『サンタは我が後席手』
12月24日、午前10時。
朝食の皿を洗う皿洗い機の脇で、スーザンはジンジャークッキーの生地を型抜きしていた。ダイニングのテー
ブルではサムが届いたカードを読んでは、気に入ったところを声に出して彼女に聞かせていた。
サム・クラークは、ずっとこの日を楽しみにしていた。というのも、彼はこのような形でクリスマスを楽しむ
のははじめてだったからで、何もかもが新しい、というわけではなかったが――どこでも変わらないこともある
――ちょっぴりわくわくしていた。森から切ってきた、なかなかに立派なツリーが居間に鎮座し、この一週間、
彼はそれをささやかに飾り付けてきた。
窓の外では家々が白く輝き、冷たくて澄んだ空気がその美しさを引き立てていた。もしイブでなくても美しい
冬の日だったろうが、まさに今日がクリスマス・イブなのだった。
例年なら、スーザンはイタリアに里帰りした妹と両親のもとに遊びに行く季節で、今年もサムを連れて行くつ
もりでいたが、フライトが入ってしまった。彼女の機体にはいま新型のIFF(敵味方識別装置)が取り付けら
れていて、27日に試験飛行をすることになっているために遠出ができず、今年は数年ぶりの自宅でのクリスマス
となる。
今晩はスーザンの中隊員の何人かやその恋人たちを招き、ディナーの食卓を囲むことになっていた。たいてい
の連中は自分の家族との予定があったが、そんな連中が残念そうな顔をしていたのが、彼女を密かに喜ばせた。
昨昨日は飛行隊持ちでクリスマス・ディナーがあったが、今晩は彼女の親友だけの小さな集まりとなる。その分
家庭的な、温かい夕食になるだろう。みんながいろいろと持ち寄ることになっていたが、ホストがポークリブ
を焼かねば誰が焼く? スーザンの考えでは、それは神聖にして背くべからざる規則なのだった。ノルウェーの
家庭の大部分と同様、パーカー家にも一子相伝のレシピがある。彼女の腕の見せ所である。
彼女がジンジャークッキーの生地をオーブンに入れようとしたとき、電話が鳴った。サムが受話器を取り、
すぐに差し出した。彼女は舌打ちして取った。飛行隊指揮官のベルグ准将だった。
『スーザン、トナカイの役をやる気はないか?』
彼は開口一番、そう切り出した。
『広報の大尉をひとり、正午までにモシェーンに運ばねばならないのだが、パイロットが体調を崩した。
いま基地にいるのはアラート要員だけで、我々が最初につかまえられたのが君というわけだ』
彼女は唇を噛み、時計とオーブンを交互に見て、チャートを思い浮かべた。モシェーンまで行くと…
『機体はホーク112だ』
「今すぐ行きます」
彼女は大急ぎで出仕度をした。
「行くのかい?」サムがどこかしら不安そうに聞いた。
「大丈夫、昼までには戻るわよ。
クッキーはもうオーブンに入れてあるから、タイマーが鳴ったら出しておいて。そこの本に書いてあるから」
「了解。早く帰っておいで」
出掛けのキスをすると、彼女は愛車のボルボに乗り込んで、ぶっ飛ばした。窓からそれを見たサムは苦笑した。
仕事中は音の2倍で飛んでいるのだから、地上でそんなに急がなくてもよかろうに、と思うのだった。
「ホーク112ですね?」
彼女は飛行隊本部隊舎に入るなり、念を押すように繰り返した。准将は笑った。
イギリス製のホーク112は、ノルウェー空軍が新しく導入したジェット練習機である。(※ 架空の機体である)
彼女はアメリカでホーク60練習機を飛ばしたことがあり、まことに気に入っていた。
「その通り、間違いなくホークだ。ところで、こちらは広報のカーツ大尉」
「よろしく」
カーツは真っ赤なサンタの衣装に身を包み、抱えるヘルメットにまで赤いカバーが掛けられていた。
スーザンは笑いを堪えるのに苦労した。
「なるほど、それでトナカイですか」
「その通りであります、少佐」
カーツは滑稽な仕草で胸を張った。
「子供たちに夢と希望を運ぶことが小官の任務であります」
「了解いたしました、ミスター・サンタクロース」
彼女はおどけて敬礼するふりをした。
「両翼端にスモークワインダーが積んである。機体のFCSは既に適合化してある。使い方は知っているね?」
「はい。アクロバットをやるんですか?」
彼女は少し期待をこめて聞いた。
「いや。サンタの衣装の上からGスーツを着るわけにもいかんだろう?
