狂おしい恋の炎は、情事の後も燻り続けた。  
「あなたと、離れたくない」  
月並みなセリフだと我ながら思ったが、それが偽らざる本心だった。  
うっすらと目に涙を浮かべつつ、「私も」と言うルクレツィアの可愛い頭をかき抱きながら、彼は溜息をついた。  
ここが女子修道院である以上、司祭といえども、彼が彼女と一緒にここに居続けることは叶わないのだから。  
とは言え、また明日も明後日もその先も、絵のモデルという大義名分がある以上、彼女と秘密の逢瀬はできるのだ。  
「また、明日、来ますよ。愛しい人」  
コクン、と頷く彼女の唇に優しく口づけをして、しばしの別れの抱擁をした。  
触れてはならぬと自らに戒めたはずの思い人と、思い合い、結ばれた喜び。  
油断するとつい緩みがちな表情を必死に取り繕いながら、司祭は女子修道院を後にして、帰路に就いた。  
 
しかし、一人になって、やがて冷静さを取り戻すにつれて、司祭を猛烈な後悔が襲った。  
女を抱くのは初めてではない。だが、若い頃に娼婦を買ったのとは訳が違う。  
教会や修道院に強制されての禁欲ではない。あの日、聖母の姿を見て以来、聖母に誓い、自らに課した禁欲なのだ。  
それを破ったばかりか、彼女こそ生ける聖母、我が理想と思い定め、聖母像のモデルにした女性を――。  
聖母その人を凌辱するに等しいこの浅ましい行為を、神がお見逃しになるはずがない。  
後悔の次に、言いしれぬ畏れがひた寄せてくる。  
「主よ、罪深き我が身を赦し給え、どうか、主よ、憐れみを……」  
心の底から神への畏怖で許しを請うたのは、初めてかも知れない。  
 
まず彼が怖れたのは、絵が描けなくなるのではないかということだった。  
聖母への誓いが、いまの絵の出来につながっているのだと彼は信じていたから、まず天罰が下るとしたら、  
絵の才能が失われることだろうと思ったのだ。描けなくなることはなくても、今までのように  
自分が追い求めた理想を描き出すことはできなくなるのではないか。  
そう思うと、心も体も鉛のように重く、傍らにある絵筆に触れてみることさえ恐ろしく、躊躇われた。  
 
次に彼が怖れたのは、ルクレツィアの愛を失うのではないかということだった。  
あのとき、彼女は「あなたのお側に」とは言ったが、「愛しています」とは言わなかった。  
自分の接吻も、愛撫も、全てを受け入れたが、それは愛ゆえではなく、無垢な処女ゆえの無防備さだったかもしれない。  
情事の後のあの涙も、物理的な痛みや別れの寂しさゆえではなく、純潔を失ってみての後悔と畏れの涙だったかもしれない。  
今頃は、同じように神への畏れに身を苛まれて、自分を犯した男を恨んでいるかもしれない――。  
一度そう思い始めると、次々に不安が押し寄せてきてどうしようもなかった。  
昨日の別れ際の浮ついた気分はどこへやら、翌日になって、彼は女子修道院へ出仕する気になれないでいた。  
もちろん、職務上、午前のミサのために行かないわけにもいかない。  
何より、やはり彼女の顔を見たい。  
会いたい。  
間に合うギリギリの時間になって、司祭はやっと重い腰を上げて女子修道院の礼拝堂へと向かった。  
 
ミサを執り行っている間、司祭は務めて平静を装った。誰から見ても、普段どおりの振る舞いだっただろう。  
好奇心旺盛な年増の尼僧たちにも、何か感づかれた様子はない。  
唯一、動揺を知られる怖れがあるとしたら、最後の聖体拝領で、ルクレツィアに手づから聖体パンを与えるときだった。  
いつもはあの澄んだ瞳でまっすぐ司祭を見上げていた彼女が、今日は目を伏せてまともにこちらを見ようとしなかった。  
どんな心持ちでいるのか、推し量ろうにもその表情すら伺いがたい。  
――やはり、傷つけてしまった……。  
自業自得とはいえ、罪の意識と後悔の念が、細く長い針となって司祭の胸を鋭く貫いた。  
――今日は、とても顔を合わせられそうにない。  
彼女への後ろめたさもあったが、それ以上に、もし彼女に決定的な拒絶をされてしまったら……。  
それを受け入れる覚悟がない自分の弱さに、あらためて司祭はどうしようもなく彼女に恋している自分を自覚した。  
だが、毎日の日課同然になっていた絵の制作がここで途切れれば、かえって何かあったのかと周囲に怪しまれてしまう。  
瞑想のふりをして回廊でしばらく時間を潰した後、司祭は意を決して、彼のモデルが待つはずの食堂に向かった。  
 
