二度目の発作が起きたあの日以来、同様の発作は、たびたび起こって私を苦しめるようになっていた。  
 
それは、何の前触れもなくいきなり起こる上、起こるきっかけにも一貫性がなかったから厄介だった。  
必ずしも、最初の時と二回目の時のように、急激に強い光を感じた時にだけ起こるというものでもなかったらしいのだ。  
例えば、バイト先でちょっとした揉め事があって、酷いストレスを感じた直後の場合もあったし、アパートの階段で蹴つまずいた拍子に起きたこともあった。  
そうかと思えば、守と一緒に遊園地なんかに出かけてはしゃぎ廻ったその晩、子供の知恵熱みたいにして起きたことまであった。  
せめて起きるきっかけだけでも判れば対処できるかも知れないのに、なんて思ったこともあったけど、よくよく考えてみれば、肝心の対処法がよく判らないので、どっちにしても無駄だと思い直した。  
 
現状で、発作が起きた時一番確実に立ち直る方法は、守との接触だった。  
守の顔を見る。電話なんかで声を聞く。メールのやり取りをする。どれも無理なら、守から貰ったあの名刺を眺める。そのいずれかをすることによって、だいたいの発作は鎮められた。  
最初の発作の時、守の呼びかけで立ち直れた経験があったから、それが一種の刷り込みになっているのかも知れなかった。  
 
そんなこともあって、私はそれまで以上に守との接触を心がけるようになっていた。  
守からのデートの誘いは絶対断らないようにしたし、守の身の周りの世話も、それまで以上に身を入れてやった。  
とにかく、守と一緒にさえ居れば、発作の起こる危険性はかなり小さくできたし、仮に発作が起こっても、守の存在によってすぐさま治めることもできた。  
 
ただ一つ誤算だったのは、そうして私が守にべったりまといつくようになったことで、守の中の私の存在が、必要以上に肥大してしまったことだった。  
それまでだって、守は私に対し、単なる友達以上の関心を抱いてくれてはいた。でもそれは守の周囲に、私以外に守の恋愛対象になるような女の子が居なかったから、というだけのことに過ぎなかった。  
他に選択の余地がなかったから、ある意味仕方なく、私をガールフレンドにしていた訳だ。  
でも、私の方から守に接する機会を増やしたことにより、守の、それまで控え目だった私に対する欲望が、実現し得る可能性の高いものとして認識されて、彼の積極性を上昇させる結果となったんだ。  
要するに、脈ありと思われちゃったってこと。  
 
そうなると、守の態度も行動も、それまでとは比べ物にならないくらいに露骨であからさまになった。  
守の部屋で、カウチに並んでテレビを見ていれば、すぐ躰に触れてこようとするし、デートの後はやたら長いこと居酒屋に居座り、終電をわざと逃そうとする。  
まあ、躰を触られそうになれば、食器を片づけるのを理由にキッチンへ逃げればいいし、終電がなくなったら、カラオケボックスにでも行ってオールをすればいいから、かわすのは簡単なんだけど。  
守って、あれこれ考え込んで計画を練るわりに、あと一歩の詰めがいつも甘いし、基本的に気が優しいから、強引に迫ってもこない。  
 
それでもやっぱり、私が彼の思い通りにならないことで、しょげたり傷ついたりするさまを見るのは、少なからず心が痛んだ。  
私だけの都合で守に近づいているのに、私だけの都合で、守を拒む。  
酷い女だって我ながら思った。身勝手過ぎる。  
しかも、そんな私のことを、守は嫌って見捨てようなんてこと、これっぽっちも思わないのだ。  
いっそのこと、私を嫌ってくれればいいのに。それで、私みたいに変なちからも発作もない、もっとまともな女の子と付き合ってくれたら……。  
 
――だったら、発作のことを話してしまえばいいのに。  
 
確かにその通りではあった。  
変にもってまわったことをせずに、私の事情を正直に打ち明けてさえしまえば、あの守のことだもん、私が闇に囚われないで済むための協力は、多分惜しまない。電話一本入れれば、たとえ会議中であっても、私の処に飛んで助けに来てくれるに違いない。  
ひょっとすると、私の発作を完全に治してしまうような方法も、守にだったら見つけ出せるかも知れないのだ。  
 
それができない理由は、やっぱり、私のそういう気味の悪い部分を、守に見せたくないからに他ならなかった。  
いくらオカルトオタクの守でも、付き合う女の子には、そんなオカルト要素なんて求めていないはずなんだ。  
 
――むちゃくちゃね、あんた。矛盾してるわよ。  
 
私を責める心の声から耳を塞いだ私は、守の不器用なアタックをはぐらかし、友達とも恋人ともつかない、曖昧な関係を維持し続けた。  
 
そして時は流れ、冬から春へと季節は移り変わった。  
厚手のジャンバーが必要なくなり、日によっては、羽織りものさえ必要としないほどに、暖かい陽気が続いていた。  
 
「暫く地獄が続きそうだよ」  
夜の九時過ぎ、いつものように昼食とも夕飯ともつかない、よく判らないご飯を食べに喫茶店に来た守は、マスターの作る、ちょっとケチャップ味のきついチキンライスを掻きこみながら、渋面を浮かべて力なくこぼした。  
なんでも、「アトランティス」で、ゴールデンウィークに特別増刊号を出すとかで、今月いっぱいは、仕事量が普段の倍になるとのことだった。  
「そういうことだから、当分部屋にもあまり帰れないし、この店に顔を出す暇もなくなるかも知れないんだ。郁子はおれに逢えなくて寂しいだろうけど、まあ我慢してくれ」  
「あー、はいはい」  
 
この時、事の重大さをあまり理解していなかった私は、自惚れのぼせた守の台詞をあっさりと受け流した。  
それまで、どんなに忙しい校了日直前だって、守は夜見島の化け物のように酷い顔をしながらも、一日最低一回は、必ずコーヒーを飲みに訪れたものだったから。  
まさかその日を最後に、二つの校了が終わるまでの一ヶ月間、ほとんど顔を見ることすらできなくなるなんて、思ってもみなかったのだ。  
 
「守……まだ仕事なのかなあ……」  
最初の一週間が過ぎ、メールも電話も着信していない携帯を見つめて、私は呟いた。  
その一週間、私は時々守の部屋の掃除やなんかをしつつ、何事もなく普通に過ごしていた。その間守は、ずっと会社に泊まり込んでいたようだった。  
でもその頃は、守との接触が完全に絶たれていた訳ではなかった。ごくごく短い時間だけでも喫茶店にコーヒーを飲みに訪れていたし、メールにも、ちゃんと返事をくれていた。  
 
〈いい機会だから、あんたの部屋の大掃除してもいい?〉  
〈お願いします。あ、でも本や雑誌、パンフの類は絶対に捨てないように。あと、パソコン周りにも注意してね。ではよろしく。  
( `・ω・´)ゞ〉  
 
そんな簡単なやりとりぐらいなら、できる余裕がまだあった。  
けれど、二週間目に入った頃から、それさえも難しくなってしまった。  
「一樹ちゃん、今夜も来なかったわネエ……過労で死んじゃったのかしら?」  
守が店に顔を出さなくなってから三日目の深夜、ぽつりと呟いたマスターに、私は何も返事ができなかった。  
当然部屋にも帰って来ない。部屋の大掃除と言ったって、狭いワンルームのアパートだから、大して手間がかかる訳じゃなし。あっという間に済んでしまったから、守の部屋に行く理由も、もう見つけられない。  
 
