メアリという女性と、レウという女性の出会いは、それなりに唐突なものだった。
当時、13ほどであったろうか、青い青い気質を持つメアリが、シュムシュという名の町に引っ越してきたのは。
親の反対を押し切り、ほぼ勘当同然に家を出て、魔法に関する色々な道具を作る仕事で食べていこうと決意し、
とりあえず安定した場所に住まうことを目的として、適当に見付けた町がそこだった。
特にえり好みする気は彼女にはなかったし、えり好みする余裕もなかった。道具開発の許可証申請と旅費で、
金はもはや枯渇寸前だったし、胃袋の中身など言わずもがな。
とりあえず安い宿泊施設に泊まるか、とメアリが決めたところで、町をぶらぶら歩いてみれば、その中心たる
場所からやや離れた、薄暗い場所にそのパン屋はあった。
ヌダイン、という、わけの分からない不思議な名前のパン屋だった。人名なのか地名なのか、どこかずれたよ
うなセンスのない名前のそこに、気付けばメアリは近付いてしまっていた。
だが、疑問顔でいたのもしばしの間のことで、パン屋の入口付近にある小さな札を見れば、そのひそめられた
眉は新たな感情によって形を変えられることとなる。
仕方のない話なのかもしれない。
『実験体という名の生贄募集中』などという札が書いてあれば、気にしてしまうのも無理からぬことであろう。
「なんなのよ、これって?」
当時のメアリは、その気の強さと同時に、一種の横暴さをもっていた。今でこそ、その横暴さはなりをひそめ、
気の強さは健在なれど、温厚な気質を持ちながら芯を強いがままに保てている女性、というかたちに落ち着いて
はいるが、その時は狂犬じみた気質を自覚せずにいる子供だった。
そう、幼かったのだ。無理を無理のままに通し、他人の顔色をうかがわないその姿は、気丈というよりかは、
わがままなそれであった。子供も子供といった当時の性格を批判されても仕方ない、今のメアリはそう考えてい
る。過去の出来事に話を飛ばせた際、自分のことを言われると、知らず知らず頬を薄紅色に染めてしまうのが良
い証拠であろう。
強気な女の子、と称して良いのかもしれない。少なくとも、周囲から受けるメアリの評価は基本的にそういう
類のものだったし、初対面の相手であっても大抵がそういう領域の話に落ち着いた。
子供だからこそ見せる無謀さといおうか微笑ましさが、その時の彼女にはあった。だからこそ、あまり憎まれ
ずにいる。瑞々しい少女へと踏み出す直前の、つぼみもつぼみといった幼い気質における愛嬌が、彼女にはある
のだった。
そんな彼女が目を細めつつ、わずかばかりいらついた声を出した原因は、シュムシュの町にある、ちょっとし
たはずれに位置するパン屋のそんな宣伝文句。
レンガと木とで構成された、灰色と肌色の妙な建造物のそばに、くたびれたイーゼルの上に乗せられた、薄汚
れたキャンバス。その上にでかでかと描かれた文字。妙にカラフルな色彩の文句に、実験体やら生贄やら書かれ
たそれは、成程、確かに眉をひそめるに値するものだろう。
「ん? どうかしましたか?」
そんなものについつい目を留め、ついつい言葉を発してみれば、メアリの前ににゅっと現れる黒い影。
幼いながらも美しい少女の出現に、少なからず驚く暇もあらばこそ、生来の気の強さでメアリは問うた。
「あなた、店員? これはなに?」
「うん、店員。これは、新作パンが作られたので、お代の代わりに食べて感想が欲しいなあ、という次第で」
しれっと語る幼顔の店員に、メアリの心臓は苛々をうったえるかのように鼓動を早めていく。それは、店員で
ある少女の美しさに心惹かれたという要素があるのも、一応は否定しないが。
「分かったけれど、これじゃあ変なものが混入されているみたいじゃないの」
「それも含めての、だじゃれー。悪趣味かもしれないけど、変えるつもりはないなあ」
ぶええ、と変な吐息を口の端から出しながら、いかにも『私はだるいです』といった仕草所作態度で語る少女。
可憐な妖精めいた容姿の彼女には全くそぐわぬその言動と雰囲気に、メアリの心はますます苛立つ。
「なんでよ? もっとマシな言い方あるでしょうに」
「あまり美辞麗句でものを良いものとして飾るのは好きじゃないから」
