暗闇の中を走り続けていた。  
何も見えない、右も左も判らない、暗黒に塗り潰された世界の中を。  
そこいら中から浴びせられる、悪意に満ちた囁き声と嘲笑から耳を塞ぎ、私にはただ、逃げ惑うしか術がない。  
それはいつものこと。この世に生を受けてからというもの、ずっとずっと変わることのない、私の宿命だった。  
やがて逃げることに疲れ、投げやりな気持ちに襲われた私の躰を、闇から這いずり出た無数のいやらしい手が捕まえにかかる。  
 
 ―一緒に行こう……。  
 
ああ闇が、暗くて冷たい闇の世界が、私を取り込んで、喰らい尽くそうとしている……。  
 
けれどもその時、天空から一条の光が射し込んだ。  
とても強くて眩しいけれど、苦痛ではない光。  
こんな私の身も、心さえも温かく包んでくれる優しい光。  
そう。これは私に残された、唯一の希望の光――。  
光の神々しさに打たれ、私は歓喜の涙にむせぶ。  
そしてその光に、光をまとって差し伸べられた頼もしい手の平に、懸命になって腕を伸ばした――。  
 
「うぁぎゃあ?!」  
 
伸ばした手が、夕日に輝くフロントガラスにぶつかった。  
気がつけば夕暮れの山道。夏の青空は消え去り、翳りゆく世界は、最期のあがきのように赤く燃えている。  
 
指先の微かな痛みと、自分の漏らし出した変てこな悲鳴のせいで、急速に眠りから引き戻された私は、一瞬、状況が判らずぼんやりしてしまった。  
何で私、こんな急に眼が覚めたんだろう?  
その訳にはすぐに思い当たった。車が急カーブを曲がったから、躰が大きく揺さぶられたんだ。  
「あれ……ここどの辺?」  
ごしごしと眼を擦りながら私は、隣で呆れ顔を浮かべている運転手――一樹守に呼びかけた。  
 
一樹守。「アトランティス」というオカルト雑誌の編集者。私より二つ年上の、二十一歳の男の子。  
守と初めて出逢ったのは一年前。当時私がバイトをしていた、三逗港という寂れた漁港でのことだった。  
入社以来、初めての単独取材に意気込み、港の写真を撮りまくっていた彼の第一印象は、  
「変な奴」  
この一言に尽きた。  
閉塞的な田舎町に育った私に取って、余所者で、しかもマスコミ関係者を名乗る彼は、只々胡散臭いだけの異物でしかなかったのだ。  
 
そんな彼と――まさかのちに、夜見島に潜んでいた化け物達を倒すため、協力し合うようになるなんて、その時には思いも寄らなかった。  
おまけに、その戦いが終わった後にも交流が続き、こうして一緒にドライブに出かけるほどの仲になるなんて、本当に、未だに信じられないっていうか……。  
 
「脇道に入ったんだ。こっちの方が、早く着くと思って……」  
私の物思いをよそに彼は――守は、素っ気なく答えた。  
「ふうん……なんだか淋しい道ねぇ」  
そう呟いて、守の横顔を盗み見た。  
光を照り返す眼鏡のレンズ。燃え立つような夕焼けを浴びて、オレンジ色に染まった横顔。  
 
こうして改めて見直すと、意外に綺麗で整った面差しをしていることに気がつく。  
眼鏡の奥の涼しげな眼元に、すっと通った鼻筋。ちょっと唇が分厚いけれど、そのおかげで、彼の全体から漂うクール過ぎな雰囲気が緩和されて、かえって親しみやすく、しかも、そこはかとないセクシーささえもがプラスされているみたい。  
へえ。服装も髪型もぱっとしないし、むさ苦しい印象しかなかったけれど、守って、結構――。  
 
と。あんまりまじまじと見過ぎたせいか、守がこちらを見返してきた。  
私は取り繕うように、窓の向こうをきょろきょろと眺め廻した。  
「郁子、何見てるの?」  
守は私に問いかける。  
何て答えようかと迷った私の眼の先に、ふと、道に沿って続く緑の中の、赤い点々が飛び込んできた。  
 
