風邪をひいて三日になる。  
 熱と息苦しさのなかで健一郎はベッドに寝返りをうち、手負いの獣のようなうなりを漏らした。  
 
「体調管理なんざしてなかったなあ……」  
 
 本来ならば受験生であったはずだった。  
 彼自身もともとまめな性質で、うがい手洗いは特にテスト前には必須として行っていたのだが、あの日からこっち、そんなことに気を使ってはいなかった。  
 どうせ受験などしないのだからどうでもいい。学校に行くのだっていまや単なる暇つぶしだ。  
 
 だが、こうして寒気とだるさに苦しみながら無様に横たわっているのはもう飽き飽きだった。  
 あまりの体調の悪さに学校から直帰するなり、着替えもせず倒れるようにベッドに転がって今日で三日目だ。  
 
 両親は息子にいっさい関わってこない。かつて彼が優等生だったころも放任主義の親だったが、こうして荒廃しきってからは、腫れ物扱いという感じである。  
 腐ってもあいつなら自分の面倒は自分で勝手に見るだろうと思われているのか、二階に上がってくることもなかった。まあ、実際ありがたい。  
 
(薬は飲んだし、寝ていればそのうち治るさ)  
 
 ワイシャツがべとつく。制服の上着はさすがに脱いだが、それ以外は三日間着替えすらしていない。  
 
(早く治れ……)  
 
 部屋で横たわっていると、不快なことばかり頭に浮かんできてしまうのだ。  
 
   ●   ●   ●   ●   ●   ●  
 
 健一郎が幼稚園のとき、空き家だった隣家にひっこしてきたのは資産家の一家だった。  
 いや、資産家といえるほどの金持ちでもないが、その家の家長が大企業の役員という地位にあるため、そこそこ経済的余裕がある家だった。  
 伏せりがちの妻と、母とおなじく虚弱体質の娘のひとりにかかる医療費をまかなえる程度には。  
 
 娘ふたり――健一郎と同い年の姉を美佳と、二つ下の妹を美奈といった。  
 男勝りなくらい活発な姉と、生まれつき病弱でおとなしい妹。  
 内面は対照的だが、容姿だけはよく似ていた。あまり外にでない美奈が姉より青白く、ほっそりとしていることをのぞけば。  
 
 姉妹の母は、美奈のことを、気にかけていたように思う。  
 みずからの病弱な体質を娘に遺伝させてしまったことを悔やんでいたのかもしれない。  
 「お外で遊ぶとき、美奈を見てやってちょうだいね、健一郎くん」と少年は託されたことがある。  
 
 それでも脳裏を占めてきたのは美佳だ。託されたゆえの義務感から美奈の面倒を見てやりながらも、健一郎の視線はいつしか美佳を追っていた。  
 ずっと美佳に恋していた――明るい笑顔に、躍動的でのびやかな肢体に、大胆ではっきりして陰りのない気性に。  
 
 ……こうなるまでは、健一郎は自分を、もう少しましな人間だと思っていた。  
 
 笑顔をふりまくタイプではなかったが他人に優しくできなくもなかった。  
 ともすればぎすぎすしがちの進学校だったが、健一郎は人づきあいは普通にこなしていて、なかでも親友と思っていた気の合う者が二人いた。  
 勉強は最大の取り柄だった。成英学園は名の知られた進学校で、そのなかでも健一郎は上位の成績からすべり落ちたことはなかった。  
 陸上部では二年生でありながら副キャプテンも務め、冬の大会では入賞していた。  
 
 そしてなにより、通うのは別々の学校とはいえ、高校に入ってからは恋人になってくれた美佳がいた。充実した青春だったといえるだろう。  
 
 ある日とつぜん、すべてが狂った。  
 何の前触れもなく、美佳が、妻子持ちの男と駆け落ちしたのだ。  
 
 ……美佳が消えたとき、健一郎あてに残されたのは一通の手紙だけだった。  
 
 それによれば、美佳は昔からずっと好きな男がいたのだという。  
 
 相手は健一郎も知っていた。  
 姉妹の母親の主治医だった。  
 
 中等部のときに一度、高等部にあがってすぐのときにもう一度告白したことがあったという。そのときはいずれも振られたと。  
 
「長年焦がれてきたけれどどうにもならないと諦めていました」そう手紙にはつづられていた。  
 だが、つい先日の母親の葬儀ののち、もう一度だけ話をして、ようやく彼が応えてくれたのだという。  
 
 彼はこう言ったらしい。自分も美佳に惹かれていたが、診るべき患者をもつ医者である以上、美佳のアプローチに応えるわけにはいかなかったと。  
 美佳とは歳の差がある――当主様にこのことが露見すれば自分は代えさせられるだろうし、そうなれば主治医としての責務が最後まで果たせないからと。  
 
 母親が没したことでそれも終わり――彼はすべてを捨て、手をとりあって逃げると誓ってくれたということだった。  
 
〈許してもらえるとは思わないけれど、ごめんなさい。ケンには必ず、わたしよりずっといい子が現れるから。  
 どうか、体の弱いミナのことをお願い〉  
 
 その一文が、健一郎への手紙のしめくくりだった。  
 
 当初はわけがわからなかった。何度読んでも、意味がのみこめなかった。頭が文章を受け付けなかったのである。  
 なにしろ彼は、美佳とは、大学に行ったら結婚しようとまで約束していたのだ。  
 その後は一日じゅう文面を繰り返し読んだ。真夜中になって唐突に、「要するに自分は美佳に捨てられたのだ」とやっと認識できたとき、健一郎の心には亀裂が走っていた。  
 