高G機動は無しだ。フライバイして、少し翼を振ってやればいいよ」
タイマーが鳴って、サムは耐熱手袋をつけてオーブンからクッキーが載ったプレートを引き出した。
口を焼きそうになりながら一枚つまんでいるところに、IGSの所長から電話がかかってきた。
『君が来月の15日にインタビューすることになっている海兵即応連隊のアーケン大尉なんだが、年明け早々にも
クロアチアに派遣されることになった。それで、今日しか先方が空いている日がないと言うんだが、今日インタ
ビュには行けないか?』
サムは少し迷ってから了承した。即応連隊本部はグロムフィヨールにあるが、飛ばせば3時には帰れるだろう。
彼は手早くメモを書いて玄関に置き、ツリーの下のプレゼントから小さな緑色の箱を取ると、自分用のランドク
ルーザーに乗り込んだ。
F-16がフルバーナーで離陸するときは、本当にすごい。下手をすると滑走路エンドで音速が出てしまう。
そんなF-16と比べると物足りないが、ホークの加速もなかなかのものだ。彼女自身が教育を受けた、老兵の
T-33練習機などと比べると隔世の感がある。ましてや、民間機や輸送機などにしか乗ったことがないカーツに
とっては、まさに戦闘機並みというところだろうか。
ホークは軽やかに加速し、離陸した。彼女はゆるやかに旋回した。彼女自身は裸でもそれなりにG耐性がある
が、カーツはからきし駄目だろう。そのホークは、機首と胴体上面、主翼前端と垂直尾翼の上半分を赤、それ以
外を白とあざやかに塗り分けた特別塗装機で、クリスマスにはまさにぴったりだった。両翼端にはスモークワイ
ンダー、胴体下にはカーツの私物を入れたトラベル・ポッドが搭載されている。
『頭の上に空しかないと言うのは落ち着きませんね』
後席のカーツの呟きがインターコムを通じてスーザンの耳に届いた。
ホークの座席は、後席が前席よりも頭ひとつ分高くなっているので、後席のカーツも彼女の頭越しに前を見る
ことができる。
「複座機ははじめて?」
『はい。広報に行ってからはずっと輸送機でしたから』
彼女はそのとき、エンジンの潤滑油のメーターが少し触れていることに気づいた。安全圏内だが、でも、できれ
ばモシェーンで検査してもらおう、と彼女は心にとめた。普段の彼女の無謀さを知っている友人たちは面白がる
が、彼女は決して不必要な危険は冒さないのだった。
ブーデからモシェーンまでは30分足らずの飛行だった。
上空をフライパスすると、地上に人が集まっているのが見えた。彼女はトリガーを引き、両翼端のスモークワイ
ンダーを作動させた。
「ホークを導入するとき、英本国型にするか、輸出型にするかで一悶着あったけれど、こういうときには輸出型
で良かったと思うわね」
『なぜですか?』
「本国型は翼端にミサイルを積めないのよ。
スモークワインダーを使うなら、やっぱり両翼端につけてないとね!」
彼女はゆっくりと翼を振ってからゆるやかに旋回し、機体を着陸させた。
『さて、私の出番ですね!』
心なしか、弾んだ声でカーツが言った。
彼女がキャノピーのロックを解除して右側に開くと、身を切るような冷たい風が吹き込んでくる。カーツは座席の上に立ち上がって叫んだ。
「ホッホッホウ! メリー・クリスマス、子供たち!」
庁舎の脇に固まって騒いでいた子供たちが、わっとタキシング中のホークに向かって手を振った。
それにつられて、彼女も少し微笑して小さく手を振った。
突然お祭り騒ぎの中に放り込まれ、すこし驚いたが、彼女の心も浮き浮きしてきた。
そのとき、バックミラーに何かが映ったので、振り向いた。なんとそこに、ソリがあった。
それは、普段は基地内での弾薬輸送などに使われている電動のカートだが、勤勉で遊び心溢れ、かつイタズラの
ためなら超過勤務も厭わぬ整備員たちの手によって、見事なソリへと変身を遂げていた。そして、それをやった
張本人と思しき連中は、セーター姿に赤い帽子と白い付け髭をつけ、小人に扮してプレゼントの山の中に座って
いた。
エプロンまで誘導すると、先導しているカートの乗員もどこかから赤い帽子を取り出してきてかぶった。よく見
ると、彼らも制服ではなくセーターを着ているのだった。
機体が完全に停止し、ラッタルが掛けられると、地元紙の記者と空軍広報部の隊員が駆け寄ってきた。
スーザンも、カーツといっしょに機体の周りでポーズを取るように求められ、何枚か写真をとられた。パイロッ
トが女性で、しかもエースだというのに興味を引かれたのか、地元紙の記者が彼女から話を聞きたがり、彼女は
「『サンタは我が後席手』といった感じですかね」
などと答えていた。
そのとき、カーツに声を掛けられた。
「少佐、プレゼントを配るのを手伝っていただけませんか?
