02 紫陽花
紫陽花の花言葉は移り気であるらしい。
私は部長がニコニコと上機嫌で語る意味不明の郷土史とやらを聞き流しながら窓から見えるその花を見つめる。
鮮やかな紫の花を見るとはなく見る。アレは実は花ではなく“がく”であるらしいが。そして腹立たしいことに紫陽花の花言葉や“がく”の話を教えてくれたのは部長だ。
そういった下らない話の収拾がよほど好きなのだろう、部長は飲めもしない癖にほとり先輩の淹れた熱い茶を弄りながら古臭い本を眺めるて、それを部活動としている。
そしてほとり先輩は、そういったちょっとした話をやはり聞き流している。部長の独りよがりに延々つき合わされているのだろう。全く、空気の読めない男だ。
我が校には中々見事な紫陽花の花壇があり、旧校舎最上階からはそれを見ることが出来、不満の多い郷文研でほとり先輩の存在の次に楽しみな点だ。
そういえばあの紫陽花の花壇で告白すれば上手くいくというジンクスがあるらしい。その花言葉からすれば、皮肉な話ではないだろうか?
もっとも、成功率が高い訳ではないらしいが。
私が何となくその話をすると、古い友人にして郷文研の仲間にしてほとり先輩を取り合う敵の朝井は
「へえ、そういうのってあるんだな。でもさ、上手くいくかどうかは二人の問題なんだから、人だけが悩んでこそ正しいんじゃないのかな。花頼みするくらいなら」
なんてことを言い出した。
「そういうの、花に託すのは今も昔もそうなんだろうけどさ」
「そうだから、花を愛でるって? だから朝井も?」
「人間と花の歴史や共存を、そう呼ぶならな」
全く、子供の頃から相も変わらず屁理屈ばかりこねる男だ。
あまり他人に興味を示さない朝井だからこそ、今の私でも友人として付き合える唯一の男であるのだが、そもそもそうなった原因でもあるのだからおかしな話だ。
ほとり先輩の取り合い……というか、部長から略奪し合っている相手だというのに、私は朝井とはそこまで敵対するつもりがない。
もしも私以外にほとり先輩と付き合う人を選べというなら、朝井なら我慢出来なくはない。想像してみる……
あ、ダメ。そんなのありえない。
そういう二人の姿には心にざわざわとさせるものがある。心の形を無理に握り締めて変えてしまうような。
やっぱりほとり先輩は渡せない。誰であろうと。私の理想の人だ。
少なくとも、男の癖に下らない言葉にこだわり、へらへらとしている部長に渡したままというのは正しくない。
ほとり先輩と部長はいつも二人でいる。
それを、私と朝井はいつも二人して見据えて、そうして虎視眈々と狙うのだ。
あの長い黒髪を、奪う日を。
ただ、朝井は部長を嫌っている様子はない。もちろん、私のことも。
一人の女性を巡る敵対関係のはずだというのに、およそあの男には争うつもりはないようだ。
それは朝井の美点であり、そして私の嫌いな所だった。
嫌いではあるけれど、そういう朝井だから、私も敵として見えないのだろう。
だから……
それが、私の朝井春樹だった。
◇
例年よりも少し早い入梅の日だった。
それにあわせた様に裏庭の紫陽花がぽつりぽつりと咲き始めていた、六月。
部長が上機嫌で紫陽花の花言葉などの薀蓄を教えてくれた。
認めるところは認めるようにしている。もしもほとり先輩のことがないなら、俺はこの先輩と上手くやれたのではないだろうか。
物の見方捉え方、細かくは違えど大筋でどことなくシンパシーを感じなくはない。多分、だからこそ、ともすれば古風な雰囲気のほとり先輩を好きになったのだろう。
俺も、部長も。
けれど、そういう部長だからこそ、村越は苦手とするようだ。
村越にとっては扱い難い人種だということだ。俺も、部長も。
村越は、ある種の直情的な思考をしている。
周囲を認めるのが苦手な、危なっかしい、そういう女の子だ。俺を避けていた時代に比べれば、まだ潔癖な所は和らいだけれど。
いつも思う。どうして村越は、同性愛というものに囚われたのか。どうして俺は、それを否定しなかったのか。
思い当たる節は、多分村越のお母さんの話になるのだと思う。
長い黒髪のお母さん。お母さんっ子だった村越にとって、その早逝がどれほどショックだったのかは俺にも分からない。
俺に出来たのは、呆然と見送るだけだった。
そういえば、アレはちょうど紫陽花の季節だった。
青紫の紫陽花が雨に煙る初夏。まだ小学校にも通っていないくらいの時代だ。
それから、ずぼらだけれど優しいお父さんと二人で村越は生きてきた。村越にとって、優しいお父さんは、同時に頼りない男だとしか見えていない。
だからこそ村越は、多分男という生き物に希望を持っていない……ということだろうか?
