夜、一人で眠るのが怖い。  
 二十歳になってこんなことを言うのは変だろうか。  
 別に幽霊みたいな超常的なものを恐れているわけじゃない。悪夢を見るわけでもない。  
闇を恐れているわけでも、一人でいることが心細いわけでもない。  
 私が怖いのは、そういうことではなくて。  
 朝、起きたときが怖い。  
 たった一人で目覚めたとき、いつも不安になる。  
 彼がいなくなってしまったのではないかと。  
 
 
 
 目を覚ましたとき、私はぬくもりに包まれていた。  
 布団のそれではない。もう少しごつごつした感触が、微かな鼓動と熱を裸の私に伝えて  
くる。横向きの私の体を、同じように裸の体が抱きしめていた。  
 顔を上げると、見慣れた男の顔があった。  
 少しだけ開いた口から静かな寝息が聞こえる。穏やかに眠るその表情は、いつも不機嫌  
そうな幼馴染みの様子からは想像も出来ないほど優しく映る。  
 お互い、酒の匂いが残っていた。昨日はろくにお風呂にも入っていない。二日酔いはない  
けど、汗もかいていて体がべとべとしていた。  
 急に恥ずかしくなって、私は布団を抜け出そうとした。しかし彼の両腕が私の背中に回さ  
れていて、容易には動けない。無理に動くと起こしてしまう。布団から出るのはあきらめて、  
しばらく彼の顔を眺めることにした。  
 精悍な顔立ちといえばいいのか。昔のような幼さはもう残っていない。いつの頃からか、  
彼は大人の男になっていた。細面の顔が凛々しく映るのは身贔屓だろうか。  
 僅かに開いた口元に唇を寄せたくなる。  
 もちろんそんなことはしない。気持ちよさげに眠る彼の顔を曇らせたくなかったし、私は彼と  
そんな仲では、  
 あ、  
 いや、違う。  
 そうじゃなかった。私は夕べ、彼と、  
「…………」  
 顔が真っ赤になったと思う。昨日の彼の言葉を思い出して、私は身悶えた。  
『こいつの彼氏だよ』  
『幼馴染みで、恋人だ』  
『好きだよ。ずっと好きだった』  
 夢じゃないだろうか。  
 ずっと好きだった。小さい頃からずっと好きだった。  
 彼がいてくれたから、今の私はあるのだ。そのことを彼は知らないだろうけど。  
 私は飽きもせずに、恋人の顔を眺め続けた。  
 
   
 切れ長の目がゆっくりと開いた。  
 ぼんやりとした様子で、二、三度まばたきを繰り返して、焦点を合わせようとしている。  
 私は彼に微笑みかけた。  
「おはよう、涼二」  
 涼二の目に戸惑いの色が浮かんだ。それがなんだかおかしかった。  
 なんとなく、涼二が今何を思っているかはわかった。  
「夢じゃないよ」  
 目が見開かれた。  
「昨日のこともちゃんと現実だよ。あなたが言ってくれたこと、ちゃんと覚えてるもの」  
 涼二はしばらく固まったままでいた。  
 私はそれがますますおかしい。  
 さらに言葉を重ねようとした。  
「涼二は、」  
 そこで私は息を呑んだ。  
 いきなり抱き寄せられたのだ。  
 お互いに依然裸のままだから、当然直に肌が触れ合うことになる。いや、触れ合うなんて  
ものじゃなくて密着していた。胸が彼の体に押しつぶされて、少し苦しい。  
「ああ、夢じゃないな」  
 そんなとぼけたことを言う。  
「りょ、涼二!」  
「なんだ?」  
「は、はな、してよ」  
「いやだ」  
 一言で却下して、涼二は私の首筋に唇を寄せた。  
「ちょ、やだ、くすぐったい」  
「いい匂いがする」  
「やだ、昨日お風呂入ってないのに」  
 ああ、さっき彼を起こしてでもここから抜け出して、シャワーを浴びてくるんだった。なんで  
気を遣ったりしたんだろう。  
 鎖骨の辺りをそっと舐められた。  
「ひうっ」  
 背筋がぞくぞくした。ぴちゃぴちゃと音を立てられて、私はより恥ずかしさを覚えた。  
 そのまま彼の舌が顎を伝って、  
「ん――」  
 唇を奪われた瞬間、私はほっとした。元の位置に収まったような、安心感があった。多分  
それはこうして真正面から抱き合うことで、彼の存在をはっきりと確かめられるからだろう。  
 目を閉じて、彼とのつながりにただ意識を傾けた。  
 ベッドの上で、同じ布団に入りながら、裸で抱き合ってキスをしている。  
 そっと唇を開けて舌を差し出した。  
 えさを受け取る育ち盛りの雛のように、涼二がそれに食いついてきた。ざらついた感触に  
私は思わず身をすくめた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに馴染んでいった。  
 唾液の味は、味というほどのはっきりとした味覚は感じないのだけれど、とても甘い心地が  
した。同時に強く抱きしめられて、体温を直に感じられた。  
 恋人としての甘いキス。それが私にとってどれほど奇跡的なことか、彼はわかっているの  
だろうか。  
 そっと唇を離すと、彼はニヤニヤ笑っていた。  
「……何よ?」  
「お前、すごくいい顔してるぞ」  
 慌てて表情を引き締める。どんな顔をしてたのだろう。  
 
 私は彼を小さくにらむと、密着した胸の間に両腕を割り込ませた。そのまま突き放すように  
して空間を作り、ベッドを抜け出す。  
「どこ行くんだ?」  
「シャワー」  
 手で胸と下腹部を隠しながら、私は短く答えた。背中を向けるとおしりが丸見えだけど、  
まあ仕方ない。さっさと部屋を出よう。  
 ところが涼二もベッドを抜け出してついてきた。  
「俺も行く」  
「は?」  
 バスルームはトイレと別々のセパレートタイプだけど、二人で入るにはちょっと狭い。私は  
涼二をまじまじと見つめた。  
「急にどうしたの?」  
「何が」  
「さっきから涼二らしくない気がする」  
 積極的に求めてきたり、少しも恥ずかしがる様子がなかったり。今だって裸をさらしながら  
まるで隠す様子がない。こういうことにはうるさいと思っていたのだけど。  
「まさか偽者!」  
「失礼なこと言うな」  
「実は生き別れの双子と入れ替わって……」  
「何の話だ」  
 うん、ツッコミはいつもの涼二と変わらない。  
「……離れたくないんだよ」  
 ぼそぼそと小声で言った。  
 それは蚊の羽音ほどに小さい声だったけど、私は聞き逃さない。なんだかすごくおもしろい  
ことを聞いた。  
「もう一度言って」  
「……あー、その」  
 言いよどむ幼馴染みに、私は背を向けた。  
「じゃあ入ってくるから」  
「いや、待てよっ」  
「早く言いなさい」  
「……」  
 困り果てる涼二に、私は吹き出しそうになった。こういう隙を見せるところが涼二らしくて、  
とてもほっとした。  
 そして、次に涼二が何をするか、私にはなんとなく予測がついた。  
 涼二は困り果てると昔から――  
「はい抱きしめるの禁止」  
「え」  
 私は二つの迫りくる腕をすり抜けて、今度こそ部屋を出る。  
 後ろで呆然と立ちすくむ涼二に、私は言った。  
「一緒に入ろ?」  
 振り返り、目を丸くした幼馴染みの顔は、なかなか見ものだった。  
 
 
   
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 幼稚園からの付き合いだから、私と涼二の関係はかれこれ十五年に及ぶ。  
 出会ってまだ間もない頃、私は特に彼と親しいわけじゃなかった。ただ、家が近所だった  
から、近くの公園や駄菓子屋でよく遭遇した。  
 彼は行動力に欠ける子供だった。  
 木に登ったり、登った木から降りたり、そういうときに即決や即行をできないで出遅れて  
いた。  
 今でこそ違うけど、涼二はどちらかというと、臆病な子供だったのだ。  
 そんな彼が、私はあまり好きではなかった。  
 性格上の問題だろう、私は悩んだり迷ったりするのが嫌いだったから、うじうじしている  
彼によく苛立っていた。たまたま近くに住んでいたから一緒に遊んでいただけで、本当は  
彼のことを疎ましく、軽んじていたと思う。相手にしてあげているという傲慢な思いもあった。  
 それが決定的に変わったのはいつのことだっただろうか。  
 明確なきっかけがあったわけじゃなく、いろんなことの積み重ねが今の慕情につながって  
いる気がする。はっきりした出来事は、たぶんない。  
 あえて言うなら、その積み重ねのすべてがきっかけだ。  
 私は彼の様々な行動に、言動に、徐々に惹かれていったのだ。  
 たとえば小学一年の頃。私は町を流れる川に沿って、ひたすら上流に上っていったことが  
ある。  
 川が海につながっているのは知っていた。しかしどこから流れてくるか、一番最初の地点が  
どこにあるのかは知らなかった。それをつきとめたくて、彼を伴ってひたすら川沿いの道を  
歩いていった。  
 最初はわくわくしていた。知らない場所に行くことに妙な興奮を覚え、まるで物語の主人  
公になったような気がしていた。  
 冒険には仲間がつきもの。躊躇する涼二を、私は強引に引っ張っていった。仲間という  
より家来のように見ていたかもしれない。  
 歩きながら気づいたことは、川は綺麗ではないということだった。漫画やアニメで見る川は、  
美しい青色だったり、もっと底が透けるほどに澄んだ透明色だったりしていたけど、実際は  
底が見えるどころか泥が混ざったような、よどんだ色をしていた。  
 そのことに落胆しなかったと言えば嘘になる。でも私は上流に行けばもっと綺麗な流れに  
出会えると思い、ますますいきり立った。涼二も少しずつやる気になってきて、私たちは  
鼻息荒く、夢と希望を両腕に抱えて歩を進めた。  
 足取りが重くなり始めたのは、日が傾きかけてきた頃だった。  
 川沿いの道を進んでいれば何とかなると思っていたのだけれど、途中でその道が途切れた。  
正確には川沿いから逸れて、見知らぬ住宅街へと伸びていた。その中を進むことに抵抗が  
無かったわけではないけど、そのうちまた河岸の近くに出られると思って、未知の場所へと  
入っていった。  
 