女性のほうが何かと都合がいいんじゃないかと思うんですが…」
彼女は断ろうとして振り向いた。今すぐ飛んで帰れば、充分に昼前には帰れる。
しかし、子供たちのうち何人かが、いかにも期待するような眼差しで彼女を見ている。
断れないな、と観念した。
インタビューを終えたサムは、通行許可証を首から下げ、ラップトップ・コンピュータを入れたブリーフケー
スを小脇に抱えて連隊本部の廊下を歩いていた。
アンダヤの戦闘は、ノルウェー海兵隊の経験した最も苛烈な戦闘だった。海兵隊はそれを「北欧の硫黄島」
と宣伝したが、それは同時にその戦闘の相手であったサムを宣伝しているのも同然だった。その防戦にはしばし
ば賞賛が向けられ、そのおかげでこのような機会にはしばしば便宜を図ってもらうことができた。彼が亡命した
という事実がそれを傷つけているが、親衛師団に属し、祖国に片足までささげた相手を面と向かって非難しにく
いのもまた事実である。そして、そこまでして彼が尽くした祖国を捨ててノルウェーに来たと言うことが、彼ら
の自尊心をくすぐるという面もあった。
警衛の敬礼に無意識に答礼し、彼は玄関の階段を軽やかに下りた。外に出て冷気にさらすと、義足との接合部
が痛むが、彼はだいぶ慣れていた。この国はいい国だが、寒いのだけが気に食わん、と彼はときおり思うのだっ
た。連隊庁舎前の来客用駐車場に止めたランドクルーザーに乗り込もうとしたとき、声を掛けられた。
相手はノルウェー海兵隊のヨルデン少将だった。
「久しぶりだな、クレトフ――いや、いまはクラークか?」
「そうです、少将。お元気そうで何よりです」
「いやいや。ところで、時間があれば家に来ないかね?
実は初孫がいま家に来ていてね、可愛いんだ、これが!」
ヨルデンは、まるで目の前に赤ん坊がいるかのように目を細めた。そんなヨルデンの表情に乗せられ、
彼はついうかうかと了承してしまった。
まあ、と彼は考えた。昼までに辞すれば、夕方前には家に帰れるだろう。
周りの広報や地上要員たちがみんな明るい衣装を身に着けている中で、ひとりだけ普段どおりに濃緑色の飛行
服とヘルメットをつけているせいで、彼女は少しばかり疎外感を感じていた。
しかし、若い女性の戦闘機パイロットというのはその意外性のために多少は衆目を集めるものだが、ここまで
騒がれるのは彼女にしても初体験だった。子供たちにとっては大柄な男性兵士よりは小柄な彼女のほうが親しみ
やすく、何より、集まった子供たちの母親たちが、彼女のほうにより親しみを感じていた。そんなわけで、空軍
の広報部が用意したプレゼントを渡している彼女の周りには子供たちがまとわりつき、本職の広報部員からやっ
かみ半分の冗談が飛び出す始末。
内心彼女は気が気でなかった。日没が近く、おまけに空はわずかに雲がかかってきている。しかも、この機体
は明日予定が入っているので、今日中にはボーデに戻しておきたい。しかし、この時間を有効活用するつもりで
ホークは点検を頼んであるので抜け出すわけにもいかず、自分の人の良さを恨むしかなかった。
飛行機の前で写真を取りたがる子供も多く、仕方なく、彼女はモシェーンの基地に配備されたタイガー戦闘機
の前で撮影に応じた。小さな子供は彼女の腕に収まって満面の笑みと共にタイガーと写真に収まり、そして彼女
はいらいらしながらも楽しんでしまう自分が情けなくてしょうがなかった。
しかし運命が地上整備員の形をとって介入し、彼女はようやく出発できることになった。広報の隊員がプレゼ
ントを一つ取っておいてくれたので、それを土産代わりに手荷物スペースに押し込む。それに加えて基地の要員
用のシャンパンを一瓶くれたので、山ほどの緩衝材に包んでトラベル・ポッドに収めた。
日没が迫る滑走路をホークが走る。旋回しながら増速、ゆるやかに上昇してにスモークワインダーを作動、
体を踏ん張り、機体をループに入れた。赤と白に鮮やかに塗り分けられた機体が赤く染まった空に吸い込まれる
ように上昇していく。白いスモークが、続けざまに3つの円を描いた。さすがに少しふらっと来たが、地上から
