あ、あら?
彼女達の意識は、全く判らなかった。
意識が、ない? ううん、意識どころか……。
私はそろそろと女の子達に近寄り、その、ふっくらとした頬に触れてみた。
硬く乾いた感触だった。はっとして手を引き、呟いた。
「これ……人形じゃないの」
続きの間に居たのは、精巧に作られた少女人形だったのだ。暗がりに座らされた状態では、生きている人間と見分けがつかないくらい、本当によくできた人形。
私はふと思い立ち、二体の人形を、椅子ごと、手前の明かりの灯った部屋に出してみた。電灯の下に並べてもう一度見直す。
明かりの下に置くと、さすがに質感の不自然さが眼についた。このお人形は、髪の毛も衣服も全て紙粘土で作られていたから、特にその辺りに違和感があるのだ。
けれどもそれは、あらかじめこれが人形であると知った上で、まじまじと凝視して初めて気がつく程度の違和感だったから、何も知らない人がいきなりこれを見れば、さっきの私と同じように、本物の女の子と見紛うことは請け合いだ。
守だってこれを見たら、きっと驚くに違いない。
そうだ、守。
守のことを思い出し、急に心配が頭をもたげた。
守、あの後どうしただろう? 本当に、怪我やなんかをしていないのかな? それに――私がした諸々のことを、どう思っているのかも気になる。
「とにかく様子を見に行かないと」
私は、おもちゃの部屋を後にした。
部屋を出て、廊下を抜けて玄関ホールに出ると、ホールのずっと向こうに人影が見えた。
前屈みでソファーに腰かけ、頭を抱えている守だった。
「守!」
私は守に駆け寄った。
「守、こんなとこに居たんだ……随分捜しちゃった」
「郁子……」
守は、ソファーから立ちあがって私を迎える。私がそばまで行くと、私を頭のてっぺんから足の先まで、しげしげと見廻した。
「なあに? そんな、変な顔しちゃって」
私は少し笑って見せた。守はきょとんとした顔をして、私の着ている服を見つめているのだ。
「郁子、その服……まだ持ってたんだ」
守は、微かな笑みを浮かべて、私の服を指さした。
私が今着ているのは一年前、守と初めて逢った時に着ていた、あの衣装だった。肩口や首周りが白いフリルで縁取られ、黄色地に茶色の柄模様がプリントされた、長めの丈のタンクトップ。それと、裾に折り返しのついたブルーのデニム。
川で濡れるかも知れないから着替えを持って来るようにと言われ、私が持って来たのが、この二つのアイテムだった。
守と出逢ってからちょうど一年目の記念日に、初めて出逢った時と同じ服を、身に着けたいと思ったからだ。
「そりゃあ、私は貧乏なフリーターだもん。まだ着られる服を、そう簡単には捨てられないって」
そう言って私は笑った。
「満面の笑みで言うことじゃないだろそれ」
守は苦笑している。でも、この服に対して嫌な気持ちは持っていないみたい。私はほっとしていた。
私達が出逢って丸一年ということは、あの、悪夢のような夜見島事件からも、すでに一年が経過しているのだ。
二人の出逢いはともかく、あの怖ろしい事件のことに、いつまでも囚われていてはいけない。これから先の長い人生を生き抜くためにも、私達は、あの事件の記憶なんかに負けてはいけないんだ。
この服を持って来たもう一つの理由はそれだった。
あの時の記憶を彷彿とさせるものを眼にしても、動じないでいられるように。少なくとも、守にはそうあって欲しかった。