 案の定、迷った。  
 できるだけ河岸の近くから離れないように心掛けていたけれど、私の意思に応じて道が  
変化するわけじゃない。進めば進むほど、自分がどこにいるのかわからなくなっていって、  
川のことなんかどんどん意識から抜け落ちていって、不安と恐怖で頭が真っ白になった。  
 とにかく戻らないと。そう思ってもどのような道を通ってきたのかわからない。記憶はあや  
ふやで、周りの建物はどれも覚えのないものばかり。なんとか元の場所に戻れないだろう  
かと、淡い期待を抱きながら、私は歩き続けることしかできなかった。  
 闇が刻一刻と濃度を高め始める頃になっても、私は迷路から脱出できないでいた。歩き  
疲れて、おなかも空いて、すっかり弱気になっていたときに、不意に私の手に何かが触れた。  
 びっくりして隣を見ると、幼馴染みの顔がすぐ近くにあった。  
 表情は若干硬かった。臆病な性格がそのまま表れているようで、決してこちらを勇気  
付けるような力強さは無かった。  
 なのに、私はひどくほっとした。  
 自分の都合で連れまわしておきながら、私は完全に涼二のことを忘れていた。だから  
彼の、いつもと変わらない気弱げな顔を見て、心底安心したのだ。一人じゃなかった、と。  
 涼二は、その頃はまだ同じくらいの背丈で、その体を甘えるように寄せてきた。  
 唐突に抱きしめられて、私は戸惑った。でもそのときは、夕暮れの風が肌寒かったから、  
暖かくて心地好かった。よりくっつきたくて、私も小さな体を抱きしめ返した。  
 涼二もきっと不安で、すがるものがほしかったんだと思う。それは私も同じだった。涼二が  
一緒で本当によかった。ひとりぼっちだったら、即断即行の信条もかなぐり捨てて、座り  
込んで泣き叫んでいたかもしれない。  
 私は涼二と手をつないで、元来た道を戻った。そこが果たして本当に元来た道だったのか  
よくわからなかったけど、無我夢中で歩を進めていくと、やがて見覚えのある曲がり角に辿り  
着いた。その角のすぐ横を、私たちの苦闘などそ知らぬ様子で、見慣れた川が穏やかに  
流れていた。  
 建物にさえぎられていた夕日が、川向こうの空に沈んでいくのが見えた。その薄い光を  
僅かに反射させて、泥交じりの水が輝いていた。  
 染み入るように、その光景は胸に残った。  
 私たちは重たい足を懸命に動かして、家へと戻った。帰り着いたときにはもう辺りは真っ  
暗で、二人とも両親にめちゃくちゃ怒られた。安堵のあまり泣きそうになったけど、でも涼二が  
泣いてなかったから、意地になって我慢した。  
 今となっては、いい思い出だ。  
 
 
   
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 冬にシャワーはちょっと堪える。  
 私たちは浴槽にお湯を張りながら、その横で体を洗った。お互い体にタオルを巻いて、  
大事なところは隠している。  
 室内が湯気に包まれる中、私は涼二に背中を向けるように言った。  
「俺としては洗われるより洗いたいんだけど」  
 そんなことを言う。起きてからなんだからしくないなあと思ってしまう。  
「いいからむこう向いて」  
 涼二は渋々といった様子で壁を向く。  
 スポンジに石鹸を泡立てて、背中をこすっていく。最初は力を込めずに優しく。左から  
右に縦に刻むように。次第に力を入れて、念入りに洗っていくと、涼二が吐息を洩らした。  
「気持ちいい?」  
「ああ。背中以外も頼む」  
「え?」  
 手の動きを止めると、涼二は続けた。  
「全身洗ってほしいな」  
「……本当、あなたらしくない気がする」  
 昔から知っているあなたは、私に甘えるような人じゃなかった。どこか遠慮があって、  
少し臆病なところもあったりして、私は少し壁を感じていた。  
 それが、そんなことを言うなんて。ちょっとおかしい。  
 私は右手、左手と順に洗っていく。泡にまみれていく彼は、マシュマロマンみたいに  
真っ白で、洗っている私は雪遊びをしているみたいで、なんだか楽しくなってくる。  
 ……マシュマロマンってなんだっけ。ゴーストバスターズだっけ。  
 まあいいけど。  
 膝をついて、太ももの付け根から脚も洗っていく。腰に巻いたタオルに覆われている  
部分はさすがに手をつけないけど。  
「そっちは洗ってくれないのか?」  
「やだ。そこまで面倒見切れないよ」  
 最後に頭をシャンプーで洗い、シャワーで泡を落としていく。白い塊がみるみるうちに  
流れていき、排水溝へと消えていく。それはちょうど、昔見た川の流れのように緩やか  
で、かつての光景が思い起こされた。あの頃もこんな風に、よく涼二の面倒を見ていた。  
面倒を見ていた、なんて。ずいぶんと思い上がった子供だけど。  
 懐かしさに浸っていると、涼二がさっぱりした様子で再び向き直った。  
「ありがとうな、華乃」  
「残りは自分でやってね」  
 涼二が石鹸を手に取る間、私は背を向けた。デリケートな部分を洗っている姿を見る  
のは少し恥ずかしい。  
 私も頭を洗おう。普段なら座るところだけど、二人だとそうもいかない。仕方なく立った  
ままシャンプーを手に取り、手のひらの上に広げてから濡らした髪に浸透させるように  
塗りこんでいき、  
「洗ってやろうか?」  
 不意に、別の手が割り込んできた。返事も聞かずに私の髪を撫でるように梳いていく。  
「涼二?」  
「いやか?」  
「……ううん、お願いします」  
 涼二は私の声を聞くや、手際よく指を動かしていく。傷まないように気遣っているのか、  
優しい手つきだった。  
「……もうちょっと、強く洗っていいよ」  
「そうか」  
 揉み込むように、先の方まで丁寧に洗っているのがわかる。見えないけど、彼の大きな  
手指の感触はどこまでも優しくて、安心する。  
 シャワーで綺麗に洗い流し、今度はリンスをつけていく。手つきがシャンプーのときと  
同じ要領だったので、慌てて注意した。地肌にまで馴染ませる必要はない。男の人は  
リンスをつけないのだろうか。  
 リンスを落とすと、涼二はシャワーを止めて浴槽に浸かった。  
 
 体を洗おうとして、刺すような視線が気になり、  
「あっち向いててくれる?」  
「恥ずかしいか?」  
「うーん、ちょっとね」  
「恋人なのに?」  
 その言葉にこそ恥ずかしくなって、私は口を無意味に開閉した。  
「顔真っ赤だぞ」  
「だ、だって」  
「……ほんと言うと、俺も結構恥ずかしい」  
 涼二は顔を背けてつぶやいた。私はその様子に少し呆れる。  
「言った方が照れてどうするの」  
「慣れてないんだから仕方ないだろ」  
「恋人とか、変に意識しなくていいんじゃないの?」  
 その方がぎくしゃくせずに済む。  
「……見たいのは本当だからな」  
「後で、いくらでも見れるじゃない」  
「何のために一緒に入ってると思うんだ」  
 そういうこと、力強く言われても。  
 私はため息をつくと、バスタオルに手を掛け、そっと外した。  
 白い湯気越しに、私の裸身が鏡に映っている。恐る恐る涼二を見やると、なんだか幽霊  
にでも出くわしたかのように、固まっていた。  
「そんなに見つめないで」  
「無理だ」  
 周りの熱気に負けないくらい、熱っぽい視線が私の体に突き刺さる。普段よりもずっと  
強い目力に、私は思わず体を引いた。  
 バスタオルを隅に置き、気を取り直して体を洗う。まずは左肩から。左腕。右肩。右腕。  
脇から胸、と行ったところで恥ずかしくなって手を止めた。  
「気になるよ」  
 さっきからちらちらと涼二が視線を送ってくるのが、どうにも気になって仕方がない。体を  
洗うところを見られるのが、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。  
「やっぱりあっち向いてて」  
「……しょうがないな」  
 涼二は渋々ながらも素直にむこうを向いてくれた。私はようやくほっと安心して、再び手を  
動かし始めた。  
 胸を下からすくい上げるように洗う。脇から乳房の下側にかけては、ちょっとむれやすい  
ので念入りにこする。そこからお腹に移って、そのまま脚へ。太ももからふくらはぎまで、  
表も裏も満遍なく泡まみれにした。背中と、最後にデリケートな部分を済ませて、私は浸る  
ようにシャワーを浴びた。  
「もういいよ」  
 呼びかけに応じて涼二がこちらに向き直った。私は耐えるようにその視線を受け止める。  
 涼二は意外そうに私の裸身を見つめた。  
「……なに?」  
「いや、てっきりバスタオルを巻き直すものだと思っていたから」  
 それも少し考えた。けど、もう体は洗い切ったし、別に見せても構わなかった。洗っている  
ところを見られるのはいやだけど、裸を見られることにそこまで抵抗はない。  
 それより、  
「私も裸になったんだから、涼二もタオル取ったら?」  
「……」  
 涼二は動かない。  
「りょ、う、じ」  
「わかってる。ちょっと待て」  
 涼二は苦虫を噛み潰したような顔で、腰からタオルを剥ぎ取った。大量のお湯を含んだ  
それを絞って、隅に置かれたバスタオルの上に放り投げる。  
 
