。  
そのことを彼の口からはっきり聞き出すのは怖かった。  
「もしかして、一度っきりなの?」  
彼と本当に愛し合えるのは。  
ケイティの曖昧な質問に、アレンも謎めいた回答を返す。  
「一度っきりかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」  
ケイティは大きく息を吸って覚悟を決めた。たった一度だとしても、それで充分だ。  
知らぬまま一生を終えるよりはずっといい。  
どんな代償が、我が身に課せられようとも──。  
 
薄暗い部屋の中は、意外なことにただの応接室のような構成だった。  
アレンが小さな薬のアンプルをケイティに手渡す。  
「まず、これを飲んで、一時間安静にして。少し熱が出るはずだ。  
 その後、ある映像を見てもらう。  
 君はもう記憶を失くさない。  
 発情していても正気を保つことができるんだ。  
 だから、君は発情した第一世代獣化人の女性がどのような処遇を受けるのか、  
 ここで真実を知る必要がある。人間の常識ではとんでもないことだからね。  
 そしてひとつ、約束を守ってもらう。  
 じゃあ、始めるよ」  
がちゃりという重い金属の音がする。アレンが地下室の扉を固く閉ざしていた──。  
 
本格的な発情期を迎えたケイティは、  
アンカレジの人口管理局から居住区のイーグルリバーまで運ばれた。  
発情中はずっと管理局で過ごすことになると思い込んでいた彼女は、  
自分がずっと居た町にそんな施設があることを知らなかった。  
今では珍しいコンクリート建材の建物。  
郊外の森に接した平らなシェルターに似た建造物には窓が無い。  
5人まで同時に収容できるらしいが、発情の時期は個人によって違うため、  
今はケイティ専用の施設となるそこは、「共有寝所」と呼ばれていた。  
 
ケイティがアレンから特別な処置を受けたことを誰も知らないため、  
彼女は普通に発情して知性を失くした女性の扱いを受けている。  
施設に横付けされたトラックの中のケージは人間が犬を飼うときのものと変わらなかった。  
ケージから出されたケイティは、寝所の一室へと連れられる。  
全裸で四つん這いの姿はまるで犬そのもの。  
大きな乳房が体の下でゆさゆさと揺れる様は犬よりもずっと淫らだ。  
だが、いくら恥ずかしがってもケイティにはどうしようもなかった。  
彼女は首輪を嵌められ、鎖で引かれて歩かされていた。  
短い鎖がもう一本、体に着けられていた。  
交尾の際、女性が興奮して暴れることを防ぐためと思われる鎖が、鼻にぶら下がっている。  
ケイティはずっと昔から自分の鼻に鼻輪を通すための小さな穴が開けられていたことを知った。  
そのことを驚いたり、嘆いたりする余裕は彼女には無かった。  
発情の疼きが体を支配していた。性器を見せたくてたまらない気分に包まれた彼女は、  
ふかふかした可愛らしい巻き尾をいつもよりさらに強く巻き上げ、  
左右にくねらせながら性器を露出させていた。体が勝手にそう動くのだ。  
鎖を引く管理局の男性にお尻を向け、交尾をせがみたい気持ちを必死で抑えた。  
(ただの犬だったら、当たり前の行動なんだろうけど……)  
人間の知性を持ったまま、発情した犬の自分と向き合うのがこんなに辛いものだとは思わなかった。  
 
乳房や性器そのものの状態を係員に確かめられ、泣きそうになる。  
それでも、嬉しそうなメス犬の表情をしなければならなかった。  
寝所の部屋は、ベッドとトイレ、洗い場が一体になった清潔な環境だったが、  
どことなく監獄を思わせる侘しさがある。  
今まで自分が暮らしてきた家と比べたときの生活感の無さでもあろうか。  
ケイティは鎖を寝台に繋がれて水を与えられ、ひと息ついた。  
これから毎日の食事となる栄養ビスケットを齧り、気を紛らせる。  
いよいよ始まる。待ち望んだ時間と、それに伴う憂鬱な時間──。  
 
アレンがケイティに見せた映像は衝撃的なものだった。  
第一世代の獣化人の間には、女性の発情もそうだが、男性の性欲処理についても大きな課題があった。  
フェロモンによる無意識下の刺激に加え、視覚による性衝動の喚起があるため、  
獣化人の男性の性欲は人間より遥かに強く、頻繁に精子を排出する必要がある。  
そのための慰安施設があることをケイティは初めて知った。  
そして、女性の人間性を無視することを良しとしない者が利用する、「共有制度」の存在も。  
ケイティのような一般の職を持った女性には、本人には知らされていないが、  
通常、20名ほどの男性が「共有登録」を行っている。  
発情を迎えた女性は、管理局の専任者から何らかの対処を受けるのではなく、  
整備の行き届いた共有寝所で、共有者たちと交尾の相手をすることになっていた。  
20名というのは、ちょうど発情が治まり始めるまでの一週間に相手できる人数だ。  
映像の中で、鎖に繋がれた獣化人の女性が次々と男性の体を受け入れていた。  
性器を舐め回され、乳房を揉まれ、身を捩らせて喘ぐ女性の股間に、  
毒々しい色の大きな犬科のオスの性器が挿し込まれる。激しく振られる腰の動き──。  
令嬢育ちで男を知らなかったケイティは男性たちの性欲の強さに圧倒された。  
これまでの20年近く、発情の度に多くの男性の精を体に受けてきたのだという事実も、  
彼女に重く圧し掛かった。  
だが、その中には必ずジェイクが居たに違いないという思いが、かろうじて心を支えた。  
(ジェイクもあんな風になるんだよね……)  
その姿を愛せなければ駄目だと思った。  
現実を否定しても仕方がない。アレンの言う通り、後戻りはできないのだ。  
 
