早朝、台所から、野太い男の声がする。  
「ご主人様ー、お時間ですよー。ご主人様ー? 司祭様ー?」  
住み込みの下男が、通いの家政婦が作った朝食の支度が調う時刻になっても起きてこない  
主人を呼んだ。  
だが、いくら呼んでも返事はない。  
以前は比較的時間にきちんとしていたはずが、ここしばらく、こんな朝が続いていた。  
「まったく、最近どうしちまったんだかねえ、あの方は……」  
ぶつぶつと文句を言いながら、下男は司祭の私室へ向かった。  
「おはようございます、朝ですよー。起きてくださいなー」  
ノックをして呼びかけても、返事はない。仕方なく、下男は扉を開けて部屋に足を踏み入れた。  
「ご主人様……って、うわっ!?」  
 
そこには、おびただしい枚数のデッサン用紙が散らばっていた。  
机、床、ベッドの上。  
鳥の巣の中に散らかる羽毛のように、紙が散らばっている。  
下男は足元の一枚にふと目を留めて、手に取り――目を奪われた。そこには、若い女性の  
裸体が描かれていた。  
見ると、どの紙にも、女性や裸婦が描かれている。顔だけの素描もあり、全身の素描もあり、  
赤裸々なポーズを取る艶めかしい裸体も――。  
 
手にとって見比べてみると、描かれているのはどれも同じ女のようだ。  
下男は見たことのない女だったが、綺麗な人だ、と思った。  
伏し目がちの素描には可憐な愁いが漂い、正面を見据えた素描の瞳には快活な魅力が宿る。  
絹糸のような髪は滑らかで、微かに開く唇からは今にも歌声がこぼれそうだ。  
裸体を形作る描線はあくまでも艶めかしく、だがそれでいて清楚な美しさがある。  
ふくよかな乳房の柔らかさや温もり、肌の甘い匂いまで立ちこめてきそうだ。  
 
目のやり場に困る、と思いつつ、目を離すことが出来ない。  
素描に過ぎない絵の中の女性に対して、まるで生身のような魅力を覚え、下男は戸惑った。  
この女性は、いったい誰なのだろう。この家に女性のモデルが来たことはない。昔、どこかで  
モデルにした女性なのだろうか。  
不思議に思いつつ、記憶や想像でここまで生々しい絵を描けるものなのか、さすがご主人様は  
名高い画家なだけのことはある、と下男は素人ながらに感嘆した。  
 
司祭はと言うと、あちこちに散らばった紙に埋もれるようにして、床に寝転がっていた。  
「大丈夫ですか、ご主人様?」  
「う……うーん……?」  
司祭は低く呻いて目を覚まし、下男に支えられながら、ゆらりと上半身を起こした。  
「……なんだ、もう、朝か……」  
一晩中、この夥しい数の裸婦像を描いていたらしい。疲れ果てたのか、やさぐれた顔つきで、  
朝から酷い有様である。  
司祭は、下男が手にしているデッサン用紙に気付くと、恐ろしい形相でそれを奪い取った。  
「これは、お前のような者が見て良いものではないっ!」  
「あっ、も、申し訳ありませんっ」  
滅多に見ることのないその形相と勢いに、下男は怯えてペコペコ謝った。司祭はというと、  
ぶつぶつと「もったいない」「大事な彼女を」などと呟きつつ、部屋中に散らばった  
裸婦像をかき集めている。そして、まだそこで裸婦像にぼんやりと視線を漂わせている  
下男をジロリと睨み付けて、一喝した。  
「いつまでジロジロと見ている! さっさと出て行け!」  
「す、すみません! あ、あの、お召し物はそこに用意してありますので……」  
 
