秋が深まり、街路樹も校庭の木も、葉の色を変えていた。  
 カトリック系女子学園の、午後の鐘が鳴っている。  
 下校の時刻も近い休み時間――教室内の窓ぎわの席に腰かけ、なんとはなしに校門のあたりを見つめていた美奈に、声がかかった。  
 
「彼氏とは別れちゃったの、ミナさん?」  
 
 話しかけてきたクラスメートに顔を向け、美奈は目をぱちくりさせた。  
 
「彼氏?」  
 
「あら、なにをとぼけているのかしら。ついこの前まで、下校時間になったら校門の前で待っていたでしょう。  
 成英学院の制服を着て眼鏡をかけた、いかにも成績優秀そうな顔した男子が。ま、ちょっと雰囲気暗かったけど。  
 なのに、一月ほど前から姿を見かけないわ」  
 
「ああ、ケン兄のこと」  
 
 困った微笑みをどうにか作る。  
 このクラスメートは、姉の駆け落ち事件前後のときもまったく変わりなく美奈に接してくれた良き友人の一人だが、目ざといところが少し苦手だった。  
 
「彼氏では、ないです」とはっきり告げる。  
 
「わけあってしばらく、家が近い知り合いに送り迎えしてもらっていただけです。  
 かれは受験生なのでもともとそんな余裕はなかったんですけれど引き受けてくれました。いまはもうこちらの事情が変わりましたので……」  
 
 虚弱体質であることは周りに知られているので、「事情」といっておけば深読みして引き下がってくれるはず――と思ったのだが。  
 クラスメートは、良家の令嬢らしからぬにやにやした笑みをうかべた。  
 
「あら、そうだったの。放課後近くなるとぼうっと窓から校門を見つめているあなたの様子を見て、『これは恋人でまちがいないわね』とみんなで話し合っていたのだけれど」  
 
 赤面した美奈をおもしろそうに眺めて、クラスメートはその笑みのまま遠ざかっていった。  
「もう……」とため息し、美奈は頬づえをついて、また窓から校門を見やった。  
 当たり前だが、健一郎の姿はそこにはない。  
 
 もう、かれは来ない。そう確認して、美奈は無言で目を閉じた。  
 胸中の哀愁は、つとめて無視した。  
 来なくなったのは、美奈が口にした願いごとのためだから。  
 
 願いごとで心は強要できない。  
「健一郎が心の傷を治して立ち直ること」が、美奈の望みだったが、姉を忘れろなどというのは言うだけ無駄だったろう。  
 だが、行動は強要できる。  
 
 ――「ちゃんと受験して。もともとの志望校に進学して」  
 
 あの日、そう言うとかれはけげんな顔をしたが、きちんと約束してくれた。  
 だから彼はいまごろ、血まなこになって机にかじりついているはずだ。  
 本来の彼の学力なら、じゅうぶん合格見込みがあったのだが、この数ヶ月の空白時間は大きなブランクといっていい。  
 出遅れた受験勉強にしゃかりきになって、いまさら美奈といる余裕なんてあるはずがない。寝る時間もないほど追いこまれているだろう。  
 
 なんとなく、ぽそっとつぶやいてみた。  
 
「ざまーみろ」  
 
 彼が求めていた罰は、これでじゅうぶんだろう。彼自身が決めるはずの人生選択に干渉してやったのだから。  
 
 姉の駆け落ちによって彼が負った心の傷は深かった。最初は生きることを放棄し、部屋から出てもそれまでの受験勉強を放棄してしまうくらいには。  
 彼が回復するかはわからない――いずれは癒えて思い出になるかもしれないし、決して癒えないかもしれない。  
 
 だが、現実の時間は容赦なく進むのだ。現実を生きているかぎりきちんと大学に進学しておいたほうがいいだろう。  
 人生、高学歴だけが重要ではもちろんないけれど、高等教育を受けていれば、のちのち選べる道が増える……陳腐だが、それが現実だった。  
 
