第2話
さぁ、ご機嫌取りの時間だ。破顔する。
「お口がご懐妊してしまいますよ。千代(ちよ)様?」
「口から赤子は生まれない、という事ぐらい存じておりますわ。誠(まこと)」
鼻で嗤いながら目を細める。
「体を拭いて、誠。私の足があなたの精で孕んでしまいそうよ」
へいへーい。と後始末をし、下着を換え、寝巻を着せる。下着も寝巻も共に豪勢な作りだ。外国の貴族やらが着るものを手間暇かけて輸入しているのだろう。御大層なこって、と思いながら寝具をかけてやると、手を掴まれた。
「足を撫でて、誠」
千代が俺に言葉を発する時、必ずと言っていい程俺の名を発言に組み込む。逆に、俺が千代に声を掛けるときは名前を呼ぶことを強要される。彼女なりの依存なのかもしれない。無言で寝具の上から左腿を撫でる。心地よさそうに目を閉じた。やがて静かな寝息。
寝た子を起こさぬよう、静かに部屋を後にした。
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ダダダッ ダダダッ ダダダッ ダダダッ
ヤベェ!マキシム機関銃か
慌てて目の前の塹壕に飛び込む。小隊からはぐれちまった、と毒づく前に30年式歩兵銃を構える。引き金を引く必要は無かった。
泥の壁によりかかっている「それ」・・・・左前腕、右手五指断裂、顔面並びに胸部の重度の裂傷及び頸部切断面から漏れる呼気音。ほっとけば死ぬ。わざわざ弾を無駄にする必要もあるまい。鮮血に彩られた顔面の中で、青い目だけが目立っていた。
「Как дела?邪魔するよ」
そいつの隣に座る。他の場所は敵味方の死体で埋まっていた。機関銃の音は続いているし、俺も疲れた。弾倉交換か、機関銃の砲身が熱を持って打てなくなるまでゆっくりしよう。それまでには足の遅い伍長ドノも追い付くだろう。
お隣さんが、指を失った手で軍服の胸ポケットをゴソゴソしている。なんだ、タバコでも吸いたいのかい?と手を伸ばして探ると、写真が出てきた。肩を並べて一緒に見る。
カイゼル髭を蓄えた軍服姿の美丈夫と、金髪の美女。男は緊張しまくっているが、女のほうはやさしく微笑んでいる。見る者をも微笑ませるような、在りし日の一葉。
「あんたの嫁さんかな?綺麗だね」
通じるはずもないし、聞こえもしないだろう。写真が見えているのかも分からない。ただ、今際の際に望んだのは、思い人の微笑。それだけは分かった。
ひゅーごぽ ひゅーごぽっ ごぽっ ごぽ・・・・呼吸停止。お疲れさん。写真を死体のポケットに戻す。
少尉殿ぉぉぉと、鬼瓦、いや、伍長が飛び込んできた。他の兵達も続けて転がりこむ。どれだけ心配したか・・・と喚く鬼瓦を尻目に、塹壕から恐る恐る機関銃のある方向を探る。この先、目標の機関銃台まで身を隠すような場所は無い。味方の二十八糎砲の支援も得られない。
状況から、取り得る選択肢は三つ。
一つ、隠れ続けて、砲撃で塹壕ごと吹き飛ばされる。
一つ、撤退して、背後から撃たれる。
一つ、突撃して、正面から撃たれる。
「伍長。何名残った?」
「少尉を除く18名。他は機関銃に・・・」
減りすぎだ。何が悪かった?と浮かぶ自責の念を唇を噛んで押さえる。後悔は後だ。
「伍長、全員に伝達。着剣、突撃用意。1分隊の掩護射撃とともに2分隊前へ。1分隊は1弾倉射撃後、再装填し、前へ」
兵達と共に銃剣を抜き、着剣する。雪がちらついてきた。
「1分隊射撃よーうい」
機関銃の銃声が止むのを待つ。ちらり、と足元の写真の男を見た。女の元へ早く帰んな、と呟く。
「2分隊突撃よーうい」
伍長が低いが、良く通る声で号令。銃声が止んだ。
「撃てぇー!」
「前へ!突撃ぃぃぃ!」
絶叫とともに2分隊が飛び出す。はずみに男の死体は蹴り飛ばされていた。
1弾倉5発の掩護射撃。速やかに装填。横殴りの雪。
「1分隊突撃ぃぃぃぃ!!!」
塹壕を飛び出て、体を低く前へ。雪が泥を隠していく。
マキシム機関銃が、こちらを向いた。
白煙。
銃声。
絶叫。
無音。
・・・・・・。
かっ、かっ、と音をたてる自分の呼吸に目を覚ます。
目を固くつむり、夢の残滓を追い出す。過呼吸になっている事を自覚し、意識的に呼吸を止める。過去そのものを寝ている間に追体験する事も夢というのだろうか。
窓の外には金木犀の黄色い花が見える。
和菓子のような小さな黄色い花は、彼の地にも咲いて香りを撒き散らしていた。
彼の地においては故郷を思い出させ、故郷においては彼の地を思い出させる香り。
呼吸が落ち着いた。大きく、ため息をついた。