とっさに私は、その赤い点々を指さした。  
「うん、あの赤い花。さっきからあの花ばかり眼につくの」  
風に揺れる赤い花。それが、かたまりとなって点々と続いている。  
「あれって、彼岸花かしら?」  
「いや。あれは、月下奇人」  
「ゲッカキジン?……月下美人じゃなくって?」  
守がさらりと言った奇妙な名前を、私は聞きとがめた。  
「ああ。月下美人は白い花だろう? あれは違う花なんだ。この辺りにしか生息しない、珍しい植物なんだよ」  
守は口元だけで小さく微笑んで説明する。  
 
彼の説明によると、その月下奇人という赤い花は、かつてこの近くにあった、羽生蛇村という小さな山村特有の花、ということだった。  
三年前に起こった土砂災害で消滅した羽生蛇村。  
その村で大きな災害、または、神隠しなどといった怪異が起こる時のみ花開くと伝えられていた、不思議な植物。  
不吉な出来事の予兆のような花。それが、月下奇人なのだという。  
 
「なんか……怖い花なんだね」  
守の話を聞き終えた私は、恐々と肩をすくめてしまう。  
話の途中、迫ってきた雨雲が急に辺りを暗くしてしまったことも手伝い、心細さが増幅している。  
「そんないわくのある花を見て……私達も、神隠しに遭っちゃったりして」  
「大丈夫だよ。だってよく見てみな。花は咲いてないだろう? あの赤いのは、全部蕾だ。だから大丈夫」  
気弱な台詞を吐く私に、守は励ましの言葉をくれた。  
守に大丈夫って言われると、何だか本当に大丈夫な気がしてくるから不思議。  
 
でも少し安心したら、今度は別の不安が膨れあがった。  
「ねえ、ところでさ。道……本当にこっちで大丈夫?」  
 
暗くなった上に、とうとう降り出した雨に閉ざされてしまった山道。  
おかげで周囲の様子はほとんど判らないのだけど……どうも私には、同じ処をぐるぐる廻り続けているように思えてならなかった。  
だいたい、走ってる時間がちょっと長くない? もういい加減、麓の明かりぐらい見えてきたっていい頃なのに。  
私がそう考えていた時だった。  
 
 ――逃がさないよ。  
 
突然、頭の中で響く声。  
もはや私の躰の一部と言っていい、憎悪に満ちたその声に合わせるように、黒い空が光って、落ちた。  
 
「ひゃあっ!」  
「大丈夫だよ。ただの雷だ」  
肩を震わせ悲鳴を上げると、守は片手で私の肩を抱いた。  
温かい手の平。タンクトップからはみ出した皮膚に、直接触れている。  
 
「う、うん……でも、結構近くに落ちたみたい」  
私の躰は、言いようのない不安でおののいていた。  
それは、雷のせいばかりではない。雷よりはむしろ、その雷が連れてやってきたような、不穏な気配。  
私は確かに感じていた。  
今、ここには誰かが居る。  
この湿った暗闇の中、監視するような冷たい眼差しが、私と守を見据えているのだ。  
 
――誰? どこから?  
はっきりしたことまでは判らないけれど……この悪意に満ちた感情、その波動だけは、私の躰にひしひしと伝わっている。  
私の不安をなだめようとしてくれているのか、守はしきりに私の肩を撫で摩る。  
もしかしたら彼も、闇に立ち込める悪意に気づいたのかも知れない。  
――気をつけて……。  
私は、守の方に身を寄せた。  
 
「い……郁子?」  
私が躰を近づけると、守は少し緊張したみたいなかすれ声で私に呼びかけた。  
やっぱり、彼も何かを感じていたんだ。  
無理もない。こんなに強い、あからさまな悪意を向けられたら……私のように変なちからなんて持ってない、普通の人である守でも、気づいて当然だと思う。  
でも大丈夫。どんな敵が現れたって、私達二人が協力すれば、きっとなんとかなるはず。  
一年前のあの事件の時だって、二人で乗り切れたんだから。  
車を包囲する気配のみに意識を集中させながらも、私は守を励ますように、彼の膝に手を置いた。  
 
守は何かを決意したような気配を発してから、生唾を飲み込んで、車を路肩に寄せ始めた。  
いったん車を停めてから、状況を確認しようってことなのかな?  
でもそのわりには、ちっとも車のスピードを落さない。  
それどころか、逆にどんどんスピードがあがっているみたい。  
 