「はい、これでお互い様だね」  
「お前、結構根に持つんだな」  
「そんなつもりはないよ。ただ、タオルを中に入れるのはルール違反じゃない?」  
「公共の場じゃないんだからカンベンしてくれ」  
 私はくすりと笑った。うん、やっぱりこういうのが私たちらしいやり取りだ。  
 私は膝を抱えて身を丸めた。狭い浴槽に大人二人はやはり窮屈だ。そのうち温泉旅行  
でもしてみたい。今はとりあえず我慢するけど。  
 涼二も脚をもてあましている。平均を若干なりとも上回っている涼二の体格では、一人  
でも狭いのではないだろうか。長い脚を私の脚の外側に伸ばしているものの、私と浴槽の  
狭い隙間に入れているだけなので、どうにも自由が利かないようだ。  
「やっぱり狭いよね」  
「まあ仕方ない」  
「横向きに並んで入るのはどうかな?」  
「どっちにしても狭いとは思うがな」  
 やってみると、こちらの方が狭く感じられた。涼二は肩幅も広くて、くっついてしまう。  
 腕と肩がお湯の中で触れ合って、私は落ち着かなくなった。離れた方がいいのだろうか。  
 しかし涼二は何も言わなかった。  
「ねえ」  
「ん?」  
「もう少しくっついてもいい?」  
「……別にいいけど」  
 私は嬉しくなって、彼の肩に頭を乗せた。もたれかかるようにくっつくと、涼二ははあ、と  
ため息をついた。さっきまではちょっと乱されていたけど、  
「やっと本来のペースに戻った気がするよ」  
「なんだそれ」  
「涼二を引っ張るのは私の役目だからね」  
 昔から、あなたは私の無理を聞いてくれたから。私のそばにいてくれたから。  
「不本意だ」  
「褒めてるんだけどなあ」  
「もっと嬉しくなるようなことを言ってくれよ」  
 苦笑いの彼に、私はにっこり微笑んだ。  
「涼二が好き」  
 苦笑いの顔が強張った。  
「あなたが好き。昔から好き。私のことをずっとそばで見てくれていたあなたが好き」  
「……」  
「嬉しくなった?」  
「……ノーコメント」  
 涼二はそっぽを向いて顔を合わせようとしない。  
 でもお湯の中で、そっと手を握ってくれた。  
 そこから涼二の想いが伝わってくるような気がして、私はしばし彼の肩にもたれかかった  
まま、ひっそりと目を閉じた。  
 耳の奥に涼二の鼓動が響いてくるような気がした。  
 
 
   
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 こんなこともあった。  
 たしかあれは私が十歳だから、小学五年のときだ。  
 まだ学年が上がって間もない頃、クラスでいじめが流行り出した。  
 あれは確かに「流行」だった。いじめられていた相手は、別に恨みを買っていたとかそう  
いう理由のようなものを持っていたわけじゃなかった。子供の間に起こるいじめなんてそんな  
ものだ。理由なんてない。なんとなく。いつのまにか。そんな空気が醸成されていって、  
それが当たり前になるのだ。あえていうなら「みんながしているから」という、そんなつたない  
共通意識がいじめを引き起こす。  
 いじめられていたのはクラスでも体の小さい子だった。気が弱く、おとなしい女子だった。  
 なかなか新しいクラスの輪の中に入れず、正直いじめられやすいタイプだったと思う。  
 ちょっとしたからかいから始まって、言葉の暴力がその子を苦しめた。殴ったり蹴ったり、  
そんなわかりやすい直接的な暴力はなかった。しかし言葉は、重いのだ。ときに人の命を  
奪うくらい、重いのだ。  
 その子は自殺なんてしなかったけど。でも、校舎の裏でよく泣いていたことを、私は知って  
いる。  
 最初はそのことに気づかなかった。私の中に「いじめ」という認識がなかったのだ。今日も  
からかわれっぱなしだな、としか思っていなかった。私はその輪に加わっていなかったけど、  
まるで反撃をしないその子に苛立ちを覚えてもいた。  
 私は、何か言われても言い返すことができたから。  
 それに、私は一人じゃなかった。私にはずっと涼二がいた。  
 けど、たまたま校舎の裏で泣いている彼女を見かけたとき、私はようやく気づいたのだ。  
 一人であることがどれほど恐ろしいことか。  
 私には涼二がいる。でも彼女にはいない。  
 それだけじゃない。新しいクラスといっても、四年も過ごしてきた学校内のこと。友達くらい  
いるだろう。前のクラスメイトがいるだろう。なのに一人ということは、かつての友達が敵に  
なったのかもしれないのだ。  
 もしも、ある日突然、涼二が私の敵になったら――  
 恐ろしいことだった。  
 それを考えると、もうそ知らぬ顔はできなくて、私はなんとかその子を助けたいと思った。  
 涼二に相談すると、彼は驚いた様子で言った。  
「華乃はすごいな。すごいし、えらいよ」  
 なんのことかわからなかった。訊くと涼二は、いじめのことには気づいていたのだという。  
しかしどうすればやめさせられるのかわからず、積極的に働きかける勇気が持てなかった  
のだそうだ。  
 そのことをばつが悪そうに告白して、涼二はでも、と続けた。  
「華乃は、俺とは違って行動に出られるんだもんな。すごいよ、本当に」  
 私は恥ずかしくなった。そもそもいじめという認識自体がなかったのに。でも涼二は、そう  
じゃなかった。私とは違って、きちんと問題を捉えていた。  
 私はすごくなんかないよ。涼二の方が私よりずっとえらいよ。  
 だから、  
「……私、もっと話し掛けてみる。あの子と話をして、少しずつでも、周りの空気を変えて  
いきたい」  
「それは、友達になるってことか?」  
「うん。そうできればいいかな」  
 私だって、自信があったわけじゃない。  
 でも、昔から行動するのは私の役目だったのだ。臆病な涼二を引っ張って、ときには  
無茶なこともした。そんな私を、涼二は認めてくれた。それが嬉しかった。  
 涼二が認めてくれるから、すごいと言ってくれるから、私はまっすぐ立っていられる。  
 
「俺もそうしてみるか。女子と話すのは難しそうだけど……」  
「いやいや私も女子なんだけど」  
「……そういえばそうだな」  
「ちょっと待って、なんで素で驚いてるの!?」  
 あなたがいつもそばにいてくれるから、私は勇気を持てるんだよ。  
 だから、あなたにそう言われたら、頑張らないわけにはいかないじゃない。  
 馬鹿話をしながら、私はありがとうと心の中でつぶやいた。  
 
 ……その後、私はその子と友達になった。  
 すぐにいじめがなくなったわけじゃないけど、私を通じて少しずつ他の友達も増えていった。  
 でも私は、義理や同情で仲良くなったわけじゃない。話していくにつれて、その子が私  
よりもずっとしっかりしていることを知った。  
 その子は、確かに気の弱い子だった。でも一度として学校を休んだりはしなかった。  
 逃げ場がなかったといえば、そうかもしれない。しかし彼女は確かに耐え切ったのだ。  
 流行り廃りは早いもの。新しい学期に入る頃には、もういじめなどどこにもなかった。  
 彼らにはいじめていたという感覚すらなかったかもしれない。彼女はそんな無責任な彼らを  
許し、そして溶け込んでいった。当時の私には、ちょっとできない真似だった。  
 その頃から、私自身も少しずつ変わっていったように思う。涼二は私のことを、気遣いの  
できる人間だと思っているみたいだけど、最初からそうだったわけじゃない。そういう風に  
動けるようになったのも、彼女の影響だ。いじめのことだって、本当は完全に敵対する気で  
いたのだから。彼女がそれを止めたから事が大きくならなかっただけで。  
 だから、その子は私にとって、今でも尊敬する友達だった。涼二とは別に、大切なことを  
教えてもらったように思う。高校から別々になってしまって、最近はなかなか会えないけど。  
 そういうこともあった。  
 それは多分に涼二のおかげだったと思う。涼二を通してその子を見つめ、涼二の言葉で  
友達になれた。私はそのことを、今でも感謝している。  
 そういうこともあって、  
 そういったいろいろを積み重ねて、少しずつ、少しずつ私は――。  
 
 
   
