彼女が一緒に飲もうと言ってきた。  
 それに少し衝撃を覚えたのは、幼馴染みと酒を結びつけることがすぐにはできなかった  
せいだった。  
 幼馴染みとはいえ、俺は彼女のことをまだまだ知らないでいるのかもしれない。  
 
 
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 秋の寒空の下、俺は帰路に着いていた。  
 時刻は午後六時を回っている。辺りはすっかり暗くなっていて、光の少ない細道を一人で  
歩くのは少々心細かったりする。  
 今日はバイトも友達との約束もなく、部屋にまっすぐ帰るつもりだ。  
 華乃はもう先に戻っているだろうか。メールを送ったら「りょーかい」としか返ってこな  
かった。いないならいないとちゃんと連絡が来るので、もう帰り着いているとは思うが。  
今ごろは夕食の準備を進めているかもしれない。  
 冬直前の寒風が、身を震わせた。  
 こんな寒い日は、華乃の味噌汁であったまりたい。ああ、スープでもいい。シチュー  
だったら最高だ。  
 そういうことを考える度に、あいつと同棲しているという事を強く意識する。いや、これ  
ではむしろ新婚気分だ。一方的な。俺は途端に恥ずかしくなった。道端で一人身悶える  
様子はとても人に見せられるものじゃない。  
 馬鹿なことをやってないで早く帰ろう。俺は家路を急ぐ。  
 細道から商店街を抜けて、線路を渡る。あと五分ほどで着く。  
 こんな風に急いで戻るのも久しぶりだ。  
 ふと、昔を思い出した。  
 幼馴染みの少女とこんな暗がりをよく一緒に歩いた。それは学校からの帰りだったり、  
遠くまで遊びに行った帰りだったり、お遣いの帰りだったりした。  
 そんな風に常に一緒にいたのも、せいぜい小学校までだった。中学校に上がったら、  
部活や友人関係に変化が生じて、共有する時間はだいぶ減っていった。  
 一ヶ月前のことを思い出す。買い物をして、一緒に歩いた帰り道。  
 昔とは少し違う雰囲気ではあったが、やはりどこか懐かしかったと思う。  
 あの日は正直それどころではなかったが、今思うととてもいい時間だった。  
 またあんな時を過ごしたい。  
 そう思っているうちにマンションに到着した。  
 俺は入口を通り抜け奥まで進むと、105号室の扉を開けた。  
   
   
「おかえり〜」  
 華乃の明るい声がリビングに入った俺を迎えた。  
 ソファーにもたれるように深く座り込みながら、片手にはビール缶を持っている。俺は  
呆れた。  
「こんな寒い日にビールかよ」  
「暖房入れてるじゃん」  
「いや、それでも合わないだろ」  
「んー、ビールだけじゃないから」  
 テーブルには市販のカクテル缶がいくつも並んでいる。それを尻目に一旦部屋に戻った。  
バッグと脱いだコートを置き、楽な服に着替えた。それから手洗いうがいを済ませて(しないと  
華乃に注意をされる)またリビングに戻る。  
 華乃の向かいに座りながらテーブルを眺めやると、酒以外にもいくつかつまみが並んで  
いた。  
「買ってきたのか?」  
「涼二と一緒に飲もうと思って」  
「……今日は飲む気はなかったんだけどな」  
 そもそもこの部屋で飲むことはほとんどない。  
「でも、今日は何も用事はないんでしょ?」  
「そうだけど」  
「じゃあいいじゃない。飲もうよ」  
 ぐいっと手の中のビールを突き出す華乃。その顔には嬉しげな笑みがあり、実に楽し  
そうだ。  
「腹減ってるんだ。空きっ腹にアルコールはまずいだろ」  
「あ、ちゃんとごはんは作ってるよ」  
「じゃあ先に飯食う。そのあとなら飲んでもいい」  
「うん。持ってくるね」  
 華乃は立ち上がると、台所に行って準備を始めた。まだ酔ってはいないようだ。  
 やがてテーブルに温かい食事が並べられた。炊き込みご飯と魚のアラが入った味噌汁。  
刺身が綺麗に大皿に盛り付けられ、きゅうりの酢の物とオニオンサラダが脇を固める。  
 俺から見れば十分豪勢な料理に見えるのだが、  
「今日は飲みたかったから、メニューも少なめで」  
 華乃から見ればそうでもないらしい。俺は素直に礼を言った。  
「いつもどおりおいしそうだよ。いただきます」  
「はいどうぞ」  
 華乃も一応は箸を持っているが、特にお腹が空いているわけではないらしい。刺身に  
だけ手をつけている。酒に合いそうだ。  
 とりあえずは飲み気より食い気。俺は空腹を満たすために、箸を動かし始めた。  
   