 彼のよりよい人生を、より多くの幸を美奈は願った。  
 
 ――わたしがいっしょにいてもあれ以上はケン兄の役に立てなかった。  
 
 美奈には、体で慰めて、共に溺れてあげることしかできない。それでも、彼があそこまで持ち直す手助けにはなれたのかもしれないが。  
 あの快楽――阿片のような背徳的な官能。  
 まさしくあれは阿片で、彼の美佳を失った痛みを和らげるために、鎮痛剤として役立った……だが、最後に自力で立ち直らねばならないときには、たぶん邪魔になるだけなのだ。  
 
 もちろん、うまくいくとは限らない。  
 強いられた人生選択にやっぱり意欲はわかないかもしれない。  
 結局、彼は立ち直れないかもしれない。現実逃避の日々に立ち戻ろうとするかもしれない。ある日また、わたしを校門前で待っているかもしれない。  
 
 ――もしそうなったら、その先わたしはずっと彼のそばにいよう。こんどは彼の望むだけ、わたしを通して“お姉ちゃん”を見つめさせてあげよう。  
 ――哀しいけれどそうすれば、せめて彼のそばにいられる。骨まで溶けてただれるようなあの悦びに、いっしょに溺れていられる。  
 
 そんな後ろ向きの決意――淫靡な期待が、じゅわりと下腹からせり上がってくる。  
 
 ……だめ、と美奈は机に突っ伏して思った。自分のひそかな、よどんだ願望を押し殺す。  
 
(また、自分の望みを優先させそうになるなんて。  
 真相をなかなか話せず、二学期始まっても黙っていた時点で、ケン兄の受験勉強を決定的に出遅れさせてしまったのに)  
 
「彼がもう少し、元の彼にもどるまで癒えてから言おう」と、都合よく自分に言い聞かせてお願いを先送りしつづけたことを美奈は恥じている。  
 それはたしかに単なる口実ではなかった――あの日お願いを告げたのは、流れもあったが、健一郎がかつてなく昔の彼に近づいたと判断したことが大きかった。  
 これならきっと、美奈のお願いを真摯に叶えてくれるだろうと判断できたのである。  
 
 ……だが、タイムリミットは当然ながら、センター試験の願書出願のしめきり日までだ。美奈はぎりぎりまで「もう少し様子を見て」しまっていた。痛恨事だった。  
 
(もう、あの日々の続きに浸りたいなんて思っては駄目。わたしは、ケン兄から離れないと)  
 
 恋しい――けれど健一郎のことを考えれば会わないほうがいいのだろう。  
 彼はわたしを見たとき、お姉ちゃんのことを思い出してしまうのだから、わたしは近づかないほうがいい。  
 
 健一郎と全く顔を合わせなくなって、とても寂しい。切なくて苦しい。  
 それらにも慣れた。薄れたり消えたりしたわけではない――ただ慣れた。  
 押し殺すことにはむかしから慣れていた。  
 
(できることなら、もう来ないで……どうか完全に立ち直ってください、ケン兄)  
 
   ●   ●   ●   ●   ●   ●  
 
 健一郎は手をあげた。  
 
「……よお」  
 
 首にマフラーを巻き、かばんを下げて校門を出てきた制服姿の美奈に声をかけると、彼女は衝撃を受けたように立ち止まった。  
 以前とはちがい、健一郎は校門でずっと待っていたわけではなくさっき来たばかりなので、美奈はいまのいままでかれの存在に気付かなかったのだろう。  
 
「……ケン兄……どうして」  
 
 健一郎をみる美奈の表情は完全に凍りついている。  
 だがすぐ氷が溶けたように涙をにじませて歪んだ――悲痛、諦念、それから……かすかに、暗く儚い笑みをにじませたのは見間違いだったかもしれない。  
 ともかく、彼女が何か勘違いをしているようなので、かれは真顔で否定した。  
 
「先走るなよ、受験勉強ならきちんと本腰入れてやってる。ほら、センター対策の問題集を買ってきた帰りだ」  
 
「な……なら、なんで、今日はここに」  
 
「なんでって、今日はおまえの誕生日だったろ。手を出せよ」  
 
 毎年恒例だった美奈へのプレゼントを渡す。  
 実をいうと美奈へのプレゼントを毎年欠かそうとしなかったのは美佳だったが、ふたりで選んでふたりで渡していたのだ。  
 健一郎のほうは、プレゼントを選ぶための買い物という口実で美佳とデートできるから、という理由が大きかったのだが。  
 
