「―――出来た」  
 
手の中の「それ」を眺めながら、私は満足気に呟いた。  
つややかなコーラルピンク。丸みを帯びた繊細なフォルム。  
小さなそれは手のひらの中にすっぽりと納まっている。  
指でつまみ、感触を確かめ、今一度細部まで確認して。  
その出来栄えに満足すると同時、―――私は机に突っ伏した。  
 
「………」  
 
逃げ出したい。  
このまま何処かに逃亡出来たらどれだけいいだろう。  
 
…半ば本気で考えを巡らせてみるが、それは出来ない相談だ。  
そうするとこの作品に日の目を見せてはやれなくなる。それはこの作品にかけた三ヶ月の日数、制作につぎ込んだ資金、その全てを無駄にするのを意味する。  
無意識下でも拒否しているらしく本気で動こうとしない指を無理矢理動かして、携帯の蓋を開けて記憶しているナンバーを押す。  
この瞬間だけはどうしても気分が沈む。  
 
「ハイ」  
 
きっかり3コールで聞こえてくるのもいつも通り。  
ああ、うんざりする。この声が。この相手が。  
私は気付かれないように、静かに溜息を吐き出した。  
 
「スノードロップ」。  
それが私のサイトの名前だ。  
自分の名前が小雪という事から適当に名付けたのだが、今となってはその適当につけただけの名前はその界隈ではそこそこの知名度を得ている。ネットショップ限定、アダルトグッズ販売店。男物も扱うが基本は女物で、相談されればオーダーメイド、既製品のアレンジ等も行う。  
贔屓にしてくれる顧客も増え、売上も評判も上々。仕事は楽しく、遣り甲斐もある。  
順風満帆と言っていいだろう。  
 
「でも」  
 
目の前の白亜の建物を見上げ、私はもう一度溜息を吐く。  
 
「…これだけは、慣れんな…」  
 
はー、と吐き出す為息は、もう何度目のものか自分でもわからなくなっていた。  
チャイムを押す指先が拒絶している。  
この建物の中に入りたくない、と言っている。  
それはこの建物の中に居る人物が原因だ。  
白亜の豪邸。普通の一軒家の家ならば軽く三つか四つは入るだろう。白い壁は真新しく、広々とした庭には薔薇が咲き乱れている。外国の貴族の屋敷、と言えばイメージが伝わるだろうか。何処からか馬に乗った王子が出てきてもおかしくはない雰囲気だ。  
…しかしその実体は。  
 
「小雪」  
 
不意に後ろからかけられた声に、思わずびくっとしてしまう。  
 
「相変わらずだね、小雪。いつまでも突っ立ってないで、早く入れば良かったのに」  
 
聞き慣れた声。  
なるべくなら聞きたくなかった声。  
 
後ろを振り返る。  
顔が顰めっ面になるのがわかる。  
 
「――麻耶…」  
「ふふ。久しぶり。会いたかったよ、ボクの小雪」  
 
さらりとしたプラチナブロンドが、太陽の光に煌いていた。  
 
「私は会いたくなかったんだが」  
 
リビングに通された私は麻耶に二つの箱を差し出した。  
一つは手土産の老舗のマカロン。一つはこの間完成したばかりの「作品」。  
マカロンには目もくれずに麻耶は早速とばかりに作品の箱を開ける。  
彼――にしか見えない外見だが、「彼女」はれっきとした女だった。色素が薄いのはロシアの血が混じっているからで、髪の毛は白銀、目は蒼みがかった灰色をしている。  
端麗な顔立ちで、モデルやタレントといっても充分通用する。  
綺麗な爪先でそれを摘み上げると、そのまましげしげと彼女は「それ」を眺めだした。  
 
「吸引機だね」  
「その通り。クリトリスに使う。スポイトのようなものだな」  
 
コーラルピンクのシリコンで作られているそれは、スポイトそのものだった。  
押し付けながらきゅっとつまめば吸引されるという至ってシンプルなシロモノだ。  
勿論それだけでは芸がないので、細部には色々と仕掛けを施してあるが。  
 
「…中にはイボがびっしり、か。ローションと組み合わせれば随分と快感は増すだろうね。  
 ローション塗れにしてからイボのついた吸引できゅっきゅ、と刺激する訳だ。  
 その間責め側は口が開くから、他の部分を責める事も出来る」  
 
「普通のスポイトならローションをつけると滑って吸引がしにくくなるんだが、それはそういう事も起きない。  
 特製のシリコンだからな。一度吸い上げたら最後、軽く左右に捻らなければどれだけ引っ張っても取れないようになっている」  
 