   
 食事を一通り済ませると、華乃がにっこり笑って俺の前にチューハイの缶を置いた。  
「さあ飲もう!」  
「元気だな……」  
 すでに五本の缶を空けている。こいつ、結構飲めるクチだったのか。  
 そして気づく。考えてみれば、華乃と飲むのは初めてだ。  
「涼二がお酒飲めるのは知ってるけど、どういう風に飲むのか、どのくらい飲めるのかは  
知らないからね。楽しみなんだよ」  
「……」  
 そのお酒のせいで、こいつは俺からひどい目に遭わされているはずなんだが。  
 華乃はあまりひどいと思っていないようだが、こっちはちょっと気まずい。  
 かといって断るのも難しい気がする。もう目の前に用意は整っていて、あとは飲むだけ。  
 まあできるだけセーブして付き合うか。俺はフタを開け、少量口に含むように飲んだ。  
 ん、  
「……これ、結構いけるな」  
 飲みやすい。缶チューハイは最近飲んだことがなかったが、これは口当たりがすっきり  
していて、軽く飲むには最適だった。  
「そう? 私は好きだけど、男の人には合わないんじゃないかと思ってた」  
「俺、結構カクテルとか頼む方だぞ」  
「え!? 日本酒とか焼酎飲むのかと思ってた」  
「いや、飲むけどさ」  
 そればかりだと楽しくないだろう。いろんな種類があるんだから、試さないと損だ。  
「……あー、涼二ってあまりこだわらないタイプ?」  
「特にはないな。店に飲みに行くときは、最初日本酒や焼酎飲んで、後から軽いのを  
入れたり。まあ何でも飲む」  
 友人と飲むときは、大抵居酒屋だ。相手の家で飲むこともあるが、そのときは缶では  
なく瓶酒を買って飲むことが多い。  
 あと、焼酎をロックで飲むのが好きだったりする。  
「私はあまり焼酎とか飲まないなあ。なんかきついの。臭いのせいかな」  
「飲みやすい焼酎もあるぞ」  
「え、そうなの?」  
 女性向けに作られた、口当たりのすっきりしたものがある。  
「今度飲みに行こうよ」  
「そのうちな。……おい、ちょっとペース速くないか?」  
 六本目が空になった。華乃の手が七本目に伸びる。  
「涼二がノリ悪いんだよー。男なら一気飲みでしょ」  
 もう酔ってるのか?  
「今日はたしなむ程度でいいんだよ。それよりこの刺身が旨い」  
 鰤の刺身だ。まだ旬にはちょっと早いが、十分美味しい。いや、場所によってはもう食べ  
ごろなのだろうか。味噌汁もダシが効いていて、一口飲むだけで思わず息をつきたくなる  
ような、そんな深みがあった。  
 華乃はにっこり笑った。  
「それはねー、ハマチなんだけどね、すごく安かったの。魚屋さんに寄ったらまけてくれて」  
 この間から商店街に並ぶいろんな店に立ち寄っているようで、たぶんそこの魚屋だろう。  
養殖ものでも学生で鰤を買う奴はなかなかいないと思う。顔を覚えられているに違いない。  
「そこの主人って男?」  
「なにー? 急に」  
「いや、前にもサービスしてもらったような」  
 美人は得だ。加えてこいつは明るくて社交性もある。自覚があるかは知らんが。  
「もしかして、嫉妬?」  
「違う」  
「こら、即答するな!」  
「どう答えりゃいいんだよ」  
 酔っ払いめ。俺は席を立つと、冷蔵庫から烏龍茶を取り出した。これでも飲んで酔いを  
醒ましてほしい。  
 
