1.
冬の短い日が沈み、辺りはすっかり暗くなっている。
人々の生活の証である電光が、その暗闇を照らしていた。
「あーっ、もう。この先の展開が思いつかない」
とある一軒家の一室で少女の声が響く。嘆声にしてはやや大きい。
「まぁまぁ」
そんな少女の横で、少年のなだめる声がする。
「落ち着いて。焦ったっていい作品はできないよ」
そう告げた途端、少年はティーカップに入っている紅茶をすすった。
「なに悠長なこと言ってんの、浩太。もう締め切りは近いんだから」
浩太と呼ばれた少年が、その少女の言葉を聞き、肩をすくめる。
「だったら、何でもっと早く着手しなかったの?」
「しーまーしーた。今年の春からずーっとパソコンに向かって。キーボードをカタカタと」
「それで、小説はどのくらいまで出来たの?」
「・・・構想の半分くらい・・・」
「・・・今年は諦めたほうがいいかもね」
「嫌。絶対今年に投稿するって決めたんだから」
そう言って少女は再びパソコンと向かい合った。
「ねぇ、美里」
頭を抱えている少女、美里が振り返って、浩太を見た。
「んぁー?」
「構想ができているのに、何で展開が思いつかないの?」
すると、美里は人差し指を上に立て、それを横へと振った。
「全然分かってないんだから、あんたは」
紅茶を飲みながら、浩太はその言葉を聞いていた。
「あの場面とあの場面を、いかにうまくつなげるか。そして尚且つ、読者をあっといわせる表現も考慮して――」
美里は自分の創作論を展開したが、浩太はうんざりした表情を浮かべ、半分以上を聞き流していた。
「君の理論はよく分かったよ、美里。だから、早くそれを実行してほしいな」
「あんたが話しかけてきたんでしょーが」
「ごめん、俺が悪かった。執筆の続きをどうぞ」
再び室内を静寂が支配した。
だが、手持ち無沙汰になった浩太はやはり退屈だった。
「ねぇ」沈黙に耐えかね、ついに浩太が口を開いた。
「なーにー?」丸っきり指を動かしていない美里が、ややけだるそうに応えた。
「今度はどんなジャンルの小説を書いているの?」
「んー、純文学に近いかも」
「うぇっ」
浩太は思わずうめき声を漏らした。
「何よー、その声」
「だって、また読まされるんでしょ、俺」
「当たり前じゃん。最初の読者があんたなのは、昔からのしきたりでしょ」
「ああいう堅い文は正直・・・」
「どこが堅いのよ。芸術的で素晴らしい名文の嵐じゃん」
浩太にとっては、美里の言うその「芸術的で素晴らしい名文」が苦手なのだが、目の前の少女にそれは分かってもらえなかった。
「いま暇でしょ。そこにある名作たちでも読んで、少しは純文学に慣れておいてよ」
そう言って、美里は本棚を指した。
背の高い本棚が4つほどある。そのうち3つには本がぎっしりと詰まっており、残り1つも半分くらい埋まっていた。
「えーっと、どの辺?」
「純文は・・・一番左の本棚の、上のほう」
浩太が見上げると、そこには名高い文豪の作品がずらりと並んでいた。
しかし、文学にまるで興味のない浩太には、一部の作品を除いて聞いたこともないタイトルばかりが目に入った。
そこで彼は、おそらく日本で一二を争うくらいに有名なタイトルを手に取った。
ベッドに腰掛け、活字を追っていた浩太だが、数十分も経たないうちに本を閉じてしまった。
「・・・ダメだよ、美里。何か疲れてきた」
そういって、彼は小説を本棚に戻した。
「えーっ、何でよー。無我夢中になるくらい面白いのに」
「安心して、君のはちゃんと読むから。・・・何とか努力して」
「もう」
美里は呆れ顔で浩太のほうを見つめている。その浩太は、一番右の本棚で読むものを物色していた。
「どんな本がいいってわけ?」
「俺にはこういうのが合ってるかな」
彼の手の中にはティーンズ向けの小説があった。
「また。あんた好きだよね、ライトノベル」
「まぁね」
浩太は再びベッドに腰掛け、読書に勤しんだ。
