食事が済み、もうすぐ昼休みも終わろうとしていた。
今は屋上に誰もいない。俺達も出口へと向かっていた。
「雄也」
俺の名前を呼んで、前を歩いていた理恵が扉の前で立ち止まり、振り返った。
「その・・・もしよかったら・・」
何か言いよどんでいる。
「今日、一緒に帰らない?」
本当に、珍しいことは続くもんだ。まさか理恵が帰りの約束まで取り付けてくるなんて。
こんなことは恐らく初めてだろう。
子供の頃は、いつも俺のほうから「帰ろーぜ」と言っていたのだから。
「ああ、いいよ」
そう言った瞬間、理恵は瞠目した。
「・・・じゃあ、校門で待ってるね」
「分かった」
俺が返事をした途端、理恵は間髪いれず時計を見た。
「もう時間だから、行くね」
理恵は少し赤ら顔で微笑み、その後俺に背を向け、小走りに階段を下りていった。
こうして俺は屋上に一人取り残された。
あんなに急ぐなんて、もしかしたら次の授業は移動教室なのかもしれない。それに――
(あいつ、顔赤かったけど、夏の日差しにやられたのかな。大丈夫だろうか)
などと物思いに耽っていた俺を、チャイムが現実へと引き戻してくれた。
「待たせたな」
俺は校門の前に行き、先に待っていた理恵に声をかけた。
「ううん、私も今来たところ」
「そっか、じゃ帰ろうぜ」
「うん」
俺達は歩き出した。
高校から自宅まではそんなに時間がかからないので、徒歩で通っている。
「しっかしまぁ、今更言うのも何だけど、高校までお前と一緒の学校になるとはな」
「受験勉強、大変だったよね」
「入試の一ヶ月前くらいだっけか。『数学教えてくれ』って俺がお前に泣きついたのは」
「うん。久しぶりに家に来てくれた時の第一声がそれで、少し驚いたけど。
そのあと、私達が同じ高校受けるって分かったんだよね」
中学のときは、本当に理恵との交流は少なかった。
同じクラスだったことはなかったし、一緒に登下校することもなかった。
せいぜい、廊下とかで会った時に会話する程度だった。
「でも俺、嬉しかったな」
「えっ」
「理恵が同じ学校に行くんだと分かって」
「・・・・」
「知り合いが一人でもいてくれたら、心強いからな。期待もあれば不安もある新生活だし」
俺がそう言ったら、それまで俺と顔を合わせて話していた理恵は、急に目をそらした。だが――
「・・・私も、嬉しかったよ。雄也と一緒の高校に行けて」
と言ってくれた。
やはり、人見知りの激しい理恵も同じ気持ちだったのだろう。
「受かることができたのも、お前の指導のおかげだよな。改めて礼を言わせてもらうよ」
「が、頑張ったのは雄也で、私の教え方なんてそんなに――」
「あーー、もう。こういう時は『どーいたしまして』でいいんだよ」
「ど、どういたしまして・・・」
俺が少し大声を出したら、理恵は驚いて俺の方を向き、小さくそう言った。
そんな風に談笑しながら歩いていると、やがて十字路に出た。
ここを右折すれば、後は10分程まっすぐ歩くだけで俺達の家に着く。
そしてその道は、幼い頃の俺達が何度も一緒に歩いた道だった。
ガキの歩幅では長く感じた道も、今となっては短いものだ。
普段は何とも思わず通っているが、今日は理恵が一緒なので懐かしく思えてしまう。
ちなみに、今来た十字路を右折せず、そのまままっすぐ行けば俺達が通っていた小学校が見えてくる。
「懐かしいね」
理恵もそう思ったのだろう。
「ああ、そうだな」
俺達は昔を思い起こして、少し感慨にふけっていた。
言葉を交わさず歩いていたが、しばらくして理恵が沈黙を破った。
「ねぇ、雄也」
「ん?」
「昔、言ってくれたこと・・・覚えてる?」
「どんなこと言ったっけ」
