2.夏予報
子供の頃に結婚の約束を。
なんていうのは漫画なんかじゃ定番なのかもしれないケド、ことあたしと修に限ってそれはない。
その代わり、と言っていいのかどうかは分からないケド、母によく聞かされていたことはある。
「修君のお母さんはお料理上手だから、お嫁さんになるのは大変よ」だ。
そんなことを言われていた頃、あたしは修のお嫁さんなんてこれっぽっちもなるつもりはなかった。
ただ……確かに、修のお母さんの作ってくれるものはとても美味しい。
とても細やかな人で、子供の頃のお誕生会で差し入れてくれるケーキを楽しみにしていたのを憶えている。
だからそれは、修のお兄さんの智さんが初恋の人だった姉にとっては死活問題だったのかもしれない。
何でも上手にこなす姉だったケド、お料理だけは修のお母さんに必死に習っていた。
あたしは姉についていく格好で修達には秘密のお料理教室に通っていたが。姉だけがお料理上手になるのがちょっと悔しかったのだ。
もっとも、先月お嫁にいってしまった姉が抜けてしまった今となっては、修のお母さん主催お料理教室の生徒はあたし一人になった訳だ。
姉と智さんは少し離れたマンションに引っ越してしまったし。
修のお母さんは普段おっとりしているのに、いざという時はとてもしっかりしている。
あれはあたし達がようやく自分の名前を漢字で書けるようになった頃のことだ。
修の家に父と二人お邪魔して、名前を書けるかどうか試されたことがあった。
あたしの名前はひらがなだから比較的簡単に書けるようになったケド、修はどうしても『修』と言う字をなかなか憶えられなかった。
その日も出来損ないの変な字を書いてはあたしの父に笑われ、自分のお父さんに呆れ半分に教えられていた。
あまりに上手くいかないものだからすっかりむくれた修は、そのままノートを放り出して逃げてしまった。
そこはぼんやりしている修のこと、靴を履いたはいいものの慌てて足をもつれさせて転んでしまった。
要領と言うか、あの時に関しては運が悪かった。
ハデに転んだちょうどそこに何か石でもあったのだろう、右の眉の辺りが切れてしまった。
ボクシングなんかの試合をよく見る人なら分かるだろうケド、眉の辺りは切れやすい上に出血がすごい。
たちまち顔を真っ赤にした修はわんわん泣き始め、父親二人は上を下への大騒ぎ。
救急車を呼べ! 110か? 119だろ。それは消防車じゃなかったか? だったら何番だ。おい! おい! 男がわんわん泣くな!
そこに修のお母さんが走ってきて、どうしたらいいのかとうろたえる父親二人をさっと押しのけ、修を抱えて飛び出していった。
あまり綺麗ではないエプロンで修の傷を押さえて、にっこり笑ってみせながらだ。
ちょうど知り合いの酒屋の車が通りがかったのをいいことに、無理やり乗せて貰って近くのお医者さんへ。
修のお父さんも一拍遅れて走っていった。
後に残ったあたしと父は、なんとなくそのままお留守番ということになった。
その辺りには修が書いた変な漢字のノートが、妙な生々しさで残っていて、あたしはそっと父を見上げてみた。
照れ隠しに怒ったような顔をした父は、ノートを慌てて机の上に閉じて置いた。
それは修が血だらけになったあの時に、何も出来なかった自分を叱っているような、顔だった。
あたしはだからおずおずと父の服の裾をつかんで
「修、治るよね」
と尋ねるしか出来なかった。
あの時の父の、力任せに頭を撫でる手の温かさは今もハッキリ憶えている。
因みに眉の辺りに大きなガーゼを貼って、修はすぐに帰ってきた。
もじもじと恥ずかしそうにごめんなさいを言う修に、父は笑いかけていて、あたしは何度も「大丈夫? 大丈夫?」と言った。
それしか出来ないあたしの方こそ、本当は謝りたかったのだが。
今も修の右の眉は、少し短い。
それを見る度、あたしはちょっと切ないような、悲しいような、羨ましいような、変な気持ちになるのだった。
そして同時に、あたしはもし『お母さん』になるのなら、修のお母さんみたいになりたいと、その時から思うようになった。
あたしの母が嫌いな訳でも、尊敬出来ない訳でもない。
ただあの時にっこり笑った修のお母さんは、とても格好よかった。
