03.泣くもんか  
 
 猫を飼っている。  
 母が死んで三年くらい経ち、父の下手くそな料理に辟易として自分で作るようになった頃に拾った捨て猫だ。  
 当時私は家に帰るでなく、勝手についてくる朝井を無視しながら街をウロウロしていた。  
 母が死んでから、朝井は時折こうして私についてくるようになった。何か特別にするでなく、ただウロウロする私について来て下らない話をする。  
 正直鬱陶しくもあったが、昔馴染みの友人だからこそ耐えていた。朝井は、母の死を分かちあった相手でもあったのだから。  
 訳も分からず泣き暮らす私とお仏壇に飾られた母を、呆然と見ている朝井の姿は今も憶えている。  
 そんな朝井が勝手についてくるのを背中に感じながら、私はその辺りをうろついて、その猫を拾ったのだった。  
 飼い主の私が言うのもアレだけれど、不細工だ。  
 
 小汚いダンボールに投げやりに書かれた「拾ってください」の文字と同じくらいやる気のない態度。  
 猫の癖に何だか目は小さい。  
 どんな食生活を送っていたのか知らないけれどでっぷり太っている。  
 茶色と黒の毛並みは猫というよりは野良犬っぽい。  
 捨て猫の癖に妙にふてぶてしくて「拾いたければ拾えばいいじゃん」みたいにドンと構えていて、人が通りかかっても鳴きもしなければ見もしない。完全無視。  
 そのあんまりな姿に私は思わず吹き出してしまって、その猫を連れ帰ったのだった。  
 まあ思えば多分、捨てられてたんじゃなくてたまたまあの段ボールに収まっていただけのような気もする。  
 とにかく野良のような捨て猫のようなそいつを連れ帰ることにした私に朝井は  
「……楽しそうだね」  
 と呆れたように言った。  
 呆れたようで、少しだけほっとしたような、力の抜けた顔だった。  
 家に帰り猫を洗ってやり(因みに洗っている間も「勝手にしろ」みたいに微動だにしなかった)余り物の肉片を食べさせてやった。  
 命名は朝井だ。ブータ。どうしてもクリア出来なかったゲームに出てくる、大きな猫の名前だそうだ。  
 後にその画像を見せてもらい、妙に納得した。ウチのブータにも赤いチュニックを着せたくなった。  
 
 猫といえばもっと見た目可愛い生き物のはずだったが、ウチのブータはおよそそれとは反対だった。  
 けれど夜明けが来るとえっちらおっちらウチのベランダに上り朝日を見守っていたり、あくびをして眠そうに見てくるのはどこか愛嬌があった。  
 そう思って見ればふてぶてしい顔つきも、味があるように感じてくるのだから不思議なものだ。  
 猫の趣味はやや人離れしている私だが、女の子を見る目は良いと思う。  
 そういえば、ほとり先輩を動物に例えるならきっと猫だと思う。  
 それもウチのブータみたいなのじゃなくて、上品なお姫様扱いが良く似合う可愛い猫だ。血統書とかがあるようなヤツ。  
 そう言うとほとり先輩は  
「もう〜、皐月ちゃん上手ね。なあに? 何か欲しいの?」  
 と笑ってくれて、もう少しで  
「いえいえほとり先輩が欲しいだけです」  
 と返す所だった。言えばよかった。  
 因みに隣でぼんやり本を読んでいた部長は大きな口を開けてゲラゲラ笑った。  
 
「ほとりはそんなんじゃないよ」  
「なによ、あたしのどこがそうじゃないって」  
「お上品なお姫様扱いがお似合いのヤツは、帰りにさつま揚げ買い食いして舌火傷とかしない」  
 どうやらそんなことがあったらしい。ほとり先輩はムッとした顔で部長を睨んでから  
「てい」  
 と本を取り上げた。  
「おおラブリーマイエンジェルほとりたん。キミは世界で一番おひめさまだよ。まあつまりそれ返せ」  
「心、こもってないからダメー」  
 手を伸ばす部長と……なんと言うか、見たことのない子供っぽい笑顔のほとり先輩は、何だか自分達の世界を作っていた。  
 朝井は早くに悟っていたようだけれど、私にもようやく分かってきた。  
 ほとり先輩達は、意外にバカップルだった。  
 楽な戦いだとは思っちゃいないけれど、こうまで絶望的だとさすがに心が折れそうになる。  
 でも、あの春の夕暮れに見上げたほとり先輩の笑みは忘れられない。もうこの際友達の延長で良いから浮気とかしてくれないかなあ。  
 人並みの恋愛には縁がない私だけれど、そういった背徳的なものへの憧憬はある。  
 
 ブータを飼い始めてから、他所の猫を可愛がるとふとあの不細工な顔を思い出してどうにも居心地が悪い。  
 そういえば、近くの少し大きな家で飼われているアメリカンショートヘアは人懐っこくて可愛くて、私はついつい構ってしまう。  
 よく庭で長くなったりしているが、塀から顔を出せば寄って来てくれるのでつい可愛がってしまう。  
 おかげで家の人にも顔を憶えられてしまったが。  
 ほとり先輩を猫みたいと思ったのは、たぶんそこのアメリカンショートヘアのイメージかもしれない。  
 逆にブータはどうも朝井を連想する。  
 ぶきっちょでふてぶてしくてあまり鳴かないあの鈍重な態度は、どことなく命名者の朝井に似ている。  
 ブータのことを考えながら他所の猫を可愛がっていると、なるほど浮気とはこういう感じなのかもしれないと思い妙にきまりが悪い。  
 撫でられてる猫の方もそんな人間の気持ちが伝わるのか、はたまた飼い主に気兼ねでもするのか、どうにも余所余所しい。  
 撫でられるのにもどこか距離を測っているような素振りをみせていて、それが少しおかしいのだが。  
 まあ、どうにも楽しみきれず、変な話だけれど私は憧れこそすれ自分が浮気をするのはあまり得意ではないらしい。  
 ほとり先輩にして欲しいと思っておいて随分な話だけれど。  
 