見上げる人々を見て、やっただけの甲斐はあったと思い、翼を振ってから、帰途についた。
1537時。
ヨルデンの家の車庫の前にランドクルーザーを停め、サムは車を降りた。夕焼けが赤く、綺麗だった。
ヨルデンが身振りで促し、歩きながら言った。
「そう言えば、君がこの間発表したあの論文は興味深いな。諸兵科連合の自動車化歩兵大隊の話だ」
「『自動車化歩兵諸兵科連合大隊-重(CAB-H)の提言』ですね? あれは私が現役の時から考えていて――
正確にはアンダヤに駐留していたとき、機甲科の連中との論争のなかで着想したものなんですよ」
「是非とも詳しい話を聞きたいな。スシでも食べながら話そうじゃないか?」
「スシですか? 私はスシが大好物なんですよ!」彼は喜んだ。
「あの発想の重要な点は、ソフトスキンの車両が有する速度,敏捷性,火力は、機甲部隊が行動する戦場に存在
するある種の空白にちょうど適合し、その混沌を利用することができると言う点で――」
彼らは話し合いながら玄関へと歩いていった。入ったところで彼はふと思い出し、電話を借りてボーデの飛行隊
本部に電話をかけた。
『少佐は間もなくモシェーンを発ちます』
彼女は操縦桿をぴくりともさせずに、静かになめらかにホークを飛ばした。
飛び立ってすぐ、予報より早く雪がちらつきだした。今夜半からは吹雪くと言う予報である。
ホーク112には前方赤外線監視装置があり、限定的ながらも全天候能力を有する。彼女がそれを使うのは久しぶ
りだったが、それなりにスリリングな体験ではあった。
10分後、エンジン・オイルの計器にわずかなふらつきが見えた。
彼女は信じられずに、じっと計器を見つめた。油量のほうはさほど心配していなかった。この程度の揺らぎは許
容範囲内の機体が多い。問題は、圧力の低下だった。このような圧力低下を、彼女は経験したことがなかった。
1548時、彼女は管制に異状を報告した。
「キーホール、こちらタンゴ・ホテル・フォア・スリー・ツゥ・シックス、こちらの計器にはかなり重大な指示
が出ている。エンジンのオイル圧力が急速に低下している。ボーデまで行き着けないかもしれない。
緊急着陸の用意をする」
今現在、ロールスロイス製のジェット・エンジンは、潤滑油がほとんどない状態で動いている。
遠からず焼きつくことは自明だった。
「こちらTH4326、いまエンジンを停止した」
『了解した。そちらの位置はグロムフィヨールの南南西50キロ付近。
160度付近に放棄された緊急用滑走路がある』
「OK――視認した。本機はこれより着陸を試す」
滑走路の周囲には全く明かりがなく、赤外線監視装置なしには到底発見は不可能だった。
滑走路長はかなり短かったし、凍結している恐れもあった。
風は強く、しかもかなり不安定だ――しかし、ドラッグシュートを使わなければ、オーバーランする可能性が高
い。彼女はエンジンを停止させたままでホークを滑空させ、滑走路へと寄せていく。
〈速度185ノット、降下率1600〉なお増速中――
吹雪きつつあることが事態をややこしくした。着陸復航している余裕はない、チャンスは一度だ。
寸前でスピードブレーキを開き、フレアをギリギリに抑えて車輪を降ろす。ロックした衝撃を感じる。
数呼吸後、主輪が接地した感触。荒っぽい接地に主脚が悲鳴を上げ、機体が揺れるが、車輪が回る感覚がない。
首脚が接地した瞬間にドラッグ・シュートを開傘した。機体が急減速し、体が前方に投げ出される。
突風を警戒し、また推力が足りなかったせいで相当に荒っぽくはあったが、無事に降りた。
しかし、間一髪だった。シュートを放棄し、滑走路端の格納庫へ向けてタキシングをはじめたとき、エンジンが
火を噴いた。彼女は素早く反応し、消火ボタンを叩いた。エンジン内に放出された消火剤が火を食い止めた。
「ボーデ・コントロール、こちらTH4326。着陸に成功した、無事に停止した」
『素晴らしい』
ボーデは状況を逐一モニターしていたのだった。
「が、エンジンが完全にイカレた」
彼女はそれに続けて、分かっている損害状況を伝えた。