 手のひらにのせられたプレゼントの包みを信じられないように見つめていた美奈が、どうすればいいかわからないとばかりの困り顔をあげて、おろおろと言った。  
 
「あ、ありがと……でも……その、直前の時期なのに、そんなことに時間を割いちゃ駄目――」  
 
「ちょっとくらいなら問題ないから心配すんなよ」  
 
 むっとしてぶっきらぼうにさえぎると、美奈がびくりと身をすくませる。  
 健一郎はため息をついて頭をかいた――こんな態度を取りたいわけではないのに、自分の人間の小ささがいやになる。  
 
「そんなこととか言うなよ」  
 
 いまの僕にとって、おまえへのプレゼントは大切なことだよ――それは言わず、  
 
「そりゃ、たいそうなもんじゃないけど、ミナに喜んでもらいたいと思って選んだんだ」  
 
「……ケン兄が、わたしに?」  
 
「なんで疑ってんだよ。開けてみろ」  
 
 うながすと美奈がおずおずとプレゼントの包みを開けた。  
 
「……手袋?」  
 
「ブレスサーモのやつ。おまえ、体が冷えやすいだろ。今年発売の新式だからあったかいぞ」  
 
「ありがとう」  
 
 美奈が目元を染めて涙ぐんだので健一郎は驚いた。  
 うつむいた少女の鼻をすする音が響く。それを聞く健一郎の胸にせまるのは、むずがゆさに似た何かだった。  
 ややあって照れかくしに彼はいった。  
 
「ミナ、せっかくだから一緒に帰ろう。  
 ああ、さっきみたいに勘違いするなよ。今日は部屋に連れこまないぜ。僕は勉強しなきゃなんないしな」  
 
「そんなことわかってます!」  
 
 美奈が面白いくらい真っ赤になる。健一郎が薄く笑ったとき冷たい風が吹いた。  
「うわ、寒……今朝から急に冷えたな」健一郎は制服の上着のポケットに手をつっこんだ。  
 ふと見ると、美奈が彼のポケットにじっと視線を落とし、何かいいたそうにしていた。逡巡ののち思い切ったように、美奈は顔をあげた。  
 
「あ……あの……、ケン兄、自分のぶんの手袋はいま持ってきていないのですか?  
 それなら、このプレゼントですけど、ふたりで片方ずつはめて帰――」  
 
「んー……自分の手袋は捨てたんだ」  
 
「……え?」  
 
「あれはミカとのペア手袋だったから。……ほかにもペアにしていた小物は、全部捨てた。  
 未練がましくとっていたんだから、ほんと情けない限りだな」  
 
 たたずんで黙っている美奈に、彼は悲しげな笑顔を向けた。  
 
「ミナ、今後は僕の前でミカの服を着なくていい……いや、いまさら勝手で悪いけど、もう二度と着ないでほしいんだ。  
 もう、おまえとミカをほんのちょっとでも重ねたくない。……すぐには、無理かもしれないけれど……」  
 
 美奈の手をとって指をからめるように握ると、彼女が泣きそうな目で見上げてきた。  
 美奈がさきほど言いかけたこと、したかったことを、健一郎は察していた。  
 ふたりそれぞれ片方ずつ手袋をはめて、空いた手どうしをつないで温めあう――まるで恋人同士のように。  
 そのようにして帰路を歩き出すと、手を引かれてついてくる美奈が、ふりしぼるような弱々しい声をだした。  
 
「お姉ちゃんのことを忘れるなんて、できないくせに」  
 
「そうだな」  
 
「こ……こんなふうに……手をつないだり、背負ったり、絵本を読んだりしてくれたのは……小さなころからわたしに優しくしていたのは……  
 そうしたらお姉ちゃんに好かれると考えていたからのくせに」  
 
「そうだ。ミカはそれを喜んだ。いつだっておまえのことを考えていた」  
 
 美佳の影はけっして心から消せないだろう。  
 それでも、吹っ切る決意をやっと固めたのだ。  
 ――美奈がひとつきりの願いごとを、自身のためではなく健一郎のために使ったことを、かれももちろん気づいていた。  
 それからは、どうしても立ち直らなければならないという思いが、日をおって強まっていった。  
 