「守? どうしたの?」  
さすがに様子がおかしいと思い、私は尋ねた。  
守は引き攣った顔で前方を見つめている。こめかみに汗のしずくを浮かべながら。彼は答えた。  
「ブレーキが……利かない!」  
 
滝のような雨の中、車は滑り落ちるように山道を下ってゆく。  
フロントガラスのワイパーは全然役に立っていなくて、もうほとんど何も見えない。  
そんな中、守は必死になってハンドルを握っている。  
不意に開けた視界の、真正面に白い線。道の端に添えられたガードレール。あの向こうにあるのは、地獄へと続く断崖――。  
私は悲鳴をあげた。  
見ていられなくて、顔を両手で塞ぐ。アスファルトに食い込むタイヤの音が大きく響いて――。  
車は、危なくもカーブを曲がりきった。  
私はほっと息を吐く。  
だけど次の瞬間、突然真正面から対向車が現れた。白く光る二つのヘッドライト――。  
 
「駄目だ! ぶつかるっ!」  
守が急ハンドルを切っている。  
その瞬間、私は気付いた。  
これ、おかしい。何が、とは言えないけれど、何かがおかしい。  
迷っている時間はなかった。  
私は前方の対向車――正確には、前方から照りつける“白い光”に向かい、思い切り自分の“意思”をぶつけた――。  
 
光の洪水は、あっという間に収束した。  
我に帰れば暗い山道。雨の音に閉ざされた闇の中、車は何事も無かったかのように静かに停止していた。さっきまでの喧騒が嘘みたいに。  
もちろん、対向車の姿なんて跡形もなく消え失せていた。  
「……どういうこと?」  
私は呆然と呟いて守の顔を見た。  
守は黙って首を左右に振るだけ。彼にも全く訳が判らないってこと。  
 
気分を変えるべく、私は少しだけ車の窓を開けた。  
雨の匂いに混じり、切ないような甘い香りが漂っているのを感じる。  
道に沿って生えている、月下奇人の花の匂いみたいだ。  
   
その時、雨に紛れて道路を横切る人影を見た。  
「きゃっ、守っ! アレ……」  
「いっ今の、郁子も見たのか?!」  
 
私はうんうんと頷いた。  
道路を横切った人影。それは、素っ裸の女だったのだ。  
白い肌を惜しげもなく晒し、長い黒髪をたなびかせて――。  
 
「あの女……」  
守は深刻な声で呟き、雨の中、迷うことなく車の外に飛び出していた。私も慌てて後を追う。  
「守、待って!」  
私は嫌な予感がしていた。  
今の女――私はよく知っていた。でもそんな馬鹿なこと……だって、だってあの女が、こんな風に私と守の前に姿を現すなんてことは……。  
戸惑っている私をよそに、守は、いつも持ち歩いているL字型のLEDライトをかざし、道に沿って続く森の暗がりを照らしているようだった。  
 
夜見島から帰って以来、守は、どんな時にもライトを手放そうとはしなかった。  
アパートの部屋の電気だって、いつでも点けっ放し。繁華街の明るい夜道を歩く時でさえ、胸ポケットに挿したL字ライトは点灯している。  
私のバイト先である喫茶店でも、守は「ライト君」と呼ばれ、他のウエイトレスの子達から影で笑われていたけど、私だけは笑う気になれない。  
だって、仕方がないのだ。  
夜見島で戦っていた時、闇の住人である敵の化け物達を追い払うのに、光は欠かすことのできない、重要な武器だったから。  
光源を持つかどうかが生死を分けるほどだった、夜見島でのあの体験――トラウマになって、暗所恐怖症っぽくなってしまうのは、どうしようもないことだと思う。  
 
けれど、守と同じ体験をしてきたはずのこの私は、守のような暗所恐怖症になりはしなかったけど。  
むしろ私は、暗い方が心地好かった。  
夜見島事件でバイト先の船を失った後、上京して借りたアパートだって、陽当たりはそこそこの場所を選んだ上、部屋には間接照明しか置いていない。  
だって、明る過ぎる場所って落ち着かないから。あんまり明る過ぎると、私、ここに居てもいいのかなって、凄く不安な気持ちになる――。  
 