下男が立ち去った後、司祭はぐったりと椅子にもたれかかると、机の上に安置された  
聖母の彫像をじっと見つめた。  
「聖母様……、これが、罰ですか。私に課せられた罰なのですか」  
未だかつて経験したことのない、恋の苦しみ。  
天罰など下せないと、神を軽んじた自分が愚かだった。  
一体、どうすればいいのか。どうしろというのか。  
司祭と修道女の、許されぬ関係。自分が神父でなければ、彼女が修道女でなければ、男女の  
普通の幸せを手に入れることもできただろうに。  
聖職を捨てようとて、それは到底許されはしないだろう。還俗は、高貴な一族で嗣子が  
失われた場合にのみ許されるなど、ごく希で特別なことだ。自分や彼女のような取るに  
足らない庶民は、一度聖職に就いたが最後、そこから逃れることは敵わない。  
そして掟を破れば、罪人として厳しい罰を与えられる。罰を受け入れて改悛すれば許され  
教会にも戻れようが、そうでなければ、最悪の場合は破門だ。  
 
破門――それは宗教的にも世俗的にも、死刑宣告に等しい。  
懺悔も許されず、死んでも埋葬されず、魂の救済もない。それ以前に、教会と様々に不可分  
である世俗の共同体からも抹殺される。人々には悉く忌避され、日々の糧を手にすること  
すら困窮するかもしれない。少なくとも、まともに生活していくことは不可能になるだろう。  
どうあっても、教会のしがらみを断ち切ることはできないのだ。  
 
だからといって、このままの状態も、とても耐えられない。  
救いを求める資格もないことは自覚しつつも、それでも、心優しき聖母に取りなしを願わず  
にはいられない。  
「助けてください、どうか、どうか……お慈悲を」  
悔い改めよと仰せなら、いくらでも、どんな苦行でもいたします。  
貴女を賛美せよと仰せなら、命の限り、貴女を讃え、崇めます。  
だからどうか、私が罪の淵へと引きずり込んだあの憐れなルクレツィアに免じて、どうか。  
憐れな――そう、憐れなルクレツィア。  
幼い頃から幸薄く、望まぬままに修道院で暮らし、そして今はこの破戒僧に出会ってしまったが  
ために、道ならぬ恋に呵まれ苦しんでいるに違いない。  
回廊で老尼に見張られながら、何かを言いたそうにしていた、ルクレツィアの瞳。切なげに  
こちらに向けられたあの澄んだ瞳を、思い出す。  
――あの瞳を涙で曇らせたくない。幸せにしてやりたい。  
それが自分の責務であり、せめてもの罪滅ぼしだ。  
どうにかすることは、できないのか。  
「ご主人さまー? お早く――」  
早く食卓につけと催促する下男の声に、司祭は仕方なく腰を上げた。下男が支度してくれた  
着替えに手を伸ばそうとすると、僧衣の上に重ねられていた腰帯が、触れもしないのに  
するり、と床に落ちた。  
「あ、――」  
腰帯が、と思ったその瞬間、司祭の脳裏に閃光が走った。  
――腰帯……そうか!  
「おお、感謝いたします、聖母様!」  
そう叫ぶと、司祭は大急ぎで支度を済ませ、部屋を出た。  
そしてその日は何ごともなかったかのように、普段通りに振る舞った。もちろん、  
ルクレツィアとは一言も言葉を交わすことができなかったが、司祭はもはや苦しまなかった。  
なすべきことを見つけたからだ。  
 
そのまま、数週間が過ぎた。  
 
カランカラン、カランカラン、と聖堂の鐘が快晴の空に高らかに鳴る。  
今日は、この町に伝わる「聖母の腰帯」が民衆に披露される、祭礼の日だ。  
霊験あらたかな腰帯を一目見ようと、国の内外から大勢の巡礼がこの小さな町に押し寄せ、  
町中がごった返していた。  
司祭は、目立たぬよう巡礼のマントを羽織ると、聖堂のある町の中心へと向かった。  
路地には人々が溢れ露店が並び、聖堂に近づくに従って、芋の子を洗うような混雑ぶりだ。  
もうしばらくすると、広場に面した聖堂のテラスに司教が立ち、聖母の腰帯を恭しく掲げ  
持ち、集まった巡礼たちに示して見せる。皆、それを目当てに続々と聖堂へ向かっている。  
司祭はその人ごみの中に、聖マルゲリータ女子修道院の尼僧の列を探した。  
 
