その後、私達は二階の部屋を全部調べてみたけれど、結局何も見つけられなかった。  
ただし、全部とはいったものの、廊下右側の一番奥、あの赤い部屋の真向かいにある部屋には入れなかった。部屋を塞ぐ頑丈な扉に鍵がかかっていた上に、四隅に釘が打ち付けられていたからだ。  
その「開かずの間」はいったん保留にして、私と守は一階へと戻ることにした。  
 
「ねえ、やっぱり、この屋敷から出ない……?」  
二階に何もない以上、ミイラやヨロイ、その他もみんな、一階で待ち受けていることになる。  
守にもそれは判っていて、少し弱気になっていたようだったので、私は思い切って言ってみた。  
もちろん、守がこれぐらいで諦めてくれるとは思っていなかったけれど。  
そして案の定、守はお屋敷から逃げ帰ることなんて、考えてはいなかったのだ。  
 
「最後まで調査しなきゃ。大丈夫。いざとなったら、この火掻き棒で戦うから」  
「もう! 変な処で意地っ張りなんだから! そんな攻撃力なさげな武器で、ヨロイとかに勝てる訳ないじゃん!」  
「そんなことはないよ。攻撃力の不足は、頭脳とテクニックでカバー出来るもんさ」  
 
守がそんなことを言ったせいで、曲がり角の向こうからヨロイが来てしまった。  
予期せぬ出会いに驚いて、私と守は悲鳴をあげた。ヨロイは、剣を振りかざして私達に襲いかかる。  
「ま、ま、守っ! ほ、ほら、頭脳とテクニックでなんとかしてっ!」  
なんとかできる訳もなく、守は、私の腕を引っ張って、すたこらさっさと逃げ出した。  
 
守と私は走りに走り、玄関の大扉までやって来た。  
やっぱりこんな処には居られない。このお屋敷からはもう逃げ出すしかない。守は扉の取っ手を掴んで引っ張る。  
「守、もたもたしないで! ヨロイがもうそこまで来てんだから!」  
「……駄目だ、開かない!」  
何ということだろう。玄関扉の鍵が、知らないうちにかけられていたらしいのだ。  
「と、閉じ込められたの?」  
「馬鹿な! う、内鍵があるはずだ……って、うわあっ?」  
ヨロイが私達の真後ろにまで迫り、剣を頭上に振りあげている。  
 
「郁子、こっちだ!」  
脳天を狙って振りおろされた剣を危なっかしく避けてから、守は私の腕を引いて走り出した。  
玄関ホールを突っ切って、階段の脇から続く廊下に入ってゆく。  
背後からは、ヨロイがけたたましい足音を轟かせている。あんなに重たそうな外見なのに、かなりの俊足だ。駄目、このままじゃ、追いつかれちゃう――。  
その時、突き当たりの二股に分かれた廊下の片側に、少し開いた扉が見えた。  
まるで誘っているかのような――それでも今は、あそこに隠れる以外にない。  
 
部屋に逃げ込むと、扉を閉め、小さくしゃがんで息を潜めた。  
ヨロイの音が部屋に近付き――部屋を素通りして、遠ざかって行った。  
 
音が完全に聞こえなくなるのを確認すると、私達は、ガックリと床に座り込んだ。  
「全く、口ばっかなんだから!」  
「だ、だってさ、あいつ、実際向かい合ってみると意外と迫力あってさ……」  
「言い訳しないの!」  
鋭く一喝してやると、守は返す言葉もなくうなだれてしまった。  
 
 
「それはそうと……この部屋は凄いな」  
話を誤魔化したかったのか、部屋を見廻し守は言った。  
ここは、書斎だった。  
広い室内は、全ての壁が本棚で覆われていて、その本棚には、溢れんばかりの本がぎっしり詰め込まれている。まあ確かに、凄いのは認めざるを得ない。  
「図書館みたいね」  
興味深げに本を見て廻っている守の後ろで、私はため息をつく。私もちょっと覗いてみたけど、本の大半は外国のものなので、高卒の私の語学力では、内容がさっぱりだった。  
 
本棚をぐるっと一巡した後、守は、部屋の中央に置かれた書き物机の引き出しを開けた。  
中には、割と新しい感じのスクラップブックが入っているようだ。守の後ろからそれを覗き込む。  
スクラップブックには、新聞や雑誌の切り抜きが、几帳面に貼り付けられていた。  
見ていく内に――だんだんと私達の表情は曇ってくる。  
切抜きの記事が、夜見島事件に関連したものばかりだったからだ。  
新聞の自衛隊ヘリ消失事件の報道に始まり――女性週刊誌による三上脩失踪事件関連の特集、三途港で消息を絶ったと言われている殺人事件の容疑者に関する記事等々。  
中には、守が「アトランティス」に掲載した夜見島レポートも、当然入っていた。  
 
さらにその先まで頁をめくると、「アトランティス」の別の記事まで出てきた。  
次号予告や読者プレゼント、編集後記等々――私は知っていた。これらがみんな、守が担当して作った記事だということを。  
つまり、このスクラップを作った人は、一年前の夜見島事件、そして、その事件の当事者である守を、知っているっていうことだ。  
しかも、守が「アトランティス」で担当している仕事のことまで、詳細に調べていたんだ。  
「守……」  
見る見る顔が蒼ざめてゆく守を見て、私は思わず、彼の躰に寄り添った。  
深い意味はなかった。ただ、そばに居て守を安心させてあげたかっただけ。  
それなのに守は、表情を固くして私のそばから離れてしまった。  
 
「大丈夫。大丈夫だ……」  
ぎこちなく微笑んで守は言った。  
心配かけまいとしているんだろうけど、私にはそれが、拒絶の態度に思われて寂しかった。  
――もっと私のこと、頼ってくれてもいいのにな……。  
それとも、私みたいに変なちからを持ってる女じゃ、心から信頼する訳にはいかないっていうことなんだろうか?  
 