「ふぅん。いいんじゃないか?これなら痛みもないだろうし、怪我をする事もまずない。  
 ――医師として販売も可能だと判断出来るよ」  
 
ほ、と内心安堵する。  
目の前のプラチナブロンド。何処かの壁画から出てきたかのような白皙のぱっと見美青年――は、れっきとした医者だった。  
どんなに小さな道具でも、作るからには完璧に。妥協なんかしたら作品にも買い手にも失礼。という信念から、作った作品は全てこいつに見てもらう事になっている。  
万が一の可能性も全て潰す為に。  
事故など起こらず使い手がただ、快感だけを追いかけられるように。  
とても大事な事、と頭で理解はしていても、何度か「却下」と叩き潰された身にとっては、返事が返ってくるまでの数秒間は緊張の走る瞬間だった。  
私は箱を手にさっと立ち上がる。  
 
「よかった。安心したよ。では、私はこれで」  
「待ちなよ」  
 
がしっと手首を掴まれる。  
そのままぐいと引き寄せられ。  
 
「一番大事な事がまだ、終っていないだろう?小雪」  
 
ぞく。と背筋が凍った。  
 
「ま、や…。私はこれでも、忙しい身の上で……」  
 
「忙しい?SMのお遊びに付き合ったりしているようだし、随分と暇に見えるんだけどな?  
 ……金髪の美人に抱きつかれたりしていたよね?あの会は、楽しかったかい?」  
 
さあっと全身から、血の気が引くのを自覚しながら。  
 
「久しぶりに会えたんだから、楽しませてくれよ。…ね?」  
 
顎を掴まれ、振り向かされて。深く深く唇を押し付けられた。  
 
麻耶の舌は、柔らかい。  
前はもう少し煙草でざらざらしていたのだが、何時からかすっぱりと禁煙し、かさついていた唇も潤い、舌も柔らかいものになった。  
 
「う、」  
 
上顎を這い回る舌先に、背筋がぞわぞわと震えてしまう。  
手馴れた様子で私のシャツを麻耶の片手がまさぐっていく。器用に片手のままでシャツのボタンを外し、ブラの上から胸を揉まれた。布越しに乳首を摘まれて、あ、と口が開く。そこをすかさず麻耶の舌がもっと奥へと潜り込んでくる。  
絡め取られ、吸い付かれ、小鳥が啄ばむように口付けられ、それだけで全身の力が抜けていく。ブラはいつしか真上にずらされて、私の貧相な胸が剥き出しにさせられていた。  
 
「…ブラのワイヤーが、歪むだろう…」  
「新しいのを買ってあげる」  
 
悪態も相手には届かない。あっさりと受け流された。  
身長の高い麻耶に抱きかかえられると、私はまるで子供のようだ。外人の血のせいか麻耶の腕は長く、腕の檻の中に閉じ込められると私はもうどうする事も出来ない。  
こんな真昼間から、何をやっているんだろうなあ…。  
ぼんやりとそう考える。  
リビングには昼の太陽が、燦燦と明かりを室内に送り込んでいるというのに。  
こんなにも気持ちのいい午前だというのに。  
健康的な時間に自分達はこんなにも不健全な事をしている。  
 
「小雪」  
 
後ろから首筋に口付けられた。  
感覚で、痕がついたのだと知る。  
 
「…麻耶。痕はつけないでくれんか」  
「駄目だよ。小雪はボクだもん」  
 
だから所有印をつけないとなんだ。と笑いながらごねられた。  
痣をつけられていく。何個も。何個も。口付けられるたびに。相手の髪が首にかかる度に。  
首筋が、むず痒い。胸から走る感覚が甘い。  
麻耶の純粋な好意が伝わるのがくすぐったい。  
シャツを肩から落とされ、下のジーンズに相手の手が伸びてきた。  
思わずさっと脚を閉じる。  
 
「小雪」  
 
促すように腿を麻耶の手のひらで擦られる。  
 
「小雪」  
 
するすると、布越しにギリギリの位置を指先が撫でていく。  
脚の付け根を。腰骨の上を。臍の上を。脇腹を。  
形を確かめるように撫でるのは、麻耶の持つ癖の一つだ。  
下半身の意識を向けすぎていたせいか、いつの間にかブラが自分の体から消えていた。多分、ソファの下だろう。上半身が裸になってしまったが、後ろには体温があるし、室内の空調もあって寒くはない。  
片手で胸を弄られながら、何度も何度も腿を自分よりも白い細い手が撫でていく。  
耳元で自分の名前を呼ばれる。  
 
