03-03 花冠
ドアを開けて外へ出ると、まずポケットの中を確認する癖をつけたのは、ほとりの言いつけでだった。
鍵は持ったか、財布は、ハンカチはティッシュは。
おかげさまで粗忽者のいい加減な男の癖に『お財布忘れて〜』みたいな恥をかいたことは一度もない。
昨日不意にほとりから電話が掛かってきた。
いや、電話に不意にも何もないのだけれど。
とにかくほとり以外からかかってこない俺の携帯電話が、早く出ろと歌うのに急かされる。
うたた寝している間にどこかの間に落としたのだろう、くぐもった声で古臭いけれど味のあるアメリカ人歌手の名曲が鳴り続ける。
布団の間に入り込んでいた携帯を探り当てて、予想通り画面に表示されているほとりの名前に少しだけ唇を緩め、通話と表示された画面に触れた。
「こんばんわー」
と、何が楽しいのやら、呑気な挨拶が耳を撫でた。
「ん、こんばんわ」
律儀に返事をするのも、そういえばほとりに何度も注意されてだったような気がする。
「あのさ修、急で悪いんだケド」
ほとりの声はふわふわと浮き立つように跳ねている。何かとんでもなく楽しい悪戯を思いついた時の、ほとりの声だった。
日に日に綺麗になっていく幼なじみは、けれど根っこで子供の頃のような部分をなくしてはいないのだった。
「明日ね、お昼前から時間あるよね?」
「ああ」
あるに決まっている。
卒業旅行と称した湯治から帰り、実の所俺はやることが何もないのだった。
昨日暇つぶしにその辺りをウロウロしていて、実に一月以上ぶりに文芸部の二人と偶然鉢合わせて少し話をしたくらいのものだ。
文芸部の二人は地元残留であるらしい。隣の市にある大学に進学して今後も実家通いを続けるそうだ。
そういえば文芸部の奴は今自動車免許を取ろうとしているらしい。まるで上手くいかなくて四苦八苦しているようだが。
「あのね、お花見しよう」
ほとりの声でふと物思いから引き戻される。
「花見? ああ、もう咲くのか」
「そ、少し早いけど、あたし達ももうしばらくしたら離れるでしょ?」
「そうだなあ」
何の因果か、上京するのだ。二人揃って。
「名残でも惜しむか」
「うん」
あまり愛想が良いとは言えない俺のぼんやりした声に、ほとりは一際嬉しそうに返事をするのだった。
ほとりにはお気に入りの桜並木がある。
何のことはない、昔俺達が通っていた中学校近くの土手沿いの道だ。
土手にトンネルでも作るように桜の木が立ち並んでいて、まだ小さい頃からほとりのお花見といえばあの道のことを言うのだった。
確かあれは小学校に上がったばかりの春のことだ。
例年よりもことさらせっかちに咲いた桜を追いかけるほとりに付き合い走らされたことがあった。
当時からほとりは俺よりもずっと足が速く、それこそ飛び跳ねるように桜並木の道を駆けていったのを思い出す。
咲くのが早ければ散るのも早い年だったように思う。
ほとりが花見をちゃんとできなかったと拗ねて半ベソだったので印象に残っていたのだ。
町の灯りの中、遠く故郷を取り囲むように流れる川へ視線を投げる。ここからでは忘れた頃にふいに現れる車のテールランプくらいしか見えないのだった。
お昼前と聞いていたからのんびり二度寝をし、あくびを噛み締めながら遅い朝食を摂ろうと居間へ向かうと
「遅い!」
ほとりが唇を尖らせてそこに居た。
「早いよ、昼前って言ってたろうに」
言ってはみるものの、そんなのほとりに通じるはずもない。
寝た子と拗ねたほとりには逆らわぬが吉。
ほとりに追い立てられて朝食の前に風呂へと向かった。
ほとりと再び花見をするようになったのは、中学を卒業してからのことだ。
その年の桜は卒業式に間に合わず、結局中学に通っている間はほとりとあの桜並木の中を歩くことは出来なかったのが少しだけ残念ではあった。
白状すれば、通学途中ほとりの揺れる黒髪を後ろから眺めて、その隣を歩く自分を想像したりもしたのだった。
もっとも、これは死ぬまで言うまいと心に誓っているのだが。
中学生時代のほとりは学年でも人気のある生徒だった。
成績も運動神経も優秀な上、愛想も気風も良いし、何と言っても可愛かった。更にそれを鼻にかけたところもない。