海とか人魚とか、そして、暗闇なんかに対する恐怖症も、できれば克服して欲しい。事件で負った心の傷を慰め合える私が、いつでも、いつまでもそばに居てあげられるとは、限らないのだから……。
そんなことを考えていたら、突然守は、私にしがみついてきた。
「きゃっ……な、何よ?!」
私は――守に、力いっぱい抱きすくめられていた。
本当にいきなりな守の行動に私は驚き、胸を高鳴らせた。いつもの守なら、こんなことはしない。妄想の中でならともかく、現実の守はもっと理性的で、そして臆病だ。
「郁子……ごめんな」
守は大きな躰を折り曲げて、私の後ろ頭に向かって呟いた。静かな声。それに反し、だらんと垂らした両腕ごと、私をきつく抱き締める腕の力は強い。
めいっぱいの力で抱き締められて、一瞬私は、意識が遠退きそうになる。
守は私と再会できたことで安堵し、感情が昂ぶっているみたいだった。彼は、私を信頼してくれていた。浴室で、あれだけのことをされたというのに、私を信じるその気持ちを、失ったりはしていなかった。
「何なのよもう……」
私は、やっとのことでそれだけを言い、守の背中に手を置いた。よしよしとなだめるように、軽く叩いて、摩った。
(これが、郁子なんだ)
様々な疑念を振り払うような、守の心の声が聞こえた。
私の不審な行動によって揺らいでいた、自分の気持ちを立て直そうとしている。そして、心の中で再確認していた。私への愛情。私のことを、好きだっていう気持ちを……。
「ねえちょっと……苦しいよ」
守の情熱的な想いを全身に浴びせられて、私は息苦しくなっていた。好きな人から、好きだという気持ちを痛いくらいにぶつけられる。あまりにも甘美な苦痛だった。このままじゃ、私の理性が融けて流されてしまう。
温かさにほだされて、崩れ落ちてしまいそう……。
だって、私だって守が好きなの。ほんとだよ。自分でもどうしたらいいのか判らないくらい――私は、守が好きなの。世界中で誰より、一番――。
「ごめんな」
何に対してなのか、もう一度守は謝り、私の後ろ髪に覆われたうなじに、顔を埋めた。
「守。私ね、守に見せたい物があるの」
守が落ち着くのを見計らい、私は口を開いた。
さっきの少女人形を、守に見せてやらなくちゃ。
どうやら守は、浴室で守を襲ったのが私ではない、別人だと信じていたようだったので、私はそれに合わせることにした。
だって、本当のことはとても言えない。
私は独りで浴室を離れ、ボイラーを見に行ったきり戻らない守を捜し廻っていた、ということにした。
「で、色んな部屋を見て廻ってたんだけど……途中で、ちょっと気になる物を見つけたの」
「何?」
「うん。それはまあ、見れば判るから」
そう言って私は、守の腕を引いた。
「ちょ、待ってくれよ」
守は、困り顔で私の手を引っ張り返した。私は振り返って守を見つめる。
守の戸惑いと、雨雲のように漂い集まる疑惑の念が、掴んだ腕から伝わっていた。
(ぼくの行方を捜していたのなら、まず真っ先に、ぼくが一体どこで何をしていたのか? と聞きたくなるのが人情というものではないだろうか?)
(なのに郁子は、その件を一切スルーしている)
(それに――浴室からぼくを捜しに出たと言うが、その時点で郁子のバッグは、まだこのホールに置いてあった筈だ)
(つまり郁子は、素っ裸のままで浴室を出てきたことになる)
(それって少し、不自然じゃないか?)