ぎろり、と死んだ魚のような目を一瞬だけ狼はだしのそれに変えて、少女は言った。
が、それも一瞬のこと。次の瞬間には美しい黒髪を流しつつ、醜い吐息を垂れ流し、気だるげな姿を見せに見
せ、少女はただ自分の空気を主張するがままに、そこにいた。
美しい姿と、気品のきの字も感じられない態度と、ふざけにふざけきった宣伝文句。されどその小さなパン屋
の外装も内装も、地味ではありながらもきっちりと掃除はされているし整理整頓はされている。賞賛すべき姿で
はないが、咎めるべき姿でもない。微妙な微妙な中間線を行くその姿は、どうにももやもやとした気持ちを見る
者の心に与えるのには充分に過ぎたろう。
無論、かようなことが理解できぬほどにメアリは愚鈍ではない。美しい黒髪少女の醜い溜息を聞いた際に、思
わず何を言って良いのかも分からず、言わぬが最良と気付き、溜息ひとつで返してはいたのだから。
だが。
後になって思えば、メアリはその時から少女に興味を覚えていたのかもしれない。
気だるげな仕草を見せながら、時折見せる、猛禽類めいた所作と雰囲気が、どうにもこうにも不可思議だった
からだ。同時に、そんな姿に全く嫌悪感を抱いていない自分自身を訝ることになったから、というのもあろう。
気付けば、メアリは苦笑しつつ口を開いていた。
「……変な女」
「まあ、自覚はあるよ。それより食べてみる? 味の保障はしないけど」
きゃらきゃら笑いながら言う少女に対し、メアリは眉をひそめるのみならず、唇の端を引きつらせた。
それは少女の態度に対するものであったし、自身の退くに退けない状況に対するものでもあった。
いくら横暴さはあっても、責任感というものの片鱗ぐらいはメアリにもあった。ものごとに関わろうと噛み付
いたのに、自分からそれを遠ざける間抜けさ、そんな海に浸かっていたくなかったのだ。変に矜持を先行させる
若さも相まって、メアリは気付けば言ってしまっていた。
「いいじゃない。食べさせなさいよ、試作品」
「あいよ」
メアリが言葉を発するや否や、やにわに少女は飛び上がり、空中で体を回転させながら危なげなく着地、その
まま跳ねるようにパン屋に入っていき、しばらくして黄色と緑の目立つ色彩のパンを持ってきた。
「枝豆とチーズのしっとりパン。豆とチーズのハーモニーが、股を濡らすよ」
「……あなたの下品な言は受け流して、まあ、食べさせてもらうわ」
美しい容姿に似ず、下劣な言葉を吐いた少女の手からパンをひったくるように取り、メアリは逡巡もせず、そ
れどころかパンの全容を確かめもせず、ぱくりとかぶりついた。
果たして、その感想は。
「やば……、美味しいじゃない」
「どこの辺りが?」
ややもすればパサついたきらいのある豆を、油多めのチーズをかけることによって潤いを良くし、水分多めの
パンにてぼそぼそ感を和らげたそのパンは、刺激的ではないが落ち着いた塩味に包まれており、悪くないと思え
る代物であった。
そのことをやや粗めに説明すれば、少女は目を輝かせつつきゃらきゃらと笑い、じゃあこれは追加商品として、
などとあっさり今後の方針を決めてしまっていた。
その少女の思い切りの良さといおうか、さばさばとした態度にメアリは小さな好感を抱き、気付けば開く、己
の口。
「やるじゃない。この若さで店をやるだけはあるわね」
「ううん、違うよ。私はただの雇われ店員」
「え? どういうこと?」
自分の趣味以外にあまり興味を持たないメアリが疑問の声を上げれば、少女は薄く笑いながら店の看板を指で
さしつつ、返しの言葉を入れる。
「店主がね。結構、放蕩癖があるんだ。だからよくよく現場をまかされているの」
「それって、実質的な副店主と言わない?」
「かもね。でもまあ、私は誰かを起用するとか、そういう上に立つための気質を持っていないから、ただの店番
さんでいいんだよ。まあ、そういう中間的といおうか、したっぱといおうか、そんな立場が一番好きだというの
も、あるといえばあるんだけどさ」
あっけらかんと放たれた言葉を理解、しばしの間を置いて、メアリは気付けば苦笑していた。
それは、妙に思い切りの良い少女の言葉に影響されたせいか、それとも珍しく自分が趣味以外のものに興味を
覚えているせいか。どちらにせよ、おかしかった。だからこそ唇を曲げて笑ってしまっていた。