浩太の読んでいる小説は、主人公の少年と少女が活躍する冒険物語だった。
そして、その二人の人物の関係は――
(幼馴染み、か――)
浩太は思わず本から顔を上げ、パソコンの前で頭を悩ませている少女を眺めてみた。
(俺も美里とは随分長い付き合いになるなぁ)
浩太が美里と出会ったのは幼稚園の頃だった。
幼稚園から自宅まで向かうバスの中で、いつも最後まで残っていたのは浩太と美里だけであった。
園児が彼らだけになってしまった空間で、退屈を紛らわすために二人は話し込むようになり、そして大の仲良しになった。
お互い家が近所であるので、二人は毎日のように一緒に遊んでいた。
子供の頃から現在まで、その関係は変わっていない。
浩太は読書を中断し、ティーカップを手に持ち、美里を眺めながら物思いに耽っていた。
(それにしても、我が幼馴染みがこんなにも本の虫になってしまうとは思わなかったなぁ)
幼い頃の美里は、外でしか遊ばない女の子であった。
美里の探検ごっこやヒーローごっこといった遊びに、浩太はくたくたになるまでつき合わされていた。
(それが・・・)
本の世界に没頭するようになってから、美里は友達との付き合い以外ではあまり外に出ることはなくなった。
もちろん自宅で本を読んでいるのであるが、しかし何よりも自分で文章を書くことに時間を注ぐようになったのだ。
(ホント、人っていつどんな風に変わるかわからないもんだよねぇ)
浩太は空になったティーカップを床に置き、再び物語の世界へと入っていった。
その瞬間、キーボートを打つ音が室内に響くようになり、それはしばらく途切れることがなかった。
だが、その音を聞き読書に勤しむ傍らで浩太は思うことがあった。
(美里ってば、高校生なのに純文学なんて書けるのかな。・・・無理だと思うけどなぁ)
浩太はさっき見ていた小説の文章を拠り所として、そう勝手に結論付けていた。
(背伸びしすぎず、この本みたいにもっと軽い文章を目指して書いたほうがいいような――俺のためにも)
彼はため息をつき、そして今度こそ読書に集中した。
2.
美里が本に取り付かれたのは小学3年生のときだった。
「美里ー、お昼休みだよー。早くグラウンドに行こうよ」
今よりもっと少年であった浩太が美里を催促している。
「・・・うん」
返事はしているものの、美里は自分の机から一向に離れる気配をみせず、教科書を耽読している。
「何で休み時間でも教科書読んでるのー」
「だって、続きが気になるんだもん」
昼食の前の時間は国語の授業だった。その授業ではとある小説を題材としていた。
「また明日続きやるって先生言ってたよ」
「明日まで待てない」
「えーっ」
「悪いけど、今日はパス。あたし抜きで遊んできていいから」
「もー」
帰りの時間となり、ランドセルを担いだ浩太が美里に話しかける。
「美里ー、帰ろー」
「ごめん、ちょっと図書館寄ってもいい?」
「・・・・」
「何、その顔」
「あんな静かな場所、美里とは一番無縁なところだよ。騒いだら駄目なんだよ」
「あんたねぇ・・・あたしを何だと思っているの。本を借りに行くだけよ」
「美里が本・・・?・・・ぜ、絶対熱があるよ。確かめてあげる」
「・・・あんたって奴は・・・」
一人で図書館へと向かっていく美里の後を、浩太は慌てて後を追った。
*
「いやー、悪いね。あんまり構ってやれなくて」
帰り際の浩太に美里が自宅の玄関で話しかける。
「別に気にしてないよ、そんなこと。・・・だっていつものことだし」
「あはは、本当に助かるよ。あんたがベッドに座ってると、あたしは椅子に固定されざるを得ないから」
「もうちょっと、集中力を養った方がいいんじゃない」
「むぅ・・・分かってるよ」
美里はふくれっ面をしてそっぽを向いた。
「じゃあね」
「うん、また明日」
外に出た浩太は冬の冷気に身を縮ませながら帰路についた。
3.