「祭礼の日には聖堂へお参りのために外出が許される」  
そうルクレツィアは言っていた。  
彼女も、断罪されて院内の独房に監禁されているとかでなければ、他の修道女達と一緒に、  
今日の外出を許されているはずだ。  
 
老いも若きも、男も女も、誰もが祭礼の日の賑わいに華やいでいる。  
見慣れた町の者もいれば、近隣の都市から来たらしき者、物見遊山風情の田舎めいた集団、  
馬や輿に乗って広場に向かう貴族達もいる。  
親子や友人でわいわいと連れだって向かうもいれば、厳粛な面持ちで祈りの文句を唱え  
ながら歩む孤高の修道者もいる。  
罰当たりにも祭礼の人混みを狙って集まるスリもいる。  
他の町から巡礼に来た僧や尼僧の集団も多かったが、司祭にとっては見慣れた修道服の  
群れを探し出すのは、さほど難しくはなかった。  
ひしめき合う巡礼の波に紛れて、誰も司祭の存在には気を留めていないようだった。  
司祭は少しずつ人混みを掻き分けながら、彼女たちに近づいていった。  
 
ルクレツィアは、仲間の尼僧たちに挟まれるように、列の後ろの方にいた。祭礼の興奮に  
浮き立つ周囲の様子とは裏腹に、寂しげな表情でうつむいている。  
彼女は、出立前に院長から言い渡されたことを反芻していた。  
 
「聖堂へ行ったら、尊くもお優しい聖母様にお祈りして、今までの罪の許しを請うのですよ」  
「今までの……罪、ですか?」  
「そうです。自分の胸に手を当てて、よくお考えなさい」  
――院長様は、お気づきなのだわ。……いえ、まさか。  
――ただの誘導尋問かもしれない、動揺してはダメ、素知らぬ風、素知らぬ風。  
「至らぬところが直りますよう、よくお祈りして参ります、院長様」  
「ルクレツィア……、これは、あなたのためを思って言っているのですよ。今ならまだ傷は  
 浅くて済みます。私も目をつぶりましょう。しかし、あなたの身になにか起こってしまえば、  
 私もあなたを公的に罰しなければならなくなるのです」  
「私の身に?」  
「そうです。あなたの身体に、何か変わりがあってはならないのです」  
 
院長の言葉の真意に気付くと、ルクレツィアはさっと青ざめた。そんなことは、少しも  
考えてもみなかったのだ。  
院長は「あなたのためを思って」と言ったが、ルクレツィアは素直には信じなかった。  
路頭に迷いかけた自分をここまで育ててくれた恩義こそあるが、何かとケチで、すぐ  
自己保身に走るこの院長を、そしてこの陰気な修道院自体も、ずっと好きになれずにいたのだ。  
自分がどうなろうと、そして院長がそれで困ろうと知ったことではなかったが、愛する  
司祭にこの上ない迷惑を掛けてしまうということが何より恐ろしかった。  
 
尼僧の列は、人でひしめき合う広場の端にたどり着いていた。  
ホラもうすぐ聖堂よ、と話す仲間の尼僧の言葉にも、ルクレツィアはうわの空。  
「次の祭礼の日には、私と二人で一緒に聖堂へ行きましょう」、そう言った司祭の言葉を  
思い出しながら、涙がこぼれそうだった。  
――あの約束は、決して叶えられないのだわ……。  
あの人を責めるのではない、ただ、一瞬でも幸せな夢を見てしまった私が悪いのだ、そう  
自分に言い聞かせるしかなかった。彼との関係を絶ち、このまま修道院で生涯を神に  
捧げる身となる、それが初めから逃れられない、自分の運命だったのだと。  
 
――もう、司祭様と会ってはいけない。  
そう自分に言い聞かせながらも、会いたいという気持ちは押し留められそうにない。  
絵を描くときの真摯な眼差し、優しく語りかけてくれた低い声、肌を触れてくる掌と太い指、  
ぎゅっと抱きしめてくれる力強い腕、――。  
目を閉じれば、それがありありと瞼の裏に浮かぶ。  
でも、それも今や手の届かぬ幻影。  
 
