それは遠い日の思い出だった。
「ホント?」
夕暮れの公園で、あどけない女児の声が聞こえる。
「うん、絶対。約束するよ」
男児がその問いに力強く答えた。
「今みたいに、由梨(ゆり)ちゃんが困っているときはいつでも行くから。だから黙ってないですぐ僕に教えてね」
そう言って、男の子は右手に持っていた棒切れを捨て、右の小指を立てた。
「ほら、指切りしよう」
「うん、ありがとう満(みつる)くん」
二人の幼児は小指を交差させ、元気よく恒例の歌を歌い始めた。
「ねぇ、満くん」
「なに?」
「その・・・もし・・良かったら」由梨はもじもじとして言いよどんでいる。
「うん」
「由梨と・・これからずっと・・・一緒に・・・」遊んでくれる、という最後の言葉がどうしても出なかった。だが、
「いいよ」という満の声が聞こえた。
「由梨ちゃんの傍にずっといてあげる。そっちの方が、いつでも由梨ちゃんのこと守れるもんね」
満は少々由梨の意図とはずれた答えを言った。しかし、その言葉は由梨には何よりも嬉しかった。
「満くん・・・ありがとう」
「じゃあ、今のも約束だから、もう一回指切りしようか」
「うん」
こうして二人は再び指切りをした。子供達の弾んだ声が夕焼けの空に溶け込んでいった。
*
約束の通り、満と由梨はいつも一緒に遊んでいた。
雪の日には二人で雪だるまを作ったり、日差しの強い日にはプールに行ったりしていた。
満が野球に励むようになってからは、由梨と遊ぶ回数は減ってきたものの、それでも二人は暇があればキャッチボールを行った。
由梨がボールをうまく取れず、その白球が顔に当たってしまったこともあった。
その時、満はすぐに由梨の傍へと駆けていった。
「ご、ごめん、由梨。大丈夫」
「平気だよ。私の方こそ下手でごめんね」
「何言ってんだよ、俺が下手くそなボール投げたのが悪いんだって」
そう言って満は由梨の赤くなっている部分を撫でた。
その瞬間、彼女の頬もまた赤らんだ。
「み、満くん。大丈夫だから、キャッチボールの続きしよ」
「あ、うん。ホントにごめんな、俺も気をつけて投げるよ」そう言って、満は由梨と距離をとった。
その間、由梨はさっきの気遣いの言葉と行動を脳裏で反芻していた。
昔から変わらぬその優しさが、由梨には嬉しかったのだ。
彼女は、そんな幼馴染みに淡い恋心を抱いていた。
しかし、由梨の幸せな日常は突如として終わりを告げてしまった。
満が引っ越すことになったのである。小学校の卒業式の翌日に、満の口から直接それを知らされた。
「前から決まってたんだけど、中々言えなくて。悪いな」
由梨は無言で話を聞いていた。
「でも、そんなに離れるわけじゃないぜ。電車で5駅分くらいの距離だし」
沈黙が続く。
「時間が見つかれば、夏休みにでも遊びに来るからよ。だからそんな暗い顔するなよ」
「うん」ようやく由梨が口を開いた。
「待ってるね、満くん」涙ぐむのを必死に抑えながら、笑顔でこう答えた。
「ああ」
この約束が実現されることはなかった。
こうして約3年の月日が流れていった。
由梨にとっては、満のいない日々を噛み締めるには十分すぎる程の年月だった。
*
「ん〜んん〜」
お気に入りの曲をハミングしながら、少女が鏡の前で長い黒髪を梳いている。
「ごきげんなことね、由梨」
由梨の傍らで、洋服を洗濯機の中に入れている母親がそう述懐した。
「だって、これから学校だもん」
「高校生活の方は順調みたいね」
「うん」由梨は何とも嬉しそうな声で答えた。
娘の新生活が始まってはや2ヶ月は経とうとしているが、母はその様子を見て安堵した。
髪を整え終えた由梨は洗面所を出て、玄関の方へと向かった。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
