その人と初めて出逢ったのは、私が五つの頃だったと思う。
その、背の高い中年男性が普通のおじさんではないことは、まだちびっ子だった私の眼にも明らかだった。身のこなしも話し方も凄く洗練されていて、まるでテレビに出てくる人のようだと思った。
その、「ただものではないおじさん」とお祖母ちゃんとの会話の中身は、幼い私の頭ではほとんど理解はできなかった。ただ、その話が私についてのものであることだけは、おぼろげに感じ取れた。
なので、私はまず、お祖母ちゃんの心の中を探ってみた。
お祖母ちゃんの心の中には、「余所者」であるおじさんに対する不信感で満ち溢れていた。
(大学の研究のためと言ったって、こんな小さい子を)(怪しい)
(倫子は承諾してるって? でも、未だ若いあの子なんか、騙そうと思えば簡単に)(怪しい)
(けど確かに、この子の変な処は少し気にかかる)(このまま放って置いてもいいものか)(ご近所の眼)(不安)
(ああそれでも、こんなどこの馬の骨とも知れない)(怪しい)
どうやらおじさんは、私のことをどこかに連れて行って調べようとしているらしかった。そこで今度は、おじさんの心の中を探った。
おじさんの意識の表層にのぼってくる言葉は、あまりにも難解な、私の聞いたこともないようなものがほとんどだった。私は困惑し、心のもっと深い場所にある感情なんかも読み取ろうとして、意識を集中させた。
そのとたん、おじさんの心に忍び込んでいた私の意識が、見えない壁に弾き飛ばされた。初めての経験に驚いて、私は声をあげてしまった。
隣に座っていたお祖母ちゃんが私に何かを言ったと思うけれど、何を言ったのか、今はもう思い出せない。
その代わり、その時聞いたおじさんの心の呼びかけだけは、今でもはっきりと思い出せる。
――今、おじさんの心を読んだね?
――やっぱり君は、精神感応の力を持っていたんだね。
私の心に、心の声で語りかけると、おじさんは嬉しそうな微笑を浮かべたのだ――。
それから後、記憶はこのお屋敷の前まで飛んでしまう。
ここまで、私は車で連れて来られた。
それがおじさんの運転する車だったかそうでなかったか、覚えていない。
数時間にも渡るドライブで、私はずっと眠っていたような気もする。
とにかく、当時は今よりずっと小綺麗な、まるで絵本に出てくるお城のような佇まいを見せていたこのお屋敷の前で、私はお母さんと、そして、私と全く同じ顔をした柳子という女の子に、物心ついてから初めて逢ったのだった。
互いに生き写しの相手と見つめ合っている私と柳子に、先生は言った。
「心の中でお話してごらん」
私と柳子は顔を見合わせた。先にやったのは、私の方だった。
――おはなし、できるの?
