1.しあわせのいろ  
 
 あれは、まだあたし達が小学校に上がるか上がらないかくらいの頃だったと思う。  
 あまり外で遊びたがらない修《おさむ》を連れてアチコチ出歩いていた時のことだから、多分そうだ。  
 散々遊び倒して帰ってくると、珍しく父が家に居た。  
 製薬会社で新薬の研究に携わるだけあってか、父は理屈屋だ。そしてその癖子供っぽく癇癪持ちで、照れ屋だった。  
 そんな父は、修に向かって何がしかの禅問答のようなものをするのが楽しみだったらしい。  
 その日も修はあたしに振り回された挙句、父にやり込められて閉口していた。  
 目の端に涙をいっぱい溜めて修はごにょごにょと反論し、父がそれをにやにやとしながら正論で組み伏せる。  
 屁理屈のこね合いをする二人は、実の所あたしにとっては羨ましかった。  
 いつも不機嫌な父が、形はどうあれ笑って見せる数少ない場面が、ここだったからだ。  
 定規杓子、四角四面、融通のきかない昔気質な父は、本音では息子が欲しかったのかもしれない。  
 だから年の離れた姉と二人、お隣の修が父のオモチャにされているのをほんの少しだけ羨ましく見ていたのを憶えている。  
 父と修と言えば、こんなこともあった。  
 町内にある神社の縁日に、父と出かけることになった日のことだ。  
 向こうで修と修のお父さんの二人と合流することになっていた。  
 あたしの父と修のお父さんは昔から仲が良くて、時折二組の親子連れでアチコチ出歩いていた。  
 その縁日に行く準備をしていた時のことだ。  
 白状すると、子供の頃のあたしはあの神社が妙に苦手だった。  
 理由はよく分からないが、多分あの神域特有の厳かな雰囲気がダメだったのだろう。  
 けれど父と二人だ。あたしはわくわくしながら前の年にあつらえた浴衣に一年ぶりで袖を通した。  
 少し大きめだったその浴衣が丁度よくなっていて、お気に入りの赤色で、それだけで物凄く嬉しくなった。  
 もう怖い境内のことなんかどうでも良くなった。  
 夕暮れの赤い色が差し込んできていて、祖母が打った水の匂いがして、遠くから賑やかな声とひぐらしの鳴く声が聞こえて。  
 几帳面な母らしい丁寧な着付けが終わる頃になると、もう私の頭の中は父と行く縁日のことではちきれんばかりだった。  
 だが、癇癪持ちでせっかちな父は、女の子の用意が待ちきれなかったらしい。  
「おいもう行くぞ」  
 と言ったが早いか、父はあたしを置いて先に出て行ってしまった。  
 風呂は熱湯じゃないと気に入らない、ベルトはぎゅうと締めないと落ち着かない、がま口はぱちんと音が出ないと納得しない、そんな癇性な人だったのだ。  
 今思えば大したことじゃないけれど、それでも当時の私には理不尽な出来事だった。  
 なだめる母の声なんて聞こえなくて、とにかく泣いた。  
 母はその場を取り繕う様に「追いかけて行きなさい」なんて言うが、怖い神社に行く父を追いかける気になんてなれる筈もない。  
 父と一緒だから行く気になったのだから。  
 わんわん泣いたらむかむかと腹がたってきて、縁側の端っこでむくれていると、修がひょっこり現れた。  
 あたしより背の低いちんちくりんの修は、呆れたように唇を尖らせるとあたしの手を取って立ち上がらせた。  
 むずがるあたしなんて気にもせず、修はどんどんと歩く。  
 結局神社の長い階段の前まで無言のままあたしを引っ張ってくれたのだった。  
 要領悪い上に泣き虫で不器用な修らしい、エスコートだった。  
 長い階段を二人で息を切らせて登ると、あたしの父がリンゴ飴を手に待っていてくれた。  
 不機嫌そうに「ん」と鼻先に突きつけた飴は、どうやら反省したらしい照れ屋な父の精一杯の謝罪であるらしかった。  
 けれど、そのセロファンがくっついて取れないリンゴ飴一つで機嫌を直したのだから、あたしも安い子供だった。  
 隣で修のお父さんが優しそうに笑っていて、あたしはちょっとドキドキした。  
 修はと言えば照れくさそうに自分のお父さんの足にくっついてまごまごしていた。  
 父に言わせれば修のお父さんはぼんやりしていて優柔不断らしいが、何か言いたくてまごまごしている修の方が優柔不断だった。  
 今思い出してみれば、あの親子はよく似ているということなのだろう。  
 まあつまり、あたしにとって幼なじみの男の子は、ぼんやりしていて優柔不断で、要領悪くて泣き虫で不器用さんだけどとっても優しい人なのだ。  
 それが、あたしの神流 修《かんな おさむ》だった。  
 