寝所の扉が開く。  
姿を現した「共有者」を見て、ケイティは飛び上がりそうになった。  
部屋に足を踏み入れる、ケイティとほぼ同じ背丈で、  
白と黒、タン(褐色)の混じった長毛のシェトランド・シープドッグの男性。  
そのすぐ後ろに、なんとジェイクの姿があったのだ。  
(どうして2人も? いえ、そんなことより……、  
 ジェイクにこんなに早く会えるなんて!)  
ケイティは思わず歓喜の声を上げながらジェイクに跳び付こうとしていた。  
その瞬間、アレンの言葉が脳裏を過る。  
「寝所では、決して何かを喋ってはいけない。  
 共有者たちに自分が正気であることを知られたら、そのときは──」  
アレンはそこで言葉を切ってしまった。  
それがあの薬を与えられた者が守らねばならない約束。  
違えたとき、自分の身に何か恐ろしい事態が降りかかるはずの誓約。  
(いけない、発情期らしく振る舞わないと……)  
アレンはそう心配は無いと言っていた。発情期の女性の体は本能に突き動かされている。  
意識はあっても、どこか近いところから自分の体を観察しているつもりになれば、  
おかしな行動にはならないと言う。体の赴くままに任せればいいのだ。  
ケイティは気を落ち着かせて、手前に立っていた白黒の青年の前に"お座り"をし、尻尾を振った。  
近い位置に居るオスに体を任せようとするのが今のケイティには自然だった。  
「これが、ケイティ・パーカー?  
 初めまして……。あ、いや、言葉はもう通じないんだっけ?」  
青年に裸の全身を眺められていた。揃えて床についた両腕、  
いや、もう前足と言った方が相応しいそれに挟まれて飛び出した胸部の乳房を見られ、  
恥ずかしがることもケイティには許されていない。  
青年はケイティの頭を優しく撫で、服を脱ぎ始めた。  
ジェイクは後ろでその様子を眺めるばかりだ。ケイティの期待は萎んでしまう。  
二人の会話から、この青年は共有制度を利用するのが初めてで、  
後見人であるジェイクが寝所の規則を教えるために付き添っていることが分かった。  
「第一世代の最後の志願者なのか。もう少し待ってもよかったんじゃないのかい?」  
「でも、男性にはあまり差は無いですからね。病気だったんです。人間の体の方は」  
「犬になってからの"経験"はあるの?」  
「あっちは何度か利用しましたけど、母乳とか出るし……、  
 まるっきり獣みたいで僕にはちょっと……」  
「そうか」  
「あなたは、何人くらい共有登録しているんですか?」  
青年は自分の参考にしようと聞いたのだろう。  
アレンの話では最低でも5人以上の女性に登録するのが普通ということだった。  
それでも獣化人の男性が性欲を解消するには足りない。  
ケイティは耳を塞ぎたくなった。  
これが自分の願ったことの代償なのか。  
知らずに居られればよかった、愛する者の性生活の実態を聞かされる──。  
 
いいや、とジェイクは答えた。  
「僕が登録しているのは彼女だけだ」  
「えっ? それじゃあ大変でしょう?」  
「我慢するよ。自分の気持ちに常に正直で居たいからね」  
ケイティには思わぬご褒美だった。  
ジェイクがまさかここまで自分のことを思ってくれているなんて。  
駆け回りたい気分を誤魔化すように、目の前の青年の手のひらを舐め、  
愛想を振り撒く。  
ジェイクに直接嬉しさを伝えることは、今の立場的にできないし、  
こんな形でこっそり彼の気持ちを確かめている罪悪感もある。  
 
「この娘は普段とあまり変わらなくて、発情していても気が優しいんだ。  
 だから、無理に言うことを聞かせようとはしないでおくれ。  
 共有寝所を利用するならよく覚えておいて欲しい。  
 彼女たちはひとりの人間だ。知性は失ってても、優しく接すれば応えてくれる」  
青年は「わかりました」と答え、ケイティをベッドの上に抱え上げると仰向けに寝かせる。  
えっ、と思った。青年はジェイクの見ている前で交尾を始めようとしていた。  
ジェイクも部屋を退室しようとはしなかった。  
それは彼の優しさゆえの行為で、ケイティを見守るつもりなのだろうが、  
彼女にとっては愛しい人の前で異性に抱かれるという身を焼かれるような状況でしかない。  
(ああ、ごめんなさい……、ジェイク)  
彼女の体は完全に発情のピークを迎え、オスを誘おうと必死だった。  
両足をだらりと左右に開いて腫れ上がった性器を曝け出し、  
ベッドの上を箒で掃くように尾を左右に振って媚びを売る。  
「あっ、口輪を嵌めておいた方がいいですか?」  
「そうだな。何か間違いがあると彼女にも悪いし……」  
革製の口輪がケイティの口吻に嵌められた。  
噛み付きを防止するためのもので、舌くらいは伸ばせば出すことができる。  
確か、あの映像の中に映っていた女性も皆、口輪を嵌められていた。  
彼女にとっては言葉を発してしまう恐れがなくなっただけ有り難い。  
「ウウ……」  
青年の舌が陰部に当てられ、快感に呻き声をあげる。  
じわっと体の奥から熱い液体が滲み出してくるのが分かった。  
「本当、おとなしくて可愛いな。ああ、我慢できないよ」  
青年はケイティの胸に片手を当て、体を重ねてくる。さっそく挿入しようというのだ。  
(待って……、ああ、見ないで、ジェイク!)  
以前の記憶が無い彼女には、それは初めての経験となる。  
処女を奪われるに等しい。  
犬の体は喜んでそれを受け入れようとするが、ケイティの意識は逆に同じ行為を恐れた。  
視線を股間に向け目の当たりにするオスの性器は、映像で見たものよりずっと禍々しく思える。  
あれが自分の体に突き入れられるのだ。  
青年はふふっと笑う。きっと、彼の下になっている可愛らしい犬は、  
とろんとした物欲しそうな目で彼の一物を眺めている。  
ケイティは意識と肉体のギャップに頭がおかしくなりそうだった。  
(あ、熱い……!?)  
股間にじんわりと熱が広がった。ケイティの体に荒々しいオスの器官が突き刺さり、  
じわじわとその先端が潜り込んでくる。  
ケイティの肉体はそれを何度も経験しているはずだった。  
でも本人にとっては初めての体験。  
体中を満たしてくる熱い快楽の波にうっとりしそうになりながら、はっと気付く。  
映像で見たように、この後、男性は激しく腰を振るに違いない。  
(だめ、やめて……)  
ケイティは動きを押し止めようと、必死に青年の性器を締め付けた。  
思い通りにならない体の、そこだけは自分の意思である程度動かせるようだった。  
「すごい……、だめだ、出るっ!」  
青年が叫んだかと思うと、お腹の中でひくひくと脈動した性器の先端から、  
熱い液体がケイティの体の奥に断続的に吐き出された。  
(これが、交尾……なんだ……。  
 射精……、されちゃった──)  
ケイティは、なかば放心したような表情で、ジェイクの様子を窺う。  
彼は壁に背を寄せ、目を閉じていた。見ないようにしてくれていたのだ。  
(ありがとう……。やっぱり、ジェイクは優しいね……)  
 