そんなお母さんに育てられたのが、あたしの神流修だった。
◇
よく漫画なんかじゃ幼なじみが仲良くしていると、悪ガキどもが「夫婦かぁ?」なんて囃し立てたりするシーンがある。
その後で男の方が「女なんかと遊んでられるか、バーカ」と言って走っていくのが定番なのかもしれないが、俺とほとりに関しては少し違っていた。
あれは女子が別な授業を受けるようになった頃のことだったか。男子はだらだらとサッカーのような、サボりのような時間を過ごしていた。
因みに俺は女子が別の授業を受けることに何の疑問ももっていなかった。
なにせ俺は生理用品の宣伝を変に解釈して、女性はいつまでもお漏らしをするし、青いおしっこをすると長いこと本気で信じているようなアホだった。
ついでにYES/NO枕の本当の使い道に気付いたのもつい最近だ。まるで意味を分かっていなかった。実は割りとショックだった。
そんなアホなガキの俺だったが、それでもあの頃小学生らしくそれなりにほとりとは距離を置くようになっていた。
それまでお手繋いで……というか引っ張られての登下校だったのを止めてみたり、休み時間ほとりとは距離を取って図書室に通ったり、だ。
……思い返してみれば、我ながら情けないなあ、とは思う。
さて、そんな俺とほとりだったが、それでもご近所でのそれなりのお付き合いみたいなものはあり、それが悪ガキの目に止まったらしい。
運動神経に関しては少し平均値よりも下方に位置するする俺のこと、体育の授業は後ろの方で引っ込んでいるのが常だった。
しかしその日無理やり前に出され、ボールを追いかけさせられた。
放課後も河川敷に場所を移してサッカーは続き、中国拳法サッカーの真似事じみてきた。
「オンナなんかと遊んでるからだ! 鍛えてやる!」
とは当時のクラスの男子ヒエラルキーで上位グループにいた悪ガキのご高説だ。
人類には早すぎるシュートの練習を何度もさせられて、擦り傷だらけになった所を、ちょうど買い物だったらしいほとりとほとりのお母さんが通りがかった。
クラスの女子ヒエラルキーの上位グループに属していたほとりは、悪ガキ相手にガミガミと叱りつけて俺を助け起こそうとしてくれた。
が、そこは男の子の意地。俺はぷいっとそっぽむいてほとりの手をはねのけて
「オンナなんかに助けられなくない!」
なんてことを言ってしまったのだった。
したり顔で
「しょうがないなあ」
なんてお姉さんぶるほとりが、白状すれば少し鬱陶しくもあった。途端にほとりは目を見開いて、頬を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな顔で
「修ちゃんのバカッ!!」
と叫んで俺の頬を引っぱたき、走っていってしまった。
◇
よく漫画なんかじゃ幼なじみが仲良くしていると、悪ガキどもが「夫婦かぁ?」なんて囃し立てたりするシーンがある。
その後で男の方が「女なんかと遊んでられるか、バーカ」と言って走っていくのが定番なのかもしれないが、俺とほとりに関しては少し違っていた。
あれは女子が別な授業を受けるようになった頃のことだったか。男子はだらだらとサッカーのような、サボりのような時間を過ごしていた。
因みに俺は女子が別の授業を受けることに何の疑問ももっていなかった。
なにせ俺は生理用品の宣伝を変に解釈して、女性はいつまでもお漏らしをするし、青いおしっこをすると長いこと本気で信じているようなアホだった。
ついでにYES/NO枕の本当の使い道に気付いたのもつい最近だ。まるで意味を分かっていなかった。実は割りとショックだった。
そんなアホなガキの俺だったが、それでもあの頃小学生らしくそれなりにほとりとは距離を置くようになっていた。
それまでお手繋いで……というか引っ張られての登下校だったのを止めてみたり、休み時間ほとりとは距離を取って図書室に通ったり、だ。
……思い返してみれば、我ながら情けないなあ、とは思う。
さて、そんな俺とほとりだったが、それでもご近所でのそれなりのお付き合いみたいなものはあり、それが悪ガキの目に止まったらしい。