 幸い、華乃は素直に飲んでくれた。  
「しばらくそれ飲んどけ」  
「じゃあおつまみ食べる」  
「それでいい」  
 ここ最近俺のほうが世話焼きになっている気がする。  
 華乃は袋に手を突っ込んで、ビスケットを数枚つかみ、口に放り込んだ。ばりぼりと  
食べる様子はとても男らしい。俺じゃなかったら、百年の恋も冷める光景だ。  
 よく見たら、そのビスケットには見覚えがあった。  
「それ、このあいだ買ったやつか?」  
 アルファベット型のビスケットだ。小さいころ、二人で仲良く食べていた。ここ数年見なく  
なったと思っていたが、復刻したらしい。  
「これ買ったの思い出してさ、それで今日飲もうかなって思ったの」  
「……いや、なんでそうなる」  
 お菓子を見たら飲むのか、お前は。  
「シャンパンにケーキとか合うじゃない。お酒には比較的合うよ、お菓子は」  
「……」  
 まずシャンパンを飲んだことがないというのはさておき。  
 スナック菓子なら合うように思うが、甘い菓子はどうにも抵抗がある。しかし今飲んで  
いるチューハイはどちらかというとジュースに近いので、意外と合うかもしれない。  
 試しに一つ食べてみた。  
 口の中に甘さが広がる。まぶしたごまの風味に交じるわずかな塩気。  
 ……悪くない。  
 チューハイを飲む。軽くあおってからもう一枚食べてみる。  
「合うでしょ?」  
 華乃の笑顔がおもしろくない。だがまあ、  
「まあまあだな」  
「素直に合うって言えばいいのに」  
「思い出補正かもしれないじゃないか」  
 昔好きだった味が採点を甘くしている可能性はある。俺はアルファベット型のビスケットを  
もう一枚つまんだ。  
「こんな食べ方はしなかったけどな」  
「まあねー。昔はお酒なんて気持ち悪い液体でしかなかったのにねー」  
 そう言いながら烏龍茶を飲み干すと、華乃はテーブルの上にティッシュを広げた。袋の  
中から一枚ずつビスケットを取り出して、ティッシュの上に丁寧に並べ始めた。  
「なにやってるんだよ」  
「アルファベットの定番をね」  
 うきうきと楽しそうに華乃は袋を探る。  
 こういう規則的に形の違うお菓子は、つい全種類確認してみたくなるものだ。このビス  
ケットも果たしてアルファベット26文字がすべて揃っているのか。子供のころも同じことを  
やった覚えがあるが、全部揃ったかどうか、記憶からは抜け落ちている。  
 しばらく華乃は文字並べに熱中した。  
 俺もやってみようか。そんな思いに駆られたが、しかし華乃が袋を独占しているので  
やめた。邪魔はしないでおこう。俺はビスケットをあきらめて、隅に放置されたチップスを  
代わりに食べた。  
 