 周囲からの評価は『変人』だということに気付いたのはいつのことだったか。  
 いつも本を、それも流行り物ではない物を好んで読みふけるのが、周囲には奇異にうつるらしかった。  
 そもそも神流の家系はその昔骨董を商い一財産稼いでいただけあり、みんな古い物や本が好みなのだった。  
 同じ町内の外れに住む大叔父などは良い例だ。  
 在野の民俗学者と言えば聞こえは良いが、ほとんど世捨て人の道楽者だ。  
 次の台風で吹き飛んでしまいそうな古い家に一人で住む善治爺さんは、いつも本の山に埋もれていた。  
 変人ぞろいの本家の中でも極めつけの変人だったけれど、俺は善治爺さんの小難しい話を聞くのが好きだった。  
 そんな神流の家の中で、ウチの親父はごく珍しい人だった。  
 他の兄弟が骨董やら書やらを扱ったりする中で、一人公務員の道を選んだのだから。  
 そのせいか親父は本家の人たちと折り合いがよくない。  
 その息子の俺は、しっかり神流の家らしい人間に育っているのだから皮肉なものだ。  
 小難しい話といえば、隣に住むほとりの親父さんも外せない。  
 どこかの製薬会社の研究室に勤めている人だが、俺みたいな子供の言うこともバカにせず聞いてくれた。  
 口は悪いけれど面白い人で、ほとりと一緒によく屁理屈をこねて遊んだものだ。  
 呑気な親父と、竹を割ったような性格のほとりの親父さんは昔からの友人であるらしい。  
 まるで性格が違うのにどうして馬が合うのか親父達二人は、息子の俺と、娘のほとりをよく遊びに連れ出してくれた。  
 確かあれは十一歳の夏休みだったと思う。  
 ほとりが俺を連れ出さなくなった頃の話だから、多分そうだ。  
 キャンプを張りにどこかの山へ行ったことがある。  
 何かと心配性な親父はごてごてと荷物を大量に用意していた。  
 けれど道具だけは一丁前の俺達一行は、それを使う技術がなかった。  
 どうにかこうにか不恰好ながらテントらしきものを張ったところで日が暮れて、隣でほとり達が笑いを堪えていた。  
 あんまりな展開だったが、俺も親父も妙なテンションで夕食に挑みかかっていた。  
 けれど食事全般母さんに頼りっきりの親父が、初めて包丁を持つところを目の当たりにした俺はふと我に返り、思わずほとり達に助けを求めていた。  
 あの時のほとりの得意そうな笑みを、俺は一生忘れない。  
「もうしょうがないなあ」  
 なんて言葉を何度も楽しそうに口にして、ほとりは小学生ながら危なげなくカレーを作ってくれた。  
 その間俺も親父二人もほとりの小間使いだ。  
 やれ水が足りないだの火が弱いだの、ほとりはにこにこと俺達を使い倒した。  
 ほとりが得意そうに俺に何かを言うのはしばらくぶりだったので、なんだか妙な気持ちになった。  
 今もあまり変わらない。そのうち立場を逆転させてやろうと思っているが、ほとりはまったくその隙がない。  
 ついでに言えば、ほとりのカレーはとても旨かった。  
 
