闇の中にうずくまっていた。  
安らぎの世界。私が生まれた世界。私が本来居るべき世界。  
 
そのことを明確に自覚したのは、やはりあの時だったと思う。  
夜見島で、守と一緒に巨大人魚を倒した後。赤い津波に飲まれ、元の世界に送り返された直後。  
守に呼びかけられて意識を取り戻した私は、守と二人、正常に戻った夜見島で、昇る朝陽を見た。  
海原を輝かしく照らしてゆくその光明は、異様な眩しさを感じさせた。  
なんとも言えず不快で、不安感を増幅させるその光に耐えかね、私は額に手をかざした。  
 
躰の奥底で、何かがごそりと蠢いた。  
暗い、深淵の中からゆっくりと這い出し、表に出ようとしているそれは、妙に生白く、湿った皮膚を持っていた。  
たった今まで戦っていた、あの、闇の化け物達と同じように。  
――変わってしまう……。  
自分の意識がぶれ、霞んで消えてゆくような感覚の中、私は、今の私の消滅を覚悟した。  
なぜ、私が他の人とは違う、おかしなちからを持っていたのか。  
なぜ、それが、夜見島で化け物達と戦っていくにつれ、どんどん強くなっていったのか。  
全ては氷解し、自明の理として納得の行くものに変わっていた。  
そして私も変わってしまう。  
本物の化け物に。私が夜見島で打ち倒してきたもの達と、同じものに――。  
 
「……おい!」  
不意に、肩を掴まれ揺すぶられた。  
大きな手の平。力強い指先。私のぶれかけた意識が、自分を取り戻した。  
「え……あ、私……」  
眼を瞬いて、私の肩を揺すった男の子――守の顔を、見返した。  
「大丈夫? だいぶ疲れてるみたいだね」  
「うん……平気。ちょっと、ボーっとしちゃって……」  
取り繕って笑うと、彼も安堵の微笑みを浮かべた。  
朝焼けに照らされた彼の笑顔が、闇の住人である私の眼には、とてつもなく輝かしく、眩しく映った――。  
 
「結局、あんたはそれで、まもるのことを好きになっちゃった訳ね」  
 
闇の片隅から声がした。  
膝を抱えて座り込んだまま、私は声のする方に眼をやった。  
闇と馴れ合うような生白い肌が蠢き、柔らかそうな指先が、長い黒髪をさらりと掻きあげていた。  
「だからあんたは、彼を追って東京へ行った。彼のそばに居るために」  
女は、にやにやと笑いながら私に言う。私は力なく首を左右に振った。  
「違うわよ。別に、あの時はそんな……私が上京したのはそんな理由じゃないもん。あんただって知ってるでしょう?」  
 
「そうかしら」  
女は、にやにや笑いを崩さなかった。  
「じゃあ、こういうのは? あんたはあの時、未だ自分の気持ちに気づいてなかっただけなの。他人の心を読んで、他人の恋愛感情を外から覗くことはあっても、自分の心にそれが起こるのは初めてだったから、それが恋愛だと気づかなかった。  
だから本当は、もっとずっと前から、彼のことを好きになってたのかも知れないんだよ?  
例えばそうね……あの例の鉄塔で、落っこちそうになってた処を助けて貰った時とか。あるいはもっと前、三途港で初めて出逢って話をした時かも」  
 
「あー、ないない。港で逢った時だけは絶対ない。だってあいつ、第一印象、超キモかったじゃん。あんな冴えない身なりして、港の写真撮りまくってさ。船長があいつを夜見島まで乗せて行くって決めた時も、やめりゃいいのにって思ってたぐらいだよ」  
 
「だからあ、それはあんたが、本当の自分の気持ちに気づいてなかっただけなんだってば。考えても見なさいよ。あんた、なんだかんだ言いながらも、彼のことずっと気にかけてたんじゃないの?  
夜見島に、異変が起こった後も……だからこそ、彼がお母さんに取り込まれそうになった時、わざわざちからを使ってお母さんの動きを止めてまで、彼を助けたんじゃなかったの?」  
「そんなこと……あの状況眼にしたら、普通助けるでしょ? あいつだから助けたって訳じゃないよ、別に」  
 
そうだ。少なくとも私は、あの夜見島に居た時、守を好きになっていた訳じゃなかった――と思う。  
そりゃあ確かに、少しは気にかけていた。  
最初に起きた津波で海に投げ出され、夜見島に漂着した後、船長や、他に乗ってきた客達よりもまっ先に、守の安否を心配したのは事実だ。  
あの時はまだ、私は守と出逢ったばかりで、彼の心、それほど見た訳じゃあなかったけれど――  
それでも、僅かな時間に垣間見た彼の気持ちの純粋さ、真っ直ぐさ、それに、口にしたり顔に表している思考と、実際頭の中で考えている思考がほとんど一致しているという、表裏のないその正直さは、  
それまで私が見たことのなかった思考パターンで、それだけでも私は、彼の意識を気にせずにはいられなかったのだ。  
 
だけどそれは、まだ恋愛という段階のものではなかったはず。  
そうだ。それからもっと後の、あの時だって――。  
 
 
「木船さん、待って!」  
 
夜見島から救出された後、事情聴取がてら、半ば強制的に収容された病院から早々に退院し、逃げるようにこっそり出て行こうとしていた私を、彼は呼び止めた。  
私以上に傷を負い、体力も消耗していた守は、まだ退院の許可がおりなくて、病院から出して貰えないようだった。  
「あんた……よく私が退院することが判ったね」  
まだ夜明け前だった。当然病室は別々だったし、病院の中で守とはほとんど顔も合わせていなかった。  
 
