04 BOYS BE BRAVE  
 
 中学の三年間、私の文化祭は小道具係か音響係、端役でしかなかった。  
 一年生の時は鎌倉時代のお姫様と、彼女の婿養子という形で人質にされた少年が主役の時代劇。  
 源大姫と木曽義高の二人が時代に翻弄される悲劇のお話で、私は小道具作りと最期のシーンで舞台の天井裏から桜の花びらを散らす役だった。  
 二年生の時はUFOを追う非合法新聞部の中学二年生が、転校生の女の子の為に必死になる恋愛物。  
 人類と彼女を秤にかけて、世界を滅ぼそうとして失敗し救ってしまった男の子のお話で、私は主人公のお母さん役だった。  
 三年生の時はどこかの離れ小島の学校、旧校舎を学生寮にして暮らしていた少年少女のこれまた恋愛物。  
 色々複雑な家庭の事情で付き合えないと泣く幼なじみの為に、取り潰されそうな旧校舎を守るお話で、私は脇役の女の子兼最後のシーンのヒロインのドレスを縫った。  
 そういった具合の文化祭で、私は中途半端に関わった舞台を脇で見るのが常だったわけだ。  
 私自身スポットライトを浴びて主役になるのが得意と言う訳ではないし、それで満足だった。  
 特に三年生の時に縫ったドレスは中々好評で、あまり友達の居ない私が中学三年間で最も注目された一瞬だったと言って良い。  
 あれは確か、ひどく気に入ったらしいヒロインの女の子が持って帰った気がする。  
 朝井も同じようなものだ。  
 二年、三年と同じクラスだったが、やっぱり裏方だ。  
 二年生時は大道具で、意外に上手く書き割りや道具を作ってみせていた。あれであの男は小器用なのだった。  
 原子空母の艦内の書き割りを作ったのが、朝井のクラス内人気の最高潮だった。  
 ちなみに次の瞬間ヒロインの女の子がセリフ練習でかんでしまって、一気にそちらにクラスの目がいったけれど。  
 三年生の時は前年に続いて大道具兼脇役の男の子で、私との絡みが多くやり辛かった。  
 三年の時の劇は好評で、主役を務めた男子と女子はちょっとした人気者になっていた。まあ、あの劇はかなり反則技を使ったのだけれど。  
 恋愛劇の主人公に選ばれるくらいだから男子はイケメン、女子は美少女って奴で、劇の延長で盛り上がったのだろう、その後付き合い始めた。  
 二人の性格は演じた役とあまり変わらないらしく、時折私はまだ劇をしてるんじゃないかと変な感覚になったのを覚えている。  
 卒業まで付き合った二人がどうなったのか私には分からなかった。当時の同級生とあまり付き合いがないせいだ。  
 けれど、上手くやってればいいなあくらいのことは思っていた。いくら同性好きとはいえ、それくらいの余裕はある。  
 
 多分朝井もそう思っていたのだろう。  
 あれで如才ない朝井は、それなりに当時の同級生とも連絡を取ったりしているらしい。  
 多分朝井に聞けばあの二人の行方も分かるだろう。  
 そんなことを思った。  
 とても静かな気持ちだ。  
 誰かを、好きになって。それはいつも望まれないもので。相手にとっては迷惑なだけで。  
 そんなことを繰り返してきた。沢山恥をかいた。沢山嫌われた。沢山叱られた。けれど。  
 私は後悔はしていない。  
 私は、私が欲しいと思うものを素直に口にしてきただけなのだから。  
 いつだってそう。私は私のことを考えていたのだ。  
 高校生になって始めての文化祭は、私の案が通った。  
 先輩達が一生懸命、私なんかの思いつきに応えてくれている。一年生の私を主役だと言ってくれて、笑ってくれている。  
 その光景に私は生まれてから一番深い感謝の気持ちを覚えた。  
 自分のことしか考えていないような人間の言葉にここまで応えてくれて、泣きたいくらい嬉しくて嬉しくて嬉しくて、同じくらい申し訳なくなる。  
 あの時の私は、ほとり先輩に褒めてもらいたくて意見を出しただけだったのだ。先輩達が、最後の文化祭を飾るに相応しくなんてない理由だった。  
 だから、私は必死になった。せめてこれが先輩達の良い想い出になるように。  
 目の前には部長とほとり先輩。  
 どんなに必死にくらいついても、どうにもならないくらい深く繋がっているのが私にも分かる。  
 白状すれば、少し辛くもあるけれど。  
 仕方ないか。  
 そう思えるくらいに、私の心は静かになった。  
 用意した屋台には、美味しそうな匂いが立ち込めている。  
 郷文研と文芸部。二つの変人の部活動が表でやる発表会は、開始前から不思議と成功する確信があった。  
 だって―――ほとり先輩が。私が大好きになった先輩の作ったものが、売れないはずなんてないんだから。  
 
