明かりの途絶えたお屋敷の中は、真っ暗でほとんど視界が利かなかった。  
夜目が利くのが取り柄の私でも、ここまで暗いとちょっと無理。だけどもそこは、守が手持ちのライトで解決してくれた。  
ライトの先にまず見えたのは、玄関扉の真正面にある、二つの階段だった。  
ぐるっと湾曲して左右から伸びているそれは、吹き抜けの二階へと続いていた。  
二つの階段の繋がった真上には、蜘蛛の巣がいっぱいのでかいシャンデリアがぶらさがっている。要するにここは、お屋敷の玄関ホールってことになるらしい。  
 
「あれが点いたらいいのにな……」  
シャンデリアにライトを向けて、残念そうに守は言う。暗いのが気になってるんだろう。  
一方、私の方はといえば――どこからか向けられる、得体の知れない視線が気になって、それどころではなかった。  
その視線は、明らかに私を見ているものだった。  
しかも、この絡みつき具合は、間違いなく男のものだ。  
一年前に働いていた漁港のことを思い出す。  
パーカーを脱ぎ、タンクトップ一枚になった時とか、周りの漁師達は、こんな視線を私に投げかけたものだった。  
剥き出しの二の腕や、胸元や、腰の周りを舐めるようにたどってくる視線が気持ち悪くなり、私は守のそばにすり寄った。  
「ねえ守……ここ、誰か居る。視線を感じるの」  
 
守は、ホールの闇に向かって身構えた。ライトを素早く左右に動かし、視界の主を探ろうとしている――。  
そうして一緒にホールの片隅まで進んで行ったとき、いきなり眼の前に、銀色の人影が現れた。  
「うわあっ?」  
守がびっくりして跳び退っている。  
よくよく見るとそれは、鉄の西洋ヨロイだったみたいだ。さすが大邸宅だけあって、インテリアも一味違う。  
 
「なあ郁子。誰か居るって、まさかこいつのこと?」  
今度は守の視線が痛い。誤魔化すように、ヨロイの後ろの壁に触れた。  
カチッという音がして、天井のシャンデリアを始めとする、お屋敷中の照明が点灯されたようだった。  
「あ……これ、電気のスイッチだったんだ」  
「おぉ助かった! きっと自家発電装置があったんだな」  
お屋敷に明かりが灯ったことを、守は素直に喜んでいる。けれど私は、またも不安に苛まれていた。  
やっぱり私、このお屋敷のことを知っている気がしてならない。  
それにさっきの視線。明かりが点くと同時に掻き消えてしまったけれど、あれっていったい、なんだったの?  
 
そんな不安を押し殺し、大きな壊れた置き時計や、ホールに少し不釣合いな巨大水槽などを、守と一緒に見て廻る。  
でもどこか上の空で、自分が何を見て何を喋ったか、あまり覚えていない。  
気がつけば、壁際にある暖炉の前、大きな柔らかいソファーに、守と並んで腰かけていた。  
躰を休めることができて、ほんの少し気持ちがほぐれる。  
 
――ここに何が居ようと……守が一緒に居るんだし、大丈夫だ、きっと。  
置時計が時を刻む静かな音を聞きながら、ソファーにもたれて眼を閉じた。  
守が私を見つめている気配を感じる。  
そう。そうやってずっと見ていて欲しい。そうすれば私、安心して眠りに就ける。  
守がずっと、私のそばに居てくれれば……。  
って、私ったら、何考えてんだよ、馬鹿。  
そんなこと、無理だって判ってんじゃん。守はいつか、私の元を離れてしまうんだから。  
もっと別の、まともな女の子と出逢って恋をしたら、守はもう、私のことなんて……。  
 
切ない気持ちに陥った私の隣で、守は寝息を立て始めたようだった。  
なんだ、先に寝ちゃったのかよ。だけど、守の寝息を間近に感じるのは心地いい。心が安らいで、なんだか、私も――。  
 
安らかな眠りが途絶え、意識が急速に蘇った。  
瞼を開く。玄関ホールは真っ暗だ。  
――あれ……電気は?  
守の奴が消したんだろうか? そんな馬鹿なこと。  
暗いとこが苦手で、眠る時にも部屋の電気を消さないような守が? そんなことあり得ない。  
それともあるいは――電気を消さなきゃ都合の悪いようなことでも、あるっていうんだろうか?  
「……守?」  
すぐ隣から、守の気配を感じる。  
なんだか随分と近い。肩と肩がぴったりとくっつき、荒い息吹きが、首筋の辺りを生温かく嬲る。  
 
――やだ……。  
これってあれだ、近づいちゃいけない時の守になってる。  
根が生真面目でフェミニストの守は、私に対してだって、いつも、どちらかと言えば紳士的で、二人きりになったって、変なことなんかはしてこない。  
けどたまに、本当にごくたまに、彼も自分のコントロールができなくなる時があるみたいで――そんな時、直接手は出してこないものの、こんな風に、やたらと近づいて何かを訴えかけてくることがあった。  
 
……ていうか、本当のことを言えば、守が手を出そうとする前に、私が距離を置いて、させないようにしてただけなんだけど。  
守が私に何を求めているのか、私にだって判らない訳じゃない。  
でも……やっぱりそれは、駄目なんだ。私じゃ守を受け入れられない。私には、そんな資格がないんだもん。  
 
だから今回も、やっぱり逃げておかないと……。  
暗闇の中、位置関係を確認する。ここがソファーで、あっち側に暖炉があるから……ヨロイはあの辺……ってことはつまり、電気のスイッチもあそこ――。  
ようし……GO!  
心の中でスタートフラッグをあげ、スイッチに向かって駆け出した。不意を衝かれた守は、その場に固まり、後を追って来ることもない。  
いい感じ!  
明かりがゼロのお屋敷は本当に暗くて、全く何も見えないけれど、私は物にぶつかることもなく、正確に目的地点へ到達した。さて、後はここにあるヨロイの後ろのスイッチを――って、あら?  
 