「ここから見えない星座を見に行くときは、一緒に連れて行ってくれって」
そういえば、そんなことを言ったような気がしないでもない。かすかな記憶しかないが。
「ああ。それで?」
「その・・・」
理恵は押し黙った。だが、俺は何が言いたいのか察しがついてしまった。
「まさか・・・夏休みに、星座を見に旅行しようなんて言うんじゃないだろうな」
俺を見る理恵の顔は、まさに図星を指された表情だった。
「な、何言っているんだよ。年頃の男女が一緒に旅行なんて」
今日のこいつはどこかおかしい。急に昼飯や下校に誘ったり、挙句の果てには――
「お父さんもお母さんも、雄也となら良いって」
確かに俺はこいつの両親とは気心知れた仲だが。
だからって、大事な一人娘を男と旅行に行かせてもいいだなんて、あの人たちは何考えているんだ。
俺がそう思いをめぐらせ、逡巡していると、
「やっぱり、ダメだよね」
理恵がそう言ってきた。
「ごめんね。変なこと言って」
この言葉を最後に、理恵は口を閉ざした。
俺達はまた黙って歩いていたが、その気まずさに耐えかね、今度は俺の方から口を開いた。
「俺とはダメだったけど、誰と行くつもりなんだ」
理恵は答えなかった。
「もしかして、諦めたのか」
小さく首を横に振った。
「じゃあ誰と――」
「一人で行くよ」
とんでもないことを言い出した。
「ば、馬鹿。一人でなんて危ないだろ。まして夜に出歩くんだから」
「大丈夫だよ」
俺は大丈夫ではない。女の子一人で見知らぬ土地を夜に出歩くなんて、どんな所でも危険だと思えるから。
それに、――偉そうに言うのもなんだが――理恵は容姿も悪くない。いや、むしろ俺は可愛い方だと――
本当に、ここ数年でますます女の子っぽくなったと思う。
だからもし、悪い奴らに何かされてしまったらと考えると、不安でたまらない。
なぜなら、俺はこいつの友人だからだ。友達を危険な目には合わせたくないに決まっている。
「やめろって」
「・・・でも、もう決めたから」
相変わらず、星のこととなると理恵は積極的かつ行動的になる。
こいつの星への情熱は、子供の頃からちっとも変わっていない。
「他にいないのか。一緒に行ってくれそうな人」
「うん。友達はみんな色々予定があるみたいだから」
「家族旅行で行けばいいじゃないか」
「二人とも働いているから、なかなか都合が合わないよ」
俺は考えあぐねてしまった。このままでは、本当に一人で行ってしまうだろう。
・・・俺の足りない頭に残された手段はもう、これしか残っていなかった。
だから、思い切って理恵に伝えた。
「分かった。俺も行く」
「えっ」
「俺もついていく」
「・・・本当?」
「ああ」
その途端、理恵は嬉しそうな顔をし、礼を言ってきた。
(全く、仮にも男と一緒の旅行なんだから、少しは警戒しろよな)
そう言いたかったが、手を出すとしたら本能に忠実な男という生き物、すなわち俺の方からなので、それは飲み込んだ。
代わりに俺は、自分自身を心の中で戒めた。
「で、どこに行くんだ」
理恵は俺の顔をまっすぐ見て、場所を告げた。
「宮古島、かな」
・
・
・
『お母さん』
『なぁに、理恵』
『もう、来てくれないのかな』
『え?』
『もう、私と星みるの、嫌になったのかな』
『雄也くんのこと?』
『・・・・』
『大丈夫。そんなことないから』
『どうして分かるの』
『この時期の男の子はね。女の子と遊ぶのが何となく気恥ずかしくなる頃なの』
『・・・・』
『だから、今はあまり来てくれなくても、きっとまた来てくれるから』
『本当?』
『ええ、本当よ』
『じゃあ、待ってるね』
『理恵』
『なに?』
