例えどんなに年老いて記憶が薄れようとも、あの金木犀の下で過ごした日々を、忘れはしまい。
1950年6月3日02時50分 ベトナム トンキンデルタ
上弦の月の夜の中、風上から石鹸の香りが微かに漂ってきた。敵が近い。
右手を上げ、兵達の動きを止める。藪の中に息を潜め待ち伏せる。
ハハハッ、と大きな声で笑いながら、警備兵2名が巡回路に従って歩いてきた。
迷彩の軍服に、鍋をひっくり返したような鉄帽。―フランス軍正規兵。
目の前を通り過ぎると同時に抜刀し、刀を男の背後から腎臓に突き立てる。
捩じりながら抜き、横に振る。
ぎしゅ、という音と共にもう一人の男の首が落ちた。首を失くした体から血が吹き出る。
笑っている表情をした首を一瞥しながら、先に刺した男に止めを刺す。
低く、小さく号令する。
「・・・phia tr??c(前へ)」
兵達が音もなくジャングルの茂みから現れ、するするとフランス軍陣地へと歩みを進める。
さほど大きい陣地ではない。落とすのは容易だろう。だが、と兵達を見つめる。
年端の往かぬ少年達。幼さの残る青年達。彼等のほとんどは、今回が初めての実戦だ。
しかし、銃を握り締める手こそ震えているが、目は不安を殺し闘志を漲らせている。
近くの少年兵に、大丈夫か?と日本語で話しかけると、ダイジョウブ、タツヤサン、と
カタコトの日本語と共にこわばった笑みを返してきた。
陣地ギリギリまで接近した。後は、攻撃を行うだけだ。手信号で、少年兵達に合図を送る。
皆、手榴弾を手に取り、投擲の準備を終えた。俺も左手に拳銃を持つ。小銃や機関銃は俺が撃っても
当たらないから、他の者に割り振っていた。そのかわり、手榴弾を多く持つ。
右手の刀を高く上げ、振り下ろすのと同時に手榴弾が陣地の掩体へ飛んでいく。
複数の爆発と共に味方の機関銃の援護射撃。敵も生き残った掩体から防御掃射を開始した。
一番初めに藪を飛び出し陣地へ駆ける。
少年達も掃射に撃退されぬよう前後左右の間隔を開けて、突撃開始。
掩体へ飛び込み、機関銃手を拳銃で撃つ。弾薬手が軽機関銃を向けたが、引き金を引く前に首に刃を
突き立てた。自分の仕事ぶりに満足し、思わず口が嗤いの形に歪む。
掩体から他方を覗く。声をかけた少年兵の倒れた姿。一瞥し、次の掩体へ向かう。
俺は、全てを捨てて、敵を一人でも多く屠らなければならない。例え、仲間がどれほど斃れようとも。
そうでなければ、父の遺志の名のもとに、国を捨て故郷を捨ててこの国に残った意味がないのだから。
復讐以外に、戦う意味など無いのだから。たとえあいつがどれだけ悲しんでも、戦うしかない。
1940年3月1日 ベトナム フエ市内
私は必死に医者を探していた。今日ほど、目の見えない自分を呪った事はないだろう。
目が見えれば、人にぶつかって怒号と共に蹴られ、泥の中に突っ伏す事もないはずなのに。
こうやって這いつくばって、泥まみれになって当てもなく前に進む事もないはずなのに。
何度蹴られ、壁に突き当たり、どれほど進んだだろうか。
「どうしたの?」
少年の声。おかしな発音。―外国人。
一瞬、夜な夜な母を「買う」外国人達を想像し憎悪に言葉を失ったが、必死にすがりつく。
「お母さんが、動かない!助けて!助けて!」
叫ぶ。もう、頼れる者はこの少年以外にいない。
「わかった。僕のお父さんの所へ行こう。」
優しい声。そっと、手を繋がれた。
どの位の時間がたったのだろう。私は着替えを与えられ、傷の手当ての後に寝台へ寝かされていた。
消毒薬の匂い。たぶん、ここは病院なのだろう。
不安に揺れる私に、覚えのある気配と、聞きなれた声が届く。
「目は、怪我をしたの?」
「・・・赤ちゃんの頃、病気で。」
気まずい沈黙。取り直すように、明るい声で少年が話を続けた。
「僕の名前は、辰也(タツヤ)。日本人。君の名前は?」
「・・・ラン。」
タツヤの微かな溜息。僅かな間。何を、隠しているのだろう。
「ねえ、ラン。僕のお父さんから話があるんだ。聞いてほしい。」
タツヤと入れ替わった、より大きくて重厚な気配。
「始めまして。ラン。私は辰也の父で、軍医だ。落ち着いて、話を聞くんだ。」
低い声。流暢な現地語。すぅ、と息を吸い込む音。
「君のお母さんは、死んでいた。残念だ。」
すぅ、と涙がこぼれた。ただただ、涙だけが溢れてきた。
「落ち着くまで、ここにいなさい。辰也が傍にいるから、何でも言うといい。」
大きな気配が離れていく。そっと、額に小さな手が載せられる。
タツヤの手は、温かくて、柔らかかった。自然と、嗚咽が漏れた。
1950年6月10日07時15分 ベトナム 北部農村
朝靄の中、村の入り口に着くと、水田で作業していた者達が歓声を上げて出迎えてくれた。
祝福の言葉に頷きながら、俺は隊列の最後尾を進むリヤカーの辺りから目を離せなかった。
不安げに、隊列の中に恋人を捜す少女。
リヤカーに積まれた死体の山に家族を見つけ、泣き叫ぶ母親と、必死にこらえる父親。
ぎりり、と噛みしめた歯が鳴った。目の奥が熱い。
だが、涙だけはだめだ。俺が泣けば、兵達の士気が下がる。
俺は「勇猛果敢な日本兵の息子」で、「首切り鬼」として畏れられているのだから。
これまでの戦いで、俺を信じて死んでいった者たちに申し訳が立たない。
兵達を解散させ、やっとの思いで家に着く。中に入ると同時に、ぶつかる様に抱きつかれた。
「お帰り、お兄ちゃん。」
流暢な、日本語。こわばった心が、ほぐれる。
「離れろよ、ラン。汚れているし、臭いぞ。」
「嫌だ。お兄ちゃんの匂い、好きだよー。」
アオザイが汚れるのにも構わず、ようやく膨らみ始めた胸を押しつけるように更に強く抱きつきなが
ら、ランは朗らかに笑う。だが、すぐに眉を曇らせた。
「悲しそうな、声だね。・・・泣いていいよ。」
「うるさい。泣くわけねーだろ。」
既に、涙声になっていた。ランが見えないはずの目をしっかりと俺に向け、優しく微笑む。
「ランの前では、『首切り鬼』じゃなくてもいいんだよ。」
優しい一言に、膝から崩れる。ランの細い腰に腕を回しながら、声を殺して泣いた。
俺は別にこの国の独立とか、支配とか興味は無い。ただ、父はこの国の何かを信じて、死んだ。
分かっている。父の遺志を継ぐと言いながら、戦争に乗じて復讐しようとしている自分の嘘に。
それでも、俺を信じて少年や若者達は彼等自身の正義の為に戦い、倒れる。
その死が、俺の心を少しずつ削りとる。削り取られた分を補うように、闘争を求める獣が大きくなる。
獣の成長に恐怖と喜悦を感じ、更に心が揺れる。この涙は、何の涙だ?怒り?悲しみ?それとも―
俺の穢れを落とすように、ランの柔らかく温かい手が、ずっと背中をさすってくれていた。
1941年12月8日 ベトナム ハノイ市内
「お兄ちゃん、お腹空いた―!」
私は日本語で叫ぶ。
「もう少しでお父さんがお仕事終わるから、我慢しろよ。ラン。」
タツヤ―今は私のお兄ちゃん―は、この国の言葉で返す。
私達二人の、お勉強を兼ねたお遊び。
母を亡くした後、身寄りの無くなった私を、タツヤは「この子から言葉を学ぶ」などと言って傍へ置く事を自身の父へ訴えた。
そんな子供の我儘は何故か聞きいられ、しばらくすると、「ラン、お前は今日から私の娘として育てる」と一方的に彼の父から言われ、今に至る。
日本軍司令部へ呼び出しを受けたお父さんと共に来た私達は、司令部前の広場の木陰で用務が済むのを待っていた。
普段とは違う異様な緊張感が漂う司令部内に、耐えきれず外に出ていた。寒いが、中よりはましだ。
「寒いなー♪暇だなー♪腹減ったなー♪」余りにも暇すぎて、適当に歌う。
「ガキみたいに歌うなよ。」お兄ちゃんのあきれた声。
「だって私6歳だしー♪お兄ちゃんだって11歳だしー♪私達ガキだよー♪」
「うるせぇ。フランス人形。」
お兄ちゃんが、小さく呟いた。私の大嫌いな言葉と知っていて。
反射的に、拳を声のした方へ振るう。バシッ、という音と共に、悲鳴が上がった。
「何しやがる!」
「フランス人形なんて言わないで!!」
人は私の事を、美しいと称して「フランス人形のようだ」と言う。
目の見えない私に変わって、ありがたくも鏡代わりに言葉で表現してくれる。
私は、美しい、というものがどんな形をしているか知らない。見た事が無いから。
ましてや人形など、触れても見る事なんかできないのに。
だがその言葉は私の忌まわしい血を意識させるのには充分だ。
毎晩私の母を買い、悲鳴のような淫らな声を上げさせていた男達。
鼻にかかった、癇に障る発音の言葉で、母と私を罵る男達。
体臭を香水で隠し、より気分の悪くなる臭いをまきちらしながら母と私を殴る男達。
私は、そんな異国から来た男達の一人の血を継いで生まれたのだ。
目が見えないのは、せめてもの救いなのかもしれない。
涙が溢れる。悔しくて、悲しくて。もう、何が悔しいのか、何が悲しいのかも分からない。
