3.魔法の呪文  
 
 あたしが初めて好きになった人は、修のお父さんだった。  
 修のお父さんのお嫁さんにしてもらいたくて夜も眠れないくらいだったのだから、我ながらおませさんだったと思う。  
 初恋は実らないものなんて言葉もあるように、夜も眠れないくらい甘苦かったあたしの初恋もわりとあっさり終わってしまった。  
 そりゃお断りされた時は本当に死にたいくらい悲しかったケド、あれほど苦しかったというのにあっさり立ち直れた時はなんだか拍子抜けした。  
 とにかく、初恋なんてものは大抵そんなものなんだろうと思うケド、中にはそのまま上手くいった珍しい例もある。  
 あたしの姉……州崎かがりと修のお兄さんだ。  
 あたし達はよく似た姉妹だとわりと人には言われるし、自覚もある。  
 ただ、あくまでオリジナルは姉であり、あたしはその劣化コピーなんだと思う。  
 よく似ている。けれど少し違う。  
 それがあたし達姉妹だった。  
 七つも年が離れればそういうものなのかもしれないが、姉は何でも上手くこなしてみせた。  
 あたしにしてみればそれこそ自分の理想形として、長く君臨していたのが姉だった。  
 成績も運動神経も良くって、その上美人。何をやらせても上手くこなすしっかり者で、気遣いも細やかで大人受けが良い。  
 その上面倒見も良いから年下からも慕われて、とにかく皆に愛される人だった。  
 あたしだって、それなりに成績も運動神経も良い方だし、不細工なつもりはない。いつも姉みたいになりたくて必死に頑張ってきたのだ。  
 とにかく、あたしにとって自慢であり、同時にコンプレックスでもある姉。そんな姉が修のお兄さん……智さんを好きになったのが皆不思議だったようだ。  
 智さんと修も良く似た兄弟だ。  
 ぼんやりしていて要領は悪くて、いつも傍で見ていてハラハラさせられる。その癖お人よしで頼まれると嫌とは言えないのだから困りものだった。  
 ケド、あたしには分かる。  
 姉は、そんな智さんだから好きになったのだと。  
 分かりにくいケド優しくて、この人は絶対に裏切らないと安心出来る温かさを持っていて、そして誰よりも自分のことを愛してくれる。  
 姉と智さんが付き合い始めたのに気が付いたのは、自慢じゃないがあたしが一番初めだと思う。  
 修なんかぼんやりしているから、身内じゃ多分一番最後に違いないだろう。  
 あれはあたしが修のお父さんのお嫁さんになりたくて仕方なかった頃、確か十歳になったばかりだった。  
 あたしの家族と修の家族みんなでお誕生会を開いてくれて、あたしは得意になってはしゃいでいた。  
 母達が腕を振るったご馳走の山はどれも美味しそうだったし、修のお父さんがくれた白い花は幸せな香りがする気がした。  
 トルコキキョウは香りなんてしないケド、修のお父さんがくれるのは別だったのだ。  
 子供ながらに恋する乙女ってヤツだったあたしは、だから姉と智さんの微妙な変化にも敏感だった。  
 別に大した違いじゃない。  
 例えば遠くのお料理を、姉が自分のお箸で取ってあげたり。  
 例えば座る位置が少しだけ近かったり。  
 例えば話す時、二人微笑みあったり。  
 そんな些細な変化だった。  
 おくてな智さんは、幼なじみの姉相手でも……いや、姉だからこそ目を見て話すのも苦手だった。  
 あたしと姉や智さんとは七つ違い、当時十七歳だから今のあたし達と同じ。だというのに十歳のあたしがやきもきするようなじれったい関係を続けていた。  
 さすがの姉も智さん相手ではなかなか上手くいかないようで、それまではむくれたり拗ねたり、姉らしくない表情を見せてくれていた。  
 だから、あたしには分かった。二人は、もう先日までの二人ではないのだと。  
 実際、それからのんびりした智さんに呆れたり拗ねたりしながらも姉は寄り添い続け、長いこと掛かったものの無事結婚までこぎつけたのだから。  
 修はと言えば、あたしの父相手に最後の1個のから揚げを取り合っていて、そんな二人の微妙な変化には気が付いていないようだった。  
 呆れるやららしいと納得するやら。  
 とにかく、兄弟揃ってぼんやりしていて要領が悪くて、傍で見ていてハラハラさせて。  
 それが、あたしの神流修だった。  
 