『もうクラス替えないけど、再来年、中学になったら、また雄也くんと同じクラスになれるといいわね』
『うん』
『あらあら、素直な子ね』
・
・
・
夏休みが始まり、今はもう8月の半ばである。
「それじゃ、行ってきます」
出発の挨拶をし、俺はキャリーバッグを引きずりながら理恵の家へと向かった。
玄関の前には、あいつとその両親が立っていた。
「おはよう、雄也くん」
俺が来たことに気付いたおばさんが挨拶をしてきた。仕事着に着替えているから、今日もパートに出かけるのだろう。
「おはようございます」
買い物帰りの彼女に、俺は道でよく会う。その度に、少し会話をしたりする。
「おはよう。すっかり大きくなって」
今度はおじさんが声をかけてきた。彼とは随分久しぶりに会う。
スーツ姿だから、こちらもこれから仕事に出かけるのだろう。
「ご無沙汰しています」
「すまないね。理恵のわがままに付き合わせてしまって」
「あ、いえ」
本当に、何の心配もしていないんだな。まぁ、信頼されているのは嬉しいが。
すると、理恵が一歩前に出てきた。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
俺がそう言い終わった瞬間、理恵は自分の両親の方を向き、
「いってきます」
と挨拶した。
「いってらっしゃい。理恵、雄也くん、気をつけてね」
こうして俺達は家を出た。
「それ重くないか」
理恵は、明らかに俺より大きいキャリーバッグを右手で引いていた。
「ううん、平気」
「女子だとやっぱり、男より荷物が多くなるんじゃないか」
「そうでもないよ。2泊くらいだし」
「まぁ」
「それに、必要なものはもうホテルに送ってあるから」
必要なもの――恐らく天体望遠鏡だろう。
確かにあれは荷物になるから、あらかじめ送っておいた方が無難である。
「そうか。でも、辛くなったらいつでも俺のバッグと交換してやるぞ」
「・・・うん、ありがとう」
本当は、どっちも俺が持ってやりたいんだが、理恵の性格上それは許してくれないだろう。
まず俺達は新幹線で東京駅へ行き、そこから羽田空港へと向かう。
東京に着いた俺達は、見渡す限りの人海に驚いた。
そして、何より東京での電車の乗り換えに四苦八苦させられた。
山手線に乗り、浜松町で降りる。その後、モノレールに乗り、ようやく羽田空港へと着いた。
時間にゆとりを持って家を早めに出すぎたせいか、飛行機の時間まではまだ余裕があった。
「いやー、疲れたな」
「・・・ごめんね」
「あ、その、・・・気にするなよ。ちゃんと言っただろ」
俺は東京に着いてからの道中、理恵のバッグを引きずってきた。
右往左往し、押し寄せる人の波を避けながら重い荷物を運んでいくのは、運動が得意でないこいつには少々辛かったようだ。
「飛行機の時間までまだまだだし、近くの喫茶店にでも入って休憩するか」
そう問いかけたら、理恵は首肯した。
昼過ぎとなり、飛行機で出発のときが来た。直行便は取らなかったので、また飛行機を乗り継ぐことになる。
宮古島に着くのは、恐らく日が傾いている頃だろう。
やがて俺達を乗せた飛行機が離陸した。
空を飛んだことにより、今から泊りがけで旅行に行くのだという実感がようやくわいてきた。
それと同時に、とある罪悪感もまた押し寄せてきた。理恵に何度も感謝することで、払拭したつもりだったが。
「理恵」
俺は隣に座る相方に声をかけた。無言で首をこちらに向け、一瞥してきた。
「金、絶対にすぐ返すからな」
俺は情けないことに理恵から旅費を立て替えてもらっていた。
常日頃散々友達と遊び歩いているから、手持ちはもちろん貯金も微々たるものだった。