(昔から好きだったというのなら、僕だってお前に対してそうだったぞ、美佳)  
 
 凍った自嘲の笑みを最後に、表情は消えた。  
 気づいてしまっていた。叶ったと思っていた彼の長年の恋はけっきょく、最後まで一人相撲でしかなかったことに。  
 彼が美佳に告白したのは高校に入った直後だった――つまり、この手紙を信じるなら、美佳が二度目に母の主治医に振られた直後だ。  
 
 彼の初めての告白を受け入れたのも、抱かせてくれたのも、ベッドの上であれほど乱れた姿を見せたのも、気が早いけどそのうち結婚してほしいと照れながら求婚した健一郎にうなずいてくれたのも。  
 ただ美佳は、叶わない恋に自暴自棄になっていただけだったのだ。  
 それを悟れなかったむくいと言うべきか、幸福から叩き落されたあと少年に待っていたのは、惨めさだった。  
 
 物静かな美奈とちがい、美佳はいつでも快活だった。母親の葬式のときも、さすがに悲しげではあったが、涙をこらえて毅然としていた。  
 隣家ということで制服を着て出席した健一郎がお悔やみをのべると「ありがとね、ケン。母さんはケンを信頼していたから喜ぶと思うよ」と言い、逆にかれの背中をばんと叩いてみせさえした。  
 ……苦悩や傷心のさまを、かれには見せようとしなかっただけなのかもしれない。  
 
 健一郎が放心しているうちに、どんどん日がすぎていっていた。  
 部屋の壁にもたれ、日がな一日、幼い日からいままでの美佳との思い出を思い返した。どこでどうすれば彼女の心をこちらに向けられたのかを自問自答した。  
 
 学校も、部活も、成績も受験も進路も、もうどうでもよかった。  
 
 志望していた大学にいったところでミカはそこにはいない。  
 そもそも、かれの進路は子供の頃、ミカがある理由のために約束させたことだった。  
 食べてもなにも味がせず、食べることが億劫になってそれも放棄した。  
 
 部屋にひきこもって眠って、起きて、ミカのことを考えるだけの日々だった。  
 彼女と駆け落ち相手の医者を追っていって殺すことを妄想し、自分が死ぬほうがよいと結論し、それだけで一日を終えていた。  
 すみやかな自殺を決行しなかったのは、ただきっかけの問題だったと思う。  
 
 それまで放任主義だった親もさすがに、繰り返し部屋に怒鳴りこみ、泣き、殴って目を覚まさせようとした。陸上部の者が数度来た。教師が一回来た。  
 親友と思っていた者たちは一回も来なかったが、健一郎にしても彼らのことは忘れていた――つまりお互いにその程度の相手だったというだけだった。  
 父親に階段下まで引きずり落とされても、黙ってのろのろと立ち上がり、部屋に入ってドアを閉めた。戸に鍵がついていれば迷わずかけていただろう。  
 
 十数日たったころには、親さえも諦めたのか部屋に来なくなっていた。  
 洗っていない服と体から異臭を放ちながら壁にもたれ、健一郎はひたすらに無気力だった。  
 
 そのころには親には内緒で水を飲むのをストップしていたので、死が目の前にちらついていた。水断ちは、緩慢だが、断食よりはかなり早い自殺の方法だった。  
 水をまったく口にしなければ人は通常、五日以内で確実に脱水症状による死にいたる。  
 個人差はあるが、水の補充を断ったのちに体内の水分のわずか2〜5%が失われるだけで、頭痛、めまい、幻覚などが起きはじめるのだ。ちなみに一日に体外排出される水分は2.5%である。  
 水は、億劫だから飲まなくなったのではない。はっきり命を断つつもりだった。  
 
 けれど最後に、美奈が来た。  
 美佳の服に身をつつんで。  
 
 外界のなににも関心を示さなかった健一郎の灰色の意識が、激怒の赤に染まった。  
 双子かと見まがうほど美佳とうりふたつの少女が、美佳の服を身につけて自分を叱咤する――目障りすぎた。  
 
 ひきこもってからはじめて声を荒らげた。その姿を見せるな、出て行けと怒鳴った。  
 美奈は……それまでおとなしくつねにひかえめで、姉や健一郎の言うことに従順だった美奈は、この日は決して従おうとしなかった。  
 涙をにじませた彼女に、腕にしがみつかれながら懇願された。  
 
『いつまでこうしているつもりですか、部屋から出て何か口にしてください』  
 
『なんのつもりだ、ミナ。腕をはなせ』  
  (出ていってくれ、おまえにその格好をされるとおまえすら憎くなってくるんだよ)  
 
『このままだと死んでしまいます!』  
 
『このまま死ぬつもりでやってるんだ。はなせ。出て行け。二度と来るな』  
  (本当にどういうつもりだ、この匂い――美佳の香水まで付けて。体をくっつけるな)  
 
 何十分だったか何時間だったか――美奈がまったく諦めず、互いの声が激しくなっていった。  
 健一郎の脳裏には、理不尽にもミカに糾弾されているような錯覚が起こっていた。  
 