そんなことを考えながら、ライトを振りかざす守の背中をぼんやり眺める。どうやら彼は、暗い森の奥へと続く、小さな道を発見したようだった。  
何とはなしに、守の後ろから覗き込む。  
 
見たとたん、異様な威圧感のようなものが迫ってきた。  
 
威圧感? ううん、少し違う。恐怖感、違和感、既視感……そう、既視感が一番近いかも知れない。  
初めて来たはずの場所なのに、なぜか、ずっと前から知っているような、おかしな感覚……。  
「ねえ、行くの?」  
道の先をライトで照らしている守に、不安な気持ちで私は尋ねた。  
嫌な予感がますます強くなっていた。できることなら、この道の先へは行きたくない。行ったらきっと、取り返しのつかないことが起こってしまう……。  
 
「ちょっと確かめてみるだけだよ。さっきの女が何だったのか……だって、うやむやにしたままだと、余計に怖いだろ?」  
守は、さっきの全裸女性のことがとても気にかかっている様子だった。  
それも口で言ってるように、単純に怖いから確かめたい、というだけではなさそうだった。  
もっと別の――何だかちょっと、エッチな関心を心の奥底に隠しているような感じ。  
 
なんとなく面白くない気分に陥った私は、守の腕を掴み、道の先へ行くのをやめさせようとした。  
「ねえ、やっぱり、やめとこ? 私、こっちに行きたくないの。なんか、嫌な感じがして」  
別に嘘はついてない。  
嫌な予感は本当にしてるんだから、これは別に、ヤキモチだとか、そういうんじゃない。  
必死になって自分の心に言い訳しながら、私は守を見つめた。  
 
「いや……すまないけど、やっぱり確認して置きたい。心配するな。おれ、一人で行ってくるよ。お前は車で待ってるといい。大丈夫、すぐに戻って来るから」  
そう言うと、守はさっさと茂みを掻き分け、森の中に入って行こうとした。  
何それ!  
守一人で裸の女を追いかけて行くなんて……そんなこと、許せる訳ないじゃん!  
「守が行くんだったら、私も行くよ! こんな山道で、独りで留守番なんてしたくない!」  
勢い込んでそう言うと、守は少し面食らった顔をした。  
「そ、そうか? じゃあ、一緒に行こうよ」  
そこはかとなく、残念そうなその口ぶり。私はちょっと苛ついた。  
 
「ふん。まあ、行くなら行くでいいんだけどさ……車に鍵かけるぐらいはしといたら? 無用心じゃないの。ほんとにすぐ戻れるかどうかも、判んないんだしさ」  
「ああ……まあ、そうかな……」  
守は、気のない態度で返事をし、森への道を――裸の女の消えて行った道を気にしつつ、小走りに車の方へ向かった。全く……。  
 
守の背中を見送ってから、空を見あげた。  
顔に突き刺さるような雨。真っ黒く垂れ込めた雲は獣のように唸り、雲から雲へと駆け抜ける稲妻が、山道に鋭い光を浴びせかけた。  
 
「空が……笑ってる?」  
それは不思議な感覚だった。  
雨や雷なんて、ただの自然現象のはず。それなのに私は、そこに、薄ら寒くなるような悪意の波動を感じたのだ。  
悪意を込めて、空が笑っている。  
しかもその笑いはヒステリックな女のもので、私には、その笑い顔さえもが、はっきりと眼に浮かんだ。  
長い黒髪を振り乱し、真っ白な美しい顔を、鬼女のように醜く歪めて笑っている、狂気の表情。  
鬼女は、黒い雲の中から、守に向かって白い腕を差し伸べる……。  
 
「……守!」  
気づくと私は、守に向かってダッシュをしていた。  
考えている暇なんてない。女の悪意は守を標的にしている。助けなきゃ。守を、今居る場所から――。  
 
 「守! 危ないっ!」  
 
月下奇人間一髪で追いついた私は、守のシャツを後ろから引っ張った。守は手前に引っくり返る。  
次の瞬間、守の立っていた場所に、雷が落ちていた。  
ううん、正確には、守の立っていた場所からは、少しばかりずれていたかも知れない。  
雷は、守の立っていた場所の少し前方――つまり、車の屋根の中心を、狙い澄ましたように直撃していたのだ。  
 