火災でエンジンが相当に痛んでいるほかに、電装系統が一部焼けていた。
『了解した、TH4326。明朝に整備班を派遣し、損害状況を調査する。それまで機体を維持せよ』
「了解」
彼女はコクピットから飛び降りて、毒づいて腹いせに地面を蹴っ飛ばしてから、飛行機を牽引できる何かがな
いか、探しに行った。吹雪の中に飛行機を放置しておくわけにはいかなかった。
風が激しさを増し、眉庇に雪が吹き付けた。身を切るように寒い風だった。
ハンス坊やは『急行「北極号」』がお気に入りだった。サムは坊やを膝の上に乗せて、坊やの前に置いた絵本
を読んでやった。坊やはサムの腕にもたれてうつらうつらしながら聞いていて、ときおりはっと起きてはまた
うたた寝した。
やがて坊やが完全に寝込むと、彼は坊やをそっと抱き上げて父親に渡した。
「それでは、失礼します」
「やあ、遅くまで引き止めてしまってすまなかったな。
君の話は大変に興味深かった。またそのうち聞かせてくれ。奥さんによろしく」
ヨルデンは、土産にポークリブを切り身ごとタッパーに入れて渡した。彼らは終戦後に、一緒に狩りに行った
事があった。
「いいんですか?」
「帰ってすぐに冷凍庫に入れれば大丈夫――ああ、そういうことか。君が持っていってくれれば、1日早く別の料
理が食べられるようになるんだ。家では、料理に対する拒否権はないもんでね」
彼はこぼした。
「たまには自分で作ればいいんですよ」とサムは指摘した。
彼はランドクルーザーに乗り込み、エンジンをスタートさせると、玄関口で見送るヨルデンに敬礼した。ヨル
デンもさっと答礼した。
予想外に長居してしまって、彼は少々焦っていた。途中で車を停め、カーナビの画面で確認した。
このまま無理に高速道路に乗るより、最短距離に近い道を飛ばしたほうが速そうだった。しかも、市街地は渋滞
している恐れもある。彼はこの国に来たばかりで、よく分からなかった。
人気は全くなく、機体を動かすのは断念せざるをえなかった。彼女は格納庫の裏にあった小屋に入り込んで、
風雪をしのぐことにした。水道も電気もなく、彼女は苦労して暖炉に火を起こし、暖を取っていた。薪だけは滑
走路の近くにある小屋に山積みされていた。
〈お前、人が良すぎるんだよなあ…〉
彼女は火の前でうずくまり、ブランケットをかきあわせた。アルミが蒸着されたブランケットがかさかさと音を
立てた。もう不時着したことはサムに伝わっただろうか。ひとりきりで家に残されて、さぞかし心配しているこ
とだろうが、しかしお互いに何もできない。
サムは山道を飛ばしていた。彼は今でも空挺隊員の気質が抜けず、普通の人間なら肝を冷やすような状況でも
彼にとっては適度なスリルだった。ヘッドライトが、降りしきる雪を照らし出していた。
〈携帯電話を買っておくべきだったな〉
と彼は思った。普段は研究所と自宅の往復だけで、しかも最近は家での仕事が多かったために、わざわざ買う必
要もないと思ったのだった。辺りには人家の気配が全くなく、電話を借りることもできない。スーザンが不時着
しているとは夢にも思わず、目を三角にして怒る彼女の顔が脳裏を過ぎった。
ヘッドライトに小屋の影が過ぎった。また無人の小屋だと思って通り過ぎてから、ガラス窓に火明かりが見え
たことに気づいた。
ふと思い出して、広報がくれたプレゼントの袋を開けてみた。金色のリボンで口を閉じた透明なビニールの袋
に入れられたジンジャークッキー,空軍のワッペン,それとクリスマス・カードが入っていた。
カードを開くと、電子仕掛けのオルゴール音が流れ出した。“ジングルベル”だと気づいて、彼女は慌ててカー
ドを閉じた。窓の外でふと吹雪が勢いを増し、隙間風が甲高く唸る。
たまらなく惨めだった。国中がお祝い気分の中、彼女だけは忘れられたような田舎の山小屋でクリスマスを迎
えねばならない。異状を見逃した整備員に、今日飛ぶことを頼んできたベルグ准将に、そして下らない広報活動
などで引き止めた広報部に腹が立った。しかし、一番苛立たしかったのは自分自身に対してだった。
スーザンはジンジャークッキーをひと口かじった。ココアとコーヒー、シナモンの風味と、それだけではない
