一話 (12月6日)
私は冬が好きだ。
冬というよりコタツと蜜柑が好きなのだと思う。
公営住宅の間取りは全て同じだけれど、私の家にはコタツがおいてない。
目の前では、てっちゃんが完全に拗ねている。
二つ年下の茶色い髪をぐしゃぐしゃにした浪人生で、粋がっているけれど中身は可愛い弟分だ。
夏頃から、徹君とおばさんに頼まれてたまに勉強を見てあげることになった。
「もう、てっちゃん。起きなさいよー」
「………」
湯のみでつついてみるのだが、問題集から額をあげようとしない。
しかたないので蜜柑を剥く。
ふたつに割って、白い筋を取りながらひとつずつ食べる。
「……俺にこんなの分かるわけねえじゃん」
「大丈夫大丈夫、やる気の問題だって」
蜜柑が美味しい。
「どうせ桜子とか兄貴みたいになれねえし。やっても無駄だし」
「私も徹君も関係ない。てっちゃんは、てっちゃんに出来る範囲で頑張ってるんだから大丈夫だって」
「だって全然分かんねえんだもん」
もう一つ蜜柑をゆっくりと剥く。
「てっちゃん、拗ねると語尾に「もん」ってつけるよね。可愛いよねぇ」
「………うるさいな、なんなんだよ」
「もう。そっちこそなんなの?努力してるんだから何とかなるでしょ。するんでしょ。
それより私が仕事が終わってからの時間、ずうっと来てあげてたのに、それは意味がなかったんだ?
飲み会に誘われても半分くらい断ってたのに。家の用事ですって言って頭下げたのに。頼られて損した」
経験上てっちゃんは、突き放し過ぎると諦め、甘やかしたら付けあがる。
そりゃあ、進路が決まらないのは辛いだろうけれど。
最近の愚痴はまるっきりただの泣きごとなので、真面目に受け止めていたら持たない。
それにこの半年間。
私が仕事帰りの貴重な時間を、使っているのにお礼の一つもなくて、正直少し、きついのも本当だ。
システムの入力だのなんだの、一日中キーボードを打ってからに、
帰ってからは久しく使わないシャープペンシルやら赤ペンやら。
「今まで一回もお礼の言葉もないしさ。手が痛いのに蜜柑の一つも剥いてくれないしさ。
愚図ってれば何とかなるなら、いつまでもそうやっていればいいじゃない。もう知らないよ」
通勤用のニットコートをスーツに羽織り、筆記用具を手元にまとめる。
いつもはおばさんが仕事から帰るのを待ってお暇しているけど、今日はもう疲れた。
ふとてっちゃんが顔をあげた。
目が合う。
「知らなかった。手、痛いのか?」
「痛いっていうか、疲れた。毎日毎日仕事してから勉強見てるんだから、そりゃそうじゃない?」
「ごめん……」
「謝るくらいならやる気を出してくれた方がいいなぁ。ねぇ、どうやったらやる気出るの?