だから、久しぶりに守の方からメールが来た時には、心底ほっとした。  
それが、着替えがなくなったから会社まで持って来て欲しい、なんていう、些細な用事を頼むものであっても。  
メールを貰ってから数十分後、どれも代わり映えのしないチェックのカッターシャツに、Tシャツ、ジーンズ、靴下に下着、タオルなんかを詰め込んだ紙袋を抱え、私の胸は少し弾んでいた。  
――あんな奴でも、三日も逢わないと変な感じだもんね。こう、いつも見慣れたものがなくて、落ち着かないっていうかさ。  
心の中で、妙に言い訳めいた台詞を繰り返しながら、私は守に教えられた通り、会社の裏の通用口から「アトランティス」編集部に向かった。  
 
初めて訪れた「アトランティス」編集部は、想像していた通りに雑然と散らかっていて、空気が澱んでいた。  
その反面、想像していたほどに騒然とはしておらず、昼間だというのに人もまばらで、それでいて、妙に張りつめた、刺々しい雰囲気を醸し出していた。  
 
「あれ、郁子ちゃんじゃん。どうしたの?」  
入口のパーテーションの処できょろきょろと守の姿を捜していると、守と同じように喫茶店の常連である男の編集さんが、机から顔をあげて声をかけてきた。  
「あ、あの私、着替え持って来るようにって言われて……守、居ますか?」  
「ああ、一樹の奴なら今外に出てるんだ、ちょっと待って」  
編集さんが、わざわざ仕事の手を止め、ホワイトボードの予定表を調べに行こうとしたので、私は慌てた。  
「あー、いいです、いいです! 私、本当にこれ届けに来ただけなんで! すぐ帰りますから!」  
私は守の席を教えて貰い、そこに紙袋を置いた。  
 
「守……まだ仕事なのかなあ……」  
最初の一週間が過ぎ、メールも電話も着信していない携帯を見つめて、私は呟いた。  
その一週間、私は時々守の部屋の掃除やなんかをしつつ、何事もなく普通に過ごしていた。その間守は、ずっと会社に泊まり込んでいたようだった。  
でもその頃は、守との接触が完全に絶たれていた訳ではなかった。ごくごく短い時間だけでも喫茶店にコーヒーを飲みに訪れていたし、メールにも、ちゃんと返事をくれていた。  
 
〈いい機会だから、あんたの部屋の大掃除してもいい?〉  
〈お願いします。あ、でも本や雑誌、パンフの類は絶対に捨てないように。あと、パソコン周りにも注意してね。ではよろしく。  
( `・ω・´)ゞ〉  
 
そんな簡単なやりとりぐらいなら、できる余裕がまだあった。  
けれど、二週間目に入った頃から、それさえも難しくなってしまった。  
「一樹ちゃん、今夜も来なかったわネエ……過労で死んじゃったのかしら?」  
守が店に顔を出さなくなってから三日目の深夜、ぽつりと呟いたマスターに、私は何も返事ができなかった。  
当然部屋にも帰って来ない。部屋の大掃除と言ったって、狭いワンルームのアパートだから、大して手間がかかる訳じゃなし。あっという間に済んでしまったから、守の部屋に行く理由も、もう見つけられない。  
 
だから、久しぶりに守の方からメールが来た時には、心底ほっとした。  
それが、着替えがなくなったから会社まで持って来て欲しい、なんていう、些細な用事を頼むものであっても。  
メールを貰ってから数十分後、どれも代わり映えのしないチェックのカッターシャツに、Tシャツ、ジーンズ、靴下に下着、タオルなんかを詰め込んだ紙袋を抱え、私の胸は少し弾んでいた。  
――あんな奴でも、三日も逢わないと変な感じだもんね。こう、いつも見慣れたものがなくて、落ち着かないっていうかさ。  
心の中で、妙に言い訳めいた台詞を繰り返しながら、私は守に教えられた通り、会社の裏の通用口から「アトランティス」編集部に向かった。  
 
初めて訪れた「アトランティス」編集部は、想像していた通りに雑然と散らかっていて、空気が澱んでいた。  
その反面、想像していたほどに騒然とはしておらず、昼間だというのに人もまばらで、それでいて、妙に張りつめた、刺々しい雰囲気を醸し出していた。  
 
「あれ、郁子ちゃんじゃん。どうしたの?」  
入口のパーテーションの処できょろきょろと守の姿を捜していると、守と同じように喫茶店の常連である男の編集さんが、机から顔をあげて声をかけてきた。  
「あ、あの私、着替え持って来るようにって言われて……守、居ますか?」  
「ああ、一樹の奴なら今外に出てるんだ、ちょっと待って」  
編集さんが、わざわざ仕事の手を止め、ホワイトボードの予定表を調べに行こうとしたので、私は慌てた。  
「あー、いいです、いいです! 私、本当にこれ届けに来ただけなんで! すぐ帰りますから!」  
私は守の席を教えて貰い、そこに紙袋を置いた。  
 
ふーん。これが守の働いてる机かあ……。  
そんなことを考えつつ、興味深くその机を見る。机の上に、何やら包装紙に包まれた荷物があり、「郁子へ」と書いたメモ用紙が貼り付けてあった。  
「……何これ?」  
「さあ……? 君へのプレゼントか何かじゃないの?」  
編集さんが、にやにやと笑いながら私を見あげた。  
 
(一樹の奴、やっぱこの子と付き合ってたんだな)  
(着替えを届けに来させるなんて、もう夫婦気取りじゃないか)  
(同棲してるんだ)(姦ってんだな)(こんな若い子)(この尻)(若造の癖に)  
(若いってのはいいな)(羨ましいな)  
(なあに、どうせ長く続きゃしない)(仕事と女の両立は難しい)(おれだって昔は)(大変なのはこれから)  
(まあ、上手くいけばいいけどな)  
 
編集さんの断片的な思考を、ついついキャッチしてしまう。勝手なこと考えてんなあ、同棲なんて。  
まあ、そう誤解されちゃっても、仕方がないかもだけど……。  
「一樹に何か伝言があれば、伝えておくけど?」  
頭の中で勝手に私を守の同棲相手に認定してしまった編集さんは、人の良さそうな笑みを浮かべて私に言った。  
「ああ、いえ、私別に……」  
そう言ってさっさと帰ろうと思ったけど、ふと思いついて、彼に告げた。  
「じゃあ、守が帰ってきたらこう言っといて下さい。『私を家政婦扱いして部屋に呼ぶのはいいけど、エッチな本ぐらいは片づけてからにしなさいよ』って」  
 
私宛ての包みを抱えて編集部を出る時、例の編集さんが、私のことと、エッチな本のことを、徹底的に問いつめて守を苛めてやろうと考えてるのを知って、私はちょっとうきうきした。  
けれど、自宅に向かって自転車を走らせているうちに、だんだんと虚しくなっていった。だって私、結局守に逢えなかったんじゃん。  
しかも、部屋に戻って包みを開けてみたら、それは守の汚れた衣類の山だった。  
「洗濯物なら、洗濯物って書いておけよ! っていうか、何でこんなもん丁寧にラッピングなんてしてんのよ!?」  
私は思わず独りで叫んでいた。  
すぐに携帯を取り出し、汚れ物の画像を撮って添付したメールを守に送った。  
〈何このパンドラボックス! プレゼントかと思って一瞬期待しちゃったじゃんよ!  
( ゚皿゚)バカ!〉  
 
「これは……文句言ってもいい場面だもんね」  
でも結局、そのメールに対する返信はなかった。  
そして喫茶店にも来ない。よっぽど仕事が忙しいんだろうか?  
「それにしたってさ……メールの返事ぐらい書く暇は作れるんじゃないの? こら」  
バイトから帰った独りの部屋で、私は、携帯に入った守の画像に向かって呼びかける。  
それは去年の秋、お祭に出かけてお神輿を撮った時、たまたま守が一緒に写り込んだもので、私が持っている守の画像といえば、それ一つきりだったのだ。  
 