「ゆうべ担当の看護婦さんに聞いたんだよ。君が、今日退院するって」  
 守は、病院で借りたパジャマの襟を掻き合わせた。夏の盛りだというのに、海辺にほど近い病院の庭は、風がひんやりとして少しだけ寒かった。  
「――迎えの人とか、居ないのか?」  
「うん。私独り暮らしだし。親きょうだいとかと、縁が薄いから」  
「そうか……」  
 
二日ちょっとの入院の間、守の処には実家のお母さんや、会社の人達なんかがお見舞いに来ていてにぎやかだったけど、私はずっと独りきりで過ごしていた。それは当たり前のことだし、私は別になんとも思っていなかった。私には、独りが普通のことなのだ。  
「じゃあ、元気で」  
私は守に軽く手を振り、そのまま立ち去ろうとした。  
「ま、待てって」  
守は私の手首を掴んだ。  
 
(……今度はもう、離さない)  
掴んだ手から、彼の強い思考が流れ込んで来た。彼は、私が自分のちからのことを告白した時、思わず手を離してしまったことを、未だに気に病んでいるようだった。  
――そんなこと……もう気にしないでいいのに。  
彼の手を握り返し、私の思考を送ってみる。けれど、そんなことをしたって彼には通じない。私は振り返り、口で伝えてあげることにした。  
 
「木船さん、さ。こんなこというのは失礼かも知れないけど……君、今後の身の振り方は考えてるの?」  
私の言葉を制し、守は唐突にそんなことを言った。  
痛い処を衝かれてしまい、私は言葉に詰まった。  
「そ、そうだねえ……船がなくなっちゃったからねえ……。ま、別のバイトを探すよ」  
「また、港で働くの?」  
「うーん……さすがにあんな目に遭って、また同じ場所で働くのはちょっと……でもまあ別に、港以外にも勤め先はあるし。三途は田舎だけど、選り好みさえしなけりゃ、それなりに」  
 
「ねえ、木船さん」  
守は私の眼を見つめ、思い切った口調で私に言った。  
「どうせ新しいバイトを探すんなら、思い切って東京に出て来ないか? それだったら、おれも少しは力になれると思うし」  
「東京に?」  
予想外の提案だった。  
地元を離れてしまうのか……確かに私は、地元に親しい間柄の人が居る訳じゃなし、生まれ故郷に対する思い入れも特にないから、三途地方から出て行ったって、何の問題もないのだけれど……。  
 
「だけど、いきなり東京っていうのは……日本一の大都会でしょ。人いっぱい居そうじゃない。私、あんまり他人と関わりたくないから」  
「だったらなおさら、東京はうってつけの場所だよ。都会の方が、人と人との繋がりが希薄なものだ」  
いいことなのかどうか判らないその事実を、守は晴れ晴れと言い放った。「それに」と、彼は付け加える。  
「思うんだけどさ、君はもう、あの港からは離れた方がいいよ。港っていうより、あの島から……行って見てはっきりと判ったんだ。やはりあの島は、呪われている」  
 
そっちの方の話は、私にもよく理解できた。  
彼の言う通りなのだ。あの島は、夜見島は呪われている。しかもその呪いは、決して私と無関係のものではないはずなのだ。  
私のちからは、夜見島と深い繋がりがある。彼もきっと、そのことを薄々感づいていたのだと思う。  
未だ守には話していないけれど、私が生まれる前、私を身篭っていたお母さんは、夜見島近郊の海に落ちたことがあるのだ。  
〈妊婦、海に入りたれば必ずや災いを宿す〉  
昔、夜見島で語られていたという言い伝え。あの島では、海から来たものは、全て「穢れ」とされていたそうだ。  
だから私も「穢れ」に他ならない。この土地に居る限り、私は自分が「穢れ」である事実から逃れられない。ならいっそ、思い切ってこの土地から離れてしまったら――。  
 
「まあ、無理にとは言わないけどさ……一応考えてみてよ。おれ、いつでも相談に乗るから」  
そう言って守は私の手を離し、胸ポケットに用意してあった自分の名刺を私にくれた。  
「本当に、いつでも構わないから連絡して。遠慮はいらないよ。おれ達はもう――戦友なんだから」  
「戦友?」  
守の言葉を聞き返す。彼は大きく頷いた。  
「そうだ。おれ達は命運を共にして戦い、これに勝利し、共に生還した仲間だ。おれはもう――君のことを、同士だと思っているよ」  
間に合わせなのか、顔に合ってない窮屈そうな眼鏡のつるをこめかみに食い込ませ、守は清々しく笑った。  
折りしもその時夜が明け始め、守の笑顔に、輝かしい光明を添えていた――。  
 
守に貰った名刺の裏側には、彼個人のものと思しき携帯の番号と、メールアドレスがメモ書きしてあった。  
町外れにある自分のアパートに戻ってから、私はそれを、半日ぐらい眺めて過ごした。  
「同士……か」  
多分それは、彼なりの思いやりだったんだと思う。  
人と関わらないよう、人を避けて、孤独に過ごしている私に対し、独りぼっちではないのだと、自分という理解者がここに居るのだということを伝えようとして――彼が選んだ呼び名が、あの、堅っ苦しい「同士」だの「戦友」だのといった言葉だったんだ。  
 
「でもそれって、女の子に言う言葉じゃないよ。ずれてんなあ」  
畳に寝転び、天井に名刺を掲げて、私は独りでくすくす笑った。  
それからすぐに起きあがった。心はもう決まっていた。  
――東京に行こう。  
 