『お姉ちゃんだってケン兄が死ぬことなんてけっして望んでいません!』  
 
『そうかい! あいつが気に病むというなら願ったりだよ!』  
  (この服は僕がミカに告白したときあいつが着ていた服だった)  
  (この香水は僕がミカに贈った物だった)  
  (そうか、ミカは僕のプレゼントを置いていったのか。本命のところに行ったんだからあたりまえだな、畜生が)  
 
『当てつけで死のうなんてそんな了見っ……意気地なし、弱虫っ!』  
 
『……もう黙れ』  
  (きゃんきゃんうるさい。頭に響く)  
  (こいつを憎むな――筋違いの衝動だ、これは)  
  (これはミナだ、ミカじゃない――断じてミカじゃないんだぞ、混同するな。こいつは、僕に憎まれるようなことはしなかった)  
 
『あの世に逃げようとしているだけでしょう、お姉ちゃんに去られた現実をこれ以上直視するのが怖いから!』  
 
『離れろっての……』  
  (ぐらぐらする。水を飲んでいないせいで視界があやふやだ)  
  (こいつは思っていたよりずっとミカそっくりだ、怒るときのこの激しさ)  
  (似ているだけだ、こいつはミカじゃないんだ――ミカの匂い――ああ、くそ、柔らかい体――)  
  (ミカのように柔らかいこの体――)  
 
 人体は、極限状態におちいったとき、自分の遺伝子を残そうと性的欲求を増大させる現象をたびたびおこす。  
 水欠乏症で朦朧としていたことが、さらにまずかった。  
 それまでやり場のなかった慕情と憎悪が、行き先をもとめてぐるぐる渦巻き、それは自然に眼前の少女に向いた。  
 
 最後の一押しは、美奈のあの涙声での言葉だった。  
 
『わたしは……わたしが……お姉ちゃんの代わりをします。  
 お姉ちゃんだと思って、怒りを全部ぶつけていいから……どんなことでもしていいから、水と食べ物を口にして……お願い』  
 
 その台詞を聞いて、  
 ぶつんと――  
 キた。  
 
  (お願い? ミカの手紙にはなんてあった? 〈ミナをお願い――〉)  
  (こいつを傷つければ、ミカの信頼を裏切ることになるな)  
  (……むしろ、僕はそうしてやりたい)  
 
 美奈の言葉が美佳の「お願い」を思い出させたとき、美奈の姿が「ミカ」と完全に重なった。  
 性的衝動と破壊衝動が削られていた理性を打ち負かした。  
 舌が動いて言っていた。  
 
『ミカの代わりだ? 耐えられるなら耐えてみろよ』  
 
 美奈を引き倒して、のしかかって、床で処女を奪った。  
 
 破瓜の血だけを潤滑油にして健一郎が腰を動かしているあいだ、美奈は苦痛にかたく目を閉じていたが、叫びも、抵抗もしなかった。  
 すさまじい痛みで蒼白になりながらも、彼女は自分の手で口をおおって、悲鳴をもらさぬよう耐えていた。  
 
……………………………………………………  
…………………………  
……  
 
 寒気に体を丸めて毛布をかぶりながら、ぎり、と健一郎は回想に奥歯を軋らせた。  
 
 あの日、かれは美奈を犯した。  
 美佳の残した頼みも、姉妹の亡き母からの信頼も、実の妹のように親愛の情をいだいていたこの年下の幼馴染みとの関係も、残らず全部ふみにじったつもりだったのだ。  
 なのに……終わったあと、美奈は、一言も責めないどころか、  
 
(笑いかけてきやがって)  
 
 脂汗をうかべてあんなに苦しそうだったくせに。  
「ケン兄、泣かないで」と、下から、痩せこけて無精ひげを生やした健一郎の頬をそっとなでてきた。自分と健一郎双方の涙に汚れた顔に微笑を浮かべて。  
「どうしてもお姉ちゃんが許せないなら、これからこうやって、好きなだけわたしにぶつけてください」と言って。  
 
 彼の全部を受け入れようとするあの泣き笑いが、いまにいたるまで健一郎の胸にとげのごとく突き刺さって抜けない。ときおり胸をうずかせ、苛つかせるのだ。  
 
 許せなかった。そのうずきが。  
 美佳への想いさえ薄れさせそうで。  
 
(こいつが僕を憎めば――こんな痛みは残らなかったのに)  
 
 いっそ。  
 もっと踏みにじってやる。  
 こいつが僕を憎むまで。  
 もしくは、僕が、こいつをどう扱おうが気にならなくなるまで。  
 胸に刺さった、得体の知れない忌々しいとげが抜けるまで。  
 
 社会復帰した――表面上は。  
 学校にも戻った――勉強も部活も一切どうでもよくなっていたが。  
 学業放棄に抵抗はなかった。どうせ、自分という男の中身が屑であったことは、美奈を衝動的に犯したことでとっくに思い知っていたのだから。  
 屑なら屑らしくするつもりだった。  
 
 実際に毎日、放課後になると美奈の通う女子校まで迎えに行き、共に帰って部屋につれこんで犯した。夏休みのあいだも部屋に呼んだ。  
 たしかにしばらくの間は、「ミカ」を責め立てているつもりにもなれた。  
 美奈もわきまえていて、私服で来るとき、彼女は美佳の残した服をまとって訪れた。本当にどんな要求にも応じた。なにをされても受け入れた。  
 
