九話 (8月6日)  
 
 
河原から少年達の声がする。  
空は真っ青、川向こうから白い峰が沸き上がる。  
土手の匂いは露と夏草。  
小石を飛ばせば光を含んだ水が弾けた。  
 
「てっちゃん、てっちゃん。見て!五回も跳ねた!」  
「そろそろ戻らねえと不味いんじゃねえの」  
 
振り返ると幼馴染の大学生が午前中の日陰になった。  
ペットボトルのレジ袋を土手に置いて手頃な小石を探し、真似をして投げる。  
横っ跳びに三回跳ねて、白い小石はちゃぷんと消えた。  
 
「くそ、負けた」  
「はい私の勝ち」  
「うるっさいな。もう一回だけやる」  
 
くすぐったい。  
水切りなんて久々だ。  
ふと気づくと、向こうの方でも水がパチャパチャ跳ねている。  
キャッチボールしていた小学生がつられたらしく、グローブを放り出して水切り合戦を始めていた。  
隣の六号棟の兄弟だ(言っていなかったけれど、私とてっちゃんは五号棟である)。  
無鉄砲なお兄ちゃんと、大人しくてマイペースな弟くん。  
広場で遊んでいたから見覚えがある。  
いつ見ても、昔の石川兄弟を逆転したようで微笑ましい。  
 
「何笑ってんの。桜子」  
「あーれ」  
 
指さしてくすくす笑うと、てっちゃんも同じことを思っていたらしい。  
何か言おうとしてからやめ、決まり悪げに明後日を見た。  
八月初旬の午前中は晴れ、コンビニへ買い出しの帰り道。  
あまりに天気が良くて気持ちがいいので、今日は土手道を通らずに、橋の脇から階段を降りて、 川沿いをのんびりときたのだった。  
 
グラウンドから川岸の階段へ、遊び仲間なのだろう、競いたがりの少年たちが石を拾ってまた幾人か走っていく。  
総勢で十人ほどが集まって、わあわあと力いっぱい押し合いへし合い危なっかしい。  
よく見れば女の子が一人だけ混ざっているのが、優しい帽子の色で分かる。  
 
懐かしい光景だった。  
あんな風にして私も男子に混ざり、懸命に白球を追いかけて遊んでいたのだ。  
 
見守りつつも私たちは水切りをやめて帰ろうとしていた。  
グラウンドを横切り子どもたちの後ろを通って、公営住宅へと足を向けるだけだった。  
 
それが、声の届く距離に来たあたりで様子が変わってきた。  
気になったので、てっちゃんの袖を引き、立ち止まって耳を傾ける。  
出来た出来ない、ヘタクソ生意気エトセトラ。  
なぜだか喧嘩になっている。  
女の子が俯いている。  
あげく誰かが元気の良い女の子の帽子を取りあげて、水切りの要領で川へと投げるふりをした。  
 
「あー」  
 
てっちゃんが、後ろでやっちまったと呟いている。  
取り上げた子も、本気で投げるつもりはなかったのかもしれないけれど。  
折悪く川風が吹き荒あがり、帽子は弧を描いてフリスビーのように飛んで、川の中程、流木と岩の茂みに落下した。  
短い髪の女の子はついに、声をあげて泣き出した。  
 
「わああ、ひ、ひどい。てっちゃんひどいよ」  
「ええなに俺がひどいの……?」  
 
腕を掴んで揺すると困った声が返ってきた。  
子どもらからも気まずそうなため息があがる。  
花模様の優しい帽子はゆらゆらと揺れて、岩の引っ掛かりから今にも流れて行きそうだ。  
女の子はうずくまって泣いている。  
私は服装を確認した。  
ぐっと伸びをするとトントンと爪先の様子を確認、泣かせたとか誰のせいとか、責め合いのはじまった小学生達の方へと早足で向かう。  
洗いざらしの長Tシャツに短パン。  
濡れても惜しくない、いける。  
 
「ちょ、さくっ」  
 
後ろからはてっちゃんが慌てた声でついてくる。  
肩に手をかけられたので振り返って見上げた。  
心配そうなのが可愛くて自然に微笑う。  
 
「あの子の帽子取ってくるだけだってば。流れも遅いし大丈夫。てっちゃんは、男の子たち叱ってあげて?」  
 
ね?と手を振ればいつもなら引き下がってくれるはずだった。  
今日は暑いし、きっと川は冷たくて気持ちいいだろう。  
そう思っていたのに肩を掴む指はなぜだか離れない。  
 