   ◇  
 
 俺が初めて好きになったのは、我がことながら頭が痛くなるのだが、州崎姉妹だった。  
 かがりさんとほとり、優しいお隣のお姉さんと、しっかり者で一緒に居て楽しい女友達。どうしてどっちか一人に絞れなかったのか、それとも俺は浮気性なダメ男なのか。  
 とにかく、万事が万事ぼんやりしたアホガキの俺は、大それたことに近所で評判の美少女姉妹が好きだったのだ。  
 初恋は実らないなんて言い草は知っているが、少なくとも俺にとっては正しい言葉だ。  
 かがりさんは兄貴に取られたし、ほとりだって、アレは恋ではなかったと思う。単にかがりさんへの憧れを、ほとりに投影していただけのものだ。  
 だから口には出さないし、出すべきではないから、ほとりへの子供の頃の気持ちは死ぬまで秘密にしようと心に決めている。断じて知られてはいけないものだ。失礼にも程がある。  
 さておき、世の中には何事も例外があるもの。上手いこと初恋なんてものを実らせてしまった稀有な例もある。  
 兄貴とかがりさんだ。  
 初恋同士、幼なじみ同士なんて冗談のような恋愛で、上手いことゴールにまで辿り着いたのだから、まあどこで笑えば良いのやら。  
 実の所、上手く文章にしたら今日日の風潮なら映画やらドラマやらになって一儲けできそうな気がするのだが、有象無象に兄貴とかがりさんのことを教えるのは惜しいので止めている。  
 悔し紛れに言うのではないが、どうして兄貴がかがりさんに好かれたのかまるで分からない。  
 これは、かがりさんを初恋の相手として子供なりに真剣に見てきた俺だから自信を持って言えるのだが、かがりさんの方が兄貴のことを好きになったのだ。  
 子供の頃から俺は兄貴とよく似ていたらしく、周囲にそう言われ続けてきたし、不本意ながら俺もそう思う。  
 ぼんやりしていてマイペース、顔だって不細工とまでは言わないが格好よくもない。運動神経に優れている訳でもないし、成績だって悪いとは言わないが特に良い訳ではない。  
 揃って文系で、理系については州崎姉妹のお世話になってようやく人並みといったレベルだ。  
 大人達にしてみれば見ていて危なっかしいとしか思えないし、年下からも慕われるなんてことはありえない兄弟だった。  
 我ながら思う。あのハイスペック姉妹と仲良くやっていけるのは、そろって周りの目をあまり気にしないいい加減な性格の賜物だと。  
 何かと器用なかがりさんのことを、ほとりはコンプレックスに思っているようだったが、その実かがりさんの方も必死だったことには気が付いていない。  
 いつも姉として、妹に恥ずかしい思いをさせたくないのだと言っていた。妹の前では、世界で一番素敵なお姉ちゃんで居たいのだ、と。  
 俺は、タイミング悪くかがりさんが必死になって勉強している所に鉢合わせてしまって、そんなことを聞かされたのだ。  
 帰ると兄貴がパンツ一丁でごろごろしながらアイス片手に新聞にケチをつけていて、なんでかがりさんはこんなのを好きになったのか一頻り首を捻った。  
 
