03-04 あなたに会いにいこう  
 
 公務員の父親を持つ我が家は、裕福とまでは言わないものの、それでも恵まれた家庭であると思う。  
 とはいえ、湯水のように金があるはずもなく、俺は自然と進学するなら公立と思っていた。  
 と、なると実家からの通学は難しい。我が愛しの故郷は地味な地方都市らしく公立大は存在しない。  
 電車などでの通学も出来なくはないが……やはり一度くらいは親元を離れたくなるものだ。  
 元々は自分の学力に見合った場所を選んでいたのだが、成績良い女の子に誘惑されて、ちょっと無茶をすることになったのだった。  
……まあ、ほとりなのだが。  
 まるで分からない理系の勉強を中心に据えたこの一年は、とりあえず地獄だった。ただその甲斐もあってか無事二人揃って合格出来たのだけれど。  
 おかしいなあ、将来のことなんて真面目なことに色恋沙汰を持ち出すとか考えてなかったことだし、情につられて進学先を決めるなんてこと嫌だったのだが……  
 どうしてこうなったのか。どこで俺はこうなったのか。  
 いや、嬉しいし、満足しているのだが……いいのかなあ。こんな進学先の決め方で。いや、将来どういう職につきたいかなんてハッキリ決めてない俺が一番悪いのだが。  
 まあ、下手をすると善治爺さんみたいな世捨て人になっていたかもしれないと考えれば、しっかり者が一緒に居てくれるっていうのは幸せなことだ。  
 母さんに言わせれば、良い男を育てられるのが良い女の条件らしく「ほとりちゃんの為にも良い男にならなきゃねえ」なんて脅しをニコニコとされてしまった。  
 いやもう、外堀が完璧に埋まっているくさい。  
 まあ、それとこれとは別の話で正直ほとりを他の奴に取られなくて本当に良かった。これからはこれからで、振られないようにしないといけないのだろうが。  
 ともかく、俺達は無事大学に進学し……上京するということになったのだが。  
 問題が一つあった。  
 住む所が未だだった。早くしないといけないのだろうけれど、合格してからの方が良いだろうということで今日まで延ばし延ばしになっていた。  
 もちろん、少しは現地の不動産の業者の方とは話をしているが。  
 そして俺とほとりは、二人揃って家族会議の場に出頭していた。神流と州崎、両家の父母が二組とも揃った重要な会議で、自分達の要望が通るかどうかの、正念場だった。  
「…………二人一緒に、か」  
 親父はしばらく考えた後  
 