 季節は夏。  
 もうすぐ部長が合宿内容を発表するらしい。  
 朝井は窓際でぼんやりと何かの古い本を開いて、じゃれあっているほとり先輩達を眺めていた。  
 目が合うと「しょうがないなあ」みたいに肩をすくめていて、私はそんな朝井の「お前の気持ちは分かっているぞ」みたいな仕草がとても嫌いだった。  
 いつも朝井はそうだ。  
 私が痛い目にあっている時にはタイミングよくそこに居て、俺も同じだと黙っているのだ。  
 何が気に喰わないって、私に反論できないことだ。  
 今も、お母さんの時も。  
 何も言わず、でもただただ私と同じように傷ついてくれて。  
 その何も言わない態度が、私にはひどく腹立たしい。  
 
 押し付けがましくないけれど、だからこそ癇に障る態度をとって……  
 それが、私の朝井春樹だった。  
 
   ◇  
 
 村越が猫の話をした時、どきりとした。  
 あれは確か十歳になるかならないかの頃だったと思う。  
 村越はお父さんと折り合いが悪くなり、家に居づらいのか街をウロウロしていた。  
 いくら治安の悪くない我が街とはいえ、小学生の女の子が一人夜遅くまでウロウロしているのは良くない。  
 俺はなるべく村越と行動を共にするように心がけていた。  
 何かを持て余したように街を徘徊する村越に、俺は何も言ってやることも出来ずにいた。ただただ後ろをついて歩いただけだ。  
 それはまるで餌をねだる野良犬のようで、ひどく心苦しかったのを良く憶えている。  
 その日も村越は夕暮れになっても帰ろうとはしなかった。  
 無味乾燥な街並みをただ歩き、ふと何かに気付いたように道端に座り込んだ。  
 目の前には汚い猫がごろんと寝転がっている。  
 雨風に晒された段ボールには投げやりな文字で「拾ってください」と書かれているが、これはこの猫の為に書かれた訳ではないだろう。  
 ふてぶてしい態度で、まるで可愛くなんてなくて、でっぷりと貫禄さえある体つき。  
 およそ拾われるつもりなんか微塵もないその猫を、村越は嬉しそうに見つめている。  
 多分、その猫のマイペースな様子が気に入ったのだろうと思う。  
 思い出せば、村越の趣味は少し人とはずれている。  
 
 キモ可愛いなんて言葉もあるけれど、それともまた少し違う。  
 可愛いとつけるのもおこがましいような素っ頓狂なものに、何かを見出すのだ。  
 死んだふりが得意な雑種犬やら、白目をむく癖のあるインコやら。大量のショウリョウバッタに瞳を輝かせていたこともあった。  
 どれもどこからともなく拾ってきた。そういう拾い癖も、村越の特徴といえば特徴だ。  
 犬もインコもバッタも、どれも“お母さん”が生きていた頃の想い出だ。  
 バッタは別にしても、それらの可愛いとは言えないペット達が死んだのも、何の因果か“お母さん”が亡くなった年だ。  
 それから村越の拾い癖もぱったりと途絶えていたのだが、その猫は琴線に触れたらしい。  
 懐くつもりなんか微塵もない猫に、俺は賭けてみたくなった。  
 せめて、村越の友達になってくれと。  
 名前はブータ。とっさに出てきた名前がそれというのも何とも言えないが、村越は気に入ったようだった。  
 ブータのマイペースは飼い猫になっても変わらないようだったが、慣れてくればそれがどことなく愛嬌があるような気がしてくるから不思議なものだ。  
 いつだったかは定かではないが、夏の夜明け。  
 寝苦しさにふと目を覚ますと、窓の外が白んでいる時間。  
 息苦しいような気がしてベランダに出ると、夜明けを待つブータに鉢合わせた。  
 
 村越の家のベランダに座り、明るくなっていく東の空を眺めている。  
「おはよう」  
 ふと思い立って、ブータに話しかけてみた。  
 ブータは不思議そうに振り向いた。  
「何が見える?」  
 ブータはまたすぐに夜明けを見つめ始める。俺もそれに習って東の空を見上げた。  
 何故だか分からないが、感謝したくなった。  
 色々面倒なことになっている村越のことが、少しだけ良い方に向かい始めている気がしたからだ。  
 村越が同性愛者だと言い出したのは、このすぐ後だった。  
 それで痛い目にいっぱいあったが、村越はどこ吹く風だった。  
 ペットは飼い主に似るというが、その逆もあるのかもしれない。  
 妙にふてぶてしくなった村越の変化が、良いか悪いかなんて分からないけれど。  
 俺は、感謝しても良い気がした。  
 村越が笑っているというだけで。  
 
 気付いているだろうか。  
 高校生になって、理由は何であれ部活を初めて。  
 ちゃんと俺以外に話す相手が出来たのは、これが久しぶりだということに。  
 部長の屁理屈に挑みかかるその姿は、本人は認めないだろうけれど楽しそうだ。  
 
 だから、ほとり先輩がらみとはいえ、この部活に入ってくれて良かったと思う。  
 もっとも、俺にそう思われるのは村越は嫌なようだったけれど。  
 意地っ張りで面倒くさくて、そしてマイペース。  
 それが、俺の村越皐月だった。  
 
