制作中の祭壇画を前に、老司祭は満足げに言った。  
「素晴らしい出来映えですな。この聖母のなんと美しく、生きているごとき御姿!  
 この祭壇画は、完成の暁には、間違いなく貴僧の代表作となるでしょう」  
しかし、壁に向かって絵筆を走らせていた壮年の男は、やや不満そうに答えた。  
「いいえ、まだまだです。まだ、私の理想にはほど遠い……」  
老司祭はそれに気付かないのか、上機嫌でおべっかを続けた。  
「何を仰います、そうそう、聖マルゲリータ女子修道院の院長が  
 ぜひ貴僧を修道院礼拝堂付きの司祭にお招きしたいと申しておりましたぞ」  
「聖マルゲリータ修道院? あの、隣町にある大きな女子修道院ですか」  
修道院礼拝堂付きの司祭。一介の平修道士である彼にとっては、名誉な話である。  
断る理由はなかった。  
これが後々、彼の運命を大きく変えることになろうとはつゆ知らず――。  
 
男は、僧であり、画家である。  
むしろ、画家のついでに神父をやっていると言った方が良いかも知れない。  
彼は幼くして孤児となった。この時代、孤児となった者は、そのままのたれ死ぬか、  
修道院に入ってそのまま神に仕える身となるか、それくらいしか選択肢がない。  
自らの意志ではなく半ば強制的に修道士とならざるを得なかった彼は、青年時代は神に反抗してばかりだった。  
破戒僧と言っても過言ではない。娼館通いに暴力沙汰、時には詐欺紛いのことまで行い、周囲を悩ませた。  
何度か放逐されかけた彼を救ったのが、その絵の才能だった。  
 
子供時代から、絵だけが彼の心の支えだった。修道院長が彼の才能に気付き、画僧になることを勧めた。  
彼にとっては天職だったが、それでもその心は常に満たされずにいた。素行の悪さも相変わらずだった。  
――私が本当に描きたいものは、こんなものではない。  
そんなある日、ある町の教会で見かけた祭壇画の前で、彼は衝撃を受けた。  
まるで生きているような……否、まさに「目の前に」聖母の姿が現れるのを見たのだ。  
それは祭壇画の錯覚だったのか、幻影だったのか、しかし彼はそれを聖母その人と信じた。  
あの慈悲の眼差し、絹のような髪、今にも語りかけようとする口元、包み込むような温かさ……。  
「この聖母様を、私が見たそのまま描き出すことこそ、私に科せられた使命なのかもしれない」  
そう信じた彼は、それまでの生活を一転改め、身を慎み、清貧のうちに理想の聖母像を追い求めた。  
依頼に従って各地を渡り歩き、いくつもの聖堂や修道院の祭壇画を描き続けるうちに、  
硬直した伝統的な表現とは異なる、まるで生きているような、官能的ですらある聖母像は評判となり、  
彼の画家としての名声は揺るぎないものとなっていった。  
 
そんなときに舞い込んできたのが、聖マルゲリータ女子修道院の礼拝堂付き司祭の職だったのだ。  
 
聖マルゲリータは女子修道院で、神父といえども、修道院内で生活することはできない。  
修道院の礼拝堂付き司祭となった男は、さっそく町外れに小さな家を買い、  
そこからミサや説教の度に修道院へ通うことにした。  
就任の日、修道院の玄関で、老尼僧が慇懃に彼を出迎えた。ここの院長だ。  
礼拝堂へと続く回廊を歩きながら、老院長は院内の説明などをしてくれた。  
「――でしてね、司祭様、司祭様のご高名はかねがね伝え聞いておりましてね。  
 それでですね、せっかくの御縁ですから、ぜひ、我が修道院にも祭壇画を……。  
 ただ、申し上げにくいのですが、この修道院も決して裕福とは言い難く――」  
決して質素には見えない院長の修道服の衣擦れの音を聞きながら、男は内心苦笑した。  
――なるほど、そういうことか。  
自分をここの司祭に招いたのは、「高名な画僧」に格安で祭壇画を描いて貰おうという魂胆か。  
ホイホイと引き受けるのも癪だ。司祭は「そうですか、それは大変ですね」などと、  
ケチな老尼僧の言葉を適当に受け流しながら、礼拝堂へと向かった。  
 