会えない日、そして会えても触れることも叶わぬ日には、狭く暗い自室で一人、身体の疼きと  
火照りを押さえきれず、司祭との逢瀬を思い出しながら、密かに自分を慰めた。  
いけないことだとは知りつつも、気がつけば指は自分の秘部へと向かう。湧き出る疼きを  
宥めるかのように、柔らかな部分をゆっくりと撫でたり擦ったり、やがて堪えられなくなると、  
その奥へと一気に指を挿し入れる。反射的に出そうになる声を押し殺しつつ、ぬるぬるに  
濡れた肉の道に、自分の指を何度も往復させる。  
くちゅっと股間から漏れる微かな音さえ、部屋の外へ聞こえるのではと憚られたのに、  
いつしかそれも忘れ、ぐちゅぐちゅと淫らな音を鳴らし、彼の体温と力強さを思い出しながら、  
熱い膣内で指を動かし、ひたすらに快感の頂点を追い求める。  
そうして自分の指で達した後、震えるような恋しさと切なさに、自分で慰めるのでは  
到底満たされない部分があることを、改めて思い知らされた。  
――そんな自分一人の秘め事も、聖母様はご存じなのかしら……。  
そう思うと、顔から火が出るほど恥ずかしい。  
そんなことまで、聖母様にお許しを請わないといけないのかしら。自分でしてたなんて、  
あの人にさえ、恥ずかしくて言えやしないのに。ああ、でもきっと、神様や聖母様は何でも  
お見通しなんだわ。  
ああ、もう、いっそここから消えてしまいたい……!  
 
そのとき、ルクレツィアの修道服の袖がくいっと引かれた。群衆の荷物にでも袖が  
ひっかかったか、それともスリが標的を間違えたか、と思って振り向いた次の瞬間、  
ルクレツィアはその細い腕をぐいっと捕まれ、あっと声を上げる間もなく、尼僧の列から  
引き離された。  
 
――司祭様……!  
 
その腕の先に、人混みに見え隠れする愛しい人の姿を認め、目があった次の瞬間、  
ルクレツィアは自分の意志で駆け出していた。  
二人は、聖堂へと向かう人の波の流れに逆らって、その隙間を縫うように、走る。  
人混みを掻き分け、掻き分け、走る、走る、走る。  
ルクレツィアに同道していた尼僧たちは、押し合いへし合いする群衆に揉まれ、  
隊列も乱れ、彼女が列からはぐれたことには気付いていないようだ。  
 
ひとまず、広場から少し外れた人通りのない裏路地に駆け込むと、司祭は自分が  
身につけていた巡礼のマントで彼女を包んだ。  
「これを着て。その姿では、目立ちすぎる」  
質素なマントで尼僧の衣装をすっぽり覆ってしまうと、二人はまた手を取り合って、  
細く曲がりくねった路地から路地へ、そして町外れへと走り出した。  
 
バタン!と荒々しく玄関の扉が開けられ、息せき切って駆け込んできた司祭と  
その連れに、留守番を言いつけられていた下男は驚きを隠せなかった。  
「あれっ、ずいぶんと早いお戻りで。お祭りは――」  
「すぐに戸締まりをしろ、厳重にな! 誰が来ても、決して通すんじゃないぞ!  
 玄関も開けるな、絶対に、誰も、家の中へ入れるなよ!」  
いつになく乱暴な司祭の物言いに、下男は面食らった。  
「え、あ、あの、いったい何が……、その、お連れのご婦人は――」  
「うるさい、何も聞くな。いいか、とにかく、誰が来ても扉を開けるんじゃないぞ!  
 たとえ修道院長や司教様、いや、教皇様が来ようとも、だ!」  
そう言って司祭は連れと一緒に奥の私室へ行き、部屋の扉を閉め、鍵をかけてしまった。  
 