「……、ッ、」  
 
脚に僅かに隙間を作ると同時に、ジーンズの前のボタンを外した指がそのまま潜り込んできた。  
ショーツの上から撫でられて意思と関係なく腰が動くが、逃げられない。  
 
「…っ、あ」  
 
ショーツの上からクリトリスを捏ねられ、堪えていた声がとうとう漏れた。  
 
「ああ、やっと聞けた。小雪のそういう声。  
 快感には敏感な癖に、人一倍我慢するから、出すのがいつも大変なんだよ」  
 
後ろで笑う気配がする。  
ほっとけ。と心底思うが、口にする事は出来ない。  
 
口を開いたら最後、変な声が出そうだった。ようやく目的の場所に辿り着いた指はその場所からは動かずに、爪で引っ掻いたり、摘み上げたり、擦ったり、と様々な方法で自分を責めてくる。  
「小雪は体同様、クリトリスがちっちゃいよね」と耳元で囁かれる声にかっと顔が熱くなった。  
「だからいつも勃起させるのが大変なんだよ。でも大きくしないと上手く弄れないしね」とか、恥かしいから聞きたくないのに、ぐるりと囲い込まれた腕の中では耳を塞ぐ事も出来なくて、不自由な体がまた自分の中の羞恥心を煽っていく。  
胸を摘まれる。クリトリスを摘まれる。  
連動するように同じ動きで、指の中で捏ねられ、潰される。  
 
「…どっちも、硬くなって来た」  
 
低い、楽しそうな笑い声に。  
私はぎりっと奥歯を噛み締めた。  
 
くちゅり。と音がする。  
ぬちゃり。と音がする。  
粘着質な水音。  
下肢から響く水音。  
その音が聞こえてくるのが、嫌だ。  
その音を聞かされるのが、嫌だ。  
抵抗したって無駄な事を、身をもって知っている。力では敵わないし、それでも逃げようとすれば押さえ込まれて最悪の場合縛られる。  
一度そうされた時は本当に地獄だった。私はMの気はないのだ。  
拘束されても興奮しない。  
身を捩り、それを押さえ込まれる。それを何度繰り返しただろう?  
相手は逃がす気はさらさらなく、私は逃げる手段を持たない。  
ジーンズは足首でぐしゃりと丸まっていた。後ろから抱えられた体勢のままで、くちくちと麻耶の指が私の陰部を弄り続けている。  
愛液で濡れてくっきりと形まで分かるようになってしまっている私の秘部。普段は自分ですら触る事のないその場所。  
薄布の上から、その横から。  
指を潜り込ませて。爪を忍ばせて。  
愛撫が延々と延々と続く。  
卑猥な。卑猥な。卑猥な。卑猥な。  
卑猥な自分の雌の部分が。  
相手の指先でさらにその色を増していく。  
 
「い、た、っ」  
「あ、ごめん」  
 
つぷりと膣口に指が入りかけて、私はびくりと体を震わせた。  
背後で麻耶の謝る声がする。  
 
「ここは苦手だって言ってたね。相変わらず、ここも小さいんだなあ。  
 …本当は早く慣れて欲しいんだけどね。でないと、ボクとセックス出来ないじゃない」  
 
いやそもそも無理だろう――と言いかけたのをぐっと喉の奥で堪える。  
一度鼻で笑ったら双頭ディルドを持ち出されたのを思い出して、ぞっ。と全身に鳥肌が立った。  
 
「…なんでボクには男性器がないんだろうなー。  
 もしあれば今すぐに手篭めにして小雪を孕ませて子供を産ませて、完全にボクのお嫁さんに出来るのになー。  
 神様は残酷だよ。一番欲しいものはくれたけど、それを手に入れる方法は教えてくれなかったんだから」  
 