朝の日差しがカーテン越しに伝わってくる。
小さなデジタル時計が7時を示した瞬間、高らかな音が鳴り響いた。
その喧騒は布団の中から出てきた手によって遮断された。ベッドの上の布団が盛り上がる。
「んーー」
美里はベッドの上で背伸びをした。その後しばらく眠たげな顔を浮かべてベッドを愛おしいそうに眺めていたが、やがて部屋を出て階段
を下っていった。
「おはよー」
パジャマ姿の美里は、すでに食卓についている両親に朝の挨拶をした。
両親の返答を聞きながら椅子に座り、目の前にあるパンにジャムを塗って食べ始めた。
「美里」
父親が読んでいた新聞をたたんで娘の名前を呼んだ。
「なに?」
「もうすっかり冬だな」未明から降り注いできた雪を見ながら父親が言った。
「そうだね」美里は特に言うべき言葉が見つからなかったので簡単に相槌を打った。
しばしの間、沈黙が保たれたので美里は再びパンを食べ咀嚼しだした。
彼女がパンを飲み込んだ瞬間、父親は穏やかに、だが力のこもった声で告げた。
「来年の受験に向けて、本腰を入れる時期だぞ」
その言葉を聞き、美里はお茶の入った湯呑みをとろうとする手を止めた。
「分かってるよ」
「その割には、お前の机はいつもパソコンが置いてあるが」
「お父さんが見てないだけで、ちゃんと勉強もしているから」
「そうか」
「そう。ていうか、朝っぱらからこんな憂鬱にさせるようなこと言わないでよ」
「はは、確かにな。だが、大学受験は厳しいからこそ早めに準備しておかなければいけないんだ」
そう言って父親は食卓を離れ洗面所へと向かっていった。
すると、今まで黙っていた母親が美里に話しかけてきた。
「美里、志望校はもう決めたの?」
「ううん、まだかな」
「早く決めなさいね。昨日遊びにきた浩太くんはもう決めたんでしょ。浩太くんのお母さんがそう言って――」
「えっ」美里は驚いた。そんなこと聞いてなかったからだ。
「知らなかったの?あんたたちそういう話はしないで、一体部屋でいつも何してるの?」
「あ、いや、その・・・」
美里は言葉につまった。「私が小説を書いているのを、ただ見ててくれているだけ」なんて言えるわけがなかった。
小説家を目指していることが両親に知られたらどんなに反対されるか。それを美里はよく分かっていたのである。
家族に知らせるのはせめて実績を出してからだと、美里はそう心に決めていた。
「あっ、もうこんな時間。早く仕度しなきゃ。ごちそうさま」
ごまかしの言葉を述べ、美里は急いで食べたものを片付け、洗面所へと向かっていった。
寒天からは雪が途切れることなく降っていた。新雪が地面やコンクリートを覆い、辺り一面を銀世界へと変えている。
外へ出た美里は、雪を踏みしめながら学校へと向かっていく。
その道中、彼女は浩太の姿を見かけた。彼も厚手のコートを身に纏って歩を運んでいた。
浩太の傍まで早歩きで向かい、美里は朝の挨拶を交わす。
「おいっす、おはよう」
「おはよう」
簡単な儀礼を済ませた後、美里は浩太に今朝知ったことを問いただした。
「浩太、あんたもう志望校決めたんだって」
「うん、まぁ」
「何で教えてくれなかったの」
「言ってなかったっけ」
その言葉を聞いて、美里はやや呆れ顔で「聞いてない」と言い放った。
そして、彼女は思った。この幼馴染みは小さい頃からいつもこうなのだ。自分のことは決して積極的に話そうとしない。
それが美里には少し寂しかった。
すでに気心知れた仲とはいえ、長い付き合いなのだからお互いのことをもっと何でも知っていたいのに、と考えていた。
「そっか。K大学だよ、つまり地元の大学」
「それじゃ、国立だよね。大丈夫なの、いけそう?」
「大丈夫じゃなさそうだから、これから気合を入れて勉強に勤しむわけですよ」
浩太はため息をついた。まるでそれ以外の選択肢はないかのように。
事実そうだった。浩太は大学へいくなら国立しかないのである。兄第が多く、家計が火の車な浩太の家では、私立の学費を払える余裕が
なかった。
幼い頃から何度も浩太の家に出入りしていた美里は、すぐにそれを察する。
だが、彼女は思った。おそらく浩太は最初は就職を考えていたにちがいない、と。
それでも進学するのは、家族がそれを願ったからだろう。もちろん、これは美里の推測であるから真実は違うかもしれない。
答えは分からなかった。デリケートな問題のため美里は尋ねようとはしなかったし、それに彼女の幼馴染みは聞かれなければ自分のこと
をあまり話してはくれないのだから。
美里は推測するしかなかった。小説の登場人物の心情や身の上を考えるかのように。
「わ、悪いね。朝からこんな憂鬱になりそうな話しちゃって」
美里は朝食の際に父親からされたことを自分もしてしまったと思い、反省の意をこめて謝罪した。
「いや、別に。それより君は大学どうするの?」
「あ、あたしは、そうね、これから考えてみる」
「ふーん。あっ、でも今は小説のことで頭がいっぱいかな?」
「うっ、・・・まぁそんな感じ。これから受験生になるっていうのにね」
「いいんじゃない、春から本腰を入れても。美里、意外と勉強できるし」
「意外とは何よ、意外とは」
こうして笑いながら、二人は学校へと向かっていった。
4.