母親の返事を聞くや否や、由梨はドアを開けた。
そして、外の暖かい空気が感化したのか、由梨は心をますます浮き浮きさせて駅へと向かっていった。
彼女は学校に行くことが何よりも楽しみだった。
そのため、鬱屈した表情を浮かべた人々が多い満員電車の中でも、由梨の顔は晴れやかであった。
なぜなら、もうすぐ行けるからである。
懐かしい人と再び一緒にいられる教室に――
由梨が教室の後ろ扉から中に入ると、そこに一番近い席で机に伏している男子が目に入った。
彼女はその傍まで行き、彼が起きていることを確認した。そして、
「おはよう、満くん」
と朝の挨拶をした。
「ああ、おはよ」
満はいかにもだるそうな声で返答した。
「やっぱり、今日も朝練キツかったの?」
「決まってるだろー」間延びした声だった。
「あはは、お疲れ様でした」
そう労わって、由梨は自分の席に着いた。
しばらくしてから満のほうを向いて見ると、彼はまだ机に伏したままであった。
由梨はそんな満の様子を、顔に喜悦の色を浮かべながら眺めていた。
もう会うことはできないと思っていた初恋の相手に出会えたことを感謝しつつ――
昼食の時間になり、生徒達はグループを作ってお弁当やパンを食べる。
由梨は3人の友達と一緒に会食している。
「ねぇ、ずっと聞きたかったんだけど、由梨って風間とはいつから友達なの?」
高校に入ってすぐに友達となった葵(あおい)が満のことを話題にしたので、由梨はどきんとした。
「えっと、保育園の頃から、かな」
「じゃあ幼馴染みって奴?」
「まぁ、一応」
「へー、もしかして、それから小・中・高とずっと一緒なの?」
その質問を聞いて、由梨は一瞬だけ口をつぐんだ。そうだったらどんなに良かったか、と思ったのだ。
だが、すぐに気を取り直して会話を続けた。
「ううん、中学に入る前に満くんは別の学区に引っ越したから、中学は別々だったの」
「じゃあ、高校に入って再会したわけだ」葵同様、高校で友人となった智美(さとみ)が会話に入ってきた。
「うん、クラス発表のとき、一緒の組に同姓同名の人がいたからもしかしたらと思ったんだけど」
「驚いたっしょ」葵が尋ねる。由梨は首を縦に振った。
「でも、私はそんな驚かなかったかも」
そう言ったのは、由梨の小学校からの友達である千恵(ちえ)だった。
「ほら、ここの高校って野球部が凄く強いから、風間くんがいるのも納得って感じだし」
千恵の言うとおり、小学校の頃から満は野球がすこぶる得意であり、リトルリーグにも入っていた。
そして、由梨はよく満の野球試合を応援しに行ったものだった。
満は野球をその時からずっと続けており、現に高校へはスポーツ推薦で入学したのである。
「そうそう、今朝野球部の友達に聞いたんだけど。あいつって、1年のくせにもうレギュラーになるみたい」
智美が少しばかり話題を変えた。
「えっ、マジ。・・・野球がめっちゃうまくて、そこそこの長身でなかなかのイケメン。騒がれるのも分かる気がするわ」
葵の言葉を聞き、由梨は内心狼狽した。
「さ、騒がれるって」由梨が葵に尋ねる。
「何だ、知らないのかよ。あいつ、めっちゃもてるらしいんだよ」智美が代わりに答えた。
「こないだも、2年の女子が告白したみたいだし。振られたようだけどね」葵が付け足した。
告白と聞いてさらに慌てたが、その後の言葉で由梨はほっと胸をなでおろした。
「しかし、入学して間もない1年坊主に手出すかな、普通。その女、よっぽど男に飢えているんだな」
「もてまくる美人だって聞いたけどね。何で断ったんだろ、風間の奴」
由梨は智美と葵の会話を聞きながら、気を揉んでいた。
満はそんなこと少しも言っていなかったし、それに、彼女の幼馴染みがそんなにもてるとは分からなかったからだ。