 昔の自分に戻って、どうしても美奈に伝えなければならないことがあったから。  
 
「僕の志望は医学部だよ、ミナ。むかし、ミカが僕に約束させたんだ」  
 
 美佳はこう言ったのだ。「えらいお医者様になって、ミナの体が弱いのを治してあげて」と。  
 数年後、理由不明の虚弱体質が現代医学で治せるような簡単なものではないと知ったあとは、「それでもお医者様が何人も家にいたら、ミナが急に体調崩しても安心だよね」に変わったが。  
 
「ミカはおまえにはどこまでもいい姉貴だったよ。  
 でも……僕はミカを吹っ切ることにした。忘れられなくても、諦める決心がついた。  
 だから、いまから言うことは、ミカの願いだからじゃなくて自分の意思だ」  
 
 緊張にこわばっている美奈の手をにぎりしめ、健一郎は約束したことを繰り返した。  
 
「もし今年落ちたとしても、浪人して必ず進学するよ……おまえがいるかぎり、医者をめざすのは無駄じゃないって気づいたからな。  
 ずっとひどいことをしていてごめん。それと、ありがとうな。ミカがいなくなったあと、ひとりだけ僕のことを見捨てないでくれて。  
 部屋から引っ張り出そうとしてくれて。弱い体で無理をして慰めてくれて。立ち直らせようとしてくれて。  
 ……僕なんかをずっと好きでいてくれて。  
 まだ、いっしょにいてくれるつもりがあるか?」  
 
 とうとう、美奈が泣き出した。「いっしょにいる」強く、強く、手がにぎりしめられる。  
 
「いっしょにいたい。ケン兄といたいです」  
 
 幼いころ、併発していた小児ぜんそくの発作を起こしていたときみたいに、背を丸めてうつむき、ぽろぽろ涙をながして、彼女はしゃくりあげた。  
 健一郎は美奈を肩ごしに振り向いて、べそをかく彼女にあわせて足取りをゆるめた。ふと、遠い日の情景がよみがえってきた。  
 
(そういえば、三人で遊んでいたとき、こいつは二回ほど発作を起こしたなあ)  
 
 家のなかでぜんそくの発作が起きたときは、美佳が飛び立つように人を呼びにいくあいだ、かれは治まれ治まれとミナの小さな背をさすっていた。  
 外で――砂場で発作が起きたときは、彼が美奈を背負い、近くの診療所にかつぎこんだ。  
 泣きながら背中でむせこむ命の薄い体に、よろよろ必死に走る健一郎自身も涙ぐんでいたのを覚えている。  
 
 ――あのころミナにしてやったことは、必ずしもミカへのご機嫌とりってわけじゃなかったな。  
 
 気づけば頬が優しくゆるんでいた。  
 泣き声を聞くうちに、妹分に向けていた思いやりが、かつてのように――かつてより純粋に満ちていく。  
 欠けていた胸の内を愛しさがひたひた満たしていく。美佳に対して抱いていた激しい恋情ではなく、静かで、穏やかで、春風のように温かい想い。  
 
 体質的に同じだった母親の死んだ歳までなら、残り二十年余り――  
 人より短い彼女の命が、いつかひっそり燃えつきるまで、かたわらにいてやりたいと思いはじめていた。  
 
 こんな静謐な恋も、あるのだと知った。  
 
「ミナ、ミカのこと全部吹っ切るのも、きちんと医学を学んだうえでおまえのそばについていられるようになるのも……いろいろ待たせると思うけど、できるだけ早くするから」  
 
「まちます」美奈の嗚咽が強まる。「まってます……」  
 
「初めてを無理やり奪っちまったし、ひどいこと沢山しちまったけど、こういう形で責任とること、許してくれるか。  
 ほんとにこんな男でいいなら、僕が大学行ったらちゃんと婚約しよう」  
 
「ばかあ……」  
 
 手をつないで、家路をゆっくりと、ふたりで歩んでいった。  
 
 
 

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