はあ。と後ろから聞こえてくる不穏な言葉が恐ろしい。  
 
「麻耶、ッ。私、…は、誰のものにもならない、よ」  
「うん。小雪はよくそう言うよね。それを聞くたびに、ボクは安心するんだ。でもね」  
 
ショーツを脱がされる。  
完全な裸にされた事実に、恥かしさが込み上げる。  
腕の拘束は緩まない。  
 
「でも、同じ位、不安で仕方がないんだよ」  
 
閉じようとした脚を開かされ、固定されて。  
珊瑚の色をしたスポイトを、私のクリトリスに押し当てた。  
 
「ああ、あああああ、あー…、ッ!」  
 
吸いつかれる。  
吸い上げられる。  
吸引される。  
引き伸ばされる。  
 
丁寧に丁寧に愛撫され、包皮からその顔を完全に覗かせていたクリトリスに、スポイトから逃れる術は万に一つもなかった。  
きゅっと吸いつかれ、そのまま固定され、ぷるぷるとクリトリスの上でスポイトが揺れていた。震えているのは私が小刻みに震えてしまっているからだ。その振動が下肢に伝わり、スポイトに伝わっている。  
色が珊瑚色をしているせいで、ぱっと見スポイトこそが巨大なクリトリスのようだ。  
あまりの光景に目を背けると、頬を掴まれ、視線を戻された。  
 
「なんで、見ないの?」  
 
残酷な声。  
耳朶の裏側に息が吹きかかる。  
 
「せっかくの作品なんだろ?ちゃんと見なきゃ。「被験者」なんだから。  
 作ったものを自分で使う。使われる感覚を体感する。  
 製作者として当然の義務じゃないか」  
 
涙が滲んでくる。  
羞恥心なく楽しめたら。私も何度もそう思った。  
だが、駄目なのだ。恥かしい。  
恥かしくて仕方ない。  
普段どれだけクールに振舞う事が出来ても、アダルトグッズなんてものを制作していても。  
私の根本は内気で。小心者そのもので。この作品が出来上がるたびにする事になる「テスト」すら、冷静に行う事は出来ない。  
仮面を被るのは簡単なのだ。その時だけ、その瞬間だけ。「私」という仮面から、別の「私」の仮面を選び取り、被ればいい。  
素の自分を出すのは、怖い。だからいつでも自分は自分を隠して仮面を被ってきた。  
でもこの相手の前では。  
麻耶を相手にする時だけは。  
それが出来なくなってしまう。  
私が出てしまう。  
 
「ま、や…!」  
「うん。なあに。気持ちいいかい?小雪」  
 
麻耶は服を脱がない。  
体を見られるのが嫌なのだ、と前に言っていた。  
背中に仕立てのいいシャツの感触がする。身を捩るたびにさらりと布地が私の背中を撫でる。  
スポイトの中で大小様々なイボがクリトリスを包み込み、麻耶がスポイトを押したり戻したりするたびに、それが肉芽に絡みついては愛撫を繰り返していた。  
吸い付かせる前にローションを垂らしていたのだろう。とろとろとした粘液に包まれ、無数の小さな舌で愛撫されているかのような錯覚を覚える。  
いや、これは私の愛液かもしれない。なにせ指の愛撫で、部屋中に響く程に私はさっきまで濡らしてしまっていたのだ。  
今もスポイトを動かされるたびに、たらたらと内腿を愛液が伝い落ち、ソファを汚していくのがわかる。  
単調な刺激にならないように、わざと位置をずらして設置したり、大きさをバラバラにしたり、と工夫したイボ。  
それは的確に女の弱い箇所をこれでもかと責め立てた。  
 
「小雪」  
 
ちゅう。と口付けられる。  
ぼやんと意識が混濁して、思考が上手く纏まらない。  
 
「とろんとしてきたね。スポイト、気に入ったんだ。  
 小雪を気持ちよくするもの全てボクには気に入らないけれど、小雪の作ったものなら別だよ。  
 …もっと強くしてあげよっか。それともスポイトつけたまま、上からローターを押し付けてみる?  
 きっと振動が気持ちよくしてくれると思うよ。  
 痛くないように中を指で弄ってあげようか。クリトリスを吸引しながら、Gスポットを擦ってあげる。  
 胸もちゃんと吸ってあげる。  
 して欲しい事はなんでもしてあげる。ねえ、だからさ、小雪。ボクの名前を呼んで?」  
 