 朝井はといえば、いつもと変わらないムッツリ顔をしている。  
 けれど春の頃とはほとり先輩を見る目が違う。アレはきっと、私と同じことを感じているのだと、不思議とそう思った。  
 いつも私と同じように傷ついて、立ち直って、色々なものを共有してくれる。  
 それが、私の朝井春樹だった。  
 
   ◇  
 
 八月初めの合宿を終えてすぐ、俺と村越はバイトを始めた。  
 村越が俺に持ってきたのは引越しだった。というか、近所の知り合いのツテで、俺も知っているおじさんが一緒だった。  
 変な勘ぐりをされつつ、俺は慣れない荷物運びに必死になり、そして他のことを考える余裕なんてなくしていた。  
 中学時代の友人から、夏休みだし集って遊ぼう、みたいな誘いもあったが、正直そんなの無理だった。  
 うっかり引き受けたバイトがキツくて無理と伝えて、俺は毎日実に健康的な生活を送っていた。  
 朝起きて、ご飯食べて、母さんが用意してくれたお弁当持ってバイトに行って、一日中外で荷物運んで、ヘトヘトになって帰ってきたらご飯食べてお風呂に入って寝る。  
 夏の引越し業者なんて仕事ないだろうと高をくくっていたのだが、全くそんなことなかった。  
 引越しといえば春が忙しいなんて思っていたのは俺の間違いだった。夏も忙しい。忙しい上に大変だ。  
 何でも夏の、それもお盆の前くらいまではちょうど新築の家が引き渡される時期らしく、引越し業者にとっても稼ぎ時であるらしかった。  
 この不況の時代、新築なんてそうそう建つまいと思っていたが案外そうでもないらしく、政府の補助だか何だかの関係でそれなりらしい。  
 新しい家に誰もが幸せそうな顔をしているが、舞台裏の俺達はそうもいかない。  
 何といっても夏なのだ。それも太陽が燦々と照りつける昼日中。そして場所は照り返しも厳しいアスファルトの上。  
 少しくらい曇ってくれても良いだろうに、何かの嫌がらせのように段ボールいっぱいに詰まった本を運びながら空を見上げた。  
 これは仕事の名を借りた拷問か何かなのではないのだろうか? 何てコトを考えた所で荷物が軽くなるでなし。  
 俺は盛大に喚き立てる蝉や容赦なく照りつける太陽に八つ当たりしそうな衝動を堪えて仕事に勤しんだ。  
 部長やほとり先輩も受験勉強の合間を縫ってバイトしてくれている訳だし、と必死に考えて働くこと二週間。  
 八月終盤になり一段落付いた所で俺のバイトも無事終了した。  
 二週間の思い出はバイト一色というのも青春っぽいといえばそうかもしれないが、それにしても暗い。  
 夏休みも終わろうというこの時期では、どの友達も課題に追われて忙しいようだった。  
 つまり、俺の夏休みは始まったと同時に終わっていた訳だ。  
 目標額を優に超す金額を手にしたものの使い道もない。  
 部長にお金を預けて、残りは銀行へ。残りの時間は涼しい図書館でぼんやり過ごすことになった。  
 そんな俺を見かねたのだろうか、珍しく村越が「遊びに行こう」と言い出した。  
 
 そんなことを言うのは小学校以来だ。  
 俺がキョトンとしていると、村越は不機嫌そうな顔をしていた。  
「バカじゃないの? あんなに頑張ったのに、ちょっとくらい我が侭言いなさいよ」  
「いや、でも誰に―――」  
「そんなの、あんな大変なバイトを頼んだ私に決まってるじゃない!」  
 村越はどうやら、そんな所が引っかかっているらしかった。  
「それなりに対価は貰ってる。引き受けた俺がそれで納得してるんだから、そこをお前が気に―――」  
「今日はあんたのウダウダ話聞く気はないの、ほら早く」  
 手には籐のバスケット。どうやらお弁当を用意してくれたらしい。  
 降りしきる雨のような夏の日差しの下、麦藁帽子と白いワンピースの裾を揺らして。  
 村越はどこかのお嬢様のような格好で、けれどいつもと同じ挑みかかるような目をしていた。  
 その日は機嫌が悪い村越に付き合って水族館へ。何でもチケットを貰ったらしい。  
 村越のバイトは地元農協の選果場での箱詰め作業や売り子だったらしく、きれいだった手が随分汚れていた。  
 丁寧に手入れされていたはずの爪は傷だらけで光を失っていたし、柔らかそうだった手も水仕事でもあったのだろう少しだけ荒れていた。  
 けれど俺には、そんな手のほうがずっと好ましく尊いものに思えた。  
 いつだったかの遠足以来になる水族館だったが、隣で怒ったような顔した村越と一緒だったせいか、それなりに楽しかった。  
 村越は怒っている方が良い。  
 変にデレデレしてるより、泣いているより、何かに挑むような顔をしている方がずっと村越らしい。  
 やはり怒ったような顔のまま差し出すお弁当はサンドイッチで、俺の好きな卵サンドが多かった。  
 