柳子は一瞬、怯んだ顔を見せたけど、すぐに心の声で返事をした。
――うん……できるよ。
お屋敷で過ごした三ヶ月ほどの期間、私はずっと柳子と一緒だった。
お母さんとももちろん一緒だったけど、柳子と一緒の時間の方が、ずっとずっと長かった。
柳子と私は、日中のほとんどを、先生と「研究」をして過ごしていたからだ。
先生――つまり、私を屋敷に招き、私に対し、生まれて初めて“心の声”による呼びかけをしたあの「おじさん」は、人の心を研究しているのだと、私と柳子に話した。
それも、一般的な心理学とか、そういうのじゃない。もっと特殊な、現代科学によっても解明しきれていない心のちから――いわゆる、“超能力”と呼ばれているものの研究だったのだ。
私と柳子は、先生の手によって、それぞれが持ち合わせていたその“超能力”なる未知のちからを、徹底的に調査された。
調査とは言っても、先生は決して私達に苦痛を与えたり、実験動物のようなむごい目に合わせたりはしなかった。お母さん共々、普通の「客人」として、丁重なもてなしをしてくれていた。
その証拠の一つが、この子供部屋に集められたおもちゃの数々だった。
あの当時、田舎のお祖母ちゃんの元で育てられていた私はともかく、中卒のお母さんと柳子は、都会の片隅で寄る辺もなく、かなりの困窮状態に置かれていていたようだった。
柳子は、小さな子供が買い与えられて然るべきおもちゃの類を、ほとんど持っていないと言った。
お母さんが買ってやらないというのではない。柳子が自ら拒絶していたのだ。当然のことだった。私と同じく、物心ついた時から人の心を読める柳子が、お母さんの苦労を誰よりも理解し得るあの子が、お母さんに無理なおねだりなんて、できるはずがないんだ。
私と柳子が先生にそれを話したのか、あるいは、どこかで先生が小耳に挟んだのかは定かじゃないけど、
とにかく、このお屋敷にある日突然おもちゃを満載したトラックがやって来て、私達の寝室として与えられていたこの部屋を、夢のようなおもちゃの国に変えてしまったのだった。
その時の情景と嬉しさは、こうして眼を閉じると今もはっきりと思い出せる。
私と柳子は手を取り合って喜び、部屋中をはしゃいで駆け廻った。
その日は二人共終日テンションMAXで、ESPカードによる読心術の訓練にも身が入らず、先生の手による深層催眠も全く効かず、あげくの果てに、夜になると揃って熱まで出してしまった。
そんな風に、研究を遅らせてまで先生が私達姉妹に良くしてくれた理由は、先生のごく個人的な思いによるもののようだった。
先生は、遠い土地に奥さんと小さな子供が居たのだけど、その家族達とは絶縁状態になっていて、もう何年も逢っていなかったのだった。
先生に取って、私達親子三人の面倒を見て、甲斐甲斐しく尽くすことは、自分の家族にしてやれなかったことの代償、ある意味、罪滅ぼしみたいなものでもあったのだ。
私はそれを、先生の心の中から読み取って知っていた。そして一度、訊ねてみたこともあった。
先生は、心の中でそんなにも愛しく思っている自分の子供に、なぜ逢ってやらないのか、と。
先生は私の頭に手を置いて、寂しそうに笑って答えた。
「私はね、もうあの子に逢う資格がないんだ。裏切ってしまったからね……あの子と、あの子の母親を」
そう語った先生の心象風景は複雑で、そこにある感情は、幼い私の理解し難いものだった。
そして、他人である私が、あんまり深く踏み込んではいけない領域のような気もした。だから私は、それ以上先生の家族について問い質したりするのはやめた。
その代わり、私は先生の研究に、それまで以上に熱心に協力するよう努めた。
心に寂しさを秘めて、私達に良くしてくれる先生のために、私ができることはそれだけだと思ったからだ。
柳子も私と同じ気持ちだった。あの研究の期間、私と柳子はそれぞれの見聞する知識はもちろんのこと、その感情までをも共有していたから、それは当然のことだった。
私と柳子は、このお屋敷の中ではずっと一心同体だった。
まれに別々の場所に引き離されることがあっても、私には柳子が、柳子には私が、その時どこで何をしているのか、手に取るように理解することができていた。
それは夏が終わり、私と柳子が、それぞれの家に帰って行った後になっても変わりはなかった。
――柳子……いま、なにしてるの?
田舎の家に戻り、夜になって床に就いてから、私は心で柳子に呼びかけた。
私の家と、柳子とお母さんの東京のアパートは、途方もない距離でもって隔てられていたけれど、私と柳子に取って、その程度の隔たりは問題ではなかった。
先生の下で生まれ持ったちからを強化させ、その操り方や、制御の仕方さえも学んでいた、私達に取っては――。
――郁子? あのねえ、いまねえ、テレビみてるよ。
――郁子はなにしてんの?
――わたしはねえ、もうねるところ。おふとんにねてるよ。テレビ、なにやってるの?
