00,4. もう何もいらない  
 
 想像して欲しい。  
 ずっと好きだった人とやっと結ばれて、そうして初めて迎える数々のイベントがいかに楽しみなのかを。好きという気持ちを大手を振ってアピールできるバレンタインなら特にだ。  
 ともすれば「君が居れば十分満足だ」なんてことを平気で言ってしまうような伊達男が相手とはいえ、女の子の沽券が掛かってもいる。  
 先に言っておけば、修が『伊達男』であるということへの異論は受け付けない。  
 さて、来年の今頃はそんな暇がないであろうことを考えれば、ここは一丁気合を入れて、美味しくて派手なのを作らないといけない。  
 
 修に好き嫌いはない。出されたものはよほどひどいものじゃない限り食べてくれる。  
 修が食べてくれたあたしの初めての料理は、確か十にもならない頃教えてもらったお味噌汁だ。  
 修のお母さんの作るものに比べれば、当時のあたしが作ったものはおままごとの延長でしかなかっただろう。  
 野菜の大きさはまちまちだし、味も薄すぎ。出汁は用意してくれていたものを使ったからそう酷くはなかったのだろうけれど。  
 修は何も言わずに食べてくれた。もちろんあたしが作ったなんて言われていないけれど、それでもおかしいとは思ったようだった。  
 味噌汁の具をしげしげと眺めて、不思議そうに首を傾げて、薄すぎる味に眉をひそめて、それでもごく普通に食べてくれた。  
 こっそりそれを見ていたあたしは、その後すぐ修に聞いてしまった。美味しかったかどうか。  
 夕食後にいきなり現れたあたしに修は少しだけ不思議そうな顔をしてから、笑って  
「旨かった」  
 と言ってみせた。ぼんやりしているくせに妙に敏いところもある修のことだ、きっとあたしが作ったのだと気が付いたに違いない。  
 それからもあたしの練習台になってくれて、途中作るだけで感想を聞かない期間もあったケド、それでも修は何も言わなかった。  
 思えば、あの頃のあたし達は、夕食のテーブルでだけ微かに繋がっていたということだ。それが何だかとても嬉しくて仕方なくて、お料理を習って良かったと思う。  
 だからそういった感謝の気持ちも込めて、あたしはチョコレートを作ることにした。  
 ただ湯煎して型に入れて冷やしただけでは芸がない。  
 朝一に修の机の上に置いておいてやるのだ。  
 手のひらに収まるくらいの、けれど全校男子生徒が羨むくらい丁寧に愛をいっぱいに込めたチョコレートケーキの王様、ザッハートルテを。  
 まあ、半分は嫌がらせというか、悪戯だ。  
 文化祭じゃ毎年あたしに投票してくれて、おかげで最下位はいつも『変人の嫁』揃い踏みしてしまって割りと恥ずかしい。  
 もちろんあたしを選んでくれて嬉しい。嬉しいに決まっているケド、それにしたってもう少し考えてくれても良いようなものではないだろうか。  
 例えば、投票用紙にあたしの名前を書いて、直接渡してくれるとか。  
 だからこれはその意趣返しのようなものだ。  
 文芸部と郷文研、二人の変人の幼なじみは揃って『変人の嫁』と呼ばれている。どこの口さがないのがつけたのやら。  
 まあ、あたしはほんの少しだけ気に入っているケド。  
 とにかく、変人の嫁同士の協議の結果、今年のバレンタインデーで意趣返しとなった訳だ。  
 講師にお菓子作りも得意な修のお母さん、生徒はあたしと文芸部の幼なじみ、そしてやはり旦那(修のお兄さんの智さんだ)にプレゼントしたいらしいお姉ちゃんの三人。  
 あたし達はそれぞれそれなりに料理もするケドお菓子はあまり作らない。だからわいわい言いながら、何度か失敗し試作ししながらになった。  
 ケド、そのかいもあって無事に想像通りのものが作ることが出来た。  
 当日、あたし達は思い思いの包装を施したケーキを手にして朝早くから登校した。お姉ちゃんは焦らして、今日の日付が変わるギリギリまで出さないと言っていたケド。  
 修の机の上に目立つ色の箱を置いて、あたしは少し離れた自分の席で眺めてみる。  
 一人先に出て行ったあたしに首を傾げているであろう修が来るのを待つのは楽しかった。  
 やがて少しずつ人が集り、皆修の机とあたしを交互に見て、女子は楽しそうに、男子は狙い通り羨ましそうにしている。  
 
 肝心の修は朝から苦い顔で現れた。恐らく誰かが告げ口したのだろう、驚いた顔が見られなかったのは残念だケド、これからが本番だ。  
 修は机の上の箱を見て、少しだけ呆れたような仕草をして……何事もなかったようにそれを机に仕舞った。  
 あたしには全く予想通りだった。あれは自分の気持ちを持て余した修のする反応だ。  
 顔はひどいしかめっ面で、どんな反応をすればいいのか分かりかねている。あたしはそんな修の顔を見られただけで結構満足だった。  
 ケド何かのリアクションを期待していた他の人ががっかりしたように集まり口々に何かを言っている。  
 普段はあまり人付き合いのない修は、口々に言われることにゲンナリした顔をして、ようやく立ち上がった。  
 立ち上がって、囃し立てて羨ましがる男子生徒や興味津々に見つめている女子生徒を無視して一直線にあたしの所へ。  
「なあに?」  
 あたしはもう堪えられそうになくて、思わずにやにやとしてしまった。  
 困り果てて、どう言えば良いのか分からなくて、騒がしい周りが迷惑で、ケドそんなことよりちゃんと感謝していることを伝えたいのに照れくさくて出来ない修は。  
「ほとり」  
 真面目くさった顔でぶっきらぼうにあたしを呼んで、それから手を引っ張りすぐ傍の階段を駆け上がる。  
 屋上へのドアの前、人気のない場所まで来てから誰もついてきていないのを確かめてから、修は何も言わずにあたしを抱きしめてから額にキスをくれる。  
 修は感謝の気持ちとお礼の気持ちを乗せたキスをして、それを反撃としたのだ。  
 人気のないところに無理やり連れてこられて抱きしめられた上に額に優しくキスなんかされたあたしは、さすがにしばらく頭が真っ白になった。  
 文句の一つも言おうと思ったあたしに、踊り場まで駆け下りた修は少しだけ困ったような、ケド優しいいつもの笑みで  
「ありがとう、ほとり」  
 と言った。  
 窓から差し込む朝の光の中、修があたしを優しい笑みで見上げてくれている。  
 
 修は伊達男だ。  
 もう、誰にも異論はないだろう。  
 そんな風に優しい声で名前を呼んでくれたら、もう何もいらない。  
 
 

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