「嫌だって。待てよ」  
「なんで?」  
「そういうことなら俺……うっわやべぇアレ」  
「ああっ!」  
 
気を取られているうちに急展開。  
六号棟のお兄ちゃんの方が『まかせろ!』などと叫びながら川に入り、ざぶざぶ中洲に向かっている。  
ダメだ。  
止めなくちゃ。  
この川は、入ったことがあるから分かる、大人はまだしも小学校低学年には途中からが深すぎるのだ。  
間に合わずぞぼんと音がして飛沫が跳ねる。  
慌てて助けなければと靴を脱ぐ。  
 
「てっちゃん待ってて……、え、ええ?ちょ、ちょっと、徹哉!てっちゃん!」  
 
何と思う間もなく、てっちゃんが私を押しやって躊躇なく少年を追い、夏の川に勢いよく踏み込んだ。  
完全に先を越されて、よろけたまま背を見送る。  
案の定、すぐに溺れかけてパニックになっていた少年を水面下からぐいと引き上げて抱え上げ、息をあげて岸に戻ってくる。  
ぼたぼたと少年とからもむき出しの腕からも大粒の水が落ちていた。  
我に返り、鞄を投げ出して走り寄る。  
 
「徹哉、大丈夫!?」  
「桜子、叱っといて。ついでに帽子も取ってくるわ」  
「う、うん。分かっ、た……」  
 
川に足をつけたまま、てっちゃんがあまり普通に笑うので、吃った。  
両手で少年を抱きとめる。  
また心臓が頑張っている。  
……きっと暑いのは真夏日だからだ。  
泣きたくないのだろう、歯を食い縛って涙を浮かべた少年は冷たくて服が水を吸って、想像よりも腕にずしりと重かった。  
てっちゃんをしばらく見送ってから、六号棟のお兄ちゃん、名前は知らないけれど――を地面に下ろして、怪我がないかをよく見ようとする。  
 
「うるせえ、さわんな!」  
 
生意気にも手を振り払おうとしたので拳骨した。  
さらに泣きそうになっているけど、命に関わることなので、ここは心を鬼にする。  
 
「さわんな。じゃないでしょうがっ!!あのまま溺れてたかもしれないの、君は!」  
 
体育会系で小中高と鳴らした声量は、そうそう衰えるものじゃない。  
びりびり痺れたように、周囲の子まで息を呑む。  
涙目のまま口を噤んだ体をあちこち見て念のため手を取って触る。  
 
「本当に勇気ある男の子なら、『触るな』の前に、助けてもらった人に言うことがあるでしょ……ここ痛くない?」  
「うん。ご、ごめんなさ……」  
「あ、り、が、と、う、でしょ。ごめんなさいはそのあと。分かった?」  
「あ、あり……が、と。……っ、う」  
「はーいよく言えました。泣かないのは頑張った、強いエライ。怪我もないみたいだし、もう無茶しちゃだめだぞー」  
 
ぐしゃぐしゃに濡れた小さな頭に、手持ちのハンカチを被せて水を拭く。  
プロ野球ロゴのTシャツで青空の下、泣くのをこらえる少年は誰かさんを思い出させて愛おしい。  
 
そうしている間に、大きくなった誰かさんは、ずぶ濡れになって帽子を掲げて帰ってきた。  
ツンツンした茶色い髪もぺたりとなっている。  
大人の腰くらいの深さの川なのに頭まで濡れているのは…多分濡れた岩で滑ったのだろう。  
仲良くなったあの頃のように。  
かっこいいのに格好つかないなあ、と忍び笑う。  
 
「おかえり。徹哉」  
 
人前ではできるだけということなので、約束通りに名前を呼ぶ。  
てっちゃんは困ったように頭を掻いた。  
それでも、男の子たちをちゃんと叱って、少女にお礼を言われて帽子を返す幼馴染の姿は、  
びしょ濡れのままでも、やっぱり素敵なお兄さんだった。  
 