受かったら御馳走してあげるとか、そういうのでいいなら、希望言って。約束するから 」
言いつつ荷物を肩にかけ、(名残惜しい)こたつから立ち上がる。
窓がうっすら結露していた。
今晩も冷え込みそうだった。
情けない顔で俯く幼馴染を一瞥して、蜜柑を右手に取り左手を振った。
「やる気がないなら今日はやってもしょうがないよ。じゃね、また明日」
勝手知ったるダイニングキッチンを抜けて玄関へ。
パンプスの踵をはめて、溜息をついた。
そりゃあ、てっちゃんは年下の男の子だけれど、
男の子に成長してほしいと思うのはわがままなことなんだろうか。
「てっちゃーん。お邪魔しました、おばさんによろしくね」
居間に向かって声をなげる。
返事を待つが、何もない。
まったくもう。
金属製のノブは手のひらにジワリと冷たく沁みた。
コンクリートの階段は雪がうっすら積もっていた。
公営住宅の403と303。
すぐ上の階が十年来の私の家だ。
昇り階段から冬の雪空が見える。
一緒に小さい頃から見てきたのに、私が成人した今も、てっちゃんは少年のままみたいだ。
不意にポケットが震えた。
足をとめて、鍵の隙間から電話を探る。
画面を開くと思わず頬が緩んだ。
『 title: ごめん
本文: 頑張ります。今度手のマッサージとかするから』
「そういうことじゃないんだけどなぁ…」
一人ごちながら思わず笑う。
考えて、すぐ扉向こうの相手にぽちぽちとメールする。
吹きさらしの階段で立ったままメールを打つなんて、中学時代に戻ったようだ。
『 title: だめです
本文: おさわり禁止。ただし合格したらいくらでも手を好きにしていいですよ。
あと、やる気が出そうな約束があれば考えておいてね。
ちょっとお高い中華料理とかどうかな? 桜子姉さんより』
ぱたんと携帯電話を閉じて、白い息をはく。
明日も仕事を頑張ろう。
二話 (3月6日)
花粉症なので、春が嫌いだった。
ただし、――二浪の俺が無事合格できた今年の春は特別に、好きだと言ってやれなくもない。
PCの画面を食い入るように見つめながら、充電中の携帯電話を慌てて取り上げた。
スピーカー越しで鳴るストイックな呼び出し音に、耳を押し付ける。
「早く出ろ、早く出ろ」
呟きながらも何度も受験票と合格発表のPDFを見比べる。
間違いない。
信じられねえ。
あんなにバカだった俺がなんて、なんて奇跡だろう。
『――てっちゃん、どうだっ』
「合格ったよバカヤローー!!!桜子どうだ見たか、約束守ってもらうかんなっ!」
穏やかな声が飛び込んできた途端、実感が急に込み上げてきた。
合格できたのは何より―幼馴染の桜子姉に勉強を見てもらったことが大きい。
公営住宅の上階に住む天城桜子は俺のふたつ上で、俺が浪人しているまにとっくに社会人になっている。
市内の短大を出た後、既に地元工場の事務員として勤めている。
小さい頃から、俺の兄貴と同い年なのもあり、てっちゃん、てっちゃんと弟のように扱ってくれた。
つまるところ俺は、桜子姉にとって永遠に「てっちゃん」であるらしかった。
『やったじゃない、てっちゃん!すごいすごい!頑張ったねー!』
「その『てっちゃん』てゆーのヤメロ」
…だからその呼び方は嫌いなのだと言っているのに、何べん言っても聞きやしない。
鬱憤晴らしに、高校に入って「桜子姉ちゃん」を呼び捨てにしだした時も『生意気だなぁ』と肩を竦めて流され
た。
完全に弟扱いである。
『えー、だって、てっちゃんは、てっちゃんじゃない?そんでえっと、約束ってなんだっけ。
手のひらマッサージだっけ?あれ?これは私がしてもらう?』
「それは俺の約束だったろ。桜子の約束ってのはさ、受かったら、その」
『うん、なんだっけ』
なんで忘れてるんだよ。
恥ずかしい。
マウスパッドを凝視して、携帯を握りしめる。
「だ、…だから、その。てっちゃん、ってのを止めろって言うのが約束だったじゃねぇか」
『そうだっけ!?』
「そうなんですよ!お前なぁ」
『あ。はい、今行きます。てっちゃんゴメン、休憩時間終わっちゃった。また帰ったら話聞くね!』
「は?いやちょ、…待っ」
耳元で無情な電子音。
突っ伏して横目に窓を眺めれば、花粉が俟っていそうな青空だった。
やっぱり春は嫌いだ。
着信音が鳴ったので期待して開いたら、親からの合格伺いメールだった。
返信するべきなのだろうが、とてもじゃないがしばらく立ち上がれそうにない。
三話 (4月16日)