ほろ苦さがあった。
そのとき、光芒が窓を射た。彼女は慌てて立ち上がったが、車の音は何事もなく遠ざかっていく。彼女が落胆し
たとき、車が十メートルほど先で停まる音がした。彼女が戸口に駆け寄ったとき、ドアが開いた。
「夜分申し訳ありませんが――」電話を貸していただけませんか? という言葉を飲み込んだ。
2人は、しばらくの間莫迦みたいにお互いを見つめ合った。
「セルゲイ!」
彼が目を疑い、何も言えないでいるうちに、スーザンが首っ玉にしがみついてきた。彼はバランスを崩し、戸口
に寄りかかった。彼女は彼の顔を両手で挟み、何度もキスをした。
「信じられない」と繰り返すスーザンは涙ぐんでいた。何よりもその涙が彼をうろたえさせた。彼女は気丈で、
彼の前ですら涙を見せることはほとんどなかった。しかし彼女は辛うじて堪え、彼を堅く抱きしめて、体を離し
た。
格納庫の影とはいえ、吹きすさぶ雪の中で放置されていたホークは半ば雪に埋まりかけていた。彼女はコクピ
ットに滑り込んだ。APUの配線系統は焼けていたが、非常用電源のバッテリーは生きていた。
ランドクルーザーのウィンチとホークの前輪をワイヤーで結び、サムはゆっくりと車を前に出した。スーザン
は絶対に動くと断言したが、こうしてみると疑いたくなる。しかし車が前進するにつれてワイヤーが張り詰め、
次の瞬間、ゆっくりとホークが動いた。
その格納庫は、かつてダコタを収容するために作られたもので、スペースの余裕はあった。しかしランクルが
出る余裕を確保するためには、斜めに機体を入れる必要があった。コクピットの彼女はハンドレールを掴んで後
ろを振り向き、機体が完全に格納庫に入ったのを確認し、首を切るように手を動かした。ランクルが停まり、少
し遅れてホークが停まると、彼女はコクピットから飛び降りて走り、ハンドルに取り付いて懸命に回した。途中
からサムも手伝った。シャッターがいらいらするほどゆっくりと閉まっていき、やがて重々しい音を立てて完全
に閉じた。彼らは笑って向き合い、ぱちんと手のひらを打ち合わせた。
隻脚のサムの代わりに走り回ったスーザンは疲れ果て、山小屋の戸をくぐるや否や椅子に崩れ落ちた。機体を
ようやく格納庫に収めて緊張が解け、疲れがどっと押し寄せてきた。どうにか上衣を脱いで、黒いセーターに着
替えた。サムはランドクルーザーのトランクから簡易ベッドを取り出して組み立てた。サムがたびたび不満に思
うのは、彼自身は男の仕事だと思っている力仕事の大部分を妻に任せねばならず、しかも彼女にはそれを楽々と
やってのけるだけの能力があることだった。
「それ、使っちゃっていいの?」
ベッドの上に寝転がり、腕を顔の上で組んでいた彼女が顔だけ動かして聞いた。彼はNASAのクラッカーの缶
を開けようとしていた。
「クリスマスだろう? 奮発しないとね」
そう言いながら、彼は埃をかぶったテーブルを拭き、バスケットから食器セットを取り出して並べ、食事の用意
をした。
体が暖まったせいもあって暖炉の前でまどろんでいた彼女は、ふと漂ってきた香ばしい匂いにばっと飛び起き
た。
「すごい! どうやって出したのよ?」
「ヨルデン少将の家に招ばれたって言ったろう? そのときに分けてもらったのさ」
そのとき、彼女はようやく思い出し、滑走路を渡って格納庫まで取りに行った。
しばらくしてシャンペンの瓶を抱えて戻ってきた彼女を見て、彼は口笛を吹いた。
そしていきさつを聞いて吹きだした。
「トナカイ役をやらされて、サンタクロースの役をやらされて、挙句の果てに飛行機を壊されて不時着して
それでシャンペン一瓶か!」
そう言われてみると彼女も何だか莫迦莫迦しくなって、二人してしばらく笑っていた。
たいていのハンターと同様に、彼も精肉されていない肉を料理するほうが得意だった。それはほとんど調味料
も使われていない素朴なものだったが、彼女が食べたいかなるクリスマスのディナーにも勝るとも劣らなかっ
た。というのも、それらは、彼の深く純粋な愛情と言うソースで味付けされていたからである!