 そんな兄貴だから、かがりさんと付き合い始めたのに気が付いたのは、自慢じゃないが俺が一番初めだと思う。  
 ほとりなんか自分の初恋を追っかけるのに必死だったから、身内じゃ多分一番最後だったに違いないだろう。  
 あれはまだ俺が州崎姉妹が好きで、子供ながらにどちらか選べない自分に悶々としていた頃、ほとりの十歳の誕生日のことだ。  
 俺の家族とほとりの家族みんなで誕生会を開いて、俺はこの中じゃ一番の年下になったことに内心不満だったのを憶えている。  
 けれど、母さん達が用意してくれたご馳走はどれも美味しそうで、アホなガキだった俺はほとりがケーキの蝋燭を吹き消す頃には食い気で興奮して心からお祝いしていた。  
 それでも、子供ながらに必死に州崎姉妹を見ていた俺には、兄貴とかがりさんの変化に気が付いていた。  
 別に大した違いではない。  
 例えば兄貴がかがりさんに気を配る素振りを見せたり。  
 例えば座る位置が少しだけ近かったり。  
 例えば話す時、二人微笑みあったり。  
 兄貴は今時残念なくらいにおくてで、幼なじみのかがりさん相手でも……いや、かがりさん相手だからこそ目を見て話すことさえ苦手だった。  
 俺と兄貴やかがりさんは七つ違い、当時十七歳だから今の俺達と同じ。だというのに十歳前の俺が呆れるくらいのんびりした速度で付き合っていた。  
 さすがのかがりさんも、売れない骨董品級の鈍感でおくてな兄貴相手には手を焼いていて、ため息混じりに母親二人と頭を悩ませていた。  
 だからこそ、俺には分かった。二人は、もう先日までの二人ではないのだと。そして、俺の初恋はあっさり終わったのだと。  
 事実、それからもぼんやりした兄貴に口うるさく言いながらもかがりさんは寄り添い続け、長いこと掛かったものの無事結婚までこぎつけている。  
 ほとりはと言えば、俺の親父に貰ったトルコキキョウに顔をうずめてもう幸せの絶頂に浸っていて、そんな二人の微妙な変化には気付いていないようだった。  
 呆れるやららしいと納得するやら。  
 けれど、俺は知っている。  
 かがりさんがほとりの前では世界で一番素敵なお姉ちゃんで居たいと必死だったように、ほとりもそんなかがりさんに追いつこうと必死だったことを。  
 州崎姉妹を世界で一番必死に見てきた俺だからこそ、自信を持て言えるのだが。  
 もうほとりは、かがりさんの劣化コピーなんてものじゃない。  
 これも本人には死ぬまで秘密にしようと心に決めていることなのだが、ほとりは世界で一番素敵な女の子になった。  
 それが、俺の州崎ほとりだった。  
 