私はちゃんとヨロイの場所にたどり着いたはずなのに、手を伸ばしても、ヨロイの手応えがない。  
あれー、おっかしいなあ。絶対この辺に、あるはずなんだけど……。  
突き当たりの壁を手で探る。とにかく、スイッチさえ見つけられれば……。  
そうやって、壁に両手をついていた私の背後で、何かの気配が蠢いた。獣じみた息遣い。狂暴な手の平が、私の胸を、後ろから鷲掴む。  
 
「ひっ」  
叫び声をあげようとした口は、もう一方の手の平に、素早く封じられた。  
そうしておいて、私の躰を自分の方に引き寄せる。  
物凄い力だ。私は必死で身をもがき、がっしりとした腕から逃れようとするけど、どう暴れても逃げられない。つねりあげても、爪を立てて引っ掻いても、腕は微動だにしない。  
為す術もなく、後ろ向きに抱き寄せられた私は、全く遠慮のない、乱暴な手つきで胸の膨らみを揉みしだかれた。  
――守……このぉ!  
全く何てことだろう! 守の奴、暗闇に乗じて、まさかここまでするなんて! 洒落になってない、訴訟もんだよこれ。  
 
私が逃げられないのをいいことに、守の行為はますますエスカレートしていた。  
今や彼は、半分まくれあがったタンクトップの下に手を差し込み、ブラジャーも無理やりずらして、あろうことか、中のおっぱいを、直で触りまくっていた。  
「ん……んんっ!」  
耳の辺りに、生温かい息を吹きかけられる。荒れて乱れた欲望丸出しのその息ざしは、あの、基本クールキャラである守のものとも思われない。  
おっぱいを触っている手つきも粘っこくて、何だか私は、文字通り食べられてしまいそうな怖ろしささえも感じていた。  
 
――お願いやめて……やだ、怖い!  
恐怖心から、もはや動くことも、悲鳴をあげることもできなくなった私を察知したのか、口を塞いでいた手が離れた。  
離れた手は、私の下腹部を真っ直ぐに目指す。性急な動作でベルトを外し、デニムのジッパーを開けて、私の、一番大事な部分に突っ込もうとしていた。  
「い、いやぁ……」  
我ながら情けない、弱々しい声が口から漏れる。デニムの中をまさぐっていた手が一瞬離れ、私の顎を、乱暴に掴んで振り向かせた。  
そして次の瞬間、私の唇は、生々しい男の唇に吸いつかれ、強く吸いあげられていた。  
 
「う……ごっ」  
それは、キスなんていう生易しいものではなかった。  
首を真横に捻じ曲げられ、強い力で唇を押しつけられ、息もできない、苦しくて不快な感触。  
力任せに掴まれたおっぱいは痛いし、それに、さっきからお尻の谷間になすりつけられ、ぐりぐりと蠢いている――あれの感触。  
――やだ、硬くて、熱い……。  
直接的な欲望の塊をお尻の間に押しこまれ、私はめまいを起こしそうになる。肌が熱くなる。唇にむしゃぶりつかれる感触にも翻弄されて、訳が判らなくなった私は、もうこのまま、どうなってしまってもいいような気持ちに陥ってしまう。  
このまま守にいいようにされて……最後まで、最後のものまで、奪われて……。  
 
――でも……嫌! やっぱり、こんなの嫌!  
唇を分けられ、ぬるぬるの舌で口の中を姦されそうになった私は、その舌から漂う生臭い欲望のにおいを嗅ぎ取り、にわかに我に返った。  
いくら相手が守でも――ううん、守だからこそ、こんな風に無理やりされるだなんて、絶対に嫌!  
正気に返った私は、短い間に思考を働かせる。  
こういう時には……多分、こうやれば!  
 
私は手を後ろに向けて、私のお尻に挟まった守のあれを探り当て、それを、全力で捻りあげた。  
守は喉の奥で呻き、私から唇を離す。私を捕まえている腕の力が、少しだけ緩んだ。  
今だ!  
一瞬のチャンスを逃さずに、私は守の腕から逃げ出し、壁のスイッチに手を伸ばした――。  
 
――大きく躰が傾いて、ソファーから転がり落ちた。  
「あ、あぁあ?」  
絨毯の上で、わたわたと手足をばたつかせる。  
 
気がつけば、静まり返った玄関ホールだ。  
電気は消えてなんていない。私もソファーから移動していない。  
守だって――ソファーにふんぞり返ったまま、平和な寝息を立てて爆睡中だった。  
ソファーの下から起きあがり、私は、眠りこけてる守の馬鹿面を、ぼんやり見つめた。  
「そんな……今のは、夢だったの?」  
 
信じられないことだった。  
たった今まで感じてたあの感触が、嵐のようなあの行為が、全部ただの夢だったなんて……。  
唇にも躰にも、男の感触が残って燻っているようだ。私は自分の唇に触れる。  
下腹部で、ベルトがかちゃりと音を立てた。ベルトは外れていた。下のホックも。  
タンクトップの中ではブラジャーがずりあがり、胸の膨らみを押し潰すように締めつけていた。  
私は慌ててベルトを直し、タンクトップの下でブラジャーも直し、カップの中に乳房を収めてから、改めて守を見おろした。  
のんきな寝顔を晒している守――けれど股間に眼を移せば、何やら大きく膨らんだものが、ジーンズの前を押しあげていた。  
 