 数分後、華乃が歓声を上げた。  
 見ると、きれいにビスケットが並んでいる。一列5枚で並んでいて、その数は……27枚。  
 ん?  
「『&』が入ってるとは思わなかったよー。ちゃんと全部揃ってたし、細かいね。これに  
小文字まで入ってたら完璧だね!」  
「見分けがつかない文字があるだろ」  
「あ、そっか」  
 明るい性質は変わらないものの、ちょっと頭の回転が鈍くなってるような気がする。  
 しかし、これはこれでなかなか。  
「楽しそうだね、涼二っ」  
 それはお前だ。  
 酒は場の空気を緩くしたり、騒がしくしたり、ときに混乱させたりする。今回は楽しい  
雰囲気を生み出していて、俺はそれに浸るとともにほっとした。華乃が騒ぐせいか、  
冷静になろうとする意識が働いている。  
 前の反省もあった。もうああいう事態は起こしたくない。  
「涼二、こっち向いてー」  
 華乃の声に顔を上げると、目の前に『L』の文字が。  
「はい、あーん」  
「……」  
「あーん」  
「……普通によこせ」  
「ダーメ。はい、あーん」  
「……」  
 まったく。  
 しぶしぶビスケットを口で受け取る。さくっという音とともに、甘味が口の中に広がった。  
 華乃はにっこり笑うともう一枚手に取る。  
「はい、もう一枚」  
 ため息が洩れる。  
「暇なのか?」  
「え? どうして?」  
「お前の行動に必然性が感じられないから」  
「涼二がつまらなそうにしてるから、盛り上げてやろうかと」  
 二人しかいないのに盛り上げてどうする。  
「二人で飲むときはこんなものじゃないか?」  
「でも涼二つまらなくない?」  
「いや」  
 そんなことはない。  
 俺はチューハイを飲み干すと、二本目を手にした。絵柄から察するにマスカット割りだ。  
舌で転がすように軽く味を確認する。うん、これも悪くない。  
「こういうゆったりした雰囲気は好きだから、普通に楽しんでるよ。市販の缶チューハイは  
あまり飲む機会ないし、おもしろい」  
「……本当に?」  
「ああ。ていうかさっきお前『楽しそう』って言ったくせに、なんでそんなこと言うんだよ」  
「涼二の反応が悪かったから心配になったの!」  
 ノリが悪くてすまん。  
 
「……この前のことは気にしなくていいんだからね」  
 ぽつりと、華乃がつぶやいた。  
「……は?」  
 俺はぎくりとする。  
 一瞬、心を読まれたのかと動揺した。  
 華乃は烏龍茶の入ったコップを両手で抱えたまま、小さな声で続けた。  
「涼二、お酒好きでしょ?」  
「……それなりに」  
「でも、この前のことがあってから、全然飲みに行かないじゃない。部屋でも飲まないし、  
ずっと引きずってるんじゃないの?」  
「いや、俺はそんなつもりは」  
「遠慮ばかりしてたら楽しくないよ。私も嬉しくない。変な気の遣い方はしないでほしいな。  
私だって涼二にはいっぱい迷惑かけてるし、でもそういうのを許せない間柄じゃないでしょ?  
私たちは」  
 そのときの華乃の顔は、いつもの聡明な幼馴染みの顔だった。酒のせいか少し赤くは  
なっていたが、その口ぶりは俺のよく知る、彼女のかっこいいそれだった。  
 こいつは、本当によくできたやつだと思う。  
 俺のことをすべて理解しているわけじゃない。そして俺も、こいつのすべてをわかって  
いるわけではない。阿吽の呼吸とよく言うが、人の思いはそんなに易くない。  
 それでもこいつは俺を理解しようとしてくれる。  
 15年近くそばにいながら、まだこいつは俺を知ろうと、わかろうとしてくれるんだ。  
 それって、すごく嬉しいことじゃないか。  
「酒のことを酒で流すって、結構無茶じゃないか?」  
「私は洒落た趣向だと思うけど」  
「まあ、あまり呑まれないようにとは思ってる。でもこう見えて楽しんでるぞ、ちゃんと」  
「……ならよかった」  
 華乃はほっと胸を撫で下ろした。  
 そのまま生ビールに手を伸ばす。  
「飲むのかよ」  
「飲まなきゃ楽しくないじゃない」  
「悪酔いするなよ」  
「もう酔ってます!」  
「……大丈夫そうだな」  
 自分で酔ってると宣言するくらいなら大丈夫だと思う。  
「まあいいか。楽しく飲めたらそれが一番だしな」  
「うんっ、涼二もいっぱい飲んでね!」  
 そういうわけにはいかないんだけどなあ。  
 俺は苦笑しながらマスカット割りの味を楽しんだ。  
 