青年は、粗相をしていた。  
獣化人の性器の形状は犬のものと全く同じで、その機能も射精のプロセスも同じだ。  
本来ならば、激しく腰を振ってメスの体の奥に性器を突き入れた後、  
根元の亀頭球を膨らませて抜けない状態で精子を放出し続ける。  
青年はケイティの膣の心地よさに不完全な結合のまま射精してしまい、  
体を離してしまったのだ。  
「どうした? もう終わったのかい?」  
「ああ、びっくりした。あっちの女の子より締め付けがすごくって……。  
 ははっ、情けないところ、見せちゃいました。  
 次はきちっと繋がってやりますよ」  
次って──!?  
交尾が終わって一安心したのも束の間、ケイティは気の滅入る現実を知らされる。  
青年はまだ何度も彼女に挑むつもりでいた。  
ジェイクがケイティの股間に残る精液を濡れタオルで拭き取り、青年を指導する。  
「シーツの替えは係に連絡すればすぐに持ってくるから。  
 汚れが酷いときは鎖を外して彼女を洗い場に連れて行ってやってくれ。  
 乾燥機は直接当てても大丈夫な温度になっている」  
ジェイクの手が体に触れる度、ケイティは彼に抱き付きたい衝動に駆られた。  
「僕の番は最後だから、待ってて」  
言っても分からないか、と笑ってケイティの頭を軽く撫でると、  
ジェイクは部屋を出て行った。  
 
シェトランド・シープドッグの青年は、結局その後2回、ケイティと交尾をした。  
亀頭球で完全に繋がった体は2回とも30分は離れないままで、  
ケイティは交尾の歓喜に疼くメス犬の快楽をたっぷりと覚え込まされることになった。  
腰を激しく叩きつけられる恐怖は一瞬で、その後の結合の時間は穏やかなものだ。  
繋がったまま乳房を優しく揉まれると、体中が熱くなってうっとりとしてしまう。  
これがジェイクに与えてもらうものならもっと良かったのに、と思う。  
青年が退室した後も、体はまだ交尾の余韻を楽しんでいたが、心は晴れない。  
1人あたり平均3回で計60回だとすると、1日に10回弱の交尾をしなければならない。  
ジェイクと愛し合うまでの道はまだまだ遠かった。  
施設の係員に体を洗ってもらい、栄養食が与えられ、ひとときの休息を取る。  
そうしているうちに、体がまた交尾を求めて疼き出す。  
股間から染み出てくる愛液を舐め取っていると、次の男性が部屋に現れた。  
(こういうシステムなんだね。カメラで見られてるのかな……)  
 
もしかしたら、ジェイク以外にも知り合いが共有登録をしているかもしれない。  
そうだったら恥ずかしいな、とケイティは思ったが、  
次々に彼女の体を利用していく共有者たちの中には、ひとつとして知った顔はなかった。  
「また会えたね。君と交尾するのを楽しみにしてたんだ」  
「光栄だなぁ、あのケイティ・パーカーと交尾ができるなんて」  
「料理も、生身の君も大好きだよ」  
様々な毛色の犬種をベースにした獣人たちが口々に言う。  
ケイティは、彼らのほとんどが自分の料理のファンなのだと理解した。  
愛されていることを知り、彼女の気持ちにも余裕ができる。  
体を本能に委ね、男たちとの交尾に真剣になった。  
どのようにすれば、彼らを喜ばせられるのだろう。  
ジェイクのためにたっぷり練習しておきたいという気持ちもあった。  
膣での締め付け方を工夫してみたり、犬がじゃれつくようにして喜びを全身で表したりした。  
そして、6日が過ぎた。  
 