   ◇  
 
 期末テストも無事終了し、久しぶりに部室……というか資料庫に集った俺と村越に、部長はにやりと笑ってから  
「希望通り、今年の郷文研は合宿を行う」  
 と切り出した。  
「やっぱり部活といえば合宿ですよ」  
 後輩の癖に偉そうにふんぞり返って村越。  
 にやりと笑うその顔は、何か悪巧みを思いついたのだろう。  
 もっとも、村越の悪巧みなんて、せいぜい同性なのをいいことにほとり先輩にセクハラまがいの悪戯してやろう程度だ。  
「それで、どこに行くんですか?」  
 にやにやと変な想像をしている村越を、これまたにやにやと見ていた部長を促す。  
 部長はにやりと得意そうにまた笑うと  
「どこだと思う?」  
 と俺を試すような声で問いかけてきた。  
 考えてみる。  
 部長は悪戯好きで人の悪い所もあるけれど、こういう風に試すようにしてきた時は割りとフェアだ。  
 多分俺が知っていることで答えられ得ることなのだろう。  
 
「…………ウチ、お金は全然ないんですよね」  
「ああ。自慢じゃないが部費が下りた試しはない。まあ、元来校則通りなら部活じゃなくて同好会だしな」  
 同好会に部費も部室もない。つまり学校の補助はない。そして今まで部費として収めてきたお金は大半がお茶代だ。  
「お金はない。そして部活内容を考えるなら地元から離れるはずもない」  
 郷土文化を研究するのに、他の土地に行くはずがない。  
 地元で、お金がかからない合宿をするとなると。  
「ここで寝泊り……は、物理的に無理ですね」  
「そだよ。因みに会館は体育会系が占拠してるから」  
 会館とは夏休みの合宿所として使われている建物だが、当然の様に体育会系部活動の天下だ。あそこにウチが入り込むのは革命でも起きない限り無理だ。  
「校内も無理。となると……部長、まさか」  
「まさか? どこかな?」  
「……それはもう合宿じゃなくて、お泊り会とか、そういうレベルでは?」  
「ご明察。いやー、頑張ったけど良い案がなくってさ」  
 うははは、と部長。途端に  
「ちょッ!! 私に部長の家に泊まれって言うんですか!?」  
 当然の様に村越が反応する。  
「あはははは、そんな訳ないだろ。お隣さん家に協力してもらう」  
「お隣さん? あ」  
 
 俺が思い当たり、部長の少し後ろでにこにこしているほとり先輩に目をむけて  
「当たり。あたしの家でお泊りね、皐月ちゃん」  
 とほんわか笑ってみせた。  
「部長!」  
 俺と村越の声がハモる。  
 私が先だと目で訴える村越を無視して叫ぶ。  
「それは色々問題が!」  
「さすが部長! 今初めて尊敬しましたッ!!」  
「お前ら落ち着いて、別々に喋れ」  
 俺の耳は聖徳太子じゃない、と呆れ半分に部長が笑う。  
「第一朝井、同性なのに何も問題なかろうが」  
「いえ、村越の場合そこにこそ問題があるというか何と……あだッ」  
 隣の村越が「それ以上喋ったら殺す」と目だけで言いながら腕を抓ってくる。  
 俺はそれをふりはらって、それでも言葉を続ける。  
「だって村越はどう……あだだだッ」  
「大丈夫大丈夫」  
「そう、大丈夫」  
 部長とほとり先輩はにっこり笑って取り合わない。  
「まあとにかく、合宿は八月二日から三泊四日の予定だ。各自わくわくお泊りセットを用意しておくように」  
 
 わくわくお泊りセットって、何だよ。そんな俺の疑問なんてお見通しだと言わんばかりに、部長はにやりとする。  
「必要なもの全般だよ。後水着もな」  
 遊ぶ気満々だッ!  
「それまでに文化祭の研究発表内容案を考えておくようにな。何もないようなら俺の案でいくぞ」  
「部長の案って何ですか?」  
 もうすっかり上機嫌の村越は、多分この部に入って以来の一番上機嫌で部長に尋ねる。  
 部長も部長で、普段扱いづらい……いや、ある意味上手くあしらっているが……うるさい後輩の女の子が楽しそうなのに上機嫌になる。  
「一昨年が民謡、民話の収集、去年が水害対策の歴史。今年は我が町の特産品についてまとめる」  
「うわー、部長! まるで郷土文化研究部みたいです!」  
「そうだろうそうだろう、って、ウチは郷文研だッ!」  
 うはははははー、と笑いあう部長と村越。  
 大丈夫なんだろうか、本当に。  
 
 そして夏休み。  
 特に目立った活動もなく、合宿初日を迎えた。  
 時刻は午前十時。  
 集合場所の駅前バスターミナルに着いた俺は、とりあえずその辺りのベンチに腰掛ける。  
 ぼんやりと道行く人の群れを眺める。  
 
 仕事中のお父さん達が鞄を抱えて足早に歩いていく。汗を拭き拭き、必死になって。  
 俺と同じく暇な学生がどこかに遊びに行くのだろうか? じゃれあいながらバスを降りて駅に吸い込まれていく。  
 どこかの奥様が小洒落た喫茶店に消えていく。汗一つかく前にウェイトレスに出してもらったお冷をぐいと一息するのだろう。  
 バスから降りてくる色々な人の行方を眺めているうちに、見慣れた姿がこちらに向かってくるのに気がついた。  
 アレで意外にフェミニンな趣味をしている村越は、ひらひらした服を着ている。  
 村越は生まれつき栗色の髪をしている。  
 そのおかげで昔はいじめられたり先生に叱られたりもしたけれど、向こうっ気の強い村越はその度に食って掛かった。  
 この髪は母に貰ったものだと。  
 いつも何かと戦っている、そんな村越が女の子らしい服装を好むのは、最後の一線でそうでありたい気持ちのあらわれだろうか?  
 自慢の栗色の髪は緩やかに波打ち風にさらしている。  
 夏の日差しに輝く鮮やかな白いブラウスは品を損なわない程度に、けれどふんだんにフリルをあしらっている。  
 膝上あたりの少し短めのサーキュラースカートは赤に清楚な花の柄が散らしてある。  
 ほっそりと伸びる足の先を白いミュールが飾る。  
 黙って立たせていれば、どうみても可愛らしいお嬢さんだ。これで女の子好きな奴だとはちょっと思えない。  
 