……なんて、暗い考えに浸ってたって、しょうがない。  
「そ。だったらもう行こ! いつまでもこんなかび臭い部屋に居たって、しょうがないじゃん!」  
半ば自分を励ますように明るい口調で言いながら、私は守の手を引っ張った。  
 
 
廊下からヨロイの気配が絶えているのを確認してから、私と守は、そっと廊下を歩き始めた。  
守は相変わらず元気がない。さっき書斎で見たスクラップのことを、まだ引きずってるのに違いない。  
確かに、あのスクラップは守に取って、不気味で不吉な存在に違いないと思う。  
このお屋敷に居る何者かの悪意が、自分独りに向けられているように錯覚しているのかも知れない。  
でもそれは違う。  
お屋敷に巣食う悪意は、私と守、それぞれ平等に向けられているものなんだ。  
できればその事実を知らせてあげたい。でもそれはできない。  
私がこのお屋敷と関わりがあるのかも知れないだとか、ここで見知らぬ男に二度も犯されそうになっているだとか、そんなこと、守に話せる訳がない。  
せめて、不吉な事実から守の気持ちをそらすべく、私は言った。  
 
Aねえ、のど乾いた。  
 
「走り廻ったからのど渇いた。何か飲むもん持ってない?」  
唐突な私のわがままに、守は困った顔を見せる。何か持っていたか頭を巡らせてる様子。  
私は、悩んでいる守の腕を引っ張った。  
「そうだ。ここの台所に何かあるかも! 行ってみようよ」  
「ちょっ、ちょ……こ、こんな廃屋にあるものを口にするなんて」  
「ものは試しよ! 瓶詰めの物とかならきっと平気だって! こんな大邸宅なんだからさぁ。ひょっとしたら、ワイン倉くらいあるかもしんないじゃん」  
とりあえず、飲み物を探すって行為をすることで、少しは気が紛れるんじゃないかと思った。  
 
*そして廊下を歩いているうちに、私達は、観音開きの大扉の前にたどり着いた。  
「これはきっと食堂のドアね。てことはこの奥に厨房が……」  
私は重そうな扉を両手で押し開けた。守が部屋の中をライトで中を照らす。  
 
暗い部屋の中で、顔を伏せて泣いている女の子の姿があった。  
歳は多分、私と同じくらい。長い黒髪を後ろに束ね、白い着物を身に着けている。  
彼女の前のテーブルには、生クリームで飾りつけをした手作りケーキを中心に、ささやかだけど丁寧にこしらえられた、美味しそうなご馳走がたくさん並んでいた。  
 
――どうして泣いてるの……?  
 
約束していた相手が来なかったとか、そういうことなんだろうか?  
両手で顔を覆い、ただひたすらに泣いている女の子が気の毒で、私は女の子に心で話しかける。  
 
――……さら……い……。  
 
女の子は、私の心の呼びかけに、心の声で答えた。  
でもその声は小さく、とても聞き取りづらい。私は、もう一度心で呼びかけた。  
女の子は泣くのをやめ、顔をあげてゆっくりとこちらに眼を向けた。黒目がちの大きな瞳。その、漆黒の沼を思わせる虚ろな瞳が私を見据え、赤い唇が動いた。  
そして、今度は心の声ではなく、自分の口を使って言葉を発した。  
 
「今さら遅いのよ」  
 
 
軽いめまいの後、私の意識は現実に帰った。  
意識に飛び込んできたイメージは、一瞬のうちに過ぎ去り、何事もなかったかのように消え失せていた。  
今のイメージを反芻している私の横で、何も知らない守は、ライトを室内のテーブルに向けている。  
ライトがテーブルの中央を照らした時、白いテーブルクロスの上で蠢いていた黒い塊が、ぱっと散った。テーブルに残る食べ物のかけらを漁っていた、ネズミの群れだった。  
「うわっ」  
「いやぁっ」  
私達は、ついつい悲鳴をあげてしまう。  
 
扉の中は、思った通り食堂になっていた。それも、西洋のお城にあるような大食堂。  
白いクロスをかけられた縦長のテーブルは、部屋の奥までずっと続いていて、椅子もここから見て取れるだけで、二十脚以上は余裕でありそう。  
凄く立派な食堂だったんだろうだけど、今は荒れ果てて見る影もない。  
 
「酷いなこりゃ……」  
守は、荒れ果てたテーブルの上をライトでたどった。  
ほんとに酷い散らかりよう。  
用意されていた食器類や食べ物は、ネズミによってしっちゃかめっちゃかに掻き廻されてるし、かびとか埃で汚れてしまって眼も当てられない。  
 
そして、そんな不潔なテーブルの中央には、ネズミに倒された陶の花瓶と、そこから散らばった、月下奇人の花束があった。守が嫌そうに顔を歪める。  
「う……また月下奇人かよ……」  
 
不思議なことに、ここにある月下奇人は、二階の赤い部屋で見たもののように干からびてなくて、瑞々しく水分を含んで例の芳香を発していた。  
つまり、この花束はまだ新しい。  
つい最近、誰かがここに飾ったばかりなんだ。  
 