「郁子」
守は、心の中の疑問の答えを得るために、私と話そうと考えているようだった。私の腕を振り解き、逆に、私の方の腕を取る。
そして――私の腕を見たその眼が、驚愕に見開かれる。
その時になって、私はようやく気がついた。
さっき、浴室で守の首を絞めた時に、私の腕には、守からつけられた無数の引っ掻き傷が残されていたのだということを。
私ははっとなり、守の手を振り払って、腕の引っ掻き傷を手で隠した。守は自分の指先に眼を落とす。守の爪の中には、私の腕を引っ掻いた時の、血糊がこびりついていた。
――しまった……。
私は混乱した。私を見る守の眼から、いつもの温かさが消えていた。
気味の悪そうな――まるで、化け物でも見ているかのような、冷たい眼差し――。
「郁子」
私に呼びかける守から、私は少しずつ後ずさった。そして、全速力で逃げ出した。守はすぐさま追って来る。追いつかれそうになるすんでの処で、私は水槽脇の扉に滑り込み、こちらから内鍵をかけてしまった。
「くそ……何なんだよ!」
扉の向こう側から、守の苛立った声と、腹立ちまぎれに扉を蹴飛ばしている物音が響く。でも、扉が頑丈なので蹴破られる心配はなさそうだ。
守の発する怒りの声と、悪感情の波動から耳を塞ぎ、私は走ってその場を離れた。
廊下を進み、さっきのおもちゃの部屋まで戻ってから、扉を背にしてくたくたと床に座り込んだ。
部屋の中央には、さっき私が並べて置いた、二人の少女人形が大人しく椅子に腰かけている。
――何やってんのよ……。
心の中から、私を馬鹿にしきった声が聞こえた。
――嘘をつくならつくで、もっとちゃんと徹底しないと。あんたって、本当に下手だよねえ、そういうの。
ふん。正直者だって言って欲しいわね。
私は鼻を鳴らす。嘘なんて、もっと上手くつこうと思えばつけるんだから。ただ、そうしたくないってだけで。
そうだよ。だって私――自分の気持ちにだって、いつも嘘をついている。
守のことが好きで好きで仕方がない癖して、いつでも素っ気ない素振りをしてる――。
“発作”のせいで守のそばから離れられなかった私は、その後も、それまでと変わらない生活を続けた。
あの夜のこと――守は何も気づいていなかった。
“意思”による私との行為は、ただの夢だと自分の中で片づけてしまったようだった。
ただ、点けっ放しであったはずの部屋の明かりが、勝手に消えていたことだけを不思議がっていたけれど、それも、帰り際に私が消したのだと言ったら、すんなり納得していた。
私もまた、何食わぬ顔をして守に接した。喫茶店で。守の部屋で。私との関係の進展を望み、あれやこれやとちょっかいを出してくる守を、あっさりかわしてはぐらかしながら。
でも、そんな私の取り澄ました上っ面も、自室で独りきりになった瞬間、脆くも崩れ去ってしまうのが常だった。
あの夜に守の“意思”から開発された私の性感。それから間もなく覚えてしまったオナニー。
それは私を虜にしていた。
した後になってから羞恥心と罪悪感に囚われ、「もう、明日からはこんなことしない」と心に誓うのに、結局私はオナニーをやめられない。
威力を最大にしたシャワーのお湯を当てたり、テーブルの角に擦りつけたり、様々なやり方で、淫らな行為に耽ってしまう。
頭の中では、あの夜の、守の“意思”にされたいやらしいことを反芻していた。
私の“おかず”は、それだけで充分過ぎるほどだった。
この数ヶ月間、私はあれで、いく度の絶頂を迎えたのか、どれだけの量の愛液を漏らしたのか、もう、想像するのも怖ろしいくらいだった。
恥ずかしいオナニーの癖は次第にエスカレートしてゆき、自分でも歯止めの利かない領域にまで達するのに、そう時間はかからなかった。
あれは確か、今からひと月半ばかり前のことだっただろうか?
そろそろ梅雨に入ろうかという六月の半ば。その日は、ずっとぐずついて機嫌の悪かった空が、お久しぶりの太陽を覗かせ、初夏の清々しさで町中を明るく輝かせていた。
「今週は、今日を逃したらもう洗濯はできないな」
私はいつもより早めに起き出して、自分の分の洗濯物を片づけた後、守の部屋に直行した。
その日守は、早朝から取材に出かけていて部屋には居なかったけれど、洗濯機を開けると、中の洗濯物は特盛状態になっていた。
これは一回じゃ終わんないや。そう思った私は、最初に、洗い物をより分ける作業から開始した。
とは言っても、色落ちしやすそうなものと、そうでないものを分けるぐらいのものだったけど。
とにかく今日一日で、溜まりに溜まった洗濯物に加え、布団干しまでやらなきゃならないのだから、もたもたしていられないと思った。
洗濯機を廻しながらベッドに乗っかり、布団カバーやシーツをきびきびと引っぺがした。
枕カバーを外した時、ふっと守の匂いが鼻を衝いた。
それで私はスイッチが入ってしまった。あの夜の記憶が怒涛のように蘇って、私の裂け目をめらめらと燃えあがらせてしまったのだ。
――だ、駄目。こんな時に……こんな処で……。
どきどきと脈打つ部分を手で押さえ、私は必死に衝動を抑え込もうとした。
でも駄目だった。
その日は珍しく、短いスカートなんて穿いていたのも、良くなかった。
――ちょっとだけ……ちょっとだけ……ね?