――こんなことなら、もっとちゃんとした写メを撮っとくんだったな……普通の写真とかも……。  
そんなことを考えて、私ははっとする。  
嫌だ、私ったら何馬鹿なこと考えてんの。これじゃあまるで……。  
私は、自分の頬に両手を宛がい、ぱんぱんと叩いた。  
いけない、いけない。気をしっかり持たなくちゃ。私がしっかりしてないと――私は、今の暮らしを続けられなくなる。また昔みたいな、孤独で虚しい生活に、戻らなけりゃならなくなるんだから……。  
 
その次の日も、やっぱり守からのメールはなく、喫茶店にも来なかった。  
その次の日も。  
またその次の日は日曜で、夕方頃、ようやく一本メールが入った。  
着替えを届けたことに対するお礼と、お礼が遅れたことに対するお詫びとが、短くしたためられているだけだった。  
他のことについては、何も書かれていない。  
編集部で私が伝えた意地悪のことも、ずっと喫茶店に来てないことにも、何一つ触れていなかった。  
 
丸一週間全然喋ってないんだから、もっと何かあるんじゃないの? せめて、今の仕事の状況とかさ。  
でも多分、仕事のことなんかメールされたって、私はなんにもリアクションできない。  
あーあ、私も、「アトランティス」編集部でバイトしようかなあ……だけど、編集部で私にできる仕事なんてある?  
 
そんなしょうもないことを考えつつ、日々は単調に過ぎて行った。  
守からは、相変わらず何の音沙汰もなかった。  
朝起きて、まず携帯をチェックする。  
自分の家のことをした後、守の部屋に出かけて、大して汚れてもいない部屋を掃除する。バイト中は一時間置きにロッカールームに行って携帯をチェックし、バイトの後、通りの隅に少しの間自転車を停めて、「超科学研究社」のビルを見あげてから帰宅する。  
帰りに守の部屋に立ち寄り、窓の戸締りとかガスの元栓なんかをやたらに確認してから、自分のアパートに引きあげる。  
そんな生活を、一週間ばかり続けた。  
 
日曜日。何の予定もない休日。私は自堕落に布団に寝そべり、携帯片手にため息をつく。  
こんなことなら、今月は日曜にもバイトを入れちゃえば良かったかな? なんて後悔が胸をよぎる。  
――ねえ、私達、もう二週間も顔を合わせてないんだよ?  
お神輿のおまけについた守の横顔に、心で話しかける。虚しかった。守と出逢う前の、人との付き合いを避けてひっそりと暮らしていた昔より、ずっと深い孤独を感じた。  
ぽっかりと穴の開いた心を抱え、私はふらりと外に出た。  
行く当てもなく歩いていたら、いつの間にか、「超科学研究社」ビルの前までたどり着いていた。  
 
――何やってんのよ……馬鹿。  
自分の行動に呆れ果て、私は自分に毒づいた。  
――全くさあ……彼氏に依存してる馬鹿女かよ。こんな処、守に見られたらどうすんの。  
私はきびすを返し、もと来た道を戻ろうとした。  
その時、視界の端に、懐かしいシルエットが入った。  
「……守!」  
 
守は、車道を挟んだ向こう側、私のバイト先の喫茶店から出て来た処だった。  
書類ケースを小脇に抱え、こちら側に通じた横断歩道の方ではなく、私の居る場所とは真反対の、駅方面への道を小走りに去って行こうとしている。  
「待って、守――」  
私は急いで横断歩道を渡ろうとしたけど、ちょうどその時、信号が赤に変わってしまった。  
たくさんの車が行き交い、守の姿は見えなくなってしまう。  
そして、信号が青になった時、すでに守は去った後だった。  
――守……。  
守の姿が消えた通りの向こうを見ていると、排気ガスが眼に染みて、涙が湧いた。  
涙が出ると、悲しくなった。  
私は、溢れ出しそうになる涙を辛うじて飲み込み、がっくりと肩を落として部屋に帰り、そのまま、布団を被って寝てしまった。  
 
休み明けの月曜日、バイトに入ってからも、私は守のことを考え続けていた。  
もう月末が近く、テレビやラジオでも、そろそろゴールデンウィークの話題が盛んになっていた。  
 
――そういえば、今回の校了日はいつなんだろう?  
通常なら、だいたい月末ぐらいが校了日になるんだけど、今回はゴールデンウィーク増刊号の仕事もあるはずだから、ずれたりするのかな……あ、でも、増刊号と通常発行の号が、同じ校了日とも限らないし……。  
 
そんなことをくよくよ考え込んだ末、ついに私は、禁じ手を使ってしまった。打ち合わせをしに店を訪れた「アトランティス」編集部の人の意識を探り、校了日を調べたのだ。  
それで判った最終的な校了日は、二十五日だった。  
――二十五日……明日じゃん!  
 
その日私は、マスターに頼んで翌日のバイトを休ませて貰うことにした。  
守が、実に三週間ぶりに部屋に戻って来るのだ。バイトなんてしていられない。  
翌二十五日の朝、私は起きてすぐに守の部屋へ行き、ご馳走の仕度を始めていた。  
いつもの私だったら、こんなことはしない。だって校了日の守って、基本的に死にかけていてへろへろだし、頭も朦朧としているのか、会話すらもままならないから、逢ってもしょうがないんだ。  
だから普通は丸一日放って置いて、守が生き返った頃になってからご飯を作りに行ってあげるようにしていた。  
 
でも今回は特別だ。  
おそらく守は仕事の間、ほぼ不眠不休の状態で、しかも、まともな食事もしていなかったはずなんだ。  
だから私はこの日、躰にいい野菜や、漢方の効能がある調味料や具材なんかをふんだんに使った、中華風のかなり凝ったスープ作りに挑戦しようと思っていた。  
他にも色々――消化のいいものを中心に、私は腕によりをかけて料理をこしらえた。  
 
手間のかかるご馳走の数々をあらかた作り終えた頃には、すでにとっぷりと陽は暮れていた。  
初めて作るものがほとんどだったから、予定以上に時間を食ってしまった。  
でもちょうどいい。今回の校了が終わって守が帰って来るのは、多分深夜、日が変わったぐらいの時間のはず。それは前日、編集部の人の意識から調べて判っていた。  
部屋の時計を見ると、九時を少し廻った処。守が帰って来るまでには、まだ間がある。  
 
私はいったん自分の部屋に帰り、シャワーを浴びて、服を着替えた。  
ふと思い立ち、テーブルの下の小さなメイクボックスを引っ張り出す。  
本当なら外に出かける時以外、メイクなんてしないんだけど――まあいいや、今日は特別。私は下地から丁寧にファンデーションを塗り、アイラインを引き、シャドウを入れて、まつげをビューラーであげた。  
手間をかけつつも、厚化粧っぽくならないように注意して。  
「だけど……こんなにナチュラルなメイクじゃ、守は気がつかないんだろうなあ……」  
そう呟いて、くすっと笑う。別にいいんだもんね。こんなの、完全なる自己満足なんだから。  
 