――うんとねえ、いつみさんのショーバイ・ショーバイ。
――いいなあ。こっちいなかだからやってないよ、それ。
――じゃあ、いっしょにみよ。わたしのめでみれるでしょ?
普通、幻視のちからは距離を置き過ぎると通じなくなってしまうものだったけど、私と柳子二人の間だけに限っては、その限りではないようだった。
それなりの集中力は必要とするものの、お互いが協力して波長を一致させさえすれば、それぞれが見ている視界、聞いている音などを、難なく送受信させることができた。
眠りに就けば、夢の中で実際に逢うこともできた。
まだ、離れて間もないお屋敷の中。おもちゃでいっぱいのお部屋の中で、私と柳子は仲良く、そして楽しく遊んだ。
夢の中で、私は柳子にこう言った。
「ねえ、わたしたち、いつもこうやっていっしょにあそぼうね」
「ゆめだけじゃなくて、いつかまた、ほんとうにおやしきにいこうね。ふたりでいっしょに」
だけど私は、自らの意思で交わしたこの約束を、自ら破ってしまった。忘れてしまったのだ。
あの後――お屋敷から戻って間もなく、お祖母ちゃんが体調を崩して入院したため、私は三途から少し離れた町に居る、親類の家に預けられることになった。
小学校も、その町の学校へ行くことになった。
知らない町、知らない子ばかりが居る学校、そして、それまでほとんど面識のなかった、よそよそしい親戚の人達。
新しい環境に馴染むため、私は必死に戦った。そう。まさしくあれは、戦い以外の何ものでもなかった。
私の出生の事情に対して、まだいくらかでも同情的だったお祖母ちゃんとは違い、新しい家の人達は、私に対する好奇と侮蔑の視線をあからさまにして、隠そうとさえしていなかったからだ。
特に、もうすっかり大きくなって、私のお母さんと変わらない年頃になっていた息子達ときたら――まだほんの子どもである私に対し、考えられないような卑猥な妄想をぶつけてきたり、時として、私のお母さんのことを、直接口に出して揶揄してくることさえあった。
そんな彼らに対抗するために、私は言葉の鎧を着なければならなかった。
「ふん、何さ! 私が厄介者なら、あんたはスネカジリじゃないの! いったい何年浪人すれば気が済むんだよ!」
「結局、あんたは十四歳で初体験済ませたお母さんが羨ましくて、ひがんでるだけなんでしょ? 童貞丸出しで恥ずかしいよ? そういう思考」
気が強くて口の悪い跳ねっ返り。
そんな私のキャラクターは、きっとあの時代に作られたものだ。
さらに、私の戦いは家だけでは終わらなかった。
いいや、むしろ家の外――学校の方が――家で受けるような、もろもろの悪意の波動や言葉による暴力に加え、物理的な暴力までが加わる分、厄介だった。
今にして思うと、私の方にも確かに非はあったのかも知れない。
彼らの放つ悪意をまともに相手にし続けた結果、彼らの心を常に把握していないと不安になり、やたらに心を読んだあげくに、彼らの、心の中の独白と口に出して喋ったことの区別がつかなくなってしまい、
心の中の言葉に対して言い返したりしてしまったりして、そんなことじゃあ、気味悪がられるのも仕方がない。
それに加えて、この胸の痣。
化け物。化け物。化け物。
家が変わっても、学校が変わっても、私につきまとって離れなかったこの呼び名。
地縁血縁、みんながみんな親類縁者のような片田舎。どこへ行ったって、どこからか噂は潜り込んで、私の周囲に蔓延してしまう。
そんな、沼の底の澱のように、陰鬱に湿った悪意との戦いの中、私は中学生になり、高校生になり、そしていつの間にやら、しがない高卒のフリーターとなっていた。
このお屋敷のことも、お屋敷で柳子と過ごした日々のことも、全て忘れ去って――。
「だけど……どうして?」
このお屋敷の記憶をほとんど回復した今、私の心には、ある疑問が湧いていた。