 波打つ長い髪をなびかせて、上機嫌の村越は  
「私より早く来るとは、しつけがようやく行き届いたわね」  
 と偉そうなことを言い出す。言葉と格好のギャップの激しさが村越だ。  
「俺はお前にしつけられた覚えはないんだがね、村越」  
「ふふん、そんなの気取られるような下手は打たないわよ。それよかどうよ」  
 どうやら今日の格好のことらしい。  
「あーあー、可愛い可愛い。超可愛い。皐月ちゃんマジ天使。ラブリーマイエンジェル皐月たんだよ」  
「……あっそ。まあ、あんたに期待はしてないけどさ。あと、あんたいつもジーパンにシャツよね」  
「まあね」  
 色々考えたけれど、結局いつものジーパンにシャツの適当な格好だ。  
「せっかくお呼ばれされてるのにさ、気合入れないと!」  
 ふん。と鼻息荒い村越を眺める。  
 お前はそうだろうけど、俺がお呼ばれされているのは部長の家だ。そんなに気合入れる必要はない。  
 そういえば俺達は休日のほとり先輩がどう過ごしているのかまるで知らない。  
 俺はせいぜい入梅前に部長と買い物しているのを見たことがあるくらいだ。  
 あの時は確か淡い桃色の裾の短いワンピースに黒いカーディガン、ジーパン姿だった。  
 
 あの楚々としたほとり先輩のことだ。きっと麦藁帽子に白いワンピースなんかを着たりするのだろうか―――。  
 
 結果から言えば、ほとり先輩は俺とおそろいの格好だった。  
 迎えに来てくれた部長に連れられてバスに揺られ、辿り着いた先で出迎えてくれたほとり先輩は  
「いらっしゃーい」  
 とニコニコと笑っている。洗いざらしのジーパンに白いTシャツとまるで飾る気のない格好で、あまつさえ何か作っていたのだろうか? 使い古したエプロンを腰にまいている。  
 しかし、そんな気取らなさすぎる格好で部長宅の玄関でニコニコと『お客様』を出迎える姿は、ひどく心に刺さる。  
 気合を入れて着飾ってきた村越は呆然とその姿を眺めて、そうしてから  
「はい、お世話になります」  
 と持ち直して微笑んだ。  
 カジュアルというには油断しきった格好は、部長の家がそういう場所だと雄弁に語っている。  
 部長のご両親はどうやら仕事に出ているらしく、昼食はほとり先輩のお手製だった。  
 今年の研究発表の内容について小難しく語っていた部長は、ほとり先輩お手製オムライスが出てくると、ぱたりと話を止めてしまった。  
 どうやら部長の好みは子供っぽいらしく、オムライスにすっかり気を取られたらしい。  
 目の前でナイフを入れられたオムレツが、湯気を立ててライスの上に広がっていく。  
 
 バターの香りがふんわりと鼻を撫でていき、思わず喉をならすと  
「これが神流家の本気のオムライスよ」  
 なんて微笑んでほとり先輩が上からソースをかける。  
 たっぷりの野菜が入ったデミグラスソースで、そんじょそこらのお店じゃ食べられそうにないくらい美味しそうだ。  
「すごい良い香り。先輩、このソースは?」  
 父子家庭で自分でご飯を作らないといけなかった村越は、そのオムライスの出来に驚いている。  
「えへへ、二人が来るから張り切って作ったんだよ。四日掛かったんだから、そのデミグラスソース」  
「よッ……ひょっとして、ほとり先輩は料理好きなんですか?」  
 出されたオムライスをしげしげと眺める。  
「そうだよ」  
 ほとり先輩は部長の隣にちょこんと座ると  
「遠慮しないでいっぱい食べてね」  
 と微笑む。  
「ウチの母親がこういうの教えるのが好きらしくてな」  
 部長はオムライス一つでニコニコしている。  
「うん、今日も旨い」  
「ありがとう」  
 目の前に座った二人微笑みあい、俺達はひどく居心地が悪くなる。  
 そういえば、神流家のと言っていた。いわばこれは、部長の『お袋の味』というやつで、そしてそれをほとり先輩は見事に受け継いでいる訳で。  
 
「…………美味しい」  
 下手なお店で食べるよりもずっと美味しい手料理は、ひどく苦い味がした。  
 
 出鼻を挫かれた形になった俺と村越は、淡々と部活にいそしんだ。  
 と、言っても部長の用意した資料を適当に眺めて、文化祭について話し合い、ついでに歴代郷文研部員がお世話になったというご老人方に挨拶に回ったくらいだ。  
「それで、二人の意見は何かないかな?」  
 ある程度まとまっている資料を前に、部長はニコニコとしている。  
 俺にしてみれば、もうこれをそのまま読み上げるのでも十分な気がするものだが、部長はそうでないらしい。  
「俺は……これで十分だと思います」  
 手の中には戦前から作られていた農作物についてのご老人のインタビューが。  
 水はけの良い土地柄らしく、我が町は果物の生産に優れている。  
 様々な品種改良の歴史がそこから窺える。  
 より多くの収穫物を。より美味しい収穫物を。より安価な収穫物を。  
 そういった先人の努力だ。郷土文化の研究と言う意味なら、これで十分だ。  
 また、ささやかではあるが港に揚がる新鮮な魚介類も自慢だ。その魚介類をふんだんにつかった豪快な料理は観光資源にもなっている。  
 