   
 飲み始めて二時間が過ぎた。  
 だいぶアルコールが体に回ってきた気がするが、まだ理性は保っている。  
 全身が温まっている。柔らかい毛布に包まれているような気持ちよさが少しだけ眠気を  
誘った。  
 華乃はすやすやと隣で寝息を立てている。  
 いつのまにか対面から移動して、並んで酒を飲んでいた。10本目を空けた辺りから  
一気にペースダウンして、今は俺の左腕に抱きつくようにして眠っていた。  
 セーター越しに感じる胸の感触が心地好い。  
 とはいえ、このままほうっておくと風邪をひいてしまうかもしれない。俺は華乃の肩を  
つかんで揺すった。  
「起きろ、華乃。寝るならちゃんと部屋に戻れ」  
「……んん」  
 華乃は微かにうめくと、ぼんやりと目を開けた。  
「あ、りょーじ」  
「ほら、立てるか?」  
「んー」  
 華乃はしばらく俺の腕にすがりつくようにして動かなかったが、やがて少しずつ目が  
覚めてきたのか、のろのろと立ち上がった。  
 若干ふらついている。一人で戻れそうにないので、俺は華乃の腋の下に腕を通し、  
正面から抱きかかえるようにして持ち上げた。  
「ふえ?」  
 さすがに驚いたのか、華乃は目を丸くした。しかし抵抗はなく、俺の首に腕を回して  
くる。俺はそのまましっかり抱きかかえて部屋まで運んだ。思ったよりも軽く、いつまでも  
抱いていたいとさえ思った。  
 そっとベッドに座らせてやると、華乃は満面の笑みを浮かべた。  
「ありがとー」  
「どういたしまして。……華乃?」  
 離れようとして、首に回された腕がそれを阻む。  
 華乃は笑顔のまま俺の体を引き寄せた。  
「うわっ……」  
 急な動きに対応できず、俺は華乃もろともベッドに倒れこんだ。  
 押し倒すような形になったため慌てて身を引こうとしたが、華乃に抱きしめられてうまく  
いかない。  
 すぐ目の前に、華乃の緩んだ顔がある。  
 とても嬉しそうな様子で、俺は華乃がまだ酔っていることを悟った。  
「……華乃、離してくれないか?」  
「だめー」  
「離してくれないと寝れないんだが、俺」  
「いっしょに寝ればいいよ」  
「……」  
 まったく。  
 
「今すぐ寝るわけじゃない。俺はまだしばらく起きていたいんだ」  
「んー……何かすることあるの?」  
「いや、特にはないけど」  
 まだ九時前で、寝るには早いだけだ。  
 それを聞いて華乃はさらに笑みを深めた。  
「じゃあさ、しよ?」  
 反対に俺の表情は強張る。  
 今この状況で、そんなことを言うこいつは完全に酔っ払っている。  
 確かにこの一ヶ月間、俺と華乃はそういう関係を持ってきた。  
 それは俺にとって、複雑な思いではあったものの、のめりこみそうなほど甘美なもの  
だった。  
 しかしそれは相手が正常なときに限っての話で、正直今は遠慮したい。  
「やめとけ。お前、今日は飲みすぎだ。明日に響くぞ」  
「明日は休みだもん」  
「俺が、そういう気分じゃないんだ。明日になったらいくらでも相手になるから、今日は  
とにかく休め」  
「……わかった」  
 案外あっさり華乃は引いた。  
 ベッドの上に寝かせて布団をかけてやる。おとなしく言うことを聞いてくれるので扱い  
やすいが、おとなしすぎる気がしないでもない。こいつが酔った姿なんて初めて見るから、  
どう対応すればいいかもわからなかった。  
「ねえ涼二」  
 不意に華乃が名を呼んだ。  
「あのね、お願いがあるの」  
「……なんだ?」  
 そのときの華乃は微かに不安げな様子だった。  
 その憂えるような顔を、俺はこれまでにも何度か見ていた。何かにおびえるような、弱々  
しい顔。  
 普段の快活な彼女にはありえない、はかなくも見えるその姿は、前から気になっていた。  
 もちろん華乃にも悩みくらいあるだろうし、常に明るくいられるわけじゃない。しかし、華乃が  
俺の前でそういう姿を見せるのは、何か意味があるのではないかと思えるのだ。  
 それを真正面から訊くのは、これまで少々はばかられた。でも、酒の入った今なら答えて  
くれそうな気がする。  
 華乃はおずおずと、遠慮がちに言った。  
「あの、さっきみたいに、ぎゅってしてほしい」  
「……そんなことしてないぞ」  
 持ち上げて運びはしたが。  
「少しの間でいいの。ダメ、かな?」  
「……」  
 俺は黙って華乃の上体を起こし、抱き寄せた。  
 柔らかく、温かい。この感触は何度だろうと飽きはしない。  
 胸が高鳴る。この想いを外に出さないよう、俺は静かに目を閉じた。  
「ん……」  
 華乃の吐息が首筋に当たる。  
 腕は背中と頭に添えるだけだ。決して力は込めない。まるで子供をあやすように、俺は  
背中を、頭を、そっと撫でてやった。  
 華乃は安心したように、俺に身を預けてきた。  
 俺を抱きしめる力は、酒のせいもあってかそこまで強くはなかった。ただ、どこかほっと  
しているような安堵感を覚えていることは、体を通して伝わってきた。  
 こういう風に華乃が甘えるのは、本当に珍しいことだ。  
 そのことを嬉しく思うのは、こいつに悪いだろうか。  
 