かーっと頭に血が昇った私は、無防備な守の頬を、思い切り引っぱたいた。  
ずれる眼鏡。ぶたれた勢いのまま、守の躰はソファーの上で横に倒れる。  
「……郁子? お前、どこであんなテクニック……」  
「なーに寝ぼけてんのよっ! このムッツリスケベ!」  
守は躰を起こしたけれど、状況が判ってないらしく、寝ぼけまなこできょろきょろと辺りを見渡している。  
「あれ? おれ、眼鏡外したはずなのに……」  
そんな馬鹿げたことまで言ってる。私はむかっ腹が立った。  
 
おそらく守は、私にいやらしいことをする夢を見ていたのだと思う。  
私はその夢に感応したんだ。  
相手が近い場所に居れば居るほど、私の精神感応は強くなるのだ。こんなソファーでぴったりと身を寄せ合って寝入ったら、相手の夢の中身を自分のものとして見てしまうこともあるだろう。  
現に以前、似たようなこともあったし――。  
 
とにかく。さっきのあれは、守に違いないんだ。  
服が乱れていたのも、守の夢に合わせて、私が自分でしたものに決まっている。  
だって他の誰が、私にあんなことをするっていうの? このお屋敷に居るのは、私と守だけのはずなのに……。  
 
もやもやと落ち着かない気持ちに苛まれる私の耳に、何か、奇妙な物音が聞こえた。  
「待って。……今、何か聞こえなかった?」  
自分が寝ぼけて何かしたのかと、焦りながらしつこく問い詰めてくる守の口に指を押し当て、私は耳をそばだてた。  
今度はもっと、はっきり聞こえた。重い扉がきしんで開くような音。  
 
「……二階からだったよな」  
今度は守にも聞こえたみたいだ。  
「ひょっとして……誰か、居るんじゃないのか?」  
私達は顔を見合わせた。  
「じゃあ……確かめに行く?」  
私が恐々尋ねると、やはり守は、首を縦に振った。  
 
守はウエストポーチを開けて、中から、ライトと一緒にいつも携帯している幅広のナイフを取り出し、ケースから抜いて剥き身の状態で構えている。  
これも彼の、夜見島事件の後遺症の一つだった。  
暗い処が嫌い、武器になるものを持ち歩いていないと不安。  
その他にも、“人魚”や、“人魚を連想させるもの”に対し、異常な拒否感を示す、というのもある。  
それは、夜見島で私達がやっつけてきた敵の親玉が、人魚みたいな見た目をしていたせいだった。  
「できれば拳銃も欲しい処だけどな」  
そう言って、引き攣った笑いを浮かべる守を見ていると、少し気の毒なような、複雑な気持ちになる。  
守って、本当は戦いをする人じゃないんだ。  
本好きな大人しい、気持ちの優しい人のはずなのに……こんなに無理して、自分を奮い立たせなければ、耐えられないようになってしまって……。  
 
できることなら、私が守の心を癒してあげたいと思う。  
癒すやり方だって、本当は知ってる。  
でも私には、それができない。  
私が彼に全てを許してしまったら、彼はきっと、私のそばから離れて行ってしまうから……。  
 
 
右手のナイフを握り締め、左手のライトを前方に向けた守は、ぎいぎいとうるさい階段を、ゆっくりと上ってゆく。  
私は、守の後ろにぴったり続いた。  
階段を上りながら、私の心は不安にざわめく。  
このお屋敷に、私達以外の人が居た。  
その事実は、私に取ってあまり愉快なものじゃない。  
だって……もしそうだとしたら、さっき私に変なことをしたのは、その、得体の知れないお屋敷の住人だったって可能性も出てくるのだから。  
私の躰に触ったり、無理やりキスしたあの男が守じゃないなんて……そんなの嫌だ。おぞましくて、耐えられない……。  
 
ううん、あれが守じゃなかったなんて、そんな訳ないよ。  
あれは守に間違いない。あの時私が、壁際まで走って行ったのは、ただの私の夢。  
あのヨロイが、壁際から消えていたのだって――。  
階段の途中で、下の置時計の方に眼をやった。あの置時計の傍に電気のスイッチがあって、その前に、あのヨロイは――。  
ない。  
私は思わず声を漏らした。  
「ヨロイが……消えてる!」  
 
置時計の並びにあったはずのヨロイは、跡形もなく姿を消していた。  
私の見ていた夢そのままに。  
「なんで? さっきまで、確かにあそこに」  
「……きっと、休憩時間に入ったんだよ」  
こんな重大事件が起こっているというのに、守のリアクションはそっけなかった。  
つまんない冗談をひとこと言ったきり、何事もなかったかのように、先へと進んで行ってしまう。  
 
え……何で?  
あったはずのヨロイがなくなってるなんて、かなり凄いことだと思うんだけど。  
守の奴、まさか本当に、あれが自分でどっかに行ったなんて思ってる訳?  
あり得ないでしょ! どこまでのほほんとしてるのよ!?  
それかあるいは……守には、あのヨロイがどうしてなくなったか、きっちり判ってるってことなの?  
それって、どういう……?  
 