「本当に?」  
 部長は笑ったままもう一度問う。けれど俺にはもう何も言えない。この数ヶ月、ほとり先輩につられてと入った部活だとはいえ、俺はそれなりに資料庫に入り浸り郷文研の過去の研究内容に目を通したりしてきた。  
 文化祭は郷文研唯一と言っても良い研究発表の場だ。  
 そこで披露するのに、部長案以上のものなど俺には思いつきそうにない。  
 俺が用意していた案など、子供だましにすぎない。  
 けれど、村越はそうでなかったようだった。  
「部長……これまで郷文研って、あの資料庫で研究発表会をやっていたんですよね」  
「ああ。そうだ」  
 何かを用意していたらしい村越の言葉に、部長はにやりとしてみせる。まるで、それを待っていたような。  
「けど今年に限って言えば、例年以上に人手はあるんですよね。正式に入部はされてないほとり先輩もカウントすれば」  
「そうだな。ほとり、カウントされるか?」  
「うん。今更仲間はずれもひどいんじゃないかな」  
「提案」  
「どうぞ」  
 負けず嫌いで、向こうっ気が強い村越は、初めから部長案で行くつもりはない。反対の為の反対でも言うのか。  
 そう思った俺は、まだまだ村越皐月という女を理解していなかった。  
 そんな……底の浅い奴ではなかった。  
 
「出店をしましょう」  
 にこりと笑って、そんなことを言い出す。  
「ほう。出店、ねえ」  
 部長は自分以外の意見が出たことが嬉しくて仕方ないようで、続けろと目で促す。  
「こんなに人手があるんですから、資料庫ですし詰めになっている理由ないですよね」  
「そうだな。だが、どんな店を? ヤキソバやらお好みやらなら他の部活やクラスでもやるから、わざわざする必要ないよな」  
「だから、私達らしいものを提供するのが必要ですよね」  
「私達らしい」  
 部長が小さく繰り返す。  
 その言葉に、俺も驚く。気付いていないのは口にした本人だけだ。  
 ほとり先輩につられて入ったクチの村越が、この部活を私達と呼ぶ。  
 三ヶ月も通えばもう愛着がわくということか。部長はますます嬉しそうに  
「聞こうか」  
 と、しかめっ面になった。  
「郷土文化の研究発表は、何も模造紙と原稿用紙で出来る訳じゃないです。例えば」  
 村越は台所へ。夕食の材料であるらしいスルメイカを持って帰ってくる。  
「今ならこういうの使った料理が美味しいですよね。単に特産品を口頭で発表するんじゃなくて」  
「ふむ」  
 
 部長はほとり先輩を一度見てから  
「だが、そこまで大掛かりなことをする予算はないぞ。どうするつもりかな?」  
 とまたしかめっ面になる。それを見た目通りに受け取っているのは村越だけだ。  
 後ろではほとり先輩が楽しそうにしていて、俺も自分の感じ方が間違ってないことを確信する。  
 部長のしかめっ面は、嬉しくて仕方ないのを隠しているだけだ。少し油断すれば、きっとあの口の端はさも愉快な様に大きく歪むに違いない。  
「忘れましたか? 今は夏休みです。短期のバイトを数件問い合わせておきました。私と朝井に限って言えば宿題も終わらせてあります」  
 振り向く村越はにやりと得意そうだ。夏休み初日からせっつかれて、確かに珍しく俺も宿題を終わらせたが……まさかこの為だったとは。  
「……俺とほとりも終わらせてある。ふむ……」  
 部長は本当に楽しそうにしかめっ面をしてから  
「よし、それでいこう」  
 あっさりと部長は自分の案を引っ込めた。  
「え?」  
 多分何かもっと反論が来ると思っていたのだろう。村越はキョトンとした顔になる。  
「本当にいいんですか?」  
「良いよ。百聞は一見にしかずとも言うし、名案だよ。まあ、この場合は一見じゃなくて一食だろうけど」  
 
 部長は自分の資料の端ををトントンと揃えてから  
「でもまあ四人じゃちょいと人手が足りないかな」  
 携帯片手に窓を開けてベランダへ。少し広めに取られているベランダは、どうやら洗濯物を干すのにも使われているらしかった。  
「あー、文芸部。今年の出し物決まったか?」  
 どうやら相手は文芸部部長らしい。  
「そりゃ丁度良い。どうだ、一口乗らんか?」  
 もう我慢の限界だったのだろう、いかにも楽しそうに部長は笑う。  
「いやな、今年はおんもでやろうや。中庭で屋台。や、特産品の研究だったんだがな、折角だし食べてもらおうかってことで」  
 ほとり先輩が悪戯っぽい笑みを浮かべてそっと窓を少し開けてくれた。俺達は窓に集り聞き耳を立てるが、部長は気がついていない。  
「なるなる。大丈夫。だいたい書道部が焼き鳥売ってたりするんだから構わんだろうが。どうしてもってんならメニューの横におすすめの本一覧でも張り出しゃ大丈夫だろ」  
 ベランダの柵にだらしなくもたれかかって、部長は上機嫌で続ける。  
「え? 分かるか? ウチの期待の新人の案」  
 ほとり先輩は、村越ににっこりと笑いかける。こんな時にどんな風な顔をすればいいのか分からない村越は、むすっとしたままだ。  
「まあな。でだ、お前の彼女さんだって定食屋の看板娘だろ、料理は達者だって聞いたぞ。ウチのほとりと二人がかりなら旨いのが出来るだろ」  
 