ついでに、以前デパートで貰っていた試供品の香水をちょっとばかり耳の後ろ側につけ、守の部屋に戻った頃には、もう十一時近くになっていた。  
私は、テレビの前のローテーブルに、ご飯や汁物以外の料理をセッティングして、布巾をかけた。  
「さてと……」  
することがなくなってしまうと、なんだか落ち着かない。テレビをつけてみたけれど、どの番組もつまらなくてうるさく感じ、すぐに消してしまった。  
結局部屋の隅っこで膝を抱え、携帯を見つめていた。  
――もうすぐ……逢える。  
携帯の中の守の顔を、親指でそっと触れた。  
なんだか、信じられない気持ちだった。この人と、この携帯の中の人と、もうすぐ直に逢い、語り、テーブルに向かい合ってご飯を食べたりできるだなんて。  
 
午前零時が近づいてくると、私はいよいよ落ち着きがなくなって、立ったり座ったり、窓の外を眺めたり、お鍋の蓋を開けてみたりと、ちょこまかちょこまかうろつき廻った。  
玄関ドアの向こうの廊下を歩いて来る足音にはっとして、でもその足音が、部屋の前を素通りし、別の部屋のドアを開けている気配にしょんぼりしたり。  
 
そうこうするうちに時計は零時を廻り、十分が過ぎ、二十分が過ぎた。  
まあ、多少時間がずれ込むのは想定内だ。校了の予定はあくまでも理想的に仕事が進んだ場合の予定であって、何がしかの問題が起きた場合には、一時間や二時間ぐらい、押してしまう可能性だってあるんだ。  
特に守は、住んでいる場所が会社の近くで、終電の時刻とかを気にしなくてもいいから、他の人の仕事を背負わされてしまうことが、ままあった。  
またあるいは、仕事の打ち上げとかで、編集部みんなで飲みに行ってるってパターンもある。そうなった場合、編集部内で最年少の守に、拒否する権利なんてないだろう。傍目から見ている限り、あの職場って案外体育会系のノリみたいだし。  
 
そんなことを考えながら、私は辛抱強く守を待ち続けた。  
時計は単調に時を刻み続け、一時を指し、やがて二時になった。  
「遅いな……」  
仕事でよっぽど酷い問題が起こったのか、または、飲みに連れて行かれた先で、酔い潰れてしまったのか。  
私の携帯は、相変わらず静まり返ったまま。別に、前もって約束していた訳でもないんだから、当たり前っちゃあ当たり前なんだけど。  
――まさか事故にでも遭った……なんてことは、ないよね?  
焦って携帯のニュースサイトを調べてみたけど、それらしい事故や事件のニュースは見当たらなかった。  
 
いっそ、思い切って電話をかけてしまおうかとも考えたけど、やっぱりそれは思い留まった。もしも仕事が長引いてるんだとしたら、邪魔になるだけだし、それに――私に、守の帰る時間を問い質すような権利はない。  
――だってこんなの全部、私が勝手にしたことなんだもん……。  
冷え切った料理をひと欠けふた欠けつまみ、私はぼんやりとテーブルに頬杖をつく。  
そして、時刻はとうとう四時を廻った。  
――駄目だこりゃ……今夜はもう、帰って来ない……。  
待ちくたびれた私は、カーペットに横たわり、そのまま眠り込んでしまった。  
 
廃品回収車の喧しい声で眼を覚ますと、辺りはすっかり明るくなっていた。陽当たりのいいアパートの部屋は、太陽に蒸されて少し暑いくらいだ。  
時計を見ると、もう九時半になっていた。守が帰って来た様子はない。  
「どうしちゃったんだろう」  
校了日が昨日であったことに、間違いはないはずだった。だって、当事者である編集者の意識から調べたんだから、間違いようがない。  
だとすると、考えられるのは、やっぱり仕事上のトラブルだろうか。  
私は起きあがり、「超科学研究社」ビルに向かった。  
 
「超科学研究社」ビルに着くと、通用口からこっそりと中に入り、「アトランティス」編集部のあるフロアに向かって、廊下の片隅の、人目につかない物影に隠れた。  
眼を閉じ、意識を周囲に巡らせて、近くに居る人の気配を探った。  
私の捕捉できる範囲内に、守の意識はなかった。でも、捉えた何人かの意識のうち、一つが「アトランティス」編集長のものだった。迷わず私は、編集長の意識に入り込んだ。  
 
編集長の心の中は、痛々しいまでの疲労と焦り、苛立ちで充満していた。やはり、トラブルが起きていたようだった。  
疲労の澱で濁りきった中、様々な懸案が目まぐるしく攪拌されているような編集長の思考は複雑だったし、意識の表面にのぼってくる言葉も、私の知らないものが多過ぎて、理解するのは難しかったけど、  
とにかく、「外注」の「プロダクション」との行き違いがあったせいで、「DTPをまるごと」作り直さなければならなくなったとかで、「印刷機を止めて」貰っているような「酷い」状況に陥っているのだということだけは判った。  
 
編集長の意識内から守の情報を探してみると、守は、編集長の中で思っていた以上に大きな存在感を持っているようだった。  
 
(若い)(熱心)(元気がいい・フットワークが軽い)(思慮が浅い)(危なっかしい・頼りない・うっとおしい)(可愛い)(育ててみる価値はある)  
 
編集長の中で、守がおおむね好感の持てる存在として捉えられているのを知って、私は嬉しく思った。そして、今回のトラブルに守の責任はないということも判ってほっとした。  
 
それでもこういう場合、やっぱり一番下っ端である守は、一番こき使われる存在には違いなかった。  
一昨日から丸二日近く、守は完全に不眠不休で働き続けていて、どうやらこの後、「差し替えの分」を印刷所まで持って行く作業も、守がすることになりそうだとのことだった。  
さらに、他の編集者達の意識からも、守の情報を探った。  
 
(あいつに全部押し付けちまえばいい)  
(あのウドの大木)(でくの坊)  
(考えようによっちゃ、これもあいつの責任)  
(だいたい、あそこの仕事がずさんなのは前々から判りきっていたことだ)  
(口先ばかりの若造が)  
(役立たずが)  
(バイトあがり)(大学も出ていない)  
(せいぜい、向こうさんにどやしつけられてくればいい)  
(オタクのガキが調子に乗ってるからだ)  
(いい気味だ)  
 
私は編集部内に乗り込んで、心の中で守に八つ当たりしている連中を、全員たこ殴りにしてやりたくなった。  
あんまりだと思った。同じ編集部で働いている人なら、守が日頃、どれだけがんばって仕事に取り組んでるか、判ってるはずなのに……。  
――何さ、ちょっといい大学出てるからっていい気になって! 守は、あんた達が親の金使ってへらへら遊んでたような歳から、働いて苦労してんのよっ!  
 
ぎすぎすした空気に飲まれて思考が過激になってきたので、頭を冷やすべく、私は表に出た。  
泣いても笑っても、お昼がタイムリミットということだったから、守が帰る時間もだいたい判った。これ以上ここにいても、私にできることは何もない。  
――守……がんばって。  
少しの間編集部の窓を見あげた後、心に呟き、私は通用口に背を向けた。  
 
不意に懐かしい気配が迫り、私の足を止めた。  
振り返ると、通用口から飛び出してくる守の横顔が見えた。  
 
(タクシー)(間に合うか?)  
 