「・・・ごめん。悪かった。」そっと、髪を撫でられる。
お兄ちゃんは、きっと困った顔をしているのだろう。
でも、「困った顔」って、どんな顔だろう。分からない。
言葉は知っている。雰囲気も伝わる。感触も分かる。でも、分からない。もどかしい。
目が、見えたらいいのに。お兄ちゃんを、見たい。
耐えきれず、わーわー泣いていると、突然お兄ちゃんの頭辺りから、「ごつん」という音。
お兄ちゃんの悲鳴がまた聞こえた。びっくりして泣き声が引っ込む。
「愚兄賢妹とは、この事か。妹を泣かせてどうする。馬鹿モン。」
低く抑えた、お父さんの怒声。それが急に猫なで声に変わる。
「ランは可哀想だなー。よーし、お父さんがおんぶしてやるぞ。」
目の前に壁の様な気配。喜んで飛びついて首に手を回すと、すっくと宙に浮く感触。
微かな消毒薬の匂い。お父さんの匂いだ。
「今日は、何かあったのですか?」
お兄ちゃんがお父さんに尋ねる。いつだってお父さんには敬語だ。私にはいじわるするのに。
お父さんの背が、少し強張った。緊張している。
「・・・とうとう、アメリカとの戦争が始まった。」
お兄ちゃんからも、緊張した雰囲気が伝わった。重苦しい沈黙。
私はこの張りつめた空気を溶かしたくて、「アメリカ」という言葉から思い出した「おおスザンナ」を歌う。
お父さんがよくレコードをかけてくれた、明るい歌。お父さんも、お兄ちゃんもヤケクソ気味に一緒に歌いだした。
幼い私には分からなかった。これからどんな時代が始まるのかを。
1952年9月18日11時20分 ベトナム 北部農村
「太貴了!便宜一点児!!(高い!安くして!!)」
「?呀!(アイヤー!)」
俺は華僑相手に物資を怒涛の攻勢で値切るランを、少し離れた所から見ていた。
隣にいる中国軍兵士が、ため息交じりに呟く。
「ランちゃんも酷いのぉ。もちっと、ワシの客に優しくしてもらわな困るわぁ。」
糸のように目を細めながら、胡散臭い日本語でぼやくこの男の素性は良く分からない。
「劉(リュウ)」という名の中国人民解放軍少尉。中国の軍事顧問団のはずだが、
「雇い者やさかい、命張るなんて阿呆らしゅうてなー」と本人は横流しに精を出す。
少数の部下達と共に、ふらりと各国の軍隊の横流し品を扱う華僑をこの村に連れてきては、
ついでに命令書を渡してはまたふらりと去っていく。
歳は俺より12コ上。巧みな日本語は「関西の大学に通ってたねん」という事らしい。
渡された命令書を暗記し、証拠を残さぬよう火を付ける。
「司令部拠点へありったけ召集か。物騒やなぁ。」
「ええ。劉さんは、なにか知っていますか?」
「フランス軍機甲師団がぎょーさん、南部から北上しておる。兵力1万5千ってとこか。」
劉さんがタバコを取り出して不味そうに吸う。俺に勧めようとした手は、下げた。
俺はタバコは吸わなかった。ランがタバコの臭いを嫌うからだ。「あいつら」を思い出すから、と。
「正直、数は問題やあらへん。あのワキガ共はヘタレやさかいに。問題は奴らのLegion etrangereやな。
特に精鋭中の精鋭、第1落下傘大隊の「ベルセルク中隊」や。」
劉さんは流暢なフランス語で発音した。「外国人部隊」第1落下傘大隊―ベルセルク中隊。
父を、殺した部隊。「ベルセルク」が率いる、戦争の犬達。微かに、血が騒ぐ。
「いっぺんフエで見かけたけど、ドイツ語喋っておった。ナチの残党やで。殺しが好きすぎて、
戦争が手段じゃなくて目的になっておる。おっかないわぁ。」
タバコの煙を吐き出しながら、飄々と劉さんは話す。俺も緊張も恐怖も感じなかった。
俺もこの人も、もうどこかが狂っているのだろう。
「お兄ちゃーん、劉さーん、終わったよー!」
ランに、二人で歩み寄る。劉さんがランをからかいながら次に必要な物資を聞いていた。
「んじゃ、ランちゃん、またよろしゅう。おおきにー。」
「ありがとー劉さん。慢走!以後再見!(気をつけてねー!またねー!)」
ランがぶんぶんと大きく手を振る。劉さんは背を向けながら小さく手を振り、去っていく。
ランが見えないとわかっていても手を振るこの男の斜に構えた優しさが、不思議と嬉しかった。
物資を村人たちと運びながら、俺の上衣を掴みながら歩くランに話しかける。
「ラン、ありがとう。助かったよ。」
「えー、いいよー。私、これぐらいしかできないしー。」
ランは朗らかに笑う。言葉は武器だ、と彼女は言う。言葉だけが、人を助け私を守る、と。
幼い頃から各国の語学習得には超人的ともいえる努力と才能を見せた。
目が見えないから、発音だけで覚える。意味は聞いて、推測して理解する。
父の交友や職務を通して知り合った人々を捕まえては、質問攻めするランは一種の名物だった。
様々な方法で得た言葉は枢軸国側だけでなく、連合国側の言葉さえも含んでいる。
俺も父の熱心な教育で、ベトナム語は問題なく話せるが、英語やドイツ語は頼りない。
フランス語と中国語はランに習っている。最も、頭には入らないが。
家に戻り、ベッドに倒れこむ。召集の準備を考える前に、少し休みたかった。
うとうとしていると、ランが上に乗っかってきた。切り揃えられた長い髪が、俺の顔に振りかかる。髪に挿している銀のかんざしの飾りが、しゃりん、と鳴った。
「なんだよ?」
「また、どこかに行くの?」
「ああ。場所は秘密。」
「・・・そう。」
ランが俺の胸の上に頭を載せる。ランの艶やかな髪を撫でた。柔らかな感触が心地良い。
「あのね、お兄ちゃんが留守のあいだ、その・・初潮、来たの。」
これまで来てなかったのか。どれだけ発育が遅れているんだ、と思いながら言葉を選ぶ。
「・・・えーと、日本では赤飯なんだが、ここは何かあったっけ?」
「ばか。違うよ。私、女になったんだよ?わかるでしょ?」
ランの放つ甘ったるい匂いが「女」を意識させる。見えない目で、俺の目を覗き込む。
色素の薄いブラウンの瞳が、正確に俺の瞳を射ぬく。
滑らかな白い肌の頬が、かすかに赤くなっていた。俺の耳に唇を近づけ、囁く。
「ねぇ、・・・わかる・・・よね?」
耳に感じる熱い息と微かな唇の感触に、身が震える。
アオザイの薄い布を押し上げる胸の感触が、酷く扇情的だった。
股間が硬くなるのを気づかれたくなくて、ランの肩に手をかけ、押しのけて立ち上がった。
「わかんねーよ。阿呆。腹減ったー♪めーしでも作ろー♪」
「バカぁっ!」
俺の背に枕が投げられた。鼻をすする音がしたが、聞こえないふりをする。
泣いているのかもしれない。
台所で食材を切りながら、ため息。ランは俺のことを、昔から一人の男として見ているが、
俺には妹としか思えない。なのに、欲情してしまった。そんな自分が情けない。
この村の村長の孫娘で、村を出て司令部で公刊文書の翻訳の仕事をしているユイを思い出す。
俺の初めての相手。恋人、と公言はしていないが、とても大事な人だ。
ユイを抱きたいなぁ、などと思っていたら、指を切った。泣けてくる。
結局その日丸1日、ランは口を聞いてくれなかった。
1945年8月25日 ベトナム フエ市内
外は異様な喧騒だった。戦勝を祝う連合軍と、敗戦に呆然とする日本軍。
独立を目論む現地の活動家と、新たな利権を狙う商人たち。無数の人々の熱気。
陸軍病院の医務室の中で、お兄ちゃんと私はお父さんと対峙していた。
「辰也、私は、参謀と共にこの国に残る。ランを連れて、日本に帰れ。」
「嫌です。ランと一緒に、父さんに着いていきます。」
「そうだよ!お父さんと一緒に行く!」
お父さんとお兄ちゃんが行く場所なら、這ってでもついていく。
どのくらい、押し問答を続けただろうか。はぁ、とお父さんがため息をつく。
「勝手にしろ。後悔しても遅いぞ。」
「後悔するなら行きません。早く支度しないと、参謀さん達に捨てられますよ、父さん。」
「そうだよーお父さーん。」
よかった。3人が離れ離れにならなくて。嬉しくて飛び跳ねてしまう。
「辰也、護身用だ。お前は銃はさっぱりだが、剣の腕は一人前だしな。くれてやる。」
「ステッキ、ですか?」
「違う。仕込み刀だ。」
お父さんが軍刀と一緒にいつもステッキを吊るしているのは知っていた。
抱きつく時にそのあたりに触ると、危ないから、といつも手を外された。
シャリン、と金属が擦れる音がした。お兄ちゃんの感嘆の声。
「父から貰った。お前の名の由来でもある、オジキの形見だ。若くして死んだらしいが、相当な手練だったそうだ。」
「・・・大事にします。」
「いいなー!ランにも何かちょーだい!!」
「ランには、妻の形見をあげよう。私の母からもらったものでな、妻はとても大事にしていたよ。銀のかんざしだ。」
お父さんが、しゃりん、という音と共に私の髪にかんざしを挿してくれた。
頭を大きく動かすたびに、しゃりん、しゃりんと心地よい音が遠慮がちに鳴る。嬉しい!
