第3話
「おはようございます。千代様」
「おはよう。誠」
千代は既に女中の手により着替えをすませ、ベッドの淵に腰かけていた。隣にはイギリス製の車椅子。抱きかかえるように車椅子に乗せる。香水がふわりと香った。
「香水を変えられたのですね。千代様」
千代は、さらに香らせるように長い髪をかき上げた。
「Jicky。調香士の悲恋の相手への献辞を込めた香りだそうよ。誠」
ほー、さいですかー。と生返事をすると睨まれた。
指を目の前に差し出される。ぱくり、と銜えた。そのまま口内を蹂躙される。口の利き方に気をつけなさい、という事か。へいへい。
満足したのか指を抜くと、これ見よがしに自らの口に含んだ。ぴちゃ、ぴちゃと俺の目を見ながら指を舐めまわす。目は潤み、顔が上気している。私に欲情なさい、と行った行為に自ら溺れているのだろう。
千代が開いた手で髪をかきあげ、耳を露出させた。腰をかがめ、耳に甘く噛みつく。唇を這わせ、舌でねぶりまわす。強く抱きついてきた。
「ああ、良いわ、誠」
あん、と甘い声で鳴く。このまま行為に耽りたいが、朝食の時間に遅れれば二人揃ってあの女中頭―タエさんにどやされる。
「朝食に遅れます、千代様。タエさんに叱られてしまいますよ?」
むー、と言いながら解放される。口を不服そうに尖らせていた。
部屋を出て、食堂に向かう。大理石が敷き詰められた回廊。高い天井にはシャンデリア。彼女の父が、娘のためだけに建てた豪奢な屋敷。だが彼女は、自分だけの世界を展開する檻として利用する。俺はその中に招かれた、数少ない人間だ。
あの戦争の後、どうも俺は体をおかしくしたらしい。不眠、過呼吸、頭痛に吐き気。食欲性欲の減退。常にそれらに悩まされ、歩くのもままならなくなった。
軍人として使い物にならなくなった俺は軍を除隊した。実家に戻ってゴロゴロと不毛な時間を過ごしたのが効いたのか不調が和らいできた頃、思わぬ人間が訪ねてきた。
「少尉殿ー!いらっしゃるかー!」
和服姿の鬼瓦・・・伍長だった。
お互いもう軍人でもないのに俺の事を少尉と呼び、自分の事も伍長と呼べ、敬語はまかりならんと押しつける鬼瓦は兵役を全うした後、実家の問屋を継いでいるはずだった。
家に上げ茶を勧めながら何の用だ、と問うと、少尉殿の徳を見込んでお願いに参りました、と頭を下げた。
「ある女性の、身の回りの御世話を願いたいのです」
「玄関はそこだ。帰れ」
襟首を掴んで放り出そうとすると、待った待った、借りを返して頂きたい、と暴れる。借りなど作った覚えはないが、話だけは聞くことにした。どうも伍長がとことん世話になり、頭の上がらない叔母がいるらしい。
その叔母は「やんごとなき血筋」の体が不自由な女性の世話をしているのだが、寄る年波に勝てず、思うように世話ができなくなったために力添えを求めている―というものだった。
「そんなもの、新聞で募集をかければ済むだろうに」
「色々と事情があるようで。世間に広めるわけにはいかんのです。しかも、叔母からの注文は清廉潔癖、智に深く武に秀でて、口は堅く身元がしっかりしている者!ま・さ・し・く軍神様の事でありますよ」
「軍神様は精神薄弱になったりしねぇ。性根腐って家でひっくり返ったりしねぇぞ」
「鬼の霍乱、とも言いますからなー。はっはっはっ」
伍長が深々と頭を下げた。幼い頃より世話になった叔母に初めて頼られた。その願いに応えたいが、私には少尉しか思いつかなかった。迷惑千万なのは承知の上、何卒お願い致します、と。
下げられた伍長の頭を見ながら思う。あの戦争を生き残れたのは伍長のお陰だったな、と。士官学校を出たばかりのひよっこの俺を一人前にしてくれたのはこの男だった。
そうだ、俺も伍長に初めて頼られたな、と苦笑してしまう。
「伍長の顔を立てる為だ。会うには会うよ。ただし、積極的には希望せんぞ」
「ありがとうございます!さすがは軍神様!」
だから、軍神様はやめてくれ。
数日後、俺は屋敷を訪れていた。でかい門の横にある守衛所で要件を伝えると、程なくして初老の女性が出迎えてくれた。
「女中頭のタエ、と申します。初めまして、「少尉殿」。うちの甥っ子がお世話になりました」
微笑みを浮かべながらの挨拶。あの鬼瓦、何を吹き込んだ。今度会ったらかち割ってくれる。
歩きながら伍長の話になった。あの戦は少尉殿が率いるわが部隊が、突破口を切り開いたから勝利した、しかも俺が無傷で帰ってきたのは少尉殿のお陰、あの人は生ける軍神様だ、八幡の神様だ、とうるさかった、と笑う。
気でも触れたか、鬼瓦。
「幾人もの方と面接致しましたが、どうもお気に召さないようなのです。難しい性格の方ですので・・・」
それはそれは。まぁ、私如きには無理ですなぁー、と答えるとタエさんは微かに苦笑する。一際重厚な扉の前に立ち、ノックする。扉を開けながら、呟いた。
「あなたが軍神様なら、あのお方は女神様。お似合いかもしれませんわ」
御冗談を。中へ招きいれられる。
「お連れ致しました。千代様」
広大な部屋に配置された重厚な机の奥に座るのは、洋装の美しい少女だった。開け放たれた窓からは沈丁花の香りを乗せた風。タエさんはドアを閉めて退出した。
「近くへ、誠」
いきなり名前で呼んで命令か。気色ばみそうになるのを隠しながら近づく。雰囲気は執務室だが、壁一面の書架にびっしりと本が詰め込まれている様は最早図書館だ。
そういえば、この娘はどこが悪いんだ?上半身から下は机で隠れていて見えなかった。
「初めまして。お嬢様」
「千代で良いわ」
深窓の令嬢、という表現が相応しい少女だった。だが、年頃の娘さんはこんな目をしていない。生きる為に、全てを見透かそうとする目。こんな目をするのは、命の取り合いをするような連中だ。まさしく、戦場の軍人のような。
「誠は、戦場へ行っていたのね。仕事で人を殺めるのは、どういう気持ち?」
突然の質問に、機先を制される。心拍数が急激に上がる。少女は薄笑いを浮かべながら質問を重ねた。
「何人殺したの?どうやって殺したの?撃って?刺して?ねえ?ねえ?教えなさい」
赤い血。染まる雪。言葉を発そうにも、息が、できない。ぐらり、と体が揺れる。
「撃たれるのは痛いの?撃つのは・・痛いの?」
写真の男と少女。死体に屍体。散乱する腕と足。意識が遠くなる。せめて一矢報いようか。
「今度ゆっくり話してやるよ、千代」
気の利いた毒も吐けず、意識を手放した。