短い思考の断片を残し、一瞬にして守は走り去った。私が居ることに気づくこともなく。気づく余裕もなく……。  
私はどきどきと胸が高鳴り、頭がぼおっとして、暫く動けなかった。  
守の姿が消え、その気配すらも消散してから、ようやく私は声をあげたのだった。  
 
「守、がんばって!」  
 
守の部屋に戻り、昨日こしらえたスープの鍋の蓋を開けると、酷い臭いがした。  
「嫌だ……もう傷んじゃってる」  
具材に魚介類を使っていたから、足が早かったんだと思う。  
仕方がないから捨てた。  
他のご馳走も、腐ってはいなかったけど、硬くなって不味そうだったから、ほとんど捨ててしまった。  
 
片付けを済ませてから、部屋の隅に座り込んだ。  
何気なく眼元を擦ると、落ちたマスカラがべっとりと指についた。  
「やだ、私……」  
バスルームに行って鏡を覗いたら、アイメイクが崩れて酷いパンダ眼になっていた。  
「私ってば、こんな顔で表を出歩いてたんだ……」  
メイク落としをしたかったけど、ここにはクレンジングオイルなんてない。濡らしたティッシュで眼の周りを拭き取ってみたけど、隈ができたような黒ずみは、どうしても落としきれなかった。  
「もういいや、別に……」  
私はまた、部屋の片隅で膝を抱え、眼を閉ざした。  
 
玄関の鍵をがちゃがちゃと開ける音で、私は眼を覚ました。  
時計にちらっと眼をやると、三時十五分を少し過ぎた処だった。  
「あれ、郁子来てたんだ」  
リュックを背負い、大きな紙袋を持った、背の高いシルエット。ぼさぼさの髪。伸び放題の無精髭で、少し黒ずんで見える顔。  
三週間ぶりで間近に見る守は、薄汚れ、くたびれ果てて、十歳は老けているように見えた。  
守は部屋に荷物を置くと、着替えとタオルを持って、シャワーを浴びに行った。  
膝を抱えたまま、バスルームから響いてくるにぎやかな水音に耳を傾けていると、不思議な気持ちになった。今、同じ部屋の中に、守が居る。この三週間の空白が嘘みたいに、のんきにシャワーなんて浴びているんだ……。  
 
十分程度でシャワーを終えた守は、濡れた頭をタオルでごしごし拭いながら、窓際のベッドに腰かけ、コンビニで買ってきた大きいペットボトルのミネラルウォーターを、喉を鳴らしてラッパ飲みした。  
 
「……大変だったみたいね、仕事」  
部屋の片隅から声をかけると、守は、気の抜けた笑顔と共に、がっくりと頷いた。  
「もうね、死ぬかと思ったね」  
それから守は、堰を切ったように色々なことを喋り始めた。  
ゆうべ、仕事が全部終わったと思ってほっとした瞬間、ふと眼にした「ゲラ刷り」に重大なミスを発見したこと。「外注」と連絡がつかず、どうしようもないのでこちらで全部直さなければならなくなったこと。  
その記事を担当していた先輩が逃げ帰ろうとしていたのを、他の先輩と一緒にすんでの処で捕まえてやったこと。  
直しが終わり、印刷所まで出向いた時点でまた誤字を発見し、その場で修正を入れたけれど、それが逆に功を奏して出色の「レイアウト」になったこと。  
そんな話を、守は、楽しくてしょうがない冒険譚でもあるかのように、それはもう生き生きと私に語ったのだった。  
 
凄い勢いで、私に口を挟む余地すら与えない守のマシンガントークは、十五分くらいは続いただろうか?  
電池切れの瞬間は、何の前触れもなく訪れた。  
言葉が途切れたと思ったら、かくんと首が傾いて、そのままずるずるとシーツの上に崩れ落ちた。そして、すぐに深い寝息が聞こえた。  
 
私は守のそばへ行き、横たわった守の躰に布団をかけた。そのまま暫くの間、ベッドの脇にぺたんと座って、守の寝顔を見つめていた。無防備なその表情。中途半端な伸びっ放しの髪の毛。半開きの口の周りは、ぼつぼつと硬そうな生えかけの髭に覆い尽くされていた。  
私はその、守のお髭を指で触ってみた。  
じょりじょりしていた。  
「むぅん……」  
守は口元をもごもごと動かし、首を向こうに傾けた。私の眼の前には、同じく生えかけの髭に覆われた頬が向けられる。  
私はそこも触った。  
やっぱり、じょりじょりしていた。  
「へへ」  
私はなぜか嬉しくなって笑い、上半身をベッドに乗せて、守のそばに寄り添った。  
眼を閉じて感じ取る。守の寝息、匂い、体温、鼓動――。  
 
うん、やっぱりそうなんだな。  
守の存在に包まれながら、私はしみじみ自覚した。  
私、やっぱりこの人が好きだ。  
少しだけ布団を捲り、Tシャツの胸に頬を寄せる。温かい。頬擦りをすると、胸の中がぽかぽかして、幸せな気分が全身に行き渡った。  
――私は、この人が好き。守が好き。  
心の中で呟いてみた。少し照れ臭い。でも、やっぱり幸せだ。  
守の胸の中で、私は薄っすらと瞼を開いた。安らかに眠る守の躰。この上なく愛しいもの。言葉では言い表せないくらいに。本当に好きだ。いつの間にか私は、守を凄く好きになっていた。  
 
――そう……そうなんだ。  
――だったら私……。  
 
――守のそばから……離れなくちゃ。  
 
それは、故郷を出る時から、心の中で決めていたことだった。  
 
東京での生活で、もしもあの、一樹守という男の子を好きになってしまったら、私は彼の前から姿を消さなければならない。  
 
それは彼のためであり、何より、私自身のためでもあった。  
夜見島からもたらされた呪われた因子――人の視界を盗み見したり、人の心を読んだりできるという私の変なちからは、言うまでもなく、夜見島の化け物達と同じものだ。  
化け物に近い、人と化け物の狭間に居る私。この胸にある、醜くて怖ろしい痣がその証拠。  
こんな私が人を好きになってしまったら、その相手は、きっと不幸になってしまう。  
だって私と深い関係を持つということは、私の呪われた運命を、一緒に背負わされるということだから。  
 
守はまだ若く、自分の夢を持っていて、夢に向かって努力もしている、未来のある人だ。  
私は、そんな守の夢を邪魔したくない。  
あの輝かしい笑顔を、曇らせたくなんかない。  
だから私は、守と一緒になってはいけないんだ。  
 
そうよ。この人が好きなら……この人の足を引っ張るようなことを、してはいけない。  
今ならまだ間に合う。私達、まだお互いの気持ちを確かめ合った訳じゃない。今ならまだ、二人共それほど傷つかないで離れられる。  
私が急に姿を消せば、守も始めは心配したり、ちょっとは寂しく思うかも知れないけど……それは傷にはならない。時間が過ぎれば、自然に忘れてしまえるだろう。  
私の方も、多分……。  
 
だから、私が消えるのは、今、この時しかない。  
未練がましく事を先延ばしにしてしまったら、私の想いはもっともっと強くなり、いずれは抑えが利かなくなる。そう。今しかないんだ。  
 
――守……お別れよ。  
小さな鼾をかいている守に、心で伝えた。起こしてしまわないよう、そっと躰を離した。  
躰を離すと、切なさに胸が苦しくなった。涙がこぼれた。ぽたぽたと床に落ち、暫く止まらなかった。  
 
なんとか涙を押さえ込み、もう一度、守の寝顔を見た。  
ふと、キスしてみたいという衝動に駆られた。  
――最後なんだし……それぐらい、いいかな?  
私は守の唇に、唇を近づけた。  
そのまま重ね合わせようとして――やめた。  
やっぱりそんなことはしない方がいい。何もないまま別れた方が、きっとすっきり忘れられる。  
「じゃあね。ばいばい……」  
玄関口で小さく手を振り、私は、守の部屋を後にした。  
 
