とにもかくにも、命拾いをしたことにほっと胸を撫でおろした守は、ヨロイが戻って来た場合に備えるつもりなのか、廊下側の入口に鍵をかけた上に、応接間の椅子やらテーブルやらで扉を塞いでバリケードを築き始めた。  
「これで暫くは持ち堪えるだろう」  
作業を終えると振り返り、ソファーに座ってぼんやりしていた私の顔を見ながら、その場にどっかりとあぐらを掻いた。  
「……」  
「……」  
気まずい沈黙が続く。  
お互い、言いたいこと、聞きたいことはたくさんあるはずなのに、いざとなると言葉が出てこない。  
無意味に時間だけが過ぎてゆく――。  
 
「……あのさ」  
先に口を利いたのは、私の方だった。  
「私……そっちに行ってもいい?」  
「え?」  
守が怪訝そうに聞き返す。私は、守から微妙に目線を外して言葉を続けた。  
「なんか、いっぱい怪我しちゃってるじゃん? 手当てとか、した方がいいのかなぁって……嫌だったら無理にとは言わないけど」  
守は、ヨロイから受けた傷でボロ雑巾みたいな見た目になっていた。痛々しくて……可哀想で、ちょっと黙って見ていられなかったのだ。  
 
けれど……守は何も返事をしてくれなかった。  
息が詰まるようなよそよそしい、困惑しきった感情だけが、悪い空気のように彼の胸から漂い出ていた。  
ああ、やっぱり……。守の拒絶に耐え切れなくなった私は、躰をねじって守に背を向けた。  
そしてポケットを探り、ハンカチと小さなポーチを出した。  
「これ、よかったら使って。絆創膏とか、中に入ってるから……」  
私は後ろを向いたまま身を屈め、絨毯の上、ハンカチとポーチを守の方に滑らせた。  
「郁子……」  
守は立ちあがり、私の方に寄って来る。隣に座り、私の顔を覗き込もうとした。  
「やめてよ!」  
私はソファーから立ちあがって、バリケードの前まで逃げて叫んだ。  
 
「……何で、私を助けたの?」  
バリケードに向かって、私は呟いた。  
「だって守、私のこと疑ってんでしょう? さっきホールで私の腕掴んだ時……守の心、私への不信感でいっぱいだったよ」  
振り向きざまに、大きな声でそう言った。もう、違うのに。ほんとは私、こんなことを言いたいんじゃない。話さなきゃならないことはたくさんあるんだ。  
このお屋敷のこと、柳子のこと、それに――今までずっと隠し続けてきた、私の本当のことも――。  
 
思いとは裏腹な言葉を吐く私に、守はいやに視線を浴びせつつ、いやに冷静な口調で、こう言った。  
「郁子……おれの心を読んだのか」  
 
しまった――とっさに口を押さえたけれど、もう遅い。思いがけず、私は私の「本当のこと」の一端を、守にばらしてしまっていた。  
「そうよ」  
こうなったら仕方がない。私は自虐的な笑い顔を浮かべて頷いた。  
「そう私……守の心を読んだの」  
みっともなく声が震えてしまう。  
震える声で、私は告白した。私が、自分のちからを失ってなんていなかったこと。  
夜見島に行くまでは不安定だったちからのコントロールも、夜見島で要領を覚えたおかげで、今はずっと上手くできるようになっていること。  
そして――この一年の間、守の心だって、私は読み続けていたのだということも……。  
 
私の告白を聞いた後、守の心は、黒い雨雲が垂れ込めたような状態になっていた。  
 
(読まれているのか?)(こんな感情も)  
 
うん、ごめん。また読んじゃった。私の意識のアンテナ、さっきからやけに感度がいい。最初お屋敷に来た時の、麻痺して役に立たなくなったような感じが嘘みたいに……。  
「じゃあ郁子……郁子は今日、おれが君をドライブに誘った理由も、全部承知で着いて来た……ってこと?」  
守は、出し抜けに変な処を突っ込んで来た。な、何なのいきなり。そんなこと、急に訊かれても……。  
 
守は暫く私の様子を見守った後、ソファーから身を乗り出して、私に呼びかけた。  
「なあ郁子。こっちに来なよ。少し落ち着いて話をしよう。おれ、君に訊きたいことがあるんだ」  
「……訊きたいことって、何?」  
バリケードの方を向いたまま、私は答えた。  
 
守はいったん腰をあげてこちらへ来そうな素振りを見せたけど、思い直したのか、ソファーに腰を据え直して、私に言った。  
「郁子はさ……この屋敷に来るの、初めてじゃないんじゃないか?」  
「どういうこと?」  
わたしはちらっとだけ振り向いた。ソファーの肘掛けにもたれ、守は続けた。  
「おれさ、お前に逃げられた後、屋敷の外にテラスを見つけたんだ」  
「テラス?」  
「ああ、デッキチェアーが並んでて、藤棚があった。そこの藤棚でな、見つけたんだよ。失くしたはずのおれのナイフと……藤棚の支柱に刻み込まれた、小さな子供のたけくらべの跡。  
そこには名前も彫ってあったんだ。「イクコ」って名前と……それから、「リュウコ」って名前が……」  
 
「守それ……本当なの?」  
私は守を振り返り、深刻な口調で問い質した。私の勢いに圧倒されたのか、守は肩をすくめておずおずと頷いた。  
「私もそれ見たい! ねえ、テラスって、どこにあるの?」  
「落ち着けよ。今は止めた方がいい。またあのヨロイと鉢合わせでもしたら、どうするんだ?」  
「いいから教えてよ! テラスって……あ、もしかしたら」  
私には心当たりがあった。藤棚のあるテラス……あそこへは確か、ああ行って、ああ行けば……。  
こうしちゃいられない。  
柳子との思い出。たけくらべの跡。そうだ、だんだんと思い出してきた。私はあそこに行かなくちゃ。あそこに行って、あれを、取り戻すの――。  
 