美里が創作をするようになったのは、読書習慣が身についてから1年ほど経った頃であった。
「読んでみてよ」
公園のベンチの上で、美里が浩太に言った。
「う、うん」
浩太はたった今手渡された原稿用紙数十枚をぱらぱらとめくってみた。
「長いね・・・」
「だって力作だもん」
美里は得意そうに答えたが、浩太は少々辟易していた。
「じゃあ、帰ってからゆっくり読ませてもらうね」
浩太は原稿用紙をランドセルの中に仕舞おうとした。しかし――
「何言ってんの。いますぐ、ここで読んでよ」
それは叶わなかった。
「・・・はいはい」
昔から主導権を握られていたからか、浩太はどうも美里の言うことには逆らえなかった。
彼は原稿用紙を広げ、読み進めていった。
「この草が主人公なの?」
「そう。へへっ、中々ないでしょ、こんな小説」
そうでもないような、という言葉を浩太は飲み込んだ。
「・・・草って自力で地面を抜け出せるの?」
「べ、別にいいでしょー、お話の世界なんだから」美里は口を尖らせた。
「草って歩けるの?」
「あーっ、もう、黙って読んでよ。文句なら後でまとめて聞くから」
数時間ほど経ち、夕日が空を橙色に染め始めた頃、浩太は小説を読み終えた。
「ど、どうだった」
美里が感想を尋ねる。その声は、どこか不安そうでもあった。
「んーっとね」
「う、うん」彼女は固唾を呑んだ。
「・・・何か微妙だった、かな」
主導権は昔から美里にあったものの、それでも浩太と美里は、主人と奴隷のような関係ではなかった。
気心知れた仲だからこそ、マイナスなことでも言うべき時にははっきりと言うのだった。
「・・・・えっ・・」
しかし、当然のごとく美里はショックを受けた。何日もかけて作った作品を否定されたのだから。
作家になりたいと思い立ち、その一歩として小説を書いたのだが、いきなりその出鼻をくじかれた。
彼女の目には、いつしか自然と涙が溢れていた。
「あの…その…」浩太は驚き、言葉が出てこなかった。目の前にいる女の子の涙をはじめて見たからだ。
美里は手で顔を覆ってうつむいた。そしてその場にしゃがみ込み、声を押し殺して泣いていた。
浩太はますます困惑したが、何とかして言葉をひねり出した。
「・・・また、読ませてほしいな」
美里は顔を上げ、濡れた目で浩太を見た。
「美里、お話が好きなんでしょ? だから一生懸命書いたんだよね? 今のは全く面白くなかったけど、でも新作ができたらまた――」
そこまで言って、浩太は口をつぐんだ。美里が笑みを浮かべ、静かに笑い出したからだ。
「あんたねぇ、慰めてくれる気、全然ないでしょ」
そう言って目をこすり、美里は立ち上がった。涙はすでに止まっていた。
「えっと、美里?」
「うがーーー」
突然出された大声にすくみ、浩太はたじろいだ。
「見てなさいよ、浩太。絶対あんたに面白いって言わせるもん書いてきてやるから」
その言葉を聞いて、浩太は安心した。いつもの美里が戻ってきたからだ。
「うん、楽しみにしているよ。頑張って」
再び声をあげて美里は走っていった。そんな彼女を、浩太は慌てて追いかけた。
*
放課後となり、美里は図書委員の仕事をしている。読書をしている生徒は見当たらず、図書室にいるのは参考書を広げてペンを動かして
いる人達だけであった。
そこに、浩太が入り口の扉をくぐって現れた。
「珍しいね、あんたが来るなんて」
美里がカウンター越しに話しかける。
「まぁ、すぐに帰るけど」
「…って、じゃあ何しに来たわけ」
「君に謝罪を」
「えっ」
美里は戸惑った。彼から謝られるようなことなど何も思いつかないからだ。
「ごめん、しばらく君の家にはいけそうにないんだ」
「そっか、勉強しないとね」美里はすぐに事情を悟った。
「まあね」
「じゃあ、ここで勉強していったら?」
浩太は図書館を見渡してみた。受験に向けて勉強している生徒が何人か目に入った。
「検討してみようかな。でも、今日はもう帰るよ」
「そっか、分かった。頑張ってね」
「ありがとう。君も頑張って」
「うん、どうも」
美里が別れの言葉を言おうとした途端、浩太がおどけて話しかけてきた。
「あっ、でも俺が見てないとサボっちゃうかな?」
明らかに挑発的な口調だったので、美里は「へっ」と鼻を鳴らしてから言い放った。
「バーカ、あたしは追い込まれたら凄まじい力を発揮するタイプなの。あんたがいなくてもベッドに寝転んだりしないってば」
「ふーん、じゃあ心配いらないね」
言葉とは裏腹に、浩太はにやにやしている。
「ったく、早く行け」
美里は浩太を手で追い払うような動作をした。
それを見た浩太は笑みを浮かべながら、「それじゃ」と言って去っていった。
美里は手を軽く振って彼を見送った。
5.