 ほとり先輩は「まかせなさい」みたいににやりとした。今までのほとり先輩のイメージを覆すような、笑みだった。  
「そっちの後輩も女の子なんだから売り子してもらってさ。どうせなら売り上げ一位でも目指そうや」  
 呆れたことを。と小さくつぶやく村越、けれど声音は柔らかい。  
「あはははは、俺らがむさい顔突き出すよりか、女の子に前に出てもらった方が売れるだろ」  
 聞かれているとは思っても居ないのだろう、部長も部長で、今までの傲慢なイメージを覆すような優しい声だった。  
 しばらくの沈黙。  
 どうやら文芸部の部長さんが考えているらしい。そうして、どうやら良い答えが返ってきたようだ。  
「よし、じゃあその線で。メニュー案考えておいてくれ。資金は折半、バイトなりなんなりで稼ぐと言うことで。詳しい金額は明日またこの時間に。じゃあ、よろしく」  
 一息に話終えた部長は、携帯をポケットに仕舞うと大きく深呼吸して表情を引き締めてから振り向く。  
 俺達はいかにも「聞いていませんでしたよ」という素振りで元の席に戻っている。  
「人手が足りないだろうから、文芸部に助けを求めた」  
 気が付いているのかいないのか、部長はいつも通りの偉そうな声でそう言った。  
「幸い力を貸してもらえるそうだからな、後は資金だが」  
 
「まずは何を出すかね。それが決まったら材料費、光熱費、必要なら調理器具の調達費用ってところかしら」  
 ほとり先輩が指折り数える。  
「んじゃ、今夜は何を出すかを決めるか。文芸部からも案は出てくるだろうし。さっさと決めちまおう」  
 こうしてみると、後輩で男の俺が思うのもどうかとは思うが、なるほど可愛い人だ。  
 
 郷文研サイドのメニューと予算案を用意出来たのは翌日午後で、それから部長は俺達の相手をほとり先輩にまかせて出て行った。  
 どうやら文芸部の方と話し合いに行くらしい。  
 俺達は夕飯の寿司の用意を手伝うことになった。  
 ほとり先輩は村越に寿司酢の作り方から教えている。ごく真面目な顔で村越はメモを取っている。  
 米酢六割に粕酢四割の合わせ酢に、上白糖、味醂、蜂蜜と塩を混ぜて二週間ほど寝かせるのが部長の『お袋の味』であるらしい。  
 特に塩加減に気を配って作るのが大事、だのと村越のメモには赤ペンで書かれている。  
 
 料理などしない身の俺には、寿司酢ってあんなに砂糖やら蜂蜜やらの甘味が入っているのかとただただ驚くばかりだ。  
 ほとり先輩が慣れた手つきでおひつのご飯を手早く作り置きの酢に合わせて団扇であおれば、寿司酢の甘い匂いが漂う。  
 今朝港に揚がったばかりの魚介類が、俺達が知っているほとり先輩からはイメージ出来ないほど豪快に散らされる。  
 散らし寿司と言えばマグロやらタコ、イクラ、ウニなんかが乗っていると思っていたが、今日のそれは違っている。  
 ゴマアジ、カンパチ、スズキ、カツオにスルメイカ。どれも地元の魚介類だ。  
 イメージとは違う出来の散らし寿司だがいかにも旨そうだ。  
 ほとり先輩に言わせれば寿司にならない魚はないらしい。  
 近場の、旬の物を美味しく作るのも重要だそうで、村越のメモに赤ペン二重丸がついた。  
 紅しょうがに茹でたキヌサヤ、青紫蘇、キュウリの薄切り、錦糸玉子をあしらえば、見た目も華やかな散らし寿司の完成だ。  
 見計らったかのように部長と部長のお母さんが帰ってくる。  
 ほとり先輩お手製の寿司に、部長は上機嫌になっている。どうやら文芸部とのお話も上手くいったらしい。  
 
 ほとり先輩の料理の先生にあたる部長のお母さんは、出来上がった散らし寿司を見て  
「うん、上出来」  
 と笑ってみせる。ほとり先輩は安心したように微笑んでいて、また一つ俺達の知らない顔を見せられたのだった。  
 
 部長一家の団欒にお邪魔して二日目、部長のご両親は気さくで、俺も村越も随分良くしてもらった。  
 今なら、部長が人は悪いけれどお人よしな所が何となく理解できた。  
 ああいう両親に育てられてなら、確かに分かりにくくこそあれ優しい人になるだろうと。  
 
 翌日、一応予定を全て終えた俺達は、部長とほとり先輩に連れられて海へ。  
 と言っても、地元の海岸だ。もっとも八月上旬、夏真っ盛りの海辺は混雑している。地味な地方都市とはいえ、だ。  
 合宿三日目は心置きなく遊び倒すらしい。受験生の二人はこの後の夏休みも勉強があるらしいが。  
 文化祭の為の資金集めのバイトに、受験勉強に、最上級生の夏は大変そうだが下級生の俺達にはどうしようもない。  
 せめて良い気分転換になるようにと思うばかりだ。  
 
 男二人で押入れから引っ張り出してきたパラソルを用意しシートを敷いて、女の子二人を待つ。  
 部長はパラソルの用意だけでくたびれたらしく、日陰で長くなっている。  
「部長、もうそろそろほとり先輩達、来ますよ」  
「んー、よし、朝井」  
 ごろりとこちらに向き直って部長。  
「二人の相手はお前に任せる。棒倒しでも遠泳でも好きにしろ。何なら村越連れて波打ち際で追いかけっこするもよし、岩場の影で人には言えないことに没頭するもよし」  
「ほとり先輩とします」  
「あっはっはっはー、資料庫に片付けられたいか? 朝井」  
「あと突っ込み遅れましたが、海に来てすることで棒倒しと遠泳が真っ先に出てくるのはどうかと思いますよ、部長」  
「あんまりおんもで遊ばない子だったんだよ、俺」  
「まあ、それは人のこと言えないんですが」  
 そんな何の役にも立たないことをだらだら話していると、きゃいきゃい言い合いながらほとり先輩と村越がようやく現れた。  
「お待たせー」  
「朝井、ほとり先輩の方向くな」  
 楽しそうに笑いながらほとり先輩が部長の少し後ろの定位置へ。村越はむっつり顔でその傍へ。  
 俺は日陰を女の子二人に譲って立ち上がった。  
 やはりここは、丁寧な説明が必要だろう。  
 