まあ、それは単純にかがりさんへのコンプレックスがあったせいなのだろうけれど。
さておき。そんなほとりは友達に囲まれて楽しい中学生活を送っていた。
まあ俺はと言えば、友達はそこそこで本に囲まれた楽しい中学生活を送っていたのだけれど。
だから、俺にとってあの桜並木は、ほとりを遠くで眺めていた時代の象徴でもあったのだ。
もっとも、高校に入ってから何度かここを訪れている。
ほとりは毎年最低一度はここの桜を見ないと落ち着かないようだった。
確かに見事な枝ぶりの桜が立ち並んでいるが、ござをひいて花見で一杯やるスペースがないせいか近所のご老人方が散歩に来られているくらいのものだ。
そういった静かな雰囲気の桜並木は、なるほどそうそうあるものではないだろう。近くに花見の宴会に相応しい大きな公園もあることも、この静かな並木道が保たれている理由かもしれない。
けれど、そのほとりお気に入りの桜並木を歩くことが出来るのも今年からしばらくお預けだろう。
来年また時間が取れるのなら、来たいとは思うが。
風呂から上がった俺を急き立て用意をさせ、ほとりは先へ先へと走っていく。遊んで欲しくて仕方のない子犬でもあるまいに。
「落ち着け、あと気をつけないとパンツ見えるぞー」
「見るなあほー」
慌てて振り向いたほとりは、長い淡桃色のフレアスカートを押さえて怒った顔をしてみせる。
そこで立ち止まったほとりに駆け足で近寄れば、当たり前の様に腕に抱きついてきた。
どこのバカップルだと思わなくもないが、まあもう半ば諦めも入っている。俺達は多分間違いなく、頭にバカの付くカップルなのだろう。
いや、一応自重とかしているつもりなのだけれど。
怖いくらいに静かな桜並木を歩く。
あの頃ほとりの隣を歩きたいと思ったりした桜並木の中を。
今はそのほとりを腕に感じながら。
「桜、綺麗だね」
「ん」
キミの方が綺麗だよ、なんてことを言ってみようかと思ったが、あまりにアホっぽいので止めておく。
代わりに出てきたのは、どこかで読み齧った文章だった。
「桜が怖いくらいに綺麗なのは」
「うん?」
怪訝そうにこちらを見つめるほとりに微笑み返して続ける。
「桜の樹の下には屍体が埋まっているからなんだ」
「え? 何それ」
「そういう小説があるんだ」
「ミステリ?」
「んにゃ、梶井基次郎って人の短編小説。あんまり綺麗なものを前にしてさ……どうしようもなくなった時、俺達がどうすればいいのかを書いた小説だよ」
「…………それで、どうすれば?」
ほとりは立ち止まり、続きを促す。俺は何年か前に流し読みしただけの文章を思い出して何度か咀嚼する。
「屍体を埋めればいいんだ。直視に耐えない程美しいものを前にして、自分の劣等感に苛まれたなら。美しいものが、美しくある理由そのものに悪いイメージを重ねて」
「……でもそれって、何だか卑怯な気がする」
「や、まあそうだろうけど。でもな、ほとり……自分ではどうにもならないくらい気持ちに振り回されそうになった時に、そうすることでようやく立ち位置を保てるのは、卑怯かもしれないけれど救いでもあるんだよ」
「分かるから、そんなの嫌だなって思うよ」
「ん……でもさ、ほとり」
「なあに?」
あまり気持ちのいい話じゃなかったと少し反省する。ほとりは一際力を込めて抱きついてきていて、そう強く思う。
暖かなほとりの鼓動を感じる。
嫌なイメージを拭うかのように、ほとりは抱きついてくる。
その白い指先に手を重ねる。
可哀そうなくらいに華奢な肩と首筋。
整った目鼻立ちに、品を失わないようごく淡く引かれたルージュの朱。
自慢の黒髪は、艶やかに濡羽色。
それら全ての、ほとりを形作るもの。
俺の愛しい、それら全てに頬が緩む。
「でもさ……綺麗なものが怖いっていうのは、弱いからかもだけど……それでも憧れもするしな。それだけの差があるものだから、憧れなんてするんだからな」
腕にもたれかかるほとりの頭に、桜の花びらが一つ。小さな小さな、冠の様に。
「そう、ね」
潤むほとりの眼差しは、桜の花を浮かべていて……怖いくらいに綺麗だった。