それから私は、慌しく荷物の整理を始めた。  
要らないものは処分をし、持って行くものは旅行用のキャリーバッグに詰め込んでゆく。  
もろもろの準備や手続きが整ったのは、それから一週間ほど経ってからのことだった。  
ちっぽけなキャリーバッグと共に列車に乗り込み、流れ行く窓の景色を眺めながら、私は、生まれ故郷へ簡単な別れの言葉を投げ、それから、私の中に定めた一つのルールを胸で呟いた。  
それは、人と化け物のちょうど中間点に在る私が、「人間・木船郁子」として、絶対に守らなきゃいけないこと。  
私なりの道徳、倫理観が命じる、ささやかな不文律。  
 
――大丈夫。私はきっとこれを守れる。守って、ちゃんとやって行けるわ、たとえ独りぼっちでも……。  
眼を閉じて、胸に手を宛がい、心に誓った。  
平日の午後、上り列車の車両は人もまばらで、行き交う思考も穏やかに眠たげで、当然のことながら、私の心の小さな誓いになど、気に留める人とてなかった。  
 
 
東京に着いてからは、まず真っ先に、東京で暮らしているお母さんと連絡を取った。  
いったんお母さんのアパートの住所に住民票を移し、そこを基点にして、東京での仕事と新しい住まいを探すつもりだったのだ。  
いきなり何の前触れもなく電話をし、東京に来ていることを告げると、お母さんはさすがに驚きを隠せない様子だったけど、わたしの頼みごとを二つ返事で快諾してくれた。  
仮の住まいとしてアパートにお邪魔させてくれるのはもちろんのこと、新しくアパートを借りるための資金さえ、都合してくれると言ってくれたのだ。  
当時、高校を出てからまだ数ヶ月、貯金なんてものは無きに等しい状態だった私に取って、お母さんの厚意は途轍もなくありがたいものには違いなかった。  
 
だけど私は、お母さんからお金を借りることはしなかった。  
東京には、敷金や礼金が不要というのを売りにしたアパートも結構あったから、そういうのを探し当てて初期費用を抑えたのだ。  
アルバイトもすぐに見つけた。新しいアパートから自転車で十分程度の場所にある二十四時間喫茶店で、通りを挟んだ向かい側には、雑誌「アトランティス」編集部を擁する「超科学研究社」ビルが見えていた。  
 
こうして、上京して三日足らずで新しい生活の基盤を築いてしまった私に、お母さんは複雑な感情を向けていたようだった。  
 
私と、私の双子の片割れである柳子を、中学生の時に私生児として妊娠、出産したお母さんは、中学校卒業と同時に、周囲の冷たい目線から逃れるように上京していた。  
中卒で、なんの伝手もない東京で独り、生きていかなければならなくなったお母さんに、二人の娘を育てるだけの経済力はなく、柳子一人を引き取るだけで手一杯だったと、お母さん自身が、のちに私宛の手紙に書いていた。  
なぜ柳子が選ばれ、私が置いていかれたのか、私にはよく判らなかった。  
子供時代、周囲の大人達の心から垣間見た限りでは、大した理由らしきものは何一つとしてなさそうな感じだった。強いて挙げるなら、お母さんがどちらかを東京に連れて行こうという時に、私が風邪気味で体調が今ひとつだったというのが、その一番大きな理由かもしれなかった。  
 
十数年ぶりのお母さんとの再会で、その辺りのことがはっきりするかもと少し期待をしたけれど、お母さん自身のその頃の記憶が薄くなっていて、読み取ることはできなくなっていた。  
代わりにお母さんの心を占めていたのは、その当時からみて一年ほど前に、突然家出をして以来、行方知れずになっていた柳子の安否についてのみだった。  
 
ずっと貧乏暮らしで、充分なことをしてやれなかったのだから、愛想を尽かされて逃げ出されても仕方ないのだと、涙混じりにこぼすお母さんの心の中には、  
このまま私がアパートに居つき、柳子の代わりに一緒に暮らすようになってくれないかと、密かに願う気持ちが見え隠れしていた。  
 
だけど私は、柳子じゃない。  
柳子と同じ顔、同じ躰を持ってはいても、私は柳子と違う人間なんだ。  
 
その意思表明という訳ではなかったけれど、私は早々にお母さんのアパートから出て行くことにしたのだった。  
今さら、私を置いて行ったお母さんに対して恨み言なんて言う気持ちなんかはないけれど、  
それでもやっぱり、私を柳子の身代わりにしたいと願うお母さんの傍には居たくなかったし、  
何より、そんなお母さんと長く一緒に居ても、お互いのエゴをぶつけ合って傷つけ合うようになっていくだけなのが眼に見えていた。  
そんなことには耐えられない。第一私は、お母さんと依存し合うために東京くんだりまで出て来た訳ではない。  
 
それでも、泣きながら私を引き留めようとするお母さんを振り切って出て行く時には、さすがに心が痛んだ。  
「私、たまには逢いに来るから。お母さんも、いつでも私の処に来てくれていいから」  
そんな、その場限りの慰めの言葉を残し、私はお母さんのアパートを後にした。  
アパートの入口に立って私を見送るお母さんの目線を背中に感じながら、ふと考えた。  
 
あの時――あの病院の前で守が私にかけた言葉も、今私がお母さんにかけた言葉と、同じものだったのではなかったか、と。  
 
たまにはここに来ると言ったけど、私はもう、お母さんのアパートを訪ねる気はなかった。  
多分、お母さんだって私のアパートには来ないだろう。  
お母さんは私に対して引け目を感じている。私を自分の手元に置いて育てなかったという罪悪感があるから、自分の方から馴れ馴れしく接してくるようなことはないはずだった。  
つまり私の言った言葉は、完全にうわべだけのもの。一種の社交辞令みたいなものだったのだ。  
デニムのポケットから、守の名刺を取り出した。  
『いつでも連絡して。本当に、いつでも構わないから』  
よくよく考えてみれば、こんな台詞は、社交辞令の台詞以外の何ものでもない気がしてくる。  
 