「も……もういいよ! 守、行こ!」  
こんなに気味の悪い食堂には、入りたくない。  
せっかく、あの不気味なスクラップから気をそらすために来たって言うのに、これじゃあ全く意味ないじゃないの。私は心底うんざりしてしまった。  
 
けれど守は、こんなに不潔でいやなムードを漂わせている食堂に平気でずかずかと入って行き、荒れ果てたテーブルのスナップ写真さえも撮影している。  
食堂の入口でぽかんと見守っている私に向かい、彼は言った。  
「郁子、ちょっとそこで待ってて」  
守は食堂の奥に、別の部屋へと続く扉を見つけたようだった。  
「はあ? ちょっと何する気なの?」  
私は引き留めようとしたけれど、守は「すぐ戻るから」と言い残し、さっさと扉を開けて行ってしまった。  
大方、取材でもしようと思っているのだろう。  
 
「……んもう!」  
独りぼっちで取り残された私は、腕組みをして守の消えて行った扉を睨んだ。  
ほんと、どういうつもりなんだろう。  
こんな処に、か弱い女の子を独りきりで残して行くなんて……このお屋敷には危険がいっぱいだってこと、守にだって判りきってるはずなのに。  
「しょうがないなあ……こんな場所に独りで居て、また変な奴に襲われたら堪らないわ」  
私は、仕方なしに守の後を追った。  
 
食堂内の扉を開けると、その向こうには、また食堂があった。  
こっちのテーブルは小さくて、せいぜい、前の大食堂の三分の一程度の大きさしかない。  
そして、そんな小食堂の奥には、さらに奥へと続く扉がついていた。そっちはどうやら、厨房に続いているようだ。守は厨房の方に行ったみたいなので、私も向かった。  
 
大食堂に比べると、案外綺麗に片付いている厨房の片隅に、守は立っていた。  
こちらに背中を向けていて、私が来たことには気づいていない。  
取材に集中しているのか、今は心の状態も無防備で、その断片的な思考が簡単に読めた。  
 
(これも一応、取材活動の一環)  
(謎のミイラ。人を襲うヨロイ。そして、夜見島事件についての記事を集めたスクラップ)  
(この屋敷には、何か途轍もない秘密が隠されているに違いない)  
(こうなったら、とことんまで突きつめて調べてやろう)  
 
守は、恐怖を紛らわす手段として、職業意識を強く持とうと努めているようだった。  
 
(前の夜見島の一件でも思ったのだが、人間、恐怖や絶望が臨界点を超えてしまうと、自分でも思いがけないほどの行動力を発揮するものだ)  
(こういうのを、火事場のクソ力と言うのかも知れない)  
 
「ただの逆切れなんじゃない?」  
守の心の声に、私はついうっかり口で返事をしてしまった。守はぎょっとして振り返った。  
「わ、郁子? 結局来たのかよ」  
守は、自分の考えが私に読まれていたことについてはあまり頓着をせず、いつの間にやら私がこの場に居たことについてだけ、驚きを見せた。  
 
本当に不思議な人だと思う。  
普通、こんな風に心の中を読まれたら、ほとんどの人は嫌がり、怯える。私のちからのことを知っていたって――ううん、知っていればなおのこと、その反感は強くなるものじゃないかと思う。  
なのに守は気にしない。私の前で、心の中の様々な思いを曝け出し、また、その事実を知っていながら、私と普通に接してくれる。しかもそれは、取り立てて努力してのことでもなさそうなのだ。  
 
かつて、私と少しだけ仲良くしてくれていた男の子のことを思い出す。  
その人は、今したみたいに、私がうっかり心の内を言い当てたとたん、手のひらを返したように態度が冷たくなり、私を避けるようになったものだ。  
どうして守は平気なのだろう。  
私に対して無関心な訳ではない。むしろ私に、単なる友達以上の気持ちを持ってくれている。それなのに、そんな私に心の中を勝手に読まれても、恥じ入った気持ちを抱いたりはしない……。  
 
人の心を読める私が、人の心を理解できずに悩んだりするなんて、おかしなことだと自分でも思う。  
こうなってみれば、人の心を読む能力なんて本当にちっぽけで、役に立たないちからなんだとよく判る。私は弱い。本当に弱いただの女の子なんだって、心底思い知らされる――。  
 
守と合流した私は、暗い厨房内を見渡した。  
「こっちはそんなに荒れてないんだね」  
「そうだな。何か飲みものでも探してみる?」  
「それはもういい……さっきのあれ見たら、そんな気失せた」  
大食堂の惨状を思い返して、私は肩をすくめた。  
 
それより今は、他に気になっていることがあった。私はそのことを守に言った。  
「ここ、何か変な音してない?」  
「変な音?」  
守は耳をそばだてた。  
 
どこかから、小さなベルの音が響いていた。  
いったい何の音だろう? 止め忘れた目覚まし時計の音か、はたまた、昔懐かしい黒電話の呼び出し音か。  
「これ……電話の音?」  
守が言う。そうだ。これは多分電話の音だ。守は怪訝そうな顔をしている。  
「何でこんな廃屋に電話が……」  
「で、でもどこにあるの? 電話なんて」  
二人してあちこち見廻してみる。でも電話なんかどこにもない。  
 
「ないな……あとは」  
守の目線が、厨房の奥に鎮座している巨大なステンレス製冷蔵庫に向けられた。  
「まさか……この中にはないよな」  
そう言いながらも、守は一応、冷蔵庫を開けていた。  
 