礼拝堂には、数十名の修道女達が新しい司祭の到着を待っていた。  
静かに佇む彼女たちの間にも、新司祭への好奇心がさざめいているのが見て取れる。  
そのほとんどはかなり年老いた尼僧で、男と同世代と思われる年増の尼僧が数名、  
あとは年端もいかない見習い修道女が数名程度。  
――まあ、こんなものか。  
何を期待していたわけでもないが、こうもしなびた雰囲気だと、絵のインスピレーションも湧いてこない。  
やれやれ、それでも祭壇画は引き受けざるを得ないのだろうか、などと考えながらミサを執り行う。  
ミサの最後、聖体拝領のために修道女達は一列に並ぶ。そこで初めて、司祭は修道女一人一人の顔を正面から見た。  
深い年輪を刻んだ顔、穏やかに垂れた顔、歯がいくつか抜けた顔、白髪がヴェールから覗く顔、……  
そんな中、ある修道女の番になった。年の頃は十八、九といった、うら若い見習い修道女。  
司祭の視線は彼女に釘付けになった。  
――てっきり老婆と幼女だけかと思っていたのに。  
若いだけでなく、彼女は美しかった。  
慎ましくきっちりと被った修道女のヴェール、その端からはチラリと絹のような金髪が見えている。  
その瞳は聖母の衣のように青く、肌は大理石のように白く滑らかで、  
唇は淡い薔薇の花びらのように血の色を通わせている。  
司祭は、雷に打たれたような衝撃を感じた。  
若い美女を見るのは初めてではない、悪童時代には娼婦を抱いたことさえあるのだ。  
しかし、それは彼にとって初めての感覚だった。  
――彼女だ! この女性だ!  
 
翌朝、彼は院長に提案した。  
「昨日お申し出のあった祭壇画の件ですが、これも御縁ですから、特別に無報酬でお引き受けしましょう。  
 ただし、条件があります。昨日のミサに出ていた、若い見習修道女、年は十八か九か……」  
「ああ、ルクレツィアですか?」  
「ルクレツィアと言うのですか、(良い名前だ)、そう、そのルクレツィアをモデルにさせてください。  
 彼女なら、年の頃と言い、見た目と言い、聖母様のモデルにぴったりです」  
院長は「無報酬で」との言葉に顔をほころばせて、二つ返事で承諾した。  
 
ルクレツィアをモデルにしたデッサンは、修道院の食堂をアトリエ代わりにして行うことになった。  
他の場所でのデッサンも考えたが、興味津々の修道女達が通りすがりに覗き見していくので、落ち着かないのだ。  
これでは集中できない、祭壇画を描くことは出来ない、と怒ると、慌てた院長が「それは困ります」と、  
絵を描いている間の人払いを約束し、食堂の提供を申し出てくれた。  
窓がないので覗かれる心配はないし、食事時以外は誰も立ち入らず、いざとなれば扉に鍵も掛けられる。  
これなら誰にも邪魔されず、画業に集中できる。  
画家とモデルを見つめているのは、食堂に壁に描かれた「最後の晩餐」のキリストと弟子達だけだ。  
「司祭様、それで私は、どこに、どうしていれば、よろしいのでしょうか?」  
おずおずと尋ねるルクレツィアの声は、小鳥のさえずりか鈴の音のように耳に心地よい。  
「そこに椅子があるから、腰掛けなさい。布が掛けてあるから、そのまま、その上に。  
 体は真正面じゃなく、少しこちらに、……そう、顔はこっちを向いて。両手は自然に膝の上に」  
「私……絵のモデルなんて、初めてで。司祭様のお役に立てると、良いのですが」  
遠慮がちに慎ましくはにかむ彼女の、なんと愛らしいことか!  
彼女こそ、我が理想とする聖母像のモデルに相応しい!  
あの雷のような衝撃は、理想のモデルを差し示す天啓だったのだろうと、そう理解しようとした。  
しかし、何かが足りない。  
「うーん……ルクレツィア、そのヴェールを取ってもらえますか?」  
「え? このヴェールを、ですか?」  
修道女は、その頭を覆うヴェールを人前で外すことなど、普通はあり得ないのだ。  
「聖母様は修道女ではありませんからね。私が描きたいのは、聖女である以前に、我々が理想とする、  
 若い母親たる女性です。世の若い母親は、修道女のヴェールは被っていませんよ」  
優しくそう言って、司祭は見習い修道女のヴェールに手を掛けた。  
留めピンが外れ、ヴェールがほどけると、その下から、きっちりと結われた美しい黄金色の髪が現れた。  
彼は思わず溜息をついた。  
「あの、司祭様……? 私に、何か問題でも……?」  
「い、いや、何でもありません。その、あなたが、あまりにも――」  
それ以上は言葉を飲み込んだ。その髪に、そして後れ毛が掛かるそのうなじに、思わず触れてみたくなる。  
こんな衝動は、もう何年も忘れていた。  
――やばい。  
そう直感した。かといって、彼女を遠ざけることはできない、いや、したくない。  
「……デッサンを、始めましょう」  
 