 だが、その従順さは、なぜかますます健一郎を苛々させた。  
 
 しだいに、「ミカ」へ憎しみをぶつけているのか、美奈本人を責め立てているのか曖昧になっていった。  
 体力的にすぐ限界を迎える美奈に「役立たず」と吐き捨て、彼女に装着した犬用の鎖と首輪をひっぱって床に引き倒し、首をおさえてむせこむ彼女に「あとは上の口でやれ」と命じもした。  
 そんな扱いをしても美奈は謝り、ひざまずいて命じられたとおり奉仕するのだ――可憐な唇と舌で奉仕しながら、目元を赤らめ、愛撫する肉棒に愛おしそうな様子さえ見せて。  
 
 あるとき、ただ乱暴に犯すだけから責め方を変えた。  
 処女を破ったときのことを思い返してみれば、美奈は意外に苦痛に耐性があるようだった。体質ゆえさまざまな病を併発してきたからだろうか。  
 暴力的な扱いはたぶん無駄だった。だから責めはもっぱら、強い羞恥や屈辱を与えるようなものに変えた。  
 ……――美奈の体を気づかったのでは絶対ない。そう、健一郎は自分に言い聞かせていた。  
 
 皮肉なことに、美奈の精神は苦痛に強くとも、繊細な性の悦びには弱いようだった。きちんと手順を踏んで愛撫すれば、明敏な反応を伝えてくるのだ。  
 なら、それでもいいさ、と健一郎は暗く思った。  
 こちらがあいつをさげすめるようになるまで、どろどろに堕としてしまえばいい。  
 
 なんだ、こんな雌犬だったのかと軽蔑してしまえば、厄介な胸の痛みなどは消えるはずだと。  
 
 けれど美奈は、本質はけっして変わらなかった。  
 健一郎の目論んだとおり官能の毒にひたされきっても……熱く乱れた息の下でケン兄とささやく声には、幼いころにおぶった少女の声の響きが残りつづける。  
 胸のうずきはしだいに、耐えがたくなっていった。  
 
   ●   ●   ●   ●   ●   ●  
 
 ひんやりした感触が熱いひたいに触れた。  
 眠っていたようだった――ぱちりと目をあけると、美奈の顔があった。  
 熱を測るように触れてきていた彼女の手を反射的にふりはらい、健一郎は上体を起こした。ぐらぐら揺れて倒れこみそうになりながら、彼女をにらみつけた。  
 
「なんだ……勝手に……入ってきやがって」  
 
 三日、迎えに行かなかったことになる。それまでほとんど空けたことがなかったのだから、美奈が不審に思うのは無理もない。  
 だが、彼女のほうからここに来るとまでは思わなかった。  
 
 かすむ視界がようやく定まって美奈の姿が澄明に見える。  
 
 美佳の服ではなく、いつものカトリック系女子学園の制服姿だった。  
 黒のワンピース風の制服――コルセットでもはめたようにウエストが細く締まり、スカートや袖の丈は夏服というのに長く、なるべく肌を見せないようにしてある。  
 上にはおったボレロカーディガンの襟と袖口の折り返しだけが白で、首元にはベルベットの細いリボンタイが結ばれていた。  
 
 古風で禁欲的で単純なデザイン。女子修道服を意識したらしきその黒と白の制服姿は、それゆえにすらりと肢体にはりついて優美さを引き出している。  
 これだけは美佳より美奈のほうにイメージが合っているなと健一郎は昔から思っていた。美奈が似合いすぎているだけかもしれない。  
 
「具合が悪かったんですね、ケン兄」  
 
 美奈は奇妙に静かな声をだした。  
 
「寝ていてください。何か食べましたか?」  
 
「帰れ。お前が帰ったら寝る」  
 
「食べましたか?」  
 
 食べていなかった――腹は減るが、胸のあたりにむかむかしたものがあって、最初の夜に吐いてからは食べ物を口にしていなかった。  
 
「食べるか食べないかは、僕の勝手だ。薬は飲んでる――さっさと帰れと言ってるだろう」  
 
「お粥を作ってきます」  
 
「ああ?」  
 
 苛々――苛々。  
 
「なんのつもりだ、お前――」  
 
 険悪に視線で刺す。  
 美奈は影絵のように微動もせず立っていた。  
 
「治ったら呼ぶ。それまで来るな」  
 
「治るものも、治りません。  
 その服、寝汗でべっとりですが、いつから代えていないのですか? 手伝います」  
 
「お節介なんだよ、やめろ!」  
 
 とうとう怒号した。  
 
「それとも何か? それが『お願い』でいいのか――」  
 
 それを皮切りに、とにかく追い払おうとして思いつく悪罵を次々投げようとして、直前で健一郎は黙りこんだ。  
 美奈は涙をためた瞳に強い意志をあらわし、唇を一文字にひきむすんで、凛然と健一郎を見返していた。  
 健一郎は知っていた。これは美奈が引き下がることを肯んじなくなったときの表情だと。  
 彼女は、ごくまれに、とても頑固になることがあった。彼を部屋から出したときのように。  
 
 ――こうなったらこいつ、決して自分を曲げない。  
 
 ふいに、抵抗の力が体から抜けた。  
「勝手にしろ。そのかわり早く帰れ」そうつぶやくのが精一杯だった。  
 
………………………………………………  
………………………  
……  
 
 美奈が作った、梅干しで味付けしたお粥を食べさせられた。  
 ミネラルウォーターのペットボトルに、大げさなことに病人用の吸い飲み器(水を飲むための器具)まで美奈は持ってきて、枕元に置いた。  
 