「変な奴」
「自覚はあるよ」
「でも……面白い奴」
「ありがとう」
鉄面皮のままに礼を言う少女に対し、とうとうメアリは声を上げてきゃらきゃらと笑い声を上げる。
物言いも、態度も、容姿も、どこかちぐはぐでありながら、その雰囲気は春の陽気じみた柔らかみのあるそれ。
そんな珍妙なギャップが変にいとおしくて、メアリは少女に対し、警戒心をとっぱらってしまっていた。
「ねえ、お知り合いになろうか?」
「な、なにいきなりわけの分からないこと言ってんのよ!?」
そんな彼女の心境を察したかどうかは知らないが、やにわに少女からの提案を聞き、警戒心を取り除いたメア
リは狼狽する。心の防壁をなくした後での直接攻撃的な言は、青い青い年齢のメアリにはやたらと響いた。
「んー、友達になろう、だとなれなれしい気もするし。初対面なので、お知り合い、が妥当だと」
「……アンタ、やっぱり変な女ね」
「うん、私もそう思う」
「けど、悪い女、ではない」
「……おおう、なんか嬉しいぞ」
「……やば、なんかすごい恥ずかしいこと言ってるわね、私」
しかしながら、口は動く、話は進む。
気付けば。本当に気付けば、いつの間にやらメアリと少女は、お知り合い、になっていた。
「んー、でも嬉しいよ、ありがとう」
「礼なんて言う問題じゃないでしょ。私が馬鹿正直にものを言っただけ、それだけ、それだけよ、うん」
照れ隠し、という言葉を体現したかのような発言をしたメアリは、自分の発言を脳味噌の中でくり返し、頬を
朱色に染めた。
恥ずかしさはあったが、妙な達成感があったのも事実だ。ちょっとしたパン屋の宣伝文句に目をつけた結果が
こうなるとは、成程、運命の神様とやらもずいぶんと酔狂なものだ、とメアリは思う。同時に、それに感謝した
くなる気持ちをも、少しだけ抱く。
「私はレウ。レウ・アディア。ただのパン屋だ。それより上でもそれ未満でもないよ」
「私はメアリよ。メアリ・ミーティス。今のところ無職だけど、まあなんとかするだろうからよろしく」
そうして、互いに自己紹介を。その際に浮かべられた、少女の――レウの、美しい微笑みを、メアリは忘れる
ことはないだろう。
あまりに綺麗でいて、あまりに妖艶でいて、あまりに黒くて白くて、どこか悲しい笑みだったから。
この時、メアリは思ったのだ。
負けちゃったかな、と。
恰好なんてつけなくても、この少女はとてもとても美しいから。ちょっとした気の強さで心を覆うような自分
とは、根底から美そのもののありようが違うと感じてしまっていたから。
敗北の気持ち、それを誇らしくも悔しくも思う気持ち。様々な思惑を乗せて、メアリも小さく微笑んだ。
「よろしくね、メアリ」
「ええ、よろしく……レウ」
それからメアリは、暇があれば、時折パン屋に寄るようになった。
その時折が、しばしば、に変わり、頻繁に、に変わるのには、さして時間もなく。原因がレウであるのも言う
までもなく。
仕事に就き、生活が安定するにつれて、日々が忙しくなり、料理の時間を奪われ、結果としてパン屋に通い続
ける日々が続いた。気付けばレウの店にとってのお得意様、となっている程度には、メアリはそのパン屋に足を
運び続けた。
それから、レウは親なし子であったということを知り、パン屋の店主から文字や政のうんぬんを教えてもらっ
ているということを知り、彼女が変人であるということを知り、彼女は変人そのものであるということを知り、
彼女はやっぱり変な奴であるということを知り。
単なる知り合いから、友人、という段階に知らず上がっていたことを心の奥底で感じた時には、もうメアリに
は、レウを抜いた日常を想像することは出来なかった。
美しい黒髪を流す、妖精めいた美貌を持つ彼女の姿を、ありようを、思い出すたびに足はパン屋へと向いてし
まう。
だからメアリは、腹が減れば、無意識内に、
「レウ。今日はピザパンの気分なんだけど、ある?」
「ん、あるよ」
ヌダイン、という名の珍妙なるパン屋に、足を運んでしまうのだろう。
* * *
「……どうしたのよ」
「きみとの出会いを思い出していた」
「ちょ、あれは黒歴史だからやめなさい……!」
「それは嫌だ。あれも大事な思い出だ」