私は、守が腰かけているソファーの脇をすり抜け、ピアノホール側の扉に向かった。  
「待てったら!」  
守が行く手を阻もうと腕を伸ばしたけど、私はそれを振り払った。  
やっぱりこれは、私の問題なんだ。守はただ巻き込まれただけ。これ以上迷惑をかけたくない。守を――これ以上危険な目に、遭わせたくない……。  
「いいから! 守はここに居て! 私……私達をこんな目に合わせた犯人、判ったかも知れない!」  
それだけを言い残すと、私は勢いよく扉を開けて応接間を出た。  
 
ピアノホールに入って、隠し扉の方から廊下に出た時、不意に、眼の前がすうっと暗くなった。貧血を起こしたようなこの感覚――まさか、例の“発作”? こんな時に? めまいと共に膝をついた。  
けれどもこれは、いつもの“発作”とはちょっと様子が違っていた。あの“発作”にはつきものである、意識のぶれる感覚がないのだ。  
その代わりに、やたらと躰が重たく感じる。  
ああ……沈む……私の意識が……何かに押されて……。  
 
 
茜空に、山へ帰るカラスの声が響いていた。  
涼しい風が、木組みのテラスを吹き抜ける。  
夏の終わり、そして、秋の訪れを感じさせる爽やかな夕暮れ。私は藤の葉陰に立ち、藤棚の支柱の前でぴんと背筋を伸ばす柳子と、柳子の頭に物差しを宛がって背丈を測るお母さんの姿を見つめていた。  
 
「ほらね、やっぱりあんたも伸びてるよ」  
お母さんは、柳子の背丈の位置を物差しで指し示した。その高さは、さっき測った私の背丈と、全く同じだった。  
「あーあ。ぜったいわたしのほうがのびてるとおもったのになあ」  
腕組みをしてそう言うと、お母さんと柳子は柔らかく笑った。  
 
「じゃあお母さん、厨房の方を手伝って来るからね。あんたたちは、ここで仲良く遊んでなさいね」  
藤棚の支柱に、柳子の背丈を釘で刻んだ後、お母さんはテラスから去って行った。  
柳子と私は藤棚の下、その背中を黙って見送った。  
お母さんの姿が見えなくなると、私達はどちらからともなく顔を見合わせた。  
柳子は、寂しさと悲しさ、そして、諦めの入り混じった、複雑な感情をその顔に表していた。  
おそらくは、私も同じような顔をしていたことと思う。  
 
ここへ来てもうすぐ三ヶ月。お屋敷との、別れの時が迫っていた。  
お屋敷との別れ――それはすなわち、私と柳子との別れも意味していた。私達は、無言のままおでことおでこをくっつけた。心さえも共有しているような私達。もう、言葉なんかはなくったって、こうするだけで話ができた。  
 
――郁子、あれは?  
 
おでこを通じて、柳子は私に呼びかけた。脳裏に浮かぶ、黒い扉のイメージ。  
それは、先生から決して近づいてはならないと言い含められていた、「開かずの間」の映像だった。  
『屋敷のどの部屋でも自由に入って構わないが、二階の奥の黒い扉の部屋にだけは、入っちゃ駄目だよ。あそこは実験室なんだ。危ない薬品なんかもあるからね』  
先生の言いつけを、私達はずっと守って過ごしてきた。先生が本気で私達を心配してそういったのであろうことも、理解できたからだ。  
 
だけど私達は、この三ヶ月に渡るちからの訓練の結果、先生の予想を上廻るほどのちからをつけていた。もう、つき過ぎているくらいだった。  
私達は、先生もあずかり知らぬうちに、先生の、理性的な言いつけの裏側にある、心の深い部分にまで足を踏み入れ、そこにあるものを読み取ってしまっていたのだ。  
先生の心の深い場所には、あの「開かずの間」の真実が隠されていた。見えたのだ。彼が「開かずの間」について語る時、黒い扉や、中にあると思しき実験室の無機的なイメージと被さって必ず現れる、謎の光景。  
それは――真っ赤な花に覆われて、赤い空気に包まれた、不思議な楽園の風景だった。  
 
その楽園が何であるのか、先生の心からは読み取ることができなかった。  
ただ、その風景が現れるたびに、先生の心には、無意識的な畏怖の念と、さらには、当時の私達には到底理解のできなかったもの――妖しい、官能的な気分との綯い交ぜになった感情が、ぼんやりと浮かんで見えたのだった。  
その、未知なる妖しげな感情は、赤い楽園の美しさとも相まって、私達の胸をざわめかせた。私達は、その楽園をこの眼で見たいと願うようになった。  
 
計画は、秘密裏に進めなければならなかった。先生にも、お母さんにもばれないよう、慎重に。私達は急がなかった。気を長くもって機会を窺い続けていた。どうせ、必ずしも達成しなきゃならない目標ってこともなし。  
単調な山の暮らしの中の、ほんの退屈しのぎのようなものだったから。  
 
だけど、その期日がもうすぐそこにまで迫っているとなれば、さすがの私達もそう悠長に構えてはいられなくなった。  
ここに居る間に目的を果たさなければ、今度はいつここに来られるのか判らないのだ。それに、こんな風に何かの目的に思いを巡らせていることは、やがて訪れる別れから気を逸らしてくれるので、私達に取って都合が良かった。  
 
ここ数日の間、私と柳子は、いつものようにお屋敷中を駆け廻って遊んでいる振りを装い、お屋敷のあちらこちらを調べて廻っていた。お屋敷で働く使用人達の意識にも探りを入れた。  
そして、ついに私達は見つけていたのだった。あの「開かずの間」を封じている鍵の所在を。  
でも、鍵の在りかを見つけたからといって、即座に行動を開始する訳にもいかなかった。鍵は、先生自身が上着の内ポケットに入れて、いつも持ち歩いていたのだ。私達にはどうにも手の出しようがなかった。  
 
――郁子、どうすればいいとおもう?  
 