「父さん、何故、ここに残るのですか?」遠慮がちなお兄ちゃんの声。
「・・・この国でな、たくさんの友ができた。その友の信じるものに、付き合いたくなったんだ。
お前達には苦労をかけるだろう。すまん。」
お兄ちゃんが私の手をとった。強く、握られる。私も強く握り返した。決意を込めて。
お父さんに頭を撫でられた。その手に、そっと手を重ねる。
きっと、私達はこれから辛く、悲しい日々を生きるのだろう。でも、怖くない。
私にはこの人達がいるから。この人達のために、目の見えない私ができることは少ない。
命をかけて頑張ろう。必要なら、母のように体を売ってでも役に立とう。
何があっても、ずっと、ついていく。
1952年10月7日05時05分 ベトナム 北部山岳地帯
突然の爆発。悲鳴。射撃音。フランス軍の突撃ラッパ。隣の父が、猛然と反撃を開始する。
―いつもの夢だ。分かっているのに、あの時と同じ恐怖に包まれ、体が強張る。
敵の奇襲に対し、父と共に掩体から射撃を行う。
父が狙って放つ弾丸は確実に敵を屠るが、俺の弾丸はまったく当たらない。
「辰也!手榴弾を投げろ!」
手榴弾を手に取るが、焦りに手が震えて着火紐を掴めない。あげくに、手榴弾を取り落とす。
突然、掩体に黒い影が疾風のように飛び込んできた。
両手に持った幅広でくの字型の大型ナイフ―グルカナイフ―で父に斬りかかる。
父がとっさに銃で防御。鈍い金属音と共に、銃身に亀裂が入り、父は弾き飛ばされる。
俺が居合で放った刀身が、2本のナイフによって受けられた。
刃を合わせながら、男の青い目と目が合う。青い目の中に映る自分があまりにも必死そうで、笑えた。
フランス軍の迷彩服に、見慣れないベレー帽と部隊章。右頬に大きな傷。首から下げたペンダント。父と同じよう年頃だろうか。
白人は皆同じに見えるが、フランス人とは違うような―突然、男がにやり、と笑う。
「Japanisch?」
ドイツ語。虚をつかれ、目が泳ぐ。腹部に衝撃。蹴られた、と認識する前に男が間合いをとる。
逃がすか、と追う俺に向かって男がナイフを投げた。
体が動かない。ナイフの刃先が俺の胸に吸い込まれる―衝撃―
地面に突き飛ばされた俺が見たのは、首にナイフが刺さった父。倒れこむ父を抱える。
どくり、どくりと脈打つように吹き出る血が、俺の体を濡らした。俺は、ただ震えていた。
男の姿は消えていた。父を殺した相手「外国人部隊第1落下傘大隊」と、「ベルセルク」と呼ばれるグ
ルカナイフを使う元ドイツ軍降下猟兵がいることを知るのは、ずっと後に戦果報告を読んだ時だった。
目を開けた。目覚めて見る他人の家の天井というのは、なぜこんなに落ち着かないのだろう。
ユイの家。夜明け前だった。隣で寝ているユイの穏やかな表情を見つめる。
ランが人形のような近寄り難い美しさと例えるなら、ユイは万人を惹き付ける花のような可愛らしさだ。
昨晩の行為で見せた痴態を思い出して、性欲が溢れてくる。
そっと、シーツの中にもぐりこんでユイの乳首を唇でついばむ。微かな声と共に、身を捩らせた。
更に舌でつつくと、シーツを捲り上げられた。ユイが不機嫌そうに睨む。
「やぁ、おはよう。」
「おはよう、じゃないわよ。何しているの?」
「いやぁ、起こしたら悪いかな、と思って。」
「はいはい。したいなら、キスして。」
笑いながら、ユイが誘う。唇を合わせ、舌を絡める。閉じていた目を僅かに開けると、うっすらと
目を開けていた。お互い笑いながら更に甘くキスを重ねる。
キスを続けながらユイの胸を優しく揉みしだく。形の良い眉を潜めながら、甘い声。
俺も乳首を撫でられる。思わず、身をすくめる。また、目があった。笑みをたたえた、挑戦的な目。
・・・受けて立つ。唇と目を合わせながら、手をユイの股間へ伸ばす。そこはすでに濡れていた。
指を中に潜らせる。ぬるり、と呑み込まれた。熱く締められる。
ああ、と体を悶えさせながら、俺の性器が掴んだ。巧みに、しごかれる。
ユイの与える強い快感を耐えるように、膣内の指を激しく動かした。
「・・・やぁん!もう!激しすぎ!」
言葉とは裏腹に、快感を得ようと腰をさらに指に押し付けてきた。
さらに深く指を潜り込ませて、膣内の上部を指の腹で擦り上げ続ける。
ユイの体がビクンと跳ね上がり、じわり、と熱い愛液が溢れて手を濡らした。
はー、はー、と荒い息をしながらユイが体を下げながら俺の下半身に舌を這わせる。
柔らかな刺激。舌と唇が性器に届き、飲み込まれる。今度は俺が身悶えする番だった。
俺のものを口内で刺激しながら、ちらちらと見上げる視線が満足気に笑っている。
俺は体を起こし、ユイを四つん這いにさせて尻を上げさせた。
恥ずかしげに動く、美しく丸みを帯びた白い尻がよけいに嗜虐心を呼ぶ。
一息に突き入れた。悲鳴のような喘ぎ声。俺の下半身がユイの流す熱い愛液に濡れる。
手を伸ばし、腰の動きに合わせて揺れる乳房を激しく揉む。
ユイは枕に顔を押し当てて声を殺しているが、隠しようも無い程の嬌声だった。
技巧も何もなく、力任せに激しく突き上げる。痺れるような快感。性器を抜いて、尻に射精した。
尻から背中まで白濁が汗に濡れた背中を汚す。余りの虚脱感に力が抜ける。
同じように力尽きて突っ伏したユイの背中にそのまま体を被せた。
無言で、互いの荒い呼吸を感じる。ぽつり、とユイが呟く。
「ねぇ、戦争終わったら、ランちゃんと3人で、日本に行ってみたいな。」
「・・・ああ、行こう。でも、まだランがお前になついてないだろう?大丈夫かな。」
「ふふ、そうだね。頑張らなくっちゃ。」
ランとユイは目下緊張状態にある。昔は仲が良かったのに、今は「泥棒猫に取られた」とランが
一方的にユイを嫌っている状態だ。残念ながら、獲物は俺だ。
たまに村に帰ってきては、必死にランのご機嫌を取るユイの姿は悲愴感さえ漂っていた。
しばらく微睡んでいると、遠くから音が近づいてきた・・・プロペラ音。
飛び起きて、朝焼けの空を見上げる。いくつもの攻撃機と輸送機が上空を司令部方面へ飛んでいく。
ユイを叩き起し、自分も服を着て仕込み刀を身につける。
「タツヤ、早く行って!私は村の人達を避難させるから!」
「了解!」
出ていこうとする襟首を捕まれ、力強くキスをされた。すぐに、突き放される。
「行ってらっしゃい!死なないでね!」
「お前もな。気をつけて。」
ユイと同時に、家を飛び出した。俺は司令部へ。ユイは村の広場へ。
振り返ると、ユイが立ち止まってビシッ、と敬礼する。俺も走りながら敬礼を返した。
司令部は蜂の巣を突付いたような騒ぎだった。俺も部隊を編成し、武器を受領する。
付与された任務は遊撃隊としてジャングル内での捜索・殲滅。
専門武器を扱えない上に若年兵が多い俺達にふさわしい、捨て駒のような命令だった。
ジャングル内をゆっくりと進む。遙か遠くから爆撃音。遅れてくる地響き。
ユイの村の方角。心配になるが、防空壕に逃げていればきっと大丈夫だろう、と自分を納得させる。
先に進ませていた斥候が戻ってきた。
敵装甲車の隊列を発見した、との報告。無線兵を通じて、司令部へ報告する。
無線から、対戦車用の部隊を派遣させる、それまで現地に釘付けにせよ―との命令。
思わず、笑ってしまった。馬鹿阿保無理だこの野郎。尻尾を巻いて逃げだしたいが、下手すればベト
ミンの政治部に村ごと粛清される。あきらめて、隊員たちに集めて作戦を伝達し、現地に向かった。
車両1台がようやく通ることが出来る道。配置について、1時間後。地面から、キャタピラーの響き。
やがて、装甲車の列が爆音と共に姿を表した。周囲には警戒兵を配置している。目を凝らす。
浅黒く、背の小さな東洋人達。現地徴収兵か。彼らの士気の低さに期待しよう。
俺の合図と共に、兵達が装甲車へ手榴弾を投擲する。爆発が重なる。
それを合図に、道路の反対側のジャングル内から爆発音。大木が数本、道を塞ぐ。
幸いなことに初撃で警戒兵が散り散りに逃げていく。先頭の装甲車はキャタピラーが外れ、立ち往生していた。
これで進撃を十分に遅らせる事ができるはずだ。
後は損害を最小限に抑える為に適当に攻撃しながら撤退すればいい、と思った自分が甘かった。
装甲車後方から、ありえない速度で白人兵達がこちらへ突進してくる。慌てて、応射。
数人が倒れたが、ひるむことなくこちらへ飛び込んでくる。白兵戦が始まった。
まずい、と思いながら顔面に突き出された銃剣を刀で払い、首を薙ぐ。
ベレー帽。見たことのある部隊章。―第1落下傘大隊―ぞわり、と鳥肌が立つ。
撤退を命じようにも、兵達は分断され、散り散りになり個々で応戦していた。
どうする、と思いながら前方へ転がる。背中を薙いだのは、血に汚れたグルカナイフ。
ああ、お前か。待ち望んでいたよ。俺の愛しい敵―ベルセルク。
左手の拳銃を撃つ。木の影に隠れ、避けられた。男も拳銃で撃ってきた。構わず、突進。
隠れている木を通りぬけざまに拳銃を向けたが、ナイフで叩き落とされた。逆に拳銃を向けられる。
逆手に持った刀で、拳銃を弾き飛ばしながら、首を薙ぐ。
男が深く屈んだ為、浅くベレー帽を切っただけだった。俺の腹を薙ぐナイフは体を捻り、避ける。
木の影へ飛び込み、息を整えた。相手は、ナイフ一本。だが、もう一本は確実にあるはずだ。
銃の類はもう持っていない。腰と胸にいくつかの手榴弾は見えた。
俺は仕込み刀に、手榴弾6発。似たような装備。奴も、射撃が苦手なのだろうか。
味方は散り散りで恐慌状態。さぁ、どうする?絶望的な状況に、思わず喜悦の笑みが溢れる。
突然、大砲と迫撃砲の連続音。味方か。フランス軍のラッパ音。聴きなれた、撤退の合図。
木の向こうから、ハッハッハッ、と豪快な笑い声が聞こえた。こちらに叫ぶ。
「Sehen wir uns wieder!」
えーと、また、会いましょう、か。・・・勝てる気はしないが、何故か逃げられた、と思う。
男の気配が消えた。緊張を解く。夢に見る程、望んだ決闘を果たせなかった事への失望のため息。
いきなり、目の前の藪から銃を突きつけられる。―油断した―撃たれることなく、男が姿を表した。
「なんや、お前か。気ぃ抜いたらあかんでー。おうちに帰るまでが戦闘や。」
にやり、と銜え煙草の劉さんが笑う。言葉もなく、ずりずりと無様に尻餅をついてしまう。
「劉さんが指揮していたのですか。」
「まぁ、砲術指導やな。移動に手間取ってしもうた。まだまだ訓練が足りんのぉ。」
不味そうに煙を吐き出しながら言葉を続ける。
「でな、新しい指令や。ワシの歩兵部隊と合流して、ここからお前のツレの所の村まで、お掃除や。」
ユイの村。焦燥感が募る。負傷者は砲兵部隊に任せ、劉さん達と共に掃討戦を開始した。
1947年11月9日13時20分 ベトナム 北部農村
お父さんとお兄ちゃんを迎えるために、私はユイお姉ちゃんに手を引かれていた。
私より3つ上のお姉ちゃん。数年前まで、お父さんの仕事のためにフランスに住んでいたという。
そのせいで、村の子供達から白い目で見られていた。よそ者の私とくっつくのは当然の事だった。
お父さんたちが戦いに行っている間は村長さんの家に預けられていたから、いつも一緒にいる。
お水を汲みに行くのも、ご飯を食べるのも、何から何まで面倒を見てもらっていた。
お姉ちゃんからフランス語を習い、私は日本語を教える。とても、楽しかった。
「あ、ランちゃん!お父さんとお兄さんが帰ってきたよ!」
良かった。生きて、帰ってきてくれた。とても嬉しくて、涙がぽろぽろと流れる。
でも、お姉ちゃんのお父さんはこの前の戦いで死んでしまった。申し訳ない気持ちにもなってしまう。
「ただいま。ラン。ユイちゃん、ランをありがとう。」
お父さんの声。私は涙声でおかえりなさい、としか言えない。
「ただいま、ラン。いい子にしていたか?」
お兄ちゃんの声。力いっぱい、飛びつく。汗と泥と火薬の匂い。お兄ちゃんの、生きている証。
「ありがとう、ユイ。」
・・・お兄ちゃん、ユイお姉ちゃんに何でそんな声で話しかけるの?どんな、表情をしているの?
「ううん、ランちゃんは、とってもいい子だったよ。タツヤも怪我がなくて良かった。」
・・・ユイお姉ちゃん、お兄ちゃんに何でそんな声で話すの?どんな、表情で答えているの?