「食はあとから吐いてしまうから食べなかったが、薬はちゃんと飲んでいた。水なしでも飲めるから大丈夫だった」と言い張る彼に、美奈は懇々と説き聞かせてきた。  
 
 たとえ後で吐いてしまうとしても、すこしは胃に残留して栄養として吸収されること。  
 それに、食後服用と注意されている薬を飲むときは、食べておかないと胃を痛めるから食事が必須であること。  
 錠剤やカプセル剤は、胃の中で水に溶けることを念頭において開発されているため、水なしで薬だけ服用することは『ちゃんと』とは言わないこと。  
 
 薬を飲み慣れている美奈の言うことである。  
 加えて、面には出ていないが、美奈からは怒っている感じがひしひしと伝わってきていた。  
 何も言い返せないまま、健一郎は粥を無言ですすることになった。  
 食べ始めると美奈が出て行ったので、健一郎はやれやれと肩を下ろした  
 
 ……が、食べ終わって薬を飲んだとき、美奈が真新しい男物の下着とフリースの上下をもって戻ってきた。  
 また出ていき、つぎにはビニールシートとお湯のはいった洗面器とタオルをも。  
 おい、なんだそれは――その文句を口にする前に、美奈が彼に言った。  
 
「お父さんの代えのフリースと、封を切っていない下着です。  
 着替えてください。寝汗は体力を奪います。ですから着替えのついでに、体も拭かせてもらいます」  
 
「冗談もたいがいに――」  
 
「恥ずかしいのですか? わたしは、あなたの体をすべて見ています。それに病人に恥ずかしがる資格はありません」  
 
 シスターを思わせる制服の美奈に、静かな迫力でぴしゃりと言われ、健一郎は口をつぐんだ。  
 好きにしろと言った手前、どうしようもない。それに、実をいえば、昔から美奈はめったに怒らないが、怒ったときは彼は逆らないことにしていたのだった。  
 ……もともと昔は、といっても数ヶ月前のあの日までは、彼も美奈には本物の兄妹に接するように接していたのだった。  
 
 優しいけれど怒らせたら怖い妹と、成績はいいが案外に弱気な兄――美佳を中にはさんだ幼馴染み仲間で、それに似た親密な関係がかつてはあった。  
 
(熱のせいだ……熱に浮かされているせいで、僕は昔の態度になってしまっている)  
 
 こんなことは、今日限りだ。  
 床のビニールシートの上に立ち、美奈に熱いタオルで体を拭かれながら健一郎は決意した。  
 ほんとうに全裸にされている今は、あまり様にならない決意だったが。  
 
「――こうして、ケン兄がわたしの世話をしてくれたことが子供の頃にありました」  
 
 彼の背を拭きおわり、前面に回ってきた美奈がどこか懐かしげに言いだした。  
 
「体調を崩してベッドに寝ていたわたしのそばに来て、『退屈そうだから本読んであげるね』と。  
 『何かぼくにできることある?』とほかにも聞いてきて、」  
 
「やめろ」  
 
 健一郎は冷ややかに断ち切った。  
 
「あのときは、僕は美佳に会いに行った。たまたま美佳はまだ帰ってきていなかった。  
 退屈だったのは僕だ……おまえにかまったのは美佳が来るまでの暇つぶしだった。それに、おまえに優しくすればするほど、美佳がそれを嬉しく感じると知っていた。  
 僕の内面などこんなものだ、昔から。あのころは偽善者だっただけのことだ」  
 
 これを言うとしばらく、健一郎の望んだ沈黙が場に与えられた――けれど、  
 
「それでも、わたしは嬉しかった」  
 
 小さく彼女はささやいて、清める手をまた動かしはじめた。またあの胸のうずき――健一郎は苛々して吐き捨てた。  
 
「それに、昔は昔だ。ぜんぜん別の世界のようなものだ」  
 
 それに対し、美奈は、ほんの少し哀しげなあの微笑を浮かべて、黙々と手を動かした。  
 健一郎は彼女から目をそらした。美佳のこと以外の過去など思い出したくもない。もっと下卑たことを考えたかった。自分は下卑た人間であると自分自身に証明したかった。  
 
(……そういえば、この制服のときに抱いたことはまだなかった)  
 
 甲斐甲斐しく彼の腹のあたりを拭いている美奈の制服を、あらためてじっくり見る。  
 たしかに肌色が見えぬよう全身を覆っているが、シスター服と同じで腰や腕など体の線がぴったり浮き上がっていて、見ようによってはかえって艶めかしさを感じさせていた。  
 
「腕を上げてください」  
 
 美奈が言い、彼のわきを温かいタオルで清めはじめた。健一郎はくすぐったさに顔をしかめた。懸命に彼の体を拭く彼女の細い手が、腹や腰のあたりを這いまわっている。  
 こいつを今、いつものように抱いてしまおうか――そう思った。  
 
 けれど……なぜか、その考えは頭をよぎっただけで、全くその気になれなかった。  
 
(美佳の服じゃないからだ)  
 
 彼はそう結論した。「ミカ」の服を脱がせるところから始めないと意味が無いから興味を覚えないのだと。  
 ――違う。けっして、免疫機能の弱いこいつに感染ることを心配してなどいない。  
 
 するりと股の間にタオルを持つ手が伸びてきて、健一郎の思考を中断させた。  
 やめろと言いかけたが、体のうちでとくに不潔に蒸れていた部分を熱いタオルで清められるのは心地良かった――それに、美奈は手馴れていた。  
 