それは――。
A柳子のことについてだ。
柳子はお母さんと一緒に東京に帰った後も、私の心にたびたび働きかけてくれた。
私とは違い、柳子は小学校にあがってからも周囲と上手く折り合っていて、私のような悲惨なイジメに逢っている様子はなかった。
――郁子、あのね、今日学校の友達とね……。
――それで、その子がオーディションを受けたいってお母さんに言ったら……。
――でも田中君は三組の女子の方が好きだから……。
柳子はいつも、学校であったことを楽しそうに私に話した。
もちろん、波長が合えば感情すらも共有できる私達のこと、柳子にだって、私の置かれている過酷な状況が判らなかったはずはないと思う。
なのに柳子は、私を気遣う素振りなど見せず、自分のことだけ一方的に喋り続けた。
今にして思えば、柳子は柳子で大変だったに違いない。
他人のことに比較的無関心な都会の暮らしとはいえ、お母さんの異様な若さは周囲の眼を引いていたに違いないし、きっと色々と噂もされたことだろう。
それに、お屋敷に居た頃は気にかけたことすらなかったけれど、当時、お母さん一人だけの稼ぎが頼りであった柳子の家は、常に極度の貧困状態だったのだ。
子供というのは残酷だから、みすぼらしい身なりをしていたりして、ちょっとでも悪目立ちのする異分子が自分達の輪の中に居れば、すぐ馬鹿にして囃し立てる。
そんな中、イジメのターゲットにならないために、柳子はどれほど神経をすり減らしながら生活していたことだろう。
柳子に取っては、私だけが心を許して何でも話すことのできる、本当の「心の友」だったに違いない。
でも哀しいかな、まだ精神の幼かった私には、そんな柳子の事情を鑑みるゆとりなんてなかったのだ。
柳子の、若干ヒステリックなまでのお喋りの異常さにも気づかず、柳子の心が私から離れてしまったのだと、自分の友達の自慢話ばかりする嫌な子に変わってしまったのだと、勝手な被害妄想に陥ってしまった。
でも実際、変わってしまったのは、私の方だったんだ。
柳子の“自慢話”を聞かされるのが嫌になった私は、柳子の呼びかけを段々と無視するようになっていた。
――郁子、もう寝てるの?
――ううん、まだ意識があるよね? 聞こえてるんでしょ?
――ねえ郁子、どうしてお返事してくれないの?
――郁子……。
柳子の哀しげな声は、日に日に小さく遠くなり、チューニングのずれたラジオみたいな酷い雑音が混じるようになっていった。
私が心を閉ざしたせいだった……多分。
そして、ある晩を境に、柳子の声は全く聞こえなくなってしまった。
私の方から呼びかけようとしても駄目だった。遠く離れた東京に居る柳子の意識を、私はすでに、自力で捕捉することができなくなっていた。当然、二人で同じ夢を見ることなど、もはや不可能なことだった。
こうして、私と柳子の心の絆は途絶えてしまったのだった。
それから十年余りの間、私は柳子との思い出を、記憶の奥底に封印したまま、忘れ去っていた。
柳子のことは、「生き別れになっている双子の片割れ」として、時おり名前や存在を思い出すだけだった。本当に、自分でも呆れるくらい、綺麗さっぱり忘れ去っていた。柳子の感触――あの子の意識の感触、匂い、そういったもの全部を。
そして――長い年月を経て柳子のことを明白に思い出した今、私には、とても気になることが一つあった。
それは、あの闇の中の女のこと。
東京で初めての“発作”に見舞われた後、私の心に現れたあの女。
守への恋慕に悶え苦しむ私を、哂って蔑んだあの女。
そして多分……数時間前の山道で、初めて実体を現した、あの女。
あの女の意識や思考が読み取れたことは、今まで一度たりともない。
けれど……どこかしら似ている気がするのだ。意識の持つ雰囲気。その感触や、匂いのようなもの。
もしやあれは……柳子では?