こりこりと乳首を捏ねられた。  
全身が熱い。気持ちよくて、熱い。  
じりじりと身を焦がすような、そんな快感が全身に広がる。  
 
「小雪」  
 
耳の中をぴちゃりと舐められる。  
ぷつりと最後の理性が切れる。  
 
「ま、や…!」  
 
相手の名を呼んだ瞬間に。  
スポイトをきゅっと左右に捻られ、クリトリスの根元をぐりんと刺激されて。  
声にならない声を上げながら、私はぷしゃりと潮を噴いた。  
 
 
電動音が聞こえる。  
ヴヴヴヴヴ。と低く振動が響く。  
それは私の下肢から。  
クリトリスについたままの、スポイトから。  
 
―――吸引機。  
 
そう麻耶が表現したのは、間違いではない。  
普通のスポイトなら吸引「器」だろうが、これはれっきとした機械。  
小型の電池さえ仕込んでおけば、延々と、ずっと、電池が切れるまでクリトリスを愛撫し続ける。  
…もう何時間だろう?  
汗ばんでいる体はぐったりとソファの上に横たわっている。  
…頭が、働かない。  
視界に薄く靄がかかる。  
 
「小雪」  
 
口付けてきているのは、一体誰だろう?  
びくん、と体が大きく震えて、目の前の「誰か」がくすりと笑う気配がした。  
「またイっちゃったね」と頬を撫でてくる手のひらが、柔らかくて、気持ちいい。  
 
「ごめんね。ちょっと嫉妬しちゃってね。苛めすぎちゃったかな。  
 でも小雪も悪いんだよ。ボクをほったらかしにして遊んでいるんだもの。  
 あの人に抱きつかれているのを見た時は本当にどうしてやろうかと思ったよ。  
 でもあの人は好きな人がいるみたいだったからさ。許してあげたんだ」  
 
……あの人。  
あの人?  
あの人って、誰だ?  
 
「……子供の頃外見で苛められてるボクを、小雪だけが庇ってくれた。  
 その時からずっとボクは小雪一筋なんだよ。  
 いつか絶対にお嫁さんにしよう、って思ったのに…。ね。神様は残酷だよ。  
 男らしく振舞っても、どんなに社会的地位を手に入れても、体だけはどうしようもない。  
 煩いクリスチャンの両親のせいで、性転換の手術も出来ない。  
 ボクはずっと昔から、それしか望んではいないのに」  
 
白銀が、視界の中で揺れる。  
びくん、とまた、体が震える。  
視界が霞む。泣いているんだろうか。  
…それは、私?  
それとも?  
 
「愛して、いるのに。…なあ」  
 
強く強く抱き寄せられる。  
やめたまえ。私は汗だくだよ。  
汚れてしまうよ、「  」。  
せっかく、君は綺麗なのに。  
 
「いっぱいいっぱい愛したら、体だけでもボクの事を求めるようになってくれるかな。  
 心は小雪のものだけど、せめて体だけでもボクを覚えてくれるかな。  
 他の誰でもないボクの指を真っ先に思い出してくれるかな。  
 ……本当は心も欲しいけれど」  
 
ぬるんと何かが体に入り込む。  
誰かの指だ、と理解するまでに、数秒間必要だった。  
意識は遥か遠くを漂っていて、非常に現実感がない。  
ぐち、と濡れた音が響くたびに、がくがくと体中が揺れる。  
あ。と零れた声が続けて何か言おうとする前に、柔らかな唇に言葉を遮られた。  
まるで、自分の零すもの全てを逃がすまいとするように。  
 
「テストとかこつけないと君に触れられないボクも、大概臆病だけれども、ね」  
 
体の内側を指で引っかかれ。外側の突起を吸い上げられて、私はまた達する。  
 
「―――…、…、」  
 
何か、大事な事を伝えなくてはいけない。  
でもそれを伝える前に、泥の中へと沈むように、私の意識は闇の中に溶けた  
 
 
 
「死ね」  
「まだ死ねない」  
「死ね」  
「口悪いよ、小雪」  
 
ぐったりとソファに横になりながら、私はマカロンを齧る。  
ああダロワイヨとか買ってくるんじゃなかった。今回「も」酷い目にあった。  
腰が立たない。…というよりも、立てない。ついでに歩けない。  
目の前の男装の麗人は、非常に嬉しそうだ。  
甲斐甲斐しく私の腰を揉んだり、紅茶を運んだりしている。  
 
「…こんなんじゃ、帰れないじゃないか」  
「泊まっていけばいいだろ?」  
 
きょとんとしたその横顔を張り飛ばせたらどれだけいいだろう。  
しかし私は麻耶の顔はとても好きだった。この顔を傷つけるのは、自分的にとてもやりたくない。  
小さい頃からの幼馴染。  
小学校からの付き合い。  
腐れ縁、というやつなのだろうが、…なんだろう。どこで歯車が狂ったのだろうな?  
今となってはわからない。  
 