運動神経に関しては少し平均値よりも下方に位置するする俺のこと、体育の授業は後ろの方で引っ込んでいるのが常だった。
しかしその日無理やり前に出され、ボールを追いかけさせられた。
放課後も河川敷に場所を移してサッカーは続き、中国拳法サッカーの真似事じみてきた。
「オンナなんかと遊んでるからだ! 鍛えてやる!」
とは当時のクラスの男子ヒエラルキーで上位グループにいた悪ガキのご高説だ。
人類には早すぎるシュートの練習を何度もさせられて、擦り傷だらけになった所を、ちょうど買い物だったらしいほとりとほとりのお母さんが通りがかった。
クラスの女子ヒエラルキーの上位グループに属していたほとりは、悪ガキ相手にガミガミと叱りつけて俺を助け起こそうとしてくれた。
が、そこは男の子の意地。俺はぷいっとそっぽむいてほとりの手をはねのけて
「オンナなんかに助けられなくない!」
なんてことを言ってしまったのだった。
したり顔で
「しょうがないなあ」
なんてお姉さんぶるほとりが、白状すれば少し鬱陶しくもあった。途端にほとりは目を見開いて、頬を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな顔で
「修ちゃんのバカッ!!」
と叫んで俺の頬を引っぱたき、走っていってしまった。
俺はじんじん痛むほっぺたを忘れて、ほとりが走っていた方向をぼんやり眺めていた。
その時になって、ようやくほとりの泣き虫を思い出していた。
ひどいことを言った。謝らないと。そうは思っても足が動かない。
まごまごしていると、ほとりのお母さんがしゃがんで俺の頬をぱちんと挟み
「こら! ダメでしょ」
と叱ってくれた。
「……だって」
「うん、そうね。恥ずかしかったんだよね」
ほとりのお母さんは、そんなことを言って笑った。
「たかが玉遊びでいじめられて、その上女の子に助けられて、ね」
「…………」
「ほとりに、何か言いたいことは?」
「……ある」
「じゃあ、おばさんとほとりを探しにいこうか?」
「…………ん」
ふてくされてロクに返事もしないひねくれ者の俺にもにっこり笑いかけて、手を引っ張ってくれた。
ほとりのお母さんは優しくて明るくて、けれどとても厳しい人だった。
その時確か、ほとりは先に家に帰っていたのだった。
ほとりはむくれて部屋から出てこず、俺はドア越しにごめんなさいをした。
けれど結局許してなんて貰えず、それからほとりとは例の件があるまで挨拶もロクにしなくなったのだった。
ただ、あの時のほとりのお母さんが頭をなでながら言ってくれたことは印象に残っている。
「一度言ったことはね、簡単に取り返せないの。分かった? でも……人間、いよいよどうにもならない失敗も、そうは出来ないんだから」
にっこりと、顔いっぱいの笑顔でほとりのお母さんは
「大丈夫! 今ちゃんと失敗出来た修君なら、次からは同じことしないから。今に良い男になるよぉ」
とバンバン俺の背中を叩くのだった。
大きな瞳ををきょろきょろさせておどける癖。人懐っこい笑い声と面倒見の良い姉御肌の気性。
明るく朗らかで、けれど律儀で義理人情に厚くて、他所の子の俺もしっかり叱ってくれた。
ほとりの気風の良い性格も、大きな瞳も、あの素敵なお母さん譲りなのだろう。
ほとりの泣きそうな顔を思い出す度、俺はあのちょっと苦い出来事と、ほとりのお母さんがくれた厳しくも温かな信頼を噛み締める。
だから俺は口にこそ出さないが、ほとりのお母さんをもう一人の母として尊敬し、感謝している。
そんなお母さんに育てられたのが、俺の州崎ほとりだった。
◇
本当を言うと、あの時からもう一度あたしに笑いかけてくれるようになって、嬉しかったのだ。
◇
毎年夏や冬の長期休暇になると、ほとりが宿題を全部持ってウチに現れる。
宿題なんてものは早めに終わらせてさっさと遊ぶ優等生と、いつまでもやらずにラストスパートにかけてしまう学生とに二分される。
俺は普遍的なアホ学生として、断固宿題は八月後半までやらないでおこうといつも決意するのだが、ほとりはそうではないらしい。
今年も終業式後のHR終了と同時に逃げ出す俺の首根っこを捕まえたほとりは、とても良い笑顔で
「一緒に帰ろ」
と脅した。