まるで、恋人同士みたい。お兄ちゃんは、ランのものなのに。
私は、お兄ちゃんをもっと力を込めて抱きしめた。こんなに心配しているのに。こんなに好きなのに。
どうして、ランを無視するの?でも、そんな気持ちは声にはできなかった。
表に出してはいけない、と思ってしまったから。でも、悲しさと悔しさでまた、涙が溢れてきた。
結局その日は悲しい気持ちのまま、眠れぬ夜を過ごしてしまった。
その日、お兄ちゃんは夜遅く帰ってきた。ユイお姉ちゃんの匂いを纏わり付かせて。
翌日、私はユイお姉ちゃんに尋ねた。昨日の夜、ずっと、考えていたことを。
「ユイお姉ちゃんは、お兄ちゃんの事が好きなの?」
お願い、そんなことないよ、って笑い飛ばして。だけど、恐ろしく、長い沈黙。・・・やめて。
「・・・うん、そうだね。」
頭を殴られたような衝撃。吐き気がして、胸を押さえてしまう。激昂し絶叫する。
「お兄ちゃんはランのものなの!誰にも、渡さない!」
激情のままに、駆け出す。すぐに転ぶ。お姉ちゃんに掴まれる。暴れてまた駈け出した。また、転ぶ。
すぐに掴まれた。必死に暴れる。どんなに叩いても爪を立てても、お姉ちゃんは離してくれなかった。
「危ない!ランちゃん!お願い、落ち着いて!」
お姉ちゃんの、悲痛な声。でも、激情は抑えられなかった。
「なにやっているんだ!ラン!」
お兄ちゃんの怒声とともに、すごい力で引き離された。
「お兄ちゃんはランのもの!絶対!絶対!」
お兄ちゃんに強く、抱きしめられた。でも、何も声をかけてくれない。どうして。どうして。
泣き叫ぶ。抱きしめる力だけが、強くなった。
1952年10月7日17時37分 ベトナム 北部山岳地帯
夕焼けが綺麗だなぁ。途切れる意識をなんとか繋ぎ止めながら、思った。
まるで、今朝タツヤと見た朝焼けみたいだ。あの時は、こんな事になるなんて考えもしなかったよ。
タツヤを見送った後、村人達を集め防空壕へ避難した。
案の定、だれそれがいない、なんて事になって探しに出たら、思いっきり空爆に巻き込まれた。
あーあ、やめとけば良かった。でも、しょうがないよね。
タツヤに、私の夢を話したから、バチが当たったかな。それにしても寒いなぁ。
だらだらと出ていた血も止まった。もう、出尽くしたかな?だけど、まだまだ死ねないよ。
だって、タツヤにランちゃんとの約束を伝えないといけなからね。
初めて会った時からランちゃんは、タツヤの事が大好きなんだ、って分かっていたよ。
でも、ゴメンね。お姉ちゃんも好きになっちゃった。
私のお父さんが死んだ時、ずっとそばにいてくれて慰めてくれたから。
あの優しくて、温かい眼差しに、囚われた。
だけど、ランちゃんも少しだけ、悪いんだよ。
本当は戦争が終わってから、タツヤに恋しようと思っていたのに。
あの日のあなたの目を見てしまったから。恋に狂う女の目。
見えないはずなのに、まっすぐ私を貫く熱くて冷たい、女の目。とっても、怖かった。
でもね、家に帰って鏡を見たら、私も同じ目をしていたの。
その日の夜、タツヤを呼んで、キスして、押し倒したわ。ランちゃんに取られないように。
次の日、ランちゃん暴れたよね?あの時のひっかき傷、まだ腕に残っているんだから。
でも、私はあなたの心を傷つけちゃったね。
何日も、何日も家の中で泣き暮らして。ご飯も食べずに泣き続けて。
あなたの嘆き悲しむ姿を見て、タツヤもとっても苦しんでいたわ。
あなたのお父さんは恋の病はほっときゃ治る、って笑っていたけど。
あなたの部屋に無理やり入って、「戦争が終わった日に、タツヤに選んでもらおう」って言ったらまた怒ったね。
「私が敵うはずがない」って。
「私はお仕事の為に村を出る。あなたは村でタツヤの側にいる事ができるのよ」って言い返したら、ちょっと考えたよね。
勝算があるかも、と思ったのかな?私はもっと畳み掛けたわ。
「もし、どちらかが死んだら、生き残った者がタツヤを守って、愛されましょう」って。
残念。あなたは、お人形。お人形として愛されても、決して女として愛される事はない。
タツヤはあなたの事をとても大切にしているから、自身の命をかけて守る。あなたの全てを傷つけないように。
もし恋人にしたら、自分が死んだ時にあなたの魂が引き裂かれる、ってね。
本当に、悲劇ね。大事にされているからこそ、報われぬ愛。
今ならわかる。死にゆく者は、愛される中で死ぬ。
でも、生き残った者は、その愛を抱えたまま愛した者のいない世界で生きていかなければならない。
とても、かわいそう。だから、タツヤが引き裂かれないように、あなたに私のブーケを渡すわ。
ああ、ようやく愛しい人が来た。もう、取り乱しちゃって。まぁ、落ち着いて、聞きたまえ。
さぁ、なんて言おう。息を吸う。少ししか吸えない。一言くらいしか言えなさそう。
ランちゃんとの約束を、なんとか短い言葉で伝えないと。
愛してる、って言いたいけど、重荷になったら嫌だし二人の邪魔になるから言わない。よし、決めた。
「ランを・・・愛して・・・ね」
うわ、これじゃ女として愛するのか妹として愛するのかわかんない。まぁ。いいか。
さぁ、ブーケは投げたわよ。これを活かすも殺すもあなた次第。頑張ってね、ランちゃん。
しっかり、生きてね。タツヤの幸せの為に。
もう、いいよね。私、頑張った。タツヤの腕の中で眠れる。幸せじゃないか。
おやすみ、さよなら。愛しい人。
1954年1月23日12時29分 ベトナム ハノイ南方
私の命令により、丘上からの砲撃が始まる。絶え間なく続く砲火。
眼下のフランス軍陣地には反撃の機会もなく、幾百もの鉄と火の塊が降り注いでいるはずだ。
ふと、目をやると砲弾による火と煙に包まれた地獄の中に、影が歩み寄る。
「あの阿呆。死ぬつもりか。・・・もうええ、死んでまえ!」
毒づきながら、タバコに火をつける。砲煙に呼ばれたのか、雨が降ってきた。寒さがこたえる。
1時間後、キリの良い所で砲撃を終了させた。
同時にベトミン達が突撃したのを確認して、丘を降りて敵陣地に向かう。
霧のような煙の中、雨によって泥の河となった陣地に入った。
砲撃により、陣地内はほとんど吹き飛ばされていた。形の残っていた防空壕を覗く。
泥の上を覆う血の海。折り重なった死体の山。他の防空壕も。手榴弾と銃弾と刃物による、死の嵐。