 そしてその日の帰り。  
 電車の中には人気がなく、俺はぼんやりと広告の文字を目で追っていた。  
 夕暮れの赤に染まったローカル線と、のんびり流れていく景色と、タイトルだけでも下らないと分かることを喚いている週刊誌の広告と。  
 そういったものをぼんやり眺めていると、村越がどうでも良いことの様に言った。  
「私、またふられた」  
「…………そうか」  
 ゆっくりと電車が駅に止まり、知らない人が乗ってきて。  
 俺はもう一度広告に目をやった。  
 ヒアルロン酸。  
 肩こり腰痛に。  
 車売るなら。  
 オペラ座の怪人九月三日より文化センターにて。  
 それっきり村越は何も言わなかったし、俺も口を開かなかった。  
 広告から目を村越に向けると、斬り付けるような鋭い目でヒアルロン酸を睨んでいた。  
 
 だから俺も、やはり同じようにしたのだと思う。  
 どういう縁なのか分からないが、俺達は同じものを手に入れられないように出来ているらしい。  
 それを思い知らされる速度まで同じで、だから他人とは思えない。いわば、もう一人の自分のような。  
 それが、俺の村越皐月だった。  
 
   ◇  
 
 文化祭の出し物は部活優先させてもらえるらしく、俺と村越は朝からずっとそちらに掛かりっきりだった。  
 俺や部長、文芸部部長さんの三人の男子は裏でほとり先輩達の小間使いだ。  
 アレが足りないこれを用意しろといいように使い倒されて、順番に休憩をとることになった。  
 文芸部部長とその幼なじみさんが休憩から帰ってくると、ちょうどお昼の時間。  
 ほとり先輩がニコニコと差し出してくれた売り物を頂いていると、村越が無言で隣に座りやはり同じく昼食を摂り始めた。  
「売れてるな」  
「ええ」  
 ウチの出し物は中々好評だった。  
 文化祭は二日間の予定だが、お昼の段階で初日分の八割以上が既に売れていた。  
「ほとり先輩の作ったものが、うけない訳がないでしょ」  
「そうだな。でも、ほとり先輩が作ったじゃないだろ」  
「…………」  
「文芸部の人たちもだし、お前もだ」  
「私は……大したことしてないよ」  
「なら、俺たち男子はもっと何もしてないぞ」  
 部長は文芸部部長と顔をつき合わせて何か話し込んでいる。  
 手は一応鍋をかき回しているが、意識はとっくに話のほうに飛んでいる。  
 時折それを見咎めたほとり先輩達に叱られているが、何を熱心に話しているのかまだ続けている。  
 文芸部部長は、ウチの部長よりも寡黙なようだった。愛想の悪いウチの部長がとっつきやすそうに見える。  
 部長がにやりと何か悪巧みしているのを眺めてから、出店の方へ。  
 ほとり先輩達は「郷土料理を出すんだから」と地元のご老人のご厚意でお貸し下さったたすきがけの着物姿だ。  
 古いとはいえ艶やかな着物姿はかなり好評なようで、先生方(特に男の)が感心した風に眺めていったし、写真部も随分撮影していたようだ。  
 文芸部部長の幼なじみさんが着こなしているのは深い青に鮮やかな桜色の花が咲き乱れた艶美なもので、ぴんと伸びた背と楚々とした所作が文句なしに美しい。  
 その文芸部の二年生の先輩は薄い黄色に赤い花をあしらった着物姿で、ニコニコと楽しそうにしているのがとても華やかだ。  
 そして俺達郷文研のほとり先輩の着物は淡桃色に白い花を大胆に散らしてある優美なもので、くるくると踊るような足取りで給仕をしているのがとてもきれいだった。  
 あれが俺達の先輩だと思うと、自分はあまり関係ないのに妙に誇らしくあった。三人ともきれいだけど、ほとり先輩がやっぱり一番だ。  
 長い黒髪を高く結い上げ、さりげなく古風なかんざしを刺してあるのがとても似合っていた。  
 