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 お風呂から上がるともう正午になろうとしていた。  
 食事当番はもちろん私。涼二はテーブルを片付けたり、お皿を用意したり。でも料理の  
手伝いはさせない。これまでにも何度か手伝おうかと涼二に言われたけど、私は断って  
いる。涼二と一緒に暮らす前に、約束したのだ。食事を作るのは私の仕事。おばさんにも  
ひそかに任されているし。  
 なにより、私は涼二のために料理をするのが好きなのだ。  
 茹であがったパスタを、軽く和風仕立てにする。涼二はカルボナーラが好きなんだけど、  
玉子がないので今回はこれで勘弁してもらおう。あとで買いに行かなくちゃ。玉子なしでも  
作ろうと思えば作れるけど。  
 小学校の時からの友達に習った料理の腕は、それなりのものであると自負している。  
大抵のものは作れるし、こうして人に食べさせることもできる。彼女は私の大切な友達で  
あると同時に、料理の先生でもあった。意外とスパルタだった。  
 刻んだ野菜を交ぜ合わせて、簡単なサラダも作っておく。ご飯とコンソメスープをつけて、  
とりあえず終わりだ。味見はパスタしかしてないけど、構わないだろう。  
 涼二は喜んでくれたし。  
 朝は何も食べてなかったから、というのもあるだろう。空腹は何物にも優る調味料。いつも  
より彼はよく食べた。米粒一つ残すことなく食べ尽くされて(こんな言い方が似合うくらい勢い  
のある食事だった)、その姿を眺めているだけでお腹いっぱいになりそうだった。  
 食後のお茶を淹れながら、私は涼二に提案した。  
「午後は出かけようよ」  
 幸い二日酔いもない。涼二の方も体調は問題なさそうだ。  
 しかし涼二はなぜか眉を寄せた。  
「何か用があるのか?」  
「んー、玉子がない。チーズもない。調味料はいいとして、できればお米も買っておきたい  
かな」  
「ん――そうか」  
 微妙な間。  
「どうしたの?」  
「いや……」  
 歯切れの悪い口ぶりに、私は突っ込んだ。  
「なーに?」  
「なんでもない」  
「何か都合が悪いことでもあるの?」  
「そういうわけじゃない、けど」  
 どうにも煮え切らない。こういうところは昔から変わってない。昨日みたいに啖呵を切る  
姿は、本当に珍しいことなのだ。それだけ彼に想われていたということなのかもしれない  
けど。  
 そんなことを考えていると、涼二に訝しげな目を向けられた。つい口元が緩んでしまった  
だろうか。はっとなった私は、慌てて表情を引き締める。失敗失敗。  
 
 ごまかすように、私は話をつないだ。  
「ほら、今日は晴れてるし、ちょっとしたお出かけ日和じゃない。せっかくお風呂にも入ったん  
だから、買い物ついでに街を歩いてもいいんじゃないかなーと思ってさ」  
 涼二は一つ、間を置くようにうつむいた。それから顔を上げ、  
「つまりデートか」  
 ……せっかく人がオブラートに包んであげていたのに。  
「はい、その通りっ。というわけでかわいい彼女とデートしなさい」  
「……了解した」  
 そんな返事をする彼氏だった。  
 私がひどいみたいじゃない。言わせてるみたいで。  
「あの、嫌なら別にいいんだけど」  
 すると涼二はぶんぶんと首を振った。  
「嫌なわけないだろ。家でゆっくりするものだと思っていたから、意外だっただけだ」  
 たぶん涼二の中では、昨日いろいろあったから今日は、という考えがあったのだろう。  
 正直に言うと、どこにも行かないで二人っきりで過ごすのも、魅力的ではあった。きっと  
それは涼二も同じ。  
 だけど、今日の私はそれだけじゃ我慢できない。  
 嬉しくて嬉しくて、たまらないんだから。  
 私はわざとらしく首を傾げてみせた。  
「……まさか涼二、昼間から性行為に及ぼうとしてたとか?」  
「なんでだよ! 昼間から性行為とか言うな」  
「失敬失敬。……昼間から繁殖行為に及ぼうとしてたの?」  
「なんで言い換えた! 全然失敬に思ってないだろ!」  
 ちゃんと避妊はしてるしね。ツッコミどころはそこじゃないか。  
 涼二とだったらそういうことしてもいいけど。  
「街を歩くっていっても、どこか行きたいところとかないのか? 時間はあるし、ついでに映画  
でも観てくるか?」  
「まあその辺りは適当でいいんじゃない? 外出自体急なものだし、あんまりかっちり決め  
ても楽しめない気がする」  
 そもそも昨日までは、こんな状況はまるで想定していなかった。ずっとイレギュラー続きだ。  
「ただ街を歩くだけでも、きっと楽しいと思うから」  
「この前も歩いただろ」  
 違うよ、と私は首を振る。  
 そう、この前とは全然違う。  
 私は照れ笑いを浮かべながら、彼氏に向かって言った。  
「今日は、二人が付き合って初めてのデートなんだから」  
 
 
   
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 どうして涼二だったのかな、と思うときもある。  
 私の傍にいたのが彼で、私が好きになったのが彼で、そのことは本当に幸運だったと思う。  
 でも、幼馴染みとして会わなかったら、と疑問を抱く時もあるのだ。  
 もしなんて意味がないとわかっている。だけど私はそこまで自分の想いに確信を持てない。  
 もし私が涼二と幼馴染としてじゃなく、別の形で会っていたとしたら。  
 それでも私は彼を好きになっていただろうか。  
 私は涼二を好きになったのか。それとも、幼馴染みだから好きになったのか。  
 自分のことなのにわからない。きっと割り切るのが一番なんだろうけど、一度悩んだらもう  
不安の渦は広がっていくばかりで、私はずっと引っかかったまま高校時代を過ごしていた。  
 中学の頃は悩まなかった。あまり自分の気持ちの深いところに、触れようとしていなかった  
ために、そこまで思い悩むことはなかった。どちらかというと涼二とどう接していけばいいのか  
わからずに、気持ちを持て余していた時期である。  
 高校時代は、ある程度自分の気持ちを把握していたから、涼二とも自然に触れ合うことが  
できた。しかしそれは表面だけで、裏ではずっと悩んでいた。  
 吹っ切れたのは、進路相談をしてからだ。  
 私は将来についてあまり考えていなかった。なんとなく、涼二の隣にいられたらいいな、と  
しか思っていなかった。  
 志望校欄に、涼二と同じ大学名を書いてしまう自分がいた。  
 このままでは駄目だ。私は真剣に考えた。人生の選択まで、涼二に理由を求めるなんて、  
それは間違っている。涼二だって、こんなの望んではいないはずだ。  
 彼は私を「かっこいい」と言ってくれたのだ。  
 ならばそれを嘘にさせるわけにはいかない。  
 ……よくよく考えてみれば、これも涼二を理由にしているわけで、つくづく当時の私は融通が  
利かなかったと思う。  
 やりたいことはなかなか見つからなかった。  
 自分がつまらない人間に思えた。差異はあれど、周りはきちんと将来を考えて進路を決めて  
いるというのに、私だけ何もない。お前は所詮こんなものだと、周囲に言われているような気が  
した。  
 三者面談があって、いまだ指針を持たなかった私は話し合った結果、とりあえず進学という  
実に無難な答えを、担任に提示するしかなかった。  
 
 帰り道、母が言った。  
「華乃は、涼二君と同じ大学に行きたいの?」  
 思わず立ち止まってしまった。  
 家までまだ五百メートルはあった。周りには誰もおらず、車もめったに通らない細い路地が、  
まっすぐ続いていた。  
 家に着くまで、まだしばらくあった。  
「……どうして?」  
 なぜそんなことを訊くのか。  
 動揺が声に出ていないか、心配になった。母は小さく笑い、  
「華乃のやりたいことって、具体的には何も決まってないでしょ? そうなると、もう積極的な  
動機はそれしかないじゃない。好きな人の傍にいたい、って」  
「……でも、それは」  
 よくないと思う。恋心だけで生きていくことはできないし、そんな風に彼に寄りかかる理由を  
作ってしまうのもよくない。  
 私は私。私はどうしたい?  
「そんなの後から考えてもいいと思うけどね」  
 私の悩みなどまるで意に介さない口調で母が言う。  
「本当にしたいことはないの?」  
「……私は」  
 私らしくありたい。でも、具体的な何かは思いつかない。  
「じゃあ、涼二君に相談してみたら?」  
 その言葉に私は目を丸くした。  
「ど、どうして?」  
 母は肩をすくめて、  
「一人で考え込んで行き詰まったのなら、誰かに相談するのが一番じゃない。涼二君なら  
聞いてくれるでしょ」  
「でも」  
「ついでにあの子の相談にも乗ってあげなさい。それならいいでしょ?」  
 相談。  
 涼二も悩んでいるのだろうか。簡単に志望校を決めたように思っていたけど、違うのか。  
 たぶん母は、涼二のお母さんから何か聞いているのだろうけど。  
 どうにも思考がまとまらなくて、いろいろ考え込んでいるうちに家に着いた。  
 家の前に誰かが立っていた。  
「涼二」  
 制服姿だった。帰ってきて間もないのだろう。幼馴染みは私の姿を見ると、あまり愛想の  
よくない表情を微かに緩めた。この微妙な変化がわかるのは、たぶんクラスでは私だけだ。  
「華乃。よかった。ちょっと相談に乗ってくれないか?」  
 開口一番、涼二はそんなことを言った。  
 ……テレパス?  
 