   ◇  
 
 白状すれば、二人の恋は、あたしの憧れだった。  
 
   ◇  
 
 我が故郷、愛すべき地味な地方都市は中州に位置している。  
 周囲に流れるそれなりに大きな川は、地元の人間にとって親しい友であり、また時には脅威をもたらす敵でもあった。  
 その川を二分する先端部分、いわゆる『州崎』にあたる地点に我が町最古の神社はある。もちろん俺達にとっても馴染み深い氏神様だ。  
 御祭神は祓神にして水神、大祓詞にも登場する女神、瀬織津姫様で、そのお社に相応しく近くで川が流れを二分していく様はなかなか見応えがある。  
 さて、その瀬織津姫様の神社では、秋の収穫祭が行われていた。  
 ウチからは親父と、今年からは兄貴がお神輿を担ぎに、母さんも婦人会の集りとやらで炊き出し等の世話役に出ている。  
 さて、となると俺一人家でぼんやりしているのも何だか居心地が悪い。  
 昼前にもそもそ起きだして来た俺は、テーブルの上ですっかり冷めた朝飯を食べてから、のんびりと家を出た。  
 ぶらぶらと歩くこと十分、ささやかながら今も続く我が氏神様のお祭囃子が聞こえてきて、年甲斐もなく楽しくなってきた。  
 数々の出店を冷やかし、女神様に奉納する神楽舞を眺めていると、ちびっ子相撲が始まった。  
 俺も子供の頃にはこれに参加して、投げられ役として存分に活躍し、あまりの活躍ぶりに感動したおじさんなどに余分にお菓子を貰ったりしたものだ。  
 懐かしい気持ちで見ていると、見慣れた顔が子供達にお菓子を配っていた。  
「ほとり、何やってんのさ」  
「ああ、修。今頃来たの?」  
 じゃれ付く子供達に「順番よ」などとお姉さんぶりながら、ほとりは笑っている。  
「お手伝いか」  
「うん」  
「そうかー」  
「他人事ね」  
「まあね、今起きたばっかのアホ学生さんですし」  
「郷文研の部長さんが、こんな地域の行事をただ眺めるだけでいいんですかー? おっと。君重いねー」  
 足にくっついて離れない小さな子供をひょいと抱き上げると、ほとりはにやりとしてみせる。  
「この収穫祭の研究は先々代部長がずいぶん凝ったのをやってたからな。後輩の俺は、いかにこのお祭りが続いているかを眺めるのがお仕事」  
「じゃあ眺めるついでに、あたしの手伝いもしていきなさいよ。お茶くらいは出るよ」  
「お茶ねぇ……」  
 どうしようか、見れば行司のおじさんがにやにやとこちらを見ている。いつか俺があえてやられ役に甘んじ大活躍だった所を褒めてくれた人だ。  
「あだッ! クソガキてめぇッ!」  
 どうしようか考える隙を見逃す筈もなく、幼い頃の俺のようなアホガキ……もといちびっ子の全力キックが膝裏に。  
「あはははは、バーカ」  
 分かりやすい罵詈雑言を言って逃げる子供。  
 俺は大人として悪ガキはしっかり叱らないといけない。いくら運動神経鈍い俺でも小学生相手なら負けはしない。  
 大人気なく追い詰め、ジャイアントスイングをおみまいしてやった。  
 もちろん足を持ってやっては危なすぎるので、腕を握ってだが。  
「修ー、この子もそれやってほしいって」  
「はぁ、はぁ、はぁ」  