どうしようもないほどに高まった欲求を、手早く解消してしまうつもりで、私はスカートの裾に手を挿し入れた。すでに下着のクロッチは、漏らした愛液でぐっしょりと濡れて、割れ目の形に沿って張りついていた。
私は、濡れた下着の上から、ぬるぬるの部分を擦った。
「ああ……あ」
守のベッドの上で、私は脚をM字に開き、下着越しのオナニーをした。私の居る位置からは、壁際に置いたテレビの黒い画面が見えていて、そこに、私自身のはしたない姿が映って見えていた。
スカートを捲くりあげ、手を股間に宛がい、一心不乱にあそこを擦り続けている私の姿が。
「ああん……やだぁ」
いやらしくてみっともない自分の姿に、私は奇妙に欲情して、感じてしまった。オナニーしている自分の姿を、擦り立てる指の動きを眺めながら、私は、いってしまった。濡れた性器の膨らみをぎゅっと手で握り締め、激しく肩で息をした。かつてないほどの自己嫌悪に苛まれた。
私は、守の部屋でとうとうこんな……。
でも、これでなんとか躰は鎮まった。これで、洗濯の続きをできる……。
そう思ったのは、一時のことだった。
余韻に浸りながらベッドに突っ伏した私は、そこに、より強い守の匂いを嗅ぎ取ってしまった。
さらにいけないことに、ベッドには、守の思念のかけらまでが残されていたのだ。
ゆうべ、守が自分を慰めた時の、快楽の残滓が。守はその妄想の中、このベッドの上で、激しく私を犯していた。
着ているものを引きちぎり、無理やり、レイプをしていたのだった。
「ああっ、守……駄目……そんなこと、やめてえっ!」
守の妄想に似せて、私は、着ている服を全て脱ぎ捨てた。本当は破り捨ててしまいたかったけど、さすがにそれは思い留まった。
そして、剥がしたシーツに頭からすっぽりと包まった。そうすると、守に抱かれているような気分になれた。
シーツにこびりついた快楽の残滓から、消えかけの思念のかけらを読み取りながら、私は自分の躰をまさぐった。
守は妄想の中で、生意気なことばかり言う私の口に自分のペニスを押し込み、髪の毛を掴んで前後に揺さぶっていた。私は自分の口の中に二本の指を突っ込んで、ずぼずぼと出し挿れしてみた。
それから守は、泣き叫ぶ私の太腿を大きく左右に押し広げて、私の膣口を、紅く反り返ったペニスで突き破った。
「ああーっ! 痛い! 守……痛いよおっ!」
守の妄想通りの言葉を吐きながら、私は、現実の膣口にも指を突き立てようとした。でもそれはできなかった。今までにもオナニーの最中、膣の感じが物足りなくなって、指やなんかを挿れてみようと試したことはあったけど、成功したことは一度もなかった。
痛過ぎるのだ。指一本すらも這入らない。こんなことで、本当におちんちんを挿れたり、ここから赤ちゃんを産むことなんかができるのかと、不思議に思うほど。
仕方がないのでいつものように、膣口をぐりぐりと揉みながら、クリトリスを擦って快感を得るだけにした。
でも、頭の中では、守にめちゃくちゃに犯されていた。胸を掴まれ、がんがんと腰を押しつけられながら、頭を左右に振り立てて許しを請うのだ。
「あああ、許して……守、痛いのぉ……もう、許して下さいいっ!」
私は解剖されたカエルのようにがに股になって、女の臓物の全てを曝け出し、惨めったらしく泣き喚きながら、股間をひくつかせた。
――痛いなんて言って……こんなに濡らしてるんじゃねえかよ。
守の思念が、私を言葉で責め立てる。ああ、そんな……。
守は私の膣の中に、ゆっくりと大きく出し挿れしながら、その、勃起したおちんちんに絡みついた私の愛液を見せつけて、私のいやらしい欲望を、これでもかってくらいに自覚させた。