 
   
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 陽光がシャワーのように降り注いで、外はいい天気だった。体全体が洗われてリフレッシュ  
した気分になる。  
「シャワー浴びたからな」  
 とは涼二の台詞。  
 電車に乗って市街地へと向かった。大学とは逆方向で、駅が近づくにつれて人の数も  
どんどん増えていく。  
 到着して繁華街に下ると、人の波はピークに達した。昼下がりはにぎやかで騒々しく、  
とてものんびり歩けそうにない。涼二は人ごみを睥睨して、小さくため息をついた。  
「デート中にため息はNGだぞ」  
 私は隣の幼馴染みの顔に、ずいっと人差し指を突きつけた。涼二はぎょっとした様子で、  
「え、俺、ため息ついたか?」  
 自覚なしですか。  
「これは、退屈させないように、頑張る必要が、あるね」  
「いや、退屈なんて、思ってない。ただ、」  
 半身になって人をよける。私もそれにならって、涼二にくっつくようにして人をかわす。  
「……これは、少しばかりしんどいだろ」  
 言葉が途切れがちになるのは、声が喧騒にまぎれたり、歩みが止まったりするためだ。  
ウィンドウショッピングとはとてもいかなくて、正直辟易した。  
 どこか店に入った方が落ち着けそうだ。私は涼二の、  
 手をつかまれた。  
 涼二の大きな手が急に伸びてきて、私の左手をしっかりと握った。  
 足を止めそうになって、しかしそのまま軽く引っ張られた。少しつまずきながらも、私は  
彼の歩についていく。  
「はぐれないようにしないとな」  
「あ、うん」  
 呆けたような返事しか返せなかったのは、私の未熟ゆえかもしれない。  
 今日はこういう場面が多かった。私が取るよりも先に、主導権を握られて戸惑ってしまう。  
 かつて彼が相談にやってきた日もそうだったように思う。  
 私が彼を引っ張っているようで、その実、彼に引っ張られているのだ。それはもしかすると、  
本当にテレパスなのかもしれない。  
 幼馴染みだから。  
「なんか、くやしいな」  
 彼の言うとおりになってしまったみたいだ。十五年の間に、いつのまにか並ばれてしまった。  
 昔は家来扱いしてたのに。  
「何がだ?」  
 つぶやきに反応して、涼二が振り向いた。前向いて、と私は注意する。  
「涼二の手はあったかいなあって」  
「お前の手は冷たいな」  
「手が冷たい人は心が温かいのだー」  
「それは手が温かいやつは心が冷たいという証明にはならないな」  
「逆・裏・対偶?」  
「引っ掛け問題だろ」  
 引っ掛けるつもりはないけど。  
 むしろ引っ掛かったのは私の方だ。幼馴染みの網に絡め取られて、掬われて。  
 心地良くもくやしい矛盾した気持ちに、私はため息をつきたくなった。まったくもう。  
 
 私たちは人の波に呑まれないように、道の端に寄った。銀行の大きなガラスが私たちの  
姿を綺麗に映している。そのまま建物沿いに歩いて、脇の小道に入った。  
 本通ではないせいか、そちらは人も少ない。道の幅は三メートルもなかった。  
 立ち止まって少し足を休める。つないだ手はそのままで、私は彼の体温を感じ取りながら  
虚空に向かって真っ白な息を吐き出した。冷たい空気の先に見える空は、青いというより  
光の加減で白っぽかった。  
 こういう綺麗な天気の下で、仲良く歩くのもいいのだけど。  
「……なんだか飲みたくなってきた」  
「どんな衝動だよ」  
 即座に突っ込まれた。  
 まあ花の女子大生が昼間から吐く台詞じゃないとは思う。でも言葉に出してみたら、案外  
悪くない提案に思えた。  
 昼間から飲んでもいいじゃない。特に行き先も決めていないのだから。  
「ね、昼間からお酒飲めるところ知らない? 私行ってみたい」  
「昨日飲んだのにまだ飲むのか」  
「別に意識喪失とか前後不覚になるほど飲んだわけじゃないもの。大丈夫大丈夫」  
 涼二とは前に、一緒に飲みに行く約束をしたことがある。いつ約束したのか、よく覚えて  
いないけど、今からそれを果たしてもらおう。私は涼二の手を軽く引いた。  
「この辺りの店は、ほとんど夜からだ。今はまだ早すぎる」  
「ないの?」  
「いや、あるけどさ。もっと他に行くべきところがあるだろ」  
「たとえば?」  
「映画観に行ったり、遊園地に行ったり」  
「うわ、ベタすぎ」  
「悪かったな」  
 私は涼二と一緒ならどこでもよかった。きっと楽しいはずだ。  
 涼二は携帯でどこかに電話を掛け始めた。いくらか言葉を交わして何かを確認する。  
 しばらくして電話を切ると、よし、と一つ頷いた。  
「知り合いの店が特別に開けてくれるってさ。ちょっと準備するから一時間くらい待って  
ほしいそうだけど」  
「そこにはよく行くの?」  
 そう、それは重要だ。私はただお酒を飲みたいわけじゃなくて、涼二の薦めるお店に  
行きたいのだから。  
「前にバイトしたことがあるんだよ」  
 携帯をポケットにしまいながら、涼二は答えた。  
「じゃあ、今のはそのお店の?」  
「少しの間だったけど、よくしてもらったからな。たまに顔出すんだ。そこでいいか?」  
「うん。でもちょっと待たなきゃならないんだよね。それじゃあさ」  
 私は涼二の手を今度こそ引いて、本通に戻ろうとした。涼二は慌てて、  
「おい、どこ行くつもりだよ」  
 その言葉に、笑顔で答える。  
「リクエストに答えてあげる」  
 
 
   
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 相談を持ちかけてきた涼二を私の部屋に通すと、彼はどこか落ち着かない様子で視線を  
さまよわせた。  
 昔の彼を知っている私は、そんな姿をかつてよく目にしていたのだけど、最近になって  
振る舞いが大人びてきたせいもあってか、なんだか珍しい気がした。まあお互いの部屋へ  
の行き来がなくなってしばらくになるし、その辺りは涼二も思春期の男子ってことなのだろう。  
 とりあえず学習机の椅子を勧めて、私はベッドに腰掛けた。目線の高さが合わず、私は  
心持ち彼の顔を見上げるように、頭を上げた。  
「で、相談って?」  
 自分から口を開く様子がなかったので促してやると、涼二はうつむくように目線を下げた。  
 ぱちりと、目が合う。  
「華乃は、将来の夢ってあるか?」  
 本当にテレパスかと思った。  
 それともシンクロニシティとか。そんな大げさなものではないか。  
「……それ、私も涼二に訊きたかったことなんだけど」  
 私のため息交じりのつぶやきに、涼二は呆気に取られたようだった。  
「進路のことで悩んでてさ、将来の夢とかやりたいことって何だろうって、この間からずっと  
考えてるの。でも全然思い浮かばなくて、とりあえず進学ってことにしたけど、やりたいこと  
ちゃんと考えてからじゃないと、学部も決められないじゃない。で、涼二はどうするのかな  
って相談に行こうかなと思ってたときに、あなたが来たの」  
 本当はさっきまで相談のことなんてまるで考えてなかったんだけど、それは言わないで  
おこう。  
「涼二はもう志望校決めてるんだよね」  
「いや、決めたというかとりあえず書いただけで……なんで知ってるんだよ」  
「ちょいと机の中を検めさせてもらって……」  
「おい」  
「冗談だよ。職員室に行ったときに、先生の机の上にあったのをたまたま見たの」  
「……」  
 涼二の目が胡乱気に細まる。ごめんね。  
「どうしてそこに決めたの?」  
 その大学は学部差はあれど、偏差値でいうと大体60ちょっとくらいで、良くも悪くも平均の  
涼二には厳しい学校に思えた。  
「……いや、必ずしもそこに行かないとって、思ってるわけじゃなくて」  
「でも何かがあったから、そこを書いたんじゃないの?」  
 適当に書くにはちょっとハードルが高めだ。  
 涼二は目に見えて狼狽した。口をつぐんだまま黙り込んでしまって、顔を横に背けて目も  
合わせない。私は涼二、とはっきりした声で呼びかけた。しかし答えない。隠し事をする子供  
のような態度が、ちょっとおかしい。  
 