「あー、このお兄ちゃんは運動不足だからちょっと待ってね」  
 呼吸を整える間に子供達が攻めて来る。一人では敵わないと知ったのか、今度は複数でだ。  
「あらー、お兄ちゃんが遊んでくれるって」  
 助ける気も無いほとりは、一番良い笑顔で子供をけしかける。  
 足に抱きつくヤツ、背中によじ登ろうと無茶をするヤツ、ジャイアントスイングをやれと腕を取るヤツ、自分が先だと言い張るヤツ、にやにやしながらませたことを言うヤツ。  
 いつの時代も、案外子供のやることは変わらないのかもしれない。  
「姉ちゃんと兄ちゃんは夫婦かー」  
 ませたことを言う子供に、ほとりはにっこり笑って  
「違うよー、こんな甲斐性なしと結婚なんてしたら苦労するの目に見えてるじゃない」  
 と、人がまだ喋れないのをいいことに言いたい放題。  
「お兄ちゃん、可哀そう」  
 足にくっ付いてた女の子には、哀れみの目で見上げられる始末。おかしいなあ、俺が何をしたというのか。  
「それにしても、あんた子供受けは良いわねー。やっぱり精神年齢が似通ってるからかしら」  
「ほとりだって、そうだろが」  
 
 ちびっ子相撲も無事終わり、俺は婦人会のテントで休憩をしていた。あの相撲も奉納の行事なのだが、本当にあんなグダグダなので我が氏神様は喜んで頂けたのだろうか。  
 ほとんどプロレスだった。  
 手の中には紙コップ。ほとりの淹れてくれた茶は熱い。猫舌の俺は何度も吹き冷ましてでないと飲めない。  
 テントのそこここで、近所の不良中年達が祭りを口実に昼日中っから酒を酌み交わしている。婦人会の主な仕事はその世話のようだ。  
 ほとりもさっそく母さん達やかがりさんに混じって細々と世話を始めた。  
 因みにこの婦人会、名前を新妻会と言うんだそうで、俺はいつも名称変更を訴えているのだが聞き入れられたことはない。  
 ウチにお嫁さんが来るまでは自分は新妻だ、と母さんは言い張っている。  
 かがりさんが来たんだからもうダメなんじゃないのかと言うと、別の家を構えているのだからノーカンらしい。これも詐欺か何かにならないのだろうか。  
 さて、そうこうしているうちに町を練り歩いていたお神輿が無事に帰ってきた。  
 最後は川に入るようになっている。毎年よく死人が出ないものだと不思議なくらいの勢いで神輿が川へと突撃。  
「アレ、智さんじゃない?」  
 いつの間にか傍に来ていたほとりが指差す先、確かに兄貴がいる。  
「おお、確かに兄貴だ。あ、こけた。ずぶ濡れになった。凄いなあ、ぼくにはとてもできない」  
「ちょっと、あんた弟ならちゃんと心配しなさいよ」  
「ぼくにはとてもできない」  
「大丈夫かしら」  
 振り向くと、かがりさんがはらはらしながら兄貴を見ている。  
「大丈夫でしょ、多分」  
 兄貴はへろへろになりながらも、それでも何か意地でも張ってるのか、また神輿を担ごうと人ごみの中へ。  
「ああ智さん、また弾き出された。またずぶ濡れだよ」  
「ぼくにはとてもできない」  
「だから、あんたもっと心配しなさいよ」  
 さすがに親父やほとりのお父さんは上手くこなしているのか、兄貴みたいな失態はみせていなかった。  
 