「いいなあ」  
 とにやにやし始めた。  
「いやいやいや、そこは反対しよう。反対してくれよ、親父!」  
 最後の一人もあっけなく賛成に回り、俺は頭を抱えた。  
「って言うか、普通逆だろ! 親なら親らしく、世間体とか気にしようよ!」  
「しかしな、ぶっちゃけお前らがルームシェアしてくれた方が家賃が安くなるんだよなあ」  
 親父は身も蓋もないことを言い、  
「というか、修君……ウチのほとりとの同棲の何が嫌なんだ?」  
 ほとりの親父さんは機嫌の悪い顔を作って脅しにかかる。  
「あの、おじさん……普通怒る所じゃないですか? 大事な嫁入り前の娘さんが、男と同棲とか」  
「いや、どうせ嫁がせないといけない訳だし、だったら修君の所がまだ納得出来なくはないし、物騒な世の中だから娘を一人暮らしさせるのも怖いし」  
 ふむ、とほとりの親父さんは考えてから  
「良いこと尽くめじゃないか」  
「いやいやいや、娘さんの貞操とか、考えよう!」  
「でもやることやってんだろ、お前ら」  
「…………」  
 それを言われると、何も反論できないのだが。  
 実際嫁入り前の|娘さん《ほとり》を傷物にして、あまつさえ随分やりたい放題してきたのだが。  
「お父さん、言いたいことも分からなくはないケド……大学生だよ、まだ」  
 困った顔でどうしたものかと思案していたほとりはゆっくりと口を開き、俺に目でもっと何か言えと促す。  
「大学でも口さがないのは居るだろうし、あまり目立ったことはしたくないよ」  
「そうそう、あたし一人暮らしって言っても、修が送り迎えやお使いもしてくれるし」  
「そうそう……え?」  
「え?」  
 俺の知らない間にそんなことが決まっていた……のか? ほとりは可愛く小首を傾げて  
「ね、修」  
 と笑いかけてきた。まあ、もとよりそのつもりだったけれど。この辺じゃ治安は良いといっても都心じゃどうだか分からない。ほとりが望むなら送り迎えやらくらいならしてもいい。どうせ行き先も同じなわけだし。  
「で、ほとり……レパートリーも増えたし、修君にいっぱい食べさせたいよね」  
 ほとりのお母さんは、どうやらほとりのものらしいレシピ集を取り出してみせる。  
「ん……まあ、料理は楽しいよ」  
「いっぱい作ってあげて、送り迎えもしてもらって、で、盛り上がればやることもしっかりやって……もう同棲してるようなもんじゃない」  
「いやいやいや、最後変なの混じってましたよ」  
 親にその手のアレコレを言われるのは、死ぬほど恥ずかしい。隣を見やれば、ほとりも憮然とした顔をしていた。  
「意地っぱりねぇ、普通恋人同士ならいつだって一緒で居たいものでしょうに」  
 母さんは呆れたようにため息をつく。  
「今だから言うとね、母さん達がどれだけあんたらくっつけるのに頑張ってきたか」  
「…………」  
 隠していたつもりだったのか。  
 そんな雰囲気、とうの昔に感じていた。だから反抗期にはお互いに仲が悪くなったのだが。まあ、これは理由の一つだし、一番大きなのは俺がひどいこと言ったせいなのだが。  
 さておき。  
 ニヤニヤとする親達を必死に説き伏せるのにそれから一時間。  
 ようやく同棲を諦めさせて……というか、初めからそんなつもりはなかったらしい。  
 ちゃんと住む所は別に用意してくれるらしく、俺達はほっと胸を撫で下ろして……まあ、本音を言えば少しだけがっかりした。  
 白状すると、同棲という言葉の響きにどきりとはした。  
 子供の甘っちょろい恋愛ままごとでもあるまいに。  
 もちろんほとりと別れるなんて考えてもいない。でもそんなの世の中の恋人達皆がそうだ。それでも人と人に別れ話はつきものだ。  
 絶対に自分達がそうならないなんて傲慢を口にはしたくない。  
 もっともそれとこれとは別の話、単純な気持ちからの言葉を俺は口にしたいと思う。  
 俺達はずっと一緒だ、ほとり。と。  
 
 ほとりの親父さん相手に娘をかけた将棋でぼこぼこに負けた。  
 それじゃほとりはまだやれんな、と笑いながら風呂に行ってしまった親父さんを見送って、俺はその場にごろりと長くなる。  
 受験も終わって、家族会議もつつがなくお開きになり、久しぶりにと打ったのだが見る所なしだった。  
「もう……あたしをかけるなら意地でも勝ってよ」  
「そうは言うがな、強すぎるんだよ親父さん」  
 ほとりの手が俺の頭を少し持ち上げる。  
 素直に頭を上げれば、隙間にほとりの膝が入った。  
 目を開けると、すぐそこにほとりの顔があった。  
「もし本当に将棋で勝てるまで嫁にやらんー、とか言い出したらどうする?」  
「あー、それ言いそうだなあ」  
「本当、どうするの?」  
 いたずらっぽく微笑む頬に、そっと手を添えた。  
「その時は駆け落ちだ。というか婚姻届は成人なら親の同意なんて要らないだろ? 籍を入れたら勝ちみたいなもんだろ。それから籍を盾に説得しよう」  
「うわ、悪党」  
「そ、ほとりは悪党にさらわれる役な。よかったな、お姫様扱いだぞ」  
 そういうの好きだろ? と目で問えば  
「あんたが助けにこないなら、さらわれる意味ないわよ」  
 と俺の鼻を摘んだ。  
「ひふぉのふぁおであふぉぶな(人の顔で遊ぶな)」  
「あら、いい男」  
「ひってろ(言ってろ)」  
「そう? 鼻が高くなって一段と格好良くなったよ。そのままにする?」  
「しない」  
 ようやく俺の鼻を離したほとりは頬を赤らめて、少しだけ困ったような微笑で顔を寄せて  
「でもさ、本音を言うとね」  
 小さく囁いた。  
 耳朶を撫でる甘い声に、ぞくりとした。  
「……白状したらね、同棲ってちょっとしてみたかった」  
「……まあ、同居してみないと見えないものもあるって言うし……結婚する前になら、一度はしておいた方が良いかもな」  
「そういう意味もあるケド……単純に、好きな人とずっと居たいって」  
「それなら、俺もだ。でも……」  
 もう一度頬を撫でる。  
「どこに居ても、どこに行っても。一緒だ」  
「ん……ありがとう」  
 少し顔を持ち上げて、すぐそこのほとりの唇へ。小鳥がついばむように微かに、軽く触れるだけのキスを交わして……  
 気配を感じて飛び起きた。  
 ばたばたと居間から離れる足音に、俺とほとりは顔をあわせて盛大にため息をついた。  
 何をやっているんだ、あの親は。  
 