――危なかった……。  
場所がずれていたとはいえ、あのままあそこに立っていたら、守は間違いなく、落雷と車の炎上に巻き込まれていたと思う。  
そう。雷の直撃を受けた車は、私達の眼の前、鮮やかな炎を噴きあげ炎上していた。  
落雷と車の炎上を間近に受けた守は、雨でびしゃびしゃの路面にへたり込み、呆然とした面持ちで、燃えてゆく自分の車を見つめるだけだった。  
 
「まあ……そう気を落とさないで」  
落雷のショックから立ち直るにつれ、買ったばかりの愛車を失ったという事実に打ちひしがれて、見ちゃいられないくらいに消沈してしまった守に対し、私の慰めの言葉は、虚しいものでしかなかった。  
無理もないよなあ。だってまだ、ローン始まったばっかのはずだもん。  
ああ、ほんとに可哀想……。  
 
「し、しっかりしなよぉ! 命が助かっただけでも、ありがたいと思わなきゃ!」  
我ながら、かなり無茶な励まし方をしてると思う。  
でも、それでも守は気を取り直し、よろよろしながらも、自分の力で立ちあがった。  
偉い!  
そう言って誉めてあげたい気持ちになったけど、そこは堪えて我慢する。だって守ってば、誉めるとすぐに調子に乗るんだもん。  
 
 
そういったこと、私には大抵判っていた。  
小さい頃からそうだったんだ。  
昔から私には、人の心を読み取るちから――守に言わせるとそれは、精神感応能力と呼ばれるものらしいけど――そんな、人とは違う、おかしな能力が備わっていたのだ。  
物心がつき、少し大きくなってから、私は驚いたものだった。  
私が人の心を読めるということについてではない。私以外の人々が、人の心を読むことができないのだという、ごく当たり前の事実に対して、だ。  
 
だから、ある程度成長してからは、私は私のちからを隠すように気をつけた。  
それは、さほど難しいことではなかった。  
心が読めるとはいっても、それは決して百発百中というものではなく、時おり、相手が頭で考えた言葉が、私の意識にすっと入ってくる、といった程度のものだったから。  
相手に対して意識を開けば読める確率はあがるけど、閉ざしてしまえば、余程強い思考でない限りは、完全に聞こえなくなる。  
だから普段は意識に蓋さえしておけば、他人の心のざわめきに惑わされることもない。比較的、心安らかに過ごすことができた。  
 
なのにそれが、歳を経るごとに上手く行かなくなっていった。  
躰が成長するのに合わせ、ちからまでもが一緒に肥大化していったせいだと思う。  
急速に大きくなったちからに私自身が対応しきれず、読みたくもないものをとっさに読んでしまって、それについて感じたことがまた、とっさに態度に出てしまう。  
高校にあがってからは本当に酷くて、必死で隠していたにも関わらず、私のちからは、同級生達の間で噂になってしまったほどだった。  
 
だから私は、ずっと孤独だった。  
誰かと親しくなるということは、その誰かから、いずれは怖がられ、拒絶されてしまうことを意味していた。  
誰だって、自分の胸の内を読まれたくなんかない。私が公言しなくとも、ちからの気配を感じただけで、人々は私の前から去って行く。  
 
そんな人々の中で、唯一の例外が守だった。  
去年、夜見島遊園の地底で、化け物に襲われていた守をちからで救い、遊園地の外までちからを使って脱出していた私は、もう隠しても仕方ないと思い、守に対しては、早い段階でちからのことを打ち明けていた。  
当然守は怖がって引いたのだけど、逃げるように彼のそばから離れた私を追って、結局は私と一緒に居てくれたのだ。  
夜見島ではもちろんのこと、夜見島から戻って来てからも。  
 
彼は上っ面だけでなく、心の底から私のことを信頼し、友達として――ううん、それ以上の気持ちで、私を大事にしてくれていた。  
私はそれをよく知っていた。だって、彼の心を読んだから。  
間違いはなかった。夜見島事件の時、化け物達に対抗するため、やたらにちからを使った私は、おかげ様で、自分のちからをほぼ完璧に使いこなすことが可能になっていたのだ。  
 