「断る」
「いつも言ってるでしょ。かしこまりましたと言えー!」
「お前ちょっとそれ怖えよ」
呆れ顔で反論するが、ほとりはどこ吹く風だ。
「郷文研は?」
「特に用事はない。生徒会は?」
「最後にコレ出したら終わり。じゃ、校門で待っててね」
帰る前に回収した文化祭のアンケート用紙の束をひらひらさせてから、ほとりは生徒会室に。
好奇の視線がちらちら刺さるのが何とも居心地が悪く、俺はがりがりと頭を掻いてから二人分の鞄を手に教室を後にした。
帰り際に買ったパックジュースをちゅーちゅー飲みながら、校門傍の木陰でぼんやりとする。
校庭では野球部とサッカー部が場所を取り合いながら練習をしているし、遠くから吹奏楽部が鳴らす何かの楽器の音が聞こえてくる。
それらの音に混じって盛大にセミが鳴き続けている。
もうじきにわか雨でも降るのかもしれない、入道雲が出番を待っている。
夏はほとりの季節だ。
夏生まれだからなのか、一年を通じてこの時期のほとりは特に機嫌が良い。
対する俺は半年遅生まれ、冬の子だ。そのせい、というのは言い訳にしかならないのだろうが、暑いのは苦手だ。
木陰でぼんやりしながら、楽しそうに夏の計画を立てている他の生徒を観察していると時間が経つのを忘れてしまう。
今から取らぬ狸の皮算用をしているバイトの掛け持ちしている奴。
海外に行くらしい女子生徒にお土産のリクエストをしている奴。
何の用もないからぼんやり歩いている奴。
山登りの素晴らしさを後輩に延々語り嫌がられている奴。
野球部でもない彼氏に甲子園に行きたいと無茶を言う奴。
文化祭で演劇をやるらしく脚本の案を語って周りに引かれている奴。
そんな生徒の姿もやがて見えなくなり、ようやく校庭の位置取りが決まったらしい運動部が各々の練習に打ち込み始める。
それまで適当に練習していたらしい吹奏楽部が合奏を始めたのか、肩の凝りそうな曲が微妙な下手くそさで流れてくる。
余分に買っておいたパックジュースがぬるくなった頃、ようやくほとりが出てきた。
……夏だと言うのに妙に機嫌が悪い。大方生徒会室で何か言われたのだろう。
「ごめん、いっぱい待たせちゃって」
「かしこまりました」
「ここで言わなくても良い」
「さよか。ほれ」
すっかりぬるくなったパックジュースを渡すと、バツの悪そうな顔になった。
「ありがと。でも……うー」
「……聞いても大丈夫か?」
「ん……会長がさ、夏休みだし予定ないかって」
「ないだろ」
「ないケド! でもさー」
小石を蹴っ飛ばして、むくれて、何か言って欲しそうにほとりがちらちらとこちらを見る。
だからこそ、少し意地悪がしたくなる。
「生徒会同士親交でも信仰でも深めるといい」
「……なにそれ、意地悪言ってるつもり?」
「んー、何となく。ここで『ほとりちゃーん、そんなの相手にしないでよぉ』とか言う自分が想像出来ない」
我ながら気持ちが悪い。
「そこまで言わなくても良いけどさ、いや言われても困るし。でもさー、もっとこう、あるんじゃない?」
「俺と例年通り宿題でもしよう」
「…………色気も何もあったもんじゃないケド、まあそれでも良いか」
結局宿題を片付けるのには七月の終わりまで掛かった。
七月三十日午後二時十二分……と、少し。
忌々しい宿題が今年も無事終了した時間だ。タイムリミットまで後九時間四十八分。
だから俺は、昨日のうちにこっそり用意していたものをほとりに渡すのだった。
七月三十日は、州崎ほとりのお誕生日。
例年通り宿題の終了と誕生日を白いトルコキキョウで祝われたほとりが、綺麗に笑っている。
◇
当たり前のように用意してくれている白い花を抱きしめると、幸せな匂いが移ってくれるような気がした。
◇
ほとりは動きやすい格好が好みらしく、あまりひらひらした服は着ない。この時期は洗いざらしのデニムパンツに白いシャツが基本装備だ。
キツい色彩は嫌いらしく原色でギトギトの服は見向きもしないし、持ち物も大抵淡い色が多い。化粧もあまりしないし、服以外の物を身に着けることも少ない。
そんなほとりだが、髪だけは長く伸ばしている。
かがりさんがそうだったから対抗意識でもあるのか、それとも男勝りな性格を内心引け目に感じていることの顕れなのか。