激しく混乱しながらも、私は二階まで、守にくっついて来てしまった。  
守の考え、読んでやりたい気もしたけれど、今はちょっとそんな暇ない。  
いくら私だって、ちゃんと人の心を読もうと思ったら、それなりに集中しないと無理だ。  
歩きながら、周囲の様子に気を配りながら、お手軽に読めるってことはないのだ。  
 
玄関ホールから続く二階の廊下は、奥に向かって一直線に伸びていた。  
廊下の左右にはいくつかの扉が並んでいるけど、扉と扉の間隔はかなり開いていて、それぞれの部屋の広さが伺えるものだった。  
壁にくっついた、薄らぼやけた照明しかない廊下の先を、守のライトが白く長く伸びてゆく。  
左側の壁の奥についた扉が、素早く閉ざされるのが見えた。  
「守、あれ……」  
私と守は、おっかなびっくりその部屋に向かって行った。  
 
部屋の前までたどり着くと、守は中に呼びかけながらノックをした。  
――何の反応もない。だけど、無人ってこともないはずだ。だって私達二人とも、ここの扉が閉まる処をちゃんと見てるもん。  
意を決した守がノブを廻してみれば、扉はあっさりと開いた。  
真っ暗な部屋に向かい、守はライトを射し向ける。  
 
そこは、なんとなく女性的な雰囲気の部屋だった。  
調度品とか、全体の色合いとかがそんな感じ。部屋の手前に家具はあまりないけど、大きな衝立の向こう側には、鏡台らしきものがちらちら見えている。  
元はといえば、豪勢なお屋敷にふさわしい、立派な部屋だったんだろうけど――残念なことに、今その面影は、ほとんどない。もうすっかり荒れ果てて、どこもかしこもぼろぼろだ。  
入口から見て真正面の奥には、白いカバーのかかった椅子らしきものと、小さな木のテーブルがあり、テーブルの上には、妙に眼を惹く赤い本が置かれていた。  
 
本好きの守としては、やっぱり本が気になるらしく、木のテーブルに向かって行く。私は守の後に続く。私は本好きって訳じゃないけど、あの本は何となく気になった。なんだか本が可愛らしく見えたのだ。可愛らしいというか――愛しい、あるいは、懐かしい……。  
懐かしい? 何それ?  
まあとにかく、この感覚の正体は、本の中身を見れば判るに違いない。私は守の背後にくっついて先を進んだ。  
そして、一緒にテーブルの前までたどり着いたとき――私達の背後で、入口の扉が閉ざされた。  
「おい、郁子やめろよ! ふざけてる場合じゃないだろ」  
守は本を手にしたまま、怯えを隠した尖り声で私に文句を言ってくる。私は答えた。  
「守……私、ここ」  
守は、私がすぐ隣に居ることに、気づいていなかったらしい。ぎょっとなって私を見た後、扉の方に、緊張した眼を向けた。  
 
――ひょっとして……閉じ込められた?  
嫌な予感がした。守は扉を確認しようと、ぎくしゃくした足取りで歩き出した。  
踏み出した足が、カバーのかかった椅子にぶつかった。  
椅子はなぜか、軋みながら動き、被せられていたカバーが、はらりと落ちた。  
椅子の全容が現れる。  
それは、ただの椅子ではなかった。  
ミイラ化した女性を乗せた、車椅子だった。  
 
「これ……ミイラよね」  
「ああ。ミイラだな」  
茶色っぽく干からびた女性の変死体を前に、私達は、判りきったことを言い合う。  
ミイラは白い着物を着ていて、黒くて長い髪の毛を、後ろで一つに束ねていた。  
このお屋敷の、奥さんだか娘さんだった人なんだろうか? 車椅子に座ってるってことは、何かの病気だったとか?  
「ねえ守……」  
守の意見を訊こうとしたけど、彼は、ミイラをライトで攻撃するのに夢中の様子だった。  
 
「何やってんのよ……」  
私は守の肩を叩いた。  
「そんなことしないでいいのよ。ここにはもう、あの化け物達は居ないんだから」  
全く、守の夜見島後遺症にも困ったもんだわ。  
怖いものにはとりあえず光を当ててしまう。前に、彼がキッチンのゴキブリに向かって懐中電灯向けていたのを見た時は、思わず本気で病院行くことを勧めてしまった。  
それでも最近は、だいぶんましになったと思っていたけれど、やっぱり、こういう突発的な事態が起こると、ついつい癖が出てしまうみたい。  
 
「でも驚いたぁ。こんなとこに、まさかミイラが居るなんて」  
私は、ミイラの頬っぺたを突付きながらそう言った。かさかさと干からびた皮膚の感触が薄気味悪い。  
けれど、これはやっぱりただのミイラで、蘇って襲ってくることもなさそうなので、とりあえずはほっとした。  
……こんな風に思うってことは、私にも、夜見島後遺症が結構残っているのかも。  
 
「しかし……この人がどういった経緯でこんな風になったのかは知らないけれど……少なくとも、このドアを閉めたりはできないよな。やっぱり、他に誰か」  
守がそう言いかけた時、その“誰か”の足音が、廊下の方から響いて聞こえた。  
それは、ロボットか何かが歩いているような音だった。  
ロボット――あるいは、鉄でできたヨロイ、とか。  
 
「ま、守……」  
「しっ、静かに」  
鉄の足音は、この部屋の前で止まった。私達は、身の縮む思いで扉を見つめる。  
そうしてどれくらいの時が経ったのか――。  
扉の向こうで、再び音が鳴り出した。  
鉄の足音は、来た時と同じく唐突に去って行った。  
 