もっとも、俺に村越のことが分かるはずもない。ただ、外野から見えたことから想像したというだけの話だ。
ただ、村越が好きになる女性は全て―――長い黒髪の、優しげな……母性を思わせる人だった。それだけで、俺の想像はあまり外していないように思える。
村越の母のことは、俺も良く憶えている。
華奢で色白で、そして長い黒髪の女性らしい人だったこと。
物静かで穏やかで、いつも優しくしてくれたこと。
雨に揺れる紫陽花の花の中……呆然と見送ったこと。
だから実を言えば、紫陽花の花はあまり好きではないのだが。
そう言えばどこから聞きつけたのか、資料庫からも良く見える紫陽花の花壇のジンクスを教えてくれたのは村越だ。
何でも、あの紫陽花の花壇で告白すれば、上手くいくらしいが……どこの誰が考えたのやら。
そういうのを何かに託そうという心を全て否定はしないけれど、やはり自分のことだ。自分で責任を取りたいと思う。上手くいっても、いかなくても。
俺がそう言うと、村越は呆れたようなそれでいて納得したような複雑な顔で
「結局、あんたは自分だけしか見ないようにしてるってことね」
と笑った。
村越の言葉は、そのまま自分に返るものだと分かっていただろうか?
そんな風に隙が多く、危なっかしい女の子を作った原因は俺にもあるのだと思えば、ひどく心苦しい。
だから結局は、全てお母さんの話になるのだ。
俺が村越の告白を否定しなかったのは“お母さん”への後悔と、それによって男に絶望した彼女の味方をしたかったということだけだ。
俺は、村越と敵対することが怖い。今回のほとり先輩の件で、そう思った。ほとり先輩は俺にとってもあの“お母さん”だ。
だからこそ……村越には渡せない。敵対も出来ないけれど、譲りも出来ない。
もしも万が一ほとり先輩を……お母さんを取り戻せば、村越は戻ってこられなくなる。不思議とそんな確信があった。
理想を手にして、そのまま満足して足を止めた姿がありありと目に浮かぶ。
けれど俺には、村越が同性愛を止めて欲しいのかそうじゃないのか、決めかねる。本人がそうしたいなら、そうさせたくもあり……けれどあまりにも不毛すぎて痛々しくて。
今日も村越は部長相手に何かの言い合いをしている。
正確には村越がごにょごにょと言うことを、部長が嬉しそうにやり込めているだけだけれど。
本当に、直情的で危なっかしくて、それでいて負けず嫌いで。
こんな風に誰かを取り合う関係になっても目が離せない。
けれど……
それが、俺の村越皐月だった。
◇
紫陽花の花壇で雨傘が二つ揺れている。
俺は口の中で小さく「またか」と呟いてから部室へ。
二ヶ月ですっかり通いなれた旧校舎最上階東の端、資料庫が俺達郷文研の根城だ。
「失礼します」
一応声を掛けてからドアを開くと、今にも崩れてきそうな大量の資料の文献や何らかの道具類が出迎えてくれる。
そういった棚の森を潜り抜けると、小さな広場のように机を並べた場所にでる。
そこが、郷文研の活動場所ということになる。
今日も部長の村越弄りが始まっている。
議題は何なのか。以前は正義って何? なんてことで屁理屈のこね合いをしていた。その前は愛の行方、勇気の使い道、希望の在処。
どこの中二だ。
ムキになる村越を楽しそうに眺めて、部長は語る。そして大抵村越が一応納得させられて、けれど拗ねた顔をしてそっぽを向くのだが。
ほとり先輩はそんな部長の少し後ろで幸せそうに微笑んでいる。
本当に思う。どうしてあの席に俺がいないのかと。
本人達は隠しているようだけれど、部長とほとり先輩はかなりはた迷惑な恋人だった。いわゆるバカップルというヤツだ。
一応俺達の居る前では「そんなベタベタなんてしないよ」なんて澄ました顔をしているが、バレていないと思っているのは本人達だけだ。
目で会話し、僅かな言葉で何か通じ合うような素振りをみせる。
部長はほとり先輩が居るだけで上機嫌で茶を喫する。
ほとり先輩はいつも部長の少し後ろに座り、それだけで幸せそうに微笑んでいる。
部活動の時間は妬むという言葉の意味を噛み締めるだけの気がしてきた。
今日の昼休み、午後の授業で使うノートを資料庫に置きっぱなしだったのに気が付いた。