「じゃあ、私戻るから」  
 村越は食べ終えたお皿を、俺の分も重ねて持っていってしまった。  
 村越は紫色に大輪の白い花を幾つも咲かせた華麗な着物を纏い、きりりと凛々しい顔をしていた。  
 いつも自慢にしているの長い栗色の髪をやはり結い上げ、お借りした鮮やかな紅色の櫛をさしている。  
 アレをお貸し下さったご老人の嬉しそうな顔を思い出す。  
 若い頃これをさしていた時代を思い出すようだと、村越の栗色の髪でいっそう映える紅色を眺めてニコニコしていた。  
 遠い日、ご自分が使われていた時代を思い出したのか、目尻に滲んだものを村越はハンカチでそっと拭って差し上げてから  
「ありがとうございます」  
 と微笑んだ。  
 驚いた。  
 こんな顔も出来るのか。  
 挑むようなあの刺々しさ、痛々しさがなりをひそめていた。  
 そして、他意なく言えば綺麗だと思った。  
 訂正しようと思う。村越は挑みかかるような目をしない方が良い。もっと良い顔が出来る。  
 そんなことを思い出していると、いつの間にか部長が前に座ってにやにやしていた。  
「よう、朝井。村越眺めてなにニヤニヤしてんだ」  
「……そんな顔してません」  
「そうだな、朝井はそういうの隠すの上手いからな。でもなー、少なくとも嬉しそうではあったぞ。何があったのかな?」  
「…………大したことじゃないです。あの赤い櫛」  
「あん? 櫛? ああ、あれもお借りしたんだっけな」  
「はい。あれをお借りした時のこと、思い出してました」  
「…………何かあったか? や、俺はほとりと冷やかし爺様の相手で忙しかったからな」  
「別に、本当に大したことは何も」  
「ふーん」  
 にやり、とどこかの猫のような笑みを浮かべてから  
「そうかー。まあ、何でもいいさ。お前らが仲良くやってくれるなら」  
 部長は如何にも美味しそうに昼食を口に運び始めた。  
 文芸部の部長さんも少しだけ口の端を緩めて食べ始めている。  
 男手が三人も休憩していては後で女性陣に叱られる。俺は慌てて鍋の方に向かい、案の定ジト目をした村越に迎えられたのだった。  
 
 想像以上に好評で、郷文研と文化部の出店は予定数をお昼過ぎには完売。ここは攻め所だと部長二人が女性陣を説き伏せて二日目に用意していたものも販売。  
 気付けば初日だけでかなりの売り上げになっていた。  
 
 午後からの俺は調理室を借りて二日目の下ごしらえに取り掛かった三年女子二人の小間使いになった。  
 アレが足りないコレが足りないと渡されたメモは、商店街に着くなり耳ざとく聞きつけてきたらしい地元農家や漁師の方が覗き込んでくる。  
 色々な材料を格安で譲ってもらえた上、あの二人なら上手く使えるからと渡されるオマケの数々。  
 あっという間に俺の自転車は荷物まみれで、何度も学校と商店街を往復することになった。  
 材料が揃えば今度は実際の作業だ。  
 野菜の皮むきくらいは出来るでしょ? とのお言葉を頂戴し、残りの時間は野菜の皮をごりごりむくだけで終わってしまった。  
 ふと気付けば初日終了。  
 夕暮れの赤い色が部屋を満たしていて、その中でほとり先輩が鍋の具合をうかがっていた。  
 菜切り包丁が小刻みに音を立て、出汁の匂いがほんのり漂う中を、ほとり先輩がくるくると動いている。  
 三角巾で長い黒髪をまとめて、地元のご老人からお借りした割烹着を身に着けたほとり先輩は、目を閉じて小皿に取った出汁を少し舐めて頷いている。  
 その横顔が夕日で赤く染まっていて、俺は訳もなく泣きたくなった。  
 この人が部長と付き合っているから、なんて下らない理由ではない。  
 ただ、訳もなく心が動かされた。  
 ぼんやり先輩を見つめていると、気が付いたのだろう、静かに小首を傾げながら微笑んでこちらを向いてくれた。  
「どうかした?」  
「いえ……」  
 ふと気付くと、夕暮れの中で二人きりになっていた。  
 文芸部の三年の先輩はどこかに行ってしまったらしい。  
 丁度良いと思った。  
 決着をつけよう。  
 下らないことだけど、言っておかないと……終われない。  
「ほとり先輩」  
「ん?」  
 かちりとガスコンロの火を止めて、ほとり先輩が振り向く。  
 さらりと解いた三角巾の中に納まっていた黒髪が、夕日の中に撒かれていく。  
 桜舞う春の中で、微笑んでいたあの姿と何一つ変わらない姿のほとり先輩は  
「言いたいこと、あるのかな?」  
 と優しく言った。  
 だから俺も小さく頷いてから  
「先輩のこと、好きです」  
 と答えた。  
 