「柳子……」
私はタンスの上に人形を戻した。
眼を閉じて、意識のアンテナを広げて周囲の気配を受信しにかかる。
あの裸の女が柳子であるにしろ違うにしろ、このお屋敷に居る限りは、その意識を捕捉できるはずだ――私の、“幻視”のちからで。
思えばもっと早い段階――そう、最初にこのお屋敷にたどり着いた時点で、私はこれをするべきだったのかも知れない。
それができなかったのは、守がそばに居たからだ。
守に対しては、失われたということにしている、私のおかしなちから。守の居る前で、こんな風に眼を閉じて集中して見せる訳にはいかなかったのだ。
それに、私自身の心の中に潜む、妙なわだかまりもあった。
闇の化け物と同じ不吉なちから――それを使う度に、私はより化け物に近づいてしまいそうで、不安な気持ちになる。もっとも、あるいはそれも、あの女が私に刷り込んでいた“暗示”だったのかも判らないけど……。
広げた意識のアンテナは、すぐに、近い場所に居る誰かの意識をキャッチした。
その視界の持ち主は、玄関ホールに居た。玄関ホールとこっちのフロアを繋ぐ、あの水槽脇の扉をじっと眺めている。
これは……守? でも何かがおかしい。
そのまま視ていると、その視界の主は、手に持った長くて幅広の――大きな剣で、水槽脇の扉を叩き壊し始めた。銀色の籠手に包まれたその腕……。
これは……あのヨロイじゃないの!
ヨロイはあっという間に扉をぶち破り、廊下を突き進んで……この部屋を目指していた!
こいつ……私の視界を視て、私の居場所を把握してる?
「あああ……どうしよう……!」
焦りまくった私は、部屋中を見廻し――重たそうなカーテンで仕切られた奥の間へ、身を隠すことにした。最初に、二体の等身大少女人形とご対面したあの部屋だ。
カーテンをめくり、明かりのない真っ暗闇の中に飛び込むと、そこには二つの小さな天蓋つきお姫様ベッドが置いてある。私と柳子のために先生が用意してくれたベッドだけど、今は懐かしんでいる暇もない。
「ここがあの部屋だとしたら……ここいら辺りに、確か扉が……」
べたべたと壁に手をつき、目当ての扉を発見する。それとほぼ同時に、ヨロイが手前の部屋に侵入して来る気配がした。私は、眼の前の扉を開けて廊下に出た。
廊下に出ると、すぐ左側に玄関ホールへの扉が見えた。ヨロイに叩き壊された扉は、上の蝶番だけでぶらんと垂れさがっている状態になっている。私はそこから玄関ホールに戻る。
玄関ホールに、守の姿はなかった。どこに消えてしまったのだろう?
まさか……あのヨロイに?
不吉な想像が胸を重くしたけど、私はすぐにそれを打ち消す。ううん、きっとそうではない。この近くで守がヨロイに襲われたなら、私がそれに気がつかないはずない。
「どこか違う場所に行ったのよ……それで、ヨロイとは行き違いになった……」
私は独り呟き、ヨロイの気配を探ってみた。
ヨロイはまださっきの部屋に居て、私のことを捜しあぐねている様子だった。
今の内に――と、今度は守の気配を捜してみる。
守の気配は、にわかには見つけることができなかった。あいつ、余程離れた場所に行ってしまったのだろうか? お屋敷の外とかに? まさかね。
意識を巡らせているさなか、唐突に、真っ暗で動きのない視界を発見した。
だいぶ離れた位置に居るらしく、若干不明瞭な感じの視界だった。守のものではなさそうな感じのこの視界……ひょっとすると、これがあの女の?