(確かに、満くんはかっこいいし、特に野球をやっている姿は昔から素敵だったし――)
そして何より、と由梨は思った。
(・・・とても優しい人だもんね)
由梨は、昔自分をからかっていた男の子達から満が助けてくれたことを思い出した。
保育園で同じ組だったこと、ただそれだけの理由で、それまでろくに話したことのない自分を助けてくれた男の子の勇姿を。
正義感が強くて優しくて、おまけにリトルでは4番打者だった満は、彼女にとって自慢の幼馴染みだった。
(何で気付かなかったんだろう。もてるに決まってるよね、満くんは・・・)
中学時代もそうだったのだろうか。きっとそうに違いない、と由梨は思った。
彼女の心は、寂しさで満ちているようだった。
「つーことで、由梨には忠告しとかなくちゃいけないんだよ」
葵の声が由梨の思案を止めた。
「風間は人気あるみたいだから、あんたは連中にとっちゃ目の上のたんこぶなの」
「えっ、でも私、満くんとは別に・・・」
「あんたらはただの幼馴染み同士なんだろうけど、向こうはそうは思ってないかもってこと」
「仲いいもんね、実際。勘違いする人はいると思うよ」葵の言葉に千恵が続いた。
「風間には彼女いないって言われているから、そうなると由梨は風間に気に入られようと媚を売っている女って映り、やっかみをかうわけ」
由梨には理不尽な誤解だった。ただ昔のようにお喋りをしているだけであるのに。
だが、由梨は同時に思った。もし、自分の想いが届き、満と付き合えるようになったらどんな反感が待っているのだろうか、と。
「ひでぇもんだよな、ブスどもの嫉妬は。あたしも経験あるよ、そうあれは中2の頃――」
「智美、今はお前の話じゃねーから。つーか、前聞いたわ、それ」
由梨と千恵が笑いを漏らす。それにつられて、葵と智美も笑う。
「まぁ、とにかくそういうことだから。もし何かされたらすぐうちらに言いなよ」
「そうだよ。由梨もこんなことで風間くんと話せなくなるのはいやでしょ」
「こいつはちょっと小柄な上に大人しい方だからなー。なめられるタイプっていうか。まぁ、由梨の代わりにあたしが恫喝してやるから」
「おお、さすが智美。経験者は違うね」
「慌てふためいて逃げてったなー。あん時は面白かったよ」
再び笑いが起きる。
「ありがとう、みんな」
由梨は友人達に感謝した。
そしてもう1つ。満だけでなくこの友人達とも過ごせる高校生活にも心の中で感謝した。
*
駅のホームに由梨は一人で佇んでいる。放課後、図書館に少し長くいたため辺りは暗くなっていた。
でも、これは彼女の望んだ通りのことだった。なぜなら、
「よぉ」
彼女の幼馴染みと一緒の電車に乗れるからである。
「今日は何の勉強をしてたんだ」
図書館では、由梨は読書というよりも専ら宿題や復習といった勉強を行っていた。
「物理かな」
「偉いよなぁ。俺なんか物理は3日で放棄したよ」
「そんな、満くんの方が凄いよ。朝も晩も毎日へとへとになるまで野球の練習して」
「いや、俺には野球しかねーから。スポーツ推薦だしな」
電車がやって来たので、二人は話を一時中断し、乗り込んだ。
車内を見渡し、空いている席を見つけたので、そこに対座し再び会話を続けた。
「そういえば、レギュラーになったんだよね。やっぱり凄いよ」
「ああ、サンキュ。まぁ、さすがに4番打者にはなれなかったけどな」
「それはそうだよ。まだ1年生だもん」
「でも、いつかは4番で甲子園に出るつもりだぜ」
満はバットを振るような動作をした。
しばらく会話が止まったので、由梨はまじまじと満を見ることとなった。
そして、ふと今日の昼食での会話が思い出された。――彼が女子から人気があること。そして、実際に告白されたことも。
そこで由梨は思った。どうして断ったのだろうと。綺麗な人だと葵は言っていたが。