 
係員に食事のビスケットをおねだりして、元気いっぱいの体で、  
ケイティはジェイクを迎えた。  
最初にこの寝所に来たときに比べ、すっかり犬らしい動きが身に着いてしまったケイティは、  
床にぺたんとお尻をつけた犬の座り方でジェイクの顔を見上げ、  
尻尾を千切れんばかりに振って愛想を振り撒いた。  
二本足で立つことを体が忘れてしまったかのようだ。  
嬉しさのあまり、小便をちょろちょろと漏らしてしまったことに気付かないくらい、  
彼女の気持ちは浮かれていた。  
「ケイティ、会いたかった」  
わたしも、と大きな声で応えたいが、食事のとき以外は口輪を嵌められたままだ。  
ジェイクは彼女の体を抱え上げ、濡れタオルで小便を拭き取りながら、  
ベッドに優しく寝かせる。  
「誰かに、酷いことはされなかったかい?」  
ジェイクは鼻輪の留め金を外し、鎖と共に抜き取る。鼻中隔に開いた穴を丹念に観察し、  
血が滲んだりしていないかを見ている。  
彼は次に、ケイティの乳房を上から順に、一つずつ丁寧に撫で、  
これも傷を付けられたりしていないか確かめるのだ。  
ずっと彼に見て欲しかった乳房に何度も触れられ、じっくりと眺められて、  
ケイティは嬉しさでいっぱいになった。  
(ジェイク、優しいね。したくてたまらないはずなのに……)  
そう思って、ケイティはすぐ自分の方が早くしてほしいと願っていることに気付き、  
可笑しくなる。  
ジェイクの指先が、ケイティの膣口を押し開く。  
とろりと溢れ出す粘度の高い液体は、愛しい人を導き入れたくてたまらない、  
彼女の気持ちを代弁している。  
しかし、ジェイクはタオルでそれを拭き取り、彼女に「おあずけ」を食らわせる。  
そこも度重なる交尾で擦れたり腫れ上がったりしていないかを調べているのだ。  
残念な気持ちになったケイティの耳に、思わぬ言葉が飛び込んできた。  
「相変わらず、きれいなおっぱいだね」  
検分を終えたジェイクが、ケイティの胸をそっと撫でた。  
体中が、嬉しさにかっと熱くなる。  
料理の味なんかよりもずっと誉めてもらいたかったところを、  
ジェイクは分かってくれていた。  
当たり前のことであるが、共有登録をしているジェイクは、  
彼女の美しい乳房を何度も見ているのだ。  
はっはっと荒い息を立て、尻尾を振り回して嬉しさを表現するケイティを、  
ジェイクは抱え上げた。  
 
「僕が最後だからね。時間はいっぱい使えるんだ」  
彼はすぐに交尾を始めなかった。  
ベッドの上に尻をつくと、いつもしていたように、ケイティを背中から抱き締める。  
そしてゆっくり、彼女の後頭部を甘噛みで愛撫する。  
「長くこの体で居ると、人間の心をそのまま持っていたはずなのに、  
 ものの考え方が犬のそれに支配されていくような気がするんだ……」  
何だか分かるような気がする、とケイティは頭の中で返事をした。  
自分もここ数日でまるっきり本当のメス犬になってしまったような気分だ。  
ジェイクは、今の彼女に言葉が通じるとは思っていないだろう。  
彼は独り言を言っている。  
それはきっと彼の本心のはず。そう思ってケイティは耳を傾ける。  
「犬ってのはけっこう独占欲が強くて嫉妬深い生き物なんだ。  
 ときどき、共有者たちを全員噛み殺して、  
 君を僕だけのものにしたい衝動に駆られることがあるよ……」  
(ジェイク、それは、それだけわたしを愛してる──ってこと?)  
頭を上げて彼の口元を舐める。  
ケイティは、自然に犬の挨拶行為をしている。  
体を突き動かしているのは胸の底から溢れてくる情愛だ。  
「でも今は、満たされている──」  
(わたしだって……)  
ケイティはジェイクの言葉に心で頷きながら、同時に罪悪感を覚えていた。  
やはりこんな形で相手の気持ちを知るなんて、フェアじゃないような気がした。  
でも、他に方法はなかったのだから。  
 
ジェイクの手が、胸の乳房を包み、ゆっくりと揉みあげる。  
指先が乳首に触れ、ケイティはぐっと頭を仰け反らせた。  
「気持ちいいかい?」  
ジェイクは笑って、ケイティの体を仰向けに転がす。  
いよいよだ──。  
熱い塊が、膣口に押し付けられた。優しいゆっくりした抽送から、  
徐々に激しくなる腰の動き。  
ケイティは体の奥に叩きつけられるものを必死に受け止めた。  
ジェイクの腰の動きが止まると、下腹部に充足感が満ちてくる。  
彼のものが、根元を大きく膨らませてケイティの中に収まっていた。  
荒々しく吐く息と強い鼓動のリズムに合わせ、  
ジェイクは激しく精を放つ。  
(ああ、気持ちいいよ、ジェイク……)  
ケイティは溢れてくる想いを言葉に変えられないもどかしさを感じる。  
この嬉しさをどうしてもジェイクに伝えたい。  
ジェイクに知ってもらいたい。  
わたしは今もケイティのままだよ、と。  
今、二人が初めて、本当に心の底から互いを愛し合っているという事実を──。  
 
ケイティは訴えるような目で、ジェイクに対して呻き声をあげた。  
自分が理性を失ってないことを、彼に知られてはいけないのに。  
「キスをしたいのかい?」  
ジェイクはそう言って、彼女の口輪を外した。  
「愛してるよ……」  
「わたしも──」  
反射的に、ケイティは返事をしてしまっていた。  
 