「うう・・・」
3月にしては凍てつく空気であった。美里は厚い外套で身を包み、首にはマフラーをかけ、緊張の面持ちで美里は郵便局の前にいた。
もう何分も入り口の近くで佇んでいる。その腕には分厚い封筒が抱えられていた。
「今更ためらってどうするのさ」
その言葉をもう何回も心の中で繰り返しているのだが、なかなか決心がつかずに踏み出せないでいた。
「こんな時に、あいつがいてくれたら・・・」
美里は浩太の顔を思い浮かべた。彼女が躊躇しているときには、何だかんだ言いつつ、いつも後押ししてくれた幼馴染みのことを。
「って、何言ってんだよ。あんな奴いようがいまいが・・・」
気恥ずかしさから少し顔を赤らめたが、それを紛らわすかのように頭を振った。頬の赤みはしばらく残っていた。
美里は、図書館で会ったあの日以来、浩太とはあまり言葉を交わしていない。
クラスは違うし、ここ最近は徹夜で小説を毎日書いていたため遅刻ぎりぎりの時間に登校していたからだ。
だが、会話はしなくとも彼女は浩太の姿をほぼ毎日見ていた。
放課後の図書館で彼は遅くまで勉強しているからだ。
美里が当番の日は、やってきた浩太にきちんと挨拶はする。しかし、それ以外の声をかけなかった。勉強の邪魔をしては悪いと考えてい
たからである。
だから、美里は完成した自作を彼に見せていなかった。こんなことは初めてだった。
いつもは浩太に見せることで、改善点を見つけたり自信を付けていたりしていたのだが、今回はそれがなかった。
郵便局のドアが開閉するのを美里は何度も眺めていた。そして、
「大丈夫かな、この出来で。…大丈夫だよね、うん。いや、でも…」と、心の中でつぶやいていた。
こうしてもう10分ほどぐずぐずとしていたが、やがて勢いよく郵便局の中へと入っていった。
数分経って、美里は外に出てきた。その顔はさっきと違いどこか晴れやかであった。
自転車に乗り、このまま家へ真っ直ぐ帰ろうとしたとき、美里はふと思った。
「浩太の奴に報告でもいこうかな」
原稿を出すのを臆し続けたおかげで、ちょうど浩太のバイトの時間が終わる頃になっていた。
「バイトに勉強、あいつも大変だよね」
美里はそんな幼馴染みに同情と尊敬の念を抱いた。
そして、勢いよく自転車を走らせて、彼のいるバイト先へと向かった。
全身に風を浴びつつ、雑踏する商店街を進んでいく。美里は目当ての店に着いた。
自転車から降り、その場で浩太が出てくるのを待っていた。
小説が完成したことやそれを投稿したこと、志望校を決めたこと、話したいことはたくさんあった。
自然と笑みが浮かんできた。
浩太はすぐに現れた。美里は胸を高鳴らせ、彼のほうへと駆け寄っていった。
しかし、彼女は途中で足を止めた。その顔は驚きに満ちていた。
浩太は女の子と楽しげに会話をしながら出てきたのだった。女性と話すことはどちらかといえば苦手である彼が、あんなにも楽しそうな
顔を自分以外の女子に向けている様を、美里は見た。いや、彼のあんな満面の笑みを見るのは初めてかもしれない。
自分でもなぜこんなに驚愕としたのか分からないまま、しばらく呆然として彼女は立ち尽くしていた。そんな彼女に浩太が気づいた。
「あれ、どうしたの? こんなところまで来て」
彼は美里のそばまで歩いてきた。隣の女子も歩調を合わせ、一緒についてくる。
「久しぶりだね。何か用?」
浩太から軽い会釈を受けたが、美里はそれに応えるのを忘れていた。それほど女子に意識を向けていたのだった。
美里は急に言いようのない一抹の不安に襲われた。鼓動が早鐘を打っている。
「…うん、まぁ…」
何とか言葉を振り絞ったが、それは蚊の鳴くような声だった。いつもなら気兼ねなく答えられるのに、今はそれができなかった。
「…それより、その人は?」
勇気を出して聞いてみた。
「ああ、バイトの後輩さんだよ。ちなみにウチの学校の1年生」
いつの間に仲良くなったのだろうか、相変わらず何も話しちゃくれないんだから、と美里は思った。若干怒りが湧いてきた。でも、怒り
を感じるのはそれだけが理由だろうか?