弱々しく私に問いかける柳子に対し、私は自信満々だった。  
――だいじょうぶだよ、柳子。ちゃんとてはあるんだから。  
実際、私には考えがあった。  
鍵の持ち主である先生は、毎日毎日計ったようにきっちりと同じスケジュールで行動していた。  
朝六時に起きて、朝食を取り午前中は私達と研究。お昼を食べた後、私達のお昼寝の間に事務仕事を片づけて、午後二時から夕方の四時ぐらいまでまた研究。  
その後、六時の夕飯まではテラスに出て夕涼みをしたり、ピアノホールにピアノを弾きに行ったりして自由に過ごす。  
夕飯が済むとすぐ二階の「開かずの間」に篭り、おそらくはその日の研究の成果をまとめたり、他の研究なんかもして、日が変わるぐらいの時間になってからやっと下へおりて来て、入浴。就寝。  
 
このスケジュールの中で、先生の躰から鍵が離れるのは、お風呂の時と寝ている間だけだろう。  
 
――それじゃあ、そのどっちかのときにかぎをぬすむの?  
 
柳子の心の問いかけに、私は小さく頷いた。  
私の考えはこうだった――今夜、私達は夜なべして、お母さんが眠った後、なおかつ先生が入浴をしにおりて来る前を見計らって浴室に向かう。  
どちらか一方が脱衣場の洗面台の下の物入れに身を潜め、先生が来て服を脱ぐのを待つ。先生がシャワーを浴び始めたら、上着の内ポケットから鍵を取り出して浴室の外に脱出し、二人合流して、そのまま「開かずの間」へ直行する――。  
 
まあ、五歳児の思いついた計画としちゃあ、まあまあの線だったんじゃないだろうか?  
そうとなったら、すぐに行動を開始しなければならない。  
私達はテラスからお屋敷内に戻り、浴室の洗面台下の物入れに仕舞ってある洗剤のストックなどを、こっそりと隣のランドリールームに移動させた。中に隠れる余地を作らなくてはいけないからだ。  
中を空にした物入れには、私達のちっちゃい躰がぎりぎり入る程度の広さはあるようだった。  
 
――でも、どっちがここにかくれるの?  
 
どっちでもおなじようなものだったけど、ここは、発案者である私が入ることにしておいた。  
同じ躰と同じ心を持っているとはいえ、育ちの違いからか、私と柳子にはちょっとしたキャラクターの違いがあった。やんちゃで聞かん気な私に比べると、柳子はちょっとだけ女の子らしくておしとやかだったのだ。  
 
そして、私達は夜を待った。  
隣の部屋で寝ているお母さんの意識が完全に眠りに落ちているのを“幻視”で確認し、私達は部屋を抜け出した。  
私は浴室の洗面台下に隠れ、柳子は――夜のランドリールームは怖いので、浴室から廊下を挟んだ向かい側にある、バーカウンターやビリヤード台などの置いてある部屋に隠れていることにした。そこは、テラスと繋がっている部屋でもあった。  
 
それぞれの場所に身を潜め、どきどきわくわくしながら待っていると、間もなく先生がやって来た。  
服を脱ぎ、浴室に入ってシャワーの音が響き出すのを待ってから、私は物入れの中からそっと抜け出し、脱衣籠の中にきちんと折り畳まれた上着を探って、目当てのものを見つけ出した。  
――やったあ!  
でもまだまだ油断はできない。先生の様子を霞みガラス越しに伺いながら、私は注意深く身を屈めて浴室の出口の扉を開け、音をさせないようにそれを閉めなければならないのだ。  
なんとかその条件も達成すると、すでに幻視で成り行きを知っていた柳子が、隠れていた部屋の扉を開けて待っていた。私は柳子の元へと突っ走り、彼女と共に部屋に入って扉を閉めた。  
 
私達は歓声をあげ、手を取り合って跳ね廻った。  
部屋は、壁が分厚く音を通さないから、ちょっとぐらい騒いだって外に漏れる心配はなかった。  
でも、だからといって、いつまでもはしゃいでいたって仕方がない。  
「ぼやぼやしてられないよ、はやくうえにいこう」  
「うん」  
私の言葉に柳子は頷き、私達は、手に手を取って廊下へ戻ろうとした。  
 
突然、屋敷中にけたたましい警報が鳴り始めたのは、まさにその時だった。  
私達二人は口から心臓が飛び出し、腰を抜かしておしっこを勢い良く噴射しそうになるほど驚いて、部屋に逆戻りした。  
「い、郁子、どうしよう? これ、わたしたちのせいなの?」  
「わ、わかんないよぉ、そんなの」  
慌てふためく私達は、何の考えもなしにテラスへ逃げ込んだ。  
 
その後に私がしたことは、私自身にもよく判らない、理解のし難いことだった。  
今考えるに、鍵を盗んだことがばれないようにしなければならない、という保身の気持ち、そして、せっかく手に入れた鍵を手放したくないという、欲の気持ちがそうさせたのだということなんだろうか?  
とにかく私は、今すぐテラスに鍵を隠さねばならないと考えたのだった。  
月明かりの下、夕刻たけくらべをした藤棚の支柱の根元、床板の隙間に鍵をねじ込み、その上から、ちぎった藤の葉っぱもねじ入れた。  
それから、私のしていることをぼんやりと眺めていた柳子と共に、テラスの片隅でしゃがみ込んで震えていた。暫く後になってから、お母さんが見つけに来てくれるまで――。  
 
後から聞いた話によると、警報の出処は「開かずの間」であったということだった。  
なんでも、火を扱う実験をしていたとかで、開かずの間に熱が篭り、火災報知器が反応してしまったらしいのだ。  
神秘的な赤い楽園を擁していたはずの「開かずの間」に、火災報知器なんかが設置されていたという事実は、私と柳子を驚かせ、そして、妙に白けさせてしまった。  
「開かずの間」なんてもったいぶった呼び方をしたって、所詮はただのお屋敷の一室に過ぎないのだということを、思い知らされてしまったのだ。  
 