 日本に古くから伝わる美しい髪は濡れ羽色というが、ほとり先輩のそれは正にそのままだ。  
 夏の強い日差しに煌く長い黒髪はいつかと同じような美しさで、大切に手入れしてきたのがありありと見て取れる。  
 優しい笑みを浮かべる瑞々しい唇。  
 飴細工のようにほっそりとした首筋。  
 処女雪色に輝く素肌。  
 穏やかでいて艶やかな胸と、それを覆う淡桃の薄布。  
 驚くほどの細身にくびれた腰。  
 そしてひるがえるパレオはやはり淡桃色。  
 小さな貝を思わせる足の爪が、その揺れるパレオの間から覗くのがひどく印象に残った。  
 しげしげと眺めすぎたせいだろうか、ほとり先輩がとがめるように小さく唇を  
「めッ」  
 と動かすのが、二つ年上のお姉さんとは思えないくらい可愛らしくてドキドキして、そこで思いっきり耳を引っ張られた。  
「朝井、何ほとり先輩に見入ってんのよ」  
 ずきずきと痛む耳を押さえて振り返ると、頬を赤く染めて眉を吊り上げた村越がそこに居る。  
「いや、ちゃんと見て説明しろって期待されてる気がして」  
「意味分かんない、そんなに女の子見たいならそこらを歩いてるのにしろ」  
 
 あんまりなことを偉そうに言う村越は、不機嫌そうにこっちを睨んでいる。その秋色の瞳の中には、何かにうろたえている俺が映っている。  
 村越自慢の栗色の長い髪が、潮風に揺れる。  
 まるで空に溶けてしまいそうなほど儚く広がる髪は、俺には分かる。村越の髪は安っぽく染めた人工の色にはない柔らかさと強さを兼ね備えている。  
 向こうっ気の強い村越らしく、生まれつきのそれをむしろ誇りとして大事にしてきたことが文字通り色に出ているよう。  
 小ぶりの顔は、負けるもんかと強がるような表情だが、それがむしろ痛々しいから愛らしい。  
 きッと真一文字に噛み締めたか弱そうな唇。  
 強張った首筋は手折れそうな程に甘い。  
 朝霧めいた素肌は陽炎のように透き通った白。  
 思いのほか女性らしく実った胸を、挑みかかるような際どさで白い水着が隠す。  
 艶やかな腰から下肢への線は思いの外可憐で、どきりとする。  
 足元の白いミュールは多分お気に入りだ。  
 やけくそというか、捨て鉢というか、扇情的な水着を選んだ村越は、色っぽいというよりもどことなく危なっかしいと思うのは俺だけだろうか。  
 ほとり先輩が華奢なのにどこか健やかで女性的なのだとすれば、村越には艶やかに育ったことそのものを拒否して強がる痛々しい愛らしさがあった。  
 何と言うんだろうな、こういうの。  
 
 まるで、人に馴れていない、決して懐かない仔猫をかき抱くような。  
 そんなことを思っていると、村越はますます機嫌の悪い顔になる。  
「女の子じろじろ見てにやにやするな」  
 もっともだったので、小さく頭を下げて顔を背けた。  
 
「あたし日に焼けるとすぐに赤くなる性質だからね、修」  
「ん、出せ」  
 部長はほとり先輩の差し出す日焼け止めクリームを受け取ると  
「背中だけな、他は自分でやれな」  
 と無表情で言った。三ヶ月も経てば分かる。あれは緊張したり恥ずかしいのを必死に堪えているのだ。  
 村越が「代わって欲しい」と言いたそうにしているが、一瞬で二人の世界を作ってしまった。  
 あれやこれやと文句を言いながら、それでも部長は丁寧に、大切に、愛しいそうに背中に日焼け止めを広げていく。  
 じっと見ていても仕方がない。  
 俺は村越を促す。居た堪れず歩き出した俺に、一瞬だけ救われたような目を向けて、それから機嫌を損ねたようだった。  
 
「村越、海っていつ以来だ?」  
「あんたと同じにきまってるでしょ」  
 やっぱりそうか、と思う。  
 この数年、そういった想い出はほとんどない。  
「あんた、泳げるようになった?」  
 ふと足を止めた村越は、どうでも良いように言った。視線は海に。平日の為か人も疎らな夏の田舎の海を眺めている。  
「一応。そんなに得意って訳じゃないけど」  
「そ」  
 つまらなそうに囁くような声を返してきた村越は、それで海に興味をなくした様だった。  
 振り返れば、部長がほとり先輩の手の先にまで日焼け止めを塗っているのが見えた。  
 
 飲み物を買って帰ってくると、部長達はさっきまでのことなどなかったような素っ気無い顔をしていて、少しおかしかった。  
 
 その夜、俺は部長と二人並んで横になりながら、ふと尋ねてみたくなった。  
「部長、一つ良いですか?」  
「あん?」  
 窓の向こうはどうやらほとり先輩の部屋であるらしいが、まだ灯りが付いている。  
 女の子同士のお喋り、と言えば聞こえは良いが、なにせ相手は同性愛者を標榜する村越だ。何がどうなっているやら。  
 
「部長、村越のことなんですが……」  
「どうかしたか?」  
「その……何と言うか。少し風変わりな趣味をしていまして」  
「趣味、ねえ」  
 部長はがりがりと退屈そうに頭を掻く。  
「まあ、聞いてるぞ」  
「え?」  
「まあ、ほとりからな。多分そうなんじゃないかなあ、って言ってたからなあ」  
 ごろりと背中を向けて部長。  
 そうか、ほとり先輩は、気付いていたのか。  
「心配なら無用だ。どこの誰が相手だろうが、ほとりはそんな簡単になびく安い奴じゃないからな」  
 退屈そうに部長は付け足す。  
「後、俺も……そんな簡単に譲るほど、アホじゃない」  
 だから、俺は、どんなに足掻いてもほとり先輩に手は届かないのだと思い知った。  
 