「……おい、やったことがあるのか?」  
 
「はい。学園の方針で、二ヶ月に一度ほど老人ホームでの奉仕活動をしています」  
 
 美奈の学園の卒業生の何人かは、看護師や介護士の道へと進み、学園と同じ財団が経営しているカトリック系の病院に務めることもあるのだという。  
 その説明は納得いったが――困ったことが起きていた。  
 
 笑劇じみたことに、会陰から睾丸にむけてこすられているうち、健一郎の男根が硬くなって頭をもたげはじめた。  
 三日というのは、体内で造られる精液が充填され、空から満タンになるまでの期間でもある。  
 
 あ、くそ、と健一郎は焦ったが、三日前まで抱いてきた少女を前にして、その部分は意思に反してますます血をのぼらせ――  
 見る間に、傘を開くように包皮まで亀頭冠の下に落としてすっかり勃起してしまった。  
 美奈が気づいていないはずもなかった――実際に彼女の清めの手は止まっていた。健一郎は赤くなり、非常にばつの悪い思いで下をむいた。  
 
(おかしい、なんでこんなに恥ずかしいんだ?)  
 
 何も見なかったかのように、美奈が体拭きを再開する――が、心なしか手つきがぎこちなくなっていた。  
 
 気まずい雰囲気のまま、それからすぐに清める作業が終わり……健一郎は置かれていたフリースのズボンをひったくるようにしてそそくさと身につけようとした。  
 が、片脚を通そうと足をあげたとたんに平衡感覚を失って体がかたむく。  
 美奈が小さく悲鳴をあげ、倒れかけたかれの体を抱きとめて支えた。  
 
「先に下着を――ズボンは、ベッドに座って穿いてください!」  
 
「わ、わかっている……いや、そうしようと思っていたところだが、ちょっと焦って……」  
 
 みっともないと自分でもわかる言い訳がつい口から出た――美奈が相手にせず彼の肩をおさえてベッドに座らせ、着替えのTシャツをとってくる。  
 
(おいおい、まさか着付けまでする気か)  
 
「ぼ……僕は着るものは下から先に穿くんだよ。上だけ着て下半身が裸である時間があると、そのあいだは男の威厳が損なわれ……」  
 
「臓器が冷えてしまいます。上が優先です」  
 
 聞く耳もたずてきぱきと美奈が彼の頭にTシャツをかぶせ、袖を通させた。続いてフリースの上を。  
 まともなようでよく考えれば怪しいような気がする論理だったが、健一郎はもう黙って従った。着替えるから帰れと言えば済んだな、と思ってもあとのまつりだった。  
 
 美奈がボクサーパンツを持ち、健一郎の股間を見て停止する。健一郎はげんなり――情けなさそうに言った。  
 
「収まるまで待てよ……というか、それをこっちに渡せ」  
 
 まだ勃起が続いていた。だからさっさとズボンを穿きたかったのだ。  
 しかし――  
 
「……それも、ちゃんと処理しますから」  
 
 困ったように眉を八の字に下げた美奈が、言った。  
 ベッドに座った健一郎は、唖然として、ついまじまじ彼女を見た。  
 
 美奈は消え入りそうな声で、「でも、見られたら恥ずかしいから、目を閉じていてほしいです」と言った。  
 
 そして、その場にひざまずいた。健一郎の脚の間に身を入れ、太ももに手をおいて、緊張した顔を伏せた。  
 ――ちゅぷ。  
 温かくぬめる感触が亀頭にかぶせられる。美奈が口唇で彼を射精にみちびこうとしているのを知って、健一郎はうめいた。  
 手でやらせるのではなく、口で奉仕させるほうをずっと教えてきた――というより、手を使わせないで口だけでやらせる調教をほどこしてきていた。  
 
「ばか……精液は血液と同じだ、感染するから口でなんかするな」  
 
 と、亀頭から唇と舌がはなれ、美奈が顔をあげる気配がした。彼女は生真面目に否定した。  
 
「だいじょうぶです。風邪ウイルスなら、体液での経口感染はおそらくありません。  
 それにこの風邪はインフルエンザのような悪質な伝染性ウイルスではなく、季節の変わり目で体調を崩したことが大きいと思いますから、わたしでも予防できます」  
 
 まあ、健一郎に関するかぎりそれは妥当な分析といえた。  
 抵抗力が落ちていたのだ。食生活からして、栄養など知ったことではなく食べられるものを口に放りこんでいただけだったのだから。  
 どうやら成績が良かっただけで自分はとても馬鹿だったようだ、と健一郎は渋い顔になった。  
 
「楽にしていてください」美奈の含羞の声は、とても甘く響いた。  
 
「すぐ出せるように力を抜いて。わたしの口に出し終わったら、眠って……」  
 
 本格的に奉仕されだす。  
 
 肉棒への口づけから始まった――美麗な桜色の唇が、醜悪な形の亀頭にキスを二三度降らす。  
 三日も洗われず雄の臭いが濃くなってしまっているであろう亀頭表面を、うすもも色の小さな舌が丹念に舐める。  
 舌先がちろちろと鈴口を割れ目にそって掃きはじめると、健一郎は思わず声が出そうになった。  
 