俺は購買でパンを幾つか買い込み、慌てて資料庫へ。
資料庫の前で息を整えていると、中から誰かの声が。
ひょっとしてほとり先輩だろうかと、俺はちょっとしたいたずらのつもりで息を潜めてゆっくりとドアを開いた。
棚が林立する中をこっそり進み、郷文研のスペースを覗くと
「はい、あーん」
「ん」
ほとり先輩が部長に食事介助していた。
部長は居心地悪そうに、けれど素直にほとり先輩の差し出すおかずを口にする。
「次、煮物?」
「ん……なあほとり、やっぱり自分で食べる」
「ダメー。文句あるならこんな程度の問題も解けない自分にどうぞ」
どうやら部長は何かの問題を解けない『罰ゲーム』でほとり先輩に食事介助……いや、負け惜しみは止めよう。
ほとり先輩に「はい、あーん」と言いながらご飯を食べさせてもらっているらしい。
爆発すればいいのに。
ほとり先輩はニコニコと俺の見たことのない可愛い笑顔をしていて、ひどく胸が痛む。
何かを思いついたらしいほとり先輩は、自分でおかずをくわえて
「んー」
部長に顔を寄せた。
「…………てい」
部長は、そんなシチュエーションにも動じることなく、箸でおかずを取って逆にほとり先輩に食べさせてしまう。
「色々まずいだろうが」
「誰も居ないし、いいでしょ」
すみませんほとり先輩、俺、居ます。
少しだけむくれて、けれどそれがむしろ可愛らしいほとり先輩の声。
俺はもう一度息を殺して資料庫を後にする。先輩達が食事を終えるまでどこかで時間を潰すことにした。もうやってられない。
階段登ればすぐそこが屋上。雨の中、屋上の軒下で味のしないパンを齧って時間を潰す。
結局その後仕方なく資料庫に行き、今度はノックしてから中へ。
部長とほとり先輩は澄ました顔をしていた。
「あらいらっしゃい、お茶淹れてあげようか?」
ほとり先輩が言ってくれるのをやんわりと断ってから、目当てのノートを回収。
頭を下げてからすぐに資料庫を後にした。
いやもう、俺は何のために郷文研に入ったのやら。
部長とほとり先輩のバカップルっぷりならまだある。
二人は自宅も隣同士らしく、いつも二人で帰っている。俺も村越も部長達とは違う方向なので一緒に歩けるのは校門までだ。
いつもいつも不服ながら校門で二人と別れ、俺と村越だけの帰り道になるのだ。
あれは入部してから十日ほどした時のことだ。
「後をつけよう」
と村越は言い出した。
「そういうの、褒められたことじゃないだろ」
「褒められるためにやるんじゃないから。気になるってだけ」
「そりゃ俺もそうだけどさ」
「だったら、ついて来ればいいってだけでしょう? これは」
ほんの少しの押し問答の末、俺は下手くそな追跡を始めた村越の背中にくっついていく。
先輩達は特に何も言わず、淡々と道をなぞっていく。
先輩達の自宅は、俺達の住む新興住宅街と違い古くからの家々が立ち並ぶ中にあるらしい。田植えを待つ農地が見える様はいかにも長閑だ。
こういう所で育ったのがあの二人だというなら、これは確かにらしい風景だ。
それなりに通学距離はあるらしく、二人は何も言わずにただ黙々と歩き続けている。
もっと何かあると思っていたが、案外こんなものかもしれないと思った時、不意にほとり先輩がちょこんと部長の服の裾を摘んだ。
「ね」
「ん……いいよ」
寄り道するらしい。
狭い路地は河沿いの土手に通じている。楽しそうな足取りで駆けて行くほとり先輩は、普段俺達に見せる姿とは違ってどこかあどけない。
部長は呆れたような、けれどどこか楽しそうな、静かで優しい声で
「まだ寒いだろうに」
と言って土手へ上がる。
どんなタイミングだったのか、土手を歩き始めた所で風が吹く。
山から海へと吹き降ろされた強めの風は、土手で揺れていたタンポポの綿毛を一気に舞い上げた。
夕焼けの赤色に染められた綿毛舞う中を、二人が見とれたように立ち止まっている。
村越が呆然と立ち尽くす。視線の先は二人の手のひら。おずおずと、微かに繋がった手のひら。
後ろを離れてついていく俺達に気付くことなく恋人達は歩く。じゃれながら飛んでいく蝶々のような足取りで。