私のちからを知りながら、私と親しくなってくれた、初めての人。  
まあ――だからといって付き合いたいだとか、そういうことは、全く考えちゃあいないんだけど。いや、本当に。  
 
まあ、そんなことはさておき。  
貴重で大切な「友達」であるところの守と私は、車を失って他に当てもないので、例の森へと続く道を進んで行くことになった。  
さっき見た裸の女が幽霊とかの類ではなく、普通の人間であった場合、その後を追って行けば、人里にたどり着ける可能性だってあるのだから、こちらを進んだ方がいいとの判断だった。  
 
私は守に、彼の荷物が入ったスポーツバッグを手渡した。  
それは最初に車から出た時、心に浮かんだ予感に従って、私が持ち出していたものだった。当然、私の分の着替えやなんかの入ったトートバッグも、しっかり肩にかけてある。  
荷物を手渡された守は、一瞬、なんとも複雑な表情をみせた。  
 
――こんなの持ってきてくれるんだったら、車の方を助けてくれればよかったのに……。  
彼の顔には、そんな言葉が書いてある。  
ちからを使うまでもない。守って、クールな知性派キャラを気取るわりに、かなり直情的というか……はっきりいって、相当な単純思考の人だった。  
自分の感情を隠したりするのが下手くそで、その考えは、ちょっと表情を探れば簡単に判ってしまう。  
 
でも、彼のそんな、単純で判りやすい処が、私には好ましかった。  
表も裏もなく、偽りのない、本音の感情をぶつけてくれる正直さ。その清々しさは、私に取って癒しであり、救いでもあった。  
世の中にはこんな、自分の気持ちを誤魔化したりせずに、人に対しても、自分に対しても、呆れるくらい馬鹿正直に生きている人も居るんだ。  
今までの人生で、たくさんの人の心を読んできて、人の心の澱に触れ、その生臭さに辟易していた私に取って、守の正直さは、人の心に対する絶望や嫌悪感を取り払い、他の人々と真正面から向き合う勇気を蘇らせてくれる、いいきっかけになった。  
 
――自分から壁を作っていたら、誰も近づいてこないし、そうなったら、自らの可能性を閉ざしてしまうことになる。  
何かの拍子に、守が私に向けて言った言葉だ。  
その言葉に素直に頷けるくらい、私の心は解きほぐされていた。  
守という男の子の存在によって――。  
 
 
舗装された道路を離れ、森の小道を進んで行く私達の足取りは、雨に濡れて重かった。  
木々に視界を遮られ、真っ暗闇の中を、守のライトだけを頼りに進んで行く。  
濡れた地面も平坦なものではなく、生い茂った草や低木の枝が、足元をすくって行く手を阻む。  
ほんの少し歩いただけで、私も守もへとへとになった。あの裸の女、本当に、こんな道を歩いて行ったのかなあ……?  
 
「うわっ?」  
急に、私の前を歩いていた守が立ち止まり、屈んで足首から何かをむしり取った。  
守がちぎって捨てたそれは、月下奇人の花だった。月下奇人の茎が、足に絡みついていたのだ。  
「なんでこんなもんが」  
守は、足元の地面をライトで照らす。光の伸びた先を見て、私達は、息を飲んだ。  
「月下奇人が……咲いてる」  
蒼ざめた顔をして、守が呟いた。  
私達の歩みを妨げていた植物は、いつの間にか、全て月下奇人に変わっていたのだ。  
見渡す限りの月下奇人――しかもその赤い花々は、一つ残らず花弁を広げていた。  
 
「やだどうしよ……これ咲いちゃったら、私達、神隠しに」  
さっきの守の話を思い出し、私は怖ろしくなった。  
天変地異の前触れに咲く、なんて言われていた花だけあって、月下奇人は、強烈な妖気のようなものを発散している花だった。  
綺麗だけど、おぞましい。  
甘ったるい芳香はお酒のようにきつく、不用意に吸い込むと、頭の奥がじんと痺れて、意識が遠退きそうになる。  
 