誰も頭上に砲弾が雨のように降り注ぐ中、敵が扉を蹴破って侵入するとは思うまい。
陣の中央部、小さいながらも強固に作られた司令部付近でベトミン達が怯えた表情で立っている。
それもそうだろう。戦うべき敵がたった一人に殲滅させられているのだから。
味方といえども、「首切り鬼」の名は最早、忌み嫌われる恐怖の対象でしかない。
半地下の司令部内に入る。一撃で殺られたと思わしき死体の列を越え、奥の部屋に入る。
白い顔を更に青白くした白人のおっさんが、部屋の隅で震えていた。
その対角線上の角には、仕込み刀を抱え、拳銃を弄んでいる暗い目をした男。
「30分で終わりました。砲弾の無駄です。言いつけ通り、指揮官は生かしています。」
この前の陣地戦で、上から下までくまなく殲滅させた際に叱り飛ばした事を思い出した。
「根に持つ奴ちゃな。まぁええ。お前、今のままだとほんま死ぬで。」
ぽかん、と間抜けヅラ晒しやがって。ここまで阿呆だったか。
「お前が死んだって別にかまわへん。でも、ランちゃんはどうすんねん?」
阿呆がうつむいた。少しはこたえたか。惨状にえづきながら部屋の様子を伺いに来た兵士に、
敵指揮官を捕虜として扱うように命じ、外に出させた。うわ、あのおっさん、部屋を出た途端吐きやがった。
「なぁ、ユイちゃんが死んでもう1年や。そろそろ、ええやろ?」
更に、阿呆が小さくなる。私も、何が「ええやろ」なのかわからぬまま、タバコの煙を吐く。
「死んだもんに愛情注いでもなーんもならへん。自己満足や。
それより、生きてるもんに愛情注いだほうが、お互い得るもんがあると思うんやけどなぁー。」
ユイが死んでから、ガキが阿呆になった。前は烏合の衆をまとめてそれなりに良い動きをしていたのに、
今は一人でホイホイ突っ込んでドツキ回して終わり。ガキのつまらんセンチメンタリズム。
生きているのは、ただの運だ。実力ではない。
それにしても、似合わない真似をしているせいか、タバコの煙が目に染みる。まったく。
「あれから村に帰ってないやろ。休暇や。村へ帰ってランちゃんにワビ入れてきぃや。」
紫煙越しに阿呆を見ると、このままアリンコになるんじゃないか、という位に小さくなっていた。
1954年1月30日20時50分 ベトナム 北部農村
湯浴みのためのお湯を沸かしながら、ぼんやりと竈の火を見つめていた。ランに張られた頬を触る。
涙ながらに叩かれた胸も疼く。両方とも既に痛みはないのに、自然と手を伸ばしてしまう。
俺が村を離れていた間、ユイの祖父である村長が面倒を見てくれていた。
―ランは君が居ない間、ずっと村の入り口に目を向けて耳を澄ませていたよ―
村長の優しい声を思い出し、胸を締め付けられる。
村長も自慢の孫を亡くしたのに、ユイの事は何も言わなかった。俺の事も責めなかった。
ランは俺の足音を聞き分ける。それでも足りず、見えない目を向けて待ち続ける。
どれほど寂しい思いをさせたのか、想像もできなかった。
「・・・ユイに合わせる顔がないな。」自嘲する。
湯を持って、ランの部屋へ入る。
換気の為に細く開けた窓から差し込む青い月光だけが、ベッドに座る彼女を照らしていた。
髪を飾るかんざしが青く光る。部屋に漂う柔らかな甘い香り。ランの匂い。
物憂げに俯いている顔を見て、1年でずいぶん大人っぽくなったな、と他人事のように思った。
ベッドの足元に湯を置く。ランが顔を上げる。しゃりん、とかんざしの飾りが鳴った。
「顔、拭いてほしいなー。」
「メンドくせぇ。自分でやれ。」
「へー、あれだけ私の事待たせて泣かせてその態度?へー。」
しぶしぶ、顔を拭いてやる。猫のようになー、と鳴いて満足そうだ。
「・・・ねぇ、お兄ちゃん。昔みたいに、私の体拭いてよ。」
「・・・やだよ。ガキじゃねえんだ。」
「そう言うと思った。いつもそうだよね。覚えてる?昔2人でお父さん待っていて、
私が駄々をこねたらお兄ちゃんが今と同じ事を言って、私の事を怒らせて・・・。」
「ああ、覚えているよ。」
もう、何年前だろう。フランス人形。一番の禁句。あの後、家に帰ってからランを洗ってやった。
2人で入った日本式風呂。その後ラムネを飲んで、温かい布団で一緒に眠った。
あの時は当たり前で、今となっては夢のような日々。
「また、怒らせたい?お兄ちゃん?」
「あいよ。わかったよ。でも、隠す所は隠せよ?」
嬉しそうに微笑みながらランは立ち上がり、背を向けてアオザイを脱ぎ始めた。
薄絹の滑る音と共に、足元にアオザイが流れ落ちる。ランの白い肌が月光で青く輝いた。
甘い香りが強くなった気がした。そっと、滑らかな長い髪を持ち上げ、湯に浸したタオルで背を拭く。
昔は幼く骨の形を見せていた体は、今は女性らしい細く優美な曲線を描いていた。
「ほらよ、終わったよ。」
「おしりも、足も、拭いてよ。」
やだね、と言いかけたが後ろを振り返り俺を見る目に、有無を言わせぬ力がこもっている。
本当に見えていないのか?今更ながらに疑問に思いながら、黙って、膝をついて尻から足まで拭く。
小さく形よく引き締まっているが、女らしい柔らかな弾力。喉の渇きを覚えた。拭き上げ、タオルを湯に戻す。
顔を上げると、ランはこちらを向いていた。
「前も、拭いて・・・。」
囁くような、小さく、かすれた声。タオルを絞り直し、細い首を拭く。肩から腕へ。胸へ手を伸ばす。
小さいが形の整った乳房を拭いたとき、ふるり、とランの体が震えた。細い腰と腹を拭く。
股間へ手を伸ばすと、少しだけ体を硬くした。膝をついてつま先まで拭き、立ち上がる。
「・・・ありがとう。お兄ちゃん。いつも私のわがまま聞いてくれて。」
ランの声は小さく、震えていた。そっと、俺の頬へ手を添える。その手は、ひどく冷たくなっていた。
「前ね、ユイお姉ちゃんと約束したの。戦争が終わった日に、お兄ちゃんにどちらか選んでもらおう、って。」
ランの目から、涙が溢れた。
「こんな事させて。ユイお姉ちゃんが死んだ事を利用してるのよ・・・。私!」泣き叫ぶ。
「『どちらかが死んだら、生きたほうが彼を守って、愛されましょう』ってお姉ちゃんに言わせたの。
とっても、ひどい約束をさせたの。目が見えない私が、守ることなんかできるはずないのに!