「この野郎、恥ずかしい台詞をさらりと……!」
「私は女郎だけど。それに、今の、そんなに恥ずかしい台詞かな?」
顔を真っ赤にして、店の外に設置されているテーブルに額を打ちつけるメアリに対し、レウはただ鉄面皮のま
まに小首をかしげて小さく吐息。
そんな姿も絵になるのだからずるい、などと考えつつメアリはねめつけるようにレウの身を見、言う。
「この天然美形」
「何を言ってんの、美しさならメアリの方が七億倍も上だろ。おっぱい的にもそうだし」
攻撃は瞬時に返しの一撃を乗せられ、メアリのもとへと。その際に受けたあまりの気恥ずかしさといおうか、
そういった類のままならぬもやもやとした気持ちに撃沈させられたメアリは、金髪が乱れるのも構わず、テーブ
ルに突っ伏しつつ、一ダースぶんほどの溜息をひとつに込めて、盛大に、空へと溶け込ませた。
「アホか、アホなのか私……。こっち方面でこの話題をレウに振るなんて、学習能力ないの……?」
「勝手に落ち込むのは構わないけど、目の前で暗い顔されると友人としては困る」
くにくにと指で指をもてあそびつつ、追い打ち攻撃を加えるレウに多少のわずらわしさを感じ、メアリは先程
購入したパンをやけ気味に取り出し、レウの目の前でこれ見よがしにかじってみせた。
「あー、コロッケパン最高」
「ありがとう」
どこかすねたようなメアリの物言いにも、小さな微笑みで返すレウ。
同時につのるは敗北感。
メアリ・ミーティスが実に複雑といおうか忸怩たるといおうか、かように微妙な気分を味わう、そんな昼時。
女ふたりの思惑も知らず、空は青いままだった。
レウはいつものようにパン屋の外でだらだらと客を待ち、そのそばでだらだらとだらけるメアリ。
過去の出来事に紅と含羞の色を乗せ、妙な沈黙が続く。風はひゅうひゅうとひっきりなしに吹き、空から注ぐ
陽光は柔らかではあるが、風にいくぶんか切り裂かれ、そこに在る。
レウが遠くにゆるゆると目をやる。メアリもつられるようにゆるゆると。
そんなふたりの先に、ゆっくりとやってくる、小さな影がひとつ。
小柄な女性だった。
柔らかな陽光を浴びてきらめく黒髪を雅結いのかたちにし、ふわりとした雰囲気を内包するままに、ゆったり
と、ただゆったりと歩を進める女性。小柄でいてどこか気品のようなものが感じられるその女性は、ゆっくりと
周囲を見渡しつつ、レウが経営するパン屋、ヌダインへと足を向け、しばしの間を置いて、レウの前へと降り立
つ。
美しい、というよりかは、綺麗な女性、という方がしっくり来るだろうか。柔らかな丸みをおびた肌はしっと
りと黄色がかっており、浮かべる微笑もその陽光のように柔らかく、ただ柔らかく。まとう衣装がゆるりとして
いることも相まってか、堅苦しさや刺々しさを微塵も感じさせないたたずまい。
上は、白いゆったりとした厚手の布。下には朱色のスカートめいた布を身に着けており、長い長いその黒髪は、
レウほどの宵闇色ではないけれども、光を反射して妖艶な輝きを見せ、そこに在る。
「相変わらずの、のんべんだらり具合ですね、レウ、メアリ」
高い声。女性のなかでもとりわけ高いと思わせるほどの声音。されど小うるささのようなものを微塵も感じさ
せないその音色は、耳にとって有害なものではない。流れる風にも似た、自然と、空気の中に溶け込んでしまい
そうな、そんな声。
それを受け、オープンテラスに設置されてあるテーブルにべちゃりと体を預けていたレウとメアリは、うっそ
りと身を上げ、顔を上げ、頬をゆるませ、その声を出した女性を見やる。
「おひさ、レンカさん」
「こんにちは、レンカ」
柔らかな雰囲気を持つ女性――レンカは、黒髪の少女と金髪の女性の言を受けて、ふわりと微笑を浮かべつつ、
どこかふざけた所作を四肢であらわしつつ、返す。
「はい、レンカです。巫女巫女しています、相変わらず巫女巫女です」
いたずらめいたその仕草を見、レウは微笑を、メアリは苦笑を、それぞれ返す。
風が流れる。簡易的なブラックドレスめいた衣服に身を包んだレウ、その黒髪が、風にもてあそばれ。どこか
幻想的な雰囲気を示すその暇もあらばこそ、少女は言う。
「ご注文は?」
「ピーマンたっぷりピザパン。それと、イチゴジャムとマーガリンのコッペパンをください」