自分の部屋に帰ると、今後のことを思案した。  
とにかくこのアパートは引き払い、喫茶店のバイトも辞めてしまうのは確定として――それからどうするべきか。  
守も、あれで一応マスコミ関係の人なんだから、私の生家やお母さんのアパートなんかは、すぐに調べてしまうかも知れない。だからどちらにも近寄らない方が無難だ。  
ついでに、東京からも離れてしまうべきだろう。別の地方都市――大阪とか名古屋とか、いっそのこと、九州や北海道まで行っちゃうってのもありかも。どこへ行ったって、何をしたっていいんだ。自由は、お金も何もない私の持っている、ただ一つの財産だ。  
 
とにかくその日は、手荷物だけを簡単にまとめ、早々と休んでしまうことにした。翌早朝、まだ暗いうちにアパートを出て行くつもりだったから。  
そしてもう、二度と帰らない。  
守にも、バイト先の人々にも別れを告げず、ひっそりと姿を消すんだ。  
――この先も……私はこうして、出逢った人達から逃げながら、色んな土地を点々としながら、生きて行くことになるのかな……。  
寝入りばなに、そんなことを考えた。少しげんなりした。そんな人生って、なんだか逃亡犯みたいだ。  
――でも仕方ない。それがきっと……私の……運命ってやつ……。  
 
暗澹たる思いを胸に抱きながら、私は闇に引き込まれるかのように、眠りに就いた。  
 
そしてその夜半――過去最悪の、最も重たい発作に見舞われたのだった。  
 
 
真夜中過ぎの住宅街の路地を、よろめきながら私は走った。  
Tシャツにハーフパンツの寝間着姿。みっともないなんて言ってる場合じゃなかった。  
私はもう、ほとんど変わりかけていた。ほんのちょっとでも気を抜けば……私が私でなくなってしまうことが、私には判っていた。  
――嫌だ、嫌だ、嫌だ! 怖い、怖い、怖い!  
理屈じゃなかった。  
子供が闇夜を怖れるように、虫を、蛇を、母の不在を怖れるように、私は変わってしまうのが怖かった。  
恐慌をきたした頭の中で、必死になって守のことを考えた。それだけが――守だけが、私を光と繋いでくれる、唯一の架け橋だったから。  
 
訳も判らず闇を走り、守のアパートにたどり着いた。  
ドアを開け、煌々と明かりの灯った部屋に入る。  
何日も不眠不休で働いてきた守は、点けっ放しの明かりの下、まだ深い眠りのさなかに居るようだった。  
闇の存在に変わりつつあった私に、部屋の明かりは途轍もなく不快なものに感じられた。耐え切れず、私は明かりを消した。  
そして、守のベッドに潜り込んだ。  
 
守の匂いと温かさに包まれると、私の中から湧き起こっていた「闇の衝動」ともいうべきものが、少しずつ鎮まっていくのを感じた。  
私は、ほっと胸を撫でおろした。  
やっぱり守は、私に取って一番の治療薬だと思った。  
横臥した守の背中に腕を廻し、強く抱き締めた。これでいい。こうしていれば、“発作”は完全に治まってくれるはず。  
もしも守が眼を覚まして、私のしていることに気がついたって、構わない。もう、どうなったって構わなかった。変わらないで済むのなら、何をされたって、私は――。  
 
そんな私の心が、通じてしまったのだろうか?  
守は口の中で何事かを呟くと、腕を伸ばして、枕元の電気スタンドを点けようとした。  
その腕を、私は押さえた。まだ光は嫌だった。  
また守が、何かを言った。  
私の名前を呼んでいたような気がする。さすがに気がついたのか。  
 
だけど守は疲れていて、完全に眼を覚ますことはなかった。  
そして、半覚醒状態のまま――守は、私との淫夢を見始めた。  
 
――あ……あぁ?  
 
私を包む闇が、ねっとりとした湿り気を帯びて、肌に絡みついていた。  
それは着ている衣服の襟元や、袖口や、裾なんかから、じわじわと這い込んで、私の躰を侵蝕しようとしていた。  
闇の正体は、守だった。  
守の意識、その中に占める、淫らな情欲の部分だけが突出し、剥き出しになって、私の肉体に向けられていたのだ。  
唇を舐め、乳房をやわやわと揉みしだき、お尻をねっちりと撫で廻す。  
乳首を執拗に摩擦して転がし、お尻の谷間をくすぐって、お尻の穴の皺の部分を、一本一本丁寧になぞった。  
――ああん、いやあ……。  
 
異様な感覚と、強すぎる快楽に、私は激しく身悶えた。  
私に触れてくるこの、蕩けるような“何か”は、指でも唇でもない。守の“意思”そのものが形になったもの。それは、守の躰のどの部分よりも、“守そのもの”であるといえた。  
そんな“守そのもの”が、私の躰の敏感な部分を、欲望のままに責め立てるのだ。  
 
――ああ、あはあ……あん、あっ、あっ、ああっ!  
 
変幻自在の淫らな“意思”は、私の乳首とお尻の穴をくすぐりながら、私の一番大事な部分、女の、性器の部分にまでその触手を伸ばしつつあった。  
割れ目を包む恥毛を掻き分け、すでにしっとりと濡れそぼった陰唇をぬらぬらとまさぐって、その内部にあるさらに敏感なものを目指そうとしていた。  
守の“意思”にそんなことをされたら――しかもその間も、唇や乳首やお尻の穴を苛めることを、やめたりはしないのだ。  
 
結局、陰唇を少しこねられただけで、私はいってしまった。触れられている全ての性感帯が直結したような状態になり、それぞれの快感が増幅しあっているので、とても我慢ができなかったのだ。  
生まれて初めての絶頂感――そりゃあ今までだって、自分の股間の柔らかい裂け目が引き起こす快感を、全く知らなかった訳ではなかった。  
その柔らかな部分を強く押さえたり、枕か何かを挟み込んでぎゅっと太腿に力を込めたりすると、じんわりとした快感が胎内に沁み込んできて、恍惚のため息が漏れてしまうほどになることを、私は子供の頃から知っていた。  
 
けれど、そんな風にして得られる快感は、守によってもたらされたこの、重たく全身に響き渡る絶頂感に比べたら、本当に些細な細波のようなものに過ぎなかったのだ。  
――うあぁ……駄目っ、だめえ……っ。  
躰の中心部が勝手に律動し、その律動の中から、蕩けるように甘い感覚が湧き起こって広がってゆく。その衝撃に揺さぶられ、内腿が、腰が、躰中ががくがくと震えて、溢れる体液はお尻の谷間をぬらつかせた。  
――ああん、躰……融けるぅ……。  
 
甘く激しい快感に揺蕩い、うっとりしている私を、守はなおも責め立てた。  
私の全身を這い周り、性感帯を弄り廻していた守の“意思”は、少しずつ寄り集まって大きなひと塊になり、やがて巨大な塔の形をとって、私を圧倒した。  
その塔は、夜見島で見た鉄塔なんかとは全然違っていて、もっと頑強で逞しく、少し怖いような、狂暴なまでの生命力に満ち溢れていた。  
――ああああ、凄いい……。  
その塔の、蔦のように絡みついて浮きあがっている血管を、私の“意思”はたどり、塔のてっぺんに鎮座している、ドーム型に張り出した紅い屋根を目指した。  
野太い塔はとても熱く、硬く、どくどくと脈打っていて、まだまだ膨張しつつあるようだった。  
 
“意思”の手足を廻して塔にしがみつき、私は這い登ろうとする。  
私の中心部のぬらぬらと蕩けた部分が、灼熱の体温を帯びた塔に擦りつけられ堪らなかった。  
――ああっ、擦れて気持ちいい、気持ちいいぃ……。  
その摩擦感で、私はまた達した。  
 