私がその視界に意識を集中させようとした時、おもちゃの部屋を諦めたヨロイが、廊下に出てこちらに向かって来るのを感じた。
私はそそくさとその場を離れ、ホールの右階段の脇にある廊下に入って行った。書斎の前を通り過ぎ、そのまま真っ直ぐに進んで行くと、廊下は間もなく行き止まりになってしまった。
……いや、違う。
ここは行き止まりなんかじゃなかったはず。十四年前、柳子と二人、お屋敷中を駆け廻って鬼ごっこや隠れんぼをした時の記憶を思い返す。この、一見柱にしか見えない、彫刻の施された木の板は、本当は扉だったはずだ――。
木の板を少し強めに押すと、呆気ないまでに軽い手応えと共に、奥に向かってそれは開いた。隠された扉の向こう側に、私はそっと滑り込んだ。
その部屋は、がらんとだだっ広く寂しげで、蒼白い光に包まれていた。
光の源は、部屋の一面を覆うガラスの壁の外から射し込む、月の明かりだった。
いつの間にやら、雨はあがっていたんだ。
綺麗な満月だった。ガラスに向かい、私はぼんやりとお月様を見あげた。
部屋の中央に眼を移せば、古ぼけた黒いグランドピアノが、月の光を浴びて鈍く輝いていた。
ここはピアノホール。私と柳子が、このお屋敷で一番好きだった場所。横に長いピアノの椅子に腰かける。あの頃、こうしてここに柳子と並んで座り、二人でピアノをおもちゃにして遊んだんだ。
――柳子……あんた今、どこに居るの?
心の中で呟いて、私は鍵盤の蓋に手をかけた。鍵はかかっていない。蓋は、音もなく開いて白い鍵盤を晒した。
開いた鍵盤の片隅に、仄白い小さな布が、塊となってたぐまっているのが見えた。
何だろう? 布の塊を手に取って広げる。
それは、簡素な形のスリップドレスのようだった。
薄いシースルーの生地で作られているので、下に何か着ないと透け透けになってしまうに違いない。こんなものが、どうしてここに?
「あの女も……せめてこれぐらいは着ればいいのに。真っ裸なんて、あまりに露骨過ぎるじゃん」
もっともこんなのを着たら着たで、やらしさはかえって倍増してしまうのかも知れないけど。でも多分、守の奴なら大喜びするに違いない。
……守。
そうだ、守は今、どこに居るんだろう?
もう一度、意識を巡らせ彼の気配を捜してみた。
今度は、思いがけないくらいにあっさりと見つかった。どこかの暗い廊下を真っ直ぐに歩き、扉を開けて、玄関ホールに入っている。彼の視界は、ずっと離れた真正面に、ヨロイに壊された水槽脇の扉を捉えていた。守、こっちに向かって来てる――。
私は椅子から立ちあがり、ピアノホールの出口に向かう。
このピアノホールには、私が入って来た隠し扉の他に、二つの扉があった。一つは水槽脇の扉から続く廊下へと繋がり、もう一つは、このピアノホールと隣接した、応接室へと繋がっていたはずだ。
私は――廊下に繋がっている方の扉を目指した。特に意味はない。こっちの扉の方が間近にあったというだけのことだ。
扉を開けると、長い廊下がずっと一直線に続いていた。あまりにも長いので、先の方は闇に沈んで見通せないほど。
その闇の中から、硬い足音が近づいて来る。
ブリキのロボットみたいに無骨な響き。あの、ヨロイの具足が立てている音。
「やば……」
私はピアノホールに逆戻りした。逃げなくちゃ。さっきの隠し扉に向かって――。
いや待って。そういえばさっき、守は玄関ホールからこっちのフロアに向かって来ていたはず。だとしたら――同じ廊下を歩いているヨロイと遭遇してしまう確率は高い。放っといたら、危ないんじゃないの?