 目を、開ける。  
「なあ、華乃」  
「ん……?」  
「何かに悩んでいるなら、何でも言ってくれよ。言えないことなら仕方ないけど、俺にできる  
ことなら力になるからさ」  
「……」  
 華乃は、寂しげに微笑んだ。  
 その顔に混じる微かな色が、俺の胸をざわつかせた。  
 その色を消してやりたいのに、彼女の微笑みがそれを拒絶しているようで。  
「優しいね、涼二は」  
 その言葉に、俺はなぜか隔絶感を覚える。  
「でも、大丈夫。こうして抱きしめてもらえるだけで私は安心できるから」  
「……こんなことくらい」  
「大丈夫だから」  
 華乃はそっと顔を持ち上げると、微笑とともに唇を寄せた。  
 彼女が俺に送るキスは、いつも優しく、温かい。  
 俺はそれを受けると、何もできなくなってしまう。いたわるような優しさに包まれるようで、  
安らぎとともにそれを受け取ることしかできない。  
 ただ、そのときはなぜか、受身になりたくないと思った。  
 たぶんその優しさが、どこか儚く見えたからだろう。  
 俺は華乃をしっかり抱きとめると、そのキスに正面から応えた。お互いが混ざり合う  
ように深い口付けは、依存し合っているようでもあった。  
 舌を出し絡めると、気持ちが高ぶってくる。俺は興奮を抑えるのに必死だった。華乃の  
ようにもっと優しくしたいと思うのに、それができているかわからない。そこまで気を回せ  
ない。これは経験の少なさもあるだろうか。こいつだって俺と似たり寄ったりのはずなのに。  
 少しは心に入り込めているだろうか。こいつの中に、俺はどのように存在しているの  
だろう。  
 唇を離しても、舌にはまだ余韻が残っていた。ひりひりしたしびれが、舌先から内側に  
伝播していくようだ。まるで酒のように。  
 自分も多少酔っているのかもしれない。  
「……」  
 華乃の目が俺の顔を捉える。不安定な今の心が読まれるんじゃないかと、つい目を  
逸らした。  
「……やっぱりいっしょに寝たいな」  
「……」  
 俺もできればそうしたい。  
 しかしこれ以上はダメだ。このまま何もなく終わるわけがないし、こんな状態でこいつを  
抱いても後悔するだけだろう。お互いに。  
 少し惜しい気はするが、俺は体を離した。代わりに手を握ってやる。  
「お前が眠るまでいてやるよ。そうすれば少しは不安もなくなるか?」  
 華乃は眉根を寄せた。眠たげにも見えるその顔で、  
「お母さんみたい」  
「それはこっちの台詞だ」  
「ふふ……、そう見える?」  
「毎日炊事洗濯掃除とやってくれるからな」  
「お母さんといけないことするの?」  
「やめろ、気色悪い」  
 手をつないだまま馬鹿な話を続けた。  
 