開けたとたん、けたたましいベルの音が鳴り響いた。  
廃屋にも関わらず、しっかりと稼動していた冷蔵庫の中央。得体の知れないブロック肉がぎっしりつまったその真ん中に、ダイヤル式の黒電話が当たり前のように置いてあったのだ。  
鳴り続ける電話を前にして、私と守は絶句する。  
 
「これって出るべきなのかな?」  
不意に守は、真顔でそんなことを言った。私はまじまじとその顔を見返した。  
「出たいんだったら出てみれば?」  
他に言いようもない。私の言葉を聞いて、守は困ったようだった。  
「でも……何て言って出たらいいんだろう? おれ、この家の住人でもないのに」  
 
え……そこ?  
廃屋の冷蔵庫に仕舞ってあった電話に、誰かがかけてきているという、怖ろしくも異常な事態を前にして、一番の心配事が、電話の応対の仕方だなんて……。  
呆れるのを通り越して、なんだか憐れみの心が湧いた。やっぱりそうなんだ。守は本物なんだ。本気で本物の、アレな人――。  
「……とりあえず『もしもし』って言ったらいいじゃん。はい」  
私は、冷蔵庫から電話を引っ張り出して守に手渡した。  
守は電話を抱えて受話器を取り、耳に宛がって、言われた通りの応対をした。  
「……もしもし」  
 
守の横で、私も電話に聞き耳を立てた。  
電話は繋がっているようだったけど、電話の相手は無言のままでいるようだった。――いや。少し注意して聞いてみると、ほんの微かではあるけれど、息遣いのようなものが聞こえた。息遣いとそして、小さな女の声。  
『……ふ……くぅ……ふふっ』  
 
その声に込められた感情は、私にも読み取れなかった。心を読む能力も、電話越しだと通じない。  
声の調子から判断しようにも、くぐもったその声は、泣いているようにも笑っているようにも取れるし、ともすれば、本当にただの息遣いに過ぎないようにも聞こえた。  
でも、これがもし泣き声であるとしたなら――大食堂の幻覚で見た、泣いている女の子の姿がふと蘇った。  
 
「もしもし?」  
相手が何も言葉を発しないので、守はもう一度大きな声で呼びかけていた。  
それでも相手は返事をしない。私はふと、電話機の下にぶらさがっている黒くて短い紐を見つけた。黒い紐? ううん、これ、ただの紐じゃない。ぎざぎざした端からたくさんの銅線がはみ出して――私ははっと気づいた。これは……電話機のコードだ!  
「守……これ、繋がってない!」  
私は守の腕を思い切り掴んで揺さぶった。守は大きく眼を見開いて、ちぎれたコードの端を見つめた。  
すると突然、受話器の向こうから、女の笑い声がけたたましく響き出した。  
 
「ぎゃあっ」  
守は叫んで電話を床に落とした。落ちた受話器からは、未だ女の笑い声が漏れ聞こえている。  
「ま、守……」  
「……こんなのただのトリックだ。絶対に何か仕掛けがあるに違いない」  
絞り出すような声音で、守は言った。  
「でも」  
私の声も、みっともなく震えていた。  
「ぼくらを怖がらせたいんだよ! 要するに単なる嫌がらせだ。気にすることはない」  
冷静さを取り戻そうとするように、守は言い募る。女の笑い声が、さらに大きくなった。  
「くそ!」  
守は、笑い続ける電話機を冷蔵庫に押し込み、ドアを閉めた。  
 
「馬鹿にしやがって……郁子、もう行こう」  
「ん……うん……」  
守は私の腕を取り、怒ったように言って歩き出した。ほんとは怒っているというより、怖くて不安なんだろう。  
怖くて不安なのは私も同じだった。  
だって、こんなものまで用意して私と守を脅かそうとするのは、あまりにも異常なことだ。悪意なんてものじゃない。狂っているとしか思えない。  
 
このお屋敷に潜んでいるのは、ただの気が触れた人なのだろうか? 相手が誰とか関係なしに、ただ迷い込んだハイカーを脅かして楽しみたいだけ?  
だったらいいのだけど――あのスクラップのことを考えると、やはりそうだとは思えない。スクラップのこともだけど、私の胸の内で膨らみつつある疑惑。  
このお屋敷を見廻るごとに明確になってゆく、異様なまでの既視感。  
そう。私はこの場所を、このお屋敷を、知っているような気がする。  
ずっとずっと昔に、ここで過ごしたことがあるような気がする――。  
 
貧血を起こしたように、ともすれば気を失ってしまいそうになる私の腕を、守は半ば、強引に引っ張って歩いてゆく。  
私はただなされるがままだった。まともにものも考えられない。どうすればいいのだろう? これから私と守はどうなってしまうんだろう?  
 