「……心配するな。花が開く瞬間を見た訳じゃないんだから、セーフだよ」  
「ほんと?」  
ほんとな訳ない。さっき話した時、守はそんなルールのことは言ってなかったもの。  
でも、そんなことを言い返したって仕方がない。守だって怖いはずなのに、こんな風に嘘をつくのは、私を安心させようとしてるからだってことも、ちゃんと判る。  
だから私は、守の心情を察し、騙された振りをしておくことにした。  
 
そして私達は、再び歩き始める。  
闇の中の月下奇人は、道を進んで行くごとにその数を増やしていった。  
「まるで、月下奇人の畑みたい」  
そっと呟いた言葉に、守も黙って頷いた。  
一面の月下奇人――それは一年前、夜見島で見た赤い海を思い起こさせずにはいられない。  
どうしてだかは知らないけれど、異世界と化した夜見島の海は、血のように赤い色に変わっていたのだ。  
 
怖くて不安な気持ち。それが、守の躰からひしひしと伝わって来る。  
思い切って私は、守の腕にしがみつき、ぴったりと躰を寄せた。  
これは、守の不安を取り除いてあげるため。守の怯えを少しでも和らげたいからしたことであって、決して、邪まな気持ちでしていることではない。  
そうよ。だって私達、こういう時にはいつだって助け合う仲間なんだから……。  
なぜだかのぼせてくる顔を伏せ、自分の心に言い訳しながら、私は守にひっついて歩き続ける。  
 
そうこうしているうちに、私達の歩く道は、徐々に広く、歩きやすいものになって行った。  
月下奇人の群れは道の左右に分かれ、舗装こそされていないまでも、もうどこにでもある、ありきたりな田舎道って感じになっている。  
――もう、離れた方がいいのかなあ……?  
だけどほら、守はまだ、ちょっと怖がってるじゃない。  
だから私は、守の腕を離さないで歩くことにした。別にいいよね。守だって、嫌がってる素振りはないし……。  
 
そうして暫く行くと、道の先が、二手に分かれているのが見えた。  
右側の道は細く、緩やかなカーブを描きながら森の向こうへと続いていて、道端には赤い郵便受けが立っている。  
左の道は広いけれど、曲がりくねって傾斜していて、先がどうなっているのか判然としなかった。  
 
私は右の郵便受けに走って行き、それにぽんと手を置いた。  
「守! 見て、これ……こんなのがあるってことはさ、こっちに民家があるんじゃない? 誰か居るんだよ」  
この先にはきっと、例の裸の女の家があるんだ。私は確信していた。  
なんとなく嫌な予感はあったけれど、それ以上に、私は彼女のことが気になる。  
なぜ彼女はあんな風に、私と守の前に姿を現したのか? いったい、何の目的で?  
それに――正直言うと、もう疲れてくたくたなので、これ以上余計に歩きたくはなかった。  
 
それなのに守の奴は、私の提案を快く思ってないみたいだった。  
郵便受けが古びてぼろぼろなことを指摘し、この先に家があったとしても、きっともう廃屋になっているなんて言うのだ。  
いいじゃん別に、廃屋だって。とにかく屋根さえあってちゃんと休憩できれば、それで……。  
「と、とにかく行ってみようよ!」  
夜の山道でご休憩――ちょっと変なことを連想してしまった私は、変な妄想を振り切るように、郵便受けの先へ歩いて行った。  
さっさと歩く私の後ろを、守も仕方なしについてくる。  
 
道の先は、月下奇人の花がよりいっそう多く咲いていて、道の両端を血の色に染めているようだった。  
不吉の象徴である赤い色。  
視界の赤が密度を増してゆくごとに、守の様子が、おかしくなり始めていた。  
突然立ち止まって頭を左右に振ったり、悲鳴のような声をあげて、私を驚かせたりする。  
原因は明らかだった。月下奇人だ。  
月下奇人の強い香りには、人の妄想を掻き立てたり、ありもしないものを見せたりする効果があるのだと思う。  
天然のドラッグみたいなものだ。  
かくいう私も、さっきからその影響下にあるようだった。  
感じるのだ。私の隣にぴったりと寄り添い、影のようにつきまとってくる女の躰。  
くすくすと笑いながら、そいつは私の耳元で囁く。  
――もうすぐ、まもるとセックスできるわね……。  
 