葉桜が好きだ。
桜の花びらを踏みしめたまま、見上げると広がる緑と桜色の鮮やかさがいい。
夕方から会社の新入社員歓迎会があるので、土曜なのに昼から髪を洗い直した。
最近美容室に行くのをサボっていたので、耳下で半端に伸びた髪があちこち揺れてまとまらない。
家を出るときには、お母さんがつけたラジオに混じって、開いた窓から野球少年の声が聴こえていた。
公営住宅のすぐ脇に、河原とグラウンドがあるのだ。
小さなバッグを肩にかけ、川沿いの桜並木を歩く。
これでも私は昔、野球少女だった。
才能がなかたっとか、男子に球威で敵わなくなったとか、中学にソフトボール部がなかっただとか、遠ざかった理由はいろいろとある。
小学校も上の学年になると、プレイするより見守りながらスコアを書くことが多くなり、中学では男の子みたいな髪型もやめ、マネージャーになった。
少女の頃、雪が解けて河原のグラウンドを使えるようになる4月は、あんなにも眩しい季節だったのに。
春風が強く、私は小さく眼をこすった。
私は花粉症ではないが、この分だと近いうちに発症するのかもしれない。
歩きながら、なんとはなしに携帯電話を開くと、ちょうどのタイミングで着信が来た。
「――はい。天城です。ええ、今向かっています……スーパーありますよ。分かりました。
ビールのメーカーは…はい!?」
急に肩をつつかれて、携帯を肩に挟んだままで振り返る。
無茶な体勢になったうえに、目の前に居たのがマスクと色つき眼鏡の男性だったので、
一瞬電話を取り落としかけた。
「あ、いえ、なんでもないです。買い出し了解です。ではまた……、てっちゃん!びっくりさせないでよ」
変質者かと思ったじゃない。
軽く頭を小突くと、てっちゃんはなんともいえない顔をした。
眼鏡の奥の表情が目に見えるようで、妙にくすぐったくなる。
二つ下の幼馴染は、4月に入り、服装がちゃんとして髪も整い、大学生らしい格好になっている。
だから余計、マスク越しに話すたびに鼻がズビズビなるのが可哀そうだ。
こんな恰好でも表情が分かるのは、小さい頃から傍にいたゆえなのかもしれない。
「ごめんごめん。つらそうだね、花粉症。外に出て大丈夫なの?」
「授業があるし、しょうがねえよ…。実家から通いだし」
てっちゃんの大学は、自宅から徒歩15分の駅まで行き、そこから電車に30分揺られてさらに20分歩く。
つまり、通うには充分だが、けして近いとも言えない場所にある。
私も駅に行くので、並んで土手を町へ下りた。
踏切りを渡る風も暖かい。
「ね、てっちゃん。今年は無理かもしれないけど、アルバイトして、一人暮らししたらいいんじゃない?
大学の近くだったら、外を歩く時間が減るでしょ?」
「……そうするかも」
「そしたら遊びに行かせてね!あのあたり、いろいろ喫茶店とか映画館とかあるし、
遅くなっちゃうと帰るの大変なんだあ」
「便利な基地かよ!やだよ!」
「誰のおかげで大学合格したんでしたっけー」
頬をつつこうとしたらよけられた。
生意気である。
「お礼は手のマッサージ券やっただろ!大体…恥ずかしいからやめろってんのに、
てっちゃんとか、いつまでも」
「そっかごめんね、約束だったもんね。言いやすくって」
『恥ずかしいからやめろ』というてっちゃんは、時々知らない男の子のような顔をする。
引っ越して、下の階には居なくなったら、ますます私から離れていくのかもしれない。
たくさん新しい女の子と出会って、知らない関係をいろいろ紡いでいくのかもしれない。
弟離れをしてないと言えばそれまでだけれど、少し寂しかった。
――本音をいえば。
多分この先、「てっちゃん」と呼び続けられるのは私の特権かなと気付き、止めるのが惜しくなったのだ。
でも約束を破るお姉ちゃんはあまりよろしくない、それもきっと、私だけが見せてあげられる姿だろうから。
「呼びやすいけど…いい加減諦めようかな。じゃあ、なんて呼べばいい?君?さん?呼び捨て?」
「ガキ扱いしてない奴にしてくれよ」
「じゃあ『徹哉さん』……やばいこれなしこれなし!!しずかちゃんみたいあはははは徹哉さんー!!」
「すっげえむかつくそれ」
「そうそう、私スーパーで職場の飲み会用に、ビール買うんだけど。徹哉さん、荷物持ってくださる?」
「……それ以外の呼び方ならいいよ」
「じゃあ徹哉、荷物持ち手伝ってちょうだい」
マスクの向こうで、余計ランク下がってねえかとてっちゃんがぶつくさ言いながらついてきた。