――おれに犯されて、感じてるんだろう? 言ってみろよ。ちんぽ挿れられて、気持ちいいって。
背筋を、ぞくぞくするような戦慄が駆け抜ける。屈辱感が、性器の快楽をよりいっそう強くさせてしまう。
でも本当は違うんだ。これ、本当は守の思念なんかじゃない。このシーツには、そこまではっきりとした思念なんかは残っていないもの。これは、欲情に煮え立った私の頭が作り出した、ただの妄想だ。
それでも私は、激しく腰をくねらせ、足先をばたつかせて、妄想の中、守の思念から辱められる快感にむせび泣いた。
「ああんん……いい……守に、犯されて……ちんぽ、挿れられて……あそこ、気持ちいいよおおっ……」
妄想の守に命じられた通りの恥ずかしい台詞を発したとたん、性器の快感が渦を巻いて高まった。どろりとした甘い恍惚に全身を包まれた後――奥の方から、絞り込まれるような律動が起こり、私は、性の頂点を極めてしまった。
「あ、あ、あぅ……うあぁああぁあっ……うぅう……」
獣じみた叫びをあげ、躰中を感電したようにびくんびくんと震わせて、私は、寄せては返す絶頂感の波の中を、ただひたすらに耽溺して漂った。
永い永い快楽の波が引いていき、シーツの中から這い出た私は、泳いだ後のように全身濡れネズミになっていた。守のシーツも私の汗で湿ってしまった。
特に、下半身の当たっていた周辺は、私が無意識の内に陰唇を擦りつけてしまっていたせいか、べとべとの染みに汚れて、そこだけ部分洗いしなければならなくなるほどだった。
そしてその日を境に、私は、守の部屋でするオナニーにも嵌まっていってしまうこととなった。
校了が近くなると、守は会社に泊まり込むことが多くなり、アパートの部屋は空けがちになる。
それをいいことに、私は、守の家の家事をするというのをお題目に、部屋にあがり込んでは洗う前のシーツに包まり、独りの快楽に耽ってしまうのだった。シーツの残り香や、思念のかけらをおかずにして……。
ベッド以外の場所でも、私はした。ほんの数時間前に、守と並んでテレビを見ていたカウチの上で。外の廊下に面した流し台の角で。
一番興奮したのは玄関ドアの前でした時だった。
その日は、お夜食を作って守の帰りを待っていた。
例によって、帰ると言った時間を何十分もオーバーしていたので、私は、玄関前に膝を抱えて待ち受けてやることにした。
――もしここで、私が裸で待っていたら、守はどんな顔するのかな。
退屈紛れにそんなことを考えたせいで、変な気持ちになってしまった。
私は膝を開き、穿いていたデニムの上から、股の部分を擦り始めた。
――ああ、駄目……物足りない。
守の部屋でのオナニーに慣れつつあった私は、少し大胆になっていた。デニムのジッパーを外し、手を中に挿し込んで、下着の中を直に弄るばかりか、シャツを捲くってブラジャーの中の乳首までも悪戯し出してしまう。
このアパートには夜型の住人が多いらしく、夜中であっても、ドアの向こうには結構人が行き来するので、その気配に私の胸はどきどきして、すっかりのぼせあがってしまった。
――ああ、見て……私、こんな処でオナニーしてるの……。
興奮が最高潮にまで高まった私は、その場で着ているものを脱ぎ捨て、本当に素っ裸になってしまった。熱を持った膣の穴から溢れ出る汁が、お尻の穴を伝って床に垂れそうになるのを指ですくいあげ、クリトリスに塗り込めながら、快感の絶頂が訪れる時を待ち侘びた。
「ああ……もうすぐよ……守、私……もうすぐ……」
オルガスムスの予兆を感じ、私は、仰け反りながら守の名を呼んだ。