それを見送ってから、俺と村越は何ともいえない気持ちで岐路についたのだった。
まだある。
先週日曜、俺は暇を持て余して駅前の書店へ行くことにした。
漫画週刊誌を眺め、小説を立ち読みし、鉄道雑誌を買おうかと迷ってから、レシピ集でも見ようかと足を向けた先、ほとり先輩に出逢った。
休日に思いがけない偶然に俺は感謝し、先輩に声を掛けようとして……すぐ隣の部長の仏頂面に気が付いた。
何かの買出しだろうか? 部長の手には何かの紙袋が既に三つ。不満たらたらな顔で部長は
「ほとり、もういい加減疲れた。次は何買うつもりだよ」
「んー、文句ならあたしじゃないよ。旅行の為の買い物をあたし達に頼んだお父さん達に」
「今ここで立ち読みしてんのはお前だろ」
「んー、今夜のご飯はあたし次第だって分かってる?」
「…………最悪レトルトカレーでも食う」
「可愛くない。そこは『ほとり、今夜の為に俺頑張るから』とか言って欲しい」
「そんなアホなセリフを言うと思うか」
「ううん、全然。あ、ほらほら、こんなのどう?」
一応小さな声でそんな会話をしたかと思えば、レシピ集の何かに顔を寄せ合っている。
「こういうのってどう?」
「ん……ホワイトソース一から作ったことあったか?」
「教えてもらってる、大丈夫。伊達にあんたのお母さんの弟子やってないから」
「そりゃ重畳、魚と合う?」
「それも腕次第でしょ、任せなさい」
自信ありそうに胸を叩き、ほとり先輩はレシピ集を戻してから
「じゃあお茶くらいは奢ったげる」
と笑った。俺達の知らない、油断しきった、何の演技もない、心からの笑み。
「その金も親父さんから出たんだろ?」
「修のお父さんからもね。だから安心して奢られなさい」
「……色々突っ込みどころがあって、困る」
そうして部長とほとり先輩は近くのコーヒーショップへと歩いていった。
勝ち目のない戦いに挑み続けるには、どうすればいいのか。
村越はどう思っているのだろうか―――
窓の外では、上手くいったのだろう、二つの雨傘が寄り添うようにゆっくりと出て行くところだった。
そんな梅雨も終わり、夏休みが始まる少し前……村越は偉そうにふんぞり返って
「先輩、やはり合宿が必要です!」
と言い出した。
何を考えているのかと耳打ちすると、村越はやはり偉そうに
「だって、このままここで居たんじゃ、埒があかないもの」
と言い出した。
部長とほとり先輩は、さてどうしたものかと顔をつき合わせていて、逆効果なんじゃないかと俺には思えた。
あのバカップルを、一日中見せ付けられると思うと、正直辛い。
◇
二人と別れた帰り道、いつもの様に修の少し後ろについて歩きながらその背中を見る。
修は上機嫌だ。この春から大抵だけれど。
「ね、そんなに可愛い? 新入部員は」
「そうだな……部長のことを思い出したよ」
「部長? ああ、前の?」
「ああ……部長もさ、こんな気持ちだったのかなって思ったよ。可愛くて仕方ない」
覗きこんでみれば、修は本当に嬉しそうで、それでいて優しい顔をしている。あたしは何だかとても不服になった。
自分で尋ねておいて、そして予想通りの答えだったというのに、凄いわがままだと思うケド。
ケドそれにしたって―――
「あだッ、抓るなッ!」
「彼女の前で、他の女の子のことを話してそんな顔するな」
前部長といい、皐月ちゃんといい、どうしてこの無愛想な郷土史オタクにあんな可愛い子が集るのか。どんな縁なのやら。
朝井君はどこか修に良く似てのんびりしているし、皐月ちゃんと二人になったらどうしてるんだろう。
あの二人もお隣同士の幼なじみだと聞いたけれど……どういう風になっていくんだろう。
この夏、郷文研は合宿をすることになった。
部員ではないにせよ、あたしも同行することにしてもらえたし。つまり、お姉さん役としてあの二人の関係をどうにかする機会という訳だ。
気が付いてるかしら、朝井君も皐月ちゃんも、お互いがとても大切な存在だと思い合ってるってこと。
ああ……お姉ちゃんも、こんな風な気持ちだったのかなあ。
あたしがぼんやりとしていると、修は少し振り向いて
「なあ、喉でも渇いたのか?」
と見当違いな心配をしてくれた。