変わらないように見えて、私も彼も、こうして毎日少しずつ、大人になっていくのだろう。  
 
橋と川だけは昔のままでそこに在り。  
一筋の飛行機雲が対岸の土手の下から伸びていた。  
 
 
***  
 
 
少年達を送り届けて(弟くんがお兄ちゃんにひっついて泣いていた)、  
着替えのために一度お互いの家に戻った。  
 
軽くシャワーを浴びてタオルを巻き、水色のカットソーを洗濯ものから引っぱり出していると、母が呆れた顔で笑った。  
 
「まあたびしょ濡れになって。雨に濡れるだけじゃ足りないの」  
「だって小さい子が溺れてたんだよ?いい事したんだってば。あ、あと今からてっちゃん来るから」  
「本気で付き合ってるの?てっちゃん、まだ若いし就職だって四年後でしょ。あんたその頃いくつ」  
「もーいいじゃんほっといて」  
 
分かってるそんな事。  
カットソーを被りながら居間に出ると、母が化粧をしに入れ違った。  
珍しく休日出勤らしい。  
 
ところで。  
我が家には公営住宅の狭い空間にふさわしくない、どんと大きなテレビがある。  
働き出してから母を説得し、八割以上を出資した大画面の地デジ対応テレビは私の密かな宝物だ。  
映像もきれいでメニューも充実、スポーツ観戦にぴったりなのである。  
積み重なったスポーツ誌の山を崩しながら、ちいさなテレビのリモコンを探す。  
リモコンに鈴がついていればいいのに。  
 
「桜子の事だから好い加減なことはしないって信用してるけど。  
 てっちゃんあんたのことずうっと好きだったんだから遊びとかそういうのだったら失礼よぉ」  
「う、何それ……だからもーほっといてってば!」  
 
顔を背けながらも、思わぬ新情報に頬が緩む。  
てっちゃんは、決まり悪そうに呟くだけで、あまりちゃんと言葉にしてくれないけれど。  
本当にずっとそうだったのかな。  
そうだったらものすごく嬉しい。  
 
ようやく見つけたリモコンを操作し、テレビの解説をBGMに台所を覗く。  
溶けかけたアイスと炭酸飲料のレジ袋を冷凍庫にまとめて突っ込んでいたのを取り出し、枝豆を茹でる準備をする。  
唯一まともに作れる料理が枝豆の塩茹でなので気を遣って塩揉みをした。  
くつくつ火が換気扇と混ざる先、母が隣の玄関脇から顔を出す。  
 
「ちょっと打ち合わせに顔出すだけだから、お昼過ぎには帰るからね」  
「はーい」  
「ご近所に顔向けできない事はしないのよ」  
 
お母さんの口癖だ。  
 
「……はーい」  
 
うるさいなぁもう。  
応援しているんだか反対なんだかはっきりしてほしい。  
そもそも、すぐ下の階段で指を舐められたりしたあれは、既にご近所さまに顔向けできないのかもしれない。  
まあいいか。  
そんなことを考えながらお湯をあけた。  
湯気をたてる枝豆の鮮やかな色が居間に山と盛られた頃になって、ようやく、呼び鈴がいつものように二度鳴った。  
 
「あれ、早百合おばさんは?」  
「ちょっとだけお仕事だっ……あー、もーてっちゃんたら、髪乾かさないで来たの?」  
「時間ねんだから仕方ないだろ」  
 
てっちゃんは頓着しないでソファに座り、試合前の解説や予想を、麦茶を注いで眺めている。  
髪からぽたぽた雫が垂れてTシャツの肩が濡れている。  
こういうところはちっとも変わっていない。  
 
「てっちゃん。風邪引くよ」  
「桜子だっていつもこんくらい大雑把じゃん。夏なんだから乾くだろー」  
「私はちゃんとタオルで拭いてるからいいの。もー、クーラー使ったら冷えちゃうじゃない」  
 
ああ、解説を聞き逃しちゃう。  
慌てて洗面所から洗濯済みのタオルを持ってくる。  
ドアは開けっ放しだけど許してもらおう。  
パタパタと居間に戻ると、ソファの背もたれから濡れた髪が見えた。  
立ち止まる。  
……急に驚かせたくなった。  
振り返る前に後ろから、大判タオルを後頭部にばさりとかぶせて視界を塞ぐ。  
 