 その手は赤く色づいていて、血潮の熱を感じさせた。同時に柔らかく、しなやかな指  
先は銀細工のように繊細で綺麗だった。  
 これを握れるのは俺だけだ。誰にも触らせたくない。  
 このまま想いを吐露できればどれだけいいだろう。吐き出すことで人は楽になれる。  
苦痛のような一瞬を迎えた後、吹っ切れたようにすがすがしくなれる。  
 気を抜けば、すべてをさらけ出してしまいそうだ。しかし結局そこまで青臭くはなれな  
かった。それができるのは子供の自分で、今は心を制御しなければならない時分で  
ある。まああれだ。お酒を飲める歳になったのだから。  
 だからこのときも、俺は何も言わなかった。  
 心の中で何度も繰り返した言葉。それをまた浸るように内につぶやいた。  
 俺は、お前が、  
 
 
 
「好き……」  
 
 
 
 思わず、固まった。  
 華乃の口から発せられた、たった二文字の言葉。まったく同じことを考えていた俺は、  
一瞬心を読まれてしまったのかと、本気で焦った。思わず目を見開いて、幼馴染みを  
凝視してしまう。  
 しかし華乃は、俺の様子には気づいてないようだった。目を閉じて、世にも穏やかな  
表情で、静かな寝息を立てていた。  
「……」  
 しばらく動けなかった。  
 まだ心臓がドキドキしている。手のひらがじわりと濡れていくのがはっきりわかった。  
起こさないように慎重に華乃の白い手を外す。  
 幼馴染みは目覚めない。  
 今聞いた言葉は幻聴だったのだろうか。いや、そんなはずはない。まだそこまで酔っては  
いない。  
 誰に向かって発した言葉だったのだろう。  
 決まってる。好きなものに対してだ。食べ物とかそういうオチの可能性もないことは  
ないが、普通に考えるなら、好きな誰かに対してだろう。  
 俺は、その相手が誰か知らない。  
 華乃は教えてくれない。俺も無理には訊いていない。しかし、今初めて、その相手の  
ことを心底憎く思った。  
 こいつの心にその想いが根を張っている。夢の中に出るほどに。  
 俺はこいつの何なのだろう。  
 幼馴染み? セフレ? 単なるルームメイト?  
 それとも、家族?  
 最後のが一番当てはまる気がした。悪い意味で。それはつまり兄弟姉妹と同じような  
もので。  
 体さえつながっているのに、心がつながらない。  
 俺はむなしさを抱えながら部屋を後にした。  
 
   
 次の日、華乃は二日酔いで調子が悪そうだった。  
「ねえ涼二……昨日私、変なこと口走ってなかった?」  
 うつろな目で不安そうに尋ねてくる。俺は答えた。  
「うんにゃ。どっちかっつーと、態度の方がな」  
「?」  
「お前は酔うと甘えだす」  
「……甘えてた?」  
「かなり」  
「……」  
 個人的には役得というか、非常に嬉しかったのだが、やはり恥ずかしいのだろう。  
華乃は顔を真っ赤にしてうつむいている。  
「……やっぱり、変だった?」  
「いや、新鮮で面白かったぞ」  
「それ全然褒めてないから」  
 きっと睨まれる。二日酔いのせいでただでさえ目つきが悪いのに、さらに眉間にしわを  
寄せるから、文字通り鬼の形相だ。はっきり言って怖い。  
 しかし華乃はすぐに視線を外すと、はあ、とため息をついた。  
「もういい。夕べの私が馬鹿だったってことで」  
「いや、別に酒に酔うくらい、」  
「そういう意味じゃない」  
 じゃあどういう意味なのか。俺が問い掛けても、華乃は微塵も答えてくれなかった。  
 
 
 
 <続く>  
 
 

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