だけど、もう東京に出てきちゃった後になってから、そんなことをくよくよ悩んでもしょうがない。私は気持ちを切り替えた。  
守の言葉を鵜呑みにして東京に出てきたとはいえ、私は守を直接頼った訳じゃない。全てのことは自分自身で片づけたのだから、守に対して何の負い目もない。だから、もっと堂々としていていいんだ。  
 
堂々と胸を張った私は、アパートに移ったその日の晩から、さっそくアルバイトに出かけた。  
バイトのシフトを夜にしたのは、その方が陽の光を見なくても済むからに他ならなかった。  
異世界の夜見島から帰還した際、朝陽の光を浴びて私は変容しかけた。その時の恐怖が残っていたから、昼間はあまり表に出たくなかったのだ。  
それに、夜型のシフトにした方が、編集者として働く守との遭遇率は高くなりそうな予感もしていた。  
別に、どうしても守と逢わなきゃならない理由はなかったけれど、どうせなら、東京で立派にやってる私の姿を見せてやりたいじゃない。  
 
バイト先での守との遭遇は、店に入ってから五日ほど経ってからのことだった。  
午前零時を廻り、後一時間足らずでバイトは終わり、という段になって、見覚えのあるノッポのシルエットが、ふらりと店のドアを開けたのだ。  
「いらっしゃいませ」  
とびっきりの営業スマイルを浮かべて挨拶をすると、守はきょとんとして私を見つめた。  
「お客様、お煙草お吸いになられますか?」  
「あ……いやあの……すいません、吸いません……」  
「ふふっ。じゃあこちらへどうぞ」  
 
守は、私との思わぬ再会に驚きながらも、素直に喜んでくれた。  
「ここの店には、今日みたいに仕事が早めに終わった日とか、時々立ち寄るんだ」  
ホットミルクとホットサンドの夜食を取りながら、守は言った。  
「でもまさか、君がここでバイトを始めるとは思わなかったな。どうしてこの店で?」  
「うん、まあ、たまたま……だよ。条件が良かったし……新しく借りたアパートからも近かったから」  
そんな私の説明も、彼は額面通りに受け止めて、疑おうとすらしなかった。私の借りたアパートが自分のアパートに近いことを単純に驚き、そして、やっぱり喜んでくれた。  
 
――ちなみに、一応説明しておくけど、確かにバイト先が守の職場と近かったのは作為的なものだったけど、アパートの方は、完全に偶然の産物だった。  
もっとも、守が会社の近くに住んでいるのは充分予測し得ることで、その会社の近所でアパートを探せば当然、守の家とご近所さんになる可能性も高そうだなあとは、心の片隅でちょびっとだけ考えはしたけれど。  
 
まあ、何はともあれ、こんな感じで私の東京での新生活は始まったのだった。  
守は一日に一回、必ず店に顔を出すようになった。  
私が入る前までは、来てもせいぜい週に一度か二度程度だったと、後からマスターに聞いた。  
「郁子ちゃんのおかげで熱心な常連さんが増えたわネ」  
なぜかオネエ言葉で喋るお髭のマスターは、そう言ってウインクしたものだった。  
 
会社が休みの日には、守は私を外に連れ出そうとよく誘ってきた。  
デートの場所は、遊園地や水族館みたいに「いかにも」な場所の場合もあれば、映画やウインドウショッピング、はたまた、駅前のゲーセンで遊んだ後に居酒屋でご飯、なんてのもあった。  
「せっかく東京に出て来たってのに、部屋とバイトの往復だけじゃ、もったいないだろ。おれが色々と連れてってやるよ」  
そう言って私を連れ廻す守の本心はといえば、彼自身が東京に呼んだ私に対する気遣いや責任感が三割、そして、私と外で遊ぶことにより、夜見島での忌まわしい記憶から逃れたいと思う気持ちが七割ぐらいだった。  
 
夜見島のことを忘れたいんなら、夜見島で一緒だった私のことも避けたくなるものなんじゃないかと思うけど、そこが人の心の複雑な処だった。  
つまり、守は夜見島の記憶から逃れたいと願う一方で、夜見島で出遭った様々な怖ろしい出来事を表に吐き出し、自分の中で整理をつけたいという気持ちも抱いていたのだ。  
夜見島の思い出を語り合う相手として、島で一緒に居た私は打ってつけという訳だ。  
そしてそれこそが、守が私に上京を勧めた真の理由でもあったらしいのだ。  
 
それを知っても、別段私は嫌な気持ちにならなかった。  
夜見島での忌まわしい記憶――嫌な思い出がふっと蘇った時、そのことについて話せる相手が居るというのは、私に取っても心強いものだったから。  
守と一緒に色んな場所に出かけるのも、普通に楽しかった。  
オカルトオタクである彼が、私のために、私に合わせたデートコースを色々と練ってくれるのは嬉しかったし、忙しい合間を縫って、私のために時間を割いてくれるのも、ありがたいことだと思った。  
 
だから私も、守のために何かをしてあげたいと思うようになった。  
とは言っても、守のために私ができることなんて高が知れてる。  
せいぜい、不規則で不摂生な生活を送っている彼の健康を考えた食事を作りに行ってあげたり、忙しいのを言い訳に、家事を全くしない彼に代わって、掃除や洗濯なんかを片づけてあげたりすることぐらいのものだった。  
そんなことは出過ぎた真似かとも思ったけれど、守は寛容に受け入れ、ありがたいとまで言ってくれた。  
 