私達は二人共、「開かずの間」に対する興味をにわかに失い、意識の隅っこに追いやってしまった。  
先生が、「開かずの間」の鍵を失くしてしまって困っている様子を見せても、知らん顔を決め込んだ。真実を明かして怒られるのが嫌だったからだ。  
もっとも、鍵を失くした後にも先生は「開かずの間」に出入りはしていたようだったので、きっとスペアキーがどこかにあったのだと思う。  
程なくして、私達がお屋敷から引きあげる日がやってきたので、そのごたごたのせいで、鍵のことなど完全に忘れ去ってしまった。私と柳子、そしてお母さんも、大泣きに泣いて、泣き疲れて眠った状態で車に乗せられ、それぞれの住まいに送り届けられた。  
 
 
「懐かしい思い出だね」  
 
闇の中にぽっかりと浮かんでいる私達親子の寝姿を、膝を抱えて見ていた私に、あの女が背後から呼びかけてきた。  
「この時のこと、今でも覚えてるわ……眼が覚めたらお母さんだけで、あんたが居ないのよ。寂しかったぁ……」  
「あんたはまだいいでしょ。お母さんは一緒なんだから。私なんて独りぼっちよ。寂しいなんてもんじゃなかったよ」  
「……うん。そうなんだろうね、きっと」  
私は、静かに頷く彼女を振り返った。  
「やっぱりあんた、柳子だったのかよ」  
 
「今さら気づいたのかよ」  
私とまるで似ていない女は、それでも、柳子そのものとしか言いようのない気配を発しながら、薄っすらと微笑んだ。  
「遅いよ。私、ずっと言ってたじゃん。『私はあんた』だって、もう随分前から」  
「判る訳ないでしょ! だってあんたのその顔!」  
柳子の顔を、私は指さした。ぽってりと肉感的な唇。濡れたように輝いている黒目がちな瞳。私と一つも似た処のないその顔。その代わり――あの人魚に瓜二つの……。  
 
「整形した……って訳じゃあないんだよね? どうして顔が違ってるの?」  
「目覚めたからよ」  
私の問いに、当たり前のような口調で柳子は答えた。  
「ひとたび目覚めれば、お母さんと同じ顔に変わるの……躰もね。光の下では生きていけない躰に変わってしまうわ。あんただってそう。あんたは私と同じなんだから、目覚めさえすれば、あんただって、私のように」  
「何言ってんの? 目覚めるだの、顔が変わるだのって……いったい何の冗談よ?」  
「本当は判っているはずよ、あんたにだって」  
柳子の黒い瞳が、私を見据えた。  
暗闇の中を、一条の光が走った。  
 
蒼白い月明かりの中に、細長い守のシルエットが見えた。落ち着きなく周囲を見廻して、何かを――多分私を、捜している。  
「まもる……」  
私は守に呼びかけた。守は、ぎょっとした顔で振り返った。私が背後に居たことに、まるで気づいていなかったらしい。私は、ゆっくりとした足取りで守に近づいて行った。  
 
ピアノホールの冷たい床を踏み締める私の足は、いつの間にか素足になっていた。着ているものも違う。素肌に白いスリップドレス……ピアノの鍵盤の上で見つけた、あのいやらしい透け透けシースルーだ。  
裸同然の私の姿を、守の眼は、食い入るように見つめている。彼の熱い視線が、私の裂け目をも熱くする……。  
 
「まもる……好きよ」  
私は守の前に立つと、腕を伸ばし、守の肩に置いた。誘うように唇を濡らし、上目遣いでじっと見あげた。薄闇の中、守の躰から、焔立つような情欲のオーラが噴き出しているのが見えた。守は、喉仏を上下動させて生唾を飲み込むと、私に向かってこう言った。  
「君は……柳子だろ」  
 
私が、眼つきを鋭くして守を睨みつけると、彼は表情を硬くして私から身を引いた。私は声をあげて笑った。  
「やっぱりそうか……!」  
憎々しげに呟く守を見据え、私は馬鹿笑いを続ける。大口を開けて――一瞬、自分の口が裂けたような錯覚を起こす。  
そんな私の顔を見た守は、素っ頓狂な悲鳴をあげ、背筋を伸ばして跳びあがった。私はもっともっと笑った。逆上した守は、蒼白な顔でナイフを構えると、私の胸に突き立てた。私は死んだ。  
 
気づくと私は、またあの暗闇の中に居た。  
眼の前には裸の柳子。私は、柳子に食ってかかった。  
「あんた……勝手なことしないでよ!」  
「勝手なこと?」  
小首を傾げ、物憂げな仕草で柳子は返す。私は言った。  
「そうよ! あんた……私の躰を、勝手に使ったじゃない!」  
 
今、ピアノホールで守を笑い、彼の怒りを買って刺されたのは、私の躰を乗っ取った柳子だったんだ。  
「これが目的だったのね? 最初から……守に私を殺させるつもりで、あんたは……!」  
「落ち着いてよ。そんな訳ないじゃん」  
「じゃあ何で……!」  
「落ち着いてってば。あんたは刺されてなんかいないの。直前に、私が瞬間移動させたから」  
 
「しゅ、瞬間移動!?」  
突拍子もない言葉が出てきた。こいつ、何言っちゃってんだろう? 瞬間移動だなんて……SFじゃないっつうの。  
……つってもまあ、そんなこと、テレパシー能力なんてのを持ってる私の言うことじゃ、ないかもだけど。  
でもどっちにしても、瞬間移動だなんて馬鹿な話はないよ。私にそんな便利なちからは備わってないんだし、だったら柳子にも、そんなもんがあるはずは……。  
 