 へろへろの濡れ鼠で帰ってきた兄貴をかがりさんはバスタオルで拭い、何事か心配そうに声を掛ける。  
 兄貴はへろへろのくせに、それでもにっこり笑って見せていて、ああいう所だけは弟としても安心出来る。  
「何か、いいなあ」  
「何が」  
 お茶のお代わりを淹れてくれたほとりは、呆然とそんなことを言う。  
「やっぱり、いいなって思った」  
「そうか? 兄貴よく生きて帰ってきたな、としか思わないが」  
 あれでかがりさんをバカに出来ないくらいロマンチストなほとりは、兄貴夫婦の仲睦まじさが羨ましいらしい。  
「なあ、ほとり」  
「何?」  
「今からでも、川に突っ込んでこようか?」  
「……やるのは構わないケド、助けてなんてあげないよ、あたし」  
「なんでさ」  
「…………分からないかなあ」  
 不服そうなほとりは、盛大にため息をついていた。  
 
   ◇  
 
 本当に子供受けがいいらしく、何だかんだ言いつつも相手をしている姿は、見ていて嬉しくなった。  
 
   ◇  
 
 このご時世に珍しく、我が校文化祭ではミスコンがある。正確には事前投票で決まっているのでその発表会だが。  
 因みに候補者は全女子生徒で、我が幼なじみは俺が半ば嫌がらせで入れた一票だけだった。  
 文芸部部長の幼なじみと同率最下位で、なんだか複雑な気分になる。まあ、ああいうのは声のデカいヤツに票が集るように出来ているのだ。  
 さて文化祭当日、俺は歴代郷文研部長と同じく暇を持て余していた。  
 我が郷文研の研究発表は今年も渾身の出来だったが、夏休みご協力いただけたご老人方数人がお越し下さったのみ。  
 一度だけご老人方に成果をご報告し、俺は残った時間はだらだら過ごすことにした。  
 体育館では魔法使いの暴れっぷりが公演前から評判の改変シンデレラをやっているらしく、とてもうるさい。  
 だいたい、魔法使いの癖に得意技が拳骨ってところがすでにおかしい。シナリオ担当は誰か、前に出て弁明しろ。  
 さて、こういったイベントではカップルの成立率が高い。乗っ込みのシーズンでもあるまいに、裏庭の紫陽花の辺りは変な雰囲気だ。  
 とっくに花は散ったというのにゲン担ぎなのか、あの花壇は隠れて告白だの何だののイニシエーションをしようとする生徒が入れ違いに現れる。  
 ニキビだらけの顔を真っ赤にした一年生男子が呼び出しの手紙片手に待っていたり、感極まってついでに胸を揉むアホが居たり、このタイミングで振られて男泣きしているヤツが居たり。  
 なかなかいい暇つぶしになる。これは旧校舎最上階を預かる郷文研と文芸部だけの秘密なのだが、そういったアレコレは我々には丸見えなのだ。  
 地上のそういった騒々しい出来事を眺めて茶を喫するのは、ちょっとした優越感を覚える。  
「ちょっと修、今年もまた入れたでしょ」  
「なんだ、嬉しかったか」  
「…………そんな訳ないでしょ、恥ずかしいだけだよ!」  
 予想通り現れたほとりが文句を言っているが、少し言葉に詰まる辺りまだまだだ。  
「それよりほとり、お腹が減った」  
 ほとりが下げてきたビニール袋からは、香ばしいソースの、炙った鶏肉の、煮詰まった醤油の美味しそうな匂いがしている。  
「……買ってきた」  
「ありがとう、さすがに気が利く」  
「まあ、一人お留守番しているの、知ってるから」  
 今年の郷文研は俺一人、つまりこの資料庫の留守番も俺一人と言う訳だ。  
 ほっといて出歩いても良いのだが、一人ウロウロするのは何だか物悲しいし、ほとりを連れて歩くのもはばかられた。  
 文化祭らしい昼食を終えると、地上で騒がしくさかっていた若者達は少し減り始めている。  
 さて、もう後半日すれば今日も終わりだ。初日からこんなに暇を持て余すのでは、あと二日もすれば死んでしまいかねない。  
 俺はほとりの淹れてくれた熱い茶を手の中でもてあそびながら、ぼんやりと紫陽花花壇を眺めて……気が付いた。  
 慌てて旧校舎に駆け込んでくる、アレは確か……  
「アレ? 今の……」  
「文芸部の幼なじみだ。何かあったか?」  
 隣でぼんやりしていたほとりと顔を見合わせる。  
 文芸部の今年の出し物は、何故か郷文研のような内容だった。  
 確かどこかの町の伝承を検証していて、どうしてそんな内容になったのやら。  
 事前に読ませてもらったところなかなかの出来で、ほとんど来客のない旧校舎で似たような出し物をするおかしさに文芸部と二人で大笑いの後罵りあった。  
 旧校舎にまでわざわざ来てくれる奇特な方を、なんで取り合う真似をせにゃならんのか。  
 郷文研との差は新入生の有無で、今年のヤツは俺と違って自由時間がある。まあつまり、文芸部を誘いに来たのだろうか。  
「ん、なんだか切羽詰った感じだったケド」  
「そういわれてみれば……」  
 ほとりがにやりとしている。面白いものを見つけて、興奮に瞳を輝かせている。  
「ちょっと冷やかしに行かない? あの二人、やっと付き合う気になったのかも!」  
「悪趣味だなあ、ばれない様に気をつけるぞ」  
 多分俺の顔も悪趣味な感じに歪んでいる。  
 ほとりと二人、笑いを堪えながら出て行くと、ちょうど階段で件の女子生徒に鉢合わせた。  
「あ、書庫に用事かしら?」  
 にやにやした顔を隠そうともせずほとり。  
「そんな訳ないじゃないッ!」  
 話をするのさえもどかしいように女子生徒は慌てて走り去ろうとする。  
「何があったの?」  
「……逃げてるの」  
「何から」  
「…………」  
 と、タイミングよく校内放送。  
 