 親父とほとりの話をするなら、小学生六年の時のバレンタインも外せない。  
 どうやらほとりの初恋はウチの親父だったらしく、随分手の込んだチョコレートを寄越してきたことがあった。  
 身長もあって、優しくて、知的な雰囲気がよかったのかしらねえ、と母さんが楽しそうにしていて俺は何とも複雑な気分になった。  
 おっとりした母さんと年の離れた兄貴は他人事みたいにほとりをつまみに談笑していて、俺はなんだか無性に腹が立ったのを憶えている。  
 文句にならない文句をぶつけると、母さんは優しそうに微笑んで  
「お父さんがモテるのは、わりと嬉しいものよ」  
 と大人の余裕をみせていて、俺はますます惨めな気分になった。  
 もちろん親父は受け取るだけは受け取ったもののしっかりお断りをしていた。  
 いつもならわんわん泣くほとりだったが、その時は「そうですか」と静かに答えて綺麗なお辞儀を一つ残して帰っていった。  
 何となく気になった俺は後を追いかけてしまった。  
 川原まで一目散に走ったほとりは、そこで大きな声で上を向いてあるこうを歌い始めた。  
 何かの宣伝で覚えたらしい古い歌謡曲を歌う女の子を、散歩中のおじいさんが楽しそうに眺めていたのが妙に印象に残っている。  
 俺は転げ落ちるように川原を駆け下りると、ほとりの隣で俺も下手くそな上を向いて歩こうを歌った。  
 声が枯れるまで上を向いて歩こうを歌うと、目を真っ赤にしたほとりがそれでも顔いっぱいに笑ってくれて。  
 俺も一番の笑顔をしてみせた。  
 それまで小学生らしく疎遠だった俺達は、この日からもう一度少しずつ話をしたりするようになってきた。  
 親父に言わせるとほとりの親父さんは強い人らしいが、いっぱい泣いた後でも笑えるほとりも強いと思った。  
 今思い出してみれば、あの親子はよく似ているということなのだろう。  
 まあつまり、俺にとっての幼なじみの女の子は、泣き虫でお転婆だけどとても強くてしっかり者なのだ。  
 それが、俺の州崎《すざき》ほとりだった。  
 
   ◇  
 
 進路が同じだと聞いた時、白状すると、あたしはほっとした。  
 
 資料庫を根城とする郷土文化研究部は、現在部員たったの一名。  
 部長兼副部長兼会計兼部員兼その他もろもろの俺だけということだ。  
 晴れて高校二年生になった俺は、新入部員を獲得するべく案を練っていた。  
 資料庫の整理を主な任務とする我が郷土文化研究部、略称郷文研は、自慢じゃないが万年部員不足だ。  
 それでも廃部にならないのは、部費が学校から出てないのと、整理係の別名だからだ。部室の取り合いにも係わり合いない訳だし。  
 我ながら小汚い字で書きなぐられたビラをしげしげと眺めるが、こんなので旧校舎最上階まで来る新入生がいるとは思えない。  
 事実、もうすぐ五月が見え始めているのに誰一人現われはしない。  
 日が暮れるまで途方に暮れてから、俺は諦めて帰ることにした。  
 もうそろそろ新入生達も新しい環境に慣れてきた頃だろうし、今年は諦めて来年から頑張るということにしよう。  
 呑気にそんな危機感のない結論を得た俺は、だらだらと靴を履き替えてのんびりと校門へ。  
 宵闇の蒼が、黄昏の緋色を追いかける紫色の空の下、校門前に女の子が立っていた。  
 背中にまで届く艶やかな髪は黒絹糸のよう。  
 綺麗な夜空を押し込んだみたいに煌く大きな瞳と、少しだけ生意気な風にツンと上を向いた形の良い鼻。  
 幼い頃の活発な雰囲気を残したまま、けれど日ごとに整っていく目鼻立ち。  
 華奢な肩や首の白さや手折れそうなほど儚い腰の線は明らかに少女から女に変わりつつあり、何となく落ちつかない気分になる。  
 けれど夕焼けに溶けていきそうな横顔が、俺の姿を認めた途端いつかみたいな笑みを浮かべていた。  
「修」  
 いつも通りのほとりの声に、俺は少しだけほっとした。  
「何、待っててくれたのか」  
「ん、あたしも丁度終わったトコだし」  
 校門まで走ると少し速度を落とす。  
 ほとりはごく自然に左の少しだけ後ろからついてくる、いつものポジションに。  
「生徒会?」  
「ん、この時期だからさ、それなりに忙しいんだ」  
 人に頼まれると断れない難儀な性分が災いしてか、ほとりは生徒会副会長なんてやっている。  
 気風はいいし頭の回転も早い、口は親父さん譲りで少し悪いかもしれないが、面倒見も良い。なかなか上手くやっていると俺は思う。  
「で、郷文研は……聞くまでもないか」  
「まあね」  
「もう……」  
 ほとりの声音が変わる。振り向くと、ほとりが唇をきゅっとひきしめている。  
「でも、正直郷文研って、生徒会じゃ評判悪いよ。気をつけないと」  
「先生受けは、いいんだけどな」  
 大体、生徒会の評判が悪いんじゃなくて、生徒会長に俺が嫌われているだけだ。  
「……ごめんね」  
「何の謝罪さ」  
 ほとりが謝る必要なんかないのだが。単にどうも生徒会長はほとりがお気に入りらしく、俺が目障りなのだろう。  
 とはいえ、そんなことはほとり本人にはさして関係のないことなんだから。  
 いつも勝気なほとりがしおれさせるのが何だか嫌で、俺は気が付いてないふりをしてみせる。  
 