「私にそんなちからがあるのが、信じられない? でもあんただって、人の心を読む以上のちから、使ったことあるでしょう? さっきもやってたじゃない。ヨロイさんの意識を乗っ取って操った……」  
「あ、あれは! 心を読むちからの、延長みたいなもんだからさ……瞬間移動なんかとは違うよ」  
「ううん、違わない。瞬間移動って、要は飛ばした意識の元へ躰を運ぶってだけの行為なんだもの。基本的には、離れた場所に居る人の意識を探ることと、そんなに違いはないの……  
もちろん、先生に言わせれば、『使用される脳の領域は桁違い』ってことだから、それなりに大きなちからは必要としているんだろうけど」  
「せ、先生だって? まさか……」  
私は胸がどきっとした。まさか、この廃屋同然のお屋敷に、先生が居るっていうの?  
玄関ホールで、二度に渡って私を犯そうとした男のことを思い出す。あの男、あいつの正体はヨロイじゃないかと、心のどこかで私は決めてかかっていたのだけれど――。  
 
「先生はもう居ないわよ。忘れちゃったの? 先生の言葉、昔あんたも一緒に聞いていたはずなのに」  
「え、ああ……」  
十四年前の言葉なのか……はっきり言って、全然覚えちゃいない。  
でも、確かに。  
確かに私、柳子と一緒にちからの使い方を色々と習って――その中には、人の心を読んだりすること以外の、別の能力を発揮する方法もあったような気がする。ちからだけでものを動かすだとか、ちからを使って、離れた場所に自分を移動させるだとか……。  
 
でもそれは、いずれも全く成功していなかったはずだ。「理論上は可能であるはず」という先生の主張を実証できなくて、申し訳なく思った気持ちは、なんとなく胸に残っている。  
柳子は、先生の理論を実証できるようになっていたというの?  
「そうよ」  
私の心の声に、柳子は深く頷いた。  
「一年前……このお屋敷に舞い戻った私は、ここで不思議なちからを浴びた……」  
「不思議なちから?」  
「私にもよくは判らない。それはある時突然、『開かずの間』から噴き出してきたものだった」  
 
「開かずの間……柳子は、あそこに入ったの?」  
「ええ」  
柳子の瞳が、真っ直ぐに私を見据える。  
「私が来た時、あそこは完全に封印されていたけれど……あそこから噴き出たちからのおかげで、私はあそこに入れるようになった。  
他にも、色々なことができるようになったのよ。『開かずの間』に隠された楽園――そこに開いた、『ちからの大穴』のおかげで」  
「ちからの、大穴……」  
私は、痴呆のように柳子の台詞を繰り返した。  
 
「だけどね、『ちからの大穴』から新しいちからを得たのは、私だけじゃないのよ。郁子、あんただって……その恩恵を受けているはず。もう気づいてるでしょう? 新しいちから。あんたの深い場所から引きずり出された、本当のちから……」  
 
不意に、私達を取り囲む闇が深さを増した。  
柳子の声が――その存在が、私の前から遠ざかってゆく。  
「ま、待って柳子! いったい何なの!? 私の本当のちからって……」  
 
 
柳子を呼び止めようとして伸ばした腕が、眼の前の壁に打ち当たった。  
「あ、痛!」  
そこは、ピアノホール前の廊下だった。  
とっさに私は、自分の躰を見おろす。守に刺された痕は――やはりない。それ以前に、私の格好はあのシースルーじゃない、元から着ていた自前の衣服に戻っていた。  
どうなってんの、これ?  
まあそんなことより、今はとにかく、守の処に戻ろう。柳子のこと、そして、私とお屋敷との関わりについても、ちゃんと話しておかないと。  
私はピアノホールの扉を開けた。  
「守!」  
ガラスの前に立ち尽くしていた守は、私の姿を見て一瞬眼を剥いたけど、私が元の「私」であることをすぐに理解し、ほっと胸を撫でおろした。その手には、さっきまで私を乗っ取った柳子が着ていた、シースルーのスリップドレスが握られていた。  
「……柳子がここへ来たのね?」  
ドレスと守の顔を見比べて、私は言った。さっき、守は柳子の名前を口にしていた。テラスのたけくらべ跡を見て、「柳子」という存在がここに居ることを、何となく感づいたのかも知れない。  
 
けれども、私の見解は少々浅かったみたいだ。  
守はそれどころじゃない、もっと深い事情までも、把握していたようだった。  
「話しておきたいことがある」と言った私に対し、彼はこう言ったのだ。  
「うん。おれも郁子に聞かなきゃいけないと思ってたんだ。君が……柳子やお母さんと一緒に、ここで過ごした時のことを」  
「守、どうしてそれを?」  
 
眼を丸くした私に、守は、さっきの応接間のチェストから見つけたという、写真と手紙を見せてくれた。  
写真は、このお屋敷で撮影された五歳の時の私と柳子。手紙の方は、このお屋敷から帰った後に、お母さんが先生に宛てて書いた、お礼状のようなものだった。  
写真の私達の顔は、釘か何かで滅茶苦茶に引っ掻かれているし、手紙は黄ばんで染みだらけだったけど、どちらもその内容が辛うじて理解できる感じだった。  
 
「郁子はこの屋敷のこと……覚えてなかったの?」  
守は、当然の問いかけを私にする。私は頷いた。  
「ほんと変な話なんだけどね。私、さっき子供部屋を見つけるまで、ここに柳子と居たこと、完全に忘れてたんだ」  
「子供部屋?」  
「そこに、柳子とお揃いで貰ったお人形があったの。それを見たら、いきなりワーッと記憶が甦ってきたっていうか」  
「まあ、忘れるのも無理ないかもな。まだ小学校にもあがってない、うんと小さい時の話なんだから」  
守は、私の言葉をすんなりと信じてくれた。やっぱり守は素直だ。そして、優しい。  
「そう……だよね」  
守にそう答える私の心は、複雑だった――。  
 
 
ホール中央のピアノの前で、私は暫くの間、守に対してお屋敷の思い出を語った。  
もちろん、柳子のことも。守は、私の長くて取り留めのない思い出話に、時々相槌を交えながら、辛抱強く付き合い続けてくれた。  
 