「はい、少々お待ちを。こちらで食べていく?」
「ええ、ここで腹に入れていきます」
妙な会話を交わしつつ、レウは店の奥に行き、しばしの間を置いてプラスティック製のトレイに乗せたパンを
レンカの元へ、ぐいとやる。
それに対し、レンカはふところから小銭を数枚取り出すと、ぽんと放り出すようにレウの服の胸元へと投げ入
れた。するり、と衣擦れの音と同時、苦笑の声が漏れる。
「ガキの身だからひっかからないよ」
「一回、おっぱいに金を投げてみたいと思ったんですが……人選ミスでしたね」
瞬間、柔らかな雰囲気を自ら破棄し、レンカは皮肉げな笑みを浮かべると、パンを片手に、もう片手は自分の
胸に手を当て、諦念の入り混じった溜息をひとつ。
次いで、その暗い思いを吹っ切るかのように、がぶり、と擬音がつきそうな勢いで、巫女たる女性は山なりの
噛み跡をコッペパンにつける。
その断面からは、粘着性のある赤と白がのぞき、とろりとろとろとパンの断面に染み込み、芳醇な香りを空気
に、風に乗せて、そこにたたずむ。
「おおう、相変わらず美味ですね」
「チョコチップメロンパンも食べてほしいなあ。看板なのに」
ぺろり、とどこか挑発的な仕草でジャムを舐めとりつつ言うメアリに対し、レウは鉄面皮のそれに表情を戻し、
残念だ、といった仕草で肩をすくめる。
「何度も言いますが、チョコレート自体、苦手なんですよ。あの風味がちょっと駄目で」
「まあ、無理強いはしないけど」
小さく息を吐いて、レウは髪をかきあげつつ、遠くの空を見やる。
外来の行商たちの仕事具合はどうやらいいらしい。いつもよりパン屋の席が寂しいという事実が、それを裏打
ちしている。今、こうして商売中であるのにもかかわらず、雑談が出来ている程度には。
そんなレウの思いを察知したのだろうか、レンカは独特の衣装をいじりいじりつつ、トレイをテーブルの上に
置き、今度は赤と緑と黄の目立つパンをかじりつつ、くすくすと笑う。
「閑古鳥の愛人状態ですね」
「大丈夫。一晩たったらヤり捨てられて、明日にでも繁盛だろうし」
「ならいいのですが。……ん、いつもより香辛料多めですか?」
「うん、ちょっと変えてみた。評判悪かったら変えるから大丈夫」
「いや、私はこっちの方が好きですよ。ピーマンの風味が立ちながらも、気になる臭みが弱まりましたし」
ピザパンを食べ、唇の横にケチャップの赤をまとわせつつ言う雅結いのレンカ。
風は鋭利でいて柔らかで、人の波は今現在、シュムシュの町だけひっそりと。昼時であるのにどこか暗い雰囲
気はそのせいだろうか、それを誤魔化すようにメアリがふたりの間に割って入る。
「東方の祈祷師、だったっけ?」
白と紅が目立つ独特の衣装を見つつ、あからさまな話題転換の言を放ったメアリに対し、レンカはくすくすと
笑いつつケチャップを舐めとり、その袖をひらりと。
「ええ。前にも言いましたが、まあ、擬似的な巫女っぽいもの、シャーマンさん、ですね」
「巫女さんか。お祈りとか儀礼的なものってやるんだっけ?」
「はい。いもしない神様を崇め奉り、神職という特別な職に就く者がする特別な行為だから、という理由で、く
だらんママゴトめいた儀式に対し、すげぇ割高な料金を客に要求するという、ヤクザであこぎな商売です」
聞く人が聞けば激怒しかねない罰当たりな言葉を吐くレンカであるが、その双眸に宿る光は真剣味を帯びに帯
びており、言葉尻に稚気は垣間見えども、真意そのものは揺らぎようもないことは見てとれる。
メアリは苦笑、レウは鉄面皮。明るい時間帯、客足なしのヌダインに、女性三人の呼吸が合わさる。
レンカは、東方の大陸に居を構える巫女である。ときおりシュムシュの町に観光と休暇がてらに来て、しばし
ばレウの店でパンを買い、食べていく。ただただ綺麗と思わせるような容姿と雰囲気、それに加えて、東方独特
の衣装の物珍しさも相まって、レウは気付けば彼女と深く関わるようになっていた。
毎日会う間柄ではないが、互い互いの存在を気付けば忘れるほどに薄い間柄でもない。今こうして、店が暇な
時に、雑談めいた言葉を交わす程度には。
「まあ、ほとんど外聞的要素で商売していますからね。清純なイメージが求められるわけです。神に仕えるんだ