 代わりに、私から話し始めた。  
「私はさ、全然ピンとこないんだ」  
 涼二に目立った反応は見られないけど、続ける。  
「なんとなく、胸を張ってできることがあればいいなと思ってるけど、夢も目的もいまいちはっきり  
しなくて、それがちょっと悔しい。何も考えずに生きてきたんだなと思うと、自分が情けないし、  
どうにかしないとって思う。でも具体的な何かがまるで思いつかなくて、いろいろ職業を自分に  
当てはめてみても、しっくりこない。みんなそんなものかなと思ったら、友達は結構いろいろ  
決めたり考えたりしてて、私だけ置いてかれているような気持ちになる」  
 ……こういう風にはっきり弱音を吐いたことが、今までにあっただろうか。  
 これは『隙』かもしれない。私は強がりなだけで、全然強くない。  
「俺は、そこまで考えていなかったな」  
 涼二は自嘲するような、寂しげな笑みを浮かべた。  
「俺だって何も決めてない。就職は厳しいってよく聞くから、評判のいい大学を書いただけだ」  
「そう、なんだ」  
 なら私もそうしようかな。それとも、そんないいかげんな気持ちで選んだら、涼二に怒られる  
かな。  
 本当に、進路って難しい。  
「あのさ」  
「ん?」  
「俺、そこは厳しいって言われたんだ」  
 まあ担任からすれば、ちょっとお勧めできないだろう。相当な努力が必要だと思う。  
「でもそこが俺にはちょうどよかったんだ」  
「……どういう意味?」  
「お前なら、そこを狙えるからさ」  
 聞いてもいまいち理解できなかった。お前って、私?  
「私でも、それなりに頑張らないといけないところだと思うよ。偏差値60強って、決して  
簡単なものじゃあ、」  
「だからだ」  
 涼二の目が真剣みを増す。  
「お前は俺にとって、ある意味目標だからさ、なんとか並びたいんだ」  
「目標って」  
「昔からかっこよかったから、お前は。でも俺は普通。別にコンプレックスなんてないけど、  
身近に憧れのやつがいるんだ。近づきたいって思うだろ」  
「……」  
 それは女の子に言う台詞としては、何か微妙にずれているような気がする。  
「そういうわけで、お前に対しても胸を張れるそこを、書いたんだ」  
「私のせい?」  
「いや、俺が勝手に選んだだけ」  
「そういう話を聞いた後だと、とてもそうは考えられないんだけど」  
「少しは苦労する子分の気持ちがわかったか?」  
 涼二は意地悪そうに唇の端を吊り上げる。似合ってないよ、まったく。  
 まあ、確かに昔は子分扱いしていたけどね。今はその子分に恋しているのに。鈍感男。  
 
 いいことを思いついた。  
「……じゃあ私が勉強を教えてあげようか?」  
 私は内心で緊張しながらも、平静を装って言った。  
 親分としては、きちんと面倒を見てやらないといけない。  
 涼二はわざとらしい笑みを収めて、真顔になった。  
「いや、お前だって一応進学希望なんだろ? 人の世話を焼いてる余裕なんて」  
「私の志望校もそこだから」  
 驚く涼二の顔に、私は微笑んでみせた。  
 本当の理由は言わないけど。  
「同じ大学を目指すなら、一緒に勉強してもいいじゃない」  
「俺としてはありがたいけど、いいのか?」  
「並びたいなら、その相手の近くにいるのが一番だと思うよ」  
 涼二は、少し迷うような素振りを見せてから、やがて頷いた。  
「じゃあお願いする。あまり優秀な生徒じゃないけどな」  
「私も別に優秀じゃないけどね。いまだに学年で50位前後だし」  
「100位以内にも入ったことのない俺に謝れ」  
「謝る代わりにビシバシ鍛えるよー」  
「……スパルタは勘弁してくれ」  
 却下ですよ涼二クン。  
 ああ、駄目だな。私は自分に呆れた。さっきまであんなに悩んでいたのに、こんなことで  
立ち直ってしまうなんて。  
 でも、一つの答えは得られた気がした。  
 進路のことは、まだはっきりとは答えを出せない。でも、彼を好きだという気持ちの整理は  
つきそうだった。  
 私は、涼二が好き。  
 それは幼馴染みだから好きというわけじゃなくて、でも幼馴染みだから好きだという面も  
あって。  
 要するに、今の彼がまるごと好きで、理由なんてきっと言葉にできない。  
 この胸に広がる温かい感触や鼓動の速さが、そのまま理由でいい。  
 彼にかっこいいと言われると、頑張らなきゃって思う。彼と一緒にいると勇気が出てくる。  
 こうして少し話しただけで、私の暗い気持ちはすっかり吹き飛んでしまう。  
 それは私にとって、本当に大切なことなのだ。  
 だから、私は彼に向かって、そっと想いを述べた。  
「……ありがと、ね」  
 吐息ほどの微かな声は、彼の耳にははっきりと届かなかったらしく、「何か言ったか?」  
と訊き返された。  
 なんでもない、と私は小さく首を振った。  
 
 
   
      ◇   ◇   ◇  
 
 
 
 カウンターの椅子に座りながら、私はかつての出来事を一つ一つ語っていた。  
 その中にはあの進路相談の話もあって、お酒の力も借りながらおもしろおかしく聞かせた。  
 カウンターを挟んで、店の主人が興味深そうに耳を傾けている。対して隣に座る涼二は、  
なぜか頭を抱え込んでいる。  
「どうしたの?」  
 涼二は苦々しい口調で文句を言う。  
「昔の出来事を他人の口から聞かされるって、どんな羞恥プレイだよ。しかもなんで吉野  
さんに聞かせる必要があるんだ」  
「いやー、だって特別にお店開けてもらったから、せめてお礼にと思ってさ」  
「他ので返せよ! お礼になるかそんなの」  
「そんなことはないけど」  
 吉野さん――この店の女主人は、その美しい顔に素敵な微笑を作ってみせた。  
 歳はたぶん二十代後半。バーテンダーお決まりのベストに身を包み、背中まで届く長い  
黒髪を後ろで纏めている。スタイルもよく、仕草の一つ一つが艶やかで、女の私でもため  
息が洩れそうなほどの美人だった。  
 ここは裏通りにある小さなバーで、彼女が一人で経営しているらしい。この不況時代に  
いかにも大変そうだけど、若い人を中心にそれなりに人気があるそうで、涼二は一年の  
時にここでバイトをしていたそうだ。その頃はまだお酒を飲めない年齢じゃないだろうか、  
という突っ込みはまあ置いておく。  
 店内はテーブル席が奥に申し訳程度にあるだけで、ひどく狭かった。通路はだいぶ幅を  
取れているので、窮屈な感じはしないけど、空間としてみるとやっぱり小さい。一人だと  
これくらいがちょうどいいのだろうか。でも雰囲気はいい。白を基調としたインテリアは清潔  
感があって、夜の店というイメージからは離れた、明るい装いだ。女性向かもしれない。  
 マダムの声は涼やかで、耳に心地良いし。  
「涼二君の彼女さんはどんな娘だろう、って前から気になってたの。涼二君、私にはまるで  
教えてくれないんだもの」  
 囁くように言う。涼二はしかめっ面で、  
「聞いても仕方ないでしょう。誰にも言いたくなかったし」  
「あら、どうして?」  
「……ネタにされるのは嫌なんです」  
 子供みたいだ、と私は吹き出しそうになった。  
「それに、昨日まではそもそも彼女じゃなかったし」  
「でも同棲してたんでしょう?」  
 改めて他人に言われると、ちょっと恥ずかしい。涼二はええと、まあ、などと歯切れが悪い。  
「それで彼女じゃないって言っても、あまり説得力はないわね」  
 確かに。  
「いや、それ以前に俺、話してないじゃないですか。華乃のことも、一緒に住んでいることも。  
誰から聞いたんですか?」  
「それは秘密」  
 吉野さんはにっこり笑って問いかけを跳ね返した。謎な人だ。  
 
「でもよかったわね。ちゃんと気持ちが通じ合えたみたいで。それと、華乃さん?」  
「はい?」  
 吉野さんは優しげな表情になった。  
「今の話、とてもおもしろかった。本当に涼二君のことが好きなのね」  
「え、あ、え……と」  
 そのまっすぐな質問に、私は顔が火照ってしまった。思わずうつむいてしまう。  
 うーん、涼二相手ならこうはならないんだけど。  
「ね、ちょっとそこに立ってくれる?」  
 吉野さんは私の背後のスペース辺りを指差した。私は首を傾げながらもそれに応じて席を  
立つ。  
 白いライトの光源が少しばかり近づいた。天井もやや低めに作られている。  
 吉野さんはさらにその場で回るように頼んできた。言われるがままに半時計回りにくるり  
と一回転する。スカート部分がふわりと舞う。  
「素敵。お似合いよ」  
 優美な笑顔を向けられて、私はまた赤面した。  
「ほら、涼二君も何か言ってあげなさい」  
 その言葉に涼二の顔が動く。視線を受けて、私はますます恥ずかしくなった。  
 しかし、恥ずかしいのは涼二も同じだったようだ。すぐに目を逸らして明後日の方を向いた。  
その反応は、それはそれで寂しい。  
「こら、ちゃんと彼女のこと褒めないと」  
「いや、だってさっきもう……」  
 ここに来る前、私は涼二を連れて服を買いに行ったのだ。元々着てきた白のコートに合わ  
せて、柔らかいベージュのスカートを選んだ。ちょっと寒いと思ったけど、涼二の反応がおも  
しろかったのでそれにした。  
 普段スカートなんて穿かないせいか、涼二は私の姿を見てしばらく呆けていた。これでも  
高校時代はずっと制服を着ていたわけで、当然スカートなわけで、そこまで驚くほどのもの  
じゃないと思っていたのだけど、どうも制服と私服では違うらしい。下にジャージやらハーフ  
パンツを着ていたのがまずかったのだろうか。  
 でも喜んでくれるなら、やっぱり嬉しい。「……似合ってる」と小声で褒められて、思わず  
笑みがこぼれた。財布には痛かったけど。  
「何度でも褒めなさい。減るものじゃないんだから」  
「……華乃」  
 涼二の目が私の姿を捉える。お酒のせいか、頬の色が赤く染まっているような。  
「うん」  
「……俺の前以外ではスカート禁止な」  
「へ!? あ……う、ん」  
 予想外の言葉に私は目を白黒させるしかなかった。  
 吉野さんはお腹を抱えて笑っている。  
 