お兄ちゃんに、愛される資格なんかないのに!」
ぽろぽろ、ぽろぽろとランの涙が玉のように零れ落ちる。
俺は頬に触れたままのランの手に手を重ねた。冷たい手が少しでも、温まるように。空いた手で、ランの涙を指で拭う。
「でもね、それでもね、私、お兄ちゃんに、愛して欲しいの!お兄ちゃんの事、守りたいの・・・!」
ひどいよね、ごめんね、とうわ言のように呟きながら、ランは泣き続ける。
その謝罪は、誰に対する言葉なのだろう。目を瞑り、己の気持ちを確かめ、意を決した。
夜の冷気に晒されて冷たくなった体を引き寄せ、抱きしめる。涙の熱さを胸に感じる。
顔を上に向かせ、優しく、キスをした。ランが驚いて目を見開く。
「・・・俺は昔からランの事を愛していたよ。」
そう、愛していた。でも、その愛は女に対しての愛なのか。家族としての愛なのか。わからない。
ユイの言葉に縛られている?劉さんの忠告に踊らされている?ランに嫌われたくないという俺の汚い打算?
思いは千々に乱れる。ただ、ランの想いを受け入れたい。その気持ちだけは確かだった。
涙を流し続けるランにまたキスをしながら、優しくベッドへ押し倒す。
毛布をまくり上げ、二人でくるまるように入った。
強く抱きしめ、ランの冷えた体を温める。ランが手探りで、俺の上着のボタンをもどかしげに外し始めた。
手を導いて介助する。上着と共にズボンも下着もろとも脱がされた。
裸で抱きしめると、ランの体温が急激に上がったような気がした。
ランがかんざしを外し、俺の方を向いて何か言いかけたので、キスで口を塞ぐ。
今、何か言葉を交わすとランに対する気持ちが折れそうな気がした。そのまま舌でランの唇をなぞる。
応えて差し出された舌と舌をからませる。吐息が甘く漏れた。胸に手をやると、怯えたように体を強ばらせた。
見えないから、何をされるのかわからずに怖いのか。
「ラン、胸に触るよ?」
こくり、と頷く。今度は怯えさせずに済んだ。
怖がらせない様に、柔らかな乳房をそっと包みこみ、優しく撫でる。
「胸に、キス、するよ?」
こくり、と頷いたのを確認し、乳首を口に含み、舌で転がす。ランの口から微かな喘ぎ声。
唇を這わせながら隣の乳房に移動し、舌を這わせる。体を悶えさせるように反応した。
唇を這わせて胸から鎖骨、首筋を舐めながら、腰に手を這わせる。悶えが強くなった。
「ランのあそこに触ったり、キスしてもいいかな?」
恥ずかしがって横を向く。耳を甘く噛んだ。声にならない甘い悲鳴。
「だめ?」
躊躇いがちに、頷いた。耳に舌を這わせながら、ランの股間を指でなぞる。微かに濡れていた。
できるだけ優しく指を動かすと、少しずつ熱い蜜を染み出させる。
ランは荒く息をしながら、俺にしがみつく。また唇を這わせながら、下半身に向かった。
臍を舌で舐める。くすぐったそうに身を捩った。足を開かせて、間に座る。
内腿を撫で、舌を這わせる。ランは両手で口を抑えて快感に耐えていた。
そっと、舌を割れ目に這わせた。腰を上げて仰け反る。
逃げようとする腰を押さえて、舌全体で舐め上げた。くぐもった喘ぎが聞こえる。
そのまま舌を動かし続けると、ランの滑らかな腹が脈動するように動く。蜜がとろり、と溢れた。
「私も、お兄ちゃんの、気持よくしたい・・・。」
ランが俺に手を伸ばす。手をつかみ、こちらに引き寄せた。キスの後、ランが手探りで俺の性器を探り当て、触れる。
触れた瞬間、ためらって手を遠ざけたが、すぐに両手で包み込まれた。
口を開き、舌を伸ばしてゆっくりと性器を含む。ぬるり、と熱い感触。心地良く―無かった。むしろ痛い。
「ごめん、ラン。歯が当たって、ちょっと痛いかなー。」
ランが慌てた様子で口から性器を外す。
「あ、ごめんねー。私も話で聞いただけだから、やり方がよくわからないんだよねー。」
えへへ、と悪びれずに笑う。久々に、ランの笑顔を見たような気がした。俺も笑う。
2人の間にあった、氷のように張り詰めた空気が溶けたような気がした。
ランが飛びつくように抱きついてきた。勢いがありすぎて、お互いの頭がぶつかって眼の奥で火花が散る。
痛みに呻きながら笑う。ランも痛いよー、と頭を両手で抑えながら笑っていた。
今度は手を伸ばして俺との距離を測り、ゆっくりと抱きついてきた。
「お兄ちゃん、とっても、大好き。あのね、やり方教えて?」
「まずは、キスするだけでいいから・・・。」
ランが手で俺の性器を掴んだ。頭を下げてついばむようにキスをする。
しばらくすると慣れたのか、舌を這わせ始めた。柔らかい感触に、反応する。
「ふふ、ぴくぴく、してるよ。」
ランが唇を這わせながら呟く。その唇の動きさえも、甘い快感だった。
ランの頬に手を当て、こちらを向かせる。ん、どうしたの?という顔。ランを誘導して、仰向けに寝かせる。
足の間に入り、割れ目に俺の性器をあてがった。ランが怯えた表情で俺に手を伸ばす。
入り口にあてがったまま上体をかぶせると、強く抱きしめられた。
「ラン、大丈夫か?」
「大丈夫だから・・・して・・・。」
少しずつ、腰を進める。窮屈な入り口に阻まれながら、ゆっくりと呑み込まれる。
ランの眉間に皺が寄る。腰の動きを止め、声をかけようと開いた口をキスで阻まれた。
「大丈夫、やめないで。お願い。」
痛みに耐えながら俺に微笑む。腰を更に進めた。抵抗を引き裂きながら、一番奥まで入った。
そこで動きを止め、口付ける。ランは目に涙を貯めながら、ふー、と息を吐いた。へへ、と笑う。
「笑っちゃうくらい、痛いね。」
「今日はこれで、終わろう。」
「やだ。最後まで、して。少し慣れてきたから大丈夫だよ。」
強がりだ。たぶん、激痛に耐えている。心がためらうが、ランの覚悟に応えるべきなのだろう。
できるだけ痛みを与えないようにと、ゆっくりと真っ直ぐに腰を前後に動かす。
動くたびに、んっ、んっとランの痛みに耐える声。少しでもまぎれるようにと強く抱きしめる。
ランも精一杯の力で抱きしめてきた。急激な快感。ランの中から抜き、白い腹に精を放つ。
「熱い、ね・・・。」
ランが微笑んだ瞬間、目に貯めていた涙が流れ落ちる。頬を撫でると、幸せそうにこすりつけてきた。
ランの体の始末を終え、ベッドに潜り込むと優しく抱きしめられた。
「ユイお姉ちゃんの分まで、頑張って、生きようね。」
ぽろり、とまた涙を流す。
「そんなに泣いていたら、ユイに笑われるぜ。」
そうだねー、とまたランは泣いた。
青い月光に照らされながら、声もなく涙を流すランは、とても美しかった。
光が流れ落ちるようなランの髪を撫でながら、ユイを思う。胸を締め付ける、この想い。
早く忘れるべきこの想いを、不思議と手放す気になれなかった。ランもきっとそうなのだろう。
2人で、同じ想いを抱えて生きて行く。俺達に与えられた、甘い痛みの罪と罰。
全ての責苦は俺が担う。どうか、ランが幸せになりますように。
俺の全ての幸いをかけて、何かに願った。
1954年2月21日05時20分 ベトナム 北部農村