から清純であれ、清廉であれ、処女であれ、という。姦淫済みの女は巫女になれないんです」
「それもそれでおかしな話ではあるかもね。文化とか風習といえばそれまでだけどさ」
指先で器用にくるくるとトングを回しながら言うレウ。
瞬間、レンカは何かしらのスイッチが入ったのだろうか、やにわに目を血走らせて天をねめつけ、口を開く。
「ぬぁーにが清純派だコンチクショー! 処女以外認めないってどういうことだゴルァ! 男の願望欲望丸出し
じゃねぇか、恥ずかしくねェのか!? ああ私は処女だ、処女だよ! 25にもなって未だ処女だよ! 行き遅れ
とか言わないでよ、頼むからさぁ! 近所のおばちゃんたちも、憐憫のこもった視線で見てくるし……。やっぱ
り胸か、胸がいいのか!? あの無駄な脂肪がいいのかコノヤロー!!」
怒号のように言葉を矢継ぎ早に発し、諸手を上げて怒髪を天へと向かせるは、25歳処女巫女、レンカ。
その様相は恐ろしいだの醜いだの美しいだもの云々言う前に、それこそ憐憫のともなう領域のそれであった。
発する内容の情けなさが、その姿をよりいっそう憐れなるものにさせている。
「巫女で食ってるけど、処女じゃなくなると食い扶持なくなる、ふしぎ! コノヤロォォォッ! 社会的に私を
お局様計画ですか!? 胸小さい行き遅れ巫女には、永遠のヒーメンがお似合いってかチクショーッ!!」
天に向かって咆哮するレンカを見ながら、酒も飲んでいないのに、よくもまあそこまで口と舌が回るものだ、
とレウは思う。わずかな思考の時間も見せず、矢継ぎ早に言葉をくり出せるレンカは、恐らく頭の回転が非常に
速いのだろう。だからといって、発する言葉の内容が内容であるので、技能の無駄づかいにも程があろうという
ものではあるが。
「……また始まったわね。レンカさんの愚痴」
「黙っていれば普通に美人さんなのにね」
そんな彼女の『いつもの姿』を見つつ、あきれ顔のままに平手で額を覆うメアリを尻目に、レウは微笑する。
一応は日常光景、であるのだ。この巫女の狂乱痴態は。
同時、メアリの豊かな胸の膨らみに向けて、殺人でもしそうな目をレンカが向けることも、また日常であり。
「モウヤダー! 巫女やめる! やめて充実したセクロスライフするゥゥゥッ! 私だって男の子と手ぇつない
で、一緒に散歩してアイス食べてイチャイチャした後で獣のように性器をこすり合わせたいィィィィッ!!」
そろそろ内容が苛烈を通り越して下劣になってきたレンカの愚痴。さすがにこのような内容を思い切り口に出
されては、レウの頬の筋肉も引きつる。
いくら町のなかを行く人間が少なかろうと、皆無というわけではない。しかしそれにも目をくれず、下品でい
て下劣な内容を大声で垂れ流すレンカの姿は、滑稽というよりかは憐憫しかもよおさぬほどに哀れなるそれであ
り、見れば聞けば思わず溜息のひとつふたつは出ようというものだった。
「……うん、男ができない理由がなんとなく分かるわ」
「恥じらいってのも大事だよね」
右手に巻かれた深紅の腕輪を確かめるかのようにいじるメアリを見つつ、レウは苦笑した。
そろそろ殴ってでも止めないと、という金髪の女性の意志表示である。
「まあ、私らも男っ気ゼロだけど」
「言わないでよレウ。……アンタはすぐ解消できそうだからいいけどさ」
「こんなガキペチャの氷結顔面の生意気パン屋に相方が簡単に出来たら、出会いを求める人に失礼だよ」
「そうかしら? まあ、貴女がそう言うなら何も言わないけど」
わめき続ける巫女をかたすみに、女ふたりで桃色ながらも灰色の会話。やや強めの風が流れる昼、パン屋の周
りだけは混沌の旋風が渦巻く。
しばしの間を置いて、耳が我慢の限界を迎えたと悟ったレウは、わめき続けるレンカへと身体を向けた。
「そろそろ黙ろう、わんぱくさん」
ゴロリ、と音を立てて、暴れる巫女の両こめかみにこぶしの骨を柔らかくぶつけるレウ。なだらかな、子供も
子供といったその特有の丸みと柔らかさを持つ骨と肌をそれなりの力であてられたレンカは、そこでようやっと
我にかえり、周囲の状況を見、次いで、頬をうっすらと赤く染めた。
「あ、すみません……。ついつい熱くなってしまって……」
どうやら平静を取り戻したようである。が、彼女の視線は相変わらずメアリの豊満な胸部装甲に向かっており、