実のところ、彼の絶妙な焙り具合は素朴な味付けと相まって大変に絶妙な味を醸し出していた。
暖炉の前で二人は彼女の土産のクッキーをつまんでいた。
「エンジンが止まったとき、ああ、これで今年のクリスマスはぶち壊しだな、って思ったわ。
でも何だか、こうして見ると、二人で色々持ち寄ってキャンプしてるみたい」
「こんなクリスマスも悪くないね」
両親を早くに亡くし、祖国をも捨てた彼にとって、彼女こそが世界で唯一愛する相手だった。彼が愛する全て
がこの家にあるのだった。
彼女は立ち上がり、歩いていって曇った窓を拭き、声を上げた。
「雪が止んでる。予報より早く降り出して、早く止んだんだわ」
彼も立ち上がり、妻の後ろに立った。
白い雪が月光を浴びて淡く輝き、幻想的な美しさを醸し出していた。彼女は嘆息した。
「もしもきのう、あなたはこんなところで今年のクリスマスを過ごすだろう、しかもそれに満足するだろうなん
て言われても信じなかったでしょうね。でも今、私はここにいて、こんなに幸せ」
彼は息を吸い、懐に手を入れた。
「メリークリスマス、スーザン」
彼女は振り向き、彼が緑色の小箱を差し出しているのを見た。驚いて茫然としている彼女を、彼が促した。
彼女は急いで、しかし紙を破らないように気をつけて、包み紙をはがした。白い厚紙の箱が出てきた。その中に
はフェルト張りのケースがあった。彼女はそれをゆっくりと開けた。
きれいな青灰色をしたトルコ石のネックレスだった。チェーンは純金で、首まわりにぴったり合うようにデザイ
ンされていた。
彼女は息を鋭く吸い、一方の彼は息を詰めて見つめていた。気に入ってくれたかな?
「どうやって――?」
「偶然見つけたんだ」彼は努めてさりげなく、嘘を言った。本当は5つのショッピングモールを渡り歩き、同僚の
夫婦と忍耐強い店員の助言を受けたものだった。
「見つけたとき、それが語りかけてきたんだ。『わたしは奥様のために作られたんです』とね」
彼はケースからそれを取り、彼女の首にかけた。彼女は窓に自分の姿を映してみた。
トルコ石はきれいなブルーグレイの目にぴったり合い、柔らかい金髪がチェーンにこぼれて黒いセーターの上で
映えた。
「――セルゲイ、わたしはあなたに何も――」
「黙って。毎朝、目覚めるときに君がそばにいる。それだけで、僕にとっては最高の贈り物だよ」
「どこかの本に出てきそうなロマンチストね――でも、構わない」
彼は妻のうなじに唇を当てた。
「僕と一緒にいてくれて、ありがとう。僕を一緒にいさせてくれて、ありがとう。
僕を愛してくれて、ありがとう。僕に、君を愛させてくれて、ありがとう」
大泣きしてしまいそうで、彼女は窓の外を睨み、目をしばたたいて涙を堪えた。
「ねえ、気に入ってくれた?」
「莫迦ね――大好きよ!」
彼女は振り向いて、両腕を夫の首にからませた。
アルコールと暖炉で肌はほんのりと赤く上気し、きれいな青灰色の目は濡れてきらめいていた。
彼女は夫の唇に軽く口付けて、かすれた声でささやいた。
“Merry Christmas!”
<終>