「半年前に郷文研のチラシを貰ってから、ずっとです。ほとり先輩はいつも優しくて綺麗で、ずっと憧れていました」  
 思い出す。  
 ほとり先輩はいつも穏やかで優しくて、理想の女性だったのだ。  
「だから俺……先輩のこと、好きです」  
 言い切った。最後の方は緊張と照れで小さくなったけれど、ちゃんと言えた。そのことが嬉しい。  
「ありがとう」  
 先輩は優しく微笑む。  
「でもね春樹君、あたしはもう好きな人が居るの」  
 淀みなく、俺のような緊張も照れもなく、当たり前のことを口にするような気軽さで、先輩は続ける。  
「ぼんやりしていて優柔不断で、要領悪くて泣き虫で不器用さんだけどとっても優しい人で……そしてあたしにとっては世界で一番格好良いヒーロー」  
「ヒーロー?」  
「そうよ、あたしの修は、とっても格好良いんだから」  
 さすがに少し吹いてしまった。  
「あ! 笑うことないじゃないのッ!」  
「いえ、勝ち目ないんだなあって思えて納得出来ました。あと、普段の部長を知っていると、さすがにちょっと」  
「ん……まああんまり反論は出来ないんだケドさ」  
 呆れたような、諦めたようなため息を一つついてから、ほとり先輩はもう一度笑ってくれた。  
「ところで気が付いてる? 皐月ちゃんは好きになる人の傾向」  
「はい」  
 村越の理想の人はお母さんで。村越はお母さんが欲しいだけなのだと。  
 それくらいは、気が付いている。村越は、お母さんになりたいだけなのだと。  
「皐月ちゃんからも告白されたケド、あたしはその前にお母さんの話は聞いていたから」  
「そうですか」  
「あたしはあなた達のお母さんにはなれない。でも春樹君」  
「はい?」  
「頑張ってね。お母さんの代わりなんて無理にしても……」  
「はい」  
 村越が理想の人に近づけるように。その為に同じ人を憶えている俺が一緒に居れば。  
 いつか、村越は『お母さん』になれるのかも、知れない。  
 だから俺は、精一杯の感謝の気持ちを込めて。  
「ありがとうございました」  
 と、頭を下げた。  
 白状すれば悔しいし悲しいけれどそれ以上に『あなた達のお母さんにはなれない』と言った先輩の察しの良さに、俺は頭が上がらない思いがした。  
 俺自身目を向けないようにしていたことを突きつける厳しさと、それを教えてくれる優しさに。  
 
   ◇  
 
 初日の売り上げを数えて、部長二人がニヤニヤしている。  
 ほとり先輩達は明日の準備に奔走しているし、朝井はその手伝いに借り出されている。  
 文芸部には二年生の女子の先輩がいるのだが、今はどこかに消えている。  
 私はガスレンジの元栓を閉めたり、机を拭いたり、椅子を片付けたりといった細々とした店じまいの仕事に集中していた。  
 売り上げに満足したらしい部長二人と店じまいや掃除をしていると、夕日もすっかり沈んでしまっていた。  
「終わりましたね」  
 何気なくそう言うと、部長がにやりとしてから  
「明日も忙しいぞ、きっと。今日みたいにあっという間だ」  
 と胸を張った。  
 文芸部の部長はどこに行ったのか、気付けばテントの中は私と部長だけだった。  
「いや、しかし良い企画だったな。こんなにうけるとは思わなかった」  
「ほとり先輩の作ったものが、うけないはずがないじゃないですか」  
「そうだな。だが、思いついたのは村越だ。胸を張っていいぞ」  
 にやりとまた、得意そうに部長は続ける。  
「郷文研史上、類を見ない大成功だ」  
「ありがとうございます」  
 他のテントも、もう片づけが終わるのか、人気はあまりない。  
「ほれ、ご褒美だ」  
「はい?」  
 間の抜けた返事になった私に、部長は缶ジュースを渡してくれた。  
「いつの間に」  
「あはは、ちょっとね。ほとりや朝井には内緒な?」  
 茶目っ気たっぷりに、おどけて肩をすくめて口元に指を一本立ててみせる部長に、呆れ半分で笑ってみせる。  
「ありがとうございます。いただきます」  
 少し温いオレンジジュースが甘く喉を潤していく。  
 部長はいかにも美味しそうに同じ缶ジュースを飲んでいる。  
 他に誰も居ないなら、聞いておく良い機会かもしれない。  
 だから私は、何でもないことの様に尋ねた。  
「部長は……ほとり先輩のどこが好きになったんですか?」  
 部長はきょとんとしてこっちを見てから、答えあぐねたように首を傾げる。  
「急にどうした?」  
「どうしても、聞いておきたくて」  
「…………そうか」  
 