何の前触れもなく、説明もない司祭の行動に、下男は混乱した。  
とりあえず、言いつけられたとおり、玄関の扉の閂をかけ、錠前を下ろす。  
「他の戸口もだぞ!」との指示が部屋から聞こえたので、慌てて戸口という戸口も  
残らず閉めて鍵をかける。  
一通りの作業を終えると、下男は玄関の扉に内側からもたれ、座り込んでしまった。  
何も知らない善良な下男には、事態がよく呑み込めない。  
「たとえ修道院長や司教様、教皇様が来ようとも」って?  
そんな恐れ多い方々が、これからここにいらっしゃるというのだろうか?  
でも、なぜ、こんな籠城めいたことを?  
一体、司祭様は何をなさったんで?  
疑問がぐるぐると頭の中を駆けめぐる。  
そして下男は司祭の「連れ」のことを考えた。  
あの修道女――巡礼のマントで隠してはいたけれど、あれは若い修道女だ――は、  
何者で、いったいどういう理由でここに来たのだろう?  
それよりも、彼女とはどこかで会ったような気がする。……はて、どこで?  
 
記憶の糸をたぐるうち、アッと思い当たって、下男は愕然とした。  
――この間の、大量の裸婦像の女性だ……!  
あの艶めかしい裸体の描線を思い出し、今また生身のモデルを目の当たりにしたことに  
気付き、下男は顔を赤らめた。が、やがて、彼女――修道女――の裸婦像という事実、  
司祭は今その彼女と奥の部屋で二人きりで居ること、そしてこの籠城態勢を考え合わせ、  
血の気が引いていった。  
「とんでもねえ……、ご主人様、お気は確かか……?」  
 
「はぁ…はぁ…、はぁ……、はぁ……、……ぜぇ、ぜぇ」  
司祭は椅子にだらりと腰掛けて、息を整えていた。  
「はぁ……、いかんな……たったあれだけの、距離を走っただけ、で」  
もう年だな、と自虐の言葉を零しそうになったが、飲み込んだ。  
ルクレツィアこそ、全力で走ったことなどこれまでの生涯に数えるほどだっただろう、  
部屋に駆け込んだときはすっかり息は上がり、頬も真っ赤で、その場に倒れ込みそう  
だったが、今は部屋の隅の寝台に華奢な体をもたせかけ、落ち着いてきたようだ。  
「司祭様、お水をいただいて参りましょうか」  
「いや、いい。大丈夫」  
呼吸を落ち着かせて、やおら立ち上がると、司祭はルクレツィアに向き合った。  
そして寝台に腰掛ける彼女の前に跪き、彼女の手を取り、落ち着いた声で言った。  
「あなたをここまで連れてきておきながら、何をと思うかもしれないが……、冷静に、  
 落ち着いて考えて欲しい。私があなたを『誘拐』したことは、すぐに知れるでしょう。  
 明日にはもう町中の噂になっているでしょう。私は――いや、私達は、糾弾され、  
 修道院はもちろん、教会や町からも追放されるかもしれない」  
「…………」  
「でも、今なら、まだ間に合います。いま修道院に戻れば、あなたは、まだ許され  
 受け入れられるでしょう。今が、引き返す最後の機会――」  
「…………」  
ルクレツィアはじっと司祭を見つめたまま、彫像のように固まった表情でいる。  
 