「えいっ 」  
「わ、何」  
 
そのまま背後に立って屈んだまま、さっきの少年にしたように、タオルで髪をぐしゃぐしゃする。  
あ、いいかも。これなら一緒にテレビが見られる。  
 
「なんか理容室みてえ…」  
 
てっちゃんは抵抗をやめて、ソファに背を沈めた。  
その言い方が可愛い。  
 
「かゆいところはございますかー?」  
 
なんて笑いながら、水気をタオルで吸っていく。  
お日さまの匂いだったタオルがしっとり濡れて柔らかくなる。  
シャワーを浴びたばかりだからか石鹸の匂いがした。  
 
川の匂いもまだかすかに、残っている。  
 
吹き込む夏風に、髪をかき回す力を弱くする。  
 
「てっちゃん。さっきはどうして止めたの?冷たくて気持ちいいし、私、川に入るの嫌じゃなかったのに」  
「や。……その、」  
「うん?」  
「やっぱ、ほら。ああいう場面で川に落ちるのは桜子より俺の役目かな、とか」  
 
タオルに隠れた表情はみえなかったけれど。  
ぼそりという幼馴染は、とても、その。  
年下には見えなかった。  
髪にかぶせたタオルを握り、固まる。  
 
――ああ、もう、年下の男の子って、皆こんなに成長しちゃうものなのかなあ。  
 
「てっちゃん、ずるい」  
「何で」  
 
――かっこいい。  
なんて、恥ずかしくて、耳が熱くてとても言えない。  
また髪をぐしゃぐしゃとしながら天井を見る。  
 
「……ひみつ」  
「聞きたい」  
「ダメ」  
「最後のマッサージ券の回数無限にしていいから」  
「もっとダメ、それは」  
 
使おうとして使いづらくて、マッサージ券は最後の一枚がずっと棚上げになっている。  
 
あんなことになってしまったら、だって、  
本当にマッサージしてほしいと思ってお願いしても、違う意味に聞こえてしまう気がする。  
多分、もう最後の一枚は永遠に使えないだろう。  
まあ、てっちゃんとの約束がずっと終わらず残るなら、それはそれで悪くない。  
 
「桜子」  
「んっ、」  
 
タオルに重ねた手を掴まれて、急に手首の裏に口づけられた。  
落とした雫が染みになって広がるように、皮膚の感覚がそのあたりから甘くなる。  
 
「ちょ、ゃ……」  
「あのさ、桜子」  
「う、うん」  
「俺、来週から海にバイト行ってくる。夏休みいっぱいは留守にするからさ」  
「あ、ふぁ……え、そうなの、なんで?」  
 
急な話に目が覚める。  
そもそも社会人の私にとって夏休みはお盆に四日のみなので、平日いないくらいなら、気にはならないのだけど。  
土日もずっといないのだろうか。  
後ろから覗き込むと、てっちゃんは目を逸らした。  
 
「なんでって金貯めるんだよ。桜子が言ったんじゃねえか」  
「あ……うん…」  
 
てっちゃんのお金というのは、(彼がバイトでもしない限りは)即ち石川のおばさんが働いてくれた分と  
徹君の仕送りのお金なのだと、確かにこの前、私が言った。  
そのお金で、ちょっとお茶するくらいならまだしも、その、いくら実家同士で自由がきかないからといっても、  
特殊なホテルの代金に……というのは、さすがに石川さんのうちに顔向けができないと思ってしまう。  
母の刷り込みは根強い。  
……あと、ええと、私の心の準備もあるといいますか。  
とにかく、どうしても行きたいならてっちゃんが半額分を自分で稼ぐのなら考えてもいいよ。と  
当たり前のことを言い張って譲らなかったら、彼が拗ねてしまったのだ。  
社会人と大学生の経済観念の違いは思ったよりもずっと大きい。  
 
