見上げた空は灰色で低く、手を伸ばすと触れられるような気がした。
コートのポケットから右手を出して、空に突き上げてみる。
もちろん触れられるわけもない。馬鹿な事をした。
恥ずかしくなって、慌てて手をポケットに戻す。それでなくても斬りつけてくるみ
たいに冷たい空気のなかに、いつまでも手袋もしてない手を出しておきたくはない。
今更ながら周囲の目が気になって辺りを窺った途端、私はさっきの私の首を絞めて
殺してしまいたくて仕方がなくなった。
公園の入口に、ブランコに乗った私を目を丸くして見詰めている少女がいたのだ。
最悪なことに知った顔だった。
いや、こんなときじゃなくて顔をあわせたんだったら、快哉を叫んですぐさまお上
品に少女を洒落た喫茶店にでも拉致しようと図るだろう。
それくらい、好意を抱いている相手にこんなヘンなところを見られてしまった。
凍りつく私に、少女は困った顔で考え込んでいる。
おそらく、さっきの私を見なかったことにしたほうがいいのか、悪いのか、判断が
つかないのだろう。
そういう優しいところも可愛いな、などと思いつつ覚悟を決める。
精一杯普段の顔を繕いながら少女の名を呼ぶと、彼女は一瞬小首をかしげ、素直に
公園の中へ足を踏み入れてきた。
スカートのプリーツを整えながら私は立ち上がり、砂場の辺りで合流した。
日本人の平均身長にほぼ等しい私より、目線一つ分背の低い少女は、子犬のような
目をくりくりとさせて私を見上げてくる。
オレンジ色のリップが淡くのっている唇から出た、なにをしていたんですか?
という無邪気な問いに、飼ってる猫を総動員。今壁の上を横切ってる野良猫も掻っ
攫う勢いでゆっくりと笑う。
空が泣き出しそうだったから、つい、手を伸ばしてしまったの。
一度も色を抜いたことのない、腰まで伸ばした自慢の髪をかきあげながら、自信
たっぷりに言い切ってみた。
そうなんですか、と素直に感心したような返答に、水準よりかなり高い容色に生み
出してくれた両親に心の中で感謝する。十人並みの容姿でこんな事を言ってしまっ
たら、まったく笑える冗談にさえなりはしない。
そのまま無言の時間。
寒々しくなっていく空気に、焦りまくる。
いつもだったらいろいろと話題を振って少女の歓心をかおうと努力するのだけれど、
さっきのショックがまだ残っているのかなにを言えばいいのかまったくわからなかっ
た。
互いに見詰め合ったまま、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
ひときわ強い風が、少女の猫っ毛をかき乱した。
くしゃん、と可愛らしいくしゃみが一つ。
はっとする。
確か、この子は寒さにそう強いほうではなかったはずだ。現にそばかすがうっすら
と浮かぶ鼻の頭は赤くなってきている。
慌てて、帰りましょう、と促した。
この公園からだったら、適当な店よりも少女の家のほうが近い。
少女はますます目を丸くした。
その眼差しに、少し居心地が悪くなって視線をずらす。
・・・・・・・たしかに、まあ。
いつもの私なら、少女と話せる機会に有頂天になって、少しでも長く自分の側に
引き止めようと必死になっているところだ。
でも今日はなぜか、そんな気分ではなかった。
私が普段の私ではないせいか、少女も普段の少女ではなかった。
いつだって私はかまいたくて仕方がないのに、いつもするりと魚が銀の腹を踊らせ
るように見事に逃げ切ってしまう少女は今日ばかりは逃げ出したりせず、こくりとうな
ずく。
その仕種に目を疑った。
先輩のおうちも同じ方向ですよね。一緒に帰りましょう?
その言葉に、耳を疑った。
夢でも見てるのかしらと頬をつねりかけて、あまりにもみっともないその行動を
全力で堪えた。
いい子にしていたらきっと、こういう日だってあるのだ。
寒いですね、という少女に、そうね、と答える。
手でもつなぎましょうか、という少女に慌てて、コートのポケットの中で手のひらに
滲んだ汗を拭った。
はじめて握る少女の手のひらは、小さくて、熱い。
これは私の手のひらが緊張で冷たくなっているからかもしれないけれど。
とくとくと血の流れる音さえ聞こえてきそうなほど暖かい手のひら。
頭の芯がぼおっとなりそうだった。
じわじわと、全身に広がっていく幸福感が私の足取りを軽くする。
今まで生きてきた中で、一番、手のひらに神経を集中した。
気持ちがよすぎて死んでしまいそう。
少女の家まであと百メートル。永遠に、道が続けばいいのに。
END