そのまましばらく時間が止まったように思えた。  
呆気に取られたジェイクの顔は、次第に険しくなる。  
「まさか、あの薬を飲んだのかい……?」  
まだ射精を続けていたジェイクの性器が体の中で張りを無くすのを感じ、  
ケイティは慌ててそれを強く締め付けた。  
「ああ、ごめんよ、驚いたものだから──」  
ジェイクはケイティの頭を優しく撫で、腰を揺すって一物を再び硬くする。  
彼も繋がったままで居たいのだ。  
「ごめんなさい、わたしだけがジェイクの気持ちを確かめるのって、  
 耐えられなかったの……」  
「そうか、アレンのやつだな。あいつめ」  
ジェイクの首筋の毛がざわっと立ち上がる。  
これまで見たことの無い怒りの表情を愛する者は浮かべていた。  
「知ってるの? やっぱり、わたし……、  
 喋っちゃダメだったのかな?」  
「それは……」  
ケイティは約束を破ってしまった。ジェイクの態度から察するに、  
深刻な事態であることは間違いなかった。  
「わたし、いけないことをしたかな……?  
 ジェイクも喜んでくれると思って……」  
涙がぽろぽろと零れる。  
「いや、とても嬉しいよ」  
指先でケイティの涙を拭い、済んだことは仕方がない、とジェイクは言った。  
「僕がなんとかする。今は全部忘れて、交尾を楽しもう」  
「ジェイク……」  
まだジェイクの体の一部は自分の中にあり、断続的に熱い液体を放っている。  
何故だか、また涙が零れた。  
これまで重く積み重なってきた不安が消え去った、安堵の涙なのか。  
こうして愛しい彼と体を繋げ、最奥に精を受け止める歓喜の涙なのか。  
「ほら、笑って。君の喜ぶ言葉が聞きたかったんだ。  
 20年もの間、ずっとね──」  
 
 
一度目の交尾が終わって、二人は洗い場でシャワーを浴びる。  
二本足で立つとフラフラするケイティをジェイクが慌てて支える。  
いっそのこと、と2人とも四つ足になって互いの体を洗った。  
被毛を乾かし、しばらくベッドの上で体を寄せ合っているうち、  
ケイティの発情した犬の体が疼き始める。ジェイクはすぐにそれを察した。  
「もう一度、しようか?」  
「うん……」  
目の前に、最愛のジェイクが居る。ケイティは初めて、人と人として裸の彼と向かい合った。  
黒く美しい滑らかな被毛の下に、はっきりと感じられる力強い筋肉の盛り上がり。  
情熱的で精気に満ちたその体を、惚れ惚れと眺める。  
普段目にしても気に留めていなかったところを、発情しているケイティは意識してしまう。  
鞘に収まっている状態のジェイクの性器に目を止め、すぐに慌てて視線を逸らす。  
その動きをジェイクは見逃さなかった。  
「よく見てみたい?」  
「えっ……!? う、うん……」  
直視するのは少し怖かった男性の器官であるが、ケイティは改めてそれをよく知りたいと思った。  
ジェイクの愛しい体の一部なのだ。  
それに、他のみんなには悪いけど、ジェイクにだけは特別なことをしてあげたいと思う。  
ケイティは、ジェイクに近寄って腰を下ろす。  
「ほら……、ジェイクもお座りして」  
つんと上を向いた毛皮の鞘。その下にぶら下がっている二つの大きな毛の玉。  
自分には無いその器官は不思議な形をしている。  
そっと手を伸ばし、両手で鞘を引き下ろすと、桃色をした槍状のものが飛び出した。  
それは見る見る大きくなり、表面に浮き出た血管によって真っ赤に染まる。  
(これが、ジェイクの……。わたしの中にさっきまで入ってたんだ……)  
肉球に感じる、とくんとくんと血の流れる響きが心地よく、愛おしい。  
先端の尖った部分から、ピュッピュッと透明な液体が飛び出す。  
それは、女性の体に挿し込むときの潤滑剤になるものだ。  
ケイティは無意識に、犬がするようにそのジェイク自身の先端に舌をそっと当て、  
優しく舐め回していた。  
「まるで、犬みたいだね」  
ジェイクにそう言われて、ケイティは我に返る。  
「気持ちよかったよ。じゃあ、お返しだ」  
ベッドの上に体を押し倒され、熱を帯びて疼く陰部をジェイクの舌が這う。  
(ああ、気持ちいい……)  
はぁはぁと激しく息を吐き、上半身を捩って、ケイティは快感に酔い痴れる。  
熱い舌先は膣口を割って、粘膜を優しく舐め上げる。  
 
可愛らしく喘ぎ続けるケイティの反応を確かめながら、ジェイクは「おやっ?」と呟いた。  
「もしかして、今年はまだ一度もイってないのかい?」  
「えっ? 何……?」  
ケイティはきょとんとした顔をする。  
ジェイクの予想は当たっていた。彼女はそれがどういう意味で、  
自分の体がどういう状態になるのかを、まるっきり乙女のように、  
知らずに居るのだ。  
「よかった。じゃあ、僕が教えてあげるから──」  
「うん……」  
何か素敵なことが起こるのを予感し、ケイティは身を委ねる。  
 