 同棲させようと必死になったかと思えば、今度は「ほとりの引越し先? 同棲もしないヘタレには教えない」と言い出した。  
 ほとりの親父さんもお母さんも、うちの両親も、だ。  
 一体何を考えているのやら。そして俺の引越し先の住所も教えてくれない。親父は「行けば分かるさ」を繰り返すばかり。  
 子供を何と思っているのか、いざ引越しの日になっても何一つ教えてくれない。  
「一応、先に聞いてた条件にそうような物件よ」  
 と母さんは言うが、そんなの見なければ分からない。  
 ほとりも自分の住所を教えてもらっていないらしい。なんだかひどく嫌な予感がしてくるが、間違いなく別にしているらしい。  
 なら、ここまで隠す理由が分からない。  
 首を傾げながら荷物をまとめて、引越しの日を迎えた。  
 ほとりと同じ日に引越し業者を呼んだせいで、うちの前はトラック二台に占拠されていた。もっとも一人暮らしの引越しだ、トラックといっても小さいものだが。  
 ほとりと手を繋いで最後に我が家を見上げる。  
 乗り越えようとしてこっぴどく叱られたフェンス。落書きをして「消えるまで家には入れない」と言われて泣きべそかきながら掃除した塀。ほとりのおままごとに散々付き合った庭。  
 ころんで額を切った軒先。ほとりに許してもらいたくて立ち尽くした廊下。そして……ほとりの初めてを貰った俺の部屋。  
 道から見上げるだけで、沢山のつまらない想い出があった。  
 沢山の、俺達だけの大切な想い出があった。  
 色々なものを目に焼き付ける。  
 これからを始める為に。  
 いつか帰るところを忘れない為に。  
 心のよりどころに、する為に。  
「じゃあ……とりあえず向こうについて住所が分かったら、連絡する」  
「ん、あたしも」  
 ちらりと周りを確認して、そっとキスをした。  
 今度こそ、誰も邪魔は入らなかった。  
 