 それで何かを察したらしい部長は、缶ジュースを一気に飲み干してから  
「アレとは随分長い付き合いになるが……そういう風に好きになったのは中学生の頃だったかな」  
 一つ一つ丁寧に、指でなぞって確かめるように思い出しながら。部長はゆっくりと言葉にし始めた。  
「俺が言うのも何だが、ほとりの奴はほら……その、結構美人だろ?」  
「そこは照れなくてもいいです」  
「冷たいな。あんまりこういうの口に出すのはどうもな。ほら、減るだろ?」  
「減りません。何が減るって言うんですか。それよりも、続けてください」  
「ん、いや……まあ、とにかくあいつはクラスでも人気があってな。成績も運動神経も、人付き合いも気風も良いもんだから当たり前だろうけどな」  
「素敵な先輩です」  
「だろ? だがな、あいつ普段は猫被ってるけど、本当は口悪いんだ」  
「はい?」  
「小さい頃の話だけどな。親父さんがそうだったからなんだろうけど。まあ子供の頃は女の子の方が弁が立つもんだし、珍しくもないんだろうけど」  
 部長はがりがりと苦笑いをしている。遠く懐かしいものを思い出して、苦く優しく微笑んでいる。  
「背もあいつの方が高かったし頭の回転も良かったから、うっかりケンカなんかしようもんならいつもコテンパンにやられたもんさ」  
 今でこそ、背だけは追い抜いたけどな。と部長は肩を竦めた。  
「いつだったか、見かねたかがりさんがほとりの口を注意しはじめてな」  
 ああ、かがりさんってのはほとりのお姉さんな。と補足して、部長。  
「で、七つ年上のかがりさんみたいになりたかったほとりは、そのうちに口も直して、それが小学校三年生くらいだったかな?」  
「何かあったんですか?」  
「んにゃ、ただそのおかげでほとりは人気者ってのになったってだけ」  
「部長は?」  
「あははは、子供の頃は今より酷い人見知りでさ、いつもほとりの尻に引っ付いてた」  
 なんとなく想像が付いた。  
「そんな風だから、俺もほとりもこうなるとは全然思ってなかった。でも、まあ……何か縁があったんだろうな」  
「縁? どんな?」  
「ああ……俺は格好良い所見せようとして、まあ案の定失敗してさ。でもそんな俺に、ほとりは」  
 一区切り。躊躇っているのは、恥ずかしいのと他の人に言うのがもったいないからかもしれない。  
「まあ、そうじゃないみたいなことを言ってくれた」  
 たっぷり迷ってから出た言葉は、かなり誤魔化されていたけれど。私は聞き出そうとは思わなかった。  
 二人の大切な物だろうから。それを根掘り葉掘り聞き出して、手垢まみれにするほど無粋ではない。  
 部長は顔を逸らして、がりがりと頭を掻いて、照れ隠しに咳払いをする。とても部長らしい仕草だった。  
「アレで、思い知らされた」  
「何を、ですか?」  
「俺は、ほとりの前じゃ格好つけたいんだなあ、って」  
「つまらない理由ですね」  
「そうか?」  
「でも……それじゃ仕方ないです。降参です」  
 
「…………村越」  
「仕方ないから、引きます。いえ、まあ私はほとり先輩には……」  
「村越」  
 意外なほどに強い口調で名前を呼ばれ、振り向くと……  
 部長が、静かに微笑んでから、人差し指を一本立てて唇に当てて見せていた。  
「もういい」  
「…………厳しいですね、部長は」  
「まあ、人の女に手を出そうとした相手にだからな」  
「甘いですね、部長は」  
「そりゃ、可愛い後輩だからな」  
 悪戯っぽく、けれどどこか真剣な色の混じった声に心を動かされる。ああ……こういう人だから、ほとり先輩は好きになったのか、と。  
「村越、最後に一つだけ」  
「何ですか?」  
「誰かに好かれたいなら、まず誰かを好きになる所から始めないと」  
「……え?」  
「誰も、代わりなんて出来もしないし、しても意味はない」  
「何を―――」  
 最後に投げてきた言葉は、自分でもそう思っていたことで。  
 改めて言われるのは、痛かった。  
「まあ、自分が痛い目にあったから言うんだけどさ」  
「本当に、厳しいですね、部長は。もっといい加減な人だと思ってました」  
「あはははは」  
 心底楽しそうに笑ってから、明日の準備が終わったテントを眺めてから、誰も居なくなった中庭を見渡してから。  
 部長は私に向き直って  
「そりゃ、俺は二人の先輩だからな」  
 と、微笑んだ。  
 だから私は色々なものを飲み込んでから、一番言いたいことを口にした。  
「やっぱり私、部長のことは好きになれそうにないです」  
 と、頭を下げた。  
 それが私の、精一杯の謝罪と感謝と負け惜しみだった。  
 