「涼二君は案外嫉妬深いのね。知らなかったわ」  
「嫉妬深い?」  
 そういう印象は抱いたことがなかった。涼二はどちらかというと、淡白なイメージがある。  
「今のだって、かわいい彼女の姿を他の人に見せたくないからでしょ。さっきも『ネタにされる  
のは嫌』とか何とか言ってたけど、本当は単に他の男に知られるのが嫌なだけで」  
 そういえば、昨日の彼女発言も、涼二らしくなかった。あれも嫉妬の表れだろうか。  
 涼二はそっぽを向いて答えない。ごまかすようにグラスの中の酒を煽った。  
 図星だったらしい。  
 私は笑みを抑えることができなかった。  
「かわいいわね、あなたたち」  
 そんなことを言われて、私も照れ隠しに座り直して一口。グラスの中身は、この手のお店  
には珍しく焼酎である。「海」という芋焼酎で、女性向の一品らしい。昨日飲んだものより  
飲みやすくて、これは好きになりそうだった。  
 しばらく他愛のない話が続いて、またたく間に夕方になった。  
 お酒はほどほどにしていたので、酔ってはいない。多少温かくなった程度だ。涼二も後半は  
ほとんど飲んでなかったので、全然酔っていなかった。頬の赤みももう治まっている。  
 吉野さんは最後に、もう一杯カクテルを作ってくれた。  
「初恋が実った記念に」  
「え?」  
 年上の女主人は、口端をいたずらっぽく吊り上げた。  
「『ファースト・ラブ』っていうのよ、これ」  
「……綺麗ですね」  
 グラスの中身は綺麗なピンク色で、飲むのがちょっともったいなかった。  
 口に含むと甘味の中に苦味も混じっていた。なるほど、これは確かに初恋かもしれない。  
 私の苦味は、報われたけど。  
「俺には作ってくれないんですか」  
 涼二が言うと、吉野さんは顎に右手を添えて、  
「そうね、『ブルームーン』なんてどうかしら」  
「……何の嫌味ですかそれは」  
「あら、そんなつもりはないんだけど」  
 そのやり取りの意味は、私にはわからなかった。  
 
 帰りにそのことについて尋ねると、涼二は苦りきった顔で教えてくれた。  
 『ブルームーン』には相手の告白を断る意味があるのだそうだ。  
 
   
 夕食はファミレスで適当に摂った。  
 お酒も入れて気分はよかったものの、食料品の買い物もしておきたかったので、お腹を  
満たすとすぐに電車に乗って、自宅の最寄り駅まで戻った。  
 駅裏のスーパーで買い物も済ませて、部屋に帰り着くと、しばらくゆったりして過ごした。  
 ソファーに並んで座りながら、のんびりお茶を飲んだり。雑談に花を咲かせつつ、ぴったり  
寄り添ったり。  
 デザートに買ってきたプリンを二人で仲良く食べながら、本当に何気ない時間を過ごした。  
 幸せだった。  
 夢みたいだった。  
 昨日までとは世界が違った。私は今、すごく緩みきった顔をしているのだろう。たぶん。  
 涼二の手が私の髪を優しく撫でる。  
 私は涼二の顔をじっと見つめる。  
 こんなに近くに、彼がいる。  
 心が浮つくのを抑えられない。  
 お酒のせいにしておこう。私は目をつむり、そっと唇を突き出した。  
 彼が来る間、心臓が止まりそうなほど緊張して、息が苦しかった。  
 互いの唇が触れた瞬間、安堵感が全身を包んだ。  
 涼二の唇はグミのように柔らかく、甘い。  
 何度もやったことなのに、この感触は飽きない。どこまでも求めてしまう。  
 背中に回された腕が、ぎゅっと私を抱きしめる。私もそれに応えて、涼二の体を抱きしめ  
返した。  
 深まるキスに同調するように、互いの密着が増していく。ソファーの上に乗り出すように  
して、より正面から抱擁を交わす。ニット越しに彼の厚い胸板が、私の乳房を押しつぶす。  
 まるで全身でキスをしているみたいだ。服越しに伝わる熱も鼓動も、すべてが浮つく心と  
連動するように高まり、高鳴っていく。  
 唇を離すと、荒い息が洩れた。  
「……どっちでする?」  
 涼二の問いに私はすぐには答えられなかった。頭が熱でぼうっとして、うまく回らない。  
ようやくどちらの部屋に行くか訊かれているということを理解し、私は呼吸を整えて答えた。  
「あなたの、部屋で」  
 別にどちらでもよかった。ただ、昨日は私の部屋だったから、今日は涼二の部屋がいい  
かなと思っただけだ。  
 涼二は頷くと、私の手を取って立ち上がった。足元が少しおぼつかなくて、よろけそうに  
なったところを彼の手に支えられる。体にうまく力が入らず、夢遊病のような感じだった。  
 ああ、私、酔っちゃってる。お酒じゃなくて、今の幸せな瞬間に。彼の存在に。  
 あなたはどうなの? 涼二。  
 涼二に手を取られながら、私は彼の部屋に入った。  
 
 相変わらず、殺風景な部屋。  
 机と椅子とパソコンとベッドと。あとは何もない。服はクローゼットに全部仕舞ってあるの  
だろう。部屋を彩り飾るものはなく、引っ越してきたばかりの部屋みたいだ。前の部屋は  
もう少しごちゃごちゃしていたように思うけど、たぶん私がいるから気を遣っているのだ。  
 暖房の効いたリビングからすると、この部屋はだいぶ冷えていた。冷たい空気の中で  
涼二の手だけが温かく、私はすがるように強く握った。  
 その手をぐっと引かれた。  
 抱え込まれて、そのまま仰向けに押し倒された。ベッドの上に、いたわるように。こんな  
優しい押し倒し方も珍しい。  
 再びキスをされて、今度は舌を入れられた。口内の熱が唾液とともにじっとりと伝わって  
くる。重力に引かれて、ベッドに沈み込みながら磁石のようにくっつき合って、私は涼二の  
重みを全身で受け止めた。苦しくはない。涼二なら。  
 呼吸困難になりそうなくらい、私たちはキスに没頭した。  
 涼二はなかなか次の段階に進まなかった。唇を離したかと思えば、すぐにまた繋がって、  
しばらくキスだけを何度も繰り返した。  
 ダンスを踊るように、くっついては離れて。回数を重ねるごとに同調も深まって。  
 唇がひりひりした。  
 キスは嫌いじゃない。でもいい加減次に進みたい。  
 私は手を涼二のお尻に回した。男の人の臀部は、他と比べたら柔らかいけど、それでも  
がっしりした印象だった。  
「涼二……」  
 風邪をひいたような声が出た。知らず、媚びるような色が混じっていたかもしれない。  
 手が涼二の腰から太股辺りをうろつく。体が熱い。なんだかお腹の下がくすぐったくて、  
じっとしていられない。  
 欲が高まっていくのがわかる。焦燥感が私の全身を蒸し焼きにしていくかのようだ。  
「涼、二……!」  
 幼馴染みの手がおもむろに動いた。私の喘ぐような声に応えてか、大きな右手が私の  
脇腹を撫でた。  
 そこじゃない。私が欲しいのはそこじゃ、  
 涼二の膝が私の太股の内側をつついた。  
「っ」  
 びくりと、下腹部が震えた。近い。でも決定的に遠い。  
 なんで今日に限って焦らすんだろう。私はだんだん腹が立ってきた。  
「涼二……どうして……!」  
 叫んだつもりが、かすれた声しか出なかった。  
「きついか?」  
「そんなの、見ればわかるでしょ……」  
「……俺もきつい」  
 え? と顔を上げると、脚の付け根に硬いものが当たる感触があった。  
 スカート越しでも、その変化ははっきりとわかった。  
「昨日は性欲をぶつけるようなやり方しかできなかったから、今日は気持ちよくさせたい」  
「……あの、いつもどおりでも十分気持ちいいんだけど」  
 相性がいいせいか、私は涼二とするといつも完膚なきまでに果ててしまう。涼二もそれは  
同じようで、私はとても満足できる。  
 特別なことなんていらないのだ。  
「涼二とそういうことをするってだけで、私的にはもう変になりそうっていうか……」  
「今まで何度もしてきただろ」  
「慣れないよ、何度やっても」  
 今までのはやはり練習だったのかもしれない。昨日からがきっと本番だったのだ。  
 練習。  
 馬鹿なことを言ったものだ。私は自分の言動を改めて恥じた。  
 あなた以外とこんなこと絶対しない。するわけがない。  
 なのに、あんな言い方。  
「練習はもう終わりだからな」  
「え?」  
「だから力を入れるのは当たり前だろ」  
 そう言って、涼二は笑った。私は咄嗟に答えられなかったけど、でも同じように微笑む  
ことはできた。  
 自分たちのための練習、という意味だろう。そう置き換えることで、私に暗に気にするな  
と言ってくれている。  
 
