第11話
あの夜から、一年近くが過ぎていた。俺は芝生の上で千代に膝枕をしていた。日差しが心地良い。
結局、あの件は華族の身分の返上という千代の申し出によって、手打ちとなった。「寄付」という名で関係者にばらまいた札束の威力も大きかっただろう。
そうして平民の身分となった千代は、俺の妻になった。
俺の実家で初めて家族と顔合わせした千代は、余りの緊張におかしくなったのだろう。
茶の間に通され、ちゃぶ台の前で四つ指ついて挨拶しようと頭を下げたら、角におでこをしたたかぶつけた。
悶絶する千代を前に、俺の両親―初めて見た元華族を前に肝を潰していた―も、心を許した。今となってはいい思い出だ。千代は思い出したくない、と頭を抱えるが。
そして今、千代の様子がおかしい。何かを言おうとして口ごもる。朝からそんな調子だったので、庭に連れだした。そろそろいいだろう。千代を向かい合わせに俺の胡坐の上に座らせた。
千代は顔を下に向けて目を合わせない。両手で頬を挟み、こちらに顔を向けさせた。
「千代、何か言いたい事があるのだろう?言葉を選ばなくてもいいから、言ってごらん?」
「私は・・・」千代の目から涙が溢れて俺の手を濡らす。
「貴方の、子を、産みたいです・・・私が、こんなだから、五体満足な子じゃないかも、しれないけれど・・・」嗚咽が漏れる。
「どんな子でも、一所懸命、育てますから・・・産ませて・・・ください・・・!」
一年を掛けて考えた末の、決意の言葉。薄々気づいていた。初めての夜以来、千代は、顔に、口に、体に感じたいと言って膣内で射精をさせなかった。子を成すのを恐れていた。
俺からは何も言わなかった。子を作り産ませるのは簡単だが、育てるのは、並大抵の覚悟では足りない。元気な子でも、そうでなくても。
その覚悟がなければ、二人で生きていけば良い。そう考えていたから。
千代は覚悟を決めた。次は、俺の番だ。
「千代との子なら、例えどんな子でも、欲しい。二人で、大切に育てよう」
強く抱きしめた。千代の涙が頬を濡らす。風が吹いた。金木犀の香り。今年もまた咲き始めたのだろう。
かつて千代は俺に「二人だけの物語を紡ごう」と言った。その物語に新しい登場人物が現れて、今度は三人の物語になる。
来年の今頃は、三人で金木犀の香りを楽しみたいな。千代の髪に顔を埋めながら思った。
新たな物語の頁をめくるように、また金木犀の風が吹いた。