本当に、私達は上手くやっていたと思う。  
私に取って守は、生まれて初めてできた親友だった。  
慣れない都会暮らしも、彼がそばに居てくれたから、つらさや寂しさを感じたりはしなかった。  
夏が完全に終わる頃、私達は互いを下の名前で呼び合うようになっていたし、秋が深まってゆく頃には、私は守に合鍵の隠し場所を教わって、彼が仕事で居ない時にも、勝手に部屋に出入りできるようになっていた。  
朝起きて、自分の家の家事を済ませた後、守の家の家事もしてからバイトに出かけ、店で守に逢い、バイトが終わった帰りに守のアパートに寄り、守のお夜食を作る。守の帰りが早ければ一緒に食べてから帰るけど、遅ければそのまま自宅に帰って眠る。  
単調だけど孤独ではない、平穏で安らかな日々。  
もしかすると、こういうのが俗に言う「幸せ」ってやつなのかも知れない。  
深夜、守のアパートから自分の部屋へと帰る途中、私はそんなことをしみじみと考えたりしていた――。  
 
 
「なるほどね……そういう付き合いを続けているうちに、あんたは守のことを好きになっていったって訳だ」  
 
女はしたり顔で独り頷いている。私はそれを、鼻で笑った。  
「そんなんじゃないってえの。誰がなんと言おうと、あれは純然たる友情だよ。つまり、普通の友達関係」  
「そうかしら」  
「そうだよ」  
私は、眼の前に立っている女を見あげて言った。  
「それにさ……あの頃から私、例のあれが起こるようになってたからさ……恋愛どころじゃなくなってたんだもん」  
「例のあれって?」  
「うん。例の、私の持病……“発作”のことだよ」  
 
 
最初にそれが起こったのは、十一月の終わり頃。私の誕生日が近づいていた、ある昼下がりのことだった。  
その日私は、家から少し離れた場所にあるディスカウント・ストアまで買い物に出かけていた。  
ただでさえなんでも安いその店でバーゲンセールをやっていたので、色々と買いだめをしておこうと思ったのだ。  
めいっぱい買い込んだ箱ティッシュや洗剤なんかのストック品の類を、自転車の前の籠に入れたり、後ろの荷台にくくりつけたりして、私は意気揚々と帰路についていた。  
晩秋の午後は風も冷たく、空気はすでに冬の匂いだった。天気予報では夕方から雨ということで、雲が厚く垂れ込め、辺りは早くも薄暗くなり始めていた。  
「こんなことなら、守の洗濯物、部屋の中に干しておけば良かったかなあ……」  
 
頬に冷たいものを感じた気がして、私は空を見あげた。  
灰色の雲の向こうから、鈍く光る太陽が透けたのを、見た瞬間だった。  
 
軽いめまいと共に、躰の奥底で何ものかが蠢いた。  
目の前が暗くなり、意識がぶれる。人気のない住宅街の路地裏で、私は自転車ごと引っくり返っていた。  
――またあれが……。  
それは、異世界の夜見島からの帰還直後に私を襲った、あの感覚と同じものだった。  
――誰か……。  
助けを呼ぼうにも声は出ず、意識のぶれはどんどん酷くなっていった。  
――ああ、もう駄目。今度こそ私は、変わってしまうんだ……。  
覚悟を決め、そっと眼を閉じようとした、その時だった。  
 
「郁子、どうしたんだ!?」  
暗黒に閉ざされそうになっていた意識を切り裂く声が聞こえた。守だった。  
「守……どうして? 会社は?」  
「今日は取材に出てたんだ。今から会社に戻る処……立てるか?」  
守は、自転車と私を助け起こしてくれた。  
 
「本当に……何でもないんだよ。ただの貧血。疲れてたからね」  
私は守にそう説明した。余計な心配をかけたくなかったからだ。  
それに私自身、あのことを守にどう説明したらいいのか判らなかった。  
あれが起こるのは、私の本性が闇の化け物である証でもあるのは明らかだった。胸の痣と同じように――。だから、できることなら守に知られたくない、なんていう打算もちょっぴり働いていた。  
 
――大丈夫。どうってことない。私が自分で気をつけていれば、きっともう、あんな“発作”は起こらない……。  
守に送られ自分のアパートに落ち着いた後、私はただ独り、部屋の暗い片隅で膝を抱え、自分自身をなだめ続けていた。  
 
――でも、そんな風に自分を誤魔化し続けるのは、つらいんじゃないの?  
 
心の中から声がした。  
 
――本当の自分から眼を背け、仮初めの眠りを貪り続けたって……いずれは必ず、眼が覚める時は来ちゃうのに。  
――あっち側もこっち側も関係ないのに。  
――要らない殻を脱ぎ捨ててしまえばいいのに。目覚めてしまえば、もっと、楽に……。  
 
「うるさい……うるさい、うるさいうるさいうるさい!」  
心の声から耳を塞ぎ、私は叫んだ。  
暗闇の底で、唇を歪めて笑う、女の白い顔が見えていた――。  
 
 
「考えてみれば……あんたと初めて遭ったのも、あの時が最初だったんだね」  
私は眼の前の女に言った。  
「私の中で……私とは違う“私”が動き出す時、あんたも必ず現れていた。暗闇の中から私を哂った。あんたは……誰なの?」  
「私はあんたなのよ。もう、何度も言ってるじゃないの」  
女は膝を折り、私の顔を覗き込んだ。  
「私はあんた。あんた自身が否定し、拒絶し続けている本当のあんた。あんたの本質。だから私はなんでも知ってる。あんたの秘密。あんたが守に隠している、あんたの本当の望み……」  
「私の……本当の、望み……?」  
「そうよ」  
女が、いつものいやらしい笑顔を浮かべた。  
「そうやって、あんたがそ知らぬ顔を続けようっていうのなら、見せてあげる、実際に。本当のあんたを。あんた自身を。いつもあんたが見せかけだけで繕っている、勝気で明るい女の子とは違う、暗い闇の中で生きるしかない……これがあんたの本質!」  
 