 やがて、先端が唇に含まれた。  
 ぬるる……と桜色の唇の輪が先に進み、亀頭冠の段差をおりてそれは止まった。傘の下のくびれが唇にやんわりと締めつけられる――亀頭海綿体の膨張がぐぐっと進む。  
 それから、舌がおずおずと触れ、裏筋を丁寧にあやしてきた。ぬりゅぬりゅと舌が、その男の弱いポイントをなぞってくる――腰がはねそうになる。  
 
 包皮を剥かれた敏感な肉の実が、ぬめらかな粘膜にくるまれ、汚れを清めるようにくちゅくちゅと優しくしゃぶられる――彼はもうはっきりと背筋をわななかせてしまった。  
「ン……」美奈が肉棒の根元に白い指をからめ、もう少し深く呑みこんでくる。  
 とろけそうな甘悦だった。  
 
 薄目を開けて股間を見下ろした。  
 目を伏せた美奈が、かしずいて一心に尽くす光景があった――彼女が片手で落ちかかる髪をかきあげながら、その頬をすぼめると、深く呑み込まれた肉棒にぴたりと粘膜が吸いついてきて快楽を高めた。  
 男の肉を吸いあげる淫らな表情のはずなのに、静かに奉仕に没頭する美奈の美貌は、どこか聖性をおびていた。健一郎は、胸が痛みとともにうずくのを感じた。  
 
(なんで動揺してるんだ)朦朧とした意識が自問する。  
 
 そして、ふっと浮かび上がってきたのは、  
 
(……こいつの唇は、歌や楽器や静かな言葉や、いずれできるはずの、こいつをちゃんと大切にしてくれる恋人とのキスのためにあったのに。  
 こいつをレイプするような最低の男のものをくわえさせられるためではなく)  
 
 妹のために嘆く兄のような、そんな答えが、ごく自然に出てきたことに、健一郎自身が驚愕した。  
 
(僕は馬鹿か――なにを勝手な。こいつにこれを覚えさせたのは僕で、させているのも僕だ)  
 
 きつく目を閉じて、甘美な口唇愛撫と胸のうずきの双方に耐える。  
 が、美奈が、彼の体がこわばったその様子に気づいて、彼がきつくにぎっていた両のこぶしに手を重ねてきた。  
 
「がふぁん、しふぁいふぇ(我慢しないで)……」  
 
 目を開けると、くわえたまま上目づかいで見つめてきていた美奈と目があった。  
 男の肉を口にして頬をすぼめた表情を見られた美奈が、かああっと顔を赤らめてひどく恥ずかしげにして、泣きそうに瞳をうるませた。それでも、奉仕は止めなかったが。  
 いつもならわざとじっくり見つめ、「そんなにしゃぶるのが好きか」などと、意地悪な言葉でさんざん嬲る――だが、この日は、健一郎は黙ってまた目を閉じた。  
 両の手は、美奈におさえられたままだった。  
 
 言われたとおりに力を抜くと、射精まではあっという間だった。  
 美奈が首を前後させ、柔らかく口をつかってにゅくにゅくと唇で幹をひきしごいてくる。温かい水アメに肉棒がくるまれているような愛楽の官能――朦朧としていく。  
 ちゅぷちゅぷと鳴る音……ぷりぷりした唇、うごめく可憐な舌、熱い口内……気がつくと達していた。  
 
 勢い良く、ではなかった。前立腺が熱くなって輸精管が震えたかと思うと、その熱がゆっくりと尿道を上がってきた。  
 白いゼリー状のかたまりとして彼女の口に、どく……どく……どく……と、気の抜けた速度で流れこむ。  
 美奈が放出を助けるように裏筋を舌の腹でマッサージし、ちゅぅと穏やかに吸引してくる……それでわずかに放出速度が速まったが、あくまでもゆっくりした絶頂だった。  
 
 健一郎はほうとため息をついた。  
 奉仕「させる」のではなく奉仕「され」、すべてをゆだねきって与えられる快楽――それまで知らなかった種類の悦びだった。  
 
(すごく、きもちいいな……これ……)  
 
 ゆっくり引き伸ばされた、長く甘やかな法悦だった。  
 美奈が出てくる精液をこくん、こくんと飲む音がしていた。教えたことに忠実に。  
 健一郎は心地良い消耗でぼんやり酔ったようになっていた。目を開けて、言うはずのないことを彼は言っていた。  
 
「今日は別に、飲まなくていい……美奈……『あの時間』以外で、僕にそこまでしないでくれ、頼む……」  
 
 優しくされたくないんだよ。  
 
 美奈が驚いた顔をして口を離した――健一郎はまた目を閉じた。眠い。  
 目が覚めて、正気に戻ってから発言を悔やむにしろ、今は考えたくなかった。  
 どのみちとっくに、もっと別のことを悔やんでいた。  
 
 心地良い消耗――また眠い――眠気が翼でも生えているかのように迅速に戻ってきて、まぶたを閉ざさせた。  
 毛布をかぶりながら、下を穿くのは明日でいいだろう、と結論した。そのあたりはもうやけっぱちだった。男としての威厳など今夜全部ふっとんでいる。  
 美奈が何か言っていた。  
 
「……できれば、水分はこまめにとってください。暖かくしていてくださいね……」  
 
 追加の毛布がぱさりとかかる。おやすみなさいの声を最後に残して、気配がベッド横から去っていった。  
 
   ●   ●   ●   ●   ●   ●  
 
 Kyrie eleison  
 Kyrie eleison  
 
 澄んだ歌声。  
 新しい夢だった。  
 
 ……それまでは、美佳の夢ばかりだった。  
 あの「お医者さん」と美佳が腕をくんで、幸せそうに歩き去っていく。その後ろ姿を見ている自分はぴくりとも体を動かせない、そういう悪夢だった。  
 それが、この日は違った。  
 