『あー、こちらボランティア同好会。ホシは旧校舎に向かった模様、文芸部は急いで集合せよ。繰り返す、ホシは旧校舎に向かった模様』  
「どうしてボランティア同好会が?」  
 ボランティア同好会、手広くやってんのな。  
「とにかく、あたし逃げなきゃ!」  
「なら書庫だな。まさか文芸部も、自分の根城に逃げ込んでるとは思うまい。あそこなら隠れ場所には事欠かないし」  
 慌てて違う場所へ逃げようとする女子を制して、俺は上を指す。  
「でも、今書庫にはお留守番の子が」  
「それはほとりが上手く引き付けてくれる」  
「あたし?……もう、しょうがないなあ」  
 それでもこんなお祭り騒ぎが楽しくて仕方ないらしいほとりは、女子の手を引いて書庫へ。  
「隠れ場所にアテは?」  
「ある、大丈夫。ありがとう、ほとり」  
「小規模部同士、助け合いは大事だしね」  
 お前は郷文研じゃないだろうが、ほとり。  
 俺はのんびりと一階に向かい、そこで文芸部を迎えうつことにした。  
 ぱたぱたと足音、上手くやったらしいほとりがすぐにやってきた。  
「ちゃんと書庫に隠してきたよ」  
「よし、これでそう簡単に書庫からは出られないだろう」  
 文芸部のお留守番のいる中、もう出てはこれないはずだ。はい、詰んだ。  
 ほとりと笑みを交わすと、すぐに文芸部は走ってきた。日ごろの運動不足がたたっているのか、文芸部は汗まみれの泥だらけで息を切らせている。  
「よう、あの子探してんだろ」  
「はぁ、はぁ……ッ、どこに行ったか!?」  
「書庫、ほとりが知ってる」  
 ほとりが心得顔で  
「来なさい、もう逃げられないから」  
 と意地の悪い笑みを浮かべている。  
「一番奥の書架と壁の間、カーテンに包まってる」  
「おい、貸しな」  
「ああ、サンキュ!」  
 文芸部は、よほど余裕がないのだろう、らしくなく素直に礼を言って走り出す。  
 何か面白いことが起きるに違いない。  
 俺とほとりも後を追い走る。  
 旧校舎最上階書庫。普段は静かなこの場所で、文芸部による一大パフォーマンスが始まる。  
 ドアに手を掛けた辺りで、中からとても恥ずかしいセリフが聞こえてきた。  
 薄くドアを開いて覗いてみれば、中では文芸部とその幼なじみが痴話喧嘩の真っ最中。  
 好きだ。だの、そんなコト今更言うな、バカ。だの、聞いていて尻が痒くなるセリフのオンパレード。  
 お留守番の文芸部新入生が呆れ顔で出てきた。  
「おう、楽しそうだな」  
「郷文研の。まさかウチの部長があんなに……その、何と言うか情熱的な人だとは思いませんでしたよ」  
「そうだよなー、本当にあいつ文芸部か? 語彙貧弱すぎるだろ」  
「修、突っ込みどころはそこじゃない」  
「まあしかしほとり、あいつら何があったんだ?」  
 中ではいつもは飄々と涼しい顔をしている文芸部が、幼なじみを口説こうと必死になっていて、凄い違和感がある。あいつあんな顔もするんだなあ。  
 
「おー、やってるね」  
 振り向くと、さっきの校内放送の声の主。  
「あの二人、どうしたの?」  
 怪訝そうにほとりが尋ねれば、ボランティア同好会はにやりと嬉しそうに笑ってみせる。  
「何、大したことじゃないのよ。単に煮え切らない二人をちょっと煽ったのよ」  
「どうやって」  
「ウチのミスコン、今年の二位って誰か知ってる?」  
「知らない、修は?」  
「んにゃ、知らない。最下位しかチェックしてなかったな」  
「何でそこしかチェックしないのよ」  
「あはは、あんたら二人も煮え切らないね。で、ちょうどウチの会員が二位だったのよ。で、文芸部の方も煮え切らなくてやきもきさせるから、その子と結託してね」  
「結託して?」  
「表彰のステージで告白させた。文芸部の部長が好きだって」  
「それは、また」  
 なんと凶悪なことをしたのか。ほとんど全校生徒が集っている場所だぞ、それ。  
「で、やっかみ半分祝福半分でノった他の生徒に文芸部もステージに上げられて……」  
「はあ、それであの女の子が阻止に……」  
「違う。マイクを持った文芸部部長が、カミングアウト。全校生徒の前で愛の告白」  
「はははははははははッ!! 何血迷ってんだよ、あいつ。バカか!」  
 予想と違ったオチに不意をつかれた俺は、腹がよじれて死ぬという言葉をもう少しで体言するところだった。  
 まさかあの無愛想な文学オタクにそんな真似が出来るとは、予想外だった。  
「で、あの子思わず逃げ出して、それを今有志一同で追っかけてたって訳。でも、まさか郷文研まで助けてくれるとは思わなかったわ」  
「まあね、こんな面白い……もとい、素晴らしいイベントならいつでも大協力だよ、ウチも」  
「その気の回りようが、他にも向けばいいんだケド。修、もういい加減二人だけにしたげよう」  
「ん、そうだな。ほら、上手くいったみたいだから、そっとしておいてやろう」  
 中では、無愛想な文芸部とその幼なじみが二人だけの世界を作っていて、俺はせめてもの手向けのつもりでその場の全員を資料庫に誘った。  
「よし、じゃあオマエら全員余計なお節介の罰として、郷文研の研究発表を聞いていけ」  
「えーッ!!」  
 あんまり他人事じゃないんだよ、アレ。  
 
   ◇  
 
 他人事じゃない。文芸部の二人の行く末が、どうか幸せでありますように。  
 
 

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