まるで獲物を見つけた鷹のごとく、微動だにしない。
レンカという巫女は基本的に温厚であるが、いくつかの言葉や立場や話題にひっかかりを覚えた際、柔らかな
おもてはすぐに瓦解し、獰猛で短気な部分が見えてしまう。それはそれでひとつの魅力なのかもしれない。現に、
彼女のこの気質を欠点としてみておらず、こういう面もあるから楽しい人だ、とレウが感じているように。
とはいえども、店先で性器がどうとか言われれば、それなりに困りはするわけで。『ヌダイン』に集まる人間
が、いくら変人ばかりといえども、昼前の気持ち良い天気のなか、そんな会話が混ざるのは、さすがに色々な意
味で止めるべきことである。
とりあえずレウは店の奥から、温めた牛乳の入った瓶をレンカに渡し、鼻息ひとつ、言う。
「ほら、牛乳あげるから沈静化を希求。あったかいよ」
「わお、ありがとうございます。これだからこの店はやめられないんです」
先程までの狂乱痴態はどこへやら、ころりと表情を変えてレウから牛乳瓶を受け取り、レンカはにこにこと笑
いながら小さく吐息。
もしかしてわざと騒いでそれをダシにしたか? などとレウは思うが、まあそれはそれで構わない。見返りを
求めるようなサービスをやるほどに商売に走ってはいないのだから。
大事そうに瓶を両手で握りつつ、白い液体を流し込むレンカの姿の微笑ましさを見れば、多少の節介も、まあ
許容できようかというものだ。
「グフフゥ……、これで乳が少しでも成長すれば御の字ですね……」
「お胸、そんなに必要かなぁ? ガキな体の私にゃ分からん領域の話だな」
肩をすくめてレンカを見つつ言うレウ。当の巫女様は、なんともまあはしたない表情で、生来の綺麗な顔を台
無しにしているのに気付いていない。
「うーわ、なんというか、名画に墨汁ぶっかけてるみたいね」
「はなから飛ばしているぜ、この巫女様は」
レンカという女性は元来、柔らかな雰囲気を持つ、春の陽気にも似た存在ではあるのだが、発言が発言、態度
が態度、ありようがありよう、である。
「グフフゥ……」
「まあ、確かにもったいなくはあるな」
レウはレンカを見つつ思う。綺麗な人なのになあ、と。
胸がないだのどうだの言うが、体の起伏がさほど分からない服の上でも分かる、細身でいてしなやかな体躯は、
豹を想起させる。たれ気味の目が、鋭利な雰囲気を持つおとがいと合わされども、それでちぐはぐだという印象
はしない。危うい位置に立ちながらも真正面を向いているような、違和と規律に満ちたという珍奇な矛盾たるア
ンバランスな雰囲気が、なんとも奇妙な艶を醸し出す。
顔立ちは整っているし、柔らかでいて細いその身は、美術品を預かるかのごとく、おずおずと触れてみたくも
あるような魅力に満ち満ちていた。ややもすれば幼顔のきらいがあるかんばせが、その細き体躯によく似合う。
はかないけれども芯がある。そういった印象を持つレンカの容姿は、雰囲気美人、という方が正しいだろうか。
容姿的な美しさもかなりのものであるのに、見る者の心を揺れさせるような気品のあるその姿は、美人という言
を用いてもおつりが来るであろうほど。
が、雰囲気美人であるからこそ、言動に気を付けねばならぬのは言わずもがな。であるのに、その言動が下品
とか下劣とかを全く気にしない直球加減だから、色々と当惑して男の人が寄ってこないのではないか、レウはそ
う思うのである。
なにせ、子供から「赤ちゃんはどこから来るの?」という質問を受けた際に、真顔で「きみのお母さんのお股
からですよ」と言うような、非常に残念素直な気質を持つ女である。
多少の官能的発言など、いまさら茶飯事にもなりはしない。それがまた残念美人度を加速させる。
とはいえど、レンカに男が出来れば出来たでまた色々と面倒なことになるのは想像に難くない。だからこそ、
レウが抱く思いはそれなりに複雑であった。男の人を作って欲しいけど欲しくないなあ、という。
そんなことをつらつらと考えれば、いつの間にやら、パンも牛乳も全て胃の中におさめたレンカが、どこかす
ねたような表情でレウとメアリを見ていた。
「メアリはいいですよね。レウっていう旦那様がいますものね」
「ちょっと待てそこの巫女。私は女、レウも女。わかる?」