ジェイクは、今度は彼女の体を抱え起こし、四つん這いの体を重ね合わせて、  
本物の犬のように後ろから貫く。それが2人の体には本来自然な姿で、  
お互いに腰の高さを合わせようと、協力して体を結合させる喜びがある。  
ジェイクの腕はケイティの腹を抱え、腰だけの動きで狙いを定める。  
ケイティは彼を迎え入れようと頑張ってお尻を上下に揺らす。  
息の合った2人の体はあっという間に結合を果たし、  
ジェイクの強い腰の動きが、それをさらに確実なものにする。  
2人は完全に一つになった。  
嬉しさに首を巡らせると、すぐ目の前にジェイクの顔があり、鼻先と鼻先が触れ合う。  
体を重なり合わせたまま、2人は顔を見合わせ、互いの口先を舐め合った。  
しばらくそうした後、ジェイクは犬の作法を捨て、彼なりのやり方で愛を表現する。  
ベッドの上に腰を落として、ケイティの小さな体を抱きかかえる。  
そうされると結合部分にケイティの体重の全てがかかり、  
先端がより体の深い部分へと突き刺さってくる。  
亀頭球が膨らんだ状態になっても、ジェイクは射精をするのを我慢していた。  
そのまま、ケイティの乳房に片手を。もう一方の手を、股間の敏感な突起にあてがい、  
優しく刺激する。  
「あ……、ああっ……」  
体を震わせるケイティの反応を確認して、さらに愛撫を続けるジェイク。  
後頭部の毛を甘噛みで愛撫され、鼻をキューンと鳴らしたケイティは、  
自分が甘えた犬の声を出せることに驚いた。  
そのまま甘え声を繰り返し、ジェイクに嬉しさを伝える。  
「もっと気持ちよくしてほしい?」  
言葉を返そうとしてもまともに声が出せないくらいに感じていたケイティは、  
嬉しさと気持ちよさで目尻に涙をにじませながら、必死に頷く。  
ジェイクの熱い舌が、耳の内側の毛細血管が張り巡らされた敏感な肌の部分に絡みつく。  
背筋がゾクゾクする。  
ジェイクの性器が体の内側の粘膜に密着し互いの体を繋ぎ合わせているのと同様に、  
耳と舌が2人の体を繋いでいる。  
ケイティとジェイクは体の二箇所で愛を交わしている。  
他の男性たちと交わったときの倍以上の快感がケイティの身を貫く。  
ジェイクは舌を離さないようにケイティの耳の中に押し込みながら、  
大きな裂けた口で耳全体を甘噛みする。  
(これが、ジェイクのよく知ってる、わたしが好きな愛され方──?)  
そう思った瞬間、全身を激しい快感が襲った。  
ジェイクを包んでいる部分が激しく痙攣し、それが体中の筋肉に伝わっていく。  
頭を大きく仰け反らせ、舌をだらりと垂らし喘ぐ。  
後ろ足がぴんと張り詰め、前足は宙を掻くように突き出される。  
同時に、ジェイクの精が体の奥に強く放たれ、  
ケイティは頭の中が真っ白になっていくのを感じた──。  
 
 
──また思い出した、あの感覚。  
(戻ってきたよ……、ジェイク……)  
何度も味わっている「それ」が身を包む。  
どこか遠くから魂がすっと肉体に降りてくるように、  
体が目覚める温かい心地よさが急速に広がり、意識がはっきりとしてくる。  
(えっ……、ジェイク……?)  
発情が終わり、全ての記憶を失って目覚めたのだと思ったケイティ・パーカーは、  
自分がジェイクのことを覚えていることに驚く。  
嬉しさを抑え切れずぱっと目を開いたケイティが見たものは、それは異様な光景だった。  
 
正面に鏡があり、自分の姿を映している。  
目覚めのときにいつも着せてもらっている、  
薄い生地のネグリジェを羽織ったウルフ・スピッツの姿ではなかった。  
ケイティは全裸のまま、少し足を曲げた姿勢で直立していた。  
いや、させられていた。  
八つの乳房が、体の前面で呼吸に合わせ上下に揺れている。  
背中側に、頭の上に突き抜けた丸太状の支柱が見える。  
裸のケイティには僅かな装身具だけが着けられていた。  
これ見よがしに正面に大きな南京錠が留めらた太い革製の首輪が嵌められ、  
おそらくその首輪から伸びた鎖が後ろの支柱にしっかりと固定されている。  
鼻輪がまた通されており、短い鎖が鼻先でブラブラと揺れた。  
貫通している鉄の輪は前のものより心なしか重く感じた。  
首輪の左右から二本の短い鎖が出ており、両腕に嵌められた枷が鎖に吊られ、  
犬が"ちんちん"をしているときのような手つきを彼女に強要していた。  
支柱から手前に突き出した横木が、彼女の股間の部分を支えている。  
目覚めたばかりの足に力が入らず、体重のほとんどがその部分にかかる。  
ケイティは膣の中に、  
獣化人の男性の性器を模した大きなディルドが埋まっていることをはっきりと感じた。  
(動け……ない……?)  
彼女は、「止まり木」に体を拘束されていたのだ。  
何のために──?  
心臓がどくんと脈打った。体全体がかっと熱くなる。  
ぐるぐると体内をめぐるやるせない淡い快感の波。  
止まり木の横木に押し潰され気味に飛び出した陰核がずくずくと疼いた。  
(いやっ、どうして……!?)  
驚いたことに、発情がまだ続いているようだ。  
 
「……一生恨むからな、兄貴。もし、ケイティが──」  
「彼女がいずれこの道を選ぶって予感はあったんだろ?  
 遅いか、早いかだけだ」  
「だからって、相談もなしに……  
 もう少しで僕は知らずに──」  
「ほら、彼女が目を覚ましたようだ」  
懐かしい声と、覚えのある声が聞こえた。  
薄暗い照明の下に、2人の獣化人の影が現れる。  
ジェイクとその兄、管理局の医師長アレンの姿を見て、  
ケイティは自分が居るのが人口管理局のあの地下の部屋のひとつだと気付いた。  
「これは、どう……どういうこと……なんですか?」  
体が発情の熱に冒されているためか、上手く喋れない。  
尋ねる彼女の表情をゆっくり舐め回すように見つめ、アレンはふふん、と鼻を鳴らし、答えた。  
「つまり、こういうことさ」  
アレンの指先が、敏感なケイティの陰核を捕える。  
横木に軽く押し付けられただけで全身を貫くような刺激を受け、  
ケイティは「あっ」と叫んで身を強張らせた。  
「君は、死ぬまで発情し続ける、理性も知性も無い獣の体になるんだ──」  
 