「はぁー……」  
二人同時に溜めていた息を吐いた。よほど緊張していたのか、守はぐったりと床にへたってしまった。  
「ねえ守……今のって、ヨロイの足音だったんじゃ?」  
「……判らないよ」  
守はそう言うけど、他に考えようがない。興奮してそう言い返す私に対して、守は冷静だった。  
「あのヨロイの中に、人が入っていたとしたら? 最初に見つけた時、ぼくらはあのヨロイの中身までは確認しなかっただろ?」  
 
まあ、確かに確認はしてないけど……。  
それだって、いくらなんでも、あれに人が入っていれば、気配で判りそうなもんだわ。  
「とにかく、この部屋を出よう。いくらなんでも、ミイラと一晩一緒に居る訳にもいかないからな」  
そこは守の言う通りなので、私達はとりあえず、部屋からの脱出を試みることにした。  
外から鍵でもかけられてるんじゃないかと心配したけど、別にそういうことはなく、私達は、無事廊下に出ることができた。  
 
「けど、これからどうするの? 私、やっぱりこのお屋敷に居るの、ヤバいような気がしてきたんだけど」  
謎のミイラに、歩くヨロイ。それだけでも充分なのに、ここにはさらに、得体の知れない痴漢男までもが潜んでいるかも知れないのだ。もう、危険度マックスじゃないの。  
「……いったんホールに戻って考えよう。外の天気の具合を見て……大丈夫そうであれば、屋敷を出て、それで」  
と、守がそこまで言った処で、今出てきたばかりの扉が、微かに開く気配がした。  
「あれ? 私、ちゃんと閉めたはずなのに」  
私と守は振り返った。  
振り返った先には――ミイラが居た。  
 
誰に押されている訳でもないのに、ミイラを乗せた車椅子が、ゆっくりとこちらに向かって来る。  
そして、呆気に取られた私達を轢き潰すような勢いで、スピードをあげて突進して来た。  
「うわあっ!?」  
「きゃああ!」  
私達は、慌てて走り出した。今はとにかく逃げるしかない。  
走って、走って、物凄い勢いで階段を駆けおりる。  
もうちょっとで一階に着こうという時に、守の胸ポケットから、ライトが落ちて床に転がった。  
 
落ちた衝撃でライトは消えてしまう。そこを狙い澄ましたように、お屋敷の照明が、全て消えた。  
「てっ、てっ、てっ、停電か!?」  
守の声が裏返っている。立て続けに起こる異常現象に、パニックを起こす寸前みたいだ。  
これはまずい。なんとか、落ち着かせてあげないと……暗闇の中、私は守の気配を探り、そばに寄ってあげようとする。  
 
その時、守が居るのと反対側の方から、腕が二本伸びてきて、私の躰を捕まえた。  
「!」  
叫ぼうとした口が、大きな手の平に塞がれる。  
まただ。また、暗闇の中で、私は……。  
 
「郁子? い、郁子! どこだ……?」  
守の悲痛な声が、徐々に遠ざかってゆく。私の躰が、見知らぬ腕に引きずられているからだ。  
腕は、私を壁際のソファーまで連れて行き、音を立てずに、ソファーの上に横たわらせた。  
口に宛がわれた手が外れたので、私は守に助けを求めることにした。  
「守……た、助けて……」  
大声をあげたつもりだったのに、蚊の鳴くような声しか出なかった。駄目、これでは守に届かない。  
 
もう一度声を張りあげようとしたら、顔面に、見知らぬ男の唇を押しつけられた。  
「んっ……」  
今夜二度目の、嫌な口づけ。嫌なのに……ほんのちょっぴり慣れてしまっている自分が、また嫌だ。  
見知らぬ男は、さっきのように私の躰を触りまくるのではなく、私の躰に、自分の躰を乗っけて押しつけてきた。  
驚いたことに、彼は全裸だった。  
 
男に全体重を預けられた私は、身動きも取れず、叫ぶことすらできなくなっていた。  
男は、私の顔中やたらに舐めたり、唇を這わせたりしてくる一方、腰の辺りをくねくね動かし、私の太腿に、自分のあれを擦りつけているみたいだった。  
――嫌……嫌……いやあ……。  
このままでは……犯されてしまう!  
早く何とかしなければ。初めてのキスばかりではなく、初めての……躰まで、こんな、顔も知らない男に奪われてしまうなんて、絶対に嫌だ!  
 
――顔も知らない?  
そういえば私、こいつの顔をまだ見ていない。  
男の躰の下、不自由な腕をお尻の方に廻し、ポケットの携帯電話を掴み出す。  
せめてこいつの、正体だけでも確かめようと思った。  
幸い男は、私の舌を吸い込みながら、デニムの内腿であれを擦るのに夢中だ。今ならきっと、上手くいく――。  
 
そう思った私の認識は、甘かったみたいだ。  
携帯を掲げようとしたとたん、私の腕は、男の素早い手の平にがっしり取り押さえられた。  
しまった! でも唯一の救いは、私がすでに、携帯を開いていたことだ。  
取り落としてしまったものの、開かれた携帯の液晶画面は、ソファーの陰にごくささやかな明かりを灯した。  
 
突然の明かりに驚き、男は怯んで私の上から退いた。  
私はソファーから転がり落ち、床を這って男から逃れた。  
追って来るかと思ったけれど、男は逆に、ソファーの向こうに駆け出して行く。  
結局、顔を見ることはできなかった。見れたのは、跳び退った時に現れた、硬く引き締まった腹筋と、去って行く後ろ頭を覆っていた、白い髪の毛だけ……。  
「……っと、ぼんやりしてる場合じゃないわ! 守を助けに行かないと」  
 