「柳子……私のこと、怒ってるんだ」  
ひとしきり喋り尽くした後、私はぽつりと呟いていた。  
「私が、柳子を忘れたから。この屋敷でのことも忘れて、柳子とお母さんを、見捨てたから」  
「それは違うよ」  
強い口調で守は言った。  
「要するに、お互いの環境の変化に伴って、精神が同調しにくくなってしまったってことなんだろ? そんなの郁子だけのせいなんかじゃない。  
だいいち、そんな十数年も昔のことを未だに根に持って、こんな陰険な復讐をしてくるなんて……こう言っちゃなんだけど、今の柳子はマトモじゃない」  
守はあくまで、私の味方をしていてくれる。浴室のこともあるせいか、柳子に対しては、怒りと畏れの気持ちがほとんどのようだ。  
 
「十数年前……そうなんだよね。何で今なんだろ? これまで何もしなかったのに、今になって何で?」  
それは、さっき独りでいた時にも、ちょっと疑問に思っていたことだった。  
この十数年もの間、柳子は、私に対して自分からコミュニケーションを取って来るということが、まるでなかった。ちからによる心の交信はもちろんのこと、電話や手紙といった、ごく普通の手段でも、だ。  
それに関しては、私の方だって同様だったのだから、偉そうなこと言えやしないのだけど――とにかく、そんな柳子がここへ来てこんな風に私に執着し出すだなんて、あまりにも唐突過ぎる。  
 
……あ、そうだ。  
そういえば柳子は、私の心の中で、こんなことを喋ってはいなかったか?  
 
〈一年前……このお屋敷に舞い戻った私は、ここで不思議なちからを浴びた……〉  
 
一年前。柳子はここを、一年前に訪れた。そしておそらくは、それ以来ずっとここに居たのではないだろうか? でも、それはなぜ? なぜ柳子は、こんな人里離れた山の中で、引き篭もりなんてやってなければならなかったの?  
 
〈ひとたび目覚めれば、お母さんと同じ顔に変わる……〉  
〈光の下では生きていけない躰に変わってしまうわ……目覚めさえすれば〉  
 
柳子の言葉を思い出し、私は、躰の芯が冷たくなるのを感じた。  
柳子は、目覚めたんだ。  
私が起こしたのと同じ、“発作”によって――柳子は元の顔を失い、躰もきっと、闇の住人のものに変化してしまった……。  
もしそうであったなら――ああ、何てこと。柳子はそれで、どれほど苦しんだことだろう! 顔が変わってしまったから、お母さんの元を離れざるを得なくなり、光に弱い躰になってしまったために、まともな生活は送れなくなったんだ。  
こんな場所で隠遁生活なんかを始めたのは、きっとそのせい……。  
 
いやいや、そんなのはただの推測でしかない。  
そんな馬鹿なこと……そうではない理由があるのかも知れないじゃない。いや、むしろあって欲しい。  
それが、私に対する強い恨みだとか、そういうのでもいいから……。  
 
その時、ふっと脳裏の暗がりに浮かんだものがあった。  
「日記……」  
あの、ミイラの部屋で始めに見つけた、赤い日記帳。  
今にして思えば、あの日記に感じた奇妙な“愛しさ”や“懐かしさ”みたいな感情は、私の、柳子に対する感情、そのものだった。  
私には判る。あの子多分、ここに居る間、日記をつけていたに違いないんだ。私は守の顔を見あげ、真剣な口調で言い放った。  
「ミイラの部屋へ戻ろう! あそこにあった日記……多分あれで、何か判ると思う」  
 
 
廊下へ出て二階へ向かおうとした私達の前に、急にまたあのヨロイが現れた。  
「きゃあっ!」  
「うっ? ま、またか……!」  
ヨロイは剣を振るう。私達はそれをすんでの処で避け、床に転がった。  
 
「このヨロイ……きっとこいつも、柳子が動かしているんだ!」  
「りゅ、柳子が?」  
「念動力……つまり、念の力で自由に物を動かせる力だよ!」  
 
守は、双子の姉妹である私と柳子との能力に、違いがあるのだと考えたらしかった。  
私が精神感応で、柳子が念動力っていう風に、違いがあるのだと。  
実際の処、私と柳子のちからは同じなはずなんだけど――でも判らない。柳子の奴、ひょっとすると例の「大穴のちから」とやらによって、念動力も使えるようになっていたのかも知れないんだ。  
ただ、このヨロイを柳子が動かしてるっていうのには、ちょっと頷けない部分がある。  
だって私、さっきこいつの意識を乗っ取ったんだもん。だったら「中の人」だってちゃんと居るはずだ。  
 
「郁子! 例の感応視で何とか出来ないか?」  
守は、ヨロイの攻撃を防ぐために、私のちからを頼ってきた。感応視が効くんなら、中には人が居るんだって考えには及ばないみたい。無理ないけど。こんな、生きるか死ぬかの状況じゃあ、深い考察なんかできないし。  
「む、無理だよぉ……こんなに剣を振り廻されてたら、集中するヒマも……ひいっ!」  
剣の切っ先が、私のデニムの腰のをかすめた。  
痛い! 腰の部分を薄く切り裂かれた私は、悲鳴をあげて座り込んでしまう。  
 
私が攻撃を受けたのを見て、闘志に火がついたらしき守は、ヨロイの胴体に蹴りを入れた。鉄の防具は派手な音を鳴らしたけど、効いている様子はまるでない。よろいはじりじりと私に寄って来る。  
 
そして――。  
「ひっ? い、いやあぁああ!」  
「い、郁子ぉっ!」  
ヨロイはいきなり剣を捨て、私の躰を高々と抱えあげたのだ。  
「やっ! お、降ろしなさいよ! 降ろしてぇっ!」  
私は手足をばたつかせるけど、ヨロイからはどうやっても逃れることができなかった。  
その時、ブレーカーが落ちたように、視界が暗転した。  
 
もう……何度目だよ、このパターン……。  
さすがにうんざりした私は、闇の中に柳子の気配を探した。けれども柳子は見つからない。……あら珍しい。  
ふと見ると、闇の亀裂の向こう側に、薄暗い廊下が見えた。  
「郁子……郁子!」  
私を見失った守が、痛々しいまでに慌てふためいて私を捜している。  
 