両親に小遣い数か月分の前借りを頼んでも、当然ながら答えはノーであった。
「でも、私が無理矢理誘ったから・・・」
「何言ってんだ。最終的には俺が自分で付いて行くって決めたんだ。必ず返す」
とはいったものの、当てがない。
俺も理恵を見習ってバイトでも始めようかな。でも、そうすると自由な時間が少なくなってしまう。
(せっかく3年間しかない高校生活なのに。もっと遊んでいたいじゃないか。どうせ大人になったら嫌でも働くんだし――)
などと考えてを巡らせていた俺に、理恵が、
「雄也、本当に返すのはいつでもいいよ。そんなに思いつめなくても・・・」
と言った。どうやら俺はかなり真剣な顔で思いつめていたらしい。
「ごめん、助かる」
再び感謝の念を表した瞬間、
「だからって、無駄遣いばっかりしちゃダメだよ」
という声が聞こえてきた。
「うっ・・・」
「雄也って、昔からそうだったよね」
理恵の言うとおり、俺はガキの時から金をもらえばすぐに使ってしまう奴だった。
この浪費癖を何とかしようと思ったが、思っただけで歳月は過ぎていった。
そういえば、無駄遣いばかりして俺が母さんに怒られていた傍らで、理恵が心配そうに見ていたこともあったな。
こいつは今、そのことを思い出したのだろうか。
だが、理恵の言葉にはまだ続きがあった。
「だから、雄也が双眼鏡をくれた時は凄く驚いたかな」
双眼鏡――確かいつぞやの誕生日にプレゼントしたことがあった。
あの時だけだな。俺が珍しくこつこつと小遣いを貯めていたのは――
何故そうできたのか、今ではもう分からないが。
その話題をきっかけに、沖縄までの機内では思い出話に花が咲いていた。
さらに、お互い疎遠気味であった中学時代の話もして、大いに盛り上がった。
俺達は遠い昔のようにまた、二人でいる時間を存分に楽しんだ。
――過ぎ去ってしまった日々を埋め合わせるかのように。
宮古島のホテルに着いたときには、もう日の光はほとんど見当たらなかった。
俺達はまず各々の部屋に行き、荷物を置いてきた。
その後一緒に夕食をとり、それを終えてから星が見えてくる時刻まで、各自風呂や洗面を済ませておくことにした。
俺は自室で湯船につかりながら、考え込んでいた。
(理恵の奴、どうしたんだろう)
ホテルに着いてからというもの、あいつの様子が少しおかしい。妙にそわそわし、食事中も上の空であることが多かった。
(初めての土地に来て、緊張しているのか)
そうだとしたら、やっぱり付いてきて正解だったかな。あんな注意力散漫な状態だと、非常に危なっかしいから。
でも、きっと天体観測を始めたらすぐに活気付くだろう。とても楽しみにしているはずなのだから――
思考を止め、俺は浴室を出た。
理恵が俺の部屋まで迎えに来てくれた。天体望遠鏡と三脚、それに手さげを持っていた。
「随分な荷物だな」
俺が迎えに行くべきだった。自分の配慮のなさを反省した。
「望遠鏡と三脚、俺が持つよ」
「ありがとう」
理恵はもう観念しているのだろう。すぐに荷物を渡してくれた。
「じゃ、行くか」
「うん」
ホテルの前にはビーチがある。俺達はそこで天体観測をすることにした。他に人の姿は見当たらない。
少しばかりの人工光はあるものの、それでも外はたくさんの星が瞬いていた。
空を見上げれば辺り一面に広がる光の点が、実に壮観だった。
隣にいる理恵の顔を見てみると、心ここにあらずといった感じで見惚れていた。
そして、物凄く幸せそうな表情をしていた理恵の顔に、俺も一瞬見惚れてしまった。
それを誤魔化すかのように、少々咳払いをしてから声をかけた。