私は、守の処へ行く前に、携帯の明かりでそばに置いてあったバッグを探り当て、中からタオルとスプレー式の化粧水を取り出した。  
守と顔を合わせる前に、あの男に穢された部分を、綺麗にしておきたかった。  
本当は、顔も躰も丹念に洗いあげたい処だけど、今はこれぐらいしかできない。  
化粧水で心ゆくまで顔を拭き取った後は、携帯をあちこちにかざして守の居場所を見つけに行く。  
広大な玄関ホールを歩き廻り――やっとのことで、床に這いつくばっている守の下半身を発見した。  
 
「守!」  
携帯を向けて呼びかけると、守は、引き攣った顔で私の方を振り向いた。  
独りぼっちで、よっぽど怖くて心細い思いをしてたんだろうなあ……可哀想に。  
携帯を掲げる私を見て、守は我に返ったらしく、自分の携帯をポケットから取り出し、開いて床を探し始めた。  
そしてようやくライトを見つけ、軽く振って、点け直した。  
 
守がライトを点けるのを見越したように、シャンデリアに明かりが灯った。  
停電が直ったんだ。  
「……電気、点いたね」  
私は守から微妙に目線を外し、言葉少なにそう言った。  
 
――あれって……何だったのよ……。  
私は両腕で自分の躰を抱き、さっきの出来事を思い返した。  
私を襲おうとしていた男は、守じゃなかった。  
だったら、あれは誰?  
ホールの向こう、ヨロイの居た方向に眼を向ける。あのヨロイを動かしたのは、あの白髪の男なんだろうか?  
そしてその後、そのヨロイを自ら着て私と守を脅かしたり、ミイラの車椅子を動かして、私達を襲ったりしたの?  
それから、私にあんなことを……。  
どうしてだろう? 何が目的で、そんなことをしようとするの?  
 
「なあ郁子」  
「ひゃあぁっ!?」  
突然守に肩を叩かれ、私は、口から心臓が飛び出そうになった。  
 
「あ……驚かせてごめん。あ、あのさ」  
「え? な、なに? わ、私なんにもしてないよ!」  
変な男に変なことをされた私――私自身、何も悪くはないはずなのに、意味不明な後ろめたさが、私の言動をおかしなものにしていた。  
あの男のこと――この際、守に正直に話してしまうべきだろうか?  
 
ううん……。  
 
あの男のことを話すとなれば、私があの男から受けた仕打ちのことも、話さなくてはならなくなる。  
私には、それがどうにもためらわれた。  
私が見知らぬ男に触られたり、キスされたことを知って、守がどう思うのか……他人に穢された女だって、嫌悪感を持たれちゃうかも判らない。それが何より怖かった。  
 
そんな風に思い悩んで私が口を閉ざしていると、守は不意に、突拍子もないことを言い出した。  
「あ、あのさ郁子。さ、さっきの女のことだけど……あれは、違うんだ」  
「へ? お、女? 女って何?」  
男じゃなくて、女? 守ってば、何をとんちんかんなこと、のたまってんだろう?  
守の顔をしげしげと見返すと、彼は、「余計な口を滑らせた」とでも言いたげに顔をしかめ、落ち着きなく私から視線をそらした。  
 
……何なの、この態度は?  
まるで、浮気がばれそうになって焦ってる亭主みたいに見えるじゃないの。  
こんな態度をされると、自分のことを棚にあげて苛ついちゃう。  
「ねえ守。女って、何?」  
私は、自分の感情を押し殺し、努めて冷静な口調で尋ねた。  
守は、私の静かな物言いに、かえってびびってしまったようで、焦りまくった早口で答えた。  
「いやあの……停電の時、例の……山道で見た裸の女が、ここに居たみたいなんだよ」  
 
思いがけない守の発言。  
言い訳っぽくも聞こえたけれど、よくよく考えてみれば理に適っているようにも思えた。  
あの裸の女――ミイラだのヨロイだの、変な男だのの出現ですっかり忘れていたけれど、私達、元々はあの女を追って、このお屋敷までたどり着いていたはず。  
だったら彼女が、ここに居たって不思議はない。  
そして、ミイラやヨロイを動かしたり、停電を起こしたりして私達を脅かした――。  
でも、だとしたら、あの男は? 裸の女とグルだってこと?  
彼と彼女は、私達二人に何をしようとしているのだろう?  
 
「よし……行くぞ」  
だしぬけにそう言ったかと思うと、守は決然とした表情を浮かべ、二階への階段をあがろうとしていた。  
「ちょ……行くって、どこによ?」  
あわ食って守の腕を掴むと、彼は、当たり前のような顔をして言った。  
「決まってる。あの女を捜しに行くんだ。なぜ、こそこそ隠れてぼくらをこんな目に合わすのか……とっ捕まえて、徹底的に、小一時間問いつめてやる!」  
 
守から小一時間、ねちねちとした詰問を受ける。  
その様を想像すると、自分がされるって訳でもないのに、げんなりと疲れを感じた。  
だけど、それにしたって何でいきなり二階なの?  
彼女が二階に逃げたっていう確信でもあるのだろうか?  
 