   ◇  
 
 ひょっとすると、そういう意図もあったのかも知れない。  
 ほとり先輩は私のつまらない話にもニコニコと微笑んで聞き入ってくれていて、それで分かってしまった。  
 手を伸ばせば届きそうな所に、ほとり先輩の整った顔が横になっている。  
「先輩……先輩は、その……どうして部長と?」  
 さんざんお喋りをして夜も更けた頃、さすがに灯りを消して横になる。  
 油断しきった格好のほとり先輩がすぐそこで静かに目を閉じていて、その横顔が綺麗だったから尋ねてみたくなった。  
 どう考えても不釣合いな二人だった。  
 なるほど、確かに部長は私が思っていたよりはマシな人物かもしれない。  
 第一印象はどこにでもいる、ずぼらで薄汚くて無神経で屁理屈が得意なだけの男子高校生だった。  
 あれから三ヶ月。ほとり先輩がいるから我慢して通っていただけの部活は、私が思っていた以上に心地良い場所だった。  
 確かに部長はずぼらで無神経かもしれなかったが、誠実ではあった。  
 でもそれだけだ。ほとり先輩にふさわしい男とはとても思えないのは変わらない。  
 一体ほとり先輩は、部長の何が気に入ったのだろうか……。  
 
「こう言っては何ですが、特にカッコいい訳でも、スポーツなんかが得意な訳でもないですよね? 確かに物知りかもしれませんが」  
 それも、あまり役に立つとは言えない様な、他人の興味を惹くとは思えない様な方面で。  
 ほとり先輩は楽しそうにくすくすと笑って、他人事のように  
「そっか。皐月ちゃんには、そう見えてるんだ」  
 と呟いた。  
「確かにね、あたしも少し前まではそんな風に思ってなかったんだよ」  
「え?」  
 幼なじみで隣に住んでて、窓を開ければベランダを隔ててすぐそこの部屋で……そんな冗談のようなシチュエーションで。  
 何かの作り物のような、うそ臭いような、現実味のないような恋をしている二人だから、きっと生まれた時からそうだったのだと思っていた。  
「修はぼんやりしてて優柔不断で、要領悪くて泣き虫で不器用さんで……」  
「泣き虫? 部長がですか?」  
「そうよ。修は小さい頃から泣き虫なの。今だって本当はあまり変わってないわよ。でも……そうね、特に嬉しい時はなおさら」  
 まるで想像もつかない。  
 
 部長はずぼらで薄汚くて無神経で屁理屈が得意な男子高校生だ。胡散臭く鷹揚ながら、一応誠実かもしれないけれど。  
 そういう人だ。泣き虫なんていうのはあまりに突飛なイメージだった。  
「小さい頃はあたしの方が背も高くて、それに女の子の方が先に大人になるじゃない? だからお姉さん顔して引きつれたりして」  
 ほとり先輩は、懐かしそうに目を閉じたままだ。よどみなく語る想い出は、多分いつでも取り出せるように仕舞ってあるからだ。  
「ケンカなんかしたらあたしの方が強いくらいだったもの。ちょっと大きい犬が居たらへっぴり腰で逃げようとするし、年上の男の子にいつも使いっ走りさせられてたし」  
 それはイメージどおりだ。目の端に涙を浮かべて走り回る小さな部長が思い浮かぶ。  
「お父さんに屁理屈でやり込められては逃げ帰ってたっけ」  
 なるほど、今私にやっているのはその意趣返しか。そのうち痛い目に合わせてやる。  
「でもね……すごく優しい。照れ屋でなかなか表に出さないケド。後になって思い返してようやく気付くような、分かり難い優しさだけど」  
 後になって思い返してようやく気付くような。  
 そのフレーズが、引っかかった。  
「あたしが修を好きになったのは、中学二年生の時だった。痛い目にあった時、修だけが一緒になって悔しがって怒ってくれて」  
 喉の奥に、何かが刺さったような。そんな息苦しさを覚えた。  
 
「みんなが慰めようとする中でさ、修だけがあたしに共感してくれたのが……凄く嬉しかったのを憶えてる」  
 それは、多分つまらない想い出だ。けれど、つまらないからこと尊い。  
「いつもだらしない顔をしてる修があたしの為に怒ってた時、思った。今度はあたしが修の味方になろうって」  
 味方。  
 一緒になって痛い目にあって、気持ちを共感してくれて、そして代弁してくれる、人。  
「そうしたら、なんか……こうなっちゃった」  
 あはは、と笑うほとり先輩は、本当に幸せそうで。  
「分かりました……ありがとうございます、先輩」  
 私は、何だか泣きたくなった。  
 ほとり先輩を諦めないといけないことが悲しいのか。  
 それとも他に何か嬉しいことでもあったのか。  
 まるで分からなかったけれど。  
 
   ◇  
 
 修の手が、おずおずとあたしの指先まで丁寧になぞっていく。  
 恥ずかしがり、むずがる修に頼み込んでようやく日焼け止めを腕も塗ってもらっている。  
「何かさ」  
「ん?」  
 無言の修に、あたしは言いたくなった。  
 宝石でも磨くみたいな優しい手つきで、あたしを扱ってくれているのにドキドキしたからだろうか。  
「背中だと自分で塗れないから誰かにしてもらうものじゃない?」  
「まあ、そうだな」  
 修は素っ気無く答えたけれど、首筋や耳が赤くなっている。  
「でも、手だと自分でも出来るトコじゃない?」  
「そうだよ」  
「だからね、なんだかあたしは背中より手に塗ってもらってる方がドキドキする。凄く大切にしてもらってるって、そんなこと思ってさ」  
「何を……」  
 呆れたような修の手を握って  
「ん……」  
 キスを、ねだった。  
 
 

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