司祭は、振り絞るような声で、心の底からの思いを吐露した。  
「――でも、許しておくれ、ルクレツィア……私はあなたを行かせたくない。  
 何に代えても、あなたを失いたくない。側にいて欲しい」  
ポタッ、と大粒の涙が、彼女の膝の上に重ねられた司祭の両の手に落ちてきた。  
ルクレツィアが睫毛をしばたたかせる度に、ぱたぱたっと綺麗な涙の粒が落ちる。  
「私も……私、も」  
震える声でそう言いながら、ふるふると頭を振る。  
「……いいえ、だめ、いけません」  
「ルクレツィア」  
「だって、司祭様に、ご迷惑が――」  
「私の側にいるのは、嫌ですか」  
いいえ、いいえ、とルクレツィアは強く首を横に振った。  
「私も、お側に、一緒にいたい……。でも、そうすると、司祭様を苦しめることに――」  
「それは違う。私には、あなたと離れていることの方が、何よりも苦しいのだから」  
彼女に触れることもできない間、いかに自分が苦痛と涙の中にあったか、彼女の  
裸を描いて気を紛らわそうとしたこと、この期に及んで聖母に助けを求めたことなど  
話したら、彼女は笑うだろうか。  
震える彼女の手を、司祭は両手で包み込んで引き寄せ、接吻した。  
「でも、司祭のお仕事をやめさせられたら」  
「元々、望んで就いた聖職ではありません。私には絵があります」  
「この町にいられなくなったら」  
「どこか他の町へ、誰も知る人のいない場所へ行きましょう」  
「教会から……破門されてしまったら」  
「ならば、教会の力など及ばない、異教の国へ行きましょう。どんな辺境の地でも、  
 人の暮らす土地であれば、どんな形であれ、絵の需要はあるでしょう」  
「でも……」  
「見知らぬ国で自由に絵を描いて暮らすのも、悪くない。それに、ひょっとしたら  
 蛮族の王のお抱え絵師になれるかもしれません。二人して異国の衣装を身に纏い、  
 異国の動物の背に揺られ、画題を求めながら一緒に旅をするのです。どうです、  
 なかなか楽しそうじゃありませんか?」  
途方もない夢物語、無茶苦茶を言っているのは、わかっている。それでも、こうした  
夢想は、逃げ場のない憐れな恋人達には十分な慰めになった。   
やっと微笑みを取り戻した彼女の涙を手で拭ってやると、司祭は、彼女の柔らかな唇に  
口づけをした。何週間ぶりの接吻だろう。きっと狂ったように貪るだろうと思って  
いたのに、まるで壊れ物に触れるかのように優しい接吻しかできない。  
「私と一緒にいてくれますか。この先、ずっと、何があろうとも」  
まるで求婚の言葉だ。いや、誰が認めなくても、それと同じ覚悟だ。  
ルクレツィアは穏やかに微笑んで、さらっと言う。  
「私の答えはとうに申し上げたはずですけど……お忘れですの?」  
「え?」  
「最初に申しましたでしょう、私は、私を必要としてくださる、あなたのお側に……って」  
「ああ……」  
「ずっと、あなたの許へ駆けてゆきたかったんです。あの修道院から飛び出して。  
 連れて行って欲しいと、でも、それを伝えるわけにはいかないと、堪えていました」  
司祭は、老尼の監視下で彼女が何かを言いたそうに自分を見つめていたことを思い出した。  
「それを、今日、あなたが救い出してくださった。願いが叶いました」  
「私もだ」  
――この善き祭礼の日に、慈悲深き聖母様に、感謝を!  
心の中で叫びながら、司祭は彼女を抱きしめた。彼女も彼の身体を、細い腕でしっかりと  
抱きしめる。互いの僧衣に染みついた清めの香の匂いが、鼻をくすぐる。  
二人は久しぶりに熱い口づけを交わした。柔らかな唇を丹念に味わい、差し入れた舌で  
前歯を軽くなぞると、互いの舌をねっとりと絡ませ、舐めあう。  
「ん……んん…っ…、はぁ…っ、……ん」  
息継ぎの度に、舌と舌の間に細い唾液の糸が垂れる。いま二人の仲を妨げるものは何もない、  
そう思うと、歯止めが利かない。  
 