ああ、守……。私は守のそばへ行きたかった。こんな暗闇の中なんかじゃなくて、守のそばにいて、その温かさに触れていたかった。  
そうよ。私、暗いのなんて嫌。闇の住人になんて、なりたくない……。  
 
「そう思っていたのが、君だけだと思っているのか?」  
 
聞き覚えのない男の声を聞き、私は思わず、叫び出してしまうほどに驚いた。  
声のした方を振り返る。そこに居たのは――あの、ヨロイだった。  
「あ……あんたは、どうして……?」  
驚くのを通り越し、呆気に取られてしまった。この場所に――この、私の心の世界に、柳子以外の存在が立ち入れるなんて。  
私がそのことを口にすると、ヨロイは、微かに笑うような気配を見せた。  
「そっか……君は勘違いしてたんだな。この場所が、君自身の心の中だと思い込んでいた訳だ」  
ヨロイは、がしゃんと肩を揺すった。  
 
私は、ぽかんと口を開けてヨロイの立ち姿を見続けていた。ヨロイがこうして口を利くというのも驚きだったけど、その声や口調にも驚きを隠せなかった。思いのほか若々しく、普通っぽい感じだったからだ。  
多分、私や守と歳もそう変わらない、そこいらに居る普通のお兄ちゃんって感じなのだ。  
「私の……心の中じゃないって言うの?……っていうか、そんなことを言うあんた、あんたって……」  
混乱の極みの中で、私はヨロイに向かって声を震わせた。ヨロイの中の人が結構“普通”だって判ると、なんだか無性に腹も立ってきた。だって、だってこいつって、お屋敷に来た最初の頃に、私を……。  
「この、レイプマン!」  
私はヨロイに掴みかかろうとしたけれど、ヨロイはたやすく私の腕を捻りあげた。  
「やれやれ。柳子と違って気が強いんだなあ……」  
「『柳子』って、呼び捨て?……あんた、あの子のなんなのさ?!」  
まさか柳子の奴、こんなのと付き合ってんの?  
 
「まあ、そんなことどうだっていいじゃん。それよりも、君のことだ」  
ヨロイは、掴んでいた私の手首を放した。  
「……何よ?」  
「君が今居る場所が、本当はどこなのか教えてやるよ」  
ヨロイは、私をそばに置いてあった椅子に座らせた。  
こんな処に、椅子? そう訝しんでいると、ヨロイは私の背後に廻って、その椅子を押し始めた。これ……ただの椅子じゃない。車椅子だ。  
ヨロイの押す車椅子は、闇の中をゆっくりと進み、やがて、デコレーションケーキみたいに綺麗な彫刻で彩られた、鏡台の前にたどり着いた。  
鏡台は、三面鏡になっていて、今は閉ざされた状態だった。  
 
「いいか? あんまり驚かないでくれよ?」  
ヨロイは鏡の蓋に手をかけ、私を振り返った。  
「頼むから……大声とか出さないでくれ。……苦手なんだよ。女の悲鳴」  
ヨロイは鏡を開いて見せた。  
鏡の中に居たのは――ミイラだった。白い着物を着て、髪を後ろに束ねた――あの、車椅子のミイラ。  
鏡の中のミイラは、唇の削げてなくなった口を開き、けたたましいサイレンじみた悲鳴をあげた――。  
 
深いしじまの中で、私はぼんやりと膝を抱えて座っていた。  
「大声出すなって言ったのに……」  
ヨロイがため息をつく気配がする。  
「君の声を聞きつけて……ほら、あいつが」  
闇の向こうから、守の声。  
「郁子ぉーっ! どこに居る?! 頼む、返事をしてくれーっ!」  
 
「心配してたわよ、彼。あんたの声を聞いたとたん、私なんかおっ放り出して飛んでった」  
柳子の声だ。私は、はっとして顔をあげた。  
「柳子……」  
柳子と入れ替わり、ヨロイがどこぞへ去ろうとしているのが見えた。  
 
「行くの?」  
柳子は、ヨロイの背中に声をかけた。  
「ああ……もうおれに用はないだろ。郁子はもう君と一つだ。君は望みを叶えたんだから」  
「確かに、私にあなたを止める権利はないけど、でも……」  
柳子は、ヨロイの行く末を案じている様子だった。その心には、恋愛につきものの生臭さや執着心はなかったけれど、意外に深い情のようなものは感じられた。本気で彼のことを思いやっているんだ。旅先で、短い間だけ道連れになった人と、別れる時のように。  
 
「へえ、心配してくれるんだ? 優しいな。でも大丈夫だよ。今まで生きてこられたんだから、これからだって、きっと……」  
気休めだけの台詞と共に、ヨロイは軽く手を振った。  
これから彼が赴くのは、戦場だ。なぜだか私には、そう思えてならなかった。  
 
「ああ、あとこのヨロイ……「開かずの間」の隣の部屋に置いて行くから。別にいいよな? 玄関ホールに戻さないでも」  
「うん。別に構わないけど……」  
「良かった。組み立てて設置するの面倒だからな、これ。じゃあ」  
いやに生活感のある言葉を残し、ヨロイは姿を消した。  
 
「『ちからの大穴』を通って来たのよ、あの人」  
ヨロイの消えた闇を眺めたまま、独り言のように柳子は言った。  
「『大穴』が開いてからというもの、ただでさえ不安定だったここは、ますます歪みが酷くなって……別の世界と繋がりやすくなってしまったようなの」  
彼は、別の世界の人ってことなんだろうか? でも、別の世界って? あの、化け物だらけの夜見島みたいな世界とか?  
だけどまあ、そんなこと、今はどうでも良かった。  
 