「やっぱ違うな、俺達の住む場所からみる星とは。こんな綺麗な風景なら毎日見たいと思うかもな」
「・・・・」
理恵は無言で俺の方を向いた。その顔は少し強張っているかのように見えた。
「どうした?」
「う、ううん」
理恵は明らかに何か言いたそうだった。もう一度問うために口を開こうとしたが、その動作は、
「行こう、雄也」
という言葉に遮られた。
「あ、ああ」
俺達は波が足にかかる3歩手前くらいの位置に来た。なるべく星を近くで見るために。
理恵はそのすぐ後ろに天体望遠鏡をセットした。
「そういえば、ここに来ないと見えない星座って何なんだ」
「今の時期だと、ぼうえんきょう座かな」
「『ぼうえんきょう』って、これ?」
俺は理恵の天体望遠鏡を指しながら言った。
「うん、まぁ。星座全体の形はここ含めてもっと南の方じゃないと見えないの」
「へー、そんなんもあるんだな」
「でも、望遠鏡のおかげで星を見ることができるから、私はお気に入りの星座かな」
「お前は星座、いや星なら全部気に入っているだろ」
理恵は小さく頷いた。そして、少し後ろの方に下がり三脚もセットした。
地面においていた手さげから高そうなカメラを取り出し、さらにそれを三脚の上に固定した。
「そのカメラも三脚もバイトの金で買ったのか」
恐らくそうだろうと確信して聞いたのだが、理恵の答えは違った。
「これは・・・親が買ってくれたの。中学のときに」
俺は特に何も驚かなかった。理恵が星好きなのは当然おじさんもおばさんも知っている。
可愛い一人娘に高価なものをプレゼントしたとしても、別段不思議ではない。
まして理恵は、子供の頃からモノをねだらない奴だった。
だから、少しくらい奮発した代物を子供に送ったからといて、行き過ぎた愛情表現にはならないだろう。
「よかったじゃん」
「・・・うん」
そういって理恵は望遠鏡の前に立ち、星を覗き込んだ。
しばらく俺達はだまっていたが、やがて理恵が「あった」と言った。
「ぼうえんきょう座?」
「うん。見てみる?」
「ああ」
俺は望遠鏡を覗き込んだ。
「え、あれ・・・だよな」
「そうだよ」
「正直よく分からん。つーかちょっと暗くないか」
「他の有名な星座と比べればね」
「よく見つけられたな」
「それは・・・」
そう言った瞬間、理恵は言葉を続けずに押し黙った。
「理恵?」
俺は望遠鏡から目を離し、理恵を見た。
理恵は少しそわそわしていたが、やがて俺の名前を呼び、それからこう言った。
「あの赤い星、分かる?」
理恵が指差した方を見てみると、その赤星が俺の目に飛び込んできた。
「分かるよ。昔、お前に何度も教えてもらったからな」
一呼吸置き、俺はその星の名前を告げた。
「アンタレスだろ。さそり座の」
そして、さそり座は俺の誕生星座でもある。
「ぼうえんきょう座は、さそり座の近くにあるから」
「そうなんだ」
理恵はカメラをぼうえんきょう座の方へ向け、何回かシャッターを切った。
写真を1枚撮るごとに、深呼吸していた。
その後、手さげに再び手を入れて、そこから懐中電灯と、一つのルーズリーフ用バインダーを取り出した。
だが、理恵はしばらくその場に固まっていた。その顔は、何かを思いつめているかのようだった。
声をかけようかと思った途端、あいつはそれらを手に持ち、俺の方に歩いてきた。
「雄也・・・その・・」
理恵の目が少し泳いでいる。
「何だ?」
「見てほしいものがあるの」
そう言って、バインダーと懐中電灯を俺の前に差し出した。
「これって、そんなにおどおどして渡すものか?」俺は微笑して尋ねた。
「・・・・」
「まぁ、いいや。拝見させてもらうよ」
懐中電灯を点け、その光をバインダーにあてる。