「満くん」由梨は少しの間ためらっていたが、やがて腹を決めて聞くことにした。
「ん?」
「友達から聞いたんだけど」
「ああ」
「告白・・・されたんだよね」
「・・・ああ。生意気にも断っちまったけど」
「可愛い人だったんでしょ。どうして断ったのかなって気になって。あ、でも言いたくないなら別に――」
由梨は少し後悔した。なぜ振った理由を聞いてしまったのだろうかと。
そうまでして自分を安心させたいのか、と自問した。彼女は自己嫌悪に陥った。
「それはだな」
満が少し言いよどんでいた。由梨のほうを一瞥しては顔を伏せている、そんな動作を繰り返していた。
「それは、その、ありきたりすぎる理由でな。恥ずかしいんだけど」
「う、うん」
彼は由梨の顔を見据えてこう言った。その視線を受け、彼女は照れてしまった。
「昔から心に決めていることがあるからだ」
昔、という言葉に由梨はどきりとした。
(もしかして、満くん・・・。ううん、そんなことあるわけ――)
彼女は自分の雑念を取り払った。
「俺は――」
満の目はしっかりと由梨の目を捉えている。由梨は固唾を呑んで次の言葉を待った。
「野球一筋だって」そう言って満ははにかんだ。
由梨は特別がっかりしなかった。むしろ、喜びの方が大きかった。それでこそ満だと。
(それが、私の幼馴染みさんだもんね。何で自惚れたんだろ、私ってば)
彼女は一方で喜びつつ、もう一方で自分が劣情をもったことを自省したようだった。
「地区大会も近いからなぁ」
満の言葉を聞きながら、由梨は再び思った。
このままでいい、この先も今のような穏やかな関係でいられたら、十分すぎるくらい幸せなのだ。
せっかく再会できたのにこれ以上大きな望みを抱くなど欲張りにもほどがある、と。
「小学校の時みたいに、応援しに行ってもいいかな?」
由梨は思い切って言ってみた。
「それはありがたいけど、ほとんど平日にやるからなぁ」
「そうなんだ」由梨は落胆した。
「あっ、でもうちの地区大、決勝戦は土曜日みたいだから勝ち続ければ――」
「じゃあ期待して待ってるね」
満が言い終わる前に由梨は言った。
「おう」
再三鳴り響いていた電車のアナウンスが、今度は由梨が降りるべき駅名を告げた。
彼女にとっての至福の時間は、あとわずかで終わりとなる。
「なぁ、由梨」
満がふいに話しかけてきた。
「なに?」
「応援、絶対きてくれよ」
「えっ。う、うん、もちろん。絶対行くよ」
「ありがとな。いま思い出したんだけどさ、何かお前が応援しにきてくれた試合は勝率が高かった気がするんだよな」
「そ、そうかな」
「うん、確か。・・・先輩達のためにも絶対甲子園行きたいんだよ」
「そうだよね」
「スタメンになった俺に、そうなれなかった3年生が『頑張ってくれ』って言ってくれたんだよ。
3年間死ぬ気で練習してきた人たちを押しのけてレギュラーになったこんな1年にさ。だから、絶対勝ちたいんだ」
「うん」
由梨は、昔とちっとも変わらない幼馴染みの姿を見れて嬉しく思った。
「少しでも勝率を上げるために、由梨、応援頼む」
そう言いながら、満は思わず由梨の手を握り締めた。
「うわぁっ」
由梨はとっさの出来事に慌てて、声を漏らしたと同時に心臓を高鳴らせた。
「あ、ごめん。セクハラだよな、これ」
満はすぐに手を離した。
その時、アナウンスが由梨の降りるべき駅の名前を告げた。電車がゆっくりと止まる。
「じゃ、じゃあまた明日ね」
由梨は動揺しながらも別れの挨拶をし、席を立った。
「ああ、じゃあな」
満の方を向いて手を振りながら、彼女は扉へと向かっていった。
電車が動き出すのを見送った後でも、由梨はしばらく駅のホームに佇んでいた。
そして、満に握られた手を見つめ、その感触を思い出し、赤ら顔でふと微笑んだ。