「昔は、とても可愛い美少女だったのになあ…」  
 
しみじみと呟くと、麻耶がティーポットにかけた手をぴたりと止め、じっと私の方を見た。  
視線につられ、自分も相手を見る。  
フリルとリボンの似合う深窓の令嬢は、いまや白馬がとても似合う外見に成長した。  
白い陶器の中に赤褐色の紅茶が注がれていく。  
 
「…小雪は。昔のボクの方が、よかった?」  
 
目の前に紅茶が置かれる。  
子供の頃は「私」だった麻耶は、いつしか「ボク」と一人称を変えた。  
その理由を、その転機を。私はどうしても思い出せない。  
 
「いいや?」  
 
うつ伏せに寝転んだままで、私は即答する。  
 
「麻耶は麻耶だろう。多少難ありに育ってしまった感は否めないが、それでも今と昔で比較なんか出来ないさ。  
 ――君は君のままだ。昔がいい、今がいい、とかは比べるものでもない。  
 今も昔も変わらない。出会った時からずっと麻耶は私の一番の親友だ」  
 
ピスタチオのマカロンを齧る。  
アッサムの紅茶がさらりと口の中の甘さを押し流していく。  
 
「…親友。親友、か」  
 
何故か息を詰めて私の言葉を聞き入っていた麻耶が、はあ。と深く息を吐く。  
 
「…なんだね。不満なのか、麻耶」  
「ううん。いいよ。別に。とりあえず一番、は貰えた訳だし」  
 
そう言って立ち上がる。  
お風呂沸かしてくるね。と微笑んで。  
 
「その一番、がもっと一番になれるように、ボクは頑張るだけだからさ」  
 
理解出来ないままの私を一人残し、麻耶はぱたりと扉を閉めた。  
 
 
七歳の頃だった。  
 
両親の都合で日本にやって来たボクは、知らない土地、知らない言葉に馴染めないままでいた。  
言葉もろくに通じない。通じないから理解されない。  
理解されないから遠巻きにされる。  
教師もボクを持て余し、友達を作る事も出来ずにとうとう苛めまで始まって校舎裏で一人泣いていると、そこに一人の女の子がやって来た。  
あの時の事は忘れられない。  
彼女はつかつかと歩み寄ってくると、そのままスパーンとボクの頭をいきなり張り飛ばしたのだ。  
 
「なっさけないな!君は!」  
 
両手を腰にあてて、仁王立ち。  
 
「いじめられたくらいで泣くんじゃない!  
 大体なんだね君は。相手から話しかけてくれるのを待つばかりで、自分から歩み寄ろうとしていないじゃないか。  
 逃げてどうする。まず立ち向かえ。このままでいたい、とは思わないんだろう!?  
 話しかけられてもわからないのなら言葉をまず学べ!  
 そして自分から話しかけにいけ!!」  
 
当時日本語はよくわからなくて、正直何を言われているのかはわからなかったのだけど、とにかく、「このままではいけない」というのだけはハッキリ伝わった。  
受け身過ぎていた自分を恥じた。何事も与えられるのを貰うのではなく、欲しいのなら自分から動かなくてはいけないのだ、というのを理解した。  
先生に教えて欲しい。そのためには日本語をまず学ぼう。  
学校で友達が欲しい。そのためには自分から話しかけに行こう。  
知らないものをまず理解してくれ、と言うのは不可能なのだから、まず理解してもらうように自分の事を話せるようになろう。  
自分の事を、たくさん知ってもらおう。  
 
彼女は学級委員だった。ただし、隣のクラスの。  
自分のクラスでもないのにどうして、とやがて覚えた日本語でたどたどしく問いかけると、「困ってるみたいだったから、助けるのは当たり前でしょ」とこともなげに言われた。  
あの時からずっと、自分は彼女一筋だ。  
 
 
 
「……お嫁さんに、なってくれないかなあ」  
 
はあ。と息を吐く。ずっとずっと欲しいものは決まっている。  
何度も何度もはぐらかされて。鈍い相手にやきもきして。  
知らない相手に嫉妬もして。  
でも諦めるつもりはさらさらないのだ。  
 
「欲しいものは欲しいと言え」と教えてくれたのは、他の誰でもない彼女なのだから。  
 
とりあえずまずは一緒にお風呂。  
女の体を見られるから服を脱ぐのには抵抗あるけれど、たまには裸のお付き合い、というのもいいだろう。  
お湯をバスタブに溜めながら。  
さて。どうやって誘うかな。…と。ボクは思考を巡らせた。  
 
(終わり)  
 
 

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