その時、玄関のドアノブに鍵が入り、向こうから廻されるのが見えた。絶頂の痙攣はすでに始まっていた。どくんどくんとひくつく性器を片手で押さえながら私は、脱いだ衣服を掻き集め、玄関真横にあるバスルームに飛び込んだ。
守が中に入って来るのと、私がバスルームのドアを閉めるのは、ほとんど同時だった。
「帰ったぞう」
守は靴を脱ぎ、私が入ったバスルームのドアをノックした。
「郁子、トイレ?」
「……そうよ、うるさいわね!」
膣口が、蕩けるように蠢動し続けている只中、声の震えを必死に抑えて私は返事をした。当然、裸のままだった。全身から汗が噴き出し、頭の中が真っ白になっていた。
それなのに、追いつめられたような性器の快楽は、どくどくと脈打ちながら引き続いて、早く服を着なければと焦る気持ちに反し、なかなか鎮まってくれなかった。
そんなことがあって、死ぬかと思うくらいに胆を冷やしたというのに、私のオナニー癖は全然治まってくれなかった。
自分で自分が嫌になり、もういっそのこと、風俗ででもバイトしてしまおうかと一瞬考えたりもしたけれど、この胸の痣がある限り、そんな仕事は無理だってすぐに思い直した。
ただ一つ良かったことは、オナニーを覚えたあの日以来、“発作”が一度も起きていないということだった。
もしかすると、オナニーの最中に、守のことを強く意識するのが作用しているのかも知れない。でも、実際の処は謎だった。これはたまたまで、オナニーと“発作”には何の関連性もないのかも判らないのだ。
オナニーし続けていれば、守から離れても大丈夫なんだろうか? でも、駄目だったらと思うと怖い。それに――もう今さら、守のそばを離れる気にもなれない。
私は心の奥底で思い悩みながら、日々を単調に繰り返して行った。
そんなある日のことだった。
夕暮れ時、いつものように私は喫茶店にバイトに出かけ、ウエイトレスの制服に着替えてホールに出た。
出たとたん、カウンターの席に守を見つけた。
この日守は珍しく、「アトランティス」の先輩編集者さん二人を伴っていた。というより、他の二人に挟まれて、両脇からぐりぐりといびり廻されている様子だった。
「いらっしゃい――どうしたの? また、守がヘマをやらかしたんですか?」
「郁子っ、おっ、お前まで!……どうしてこの店の連中は、みんなしておんなじことを言うんだよ!」
どうやら、マスターや他のウエイトレスの子にも同じ台詞を言われてたみたい。
「そうなんだよぉ、郁子ちゃん、聞いてくれるぅ?」
守をいびっている先輩さんの一人が守を指差し、身を乗り出した。
「この馬鹿よぉ、生意気にも車買ったんだと。馬鹿の癖に」
「車?」
寝耳に水の一言だった。私は、眼を丸くして守を見つめた。
「しかも新車なんだってよ。夏のボーナス頭金にしてさぁ」
そう言って、先輩さんは守の頬っぺたをつねって引っ張る。もう一人の先輩さんも苦い顔だ。
「全くなあ……こっちは子供の幼稚園の入園費用に四苦八苦で、車どころか小遣いも切り詰められてるっていうのに……
独りもんだからって、贅沢して見せびらかしてんじゃねえよ、このタコ!」
彼は守の後ろ頭をぺちんと叩いた。
両サイドからの攻撃を受けているにも関わらず、守は満面の笑みを浮かべていて、堪えている様子はまるでなかった。
「今度の日曜日に納車なんだ。郁子も見に来いよ」
「はあ……だけど、なんでまた急に車なんて?」
私は心底不思議だった。交通の便の発達した東京では、マイカーなんて必要ないというのが守の持論だったはずだ。確かに、車検費用だの、保険や税金だのに加え、この辺りじゃ駐車場代も馬鹿にならないから、車を持つメリットなんてあまりない。