女の額が、私の額に押しつけられた。  
自分の境界が曖昧になる感覚。そして、開ける視界。  
薄暗い廊下の中央。ぼんやりと立ち尽くしている守の背中。  
大食堂で見た、陶の花瓶が眼の前に掲げられる。これ……振りあげているのは、私の腕?  
私の腕が、守の後頭部を陶の花瓶で殴りつけている。  
ああ、違う。私、私こんなことは……。  
 
気を失って床にくずおれた守の躰を、私は、引きずって浴室まで運び込んだ。  
出しっ放しのシャワーの温度は、すでに適温までさがっているようだった。  
守、ちゃんと直してくれたんだ……。  
私は、ぐんにゃりとした守の躰から素早く衣服を剥ぎ取り、お湯の溜まったバスタブの中に放り込んだ。  
あの大柄な守を、赤ん坊のようにたやすく扱うこの力。やっぱり違う。私、こんなに腕力ないよ……。  
 
私はバスタブに浸かった守に背を向け、浴室の片隅にあるカランの水を出し、泥で汚れた守の衣服をじゃぶじゃぶと洗い始めていた。白い湯気の立ち込める浴室に、洗濯をする水音だけが響く。  
やがて、天井に溜まった水滴がぽたりぽたりと垂れ落ちるようになった頃、その水滴の一しずくが、守の意識を蘇らせたようだった。  
彼は小さく呻き、湯船のお湯を手ですくっているようだ。  
「おれ……いつから、風呂入ってたんだ?」  
かすれた寝起きの声。天井からのしずくが湯船に落ちる音。  
 
「お風呂の中で寝込むと、風邪ひいちゃうぞ」  
私は振り返り、湯気の向こうに居る守に声をかけた。  
「……郁子?」  
白い湯気の中、守は、眼をしばたかせて私を見ている。湯気で曇っているし、眼鏡も外しているから、ちゃんと見えているのかどうか、微妙な処だけど。  
 
「おれ……どうして」  
「ほーんと、大変だったんだから……。まもるがいつまで経っても戻って来ないからさ。廊下に出てみたら、床に倒れてんだもん。躰が冷え切ってたから、温めなきゃって思って……ここまで運んで、お風呂に入れて……」  
「そうだったのか……ごめんな」  
守は、私に殴られたなんてことは、微塵も思っていないらしい。ああ、全く……どこまでお人よしなの? 少しは私を疑えばいいのに……。  
 
お人よしの守は、私を疑うどころか、私に手間をかけさせたことを申し訳なく思っているようだった。  
申し訳なく思う気持ちの中で、私が気絶した守を浴室まで運び、服を脱がせて湯船に浸からせている姿を想像している。  
そして、私が守の服を脱がしている様を想像したとたん、彼の思考はぴたりと止まった。ある、重大な事実に気づいたようだった。  
「郁子……おれの服を全部脱がせたってことは……つまりその、それは……」  
「えー? なあにー?」  
洗濯を続けながら、私はのんきな声で言う。  
「つまりあの……見た?」  
 
「なーによ。今さら恥ずかしがること、ないじゃん」  
私は立ちあがった。  
湯気の立ち込める中とはいえ、裸の胸を、こんなに無防備に……我ながらはらはらしたけど、幸い、守には痣が見えていないようだった。  
それでも、さすがに私が裸であることには気づいたらしい。眼を真ん丸く見開いて、私の躰のラインを、上下隈なく目線でまさぐる。  
「ああこれ? だってこの方が洗濯しやすいんだもん。ほら、服着たままだと、濡れちゃうでしょ?」  
私は、守の間近に寄って行った。  
――駄目! そんなに寄ったら……いくらなんでも気づかれちゃう。  
けれど守は、それでも私の痣に気づくことはなかった。  
私の素肌をひたすら眺め廻し、他愛もなく息を荒げているだけだ。  
 
「もー、そんなにまじまじと見ないでよぉ……照れちゃう」  
私は両手で胸を覆い、守に背を向けた。つまり、お尻を見せてる訳だ。  
胸が隠せてほっとしたけど、今度はお尻に突き刺すような視線を感じる。  
 
守が私のお尻に並々ならぬ関心を抱いているのは、ずっと前から気づいていたことだ。  
それはもう、一年前の夜見島の鉄塔をのぼっていた時から。  
男にお尻を見られて色々と妄想されるというのは、思春期を迎えた頃から慣れっこにはなっていた。私のお尻はでっかいから、眼についちゃうのも、まあ仕方のないことだ。  
そうは言っても……あの、次から次へと湧いて出る化け物達との戦いのさなかに、隙あらば私のお尻に意識を向けてくる守の貪欲さには恐れ入った。その逞しさに私はむしろ感心し、頼もしいとさえ思った。  
 
あんなにもゆとりのない時でさえそんなんだったんだから、今のこの状態で、生のお尻を見せつけたらどうなるか……。  
案の定、興奮した彼のあからさまな欲情の思念は、湯船の中から溢れ返り、湯気と一緒に浴室中に充満して、私の意識を圧倒した。  
 
「ま・も・る? うふっ、どうしたの? もしかして……むらむらしてきちゃった?」  
「い、郁子……」  
守の欲情に引きずり込まれるかのように、私は、守の浸かっているバスタブに、縁から割り込んだ。  
しゃがんで腰までお湯に浸かれば、いっぱいに溜まっていたバスタブのお湯が、ざあっと溢れてしぶきをあげる。  
温かいお湯の中、温もりを帯びた肌と肌とが、官能的に擦れ合った。  
 