――まもるには判ってるのよ。私達、通じ合っているんだもの。  
 
頭の中で、湿った女の声が響いた。白い裸と、長い黒髪の幻影が脳裏をかすめる。  
心臓が、どきりと高鳴った。  
守は、あの女の居場所をあらかじめ知っている?  
ううん、そんなことあるはずないわ。だって、守が、守に限って、どうして、そんな……。  
 
「私は……どっちかっていうと、一階に居るような気がするかな……」  
思わず、口をついて出た台詞。もちろんそんなの、出まかせに過ぎない。  
それでも私は、そんな風に言わずにはいられなかった。  
守を疑っている訳ではない。それでもなぜか、心がざわついて、自分で自分の抑えが利かない……。  
 
「いや。やっぱり二階を見よう……おそらく、二階の方が部屋数も少ないから、すぐ済むと思うんだ」  
守の意志は固いようだった。  
複雑な気はしたものの、これ以上反論しても仕方がない。私は渋々頷いた。  
すると守は、おもむろにウエストポーチを開け、ボイスレコーダーとデジタルカメラを取り出した。  
まずは玄関ホールの写真をいくつか収め、次に、ボイスレコーダーのスイッチを入れて、口元に宛がって喋り出す。  
「……現在二十一時〇一分、××山中、廃屋玄関ホール。今から二階の探索を開始」  
 
新米雑誌記者である守は、取材の時にはいつも、こうしてボイスレコーダーに記録を残しているのだった。  
夜見島事件の日にも、島へ向かう船の中、守はレコーダーに向かってこんな風に喋っていた。  
……もっとも、その時使っていたボイスレコーダーは、直後に起きた津波のどさくさで、海に流され失くしてしまったらしいけど。  
 
今ここでそれを使うってことは、つまり、こんな時に取材モードってこと?  
私はちょっと呆れたけれど、反面、少し安心もしていた。  
やっぱり守は、いつも通りの守なんだ。  
オカルティックな事態に居合わせれば、好奇心を抑えきれずに徹底調査したくなってしまう。  
 
だから別に、意味はないんだと思う。  
このお屋敷が、一階より二階の方が部屋数少ないって当然のように言ったことも、別にあらかじめお屋敷のことを知っていての発言って訳ではないし、頑なに二階へ行こうとしてるのも、本当は一階にいる裸の女から、私を引き離そうとしてのことではない。  
 
そして――さっきからなぜか、私が守の心を全く読めなくなっていることだって――何度も試しているっていうのに、まるで、見えない壁に遮られてるかのように上手く行かないのだって――きっと、何かちゃんとした理由があってのことなんだ。  
そう、例えばこの、お屋敷中に満ち溢れている異様な妖気とか、そうでなきゃ、私自身の疲れだとか。  
そういうことってよくあるもん。全く、人の心を読むちからってのも、当てにならないんだから。  
だいたい守の奴に、私のちからを防げるほどの精神力が備わってるとも思えないしね。  
 
そうよ。こんな時だからこそ……私が守を信じてあげなくっちゃ。  
「――さて。じゃあそろそろ、二階へ行くか!」  
状況を楽しんでいるかのような笑顔を浮かべ、守は階段をあがろうとする。  
……と思ったら、不意に足を止め、足元をきょろきょろ見廻し、何かを探し始めた。  
「どうしたの、守……」  
言いかけた私のスニーカーの踵に、何かがぶつかる。見るとそれは、守が持っていた大振りのナイフだった。  
渡してあげようかとも思ったけれど、ふと思い留まり、腰のベルトに挟んで隠した。  
――特に意味はなかった。  
私と守は、ずっと一緒に行動するんだから、このナイフを私が預かったって、何も悪いことはないはずだもん。  
それに、こうして私も武器を隠し持っていれば、万一またあの男に襲われた時に、身を守ることもできるし……。  
 
ナイフを見つけられなかった守は、暖炉の脇に引っかけられた火掻き棒を取り、それを代わりに持っていくことに決めたらしい。  
私は先に階段をあがった。守が後から追ってくる。  
守にお尻を向けていると、ベルトの後ろ側に挿したナイフのことを気取られないかと、不安になる。  
私は、腰の後ろに手を宛がい、タンクトップの裾辺りの不自然な膨らみを隠しながら進んだ。  
 
二階に着くと、まずは例の、ミイラの部屋を調べに行く。  
あのミイラの車椅子は、やはり消えていた。  
私達は部屋に入り、奥の方まで隈なく調べてみた。  
衝立の裏側を覗くと、そっちは元々ベッドルームになってたみたいだったけど、肝心のベッドは壁に立てかけられ、凝った作りの鏡台も、鏡が割れて悲惨な状況になってしまっていた。  
当然、誰かが隠れている様子などない。  
 
守はさっきの赤い本が気になっていたらしく、テーブルから拾いあげて、ぱらぱらとめくっていた。  
その本は、どうやら日記帳であるらしかった。  
守は暫く頁をめくっていたけど、急に呻き声を漏らし、本を投げ捨てた。  
「どうしたの?」  
開かれた頁を見れば、血の色で真っ赤に染まっている――月下奇人の押し花が、挟まっていたようだ。  
「この部屋には何もなさそうだ……行こう」  
よほどびっくりしたのか、守はさっさと部屋から出て行ってしまう。  
 
私はちょっと日記帳を振り返った。不思議に心が惹かれる赤いカバー。拾って読んでみようかな――?  
「おい郁子、何やってんだよ」  
部屋の外から守に呼ばれて、私は日記を諦めた。まあいっか。別に、どうしても読まなきゃいけないって、ものでもないしね。  
 