まるで聞き分けのない子供に説教をするかのように、頭を手のひらでおさえつつ言うメアリ。言葉を放った側
も放った側で冗談だと分かっているために、苦笑のみがそこに満ちる。
「私はメアリが奥さんだと嬉しいかな」
「え、ちょ、な、なに言ってるのよ?」
「ぬおう、百合ん百合んですか?」
だが、空気を読まぬレウの発言で、急遽、場は桃色の雰囲気に。
されどそれもわずかな間のことで。
「性別とか気にしないな。好きな人は好きなだけだし。我ながら実にガキっぽい台詞だけど」
「……あー、アンタってそういう奴だったわよね」
やれやれ、と言わんばかりにかぶりを振りつつ、手のひらで額を抑えるメアリの姿を見て、レウは首をかしげ
る。そんなふたりの様子を見て、レンカはレンカでからからと笑うだけだ。
「まあ、忘れてくれ。そっちにも選ぶ権利はあるだろうし」
「ええ、でもちょっと驚きなのよ」
「私に変なこと言われたから?」
「それほど嫌じゃないと考えている私自身が、よ」
微妙な空気が流れる。
メアリは、自分で自分の放った言葉の意味に気付き、頬を薄紅色に染めて、恥じらいの意を見せつつ後悔の吐
息をひとつふたつ、同時に体を縮めて含羞の色をそのかんばせに乗せる。対するレウは疑問顔、そばにたたずむ
レンカはとうとうおかしくてたまらぬといった風に、腹を抱えて笑い転げる。
どこかずれた空気と流れ。今、この場にいる女性三人が、尋常のそれとは違う珍妙な思考回路をしているせい
だろうか。妙な、とかく妙な空気がそこにはあった。
「そ、そんなことより、これからレンカさんはどうするのよ?」
「あと三日ぐらいここに滞在した後に、各地を適当に回りながら物資を整えて、故郷にまた戻ります」
あからさまな話題転換の言に対し、当の巫女はこともなげに答える。それは、空気を読んだ上での態度だった
のだろう。それに一も二もなく、メアリは飛びついた。
「不良巫女ね、外国に遊びに来てばかりじゃないの」
「こっちは儀礼道具を取り揃えなきゃいけないのに、出不精ばっかりで私が出ざるを得ないんですよ! だから
こういった場所で息抜きのひとつぐらいもしないと、鬱憤で巫女長を殴り倒してしまいそうで……!!」
牛乳が入っていたコップを握り、だずん、と鈍い音を立ててレンカはテーブルにこぶしを打ち付ける。力自体
はあまり入っていないが、華奢な彼女が出すそれは、その身にはそぐわない大きさをもってして周囲の空気を切
り裂いていった。
はるか東方の地は、独特の文化や技術が発展している。言語もそのひとつであり、レウたちが用いるそれとは
根本的に体系が異なるらしい。だからして、レンカのように外へと出回る職の者は、外来語習得が必須項目であ
るのだ。
しかしながら、外来語を上手に使えるのはレンカぐらいらしい。他の巫女も使えなくはないのだが、色々と勉
強経験が長いレンカと比べればつたないもの。儀礼用道具を購入する際、変なぼったくりに会わないようにする
ためには、細かな言葉の理解は必要不可欠。必然、レンカにお鉢が回るというかたちに落ち着くのである。
適材適所、と言うのかもしれないが、当人にとってみれば使い走りをやらされている気分なのだろう。彼女の
その琥珀色の瞳に浮かぶ、抑えられた憤怒の念は、視認可能なほどに明確でいてあからさまである。
「中間管理職は大変だなあ」
「パン屋もそれなりに大変そうでしょうけどね。まあ、隣の芝ならぬ職はドス黒く見える話ということで」
「まあ、パン食べろ。とりあえず新作でも食ってくか? 生贄になってみる?」
「いいんですか!? ぜひお願いします!!」
髪を乱し乱し、目を輝かせてぴょこぴょこと上半身を揺さぶるレンカ。
その姿を見て、レウは苦笑する。こういう可愛いところを見せれば婚期なんて逃しはしないのに、と。
「……なんですかこれ」
「納豆カレーパンだけど?」
「なんですかそのゲテモノは……って、うめえ! 地味にうめぇ!」
「あれれ? ネタで作ったのに、もしかして成功?」
妙な空気はあれども、今日も今日とて、シュムシュの町は平和な一時であった。
平和でいて、平和でいて、あまりに平和でいて、まるで、何かしらの嵐が起こる前の静けさのように。
ただ、ただ平和であった。