そこには何十枚ものルーズリーフがしっかりと固定されていた。
そのルーズリーフには、1面に1つずつ星座の写真が貼り付けてある。
各星座の写真の下に、名称と日付と、そして理恵の字で書かれたコメントが記されていた。
「これ、前にも・・・」
そうだ。確か小学生の頃、理恵はノートに星座の写真を貼り付けていた。
でも、俺は「これじゃ、全部入らない」と言った。
だから、バインダーにしたのだろう。ルーズリーフなら何枚も追加もできるし、順番を整理することも容易だ。
「作り直したんだ」
「うん」
何分か無言のままであった。
俺は理恵の作品を見るのに夢中だったし、理恵はそんな俺の様子を一歩下がった距離からじっと見ていたから。
半分くらいまでめくって見て、俺は感想をもらした。
「写真も、前のよりずっと綺麗だな」
日付を見てみると、ほとんどが中学のときのものだった。
あの一眼レフで撮影していたのだろう。
「・・・・」
理恵は相変わらず静かに俺を無言で凝視している。でも、なんだか落ち着かない様子であった。
(理恵?)
その様子が気になった俺は、バインダーを閉じてあいつの傍に向かおうとした。しかし――
「雄也、最後まで見て・・・くれる」
そう懇願されたため、俺は返事をして再び目を通し始めた。でも、今のあいつの声は若干震えていた。
(理恵の奴、どうしたんだよ一体・・・)
俺は理恵の近くに早く行きたいがために、ペースを少々速めて紙をめくっていった。
そして、最後のルーズリーフを見た。
その星座は、S字型に星が並んでおり、真っ赤な星が一際目立っていた。
俺の誕生星座――さそり座であった。
そのコメントには短く、
『雄也の星座。私の、大好きな幼馴染みの』
と記されていた。
俺は、思わず理恵の方を見た。
理恵は伏目がちになっていた。
(と、友達として、だよな――)
無論、そうではないことは分かっていた。いくら俺でもそこまで鈍感ではないつもりだ。
理恵は、ここで俺に告白するつもりだったのだろう。だから、ホテルに着いてからはあんなにそわそわと――
まず直接伝えないのが、こいつらしかった。少し恥ずかしがり屋の、俺の幼馴染みだから。
「ごめんね・・・遠回りな告白で・・・」
やはりそうだった。理恵が俺のことを――
やがて、理恵は堰を切ったかのように話し始めた。
「・・・ずっと、好きだった。子供の頃からずっと・・・」
そんなに前から、なのか。
「でも、言えなかった。もし、断られたらと思うと――」
俺は言葉の続きを待ち続けた。
「私は、今のままでも十分だったから。たまに話しかけてもらえるだけで・・・」
理恵の声は震えていた。
必死になって自分の想いを俺に告げてくれているのだろう。
こんなに一方的に話してくる理恵を、俺は見たことないから。
「今まで雄也は男の子としか遊んでなかったから、私もどこかで安心しきっていた」
確かに、俺はこれまで女子と親しく話していたことはなかった。
「だけど、雄也が女の子と楽しそうに話しているのを見て、このままじゃいけないって・・・」
理恵と同じクラスの女子と、カラオケに行くために教室に集まり、談笑していた時か。
これで、あの時理恵が切なそうな表情をしていた謎が解けた。――やはり見間違えではなかったのだ。
「・・・だから雄也に彼女ができる前に、ちゃんと告白しようと思ったの。
失敗してもいいから。ただ、雄也が彼女と楽しい学生生活を過ごす中で、私のことを忘れてしまう前に・・・」
――俺を買いかぶりすぎだよ、理恵。
ちょっとおしゃべりして、ちょっと遊びに出かけたぐらいで、彼女なんて俺にはできなかったよ。
それに、例え彼女ができたとしても、俺がお前を忘れるわけがない。