 私は火照った体を落ち着かせるように深呼吸をした。  
「……いいよ。私を狂わせて」  
「……馬鹿、そんなことはしない。いっぱい気持ちよくさせる」  
「じゃあ、涼二も私で気持ちよくなって」  
 涼二の首が縦に振られるのを確認して、私は体の力を抜く。  
「ひっ」  
 右手が裾の下から中に入ってきた。少しだけ冷たい掌の感触に思わず奇声を発した。  
 そのまま大きな手が、ブラの内側に滑り込んできて、  
「んんっ」  
 また唇を奪われた。  
 キスと同時に胸を揉まれて、私はまた熱が上がりだすのを自覚した。涼二にいつも弄ら  
れるせいか、胸はどうも弱い。  
 私は涼二の着ているトレーナーをつかんで、刺激に耐える。  
 するすると裾がまくられて、お腹と胸をさらされた。右手が器用に動き、私の背中辺りを  
探る。ホックを外されて、あっさりブラも剥がされてしまった。  
「なんか手馴れすぎてて怖いよ……」  
「練習期間が長かったからな」  
「蒸し返さないでよ」  
「すまん」  
 口とは裏腹に、手はよく動く。乳房を直接触られて、私は身震いした。冷たい空気や掌の  
感触に加えて、乳首が押しつぶされるように擦れて気持ちいい。  
 されるがままなのは嫌だった。そろそろと右手を伸ばして、涼二の股間に触れる。ジーンズ  
の上から撫でると、微かに身じろいだ。  
 私たちはしばらく、互いを愛撫し合った。  
 でもそれは長く続かない。いつも私の方が先に参ってしまうのだ。  
 指で乳首をつままれると、刺激が電流のように走った。さらに唇を寄せられて、先端を強く  
吸われる。  
「や、そんな強く吸わないで……」  
 涼二は私の言葉などそ知らぬ様子で、ひたすらに胸を求めてくる。  
 ストローのように先っぽを吸い、舌で転がし、歯で甘噛みする。私はその快感にたまらず  
嬌声を上げた。  
「だめ……んっ」  
 手に力が入らない。こちらから仕掛ける余裕なんてなくなっていき、次第にただ快楽に  
耐えるだけになっていく。  
「あ、ん……やだ、もう……」  
 満足したのか、涼二の顔が離れた。唾液でまみれた胸が、空気に触れてひやりと冷たい。  
 と、今度はスカートがまくられた。  
「ひゃあっ」  
 不意を突かれて驚いた。短い奇声にもまるで怯まず、涼二の手は一直線に下腹部へと  
伸びた。  
 ショーツを掴み、そのまま脱がされた。抵抗する暇もない。上半身に続いて下半身も  
下着を奪われ、心許ない気持ちになった。  
 
 しかし、それだけでは終わらなかった。  
「えっ!?」  
 涼二の顔が私の大事なところに迫った。  
 スカートの内側にもぐるように、涼二の上体が脚の間に割ってきて、鼻を、口を、私の  
そこに近づけてくる。そんなことは今までされたことがなかったので、私はおおいに慌てた。  
「りょ、涼二! なにやってるの?」  
「舐めたい」  
「な、なめ……って、ええ!?」  
「なんだよ、お前だって前に俺のを舐めただろ」  
 確かにしたけど。でも。  
「やだ、は、恥ずかしいよっ。だめ、息当たってるって……ひあっ!」  
 舐められた。  
「んん、やあっ、そこだめ、だめえ」  
 ざらついた感触が割れ目に沿って生じ、同時に痺れるような快感が沸き起こった。背筋  
がぞくぞくと震え、脚がびくりと強張る。  
「や、そんなところ……ひあっ、あっ、ああっ」  
 中まで入ってきた。深いところまでは進入してこないものの、それでも今までに感じた  
ことのない刺激に頭が狂いそうになる。  
 涼二は調子に乗って、ますます激しく舌を動かした。  
 逃げないように腰をしっかりと掴み、果物にかぶりつくように入れてくる。舌の長さなんて  
たかが知れてるから、もちろん男性器のように奥まで入ってくることはないのだけど、でも  
さっきからキスや胸への愛撫で散々焦らされているために、それだけで私はもうイって  
しまいそうだった。  
 少々乱暴な舌遣いでも、高まった性感を弾けさせるには十分で。  
 脳のどこかが沸騰して、溶けてしまいそうで。  
「ああ、んんっ――」  
 絶頂を迎えたのは、直後だった。クリトリスまで舐められて、私の頭は真っ白になった。  
「ん、ん……あん……」  
 涼二の頭が遠ざかる。拘束されていた下半身が解放されて、私は一気に脱力した。  
 ベッドに体が沈み込む。激しく呼吸を繰り返しながら、ぼんやりと天井を見つめた。  
 ここまでされたら、羞恥心もどこかに吹き飛んでしまう。  
 ちょっと恨めしく思った。  
「……絶対、責任取ってもらうからね」  
 私のつぶやきに涼二は小さく笑った。  
「当たり前だろ。彼氏なんだから。ましてや他の奴になんて渡せるか」  
 存外はっきりとした口調で言われて、私は口をつぐむ。  
「おい、まさか疑ってるのか?」  
「ち、違うの。そんなにはっきり言われるとは思わなかったから」  
「いつまでも子分のままじゃないってことだ」  
 涼二の手で抱き起こされる。私の体を支えるその腕は、頼もしいほどに太い。  
 もうとっくに追い越されていたのかな。  
 なら私も一生懸命並ばなくちゃいけない。  
 涼二がそうしたように。  
 私は涼二の胸に頭を預けて、ぎゅっと抱きしめた。  
「いっぱい、抱いて……」  
 心臓に吐息をかけるように囁くと、涼二は私を無言で抱きしめ返した。  
 
   
 貫く衝撃に私の脳は激しく灼かれた。  
 生まれたままの姿で抱き合いながら、私たちは愛し合う。彼の膝にまたがるようにして、  
正面から抱き合って、繋がり合う。  
 膣奥を強く蹂躙される度に快楽の波が生まれ、私の理性を呑み込むように攫っていく。  
 下だけじゃなく、上もたくさん攻められた。胸を揉まれ、先端を吸われて、脇や背中も  
何度も撫でられて、どこを触られても気持ちいい刺激しか生じない。  
 私はもう、完全に染められている。  
 できれば涼二もそうであってほしい。  
 彼の首に腕を回して、私は唇を奪った。すぐに舌が絡み合い、またそこから熱が伝わって  
快感が湧き上がる。  
 直接肌が触れ合って、涼二の熱も高まる鼓動もこちらに流れてくるようだった。  
 腰の動きが一段と激しくなった。奥を突き上げられて、私は甲高い声を上げた。  
「ああっ、んっ、あっ、は、はあっ、あん、ああっ」  
「華乃……華乃……!」  
 名前を呼ばれただけで、気持ちよくなってしまう。  
 断続的に襲ってくる快感の前に、私はただ喘ぐことしかできない。  
「涼二……好き、好き……」  
「ああ……俺もだ。愛してる……華乃」  
「私も、んんっ、愛し……ああん……」  
 意識はどこまでも高く上っていきそうで、同時にどこまでも深く沈んでいきそうで。  
 あまりの気持ちよさに、自我さえ消し飛んでいきそうで。  
 彼と抱き合ってその存在を直に確かめることで、かろうじて私は意識を繋いでいた。  
 重ねられる快感に、もう耐え切れそうにない。  
「りょうじ……もうだめ、わたし……」  
 涼二の顔も苦しげに歪んでいる。  
「俺ももう……」  
「うん、いっしょに、いっしょに……!」  
 涼二の動きに合わせてひたすら動いた。性感を高めて、同時に辿り着こうとして、  
 やがて、私の意識は波に呑まれた。  
 
 
   
      ※   ※   ※  
 
 
 
 ぱち、と目が開いた。  
 柔らかいシーツと、被さる毛布の感触と、その上の布団の重みを全身に受けながら、  
私はぬくもりに包まれていた。  
 横を見ると、裸のまま幼馴染みが眠っている。  
 既視感を覚えた。たしか昨日も似たような状況に遭ったような。  
 なんだかおかしくなって、私は涼二の寝顔をしばらく見つめた。これも昨日と同じだ。  
 静かに眠る幼馴染みの姿は、穏やかだった。  
 その穏やかさは昔の名残を残しているようで、でも体の大きさはやっぱり昔とは違って  
いて、その違いを探すように、私は彼との思い出を振り返った。  
 もういつから好きだったのかもわからない。でもその想いは確かに積み重ねられていて  
ここにある。  
 想いが実ってよかった。涼二に会えて、本当によかった。  
 あなたは今、ここにいる。  
 もう不安にはならない。あなたは私のもの。  
 そして、私はあなたのもの。  
 ずっと怖かったって言ったら、あなたは笑うかな?  
(あのね、涼二)  
 私、教師になりたいの。  
 涼二といっしょに勉強した時から、なんとなく考えてはいたのだけど、大学に入って決め  
たの。  
 私、誰かを導いたり、教えたりするのが好きみたい。  
 小さい頃に涼二を引っ張っていたのは、もちろん涼二だからという理由もあるのだけど、  
きっとそうやって手本になったり教えたりするのが好きだから、と思ったんだ。  
 だから私、決めたの。  
 高校の頃は決められなかったけど、今はちゃんと決めてるよ。  
 夢があるよ。  
 だからね、私のこと応援してほしいな。  
 あなたが傍にいて見ていてくれたら、私は頑張れるから。  
 これまでも。これからも。  
 どうかな。  
「……」  
 私は時刻を確認して、ベッドから抜け出した。午前七時だった。  
 朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。  
 さあ、幼馴染みのために、今日もおいしいご飯を作らないとね。  
 
 
 
   <了>  
 
 

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