デッサンを始めて、何日かが経過した。  
画僧は、何枚も何枚も何枚も、モデルの姿を描いた。  
納得がいくものができるまでは妥協しない、しかしそれは口実だったかもしれない。  
デッサンの合間に、司祭と修道女は、お互いの身の上を語り合い、  
時には声を立てて笑い合うほどに親しくなった。  
彼女と一緒にいる時間の、なんと幸せなことか!  
彼女もまた、彼と一緒に過ごす時間が、この修道院で唯一の幸せな時間だと言った。  
二人だけの密やかな幸福の時間は、修道院の閉鎖された空間で、濃密に重ねられていった。  
 
ルクレツィアはまだ見習いだったが、やがて正式に修道女になることが決まっていた。  
「来年、二十歳になったら、あなたは終身誓願を立てるのですよね。  
 そのときには私が司式することになるでしょう。荘厳かつ盛大な式にいたしましょう」  
一生を神に捧げる修道女は神の花嫁となり、その誓願式は神との結婚式として盛大に行われる。  
それを聞いたルクレツィアの表情が曇った。  
「そんな……恐れ多い」  
そして、ためらいがちにポツリと言った。  
「だって、私は、自分の意志でこの修道院に来たわけではありませんもの」  
彼女もまた、彼と同じく、孤児の身の上だった。彼女の幼い頃に両親は亡くなり、  
遺産らしい遺産も持たない彼女は親戚中に厄介者扱いされた挙げ句、この修道院に放り込まれたのだ。  
当世の習慣として、修道院には、行儀見習いのために預けられた娘達が何人かいた。  
たいていは貴族や裕福な商人の娘で、適齢期になれば修道院を出て、持参金とともに嫁いでゆく。  
しかし身寄りのない彼女は、このまま修道院で神に仕える一生を選ぶしかないのだ。  
彼女もまた、若い頃の彼と同じ境遇だった。  
「……それもまた、神の思し召しだったのでしょう。あなたは神に招かれたのですよ」  
白々しい決まり文句に、我ながら空しさを覚える。  
「そうでしょうか? 司祭様」  
そうです、あなたは招かれたのですよ、そう答えながら、彼の心は裏腹だった。  
この美しい娘を花嫁にできる神に、嫉妬さえ感じる。  
「司祭様、……こんなことを言うのは、きっと罰当たりなのでしょうけれど、  
 私、神様に招かれているということを少しも実感できませんの。  
 ……いいえ、私は、誰にも、必要とされてきませんでした」  
そしてルクレツィアは、伏し目がちだった顔を上げ、司祭を見つめて言った。  
「いま、私を必要としてくださるのは、司祭様だけです」  
薄幸の娘の切なる言葉と、その美しい碧の瞳が、彼の神父としての自制心を打ち砕いた。  
 