残酷な宣言だった。  
言葉を喋ってはいけないという約束を守らなかった罰がこれなのか、とケイティは問う。  
「喋ろうが喋るまいが、結果は同じだったんだ。  
 あの薬を飲んだときに、全ては終わってたんだよ」  
「だました……の?」  
「君が望んだことじゃないか。管理局として最善の方法を勧めただけだ。  
 君にとっても。我々にとっても──」  
自分のこれからの運命について、ケイティは思い当たることがある。  
共有寝所以外に女性が収容される施設の存在。  
それを問い質そうとすると、アレンは、  
その前にケイティの体に何が起ころうとしているのかを説明する必要がある、と言った。  
第一世代の獣化人は性機能のコントロールが不完全なため、  
発情を迎えると人としての意識を失う。  
それは体が犬に戻ろうとしている反応なのだと聞かされ、ケイティは驚く。  
「今まさに発情を経験している君には覚えがあるんじゃないか?  
 体が犬そのものになろうとする。  
 心が肉体に支配されるんだ」  
心当たりがあった。共有寝所で犬のように振る舞ってしまったこと。  
二本足で立とうとして足元が覚束なくなったこと。それはまさにアレンの言う通りだ。  
これは別に女性だけに起きることじゃない、と彼は言う。  
ただ、女性の発情期のそれが限度を越えているということだ。  
「僕たちは人の姿を捨てた以上、この体と上手く付き合わなきゃならない」  
犬に近付いた体を元に戻すには、女性の場合、交尾により発情期の性衝動を鎮めることと、  
年に一度の共有されるタイミングを利用して抑制剤を投与することが必要だが、  
ケイティが飲んだ薬には、抑制剤の効き目を失くす抗体を体内に作る作用があるため、  
犬化の進行を止めることができなくなる。  
行きつくところまで行けば、二度と人間らしい心を取り戻すことはない。  
 
「どちらかというと、精神の退行を遅らせる効果の方が、  
 あの薬の副作用といったところかな。  
 発情しても意識があるのはそのためだ。  
 元々は、発情した女性を犬のままにしてしまうための薬なんだ」  
通常は病死と自然死以外を認めないカナリアの国において、自殺志願者や犯罪者を中心に、  
犬人としての生を終わらせる必要のある者に対して行われる処置であるが、  
稀に、ケイティのような志願者に投薬されることもある。  
犬になった女性は公共の慰安所に身を繋がれ、  
果てることのない性欲を鎮めようと日に何度も男たちの精を体に受け続ける存在になる。  
共有制度とは違い、第二世代の獣化人も彼女たちを使用することが許されていた。  
つまり、公衆性欲処理器にされるのだ。  
幸いなのは、人としての知性も記憶も失くすため、  
快楽のみに身を委ねる自分に疑問を感じないで済むことだけ。  
「この"止まり木"は、今後君がずっとお世話になる、寝床だ。  
 発情の止まらない君たちは、常に膣に何かを入れてないと気が狂ってしまう。  
 それと、自傷を防ぐため、就寝中も拘束しなければならないんだ」  
(そんな……)  
ケイティは身を震わせる。  
あの青年が言っていた言葉が思い出される。  
まるっきり獣みたい、という形容。  
自分は発情した獣の身に成り下がり、この先二百数十年もの間、  
延々と知らない男たちに犯され続ける。  
自分に好意を寄せている者たちばかりではなく、ただ性欲を満たしたいだけの男たちにも。  
いずれ、母乳も出るようになるのだろう。  
ただの牝犬、どころではない、  
愛液や乳などの体液をまき散らして快楽に喘ぐ、淫らな獣になるのだ。  
「今は別の薬でなんとか意識を保っているが、  
 それが切れれば、君は発情したままの犬になるんだ」  
ケイティはがっくりと頭を垂れた。  
大粒の涙がぼろぼろと零れた。  
 
その目尻に、熱いものが当てられる。ジェイクが涙を舐め取ってくれていた。  
そうだ──、と思う。  
この処置を受けなければ、ジェイクとの愛を確かめる術はなかった。  
自分が恐れていたことを思い出す。  
いつか、彼のことを愛せなくなる日が来て、そのまま寿命を迎えてしまうこと。  
それは避けられたのだ。願いは叶ったのだ。  
この意識が続く限り、ケイティはジェイクを愛していられる。  
「ジェイク……、わたし、覚えていたよ。あなたのこと……」  
あなたと交わした愛のことも──。  
ジェイクは黙って、大きく開いた口をケイティに近付け、互いに噛み合うような形のキスをする。  
(さよなら、ジェイク。いままでありがとう)  
ケイティは目を閉じ、最期のときが来るのをこのまま待とうと思った。  
覚悟をしていたこととはいえ、自分の存在がこの世から消え去っていくのは恐ろしい。  
せっかくジェイクとも愛し合えたのに、彼にもまた悲しい想いをさせてしまう。  
ここへきて初めて沸き起こった後悔に体を小さく震わせながら、  
ケイティは、意識が薄れていくのを止められなかった。  
(いよいよ、犬になるんだ──)  
 