「それよか兄貴達の結婚式だよ、もうニヶ月ないんだよなあ」  
「ん、結婚……結婚か。多分そうなるんだろうとは思ってたケド」  
「実際そうなると、何だか変な気分だよな」  
「同感。でも、六月がいい。なんてお姉ちゃんちょっとロマンチックぶりっこすぎ」  
「ジューンブライドかあ」  
 本音の所じゃほとりが羨ましがっているのは分かっている。今のはただの照れ隠しだ。  
「日本じゃ梅雨だから、ハレの結婚式には向いてないんだケドな」  
「だから春のうちにやればよかったのよ」  
 拗ねたような声だが、ほとりは今からどんな格好で式に出ようか楽しみらしい。ちらりと横目に見れば、頬が緩んでいる。  
 もうしばらくすれば、神流智《さとし》と州崎かがりの結婚式。それはつまり、俺達の兄貴と姉さんが結婚するということだ。  
「ねえ修……」  
「あん?」  
 家に着く少し前、意を決したような瞳でほとりが俺を呼び止めた。  
「修の初恋の人って、あたしのお姉ちゃんでしょ」  
「……はあ?」  
「だから、その―――落ち込んでないかなって思ってさ」  
 下らないことを憶えていたものだ。  
「落ち込むわけないだろ」  
「でも……」  
「ほとりがウチの親父が好きだったのと同じみたいなもんさ」  
「アレはアレで、あたしなりに真剣だったんだけど」  
「そんなの俺も同じ。でも、まあ……子供の頃の想い出って奴だよ。それもあんまりほじくり返されたくない手合いの」  
 笑ってみせると、おずおずとほとりも笑い返してくれて。  
 俺は今日はやたら神妙なほとりに少しだけ苦笑する。  
 いいからさっさと家に入れ、と手で追い立てると、ほとりは唇を尖らせてから  
「また明日」  
 と、ハデに音を立ててドアを閉めた。  
 それを見送ってから、俺もドアを開ける。  
 確かにかがりさんは俺の初恋の人だったけれど……同時に、ほとりもそうだったのだが、それは気付かれていないようだ。  
 俺は何だかむず痒い気がしてきて、乱暴に靴を脱ぎ散らかした。  
 じきに梅雨が来る。  
 紫陽花の紫色と、静かな雨音と、新しい門出の二人の、六月が。  
 