いつもより重く感じる扉を、ゆっくりと押し開ける。  
ぼんやりと薄暗く、がらんと広い食堂の、手前から壁沿いに奥の方へと視線を移してゆく。  
 
果たして、そこに彼女はいた。  
いつもの場所で、いつもの様子で、いつもの椅子に腰掛けて。  
そこだけ、天の雲間から光が差し込むように、天井近くの小窓からの日差しが彼女を明るく照らしていた。  
修道女のヴェールを外し、粗末な修道衣に不似合いな紗のヴェールを被る姿は、小さな野の百合のようだ。  
ああ、と彼は溜息を漏らした。そこにいてくれたという安堵と共に、彼は、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。  
「司祭様」  
そう呼びかけるルクレツィアの声が、彼には裁きの天使の羽音にも思えた。金縛りにあったように、なにも言えず、なにもできない。  
「……司祭様」  
再び小さくそう呼びかけると、彼女はその美しい眦からすうっと一筋の涙をこぼした。  
「良かった、いらしてくださって……。お越しが遅いから、私をお見捨てになったのかと、不安で、不安で……」  
弾かれたように、司祭は走り寄り、彼女を抱きしめた。  
嫌々をするように頭を軽く振りながら、嗚咽混じりに彼女が言う。  
「私は、罪の女ですもの、司祭様を堕落させてしまった、罪の……、だから、もう、避けられても仕方ない――」  
「泣かないで、ルクレツィア。あなたは何も悪くない、悪いのは私です。不安にさせて、悪かった……」  
どうして、あんなことを思ったのだろう。ここで待つしかない身の彼女が、どれほど孤独で、不安だったか。  
初めて男を知り、誰にも言えない秘密を抱えてしまった、か弱い子羊のような彼女を、どうして放っておけようか。  
後ろめたさを言い訳に、一瞬でも彼女を避けようとした自分が情けなくて仕方ない。  
「あなたを捨てたりなんか、しない。……できるわけ、ないじゃないですか」  
そうして、健気な恋人の涙をそっと吸ってやった。淡い潮の味の奥に、背徳の恋の苦さと甘さがあった。  
彼女の美しい額に、まぶたに、頬に、小さな口づけを落とす。  
唇を重ねると、初めてだった昨日よりも少し慣れたのか、一度軽く離した後、彼女の方から唇を求めてきた。  
その何気ない積極性が、男の心に火を付けた。重ねた唇の間に舌を差し入れてみたが、彼女は拒まない。  
「ん……ん、ん」  
こうなると、もう止められない。  
恋人と身も心も重ねて求め合う悦びに比べれば、あれほど苦しんだはずの罪悪感も、容易く吹き飛んでしまう程度のものだ。  
女の胸を服の上から愛撫していた男の手が、修道服の裾から、その下に隠れた太股へと忍び寄っていったとき、  
彼女はハッとしたように体を離そうとした。「いけませんわ」と、顔を真っ赤にしてうつむく。  
……いけないのか。口づけは求めても、愛し合ってはいても、彼女には罪への怖れがあるということか。  
「……すまない。私は、また――」  
身を引こうとすると、彼女は慌てたように、彼の腕を掴んだ。  
「違います、違うんです」  
そう言って、恥ずかしそうに口ごもる。男の手に絡められた彼女の掌から、火照りが伝わってくる。  
「どうしました? ……言ってごらんなさい、ルクレツィア」  
「――ぎ、を……」  
「え?」  
「――鍵を、かけてくださらないと」  
うつむいたまま、拗ねたような、甘えたような声だった。  
その意味を理解したとき、男は柄にもなく、ドキマギした。きっと、若造みたいに顔も真っ赤になっていただろう。  
「――あ、ああ、そうか、鍵……」  
何でもないかのようにおもむろに立ち上がり、食堂の扉の鍵を内側からかける。  
振り向くと、彼女は行儀良く床にぺたんと座り直し、恥じらう様子で、待っている。その初々しさがたまらなく可愛い。  
かえって落ち着きと余裕を取り戻し、恋人の許へ戻った男は、少し気障な仕草でキスをした。  
「本当に、いいのですね?」  
やや意地悪だったかもしれない。共犯の再確認なのだから。  
「司祭さまこそ。また、私を泣かせるおつもり?」  
悪戯っぽく言う彼女は、昨日の彼女よりも何倍も魅力的だ。  
「泣かせたくは、ないんですけどね。愛していますから」  
「私も、愛しています」  
男は、そう答える女の両手を取って、その甲に恭しくキスをした。まるで、そう、花婿が花嫁にそうするかのように。  
聖職者は妻帯できない。が、教会のそんな決めごとなど、二人にはまるで無意味に思えた。  
 
その日、絵の作業はひとつも進まなかった。  
初めてのことだったが、不思議と、「描けなくなる」という気はしなかった。  
むしろ、描きたい聖母の姿は、より鮮明に――より優美により具体的に、画僧の許へ降り立ってきたのだった。  
 
 

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