虚ろな私の背後で、守が叩きつけるように閉ざした、大食堂の扉の音が響いていた。  
 
ひとまずホールへ戻ろうと歩いていると、どこからか悲鳴が聞こえた。呆然と虚ろだった心が、突然の警報で覚醒する。  
「守! 今の……」  
四つ辻の廊下の中央で、私達は立ちすくむ――また聞こえた。  
「女の人の声だよね?」  
私は声の聞こえた方角を伺った。悲鳴は、曲がり角のずっと先、玄関ホールとは、正反対の方向から聞こえたようだった。  
その方向を指して守の顔を見あげる。守はなぜか、困惑気味に眼を泳がせているだけだった。  
「どうしたの守? 早くしないと!」  
「うん……そうだよな……」  
 
私に促されてから、守はようやく悲鳴のする方に向かって走り出した。  
――どうしたっていうんだろう?  
いつもの守なら、こんな場面で今みたいにぐずぐずすることなんてないはずなのに。腕っ節は強くないけど、決して臆病者なんかじゃない。それに、自他共に認めるおせっかいな性格だから、困ってる人は見過ごせない。そんな守が、どうして……?  
何を考えてるのか、心を読んでみようか?  
でも今、そんな暇はない。それになんだか、読むのが怖い。  
急に、知らない人みたいによそよそしく見える守の背中が、なんだか怖い……。  
 
薄暗い廊下を端まで進んでゆくと、突き当りが鉄の扉になっていた。他の部屋の扉と比べると、随分と無骨で頑丈そうな扉。守がノブを廻す。鍵はかかってないみたい。ちょっと身構えてから、守は扉を開けた。  
少し生臭い雨のにおいと、強い風が、扉向こうの闇から吹きつけてきた。  
「うわ……ここ、裏口だったのか」  
守は扉から表に出て、暗闇をライトで切り裂いた。裏口の向こうにあるのは裏庭――けれど今は、暗い雨と風に邪魔され、ほとんど何も見えない。守がライトで照らす先しか……。  
 
頼りない光で判断する限り、裏庭はもうすっかり荒れ果てて、単なる雑草だらけの空き地と化しているようだった。  
仕方のないことだと思う。人の絶えたこのお屋敷にはもう、庭の手入れをする人とて居ないんだろうし、もう昔みたいに綺麗なままじゃ……って、ああ違う違う。こんな状態の裏庭を見て、寂しい気持ちになる理由なんてないでしょ?  
だって私、このお屋敷とも、お花の咲いていた裏庭とも無関係なんだから。  
 
――随分と、冷たいのね。  
 
そうだよ。私はもう、昔のままの私じゃない。  
もう自立した大人になってるんだ。だから独りで生きていける。  
誰に頼ることもなく、昔の思い出にすがりつくこともなく――生きて行かなきゃならないの。  
そう今は、過ぎ去った過去のことなんかにすがっている時じゃない――。  
 
草ぼうぼうの庭の片隅で、何かが光った。  
あれはガラスの壁だ。それがライトを照り返したのに間違いない。私は言った。  
「――温室みたいね」  
 
温室の方から、また例の悲鳴があがった。  
悲鳴の主は、あの温室に居る。  
私と守は、泥を蹴立てて走り出した。ぬかるみに足を取られ、雨で全身ずぶ濡れになりながら、私は守の背中に声をかけた。  
「ねえ守。この悲鳴ってやっぱ……あの女の人のかな?」  
「さあ……」  
もう温室は眼の前だ。私は、思い切って心のわだかまりを吐露することにした。  
「あのね……私ね、あの女の人のこと……知ってるような気がするの」  
守は私を振り返らず、眼の前の低い立ち木を押し退けて答えた。  
「……おれもだよ」  
――えっ?  
 
温室の前まで来た。  
守は温室の中に呼びかけている。そして、汚れきって曇ったガラスをライトで照らした。  
 
「うぅっ?」  
ガラス越しに現れた温室の中身を眼にして、私は呻いた。  
温室の中は血まみれだった。  
飛び散った血飛沫が、ガラスを赤い色に染めて――なんていう風に見えたのは一瞬のこと。  
実際そこにあったのは、ただの月下奇人だった。放置された温室が、月下奇人に侵蝕されてしまったという、ただそれだけのことだった。  
月下奇人の温室。  
雨の中、私達は言葉もなく立ち尽くす。その時、凄く間近な場所から、また悲鳴が聞こえた。  
「あっち!」  
今の悲鳴は、温室を挟んだ向こう側からだった。私は急いでそちらに向かう。  
一歩遅れて守が追って来るのを、振り切るような勢いで私は走った。  
何をこんなに焦っているのか、自分でもよく判らない。でもとにかく、急がなくちゃいけないと思った。守が先に、あの女を見るようなことがあってはならない。もしも守があの女を見てしまったら……きっと守は、魅入られてしまう。あの女に。あの女の、綺麗な乳房に――。  
 
そして私は、悲鳴の源へとたどり着いた。  
壊れた温室のガラス戸。  
下の方の蝶番が外れ、ぶらさがった状態の扉が、風に煽られ甲高い音を立てて軋む。  
「幽霊の、正体見たり枯れ尾花……か」  
私に追いついた守が、幅広い肩をすくめて見せた。  
彼には判っていたんだ。「悲鳴」の正体が、このガラス戸の軋みであるということが。  
いつから判っていたの? それとも最初から知っていたの?  
灰色の重たい雲が、私の胸いっぱいに広がってゆく。  
でもそれとても、今の私に取っては酷く些細で、どうでもいい事柄だった。  
 
私が何も言わずにただ突っ立っているのを訝って、守は、私が見つめているガラス戸にライトを当てた。  
ガラスの照り返す真っ白な光が、私の眼に突き刺さる。  
揺れるガラス戸が、風に煽られるまま、ゆっくりとその表面を晒した。  
 
   “陏子”  
 
扉一面に殴り書きされた、二つの文字。血のように赤い塗料で書かれているのは、中で咲いてる月下奇人の赤に合わせたのかも知れない。  
陏子。陏子。陏子。  
きっとほんとは、「郁子」のつもりで書いたのだろう。  
だけど違うよ。間違ってるよ。  
もう、昔からそうだったよね。あんたがくれる手紙には、私の名前、いつもこの変な字で書いてあるの。まあいいかって、訂正しなかった私も悪いんだろうけどね。  
 
ここにこの名前を書いたのは、やっぱり、あんたなの……?  
 