私は、床に座るお兄ちゃんの背中に耳を押し当てていた。心臓が脈動する音。血液が流れる音。
筋肉が軋む音。呼吸の音。全てが全て、愛おしい。
「どうした?」
肉体越しに聞く声は、低く、くぐもって聞こえる。
「ううん。もう、行っちゃうんだなー、と思って。」
「・・・ディエンビエンフー。これが犬たちとの最後の戦いだ、って劉さんが言ってた。」
最後の戦い。お兄ちゃんの声の中に、名残惜しそうな響きを感じる。
劉さんと敵を「血に飢えた犬ども」なんて言っているけど、2人ともその犬に喜んで噛み付く犬じゃないか。
みんな、狂った闘犬だよ―なんて想いは胸の中にしまい、黙ってお兄ちゃんの体の音を聞く。
「なぁ、日本に、行こうか。」
ぽつり、とお兄ちゃんが呟く。
お父さんの遺志を継ぐ。そう言って始めたお兄ちゃんの復讐は、もう、終わる。
日本、か。お兄ちゃんは国に戻り、私は国を捨てる事になる。
「うん。行く。」
躊躇いなく答える。場所の問題ではない。お兄ちゃんの傍で生きる事だけが、重要なのだから。
私は手探りで、お兄ちゃんのあぐらの上に向かいあわせで座る。
唇を求めると、応えてくれた。手を取り、私の胸へ導く。
「ねぇ、しよ?」
「時間ねぇよ。」
無視して唇を合わせて、強引に貪る。舌を絡ませながら、アオザイの下衣ごと下着を脱ぐ。
お兄ちゃんの抵抗を押しのけて、ズボンのチャックを下げて大きくなっていた性器を露出させた。
口に咥えながら、自分の性器に手を伸ばし刺激を与える。
既に太ももを濡らすほど蜜を溢れさせていた。軽く指で触れるだけで、達しそうになった。
初めて口でしたときは歯を立てたなー、なんて思いながら、覚えた技巧を必死で駆使する。
快感が限界に来たのだろう。お兄ちゃんが私を押しのけようとしたが、抵抗し頭を離さなかった。
口の中で精を受ける。苦く、青臭さくて、体の奥底を熱く陶然とさせる味。
味わいながら飲み込み、口から零れた精液を指ですくって舐める。仰向けになって足を開いた。
「ふふ、時間ないんでしょ?早くぅ・・・!」
まるでかつての母のような淫らな声。どんな顔で私は誘っているのだろう。
お兄ちゃんがそっと、上に被さってきた。優しく、中に入ってくる。いつだって、この人は優しい。
もっと乱暴にしてくれてもいいのに。こんなにダメな私を、殴ったり、叩いたりしてもいいのに。
自分でも理解し難い罪悪感に責められながら、お兄ちゃんの与えてくれる甘い快楽に身をゆだねる。
「お兄ちゃん!もっと!もっとぉ!」
初めてお兄ちゃんに抱いてもらってから日も経っていないのに、自分でも怖くなるくらいの快感に溺れ、
体が勝手に暴れる。強く、抱きしめられて体の自由を奪われた。
体の隙間を満たされる感覚に満足しながら、更に快感を得ようと力の限り、腕と足を絡ませて体の奥底へ誘う。
弾けるように、麻痺にも似た絶頂が体を駆け巡る。強張っていた全身から、力が抜けた。
「あっ、はぁ、ああん・・・!」
絶え間なく絶頂に達し、呼吸さえできない苦しさに涙が溢れる。これ以上は、壊れる―
息も絶え絶えになった頃、中から抜かれ、下腹部に射精された。
気を失いかけながら、手を伸ばして精液を塗り広げる。ベタベタとした感触にまた、快感を覚えた。
下衣と下着を履かせてくれた後、お兄ちゃんが膝枕をしてくれた。
時間がないというのは嘘だったのかな、と思いながらも髪を撫でられ、うつらうつらと夢見心地。
気づけば戸外から村の人達が活動を始める音が聞こえた。もう、陽が登ったのか。
「そろそろ、行くよ。」
「・・・うん。」
私は渋々立ち上がる。背中から、優しく、強く抱きしめられた。
「なぁ、お兄ちゃん、じゃなくて、辰也、って呼んでくれないか?」
「えーと、タツヤ・・・。なんか、恥ずかしいなー。」
ははっ、とお兄ちゃんも笑った。
「じゃ、行ってくる。」
「行ってらっしゃーい。・・・えーと、タツヤ!」
いつものように、不安で泣きそうになるのを堪えながら、頑張って精一杯笑う。
歩み去る気配を感じながら、私はいつものように戸口から手を大きくぶんぶんと振った。
振った分だけ、弾丸がお兄ちゃんに当たらない、と変な願掛けをしながら。
手を振りながら、ユイお姉ちゃんにお願いする。
どうか、私の分の命で、お兄ちゃんが生き残りますように、と。
手がしびれても、肩の関節がギシギシと音が鳴り初めても、私は手を振り続けた。
1954年3月13日17時00分 ベトナム ディエンビエンフー
男は、これまで愛した者と、これから愛する者を想いながら、刀を抜いた。
男は、さしたる感慨もなくタバコに火をつけた。
男は、ペンダントの中の愛した家族の写真に口づけし、ナイフを抜いた。
ディエンビエンフーの戦いは、静かに、幕を開けた。
1954年5月8日02時57分 ベトナム ディエンビエンフー イザベル陣地
君、見たまえ。君の刀刃が写す月は、なんて美しく青い月なのだろうか。
これほどの月はモンテ・カッシーノでも、ノルマンディーでも見ることはできなかったよ。
陣地内のスピーカーから普段流している勇壮なドイツ軍歌よりも、「月光」を流させたのは英断だな。
まさしく、終焉に相応しい。
さぁ、手榴弾を虚空へ放とうか。君の頭上から幾千もの破片が降り注ぐぞ。
どうする?前に来るか後ろに下がるか横に逃げるか?・・・正解だ。
その場で死体を盾に伏せる度胸は見事だが、目の前に転がってきた手榴弾をどうする?
ほぉ、盾にした死体を手榴弾に被せて破片を避けたか。見事。
私にも生きていれば君と同じくらいの息子がいたよ。ピアノの上手な子だった。
大戦前は妻も私も音大の講師をしていてね。
息子も音楽の道に進んでもらいたかったのだが。まぁ、時代が悪かった。
生きて戦後を迎え、喜び勇んで家に帰ると、燃えカスになった家族とピアノが出迎えてくれたしな。
こういう時、信仰というのは実に不便だ。家族を追って自殺したくてもできないのだから。
仕方無しに、また兵隊になったよ。とびきりの地獄に放り込まれる部隊を選んでね。
しかし、生真面目な性格が災いしたな。職務に忠実すぎて、人ばかり殺して自分はなかなか死ねない。
ましてや、君の父君を殺した時はさすがに良心の呵責を感じたものだ。
だけどね、きっとあれは運命だったのだよ。
あの時震えていた少年が、「首切り鬼」の名で勇名を轟かすことになるとは、露ほどにも思わなかった。
今や君の名を聞けば、臆病者達が陣地を捨てて逃げ出すほどだ。
「ベルセルク」と「首切り鬼」。まったく、お似合いの二人だ。
お互いの一撃一撃に凄まじい快感を覚えるよ。おや、君も喜悦に歪んだいい顔をしているじゃないか。
ああ、気づけば私達は闘争の犬に成り下がっていたようだ。
我々の生への希求は強いが、死への渇望はそれよりもなお深い。
私は安住の死を求めて戦っている。自身の死か、他人の死かどちらか分からなくなっているがね。
君は何を求め戦う?復讐を為す甘美な魂の死か?愛する者を守る為の苦痛の生か?