どちらにせよあの艶やかな長い黒髪はほとりの密かな自慢であるらしい。実の所、俺にとっても少し誇らしかったりする。
ほとりの友達が「重い」だのなんだのと文句を言って切らせよう染めさせようとしているようだが、俺はそのままが良いと思っている。
誰もが判子でも捺したように染めたがる中で、濡れ羽色に煌くあの髪は宝石か何かのようだ。本音じゃみんなあの綺麗な黒髪が羨ましいに違いないと俺は思っている。
特にこの時期の日差しをいっぱいに浴びてキラキラと光を散らして揺れるほとりの黒髪は天鵞絨のようで、その時はほとりがひどく大人びて見える。本人は痛むから、と嫌がっていたが。
それに、ほとりは嫌がってすぐに苦い顔になるのだが、俺はあの長い髪を指で梳くのが楽しみだった。
八月初めのある日、俺は文化祭の為の準備をしていた。
わざわざ離れた場所にある旧校舎の最上階の隅っこまで郷土文化研究部の発表会に来るような暇人は居ないのだが、だからといって何もしない訳にはいかない。
どうせ当日は誰も来ないのが分かりきった資料庫で原稿用紙を眺めているだけになるのだが、文科系部活は何か一つ文化祭で実績を発表するルールなのだ。
出来ていないとウチがいまいち気に喰わないらしい会長辺りが何を言い出すか分かったものではない。その矛先がほとりに向くかもしれない訳だし。
因みに、郷文研今年の研究テーマは治水だ。
特に約三十年ほど前に起きた台風による河川の氾濫での被害をまとめようと思っている。
これまでに我が町で起きた様々な水害とその時代での対策を調べ、特に最も近年に起きた事案を元に今後に生かそうという非常に有意義な内容だ。
これなら文句あるまい。
まあ、実際は当時骨を折って下さった方々にお茶飲みがてら話でも聞いて、それでお茶を濁そうというだけなのだが。お茶だけに。
偉大な先輩方が適当に調べておいてくれた水害関連のノートを流し読み、模造紙に地図を描いてそれっぽい説明文を加えておく。
因みに我が町は大きな川の中州にあり、また海にも面している。四方を水に囲まれているせいか治水は郷土の歴史的に切っても切れないものだった。
現代でも治水関連の為に歳出が多く割かれていて、他の町に比べて他の福祉が押さえられ気味とのことだ。
あと郷文研らしい雑学を加えると、ほとりの苗字の『州崎』さんが多いのも中州に位置する土地柄の為らしい。
さておき、水害マップは適当な所で切り上げて、俺は近所の爺さん……特にこういった薀蓄の手合いを話すのが大好きな善治爺さんの所に行くことにした。
夏休みは初めからほとりと宿題ばっかりしていたし、そういえば外に出るのは久しぶりだった。
玄関を抜けると痛いくらいの日差しで、少し眩暈がする。
ふと見れば、窒息しそうな程の光とセミの鳴き声が降りしきる中で、白いワンピースと麦わら帽子が揺れている。手には藤のバスケット。
「ちょうどよかった」
聞きなれた声で、我に返る。
それまで、どこか違う世界にでも迷い込んだのかと思うほど幻想的だったのが、ほとりの声と共に元に戻ってしまった。
「お昼まだでしょ?」
「……ああ」
「どしたの?」
にやりと不敵に笑ってみせるほとりは、分かって言っている。
何だか悔しくて、俺はわざとらしく無視して歩き始める。
「ちょっとー、何か言いなさいよ! って言うか褒めろー!」
「今から善治爺さんトコ行く約束になってるんだけど」
「うッ、あそこかー」
それでもちょこちょことほとりはついて来ている。
善治爺さんの長話が苦手だと、ほとりは困ったように笑っている。
「何の用よ」
「文化祭、色々と調べ物」
「ん……しょうがないなあ、早めにお願い」
「あいよ」
善治爺さんの家までは少し歩く。
昼前の日差しの中はまだましなのだろうけれど、それでもやはりうだる様な暑さだ。
「今日も暑いからな、それでか?」
「ん……そんなトコ」
振り向けば、不意を打たれたほとりがキョトンとしている。
「そうしてると、どこかのお嬢様みたいだな」
「……それは、まるで褒めてないね」
「いつだってほとりはお嬢様だよ」
「嘘臭い」
「あははは」
すっかりむくれて、けれどそれでもほとりはついてくる。