ぞくりとして立ち止まった私の頭上を稲光が走り、辺り一帯を、真っ白に照らし出した。  
そして、眼の前に現れたもの――。  
「これは……」  
 
そこにあったのは、とても大きな古い洋館だった。  
石塀に囲まれた広大な敷地のずっと向こう。雷鳴をバックにそびえ立つそれを見て、私は言った。  
「お、お化け屋敷みたいだね……」  
私は、以前守に連れてって貰った遊園地で見た、ホラーハウスを思い出していた。  
今見ているこれは、あの、廃墟を模したというアトラクションなんかより、ずっと迫力があるように思えた。  
だってこれって、どこからどう見ても、本物の廃墟なんだもん。  
なので、門扉も壊れて地面で苔むしているから、中に入るのにも何ら苦労はない。  
そして――敷地内の果てしなく広い庭は、一面月下奇人で覆い尽くされていた。  
 
「赤い……海」  
守はぼんやり呟くと、その、“赤い海”みたいな月下奇人の庭に向かい、ふらふらと歩き始めた。まるで、何かに呼ばれてでもいるかのように……。  
「ちょっと、守?」  
慌てて呼び止めようとする私を無視して、守は、結構な早足で庭の中を進んで行ってしまう。  
そうかと思えば、いきなり途中で立ち止まり、悲鳴をあげてしゃがみ込んでしまった。  
「守? どうしたの、しっかりして!」  
必死で追いついた私は、呼びかけながら守の肩を揺さぶった。  
守は立ちあがり、眼鏡を直しつつ、弱々しく私に返事をする。何とか正気は取り戻せたみたいだけど、顔色が真っ青だ。  
 
「しょうがないなあ、もう。しっかりしてよ!」  
こんな時の守には、下手に労わったりするより、むしろ活を入れてやった方がいい。  
私はそれを知っていたから、わざときつい口調で言った。  
案の定、守は困ったように笑いつつも、その顔色はまともなものに戻っていった。  
「判ってるよ。もう大丈夫だ……さあ、行こう」  
 
庭の中央を横切ってお屋敷まで続く煉瓦敷きの小道は、月下奇人に侵蝕されて、ほとんどないのも同然だった。  
それでも私達は、律儀に小道をたどって歩いた。  
「中に入れるといいけどな」  
お屋敷の玄関が近づいてくると、守はそんなことを心配し始めた。  
一方、私はといえば――このお屋敷への道を選んだことを、今さらながらに、後悔し始めていた。  
 
こっちに来れば、家が見つかりすぐ休める。その予感が、私の足をこちらに向けさせたのは間違いない。  
けれども、それはなぜ? どうして私、そんなことが判ったんだろう?  
確かに私って、昔っからそういう勘は働く方だ。きっとそれも、ちからが影響してるんだろうけど。  
だけど、あの時私が感じたものは、いつものそれとは違っていた気がする。  
 
私……このお屋敷を、ずっと前から知ってたような気がする……。  
 
「ねえ、中に入っちゃって、大丈夫なのかな?」  
玄関の前までたどり着いた時、私は、恐る恐る守に尋ねた。  
今ならまだ間に合う。守が、思い直してさえくれたなら。  
でも、守の意志はもう固まっているみたいだった。  
「構わないだろ。ここ多分……ていうか、絶対に、空き家だし」  
そんな見当外れなことを言い、私に向かって笑いかける。  
その反面、声が微かに震えているのは、彼も何かを感じているから?  
 
お屋敷の重そうな扉が、守の手によって、ゆっくりと開かれてゆく。  
湿気た押入れの中みたいな臭いと、不自然なくらいの冷気が、外に向かって漂い出た。  
腕の産毛が逆立つ。守の方を見あげると、彼の首筋にも鳥肌が立っていた。  
――本当に、大丈夫なの?  
思わず心で呟くと、それに答えるかのように、守は私の手を取った。  
そして、私の手を引き、お屋敷に足を踏み入れた。  
 
「……お邪魔しまぁす!」  
誰も居ないであろうお屋敷に向かい、守は、やけに元気な声で挨拶をした――。  
 
【つづく】  
 
 
 

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