「行こう」  
立ち尽くす私の腕を、守が引っ張った。守の腕に逆らい、私はガラス戸を見つめていた。  
「郁子!」  
私の腕を引く力が強くなった。私はよろめき、たたらを踏んだ。  
「なんでなの……」  
小さな声で、それだけ言った。  
取り繕ったり、強がりを言う気にもなれない。このままじゃ、守に心配をかけちゃうってことが、判っていても。  
 
「……とにかく、戻ろう」  
守の重苦しい声が、酷く遠い場所から聞こえた。  
彼に引きずられて屋敷へと戻ってゆく間にも、私の頭の中では、風に煽られ揺らいでいるガラス戸が、そこに書かれた「陏子」の文字が、焼きごてで押されたように刻み込まれ、意識の中で、いつまでもいつまでも不吉な映像の記録となって居座り続けていた――。  
 
 
「なあ、ここって風呂場あるかな?」  
お屋敷の廊下で、守は私に呼びかけた。  
ようやくあの光景のショックから気持ちが切り替わる。  
「泥まみれになっちゃったし、洗わないと気持ち悪いじゃん」  
守は、私のことを気遣っているのだろう。おどけた仕草で、泥水でどろどろになったジーンズの足元をアピールしている。私は少しだけ笑った。言われてみれば、私の躰だって雨でぐしょぐしょ。  
 
「そだね……探してみようか」  
私はなけなしの元気さを取り戻し、守の先に立って廊下を歩き始めた。  
いつも元気でポジティブで、ちょっとやそっとのことじゃへこたれない強い子。それが私。木船郁子という女の子。  
このスタンスは、絶対に変えられない。独りきりで生きていくために――私は、自分の気を強く持っていなければいけないんだ。  
 
「私の勘だとここら辺なんだよねー」  
私は廊下の角を曲がり、一番手前にある扉に向かった。守が私の前に立ち、ノブを廻して扉を開けた。  
扉の向こう、真正面に見える鏡が、守のライトを反射させる。  
トイレを兼ねた洗面所。扉の内側付近についてるスイッチを入れると、大きな丸い電球が、中をぼんやりとした灯りで満たした。  
 
「さてと。ちゃんと水が出るかな……」  
さっそく守は、洗面台の蛇口をひねった。白い陶製の洗面台が、血に染まった。  
「いやあぁっ!」  
びっくりして悲鳴をあげると、守は苦笑いをした。  
「落ち着けよ、ただの赤錆だ」  
確かにそれは、よく見ると古い水道管の赤錆に過ぎないことが判った。暫く水を流していると、赤錆はすぐに消えて、綺麗な水へと変わっていった。  
 
「郁子、先に使いなよ」  
守は私に洗面台を譲ってくれる。ありがたく先に手を洗わせて貰う私の背後で、守は、霞みガラスの引き戸の向こう側にある浴室を調べているようだった。  
手を洗い終え、濡れたしずくを振り払いながら、私は守の横から浴室を覗いた。  
広々とした浴室は、乾いていて案外清潔そうだった。  
細かいタイルの床と壁、大きな白い猫足のバスタブ。さすがに、いずれも古くてひびが入ったり、少し黒ずんでいたりもするけど、私が大掃除してあげる前の守ん家のバスルームなんかより、ずっとまし。  
これで、こっちの方もちゃんと水が出てくれればいうことない。もちろん、水でなくお湯が出てくれれば、もう完璧なんだけど……。  
「さすがにお湯は出ない、よねぇ……?」  
 
私の台詞を聞いたとたん、守の意識内に、私のシャワーシーンが展開された。映画とかドラマみたいに、足元からカメラがゆっくりとあがっていき、腰、肩、そしてうっとりとお湯に打たれている私の横顔まで舐めていくのだ。  
なんてありがちな……でも、とっさの妄想なんてだいたいこんなもの。ここで変に凝った妄想されても、それはそれで引く。  
 
「ものは試しだ」  
守がシャワーのコックをひねった。  
バスタブが真っ赤に染まった。こっちも赤錆か。さすがにもう驚かないよ。  
「うわあぁーっ!!」  
守はとんでもない悲鳴をあげて、すっ飛んで逃げて行った。  
「いや、赤錆だから……って、どこまで逃げてんのっ!」  
守は、洗面所を出て廊下の壁にへばりついていた。私の視線に気づくと、かっこつけて眼鏡を指で押しあげつつ戻って来た。一生壁にへばりついてればよかったのに、と私は思った。  
 
赤錆が流された後、水は綺麗に澄んでゆき、だんだんと温かくなってきた。  
「わーい、お湯だぁ」  
これだったら、ちゃんと躰を洗うことができる。私は嬉しくなった。  
「ね? 先入っていいよね?」  
ちょっとわがままを言ってみる。もちろん、守が聞いてくれるのを見越してのこと。だって守って、女の子にこんな態度を取られた方が喜ぶタチだから。  
そして、やはり守は、「はいはい」と素直に浴室から退出しようとするのだった。  
 