   ◇  
 
 お姉ちゃん相手に勝てるはずがない、あたしなんかに。  
 
 かがりさんの晴れ女が兄貴の雨男よりも勝っていたらしい。  
 梅雨前線を物ともしない見事な快晴の空の下で二人の結婚式は無事終わった。  
 かがりさんからのブーケトスを受けたったほとりは目を白黒させていて、自分の姉からの意味深な目配せに気付いたのだろうか。  
 多分かがりさんは妹にブーケを渡したかったのだろう。他の女の人には断っていたのかもしれない、妹に譲ってあげて、とでも。  
 兄貴も何がしかの視線を俺に送っていたが、鼻で笑って返しておいた。  
 翌日からは梅雨らしくしとしとと降り続け、我が校が誇る紫陽花の花壇は見事な咲き振りを今年も見せていた。  
「おい神流、卒業生名簿ってこっちにきてないか」  
 むすっとした顔でひょっこり現れたのは、変人のあだ名を俺と二分している文芸部の部長だった。  
 文芸部という名の書庫のお留守番係りにして唯一の部員、まるで俺のような男だ。  
 弱小部活同士の変な連帯感の為か、代々郷文研と文芸部は横の繋がりがあったりする。  
 多分この男は何代か前の先輩が受け取った資料の山を探せと言ってきているのだろう。  
 文芸部に管理権委譲の名の下に押し付けられた本の山をざっと眺めてみるが、そんなものはない。  
「ないな。それより面白いことになってるじゃないか」  
 文芸部部長は見るからに渋い顔になる。  
「冗談じゃない、代わってもらえるならいくらでもだ」  
「それこそ冗談じゃない。ここにまで声が聞こえてくるぞ、書庫から」  
 何の縁があったのやら、資料庫とは逆の端にある書庫は今年に入ってから人が増えた。  
 なんでも、恋愛相談を受け付けているそうだ。  
「で、俺も聞いてもらえるのか? 恋愛相談」  
「あるんならな。その代わり解決方法は保障しないぞ」  
 文芸部部長は呆れたような顔でため息をついた。  
「それより名簿だ、図書室に行くのは面倒だな」  
「……なんで名簿なんて要るんだよ」  
「紫陽花の話、聞いたことあるだろ」  
「まあな」  
 あの紫陽花の花壇には変なジンクスがあるらしかった。  
 告白すれば成就するトカ永遠の愛を保障されるトカの、アレだ。  
「アレの噂の出所を調べることになった。とりあえず紫陽花が植えられた十六年前辺りの人に話を聞こうと思って」  
「そりゃまた、ご愁傷様」  
「……そう思うんなら手伝え、こういうフィールドワークは本来郷文研の専門分野だろうが」  
「噂の調査がフィールドワークに入るかどうかは微妙だな」  
「ジンクスでも伝説でも何でも良い、俺には重荷だよ」  
「ならお前あの娘に助けを求めたらいいんじゃないのか、ほら」  
「こんな下らんこと、どう言えばいいのか分からん」  
 俺達が良く似ているのは立場だけではないらしく、この男にも幼なじみがいる。  
 ほとり程ではないにしろ、それなりに可愛い子だったように思う。  
 どうも中学時代に一悶着あったせいで微妙な関係らしいが、仲自体は悪くないから、どうにもむず痒い付き合いが続いている。  
 俺が言うのもアレではあるが。  
 もう一度探したが名簿はなかった。ない袖はふれない。  
 ぶつぶつと不満げな文芸部を追い払って、俺も資料庫を出た。  
 
 昇降口でほとりと鉢合わせた。  
「今?」  
「ああ、そっちもか」  
「ん、帰るんでしょ?」  
「一緒に帰るか?」  
「うん!」  
 何が楽しいのやら、花が綻ぶように笑顔になったほとりは、傘立てに駆け寄る。  
「どれー?」  
「そこの安物、ビニールの」  
 そこら辺のコンビニで幾らでも売っているビニール傘だ。  
「はい」  
 上機嫌のほとりは俺の傘を差し出し、昇降口へ。  
 遊んで欲しくて仕方のない子犬か何かのように、雨を前にうずうずと待っている。  
 靴に履き替えて出ていけば、本当に待ちきれなかったのだろう、ほとりは自分の傘を開いて飛び出していく。  
 薄霧に煙る校庭に、ほとりの淡桃色の傘が咲いている。  
「買ったのか」  
「うん、昨日ね。前のがダメになっちゃったから」  
 それで見せびらかしたかったのか。  
「どう、どうよ」  
 得意そうに傘を回して、踊るような足取りで水溜りを踏んでいく。  
「淡い色、好きな」  
「ん、柔らかい感じがいいでしょ。それよか、もっともっと」  
 早く褒めろと頬を桜色に上気させている。早く褒めないと先に進めそうもない。  
「似合ってる似合ってる。可愛い」  
「心がこもってないなあ」  
 ほとりは不機嫌そうに唇を尖らせるが、照れくさくて何て言えばいいのか分からない。  
 静かに耳を過ぎる柔らかな雨音をなびかせて、ほとりがくるくると回っている。  
 艶やかな黒絹糸の長い髪が。  
 ほっそりとした白い腕が。  
 黒真珠をはめたような大きな瞳が。  
 ガラス細工めいたおとがいから首の甘やかな線が。  
 愛らしく整った小さな耳が。  
 まだ少女のあどけなさを残しながら、それでも穏やかに起伏する胸の女らしいふくらみが。  
 抱きしめれば折れてしまいそうな程儚い腰が。  
 律儀に校則通りの長さのプリーツスカートから伸びる小鹿のように躍動する足が。  
 そのどれもが生きている喜びに満ち溢れた、一幅の美しい絵画のよう。  
 雨音を従えて、瞳を興奮に輝かせて、この梅雨空をも楽しんで。  
 ほとりが雨の中を歩いていく。  
 
   ◇  
 
 照れ隠しに言う適当な褒め言葉に、あたしの心はそれでも舞い上がった。  
 
 

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