ガキの頃からいつもそばにいてくれた、お前のことを――
「ごめんね。こんなことのために、こんな遠くまで連れ出して・・・」
この頃、理恵が妙に積極的だったのは、このためだったんだな。
「でも、ありがとう。雄也とここで見た星空は、最後だとしても、最高の思い出になったよ」
礼を言いたいのは俺も同じだった。こんな綺麗な景色を見れた上に、何年も俺を好いていてくれたなんて――
そして、理恵は深呼吸をし、少しばかり潤んだ瞳で俺の目を見据えてこう言った。
「雄也、好きです。・・私と・・付き合って下さい・・」
もし波が来ていたら、その声はかき消されていただろう。それほどまでに、か細い涙声だった。
だが、俺にははっきりと聞こえた。そして、俺も自分の想いを乗せて返答をした。
「はい」
俺は、理恵と恋人同士となることを望んだ。
「・・・・」
「これからもよろしく頼むよ、理恵。だから、最後なんて言わないでくれ」
そう言い終わった瞬間、理恵の頬を一滴の涙が伝った。そして、その体はかすかに震えだした。
俺はそんな幼馴染みの前に行き、その震えを止めんばかりに彼女を抱き寄せた。
「ありがとう、理恵。長年慕ってくれてて」
「・・・・」
「俺も好きだよ、理恵のこと」
そう言って、俺は理恵の顔を覗き込んだ。その顔は、涙に濡れながら微笑んでいた。
・・・・・・・・・・・・・
理恵からの告白はきっかけに過ぎなかったのかもしれない。
さそり座に書かれていたあのコメントを見たときから、俺の気持ちはもう固まっていたから。
もし、彼女が自分の口から何も言わなかったときには、俺の方から言い出していたことだろう。
「俺もお前が好きだ」と。
多分、俺は子供の頃から無意識に理恵のことを好きだったのだと思う。
今にして思えば、思い当たる節はかなりある。
――浪費癖のある俺が、大好きなお菓子や玩具を我慢してまでコツコツと貯金して双眼鏡を買えたこと。
――たった一人で星座を見に行くと言った幼い頃の理恵に、「俺もついて行く」と言ったこと。
――何となく理恵といるのが気恥ずかしくなって、友達との遊びを理由に距離を置くようになってしまったこと。
――思春期を向かえ、身近な異性、つまりは理恵を少しでも性の対象として意識しないように努めたこと。
特に最後のは決定的だ。中学に入って、理恵は体つきも本当に女の子らしくなっていったから。
ずっとそばにいれば、いつしか理恵に手を出してしまいそうで怖かった。それで今までの関係が崩れたりしたら。
まして、天体観測なんて夜にやるものだから、余計に行きづらかった。
小さい頃は理恵が喜びそうなことをやりたかった。
大きくなるにつれて理恵を避けるようになった。でも、たまには一緒に話したかった。
それらは全部、理恵のことが好きだったからだろう。
その感情を、理恵に告白されるまで自覚できなかったなんて、やっぱり俺は鈍感だな。
・・・・・・・・・・・・・
「でも、理恵」
夜のビーチで、俺は幼馴染みに話しかけた。
「もしもだぞ。もし、俺がノーって言ったらどうしたんだ」
「えっ」
「旅行は2泊3日だぜ。残りの日数、すげー気まずかっただろうな」
「・・・・」
「へへっ、本当にお前って、たまに抜けているところあるよな」
俺は理恵に笑いかけた。すると、向こうもつられて一緒に笑った。
俺達はしばらく笑い合っていたが、やがて理恵が微笑みを止めた。
それを契機に、お互い見つめあった。
そして、やがて理恵がそっと目を閉じた。
俺にはその意味が分かった。覚悟を決めよう、男として。
こうして俺達は、幾千の光点が瞬いている中で、口付けを交わした。