さて、それでは私は、さっそくシャワーを浴びるために服を脱いで……。  
ん? 待てよ。シャワーを浴びるのはいいとして、着替えその他を入れたバッグが、玄関ホールに置きっぱなしだった。  
「守ぅ、悪いけど私のバッグ取って来てくんない?」  
私は浴室から顔だけを突き出し、洗面所から廊下に出ようとしていた守を呼び止めた。  
 
「タオルと着替え、あれに入ってんのよ。ほら早くぅ。駆け足!」  
さすがに守は渋面を浮かべたけれど、大人しく「はい」と返事をして走って行った。  
――ちょっとお調子に乗り過ぎちゃったかな。でも、たまにはいいよね。これぐらい……甘えたってさ。  
「友達なんだから……これぐらいフランクでもいいんだよね」  
独り呟き、私は浴室の引き戸を閉めた。  
脱ぎかけたタンクトップの裾を持って、ちょっと考える。守が戻って来るまで、このままでいた方がいいかなあ……?  
だけど、勢いよく噴き出しているシャワーのお湯を見ていたら、もう守なんて待ってられない気分になった。いいや、入っちゃえ。バッグは、洗面所に置いて貰えばいいんだもん。私はタンクトップを脱ぎ、泥まみれのデニムを引きおろした。  
 
浴室の壁にある曇った姿見に、私の躰がぼんやりと映し出されていた。ブラとパンツだけの半裸の姿。鏡の前、色々と角度を変えて自分のプロポーションをチェックした。  
我ながら、まあまあ見られる躰つきじゃないかと思う。胸もそれなりに出っ張ってるし、ウエストだってきちんとくびれてる。  
難を言えば、ちょっとお尻が大き過ぎることかな。このお尻のせいで、着るものには結構苦労させられるのだ。トップスの丈によっては、凄い下半身デブに見えちゃったりもするし。  
 
鏡にお尻を映しながら、綿のパンツをくるりと剥いた。深く切れ込んだ二つの山。守が頭の中で、色々と妄想している私のお尻。  
守の妄想する私のお尻は、あくまでただの妄想なので、その時々によって色、形、割れ方なんかがいつも微妙に異なっている。守君、私の本物のお尻は、こんななんですよ。  
くすりと笑って正面を向いた。それほど濃くない下の毛が、少し逆立っているのが妙に眼につく。うーん。前から見ても、やっぱり腰の大きさが目立つかなあ……。  
 
こんなことをしながら、私は、最後のものを取り去る時を引き伸ばしていた。  
判ってる。これは欺瞞。真実を見たくないがゆえの、ただの現実逃避だ。  
現実逃避というものは、いつまでもしていられるものではない。私は覚悟を決め、躰を隠す最後のもの――ブラジャーのホックを後ろ手に外して、胸からむしり取った。  
 
姿見は、私の真実の姿を、余すことなく映し出した。  
真ん丸い乳房の膨らみ。茶味がかったピンク色の、ちんまりとした乳首と乳輪。  
そして――その乳首と乳輪を取り囲んでいる、醜くておぞましい二つの痣。  
人の眼の形をした、赤黒い闇の刻印。  
鏡の中から私を見据えるその痣を、私は、険しい眼つきで睨み返す。  
これが私の呪われた運命。私が普通の人とは違う、夜見島の化け物に近い存在であることの証。  
 
私が守と結ばれることのできない、これがその理由だった。  
 
全てを脱ぎ捨て丸裸になった私は、鏡から眼を背け、バスタブに入って顔面にシャワーのお湯を浴びせた。  
熱いシャワーは、躰についた汚れと共に、私の心の頑なさまでも、融かして流してしまうようだった。  
お湯の飛沫の中、私は、張りつめた胸の膨らみを摩りあげ、円を描くように撫で廻した後、荒々しい手つきでぎゅっと掴んだ。  
乳房の芯に響く痛み。私は歯を食いしばる。  
こうするしかない。ともすれば、守の前に投げ出してしまいたくなるこの躰を鎮め、自分の気持ちを抑え込むために、私は、私自身を痛めつけるしかないのだ。  
 
――現実を見なさいよ。私は醜いでしょ。化け物みたいでしょ。こんな痣のある胸を、守に見せることなんてできないでしょ。  
乳房を両手で持ちあげれば、ひしゃげて変形した痣が、よりいっそう醜く歪んで私を嘲笑った。苦しくて、叫び出したい気持ちに陥る。私は頭を抱え、バスタブの底にうずくまった。  
 
心の苦しみに押し潰されそうになった私の頭上で、シャワーのお湯が、急激に温度を上昇させた。  
 
「きゃああぁーーーっ!」  
 
驚くより先に躰が反応し、バスタブの外に転がり出た。シャワーの温度はますます上昇してゆく。  
とにかくシャワーを止めようとしたけど、もう熱すぎてシャワーコックにさえ近寄れない。故障してしまったのだろうか?  
物凄い熱気に耐え切れず、私は洗面所に逃げ込んだ。  
それとほぼ同時に、玄関ホールから悲鳴を聞きつけ、飛んで来た守が扉を開けた。  
「どうしたんだっ!?」  
「ひゃあああぁっ!?」  
「ああっ? ごっ、ごめんっ!」  
守は慌てて廊下に戻り、扉を閉めた。  
 