彼は愛しい娘を抱きしめると、健気な言葉を紡ぎ出した桜色の唇に口づけた。  
「あ…っ」  
小さく驚きと困惑の声を上げる、その吐息も愛おしく、彼は再びその瑞々しい唇を奪った。  
とろけるように柔らかい、悦楽の味。  
「ん……んんっ……んっ」  
恐らくは初めての口づけに、息苦しさを訴える彼女の姿に、やっと我に返った。  
「すまない……」  
謝りつつも、彼女を抱きしめる腕はそのままだ。  
彼女はただ耳まで顔を赤くして、それでも抵抗することもなく、ただ彼の腕に身を任せたままでいる。  
「愛している、ルクレツィア、愛している。私にはあなたが必要だ。  
 ……だが、私はあなたの側にいるべきではない。私はあなたが思うような立派な人物ではないのです。  
 あなたは天国へ行くべき人だが、私には天国の門は開かれないでしょう」  
「なぜ、そんなことをおっしゃいますの? あんなに素晴らしい、神の国を描かれるお方ですのに」  
男は自嘲気味に苦笑した。  
「あなたは知らないでしょうが、これでも、若い頃はいろいろ悪さをしたのですよ。  
 悔い改めようと空しい努力はしてみたが……ははっ、今も、このざまだ!  
 私の行く先は、地獄か、良くて煉獄で救いを待ち続けるしかなさそうだ……」  
「……ならば、私も、お伴します」  
そう言ってギュッとしがみつく彼女に、彼は一瞬耳を疑った。  
「何を……、言っている意味が、わかっているのですか」  
「あなたがいらっしゃらない天国なんて、行く意味がありません。  
 あなたが地獄へ行かれるというのでしたら、私も参ります。  
 私は、私を必要としてくださる、あなたのお側に」  
その潤んだ瞳、ほのかに紅潮した頬、そして、おずおずと彼の首に回された華奢な腕、  
彼女からのぎこちない口づけ、……その柔らかな金色の髪が、無骨な頬に触れた瞬間、  
男の最後の理性は吹き飛んだ。  
 
後はどうすればよいのか、どうするしかないのか、彼は既に知っていた。  
 
デッサン用紙が床に落ち、絵筆が一斉に散らばる音がしたが、どうでもいい。  
彼女の体が床に倒れ込むと一緒に、先ほどまで彼女が腰掛けていた椅子に掛けていた布が  
するりと引き寄せられ、男の体を覆ったが、それを振り払うのももどかしい。  
狂おしいまでに彼女の唇をむさぼり、容易には脱がせられない修道服の上から胸を愛撫する。  
「あ…あ…っ、し、司祭さ、ま…」  
恥じらいを含んだ甘ったるい声。必死で声を上げまいとするその様子が愛おしい。  
久しく忘れていた衝動に体を熱くさせながら、この無垢な乙女を神から奪い取って  
地獄への道連れにするのだという背徳感が、かえって、優越感にも似た陶酔感となって彼を後押しした。  
彼女の粗末な修道服の裾をたくし上げ、その柔らかな太股に指を這わせる。  
滑らかな肌の弾力を楽しみつつ、その指先は、まだ誰にも開かれたことのない花園の茂みへと向かう。  
「や…っ、あっ、そ、そんなとこ、ろ……や、やぁんっ!」  
男の無骨な指先が花園の芯に到達したとき、一瞬、彼女は身を固くして両足を閉じた。  
が、間もなく抵抗を緩め、恋人の愛撫をぎこちなく受け入れた。花園は徐々に蜜で潤い、茂みに露が降りる。  
「ルクレツィア……!」  
ゆっくりと、男は、自身を花園の奥深いところへと沈めていった。  
「……っ!!」  
彼女が声にならない悲鳴を上げる。痛みを堪える彼女のこわばりを感じながら、  
彼は押し寄せる快楽のうねりと地獄の業火の熱さに身を投じていた。  
もう、何も、考えられない。  
この先、どうなるかなんて、どうでもいい。  
ただ、いま、自分の腕の中にいる女、愛しいルクレツィア――彼女さえ、いればいい。それだけで、いい。  
 
 

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