   ◇  
 
 そして、俺たちの研究発表は成功を収めた。  
 二日間の文化祭で売り上げトップになった郷文研と文芸部共同発表は先生方やご来賓の方々にもかなり好評だったようで、部長はいつもの席で  
「いやー、人生で一番褒められたよ」  
 とにやにやしていた。  
 かなりの利益も得たけれど、それ以上に何かの為に必死になれた時間の方が誇らしかった。  
 そんなことを言うと、村越は呆れた顔で  
「あんた、お金持ちにはなれないね」  
 と笑っていた。  
 だから俺も嬉しくなって  
「それでもいい、負け惜しみだけど」  
 と返した。  
 そんな文化祭片付けの翌休日、俺と村越は、部長とほとり先輩の為にささやかではあるが会を開いた。  
 文科系の部活動は、文化祭での発表会を最後に三年生が引退することになっているのだ。  
 つまり部長と、正式な部員ではないにしても今日まで一緒に頑張ってくれたほとり先輩の……送別会だった。  
 夏のバイトで稼いだお金を出し合い、俺と村越は駅前のイタリアンレストランに席を取り、そこに二人の先輩を招いた。  
 部長はこういった場所が得意ではないらしく、終始キョドキョドしていたのが、失礼だが可笑しかった。  
 ほとり先輩は淡い桃色のフレアシャツにベージュのカーディガン、白いロングスカート姿で、部長の腕にそっと寄り添って現れた。  
 堅苦しい挨拶を抜きにして始まった送別会は、部長とほとり先輩の想い出や俺達が入ってからの色々な出来事などの話に花が咲く。  
 隣の村越が楽しそうにしているのが、俺は嬉しかった。  
 俺達は欲しいと思ったものを手に入れられなかったけれど、それでも欲しかったものを手に入れられた。  
「さて、部長として最後に言っておくことがあるんだが」  
 デザートも食べ終え、最後のお茶が運ばれてから。  
 部長は静かに笑ってそう切り出した。  
「や、その前に二人に確認しておく。ほとりは居なくなるけど、それでも続ける気はあるな?」  
 その尋ね方が嬉しくて、俺は頷いた。  
「はい」  
 村越は少し間を開けて、仕方ないからといったような素振りで誤魔化してから  
「はい」  
 と答えた。  
「そうか。いや、春の時はどうなるかと思ったが……二人が郷文研を続ける気になってくれて、本当に嬉しいと思う」  
「本当に、詐欺みたいなやり方だったからどうなるかと思ってたのよ」  
 ほとり一本釣りは、もうこりごりだ。なんて部長は呑気に笑ってから  
「で、俺が居なくなる以上、部長を決めないとな」  
 と、真剣な顔になった。  
 こほん、と咳払いをしてから。  
「朝井」  
 唐突に呼ばれて、思わず肩が跳ね上がった。  
 
「はい」  
「お前、今から部長な」  
「え?」  
 部長は「はーやれやれ、曲がりなりにも『長』なんて付く役は面倒臭かったー」と勝手に肩の荷を下ろして楽になってしまっている。が、  
「ちょ、だって文化祭の結果から言えば、部長になるのは村越の方が」  
 俺は慌てる。今回の成功は、村越のアイデアだ。俺は後ろでもぞもぞと小間使いをしていたに過ぎない。  
「俺もほとりも、朝井を選んだ」  
「皐月ちゃんがダメって意味じゃないよ、単に春樹君の方が郷文研好きかなって」  
 呆然としていると、村越はさも当然だと言わんばかりに頷く。  
「私も朝井がいい。私と違って、ちゃんと郷文研部員やってたのは朝井の方だから」  
「そゆこと。過去の資料に目を通して、興味を持ってくれてただろ?」  
 やっぱり好きな奴がやってくれるのが一番なんだから、と部長は笑った。  
「だから朝井、今からお前が部長だ」  
 部長は……いつもの偉そうな笑みを浮かべてから、手を差し出してきて。  
 ほとり先輩が楽しそうにそれを見ていて。村越が早くしろ、みたいにじっと見つめていて。  
 だから俺は小さくため息をついてから  
「分かりました。部長、やらせてもらいます」  
 と腹を括って部長の……元部長の手を握った。  
 資料庫の整理係と同義の我が郷土文化研究部、略称郷文研は万年部員不足で。  
 校則通りならそもそも部活動ではなく、当然学校から予算も下りない非合法な団体で。  
 それでも長い歴史を誇り、我が校と地域の過去を集めて管理していて。  
 だから……俺は思いの外重たい責任を感じ、そっと身震いをした。  
 となりで村越が、少しだけ嬉しそうに頬を緩めたのを見て  
「任せとけ」  
 と言ってみた。  
「うん、頑張ろうか」  
 