 
ミイラの部屋から出ると、お線香の香りが鼻をついた。  
どこから――? 匂いをたどると、それはミイラの部屋の隣からしているようだった。  
「守、こっち」  
吸い寄せられるように扉を開け、私はその部屋に入ってゆく。  
 
そこはおかしな部屋だった。  
床も壁も天井も、部屋中のありとあらゆる場所が、ビロードの赤い布に覆われている。  
部屋の奥には、同じく赤い布に包まれた円形の台が置かれ、蝋燭の立った二つの燭台と、燭台に挟まれた中央に立つ、長っ細い金属の棒でできた置物が据えられていた。  
ぱっと見た感じ、教会とかに飾ってある十字架の類に見えるのだけど……。  
「十字架とは、違うね」  
ずうっと長い棒の先、守の身長ぐらい高い位置にあるその飾りは、十字架よりももっと複雑な形をしていた。それはちょうど、漢字の「生」を逆さにしたような形だった。  
「生」の逆……つまりそれは、「生きない」ってこと? なんて、嫌な連想をしてしまった。  
守も怪訝そうな顔で、その飾りを見あげている。  
 
ふと足を動かすと、足の下で、何かがかさこそ音を立てた。  
虫か何かだと思ったのか、都会っ子の守は驚いて悲鳴をあげる。  
でもそれは虫ではなく、かさかさに干からびてドライフラワー状態の、月下奇人の花だった。  
月下奇人は、台の上や周囲の床を埋め尽くしていた。赤い布と同じ色なので、見分けがつかなかったんだ。  
 
干からびた月下奇人は、あの独特の芳香が変質して、お線香のような重たい香りを放っていた。  
眼を閉じて吸い込むと、不思議に意識が澄み渡っていくのを感じる。  
集中力が増して、ちからが増幅されるような――。  
 
これは……チャンスかも知れない。  
私は眼を閉じ、意識のアンテナを大きく広げた。  
 
古くからあると思しきこのお屋敷には、かつての住人が残して行ったと思われる、“心のかけら”がそこかしこに残されている。  
もちろんここにも、それはある。  
しかもそれは、そういうのの専門ではない私にも読み取れそうな、はっきりしていて判りやすいものだった。  
一番強いのは――やっぱ、この台の周りかな。  
私は眼を閉ざしたまま、燭台と飾りを立てた台の周りを、ゆっくりと歩いてみる。  
 
まず最初に見えたのは、この台に向かって祈りを捧げているシスターの姿だった。  
基督教風のシスター衣装に身を包んだ綺麗な女性。  
ただ、そのシスター服は、この部屋に合わせたような赤い色をしている。  
暫くすると、そのシスターの姿は薄れ、代わりに、背の高い中年男性が現れた。  
台の前にひざまずき、懸命に何かを祈り続けている。  
祈りというより、何かを懺悔しているのかも知れない。  
それから、その男性の姿は、三人の人影に変わってゆく。  
それは、母親と二人の幼い娘のようだった。  
私と同年代ぐらいに見える若い母親に、五歳か六歳ぐらいの小さな女の子二人。  
娘二人は全く同じ顔をしていて、双子であることがすぐに判った。  
 
双子の女の子、か……。  
私は、もう一人の私のことを思い返した。  
柳子。ずっと小さい頃に引き離されてしまった、私と同じ顔をした、私の片割れ。  
あの子は今、どこでどうしているのだろう……?  
 
――私はいつでも、ここに居るわよ。  
 
長い黒髪をなびかせた、裸の女が耳元で囁く。  
……何よあんた。  
私はあんたのことなんか知らないよ。  
柳子はあんたみたいな女じゃない。  
だいたいあんたは、私とちっとも似てないじゃないか。  
顔も違う。髪質も違う。それに――あんたのその裸の胸、凄く綺麗じゃないか。  
白くてふわふわの、マシュマロみたい。そんな胸なら、男はきっと誰でも喜ぶ。  
私の胸もそんなんだったら……守を拒んで、傷つけてまで、隠す必要ないのに。  
 
私が、普通の人間だったら……。  
 
――でも私達、普通の人とは違うもの。  
 
うん、そうなんだ。  
だから私は、守に全てをあげられない。  
そんなことしちゃったら、私は守の足枷になってしまう。  
 
――だから彼とセックスできないんだ。  
 
できないよ……。  
 
――そうなの。でもね。  
 
白い顔の中の、赤い唇が、裂けたように哂う。  
 
――でも私は……まもるとセックスするわよ。  
 
重たい衝撃が、私の躰を稲妻のように貫いた。  
私は立ちすくみ――意識が、広がったり縮んだりする、不思議な感覚に引きずり込まれた。  
揺らぎ続ける世界の中で、私は、双子親子と、赤いシスターの会話を微かに聞いた。  
 
「月下奇人の花言葉は、秘めた信仰。神の御許に咲く、常世の花――」  
 
 
「おい郁子! 何訳判んないこと言ってんだよ!」  
一刻の自失状態の間、私はこの奇妙な花言葉を、自分でも口にしていたらしかった。  
守はそうとうびびったらしく、私に向かって喧しく何かを言い立てる。  
ようやく正気が戻ってくると、私自身、さすがに不安になってきた。  
今のイメージは何? 花言葉もそうだけど、それ以上に、今の女の言葉――。  
おろおろと取り乱す私の肩を抱き、守は優しくなだめてくれた。  
「……まあ、今夜は変な目にばっか遭ってるからさ。調子狂うのも無理ないよ」  
私と守は、もう部屋を出ることにした。  
 
【つづく】  
 
 

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