私は、口を開いて喘ぐ守の躰に膝でにじり寄り、開き気味の脚の間に、すっぽりと身を入り込ませた。  
私の膝に押され、守の腰は浮きあがる。そして――湯船の上に顔を出したのは、守の……おちんちんの、先っぽだった。  
真っ赤で、丸くて、お湯に濡れてぬめぬめと光って……。  
 
私は、お湯の中からぴょこんと飛び出たそれを、うっとりと撫で廻した。  
守は低く吐息を漏らす。  
ああ、これって、こんな感触なの……? 硬いのに、弾むような弾力もあって……なんか、すごい。  
守のおちんちんを、こんな風に触っちゃうなんて……胸がどきどきする。眼の前がぼおっとして、訳も判らなくなる。  
 
「元気になっちゃったね……」  
全身が脈打つくらいに興奮しているのに、私の口は、余裕ありげにそんな言葉を吐いていた。  
腫れあがったような血の色に染まって見える守の硬いものに指を添え、微笑みすら浮かべているようだ。  
「ねえまもる……こういうの知ってる? 私、雑誌で見たんだけど……」  
そう言って、私は、守の丸い先端に顔を寄せ――ずっぽりと唇を覆い被せてしまった。  
「あ……」  
 
小さく声を漏らしたきり、絶句している守を余所に、私は口いっぱいに突き出て膨らんだ丸いものを頬張り、くちゅくちゅと音を立て、しゃぶり廻した。  
歯を立てないようにしながら、舌を使って、丹念に。  
さらに。  
私はその、先っぽから下の方――海草のように陰毛が揺らめいている根元の方まで、深く咥え込んでしまった。  
 
濡れて温かい。硬くて、脈打っている。  
私はそれを唇で締めつけ、舌を、裏側にべったりと押し当てながら、頭を上下に振り動かした。  
口の粘膜を使って吸いあげ、押し戻す。表面の皮がずるずる動いてる。何度も何度も繰り返すうちに、それはもの凄く硬さを増して、私の口の中を熱くさせ、いやらしい感触でいっぱいにした。  
ああ、凄い、本当に……。  
こんなことしているだけで、私はもう……堪らない。  
下半身が、丸ごと脈打って、欲しがってしまう。ああ、もう……。  
私は、空いた手で自分の乳房を撫でおろし、お湯の中へ――下腹部のそのまた下の、どくどくと疼いている部分を自ら触れようとした――。  
 
その時、守はいきなりお湯から立ちあがった。  
お湯が跳ねあがり、口の中から、おちんちんがぷるんと飛び出て空を躍る。  
真上に向かって起きあがり、血管を絡みつかせているそれを、守は手で押さえた。  
ぽかんと口を半開きにしている私を険しい表情で見おろし、彼は言った。  
「君は……誰だ?」  
 
守は、私の淫らな行動に不信感を抱いたのだった。  
まだ躰を許し合った仲でもないのに、こんなことをするのはおかしい。つまり、ここに居る私は偽者に違いないと、そういう判断をしたみたい。  
それは半分正解で、半分間違っている。だって、確かに守の……おちんちんをこんな風にするやり方、私は全然知らないんだから、これは私がやったことではない。  
でも、守にあんな行為をした唇は、そして、そのせいで熱く火照ってしまったこの躰は、間違いなく、私のものに他ならないのだ。  
 
私と守は、言葉もなくじっと見つめ合った。しんと静まり返った浴室に、密やかな水滴の音だけが響いている。  
その膠着状態を解いたのは、私の方だった。私の両腕が真っ直ぐに伸びて、守の喉を絞めあげたのだ。  
「ぐうっ!」  
守は呻き、私の腕を掴んで引き剥がそうとする。  
だけど、私の力に抗えず、どんどん首を絞められて、顔の色を変えていった。  
こんな馬鹿なことはない。いくら日頃運動不足とはいっても、守は男の子だ。私に力負けするなんてことはあり得ない。  
 
――どうなってんの?  
私の戸惑いと焦燥を余所に、守は首を絞められたまま、湯船の底に沈められた。  
湯面が激しく波打ち、守の呼気が泡となってごぼごぼ湧き立つ。  
必死になってもがく腕が、足が、私を振り払おうとして、痛ましいまでにお湯を掻いている。  
でも駄目だった。  
守がどれほど私の腕に爪を立てようが、どれほどバスタブの向こう側を蹴飛ばそうが、私の腕も躰もびくともしないのだ。  
 
――駄目ぇ……このままじゃ、守が死んじゃう!  
私は心底焦っていた。  
早く何とかしなくちゃ。でもどうすればいいの? 私の躰……どうやれば、私の自由に動かせるの!?  
 
パニックに陥りかけた私の躰が、急にがくんと揺らいだ。  
衝撃の正体は、バスタブの破壊だった。  
守が懸命になって蹴飛ばし続けた結果、バスタブが、ひびの入った処から、割れてしまったようなのだ。  
凄い勢いでお湯が溢れ、私の躰は、浴室の床に投げ出された。バスタブの中に居残った守は、激しく咳き込みながら、飲み込んだお湯を吐き出している。  
 
苦しそうな守に背を向けて、私は浴室から走り去った。  
背後から、怒鳴る声と共に、何かが派手に引っくり返る物音が聞こえた。  
――守!?  
心配で駆け戻りたいと思う私の心の中、女が私を制する。  
 
――彼は大丈夫よ。別に、どこも怪我しちゃいないわ。  
 
そんな……でも!  
 