達してひくつきながらも、浅ましい仕草で塔の頂点までたどり着いた私は、ドーム状の弾力に富んだ屋根に、“意思”を被せて、丹念に味わった。屋根の上には縦長の裂け目があったので、そこにも“意思”を潜り込ませた。  
すると、裂け目の中から透明の、ねっとりとした液体が湧き出して、私の“意思”をどろどろに融かした。  
形を失い、淫らな液体と混じり合う私の“意思”は、裂け目の奥の細い管を出たり入ったりしたあげく、突如として奥の方から迫りあがってきた、粘り気のきつい、白濁した守の“意思”と共に、ドームの裂け目から噴き飛ばされて、遥か宇宙の、広い範囲にまで拡散した。  
――ああー……私……飛んだ……。  
 
守の“意思”の、凄まじいまでの勢いに呆然としていた私は、気づくとまた、守の塔にしがみついていた。  
今度は、塔の柱に私は半ば埋没しかけ、一体化していて、自由に蠢くことができなかった。  
そして、そんな身動きのできない私に、守の“意思”の触手が狙いを定めているのを感じた。  
――いや……いや、そんなこと!  
守の“意思”は、私の中に入り込もうとしていたのだ。  
塔の柱に摩擦され、濡れて開ききった陰唇をさらに押し広げ、しこったクリトリスを摘まみ出し、ぬるぬるの粘膜を隈なく舐めたり摩ったりして私を快楽に浸しつつ、中心に開いた一番恥ずかしい穴の中へ、“意思”の尖端を性急に埋没させようとしていた。  
 
畏怖心と、ちょっとした嫌悪感に苛まれた私は、守の“意思”をしりぞけようとするけれど、そんなことができるはずもなかった。やめてと叫んで身悶えすれば、ずるずると這い込む“意思”は、逆にどんどん私の奥深い場所にまで進んで行ってしまう。  
結局抗う術もなく、ぎちぎちと軋みながら、私の胎内は、守の“意思”に埋め尽くされた。  
――うああぁ……こんな、こんなのってぇ……!  
私の中が、守でいっぱいに満たされている。それは物凄いことだった。ぎゅうぎゅうに詰まりながら、守の“意思”が、粘膜の襞を掻き鳴らす。中のおうとつを探って押し、時として、全身に響き渡るほどの快感や、尿意なんかも引き起こす。  
 
しかも守の“意思”が辱めているのは、膣の中ばかりではないのだ。  
――いやあん、いくっ、またいっちゃううっ!  
膣の中の、私が一番気持ちのいい場所を探り当てた守の“意思”は、そこを盛んに押し込めながら、かちんこちんに勃起して包皮を弾き飛ばし、根元からこんもりと起きあがった私のクリトリスを舐めて、摩って、小刻みに震わせていた。  
ああ、こんなことをされて、こんなにも凄い快感が来るなんて、信じられない。クリトリスなんて、直接触ってもただ痛いだけの場所だったはずなのに……。  
 
さらに。そんな悪戯に加え、守の“意思”は、私の他の部分にまで入り込もうとしていた。  
口や耳、お尻の穴や、なんと、おしっこの穴にまで。  
――ああぁ……もうやめてえ……。  
“意思”は不定形のものだから、どんなに無茶な場所にもすんなりと入ってしまい、私に苦痛を与えるようなことはなかった。  
けれども私を平気なままにしていてくれる訳じゃない。私を中からくすぐり、揉み、扱き立てて、私自身が知りもしなかった快感を、無理やり掘り起こして私を翻弄するのだ。  
 
私は何度も何度も、自分でも数え切れない回数の絶頂を、守の“意思”によってリピートさせられた。  
口の中の“意思”は私の舌を甘く吸いあげ、耳の中の“意思”は淫らな息遣いと囁き声で私をぞわぞわと感じさせ、尿道の中の“意思”は、小刻みな抜き挿しをして鋭い快感で尿道を揺るがし、断続的な勢いのいい失禁を促す。  
お尻の中に入った“意思”は、膣の中の“意思”と協力し合い、私の中の、膣壁と腸壁とを擦り合わせるような感じに交互に動かしたので、私はおしっこを漏らしながら、ひいひい言って、躰の奥底から湧きあがる絶頂感の波にのたうった。  
 
そうしているうちに、私の“意思”は、塔の形をした巨大な守の“意思”の内部にめり込んでいき、とうとうすっぽりと飲み込まれてしまう。  
守の“意思”の中に入った私の“意思”のまたその中に、守の“意思”が入っているという形になった訳だ。まるで入れ子細工だ。  
 
守の“意思”に躰の外側を包囲された上に、躰の中まで守の“意思”に埋め尽くされた私は、まさしく守と一体だった。  
もう、ずっとこのままでもいいと思った。  
このまま守に“意思”を食い尽くされて、守の“意思”の一部になったとしても、きっと、それはそれで幸せだと思った。  
 
そう思ったとたん、私の躰の中心部に、どろりと甘ったるい波が起こって、私の“意思”は錐揉みにされた。  
上も下も、右も左も判らない、光も闇もない不可思議な世界には、只々淫靡な快楽だけがあった。その世界の、私は、快楽そのものになっていた。  
 
「ひ……くっ……くうぅっ……」  
 
永い永い快楽の刻の終焉は、食い縛った歯の隙間から、堪えきれずに漏れ出た最後の絶頂の声と共に訪れた。  
私は、そっと眼を開けた。  
“発作”は完全に鳴りを潜めており、私はすっかり元通りに戻っていた。  
恐る恐る守の様子を伺ったけど、横向きになって私を抱き枕のように抱え込む守は、未だに眠りこけていて、目覚めた様子は感じられなかった。  
 
彼が寝返り打ったのを潮に、私は静かにベッドを抜け出した。  
自分の躰に眼を落とす。多少汗ばんではいたものの、あの、守の“意思”による行為のさなか、しとどに漏らしたと思っていた尿や体液は、片鱗さえも見られなかった。  
あの行為は全て意識内で起こったことに過ぎないから、肉体に対し、現実的な影響はなかったのだ。  
でも、時間はそれなりに経っていたようで、アパートを出ると、すでに夜が白み始めていた。  
朝靄の中、ぐったりと気だるい躰を引きずり、私は家路に就いた。  
 
部屋に戻ると、布団の上に崩れ込んだ。  
眼を閉じて、守の“意思”によってもたらされた、様々な感覚を反芻した。  
私の中で眠っていた、私自身も知らなかった、快楽の鉱脈――。  
妖しい気分が、下腹部を沸々と熱くし始めていた。  
Tシャツの上から乳首を爪で掻いてみた。かりかりと。  
「う……」  
躰の芯がむず痒くなるほどの快感に、思わず呻いた。下腹部の火照りがますます酷くなった。  
私は、引きちぎるようにハーフパンツと中の下着を脱ぎ捨てた。  
脱ぐ時に、下着のクロッチが糸を引き、太腿の上に粘った汁を振りこぼした。  
おりものかと思ったけど、そうではなかった。  
さっきの行為を思い出し、私は、性器を濡らしていたのだ。  
 
――私……思い出して、欲情してる……。  
そう自覚したとたん、かあっと顔が火照り、全身を熱い血潮が駆け巡った。ぬるぬるし、充血して膨れあがった陰唇を、私は自分の指先で左右に押し広げた。くちゃっ、という音が鳴り、中の粘膜が外気に嬲られる。  
「ああ……」  
快楽の予感に、私は小さな喘ぎ声を漏らした。  
すっかり濡れそぼった私の性器も期待していた。膣の入口が勝手にぱくぱく閉じたり開いたりを繰り返し、クリトリスも、痛いくらいに勃起して、真っ赤になってぴょこんと顔を出しているのが、躰の上からもはっきりと見えていた。  
 