ちゃんと考えてくれたのは、成長しているんだなと分かって、嬉しいけれど。  
 
「で、でも夏休みって九月まででしょ?ずっとだなんて、長、や……ふぁ、あ!?  
 長い、ん、じゃ…ぁ、こ、こらっ。真面目な話してる……のにっ」  
「駄目?」  
 
まだ髪を拭き終わっていないのに、手を取られて掴まれて、腕の内側を言葉の合間にキスされ吸われる。  
それだけで脚の力が抜けて崩れてしまいそうになる。  
 
「だ、だめ……」  
 
てっちゃんが本気になる前に引っ込めて、タオルからも手を離した。  
この体勢は危ない。  
てっちゃんは、テレビの方を見たままだ。  
 
「あのさ。桜子」  
「ぅ、ん」  
「俺も真面目な話、したいんだけど」  
「……ん」  
 
手を抱いて回り込んで、少し離れた隣に座る。  
横の大窓からはぬるい風が吹き込んでいた。  
そろそろクーラーをいれようか。  
スタンドを映すテレビ画面を眺めつつ、頭を掻きながら言葉を探す、幼馴染のことを待つ。  
枝豆おいしい。  
 
「桜子」  
「はい」  
「えっと、」  
 
さっきからこのやり取りは三度目だけど、それが楽しい。  
三度目の正直か、ようやく、続きの言葉が見つかったらしかった。  
 
「えっと……俺、バカだけどさ」  
「うん?」  
「勉強も嫌いだけどさ。その、ちゃんと卒業する。バイトして金も貯めて、奨学金とか、早く返せるようにするよ」  
 
最後の発想はてっちゃんオリジナルじゃないな、徹君だろうなぁ、と思いながら、苦笑して頷く。  
そういうことは、おばさんに言ってあげた方が喜ぶんじゃないだろうか。  
アイスの実おいしい。  
 
「うんうん。てっちゃんなら大丈夫だよ、頑張って」  
「頑張るよ。……その、なんだ」  
 
盛り上がるアナウンサー。  
西日本の空の映像。  
その間を、おいて、てっちゃんはようやく次の言葉を口にした。  
 
「桜子から見たら、ガキで呆れるかもしんないけどさ。追いつくから待っててくれよ。  
 その……俺が、……社会的に、桜子のこと俺のものにできるためなら、なんだってする」  
 
耳には歓声。  
超満員の甲子園、第一試合のプレイボール。  
楽しみでしかたなかった一瞬に、テレビから目を離した。  
 
あの頃のように髪を濡らしてタオルを被って、気まずい顔で私を見つめる生意気な少年が大人の顔で目の前にいた。  
 
少し離れた距離をずりずりと詰め、ペットボトル片手に寄りそうようにして、またテレビに目を戻す。  
大人になった腕に触れた。  
温かい。  
てっちゃんは拍子抜けしたみたいに困った顔をしていて申し訳ないけれど、この一戦だけは外せない。  
 
ごめんね。  
……うまく反応できなかったけれど。  
ちゃんと、聞こえていたから分かってる。  
 
窓の向こうは眩しい盛夏。  
 
私は冬のコタツも春の桜も初夏の新緑も好きだけれど、夏休みだって大好きだ。  
なんといっても甲子園が熱い。  
枝豆の塩茹で、冷たいアイス、麦茶に炭酸飲料にスナック菓子。  
下の階に住む石川さんちのてっちゃんを誘って、二人でたくさん盛り上がるのだ。  
クーラーをつけなくちゃいけないのに、もうしばらく離れたくない。  
寄り添ったまま、汗ばんだ手を重ねる。  
 
「てっちゃん」  
「ん」  
「バイト、気をつけてね。連絡先も教えてね」  
 
球児が土煙をあげて走る。  
芯にあたった、伸びやかな音。  
白球を追うグローブが空をさす。  
 
「分かってるよ、で、その、」  
「……ちゃんと待ってるから」  
 
指を絡めて握り返された仕草で、ちゃんと伝わったのだとわかる。  
指切りげんまんのよう。  
こんな約束の仕方もあるんだなあと思う。  
かすかに、握る指から甘い刺激が伝わるけれど気づかなかったふりをした。  
グラスの氷が溶けて、軽やかに澄んだ音を鳴らす。  
 
「浮気しちゃだめだよ」  
「しねーよ。……さ、桜子だって」  
「どうしよっかなぁ……冗談、冗談!ね、落ち込まないで、ほら。ほら、また打ったよ!」  
 
画面向こうは一回の表。  
全国的な快晴の八月六日はお昼前。  
 
試合はまだまだ始まったばかり、私たちもこれからだ。  
 
 
 
 
 
 
おわり  
 
 

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