   ◇  
 
 そうして季節は冬。  
 無理やり空けたスペースにねじ込んだ石油ストーブを囲んで、俺と村越はぼんやりと本を読んだりお茶を淹れて飲んだりしていた。  
 煎茶の淹れ方を練習しているらしい村越が「あ」と小さく呟いた。  
「どうした?」  
「ほら、これ」  
 振り返った村越の手に、ほとり先輩愛用のティーカップがあった。  
「これ、先輩のか」  
「うん、忘れ物じゃないかな?」  
 ほとり先輩は予備を幾つか用意していた。多分その内の一つだろう。  
 村越は少しだけ考えてから  
「これ、明日にでも渡しておこうか」  
 と言い、そっと棚に戻した。  
「ああ、頼む」  
「私が行ってもいいの?」  
「二人で顔を出すこともないだろ」  
「折角用事が出来たんだから、良いでしょう」  
 村越はじとっとした目で一度俺を睨んだ。村越の不機嫌な顔はいつものことだけれど、この味が分かるのは多分俺だけだ。  
 にやにやしていると、村越がますます機嫌を悪くして。  
 けれど不意に呼吸を一つ、深くして。意を決して。  
 こんなことを口にした。  
「私ね、この髪嫌いなんだよ、本当は」  
「え?」  
 村越が大事にしてきた自慢の栗色の髪は、今日も艶やかで綺麗だ。  
「本当は……ほとり先輩みたいな黒髪が良かった。みんなと同じ、お母さんと同じ」  
「でも、それは村越のお母さんからって」  
「うん。それも本当。お母さんのお母さんがこういう髪だったから、お母さんは私の栗色の髪を好きだって言ってくれたから。だから私もそう思うことにしているんだ」  
 
 村越は大事そうに髪を指に通す。  
「でも本当は……黒髪になりたかった」  
「……俺は、その髪好きだけどな」  
 だから、言わずにはいられなかった。  
「…………嘘だ」  
「本当に」  
「だって、朝井が好きになる女の子は、いつも黒髪だ」  
「俺は―――」  
 本当は。  
「私が好きになるのも、黒い髪の子だ」  
「…………村越、お前さ……それ好きなんじゃなくて、単に」  
「言わないでよ。あんたに言われるのが、一番痛い」  
 だからこそ、今こそ、言わなくてはならない気がした。  
「単に、その子に憧れたり妬んだりしてるだけだ。お母さんと同じものを持ってるその子に」  
「言わないでって、言ったじゃんか」  
 にっこりと、振り向いた。村越の、憑き物が落ちたような笑顔が、そこに咲いていた。  
「ほとり先輩に同じこと言われた。私はあなたのママにはなれないって」  
「村越」  
「だからね、これっきり」  
 ふう、と肩から力を抜いて。ほんの小さい頃、まだ俺達がお母さんに甘えていた時代と同じ笑みを浮かべて。  
「誰かに憧れたり妬んだり……代わりにしたりするの、これっきり」  
「ああ」  
 良かった。そう素直に思えた。変に村越を理解しようとして、同性愛だなんて言葉を受け入れて。そういう風に今日まで来たのは、間違いだった。  
 だから、俺も間違いは正さないといけない。  
「俺も、誰かを代わりにするのは止めるよ」  
 長い黒髪と優しい笑顔。  
 村越のお母さんは、俺と村越にとって特別な人だった。  
 でも、もう居ない。どんなに嫌でもそれが事実だから。でも、今なら分かる。それを受容するには時間や誰かの助けが必要だったから。だから……  
「今まで言わなかっただけなんだけどさ」  
 肩の荷が一つ降りた気分で、秘密にしていたことを言った。  
「俺、栗色の髪の女の子って、好きなんだよ」  
 栗色の髪が揺れて、冬の夕暮れ、赤い光に満たされた中をゆっくりとひるがえる。  
 何の疑いも、悲しみも、恨みも、苦しみも忘れて、村越皐月が微笑んでいる。  
「バーカ。そんな簡単に、信じるもんか」  
 
 

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