「でも、アレだな」
「…………ん?」
「うん、似合ってる。たまにはそういう格好もしてくれ」
ほとりはにやり、と。とてもお嬢様とは言えないような笑みをしてみせて、けれどようやく納得したのか嬉しそうに頷いてくれたのだった。
たっぷり二時間近く善治爺さんの話に付き合って、すっかり腹が減ってしまった。
藤のバスケットを自慢そうに抱きしめて、ほとりがにやにやしている。
早くおなか減ったと言え、とほとりの夏の夜空みたいな瞳が促している。
「腹、減ったな。何を食わせてくれるんだ?」
「……ん、自分で考えたら」
「おむすびが良い」
「あんた、良い勘してるね。普通こんなバスケット持ってんだから、サンドイッチって答えない?」
「いや、お弁当はどっちかって言えばおむすびのが好きだし」
「……まあ、こっちもそのつもりでおむすびにしたんだケド。あんた米食いだし」
俺の好みを知っているのも特に疑問はない。ほとり達は秘密にしているようだが、ウチの母さんが料理教室の真似事をしているようだったし。
自慢じゃないが、ウチの母さんはわりと料理が上手い。何でも上手くこなすかがりさんも、料理だけは母さんに習っていたようだ。
夕飯の時に少し不ぞろいな野菜や煮崩れた煮物が出たりすると、ああ今日もやってたんだなあ、と思ったりしていた。
俺達にはバレないようにわざわざ公民館なんかでやっていたみたいだが、母さんもほとりもかがりさんも居ない時間がそうしょっちゅうあるんじゃ気付かない方がおかしい。
……俺に輪をかけてぼんやりしている兄貴は、まるで気が付いてないようだったが。
けれど、秘密にしているものを暴き立てて喜ぶほど、俺もアホじゃなかった。
うっかり今度は何を作ろうかと三人で笑っている所を見てしまって、それでも気が付いてないフリをして誤魔化してきた。
アレ、多分母さんとかがりさんにはバレてるんだろうなあ。
ともあれ、母さん仕込みのほとり弁当が、不味いはずがない。不格好だったのも初めのしばらくだけだったし。
川の話をしたばかりだし、夏だし、とほとりを近くの川沿いの公園に誘った。
水害の話を熱心にした後で、よくも川に誘うね。とほとりは呆れていたが、それでもとことことついてきた。
いつも少し後ろをついてくるのは、多分最後の一線で女の子らしい所をみせたいほとりの意地なのだろう。
「でもさ、郷文研って近所のお爺さんとかのお話とかも集めたりするんだ」
手弁当をありがたく、美味しく頂いた後、ほとりはそんなことを尋ねてきた。
「そだよ。ほら、梅雨の時にさ、紫陽花の話しただろ?」
「ああ、アレ」
「結局噂の元ってあんなに近くにあった訳だし、身近な話っていうのは結構バカに出来ないんだよ」
例の紫陽花の話だが、あの噂はウチのOBでもある数学教師が学生時代奥さんに告白された時のことが元だった。
文芸部の奴は、まさか自分の担任がそうだと知らずに必死に名簿をひっくり返してはアチコチに電話をしていた訳だ。
その話は職員室じゃ公然の秘密だったらしく、毎年梅雨が来ると数学教師はとても肩身が狭いらしい。
文芸部から真相を教えてもらった後で、一緒にいたほとりが「実は……」と言い出したのだ。
何故ほとりが知っていたかと言えば、どうもほとりのお母さんのパート先が数学教師の奥さんと同じだったかららしい。
どうして黙っていたのか尋ねると、ほとりは
「こんな話はね、秘密にしておくのが花じゃない」
と笑っていた。
確かに、大事なのはジンクスを信じるかどうかで、元にそこまでの意味はないのかもしれない。
ほとりもあの話は信じているのか。
一応尋ねたが、ほとりはもう一度にっこり笑うだけだった。
ほとりが川べりに遊びに来て、じっとしていられるはずがない。
ふにゃふにゃと断る俺を一度だけ不服げに睨んでから、ほとりは川へと走っていった。
水の飛沫を舞い上がらせて。
白く輝くスカートをひるがえらせて。
自慢の長い黒髪を風に洗わせて。
麦わら帽子を押さえて。
川で遊ぶほとりは、本当に愛らしいどこかのお嬢様みたいだった。
◇
不意にくれる言葉の一つ一つが、あたしにとってはぴかぴかの宝物だった。だからせめて、可愛い女の子でいたかった。