「わ、わ、わ、どうしよ、どうしよ?」
私はピアノホールの中をあたふたしながらうろつき廻った挙句、やっぱ一刻も早く守と合流しなければと思い立ち、応接間への扉を開いた。
開けた途端、応接間の廊下側の扉から侵入して来たヨロイと鉢合わせてしまった。
「きゃああああーっ!」
驚きのあまり、私は悲鳴をあげて床にへたり込んだ。
またピアノホールにUターンして逃げれば済む話なんだけど、それができない。情けないことに、腰を抜かしてしまったのだ。
ぎゃあぎゃあ喚いて怯えるばかりの私に向かい、ゆっくりと落ち着き払った足取りで、ヨロイが迫って来る――。
「こいつ!」
懐かしい声と共に、ヨロイはよろめき、やかましい音を立てて前のめりに倒れ込んだ。
顔をあげれば、そこには守が立っている。私の悲鳴を聞きつけて、この応接間まで飛んで助けに来てくれた、勇敢な雄々しいその姿――。
守はすぐさまヨロイを押さえ込もうとしたけれど、ヨロイの動きは素早かった。あっという間に起きあがり、剣を振り廻して守に襲いかかって圧倒する。見る見る内に、守はぼろぼろの傷だらけにされてしまう。
守はどこで見つけたのか、シャワーを浴びるまで私が隠し持っていたはずのナイフを再び入手していて、それでなんとか対抗しようとしていたけれど、ヨロイの勢いには為す術もない。
こいつ……本気で守を殺す気なんだ!
容赦のないヨロイの攻勢に、守はとうとう床に倒されてしまった。
いけない! このままじゃ……!
私は硬く眼を閉じ、胸の前で手を組んだ。
こうなったら……一か八かの賭けに出るしかない。私はヨロイの意識を捉え、そこに、私の“意思”をぶつけた――。
一瞬のめまいを乗り越え、私の意識は、ヨロイの中に飛んでいた。
今の私の視界には、床に倒れ、両腕で自分の身を庇っている守の姿がいっぱいに映っている。
――やった。成功だ。
一年前。夜見島へ向かう漁船が大波で転覆し、私は海中に放り出された。
赤い海を揺蕩っていた私は、海の底に潜んでいた、得体の知れない化け物に襲われ、取り込まれそうになった。
私は死の恐怖におののきながらも、何とかして窮地を逃れようとして、化け物に向かい、今みたいに自分の“意思”を――“ちから”を放った。
それが私の新しいちから――のちに守が、“感応視”と呼んだ能力の、初めての発露だった。
感応視――それをするにはまず、目標とする相手の意識を“幻視”で捉えなければならない。
それから、幻視で自分のもののように把握される相手の意識に、自分の“意思”を送り込むのだ。上手く行けば、相手の意識は私と完全に同調し、意のままに動かせるようになる。
今、ヨロイに対してそうしているように……。
ヨロイの意識を乗っ取った私は、そのままヨロイを応接間の外に誘導した。廊下をひたすら歩かせて、この場所から引き離すのだ。ずっと、ずっと遠くまで。
「……まだよ……もう少し……あいつを引き離してから……」
守が、クエスチョンマークでいっぱいの思考を私に向けているのを感じたので、私は眼を閉じたままで返事をしておいた。
やがて、ヨロイの気配はすっかり遠退き、私の集中力にも限界が来た。
「はあ、はっ、ち、ちょっと、限界、かも」
床に手をつき、私は大きく息を吐いた。ちょっとした距離を走り抜いたような疲れが、全身を重たくしていた。
夜見島事件以来、実に一年ぶりに使った“感応視”は、やっぱり骨身に応えた。辛うじて成功したから良かったけれど、今度また同じことをやれと言われても、できる自信がない。
やっぱり私のちからはもう、夜見島に居た時ほどには強くない。
そんなことを考えながら顔をあげると、守と眼が合った。
その眼には、小さな怯えが見て取れる。一年前、私が初めて自分のちからを明かした時と、同じように。
「郁子……君は」
蒼ざめた彼は、かすれた声で、それだけを言ったのだった。
【つづく】