 新しい夢の内容は、自分自身の記憶だった。  
 小学四年生のある日、隣家に遊びに行って、姉妹が母の伏せる部屋で歌う賛美歌を聞いたときの夢だった。  
 
 美佳がピアノを演奏しながら歌い、姉と同じ学園で二年生の美奈もまたそれに合わせて唱和する。  
 姉妹の母が、ベッドから上体を起こして、にこにこと子供たちを見ている。いつもはしかつめらしい顔の「お医者さん」も相好を崩していた。  
 
 
 マリアはあゆみぬ Kyrie eleison  
 しげるこかげの いばらのこみちを  
 
 
 ふだんは青白い顔の美奈は、きらきら目を輝かせて頬を燃やし、習い覚えた賛美歌を母のためにいっしょうけんめいに歌っていた。  
 何度も歌ったせいで、そのうち疲れて、美奈は母親のベッドでいっしょに眠ってしまった。  
 
 美奈をのこし、健一郎は美佳にお菓子でもたべようと誘われてリビングのほうに行った。  
 だが、ドアの取手に手をかけた美佳が動きをとめた。二人でリビングの扉ごしに漏れ聞いた――隣家の親戚の大人たちが話しているのを。  
 
 ――医者ノ話デハ、ドコガ悪イトイウモノデハナイソウダ。  
 ――全部ダト。ソシテ悪イノデハナク、『弱イ』ノダト。  
 
 ――循環器系モ呼吸器系モ。免疫機能モ自己治癒力モ。全テ、常人ニ比ベ虚弱トイウ話ダッタ。  
 ――タダ生マレツキ生命力ガ弱イ……ソレダケナノデ、治シヨウガ無イト。  
 
 ――結局、アノ子ノ母親ノ体質ヲ受ケ継イダトイウコトカ。  
 ――セメテモノ救イハ、治療費ニ不自由シナイ家ニ生マレタコトダガ……  
 
 聞いた内容はところどころ難しくてわからなかったが、とても怖かった。  
 だれの話かは、すぐに名前が出たのでわかった。  
 
 ――美奈ニハ無理サセナイコトダ。ドノミチ、人ヨリ長クハ生キマイガナ。  
 
 美佳が横で泣いた。健一郎も、このとき美奈をとても哀れに思ったことを覚えていた。  
 だから後日、美佳が「あたしたち、ミナに優しくしようね」と言って彼に指きりげんまんさせたとき、彼も心の底からうなずいたのだった。  
 
 急に場面が暗転して、気がつけば、幼い自分と向かい合っている。  
 正面からにらまれ、こちらはまともに子供の自分の顔を見られず、足元に視線を落とすしかできなくて――  
 
………………………………………………  
………………………  
……  
 
 はねおきた。  
 呆然とする健一郎の部屋の内には、朝の光が満ちていた。  
 時計を見る――午前十時――今度は、半日以上も眠ってしまっていたようだった。  
 
(……何か妙だな)  
 
 枕元をたしかめる。吸い飲み器の中の水は減っていた。飲んだ覚えが無い。  
 にもかかわらず、喉は乾いていなくて、唇は湿されていた。  
 ふわりと、室内にかすかに甘い残り香がただよった――美奈の匂い。  
 
 夢のなかにしては妙にはっきりと響いていた「憐れみたまえ(Kyrie eleison)」の優しい歌声を思い出す。  
 
「あいつ、登校の前にもこっちに来たのか」  
 
 思わずいまいましげなつぶやきが出た。  
 わざわざ来て寝ている彼の顔の汗をふき、吸い飲み器の水を口に含ませ、ことによると子守唄がわりの賛美歌をつぶやくように歌っていったのかもしれない。  
 十時まで夢の中だったから、たしかによく効いたのだろうけれど。  
 
「こういうお節介はいらないと言っただろうが、畜生……」  
 
 ぎゅっと、われ知らず心臓の真上をつかんでいた。  
 いま見た夢の原因――そしてこの胸のうずきは、罪悪感だ。  
 そんなことには、健一郎はとっくの昔に気づいていた。  
 
 子供のころ、あの話を聞いてから、美奈を守る役目は美佳と彼のものだった。美佳が去ったいまは彼一人が残っているのみだ。  
 なのに、いまは、守らなければならない者を傷つけている。その現在の彼を、夢で幼い日の彼が責める目で見つめるのは当然だった。  
 
 そして、美奈はけっして責めてくれない。  
 何をされても腕を広げて、自分が与えられるかぎりのすべてを彼に捧げようとするだけだ。  
 
 あの儚い微笑で。仔羊のような、聖母のような慈愛で。  
 ――切なく健一郎を恋い慕う瞳で。  
 
 罪悪感と同じく、目をそらして気づかないようにしてきたそれにも、さすがにもう直面せざるをえなかった。  
 自分に向けられ続けている美奈の想いに。  
 
「……なんでなんだ、あの馬鹿は……」  
 
 髪をひきむしるように自分の頭に爪をたてて抱え、健一郎はうめいた。  
 
「……どうして……」  
 
 こんな男に。  
 
 
 

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