「言いたいことがあるようね?」  
柳子は腕組みをして、例の物憂げな調子で私に呼びかけた。その仕草。なめらかな肢体に、しっとりと濡れた瞳。つややかな黒髪。  
私の眼で見ているこれら全てが、すでに失われているものだなんて、にわかには信じられない。でもそれは、紛ごうことなき事実なんだ。私は言った。  
「まさかあんたが……このお屋敷で、ミイラになっていたなんてね」  
 
柳子は多分、このお屋敷に着いた時点で、すでに死んでいたんだ。  
死んだ柳子の魂が、なぜ未だに、ミイラ化した肉体に留まり続けているのか、その理由は判らない。それも例の「ちからの大穴」のせいなのか、あるいは、屋敷の周辺に群生している、月下奇人の放つ妖気のせいなのか。  
とにかく、生ける屍と化した柳子は、このお屋敷に居ながらにして、遠く離れた私の心に自らの意識を送り飛ばし、一年に渡り、私に訴え続けていたんだ。二人一緒になること。私を闇に目覚めさせ、このお屋敷に招いて、昔のように仲良く一緒に暮らそうと……。  
 
「郁子」  
柳子は私の手を取り、私の躰を抱き寄せた。  
「郁子だけは……判ってくれるよね? 私がもう、こうするしかないんだってこと。そして郁子、あんたも」  
すり寄せられた柳子の頬に、熱いものが伝っている。柳子は泣いていた。  
「郁子だって、やがては目覚めてしまうから……そうしたらもう、元の世界には帰れなくなるのよ。元の光の世界からは、受け入れて貰えなくなるの。そう……まもるからも」  
「……うん」  
返事をする声が潤んでいた。いつの間にやら、私も泣いていたようだった。  
 
「郁子がまもるのことを好きで、まもるから離れたくなくて……光の側に踏み止まっていたこと、私は知ってるよ。そのことで、郁子自身が、とても苦しんでいたことも」  
柳子の腕が、私の背中を労わり撫ぜる。  
「本当は、諦めなければいけないんだって判っていながらも……だってあの人、暗闇を憎んでいるんだもんね。暗闇は私達の本性なのに……それを受け入れて貰えない以上、あんたの恋は絶望的。残酷な話だよね。でも、私は違うよ。私だけは、郁子の味方だよ。本当の意味で……」  
「柳子……」  
私は、柳子の背中に腕を廻した。  
「柳子の躰はミイラになっちゃってるけど……私の躰も使えるんだよね? 心を、意識を行き来させられるから」  
「うん。でも誤解しないでね。私、郁子の躰を自分のものにしたくて、こんなこと言ってるんじゃないんだよ? ただ郁子と、昔みたいに仲良しに戻りたくて……私達の、失われた時間を、取り戻したくて……」  
「判ってるよ」  
柳子の背中を撫でて、私は小さく笑った。そう、私にだって判ってる。柳子の心には、私を利用しようなんて気持ち、さらさらないんだってこと。この子はただ、私のことを心底思いやってくれているだけ。  
私を、希望のない生活と、男に対する浅ましい未練から、救い出そうとしてくれているだけ……。  
 
静かに抱き合っている私達の闇に、か細い光が射し込んだ。部屋の扉――私達の居る、ミイラの部屋の扉が開いて、守が入って来ようとしていた。私の名前を呼びながら――。  
――守……!  
ついつい声をあげて返事をしそうになった私を、柳子が遮った。守は、私と柳子が今居る場所――つまり、柳子のミイラに向かって、真っ直ぐに歩いて来た。  
軽く緊張しつつ見守っていると、守は私、いやもとい、ミイラの膝の上から、赤いものを取りあげた。  
それは、例の日記帳だった。守は、眉間に皺を寄せた険しい表情で頁をめくり始めた。  
 
――行きましょう。  
 
私の手を取り、柳子は心で促した。  
 
――彼が私の日記を読んでくれれば、話は早いわ。私達は、下に行って待って居ればいい。それで、彼が日記を読み終わっておりて来たら……一緒に、お別れを言いましょう。  
 
柳子の躰が、私に寄り添う。一瞬の暗転。  
気がつけば、私はピアノホールの床に横たわっていた。今度こそちゃんとした自分の躰。  
ただし、身に着けているものが、あの白いシースルードレスになっていた。  
「やだ」  
乳首やお臍、それに、下の毛までが丸見えになった自分の格好が恥ずかしくて、私はもじもじと股間を手で隠した。  
しかしこんなに透け透けで、よくもまあ胸の痣が守に気づかれなかったもんだと感心したけど、よくよく見れば、このシースルードレスの胸の部分には、手の込んだレース刺繍の複雑な模様が入っていて、痣のある辺りを上手いことカバーしてくれていたのだった。  
はあ、なるほどね……。  
 
――胸の痣がよほど気になるのね。  
 
心の中から、柳子の声が聞こえる。  
 
――痣なんて……消そうと思えば簡単に消せるのよ。やり方さえ判れば……私だって、ずっと消してたし。  
 
「えっ、マジで?!」  
思わず私は、馬鹿でかい声をあげてしまった。この胸の痣が消せるっていうなら、そんなに嬉しいことはない。その方法を是非知りたい。  
 
――うん、本当に簡単だよ。ただし、闇に目覚めていることが前提になるけど。  
 
柳子のその一言によって、私の希望は、穴の開いた風船のように、しおしおと萎んで消えてしまった。なんだい、それじゃあ意味ないっつうの。  
 
残念がる私に、柳子の意識が、複雑な感情を向けているのを感じた。  
今の“闇に目覚めていない”状態のままで、痣を消したいと願うというのは、すなわち、私の心が、守を完全には諦めきれていないことに、他ならないからだ。躰を共有している柳子に対して、気持ちを誤魔化すことなんかできやしない。  
 
――まあ、別にいいわ。あんたの気持ちがまだ揺らいでいるっていうなら……私から、あの人にきっぱりと言っておいてあげるから。  
闇の中から伸びてきた柳子の両手が、私の眼を塞ぐ。視界が闇に落ちると共に、私の意識も閉ざされた――。  
 
【つづく】  
 
 

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