「いきなり開けないでよ馬鹿っ!」  
床にしゃがみ込みながら、混乱の極みで私は叫んだ。まだ胸がどきどきしている。顔が熱くて火を吹きそうだ。  
「イヤだって……悲鳴が聞こえたから、心配になって……いったい何なんだよ?」  
扉の向こう側から、守は声をあげた。  
「そ、それがね……シャワーが、いきなり熱湯になっちゃったの」  
「ええ? なんだって!?」  
守が居るのに、いつまでもこんな格好じゃいられない。私は洗面台の上にある戸棚を開け、バスタオルを取り出して、躰に巻きつけた。  
「もう熱くて、シャワーのコックにも近づけないのよ」  
「ちょ、ちょっと中に入るぞ」  
返事も待たずに、守は中に踏み込んで来た。全く、こんな時にもエロのチャンスを窺おうってんだから……バスタオル巻いといて正解だったわ。  
 
守は、私の裸が見れなくて落胆した様子だったけど、すぐに気を取り直してシャワーを調べに行ってくれた。  
でも浴室の戸を開けたとたん、凄まじい熱気に怯んで躰を引いた。やはり駄目なんだろうか。  
でも守は、諦めた様子もなく私に言った。  
「おれ、ボイラーの方を見てくるよ」  
「ボイラー? そんなのどこにあるの?」  
「さっき、それっぽいのを見つけたんだ……多分、そっちでなら直せると思う」  
守は、後も見ずに廊下に飛び出し、そのまま走り去って行った。  
 
私は、扉の開いた洗面所の出入り口を前に、暫しぼんやりと突っ立ったままでいた。  
廊下にひょいっと顔を出す。曲がり角の向こうから、裏口の扉の開く音が聞こえた。ボイラーというのは、裏庭にあるのだろうか?  
ふと、出入り口の周辺を見廻したが、バッグが見当たらない。何よ。守ったら、こっち来る時一緒に持って来てくれたんじゃなかったの?  
「全く……何しに行ったのよ」  
 
こんな格好で、玄関ホールまで行く気になれない。  
ため息一つついて、巻いたバスタオルの胸元を引きあげる。扉を閉め、洗面所の片隅に、膝を抱えて座り込んだ。  
 
――さっき守は、私の裸を全部見ただろうか?  
気持ちが落ち着いてくると、そのことが真っ先に気になり出した。  
一応、胸は完璧にガードしたつもりだし、もしもあいつが胸の痣を見ていれば、何らかの反応があるはずだけど、それもなかった。だから多分、大丈夫だとは思うけど……。  
 
――でも、どうかしらね? 守は優しいから……気づいてない振りしていただけかも知れない。  
 
うん。その可能性もある。あいつが逃げるようにここから出て行ったのだって、本当は痣を見ていて、怖くなったせいなのかも。ボイラーなんてのは嘘っぱちで、私から、このお屋敷から、独りで逃げ出そうとしていただけなのかも……。  
 
――だとしたら、もうここへは戻って来ないかも知れないわね。  
 
そう……かな。もしそうだとしても……仕方ないよ。私、守に見捨てられても仕方ない。こんな痣のある私なんか、守に捨てられるのは、当たり前のことなんだから……。  
 
――彼に見捨てられてたとしたら、どうする?  
 
どうするって……どうしようもないじゃん。どうもしないよ。守と出逢う前に戻るだけ。独りぼっちで、ただ生きて行くだけ。  
 
――東京で?  
 
そうだねえ……東京へは、守の勧めで出て来ただけだから、守と離れる以上、こだわる理由はないもんねえ。どうしようかな……。  
 
――だったらここで暮らしなさいよ。このお屋敷で、私と二人。昔に戻って……。  
 
昔に……戻って?  
 
取り留めのない思考をやめて、私は立ちあがった。躰に巻きつけていたバスタオルが剥がれて床に落ちたけど、気にしない。振り返って、洗面台の鏡を見た。  
そこには私ではない、違う女が映っていた。黒くて長い髪の毛。白い肌。漆黒の瞳に、痣のない綺麗な胸。  
私と全く似ていないその女は、驚いて硬直する私に、嘲笑を浴びせる。美しいけど邪悪な笑顔。この顔――私は知っている。一年前の夜見島で、さらには夜見島から戻って以降、私の意識内にたびたび現れて、私を苦しめ続けていた――。  
あの山道で姿を現し、このお屋敷に着いてからも私の心の隙間に忍び込み、私を惑わす言葉を投げかけてきた。そう、今も――。  
 
「あんた……あんたは、誰なの!?」  
意を決して鏡に叫んだ。鏡の中で、女の口が裂けた。  
禍々しい、狂った笑い声が頭の中に響いた。  
 
――私はあんたよ。  
 
女は、笑い声と共に甲高い声を響かせた。私は両手で耳を塞いだ。  
「馬鹿なこと言わないでよ! 私は、私はあんたなんかと違う! 私は……あんたじゃない!」  
鏡の女の顔から笑いが消え、頭の中の哄笑も消え去った。  
女は、物凄い眼で私を睨み据えている。  
 
――私を拒絶するつもりなの? 私の存在を無視して、消し去ってしまおうというの?  
 
こめかみの辺りに、戦慄が走った。全身の産毛が、ちりちりと音を立てて逆立ってゆく。  
ちから。凄まじい怒りと、憎悪を孕んで。私の――私の中から。  
どうして? 違う。これ、私のちからじゃない。  
これは……このちからは、いったい……。  
 
得体の知れない“ちから”が、私の全身を、電撃のように貫いた。  
その衝撃に押し潰されて、私の意識は、暗黒の中にすうっと沈んで行った――。  
 
 
【つづく】  
 
 

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