 両家の母に連れられて、俺とほとりは東京へ。  
 モノレールだか電車だかを乗り継いで、最終的に辿り着いたのは私鉄有楽町線平和台駅前歩いて十五分の小さなアパートだった。  
 というか、この時点でさすがに気が付いた。  
 ほとり一家がまだついて来ている。大家さんから頂いた鍵でドアを開く直前まで。  
「つまり……隣か」  
「みたいね」  
 母二人は一日がかりで掃除やら何やらをこなし、事前にとっていたらしいビジネスホテルへ。  
 次の日は家具や家電を買い足しに。俺は女三人の荷物持ちとしてフラフラになった。  
 ただ、次から次へと出て行く福沢諭吉を目にしていると実感がわいた。子供と言うのは親の金食って生きているんだなあ。と。  
 さすがに恐縮し、全ての用意が整い母さんが帰る時になって、俺はその場に正座して頭を下げた。  
「どうもお世話になりました」  
「まあ、これだけあったらどうにかなるでしょ。後はほとりちゃんに任せるわ」  
「あはははは」  
 もう笑うしか出来ない。  
「仕送りは家賃と学費、食費が限界。お小遣い欲しいならバイトでもしなさい」  
「はい。誠にありがとうございます」  
「さすがに小さくなったか。お兄ちゃんもそうだったけど」  
「だろうね」  
 さて、と母さんは立ち上がると  
「母さんはほとりちゃんのお母さんと東京見物してから帰るけど、ついてくる?」  
「いや、そういうのは落ち着いたら考えるよ。今日はゆっくりする」  
「そう? まあ今日コンサート予約してたから、無事終わって安心して行けるわ」  
 ニコニコして年甲斐もなく若い男性アイドルグループのコンサートに行く母さんを見送ると、六畳一間の部屋を見渡す。  
 見慣れた自分の荷物と買い足した家具がいかにもちぐはぐで、少し笑える。  
 五階建ての三階が俺の城だ。少しわくわくする。すぐ隣はほとりの部屋だ。  
 そう考えるとある意味実家よりもほとりの部屋の距離は近付いたということか。なるほど、出発前のあの親父達のニヤニヤ笑いはこういう意味だったのか。これじゃある意味同棲みたいなものじゃないか。まったく。  
 ほとりの部屋は端にあり、実は少し羨ましい。俺の部屋のほとりとは逆の部屋には何かの会社らしき名前がぶら下がっていて、ワンルームで会社経営が出来るのかと少し感心した。因みに留守らしく、誰も居なかったが。  
 このアパートは五部屋ずつ五階建てらしく、残り二つの部屋にほとりと二人で挨拶に向かうと、一部屋は空いていてもう一部屋には若い女性が住んでいた。  
 何かを察したらしい女性に冷やかされたが、ほとりは上機嫌で女性と話しこみ始めた。  
 十五分はたっぷり立ち話をしたほとりは、振り返るとごめんねと小さく笑った。  
 
 隣への挨拶も無事終えた俺はほとりと部屋の前で別れて、ベランダへ出た。  
 ベランダからの眺めは意外にも普通だ。もっと高層ビルが乱立したような街を予想していたのだが、故郷とさほど変わらない風景だ。空き地で子供が何かのごっこ遊びに興じているし、小さな薬局やら雑貨屋やらが、小さな一戸建ての家に混じっている。  
 大通りに出ればコンビニなどが見え隠れし、ある程度背の高い建物もあるが、どれもさして珍しくない。  
 俺は拍子抜けしたような、ほっとしたような複雑な気持ちでベランダにもたれかかり、のんびりと空を行く雲を眺めた。  
 当たり前のことだが、空はどこも同じだった。  
「修、居る?」  
 仕切り塀を隔てた向こうから、ほとりの声が聞こえる。  
「うん?」  
「そういえば、渡したいものがあったの、忘れてた」  
「ああ、そうだ。俺もだ」  
 ポケットに仕舞いこんでいた鍵。  
 塀越しに鍵を差し出すと、ほとりの小さな手のひらに乗せる。  
「あいかぎかあ……なんだか、照れくさいね」  
「ああ、何だか改まってこういうの渡すのは、ちょっとな」  
「ね、修。あたしも渡したいものがあるんだけど」  
「そうだな……」  
 合鍵。ほとりの部屋の鍵。ほとり以外では、俺だけが持つ鍵。  
 ほとりの部屋に上がって良いという、証拠。  
 手を差し出すが、ほとりはその手をそっと押しのけた。  
「顔出して」  
「顔? 分かった」  
 仕切り塀からほとりの部屋を覗き込むように身を乗り出すと、すぐそこにほとりが居る。すかさず唇を重ねてから、口移しで何かを渡された。  
 生々しい温度の残るそれは、ほとりの部屋の合鍵だった。  
 
 

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