「は、はじめまして」女の子は丁寧にお辞儀をした。そして、そのまま伏目がちになった。ほっそりとした体つきで、セミロングの黒髪が
よく似合う、少々内気そうな可愛い娘であった。
美里も返礼した。そして、「一応こいつの友達です」と付け加えた。
相手の正体が分かったとしても、まだ不安は拭えなかった。
「一応って……まあ、いいや。それよりこれから遊びに行くつもりなんだけど、美里も一緒に来る?」
いよいよ彼女は平静を保てなくなった。もし自分がこの場に来なかったたら、彼らは二人で出かけるつもりだったのだろうという考えが
頭をよぎった。脈拍は上昇し、心臓の律動は抑えられないくらい速まっている。
「……いいよ、あたしは」
これが美里の出した結論だった。どうしてか、今は浩太の傍に居たくなかった。こんなこと思うのは初めての経験だった。
いつも近くにいてくれた彼を拒絶するなど――。
「二人で行ってきなよ」
つとめて明るい声で美里は言った。
「そっか、残念だな。でも用があったから俺のとこに来たんでしょ? それだけでも話してよ」
そう言われたものの、美里は話をする気分ではなかった。
「ううん、特に用はないよ。ただ近くを通ったから様子でも見ようかなって思っただけだから」
「あれ、でもさっき…」そう言って、浩太は隣の女子に「『うん』って言ったよねえ」と笑いかけた。
それを見た美里はついに自分を抑えられなくなった。ずっと心の奥底で押さえつけていた形容しがたい怒りが表立ってきた。そして――
「何でもないって言ってんでしょ! じゃあね!」と、感情の赴くままにはき捨て、そのまま自転車に飛び乗った。ペダルを漕ぎ始めて、
後ろを振り向いてみると、浩太と少女は再び笑顔を向け合っている姿が目に入った。傍目には仲のよいカップルにしか見えなかった。
そして、その視線に気付いた浩太が手を振った。それを見て、美里はすぐに目を逸らした。
彼女は振り返ったことを後悔した。そしてそのまま眼前だけを見つめ、自宅へと向かった。
荒い呼吸で自室に入った美里は、ベッドに倒れこんだ。そして枕に顔をうずめた。
「何よ、別にあいつが誰と仲良くしようが、あたしには関係ないじゃん」
しかし、目の奥にいつまでも浮かんでいるのは、浩太と後輩女子の楽しそうな顔だった。
「そうよ、あいつがあたしの知らない女子と付き合おうが……」
そこまで言って、ふいに美里は押し黙った。
何故だか心が痛むのだ。
この痛みはなんだろう、そう美里は自問した。すると、一つの推論が導かれた。
「そ、そんなはずない。そんなはず……」
だが、認めないわけにはいかなかった。美里の小説家志望としての心が、痛みの真相を告げる。
他人の心情、そして自分の心情。作家ならそれと向かい合わなければいけないのだ。誤魔化すわけにも、無視するわけにもいかない。
美里が書き、今日送ってきた小説は、主人公の片思いしている男性が他の女性に恋してしまう筋書きだった。
今ならあの主人公の痛んだ心情をもっと上手く表現できる気する、美里はそう思った。
だけど、また同時に思った。こんな痛みなんて感じたくなかった、知りたくなんかなかった、と。
それが、小説を書くためならどんなことでも経験し、受け入れたいと思っていた美里の、初めての拒絶だった。