そんなケイティを現実に引き戻したのは、鼻先に走る鈍痛だった。  
「キスには鼻輪が邪魔かな?  
 残念、これはもう外せないんだ」  
アレンが鼻輪の鎖を軽く引いていた。  
「よせよ、兄貴。嫉妬は見苦しい」  
ケイティから口を離したジェイクが、アレンを睨み付け、怒りを露わにした声で低く唸る。  
「まあ、待てよ。彼女を正気付かせたかっただけだ。このままじゃ……」  
「わかってるさ。だが、他に方法があるだろう!」  
「……どういうこと?」  
まだ2人が自分に話したいことがあるらしいのは分かった。  
だが、ケイティが知りたいのは、アレンが嫉妬をしている、ということの意味だ。  
(わたしがジェイクとキスをしていたことに、アレンが嫉妬しているの?)  
教えていいか、と問うアレンに、ジェイクは頷いた。  
「……そうさ、確かに、僕は嫉妬している。  
 このことをどうしても話さずにはいられないんだから。  
 君はジェイクが後見人に志願したのだと思っているだろう?  
 本当はそうじゃない。  
 君が2人のうちどちらを選ぶか決められず、公的機関に判断を委ねたんだ」  
「わたし……が?」  
戸惑うケイティに、ジェイクが説明を加える。  
「ケイティがその体を手に入れて最初の発情を迎えるまでのある時期、  
 僕たちは3人で暮らしていたんだよ──」  
獣化人に与えられるのは、生後半年程度の若い犬の体となる。  
発情すれば記憶を失う女性の獣人にあらかじめ後見人を選ばせておくため、  
期間を定め、交代で男性と暮らす制度があった。  
「僕たち2人が君に選ばれたのは嬉しかった。でも、後見人には1人しかなれない……」  
「君より早くこの体になった僕たちの心は、半分は犬だ。  
 だから、公にこんな風に結論を出すことも認められている」  
アレンは首元の毛を掻き分け、斜めに裂かれたような大きな傷跡を見せる。  
「決闘をしたんだ。なかば、殺し合いのね……」  
ケイティは驚いて2人の顔を交互に見る。  
彼らはかつて自分のために、命を懸けて闘っていた。  
2人の自分に対する愛情に胸を打たれる。  
そしてこれは、人でなくなるケイティへのアレンの瀬戸際の告白だ。  
どんなに長く、強く、ケイティに対する気持ちを抑えてきたのだろうか。  
しかし、突然過去を知らされても、急にアレンを愛することはできなかった。  
もっと早くに教えてくれていれば、あるいは──  
「ごめんね、覚えてないよ……」  
アレンは目を細めて、それでいい、と言った。  
「どうせ僕は仕事が手一杯で、料理の味見をしてあげることもできなかっただろう。  
 ただ、今でも幸せを願ってる。だから──」  
アレンはジェイクに目で合図を送る。  
「今一度、ここで交尾をさせてあげよう。ケイティは、しっかり彼の形を覚えておくんだ」  
「えっ?」  
「そのためにこいつをここに呼んだんだからな」  
抑制剤が効かない体になり、発情をし続ける第一世代獣人の女性は、  
通常、人としての心を取り戻すことはない。  
それは僅かな例外を除けばの話だ、とアレンは言う。  
人間らしく生きていた頃に受けた強い刺激や印象的な体験。  
そのとき覚えた感覚を呼び覚ますような出来事があれば、一時的に意識が戻ることがある。  
「慰安所で受ける刺激なんてのは、体の中に受け入れるものくらいしかないだろ?」  
ケイティは理解した。  
今ここでジェイクの形を自分のあそこで記憶することができたなら、  
彼が慰安所を訪れる度に、ケイティは彼の恋人に戻れるのだ。  
それは、今までの人生とは完全に逆のものだ。  
記憶の全てが、ジェイクとの愛の想い出で紡がれていくのだから。  
 
「あまり期待はするなよ。成功する保証なんてないんだ」  
水を差すようなことを言うアレンだが、  
ケイティはそれが本心ではないことに気付く。  
ケイティは、知性が邪魔をして働かなくなっていた犬本来の嗅覚を取り戻しつつあった。  
全身に分布する汗腺や臭腺から発せられる物質が示す感情の変化を無意識に感じ取る。  
彼女には、アレンが自分やジェイクのことを想っているのが痛いくらいに分かるのだ。  
そのことをアレンは知らない。ケイティがジェイクのことだけを見詰めていられるように、  
嫌われようと努めている。  
ケイティは心の中で礼を言い、彼の気持ちに報いようと思う。  
与えてもらったチャンスはこれっきり。自分を愛してくれる者たちの気持ちを無駄にできない。  
目の前にジェイクが居る。  
ケイティはまた、ジェイクの強い想いも嗅覚で感じ取っていた。  
 
抱いて、とジェイクに言おうとしたケイティは、  
口からキューンという犬が甘える声しか出ないことに気付き、慌てる。  
体が完全に犬になろうとしていた。もう時間がないのだ。  
再び意識を失う前に早く、と手足をばたばたさせる。  
「心配しないで。きっと上手くいくから」  
ジェイクは優しく語りかけ、彼女を拘束している鎖を解いていく。  
服を脱ぎ、黒く光る裸身を、立たせたケイティの体に重ねる。  
2人は、強く抱き合う。  
 
 わたしは彼のことを覚えていられるだろうか──  
 彼は、何度でもわたしに会いに来てくれるだろうか──  
 きっと、大丈夫だよね?  
 そう、きっと上手くいくはず──  
 あの耳を優しく噛んでもらうやり方が、  
 わたしと ジェイクだけの 特別な 合図に なる の だから ……  
 
これまで以上にずっと愛しく思う、素敵な黒い毛並の彼、  
ジェイクと体を合わせながら、  
ケイティ・パーカーはゆっくりと目を閉じた。  
 
 
(おしまい)  
 
 

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