しかし、歳だな。昔は不眠不休で戦えたのに、今はとても体が重いよ。
君の攻撃は的確で、非情で、とても、美しい。最後の悪あがきをしてみようか。
君の左手の銃に零距離で体を晒そう。そう、君は私の胴体部を撃つ。
私は膝を突きながら、君の大腿部へ銃を撃つ。君が倒れた所で、私がナイフで止めを刺す、はずだが・・・。
君は倒れなかったな。大した精神力だ。そうか、止めを刺されるのは私か。
長かった。この青い刃の向こうに、私の終りが見える。愛しい家族達よ。今、逢いに行く。
1954年5月8日09時23分 ベトナム ディエンビエンフー イザベル陣地
男は、一歩を踏み出す。激痛に耐えながら、愛しい者の待つ家へ。真っ直ぐ、前を見据えて。
男は、立ち尽くす。タバコの紫煙越しに、雨雲の隙間から見える青空と、差し込む光を見つめながら。
男は、微笑む。首から離れた自分の胴体と、胸に置かれたペンダントをその目に映して。
陣地の一番高い場所に掲げられていたフランス国旗が降ろされ、血と泥に汚れた新たな国旗が翻る。
ディエンビエンフーの戦いは、静かに、幕を閉じた。
1954年9月12日07時58分 香港 アバディーン・ハーバー
私は岸壁から客船を見上げた。朝陽が眩しい。乗客と積荷の積載が終わり、船が離岸する。
ステッキをついて右足をかばうタツヤと、それを支えるラン。その隣には鬼瓦のようないかつい老人。
実際、「鬼瓦、と呼びたまえ」と自己紹介されたが―。タツヤが祖父母に連絡を取ると、鬼瓦氏を寄越してきた。
色々国際情勢やら身分やらが気になっていたが、鬼瓦氏が旅券からパスポートまで皆の分を用意していた。
まったく、大した権力だ。
あの戦争の終局が見え出した頃、所属していた軍と国家に粛清の嵐が吹き荒れ始めた。
どう生き延びようか考えていた頃、タツヤから国を出るから一緒にどうだ、と誘われ九死に一生を得た。
「鬼瓦さん、どうもおおきにー!」
「頼んだぞ!鬼瓦商会香港支社長!我が商会の興亡は君の両肩にかかっているぞ!」
船内で何か礼をさせてくれと鬼瓦氏に話すと、我が商会で働かないかと誘われたので喜んで、と言ったら、
香港支社長に任命され結構な金を渡された。まぁ、金儲けは人殺しよりも得意だから、期待には応えようか。
「劉さん、お元気で!」
「劉さん、ありがとうー!またねー!」
二人は泣きそうな声で叫ぶ。今生の別れでもあるまいし。苦笑いと共に叫ぶ。
「色々ありがとー。ほな、またなー!」
ランが、ブンブンと私に向かって手を振る。見えないと分かっていても、私も小さく手を振った。
壊れた月のような男と、盲しいた太陽のような女。
色々と難儀するだろうが、きっと、幸せになるのだろう。
別れに微かな寂しさを感じ、似合わないと一人嗤う。船が向きを変え、彼らの姿が見えなくなった。
兵役を終えたらやめる、と誓っていたタバコに躊躇いなく火を着け一服。
あんなに不味い、と思っていた紫煙がひどく美味だった。
「んじゃ、恩返し、始めますかぁ。」
劉家の家訓、「恩も恨みも岩に刻め」だ。タツヤ達から受けた恩は子孫代々、義を以て返していこう。
私は、紫煙と共に悪名高き九龍城へ意気揚々と一歩を踏み出した。
1954年10月19日16時40分 日本
夕陽に照らされる庭園の金木犀の下で、私達は彼らを待っていた。
今年も金木犀は狂おしいほど咲きほこり、その香りを穏やかな風に乗せている。
「寒くないかい?千代?」
「大丈夫ですわ。誠。」
だが、誠は自分の上着を、車椅子に乗った私の膝にかけてくれた。温かな手が、風に乱れた私の髪を梳かす。
誠の顔を見る。穏やかな顔で、夕陽に赤く輝く金木犀の花を見つめていた。
苛烈な時代を生き抜いた証のように髪は白くなったが、優しい眼差しは少しも変わらない。
「あの子がこの家を飛び出したのも、この頃でしたね。誠。」
「そうだね、千代。早いものだ。」
この家の事業を継がず医者になると言って家を出たのも、突然結婚すると言って優しく聡明な女性を
連れてきたのも、虐げられる国の人達の力になると国外へ飛び出したのも、いつもこの時期だった。
私達はいつも、この金木犀の香りの下で出迎え、見送った。いくつもの季節を越え、また私達は待つ。
風とともに、鬼瓦さんに案内されながら2人が姿を表わした。
「あら、2人とも、あの子達にそっくりですわ。誠。」
「ああ、これは、驚いたな。千代。」
悲しい思い出でもあるあのステッキをつき、少し足を引きずって歩く姿は、あの子と瓜二つだった。
傍に寄り添い支える女性も、その妻の雰囲気と似ているような気がした。
髪を飾るかんざしの輝きを見て、不意に、涙が溢れる。
あの子達を失った悲しみと、あの子達が帰ってきた、という思いに。
誠が悲しげに微笑みながら、ハンカチで私の涙を拭いた。
「かわいい孫がお嫁さんを連れて帰ってきたんだ。さぁ、笑って出迎えようじゃないか。千代。」
「そうですわね。とても、幸せなこと。笑いましょう、誠。」
別れの悲しさと出会いの嬉しさに声を詰まらせながら、私達は笑顔で彼らを出迎える。
いつだって、この金木犀の下で出会いと別れがあった。
私は誠と出会い、あの子達と出会い別れ、今度は孫達と出会った。
次は、私達が彼らに別れを告げ、新たに彼らは自身の大事なものと出会うのだろう。
せめてその日まで、誠と共に彼らに安らぎを与えよう。静かに、誓った。
1957年9月20日17時05分 日本
残暑厳しい一日だったが、夕暮れには柔らかく心地良い風が吹く。
微かな金木犀の香りをランが嗅ぎつけ、誘われて共に夕焼けの庭園に出た。
「今年も、咲き始めたねー。」
ランは嬉しそうに笑う。祖父母が愛した花の香りを、ランも毎年楽しみにしていた。
祖父母が亡くなった時期も、ちょうど1年前のこの頃だった。
金木犀の花が咲く頃に祖母を看取った後、祖父も金木犀の花が散る頃、眠るように亡くなった。
まるで後を追うように。
伴侶との新たな旅立ちを予感させるような、優しい最後の微笑みを思い出す。
そういえば、凄惨な最後にも関わらず、父の最後も穏やかな顔つきだった。
愛する者と悔い無く生きた者達は、ああやって静かに終わりを迎えるのだろうか。
「ねぇねぇ、おばあちゃんから聞いた、おじいちゃんとの馴れ初めの話、聞きたい?」
聞いて聞いて、とばかりにランがじゃれつく。それを抑えつけ、金木犀の下で膝枕をしてやる。
「ああ、聞きたいな。」
「ある所に車椅子の寂しがりやのわがままお姫様と、戦に疲れた優しいナイトがおりました・・・。」
何故かお伽話風に脚色し、ランは嬉々と祖父母の話を始める。まるで見てきたかのように、粛々と。
ブラウンの瞳が、俺を写す。視覚を失った分、吸い込まれるような深く美しい眼差し。
傾いた夕陽が、俺達と金木犀の影を長く伸ばす。風が微かな甘い香りを運んでくる。
夕陽に赤く染まり笑うラン。月光に青く染まり泣きじゃくるラン。どちらも、同じランだ。
たまらなく愛おしくなり、目頭が熱くなる。そっと、髪を撫でた。
「で、ね・・・あ、そうだ、私、できたかもー。」
俺の気も知らずランは話し続ける。・・・今、何か言ったか?
「あ、私の話聞いてないー。もういいー。」
「ごめん、ラン、何ができた?」
「ひどーい!絶対教えない!」
そっぽを向かれた。俺はご機嫌取りに必死になる。不意をつかれ、ランに押し倒された。
甘い口づけ。恥ずかしげに、私達が一番欲しかったものだよ、とランは耳元で呟いた。
・・・そうか。赤い夕焼けに浮かぶ青い月を見上げながら、ランを抱きしめる。
俺達は生きた。俺は狂気の中。ランは暗闇の中。生と死が交錯する中。
これからも生きる。それぞれの想いを胸に秘めながら。出会いと別れを繰り返しながら。
父の横顔。母の後ろ姿。ユイの微笑み。劉の苦笑い。ドイツ兵の悲しげな目。鬼瓦の温かい眼差し。
祖父と祖母が手を取り合って、互いを見つめ合う姿。
全てと出会い、全てと別れる。そして、俺達にもいつか別れの日が来る。
ランの温かさが愛おしい。狂おしいほど、愛おしい。
この温かさと離れるとき、俺はどんな顔をしているのだろう。ランはどんな顔をしているのだろう。
「ねぇねぇ、お腹空いたー!」
「・・・今日は、外食に行こうか?」
「いいねー!」
朗らかに笑うランを立ち上がらせ、手を取り、歩き出す。
そうだな。俺達に辛気臭いのは似合わない。笑って、行こう。いつも。いつまでも。
俺達の背中を押すように、金木犀の風がそっと、吹き抜けた。