息を忙しなく弾ませながら、私は、紅く尖がって疼いているクリトリスに、指先を宛がった。  
凄まじい快感が膣の奥深くにまで染み渡り、私は思わず声を漏らした。  
ほんの数回、ぬるぬると淫液に濡れたクリトリスを撫でただけで、私はいってしまった。  
「くっ……くうっ!……はあ、はあ……ああ……凄い」  
乱れる呼吸を整え、じっとりと汗に濡れた躰で横たわったまま、私は呆然と快楽の余韻に浸った。  
 
だけども暫くすると、私の性器はまた疼き始めた。  
――ああ、もっと……もっと欲しい……。  
私は再びクリトリスに指を伸ばし、ころころとした肉の芽を愛しむように撫で摩った。  
二回目は、さすがにさっきみたいに瞬殺とはいかなかったけれど、クリトリスの裏側の部分を重点的に捏ね廻すような感じでやってみたら、またすぐに絶頂が来た。  
――ああん、いい。もっと、もっと……するのぉ……。  
二回目の絶頂の波は若干弱かったので、もやもやとした欲情の熱気は引いていかなかった。だからすぐ、続けざまに再開した。  
 
三回目は少し余裕ができたので、もっとゆっくり愉しむことにした。  
まず、Tシャツを脱ぎ捨て、両の乳首を念入りに弄くる。  
胸の膨らみから脇腹の辺りまですうっと撫でおろし、腰の張り出しから太腿、内腿の柔らかな肌を立てた指先で摩る。そうしてから、おもむろに濡れた割れ目を上下に擦り、クリトリスを震わせて、最も鋭い快楽を貪るのだ。  
「ああっ、いい、いい、凄い……何で? 何で……こんなに」  
自分で弄くるだけでこんなに気持ちがいいなんて、不条理なことだと思った。本当のセックスでもないのに、ここまで気持ち良くなる必要があるのだろうかと。  
――こんなことを、もしも守の指でされたら……。  
なんてことを考えたら、瞬く間にいってしまった。  
 
そうして何時間もの間、私は、初めてのオナニーに没頭し続けた。  
本当に、クリトリスが擦り切れるんじゃないかというくらいに擦り続けた。  
絶頂の回数は、七回目くらいまでは数えていたのだけど、後は忘れてしまった。  
度重なる行為に、はみ出た陰唇は、紅く膨れあがって普段の倍ぐらいの厚ぼったさになり、膣の穴からは濁った汁がどろどろと溢れ、お尻の穴を濡らし、シーツに垂れて、布団にまで染み入るほどの大きな濡れ染みを作った。  
 
――猿。  
 
体力の限界が来て、快感の余波を引きずりながら、うとうとと眠りかけた時、冷ややかな声と共に、蔑むような視線が私を見ているのを感じた。  
 
――指がふやけるまでオナニーするなんて、信じらんない。ばっかじゃないの? しかも、あんな男のことを考えながら……。  
 
ぞくりとするような怒りの波動。布団の真横に誰かの気配を感じたけれど――私はもう疲れ果てていた。  
――放っといてよ……いいじゃないのよ……私には……守しか……居ないんだから……。  
 
 
「結局あんたは……守の前から去ることはできなかったんだよね」  
感情の篭らない声で、女が言った。  
「守と結ばれることはできない。でも、離れることもできない。そのせいで、あんたは……」  
膝を抱える私の前に、女は座った。真正面から見据える眼。奇妙な既視感が、胸で疼く。  
「あんたを救ってあげたい」  
そう呟いた女は、私の背中に腕を廻し、私の躰を抱き寄せていた。か細い腕。ひんやりと冷たい躰。それがなぜだか心地いい。私は眼を閉じた。女は言葉を続けた。  
「今の、どっちつかずの中途半端な状態から、あんたを解放してあげたいの……お願い。私を信じて。私と一緒に、ここに居て……ずっと、ずっと……」  
「でも……そんなことになったら、私は守に二度と逢えなくなっちゃう」  
「諦めなさい。あの男のそばに居たって、仕方がないわ。あの男じゃ、あんたのことを救えないんだから」  
 
「ううん、駄目。やっぱり私は、守と一緒に居たい」  
私は、きっぱりと女に答えた。  
私を抱き締めていた腕が、躰が、すうっと闇に掻き消えた。  
 
――わからず屋。  
 
 
女の声と気配が、小さな風と共に去って行った。薄暗い部屋に、私は独り取り残された。  
「……っくしゅん!」  
そういえば、私は裸のままだった。着替えを入れたバッグは玄関ホールに置いたままだ。参ったなあ……。  
そう思って辺りをきょろきょろ見廻すと、入口扉のすぐそばに、見覚えのあるバッグが置いてあった。私のトートバッグだ。  
「こんな処に……何で?」  
いつの間にここに運び込まれたのだろう? 誰の手で?  
まあとにかく、今ここにこれがあるのはありがたい。私は中から着替えを出して、素早く身に着けた。  
 
一息ついてから、改めて室内を見渡した。  
ぼんやりと淡い電灯の暖かい光に包まれた部屋は、どことなく懐かしい雰囲気を醸し出していた。  
それは、この部屋の至る処に転がっている、おもちゃ達のせいだった。  
ぬいぐるみに積み木、投げ輪、おおままごとセット。  
奇妙なことに、それらは全て、二つずつ揃えられていた。  
全く同じものが二つずつ。  
 
すぐそばの小さなタンスの上に並んだ、二体のアンティークドールを眺めた。  
なんて可愛らしいんだろう。  
二つのお人形は全く同じ形、同じ顔をしていたけれど、服の色だけ違っていた。一つはピンクで、もう一つはオレンジ。私は、オレンジの方のお人形を抱きあげた。  
古びた布の匂いと共に、切ないような感情が溢れ出して、私の胸を熱くする。私はお人形に頬擦りをした。夢見心地で、そっと呟いた。  
「柳子……」  
 
――えっ?  
今私は、何を言ったの?  
腕の中のお人形を見つめた。柔らかな微笑みを浮かべているお人形は、何も答えない。  
なんとなく怖くなり、私はお人形を元に戻した。他のおもちゃも眺めつつ、部屋の奥へと進んでゆく。  
どうやら、部屋は二間が一続きになっているようで、奥の方には、カーテンで仕切られた続きの間の入口が見えていた。私はカーテンを引いた。  
真っ暗な部屋の中に、二人の小さな女の子が居た。  
「ひっ?」  
私は驚き、思わず後ずさってしまう。  
二人並んだ女の子達は、おそらく五歳前後ぐらいだろうか? 髪をおかっぱに切り揃え、お揃いのワンピースを着て、それぞれ椅子に腰かけていた。突然の闖入者である私を前にして、驚いた様子は全くない。  
 
「あ、あの、ごめんなさい急に。私は、その……」  
一応私は、女の子達に謝っておいた。  
こんな夜更けに、こんな廃屋同然のお屋敷に、こんな小さな女の子が二人、なぜ居るのかは判らない。このお屋敷の住人なのか、はたまた、私や守と同じように、迷い込んだだけなのか……。  
でもとにかく、彼女達を怖がらせて、泣かせちゃったりすることは避けたかった。子供に泣かれるの、苦手なんだ。  
幸いなことに、女の子達は二人共妙に肝が据わっていて、独りで焦っている私のことも、穏やかな笑みを湛えて静かに見つめているだけだった。本当に、随分と落ち着いている。  
 
いったい何を考えているのか――私は彼女達の心を読むべく、様子を伺った――。  
 
【つづく】  
 

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