守はオカルトマニアだけど、カーマニアではない訳だし……。
「郁子ちゃん、気をつけた方がいいよ。多分こいつ、君をどっかに連れてくために車買ったっぽいから」
「えーっ?」
先輩さんの一人の言葉に、私は声をあげてしまった。
「そうそう。どうせこいつのことだ。ドライブと称して、どっかの人気のない山とかに連れて行ってさ……人目がないのをいいことに、森の中であんなことやこんなことを」
「……しません、そんなこと」
守は、膨れっ面で先輩さんを睨みつけている。
うーん、どうなんだろう? その時、表に出ていた意識からは、守の本心までは読み取れなかった。
だけど後になってから、守はやっぱり私をドライブに誘ってきたのだった。
「あの人達の言うことなんか、気にしてないよな? 信頼してくれるよな? おれのこと」
すがるような眼で頼み込んでくる彼の放つ意識は、妖しくピンクがかった情欲の色を湛えていた。
下心があるのは丸判りだった。
ほいほいついて行ったら、何をされるか判ったもんじゃない。
でも。それでも。
そんなことには全く気がつかない振りをして、私は守の誘いを承諾してしまった。
なぜそうしてしまったのか――それは、私自身にもよく判らなかった。
守とのどっちつかずの関係。それを望んだのは確かに私。でも――そんな関係を保つことに疲れ果てていたのもまた、抗いようのない事実に違いなかった。
もしかすると、私は守との関係に決着がつくことを、自ら望んでいたのかも知れなかった。
たとえそれが、修復不可能な破綻であったとしても……今のぬるま湯みたいな状態をきりもなく続けるよりは、ましなのかも知れない、と……。
――叶わぬ想いを抱き続けているのは、つらいんでしょうね、きっと。
また、心の中から声が聞こえる。いつになく優しげな声だ。
――あんたが助かる方法は、一つしかないわ。ここで私と一緒に暮らすの。
優しい声は、またもやその話を蒸し返す。私はため息をついた。
ここで暮らすったって……どこの誰だかも判んない奴なんかと、こんな山奥で暮らしたくなんかない。
……どこの誰だか、判んない?
本当に、そうなんだろうか?
今までに聞いた、心の声を思い返した。心の声――私の心の暗黒に巣食っている闇の化身であるあの女。彼女はいつも言っていた。「私はあんた」だって。
あいつは私。もう一人の――私?
「まさか」
口の中で呟いて、部屋の片隅に眼をやった。タンスの上に座っているアンティークドール。オレンジのドレスを着ている方を抱きあげ、そのドレスの、大きな襟を裏返してみた。
そこには、臙脂色の糸で縫い取りがしてあった。
「リュウコ」――と。
「あ……あぁあああああああぁ!」
私は人形を取り落とし、悲鳴をあげながら頭を抱え、床に座り込んだ。
あまりのショックに気絶しそう――でも、そんなショックに耐えながら、私は人形を拾いあげ、その顔に眼を据えた。
「あ……あんた……だったの?」
磁器で作られた白い顔に向かって言う。ガラス製の瞳の中には、湾曲した私の顔が映っている。その顔が、ぐにゃりと歪んで別の顔になった。
――そうよ。やっと思い出してくれたのね。私のこと。私と、このお屋敷で過ごした時のこと……。
ガラス玉の中で、彼女は笑っていた。狂気を孕んだ笑い声をあげながら……。
彼女の――柳子の哄笑に包まれる私の脳裏には、失われた記憶が完全に蘇りつつあった。
かつて、このお屋敷で過ごした日々の記憶が。
十四年前の――お母さんと、双子の片割れである柳子と三人で過ごした、ただ一度きりの夏の記憶が――。
【つづく】