ふと肌寒さを感じて目を覚ますと、一緒に床に就いたはずの恋人の姿が傍らから消えていた。
トイレにでも行ったのだろうか。
そう思いはしたものの、なんだか気になってしまい、彼女の行方を探して自身もベッドを出る。
寝室の扉を開けると、訪ね人の居所はすぐに知れた。
廊下の先にある和室の襖が半開きになり、隙間から明かりが漏れていたからである。
こんな夜更けに和室で何をと、不思議に思いながら襖に手をかける。
そろりと引き開けてみれば、畳に正坐し瞑想に励む愛しい少女の姿が目に入った。
よほど集中しているのか、自分が襖を開けたことにはまだ気付いていないらしい。
背筋を正し、凛とした雰囲気を醸し出す彼女の前には、半紙と硯、そして墨と筆。
ああ、書道か。
得心いったと一人頷き、男はのんびりと口を開いた。
「何してるの?」
「――ひゃぁうっ?!」
唐突に声をかけられて大層驚いたらしい少女は、奇矯な悲鳴を上げて畳の上に引っくり返る。
転んだ拍子に乱れた寝間着――俗に浴衣ともいう――の袂を見下ろし
なんで着物の下って何も穿かないんだろうなぁと、青年は素朴な疑問を抱くのだった。
「精神集中?」
「はい……」
首を傾げる男の向かいに座り、少女は言い辛そうに頷く。
俯いてしまった彼女から視線を外し、男は部屋の隅に退けられている書道セットに目をやった。
彼女にとって、書道は趣味であるのと同時に精神修養の一環でもあることは知っている。
心が乱れた時、心に曇りを抱えた時、いつも少女はこの畳の間に座して
墨を含ませた筆を手に取るのだ。
書は、書いたものの心を映し出す鏡だから。
そう言って微笑んだ彼女は、実際の年齢以上に大人っぽく、また眩く見えたものであった。
しかし。
「うん。それは分かったけど、なんでこんな時間に? もう夜も遅いし、第一明日は――」
僕達の結婚式なのに。
男がその言葉を口にした途端、少女の色白の頬が一瞬にして朱に染まる。
「う、あ、い、いえ、その、はい、そうっ、そうです、け、けけ、けっこ、結婚、式、です。
わたた、わた、わたし、私達、の」
今日までの恋人兼婚約者、そして明日からは妻となる女性の初な反応に目を細めつつ、男はさらに続ける。
「明日っていうか、まあ……もうじき今日になっちゃうけどね」
「え?! ……ああああ、もうこんな時間?!」
青年の言葉に驚いた少女はぱっと時計に目をやり、赤かった顔色をたちまち青くする。
「いけない、私ったら瞑想に集中し過ぎて……ハッ! すみません! 私、貴方の事まで
起こしてしまったんですよね……! 申し訳ありません!」
「うん、大丈夫だからとりあえず落ち着こう。はい、深呼吸してー」
「は、はいッ、はい、はい……すー……はー……」
言われるまま、彼女は素直に深呼吸を繰り返した。
吸っては吐き、また吸っては吐く。気分が落ち着いた頃を見計らい、はい止めー、と号令。
「落ち着いた?」
「はい。おかげさまで」
「それは何より。じゃあ話の続きしようか……なんでこんな時間に書道なの?」
投げっ放しになっていた疑問を訊ねかけると、少女の肌に再び赤みが差した。
先刻のように顔中真っ赤とはいかないが、眦の辺りがほんのりと色付いている。とても可愛い。
「あの…………笑いませんか?」
「んー、聞いてみないと分からないなぁ」
嘘を吐きたくはないので正直な気持ちを伝えたら、やはりというか不服そうな顔をされた。
申し訳ないとは思うが、無責任なことを言って後で怒らせるのも嫌なので我慢してもらうしかない。
「言いたくないことならいいよ?」
「あ、いえ! 言いたくない訳ではないのですがその……なんと言いますかですね」
もじもじと、所在なさげに指先を絡ませ、少女はうぅ〜と可愛らしく唸る。
フィアンセの愛くるしい仕草を観察しつつ待つこと一分弱。
意を決したように俯けていた顔を上げ、彼女はぽつりぽつりと胸の内を語り始めた。
「あの……明日、結婚式じゃないですか」
「うん、結婚式だね」
「……私達、結婚するじゃないですか」
「うん、結婚するね」
「…………ふ、夫婦に……なるじゃ、ないですか……」
「……うん。なれるね、夫婦に」
答える唇が、自然と笑みを形作る。向き合う少女の頬の赤みが増した。
「それで、ですねっ……い、今さらと思われるかもしれませんが……その、ベッドの中で明日のことを考えていたら、なんだか……その……」
途切れ途切れだった言葉は徐々に尻すぼみになり、最後まで言い切らぬうちに消えてしまう。
霧散してしまった結論部分を自分なりに推理した結果、男は困ったように眉を曇らせた。
「……嫌になった?」
「ととととととんでもないです滅相もないです嫌だなんてそんなむしろ嬉しいです幸せです大好きです!」
「……良かった」
一瞬本気で落ち込みそうになった心は、真っ赤になった恋人の表情と言葉であっさりと浮上する。
不安げな眼差しから一転、朗らかに微笑む青年を見つめ返し、少女はほっと胸を撫で下ろした。
「嫌とか、そいうんじゃないんです……ただ」
「ただ?」
「ただ……あんまり、幸せで」
噛み締めるように。抱き締めるように。
きゅっと手を握り込んで、少女はその言葉を口にする。
「貴方の、お嫁さんになれるんだって思ったら……私、嬉しくて……本当に、本当に嬉しくて……
どきどきして眠れなくなっちゃって、これじゃ明日寝坊しちゃうんじゃないかって、それで……」
「……落ち着く為に、書道を?」
問いに彼女は、こくん、と首を縦に振った。
「お、おかしいですよね。明日が楽しみで眠れないなんて……子供の遠足じゃないのに、
私ったら、何言――」
照れ隠しの為かいつになく早口になる、少女の手首をそっと掴んで引き寄せて、
そのまま力一杯抱き締める。腕の中からまた頓狂な悲鳴が聞こえたが、気にしない。
「あ、あああ、ああああの、あの! あの! あの……っ!」
「好きだよ」
羞恥も動揺も抵抗も、何もかもをたった一言で抑え込んで、男は最愛の少女の唇にキスを贈る。
「大好きだよ……愛してる」
「だから――――僕と、結婚して下さい」
言葉での返事の代わりに返って来たのは、たどたどしい口付けと、男が愛してやまない
とびっきりの笑顔だった。
――翌日
「うっそ、二人共まだ来てないの!? もう式まで時間ないよ!」
「いや、なんか二人揃って寝坊したらしくて……今部長が車で迎えに行ってる」
「大丈夫よ! いざとなったら私とダーリンが代わりに式を挙げるから!」
「お言葉ですが、お二人は先月挙式なされたばかりでは」
「突っ込むとこそこじゃないと思いますよ!?」