――大丈夫だったら。大人しくしてなさいよ。  
 
心の中の私のあがきもそのままに、私の躰は、全裸のままで玄関ホールまで走り抜け、さらに、玄関ホールの水槽脇にある扉の向こうに入って、廊下の先にある扉の中に飛び込んだ。  
荒い息を吐き、扉を背にして座り込んだとたん、またも視界が闇に落ちた。嫌だもう。勘弁してよ……。  
 
「でも、これで判ったんじゃないの?」  
光の消滅と入れ替わるようにして現れた女は、暗闇の中心で勝ち誇ったように言った。  
「判ったって……何がさ」  
「私が、あんたと同じものだっていうことが、よ」  
「ふざけないで!」  
私は、立ちあがって女を怒鳴りつけた。  
「全く、冗談じゃないよ! 私とあんたのどこが一緒だっていうのよ!? 私は守に、あんな……変なことしないし、ましてや殺そうとするなんて、とんでもないことだよ!」  
「本当に?」  
女は唇に指先を宛がい、くすくすと笑った。  
 
「だけどあんたは、まもるに居なくなって欲しいと願っていたんじゃないの? 今のあんたの苦しみが、まもるにもたらされたものだから……苦しみの元凶であるまもるに、いっそのこと、消えて欲しいって」  
「そ、そんなこと……」  
私は少し怯む。  
確かに、近頃の私は、守が存在していることを、ふと疎ましく思うことがあった。  
彼が居なければ。彼と最初から出逢っていなければ。  
私は、今みたいに中途半端な状態のまま、苦しみ続けることなんてなかったはずなのに……って。  
 
……ううん。だけどもやっぱり、それは間違ってる。私は考え直した。  
いくら私の苦しみの原因に守が関わっているといったって、それを理由に、殺したいとまでは思わない。守はあんなにいい人なのに。守を殺すぐらいなら、いっそのこと、私は私を殺す。その方が、まだましだもん。  
 
「そうなの?……じゃあ、あっちの方は?」  
「あっち?」  
私が女の言葉を訊き返すと、女はにやりと意味深に笑い、変な仕草をして見せた。  
右手を、マイクでも握っているみたいに筒状に構え、舌を突き出し、何かを舐め廻すような真似をしている……。  
それが、さっき浴室で守のおちんちんにしていたことの再現だと気づいた時、かっとなった私は、女を突き飛ばしていた。  
「やめてよ!」  
女は私の足元に転がりながらも、堪えた様子もなく笑った。  
 
「あはは……なによお、そんな怖い顔しちゃって……あっちの方は、あんたが本当に望んでいたことじゃないの。違うとは言わせないわよ」  
「違う、違う……」  
「違わないわ」  
気がつけば、女は私の眼の前に立っている。私の眼を見つめ――それから、傍らの方に目線を動かした。  
女につられてそちらを見れば、暗闇の中に灯る、ちいさな明かりが見えた。  
フローリングの床に置かれた、小さな間接照明。その向こう側に見えているのは、私の布団。もぞもぞと蠢いている布団の盛りあがりの中から、甲高くかすれた声が聞こえる。  
「は……あ……ま、守……守……うぅ」  
荒い息遣いを繰り返している布団の中の――私。ああ嫌だ。やめて。あんなもの、見せないで……。  
 
「ちゃんと見なさい。現実から眼を背けないで」  
いつの間にか闇の底にへたり込んで、うずくまっていた私の頭を、女は両脇から手で押さえ、布団の方に向けた。布団の中の私は、腰の辺りをもじもじとくねらせ、布団の縁から、片方の足を突き出している。  
ふくらはぎから先、すっと伸びた足首に、脱いだパンツが小さくよじれて絡まっている……。  
 
やがて、感極まったような唸り声があがり、布団が中から跳ね除けられた。  
ぼんやりと暗い明かりの下に曝け出される、布団の中の私。  
寝間着代わりのTシャツを胸の上まで捲くりあげ、両の乳房を、痣を、長く尖がった乳首を丸出しにしている。  
時おり、その乳首を自分の指先で捏ね廻し、もう一方の手を、乳首と同じく剥き出しになっている股間に這わせ、忙しなく指を使っていた。くちゅくちゅと粘液の音を鳴らしながら、膣の入口を。そして、ぬらぬらと濡れそぼった指先で、クリトリスの付け根を。  
 
「ああん……うあぁ、あ、まも……うううぅんっ!」  
指の動きが、狂暴なくらいに激しさを増し、ちらちらと見えるあそこの濡れ方があからさまになった頃、私はひときわ大きな声をあげ、肩から、腰から、とにかく全身を、びくんびくんと痙攣させ始めた。  
そして、意味を成さない呻き声と共に、全ての動作がぴたっと止まり、赤く膨らんだような股間を両手できつく押さえ、布団の外に突き出した両足をぴんと伸ばす。  
爪先が、断末魔のように狂おしく床を掻き――足首に絡まっていたパンツが、音もなく床に滑り落ちた――。  
 
「嫌、嫌、嫌ぁ……」  
私が一番見たくない、私自身の恥ずかしい姿を見せつけられて、私は見も世もなく叫んだ。  
そんな私に対し、女の態度は非情だった。  
「ふん。カマトトぶってんじゃないよ」  
「だって、しょうがないじゃないのよ!」  
女の手を振り払い、私は、暗闇の底に突っ伏した。  
「しょうがないじゃない……他にどうしろっていうの? 守に抱かれることのできない私が……守の存在を意識するために……あの発作から逃れるために、あれをする以外、他にどんな方法があるっていうのよ!」  
私は顔をあげ、女に向かって叫んだ。  
女は珍しく笑いもせずに、無表情な顔で私を見おろした――。  
 
【つづく】  
 
 

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