ルクレツィアのほうから、司祭の首に回した両腕に力を入れて彼の身体を引き寄せると、  
二人はもつれ合うようにして寝台に倒れ込んだ。  
彼女の服を脱がそうと手を掛けたところで、司祭はハッと我に返った。  
「ちょっと待った、外には下男が――」  
「あら、今更そんなことをおっしゃるなんて」  
「……そう言えば、そうか」  
二人して悪戯っ子のように笑う。  
彼は彼女の修道服を脱がせると、自分も僧衣を脱いだ。  
まだ日は高い。昼なのに閉めきった扉の隙間から漏れ来る光に照らされた彼女の肌は、  
今までになく眩しい。修道院の食堂の石の床とは違って、硬い寝床ではあるけれど  
石よりは遥かに柔らかく、彼女の裸体は敷布の海に軽く沈み込む。添い寝のように横から  
彼女の淡い桃色の柔肌に指を這わせながら、司祭はボソッと呟いた。  
「今日、一番の災難は、うちの下男かもしれんな」  
「え?」  
「いや、何でもない」  
「何でもないって……あ…っ、ぁん」  
乳房を揉まれ、敏感な乳首をくりくりと刺激されて、思わず声が出てしまう。  
安普請の家の薄い壁越しに、こんな艶めかしく甘ったるい喘ぎ声を聞かされたら、  
たまったものではないだろう。  
彼は耳を塞いでいるだろうか、それとも壁に耳をひっつけて盗み聞きしているだろうか。  
扉の外の反応を想像すると、余計に興奮する。  
「もう、我慢しなくてもいいんですよ……もっと、声を出しても」  
そう言いながら、彼女のもっと敏感な部分に、指を伸ばす。  
「や…っ、だって…外に、聞こえ、て……ぁん…っ、はぁ…っ、あ、あぁんっ」  
「可愛い声……もっと、聞かせて」  
「も、あ…っ、司祭さま、の、んっ、いじわる…っ…んぁあっ、ああっ!」  
彼女の身体が快感に軽く跳ねる度に、寝台がきしきしと小さな音を立てる。  
男が身を起こして彼女に覆い被さるように跨ると、ギシ、ギシッと大きく軋んだ。  
普段の起き伏しでは大して気にならなかった軋みが、今日は嫌に耳に付く。  
――これじゃあ、この後は、どんな派手な音がするんだか。  
本当に気の毒なことだ、と苦笑混じりに呟いたが、彼女の美しい両脚に手を伸ばすと、  
その後はきれいさっぱり、扉の向こうのことなんぞは頭の中から追い出してしまった。  
否、そのときの二人は、扉の外の世界を全て、頭の中から消し去っていた。  
そして、飢えるほどに求め合った愛情を与えあい、悦楽の激しいうねりに身を委ね、  
情欲の海をたゆたい、その水底に沈んだまま、長いこと帰ってこようとはしなかった。  
二人が怖れたのは、外界との境界である、扉を叩く者の存在だけだった。  
今は来なくても、いつかは、来てしまう。  
その怖れに立ち向かう勇気を分け合うかのように、二人は幾度も幾度も抱き合った。  
 
この先何が待ちかまえていようとも、もう、覚悟は出来ているのだ。  
 
「これは、領主様。直々のお越しとは……」  
年老いた領主の急な訪問を、画家は驚きの面持ちで出迎えた。  
「ああ、構わずともよい。例の絵が完成したと聞いて、居ても立ってもおられなくてな。  
 さ、早う見せておくれ」  
「それでは、どうぞ、こちらへ」  
画家はこの高貴な顧客を奥のアトリエへと案内した。この地の領主である公爵は、昔から  
彼の最大の理解者であり、支援者である。芸術を愛する老公爵は、有能な芸術家への援助を  
惜しまない人物だった。  
アトリエの中央に立てられた画架に掛かる布を画家が恭しく取り外すと、一枚の絵が現れた。  
「ほう……」  
老公爵は目を見開き、感嘆の声を上げた。  
天使たちに囲まれ抱き上げられる幼き救い主と、その幼子に向き合う、若々しい聖母の姿。  
その背後には、窓越しにこの地方の美しい野山が描かれている。主題は伝統に則っているが、  
その描き方は今までになく優美で瑞々しい。  
「そなたがこれまでに描いたどの聖母にも増して、慈愛と温かみに溢れ、洗練された美しさに  
 満ちておる。モデルは、そなたの妻か」  
「……左様でございます」  
「さすれば、この救い主のモデルは、そなたの息子だな。いや、実に生き生きと描かれて  
 おる……そう、このくりくりとした目もと、ぷっくりとした頬、何とも言えない開き具合の  
 口もと、母御に甘えて差し出す腕。幼子とはかくあるものよ、のう」  
「恐れ入ります」  
老公爵は、その厳めしい顔を緩めて満足そうに頷くと、感慨深げに言った。  
「そなたがこの聖母子像を描けたのは、神の御計らいとしか思えぬな。そなたがあの女子  
 修道院で彼女と出会ったのも、そして彼女をそこから盗み出したのも、すべて神の思し召し  
 だったのやもしれぬ」  
そして画家を見て言った。  
「それにしても、そなたも世俗の服装がすっかり板に付いたものよ」  
「……恐れ入ります」  
 
あの祭礼の人混みに紛れて司祭がルクレツィアを自宅へ連れ帰った「事件」は、まるでもう  
遠い昔のことのようだ。  
二人の駆け落ちは程なくして人々の知るところとなり、当然のように二人は糾弾された。  
修道院長はルクレツィアに修道院に戻るよう幾度も説得を試み、それが功を奏しないと知ると、  
司祭を「誘拐」と「風紀を乱した罪」で告発した。  
なまじ司祭が売れっ子の画家として有名だったことと、聖なる祭礼の日に修道女を盗み出したこと、  
さらにはこの事件に影響されて修道院から逃亡する尼僧が続いたこともあり、教会上層部は激怒、  
一時は二人とも破門かという騒ぎになった。  
司祭と親しい友人達や絵の弟子達も減刑嘆願に奔走してくれたが、誰よりも二人の力になって  
くれたのは、この領主だった。司祭の画家としての才能を誰よりも高く評価していた老公爵は、  
破門によってお気に入りの画家を失ってしまうことを何よりも惜しんだのだ。  
当代きっての富豪にして有力者である老公爵は、教皇とも親しく、その取りなしによって  
二人は教皇から特別に還俗を許され、晴れて結婚することまでできたのだった。  
 
「領主様がいらっしゃらなければ、今の私はございません。この聖母子像を描けたのも、  
 すべて、あなた様のおかげです。あなた様こそ、私の救い主です」  
「わしは神でも聖人でもないよ。その感謝の言葉は、聖母様に捧げなさい。以前からの、  
 そなたが描いた聖母像の見事な出来映えがなければ、わしとて、そなたを庇う気には  
 ならなかったろうからな」  
「……は」  
 
 
家の奥の方から、赤子の元気な泣き声が響く。昼寝から目が覚めて、母親の姿を求めている  
のだろう。すぐに「あらあら」と若い女性の声がして、パタパタと忙しそうに立ち回る  
衣擦れの音が聞こえる。  
画家は穏やかな微笑で、そちらの方に視線をやった。  
老公爵は、そんなありふれた家庭の音に耳をやり、画家の表情に目をやり、そして静かに  
言葉を掛けた。  
「そなたの妻も子も、息災そうで何よりじゃ」  
「おかげさまで……」  
「幸せか」  
「はい」  
「妻と子も、幸せか」  
「……そう信じております」  
「そうか、それならば、よい。それでよい」  
老公爵は満足げに「それでよい」と繰り返した。  
「さて、わしはもうそろそろ戻らねばならぬ。絵はあとで館まで届けに来るがよい。  
 そうじゃな、この見事な出来映えの褒美として、約束の報酬に、いくらか色を付けておこう」  
「ありがたきお言葉にございます」  
気前の良い老公爵は、画家の新作がいたくお気に召したようだ。  
この聖母子像は彼の愛蔵品となり、領主の館の礼拝堂を飾り、そして画家の名声はまた一段と  
高まることだろう。絵筆を持てる限り、画家はその全身全霊をもって、理想とする聖母の姿を  
描き続け、そしてその素晴らしい作品は長く後世まで伝えられることだろう。  
 
見送りに出た画家は、領主の姿が見えなくなったのを確認すると、踵を返し、妻の名を  
呼びながら、子供の声がする奥の部屋へと足早に歩いていった。  
「ルクレツィア、喜んでおくれ、いま、領主様が――」  
 
柔らかな日差しの差し込むアトリエ。  
その静けさに取り残された絵の中で、聖母が穏やかに微笑んでいた。  
 
−終−  
 
 

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