全国を飛び回る仕事で殆ど家に帰ることがない父に代わって僕たち二人の子をほぼ一人で育ててきた母。どんなに仕事が遅くなっても  
小学生だった僕と中学生の姉の世話だけは欠かさなかった。  
本当に僕たちによくしてくれた。特に末っ子の僕を溺愛し、僕も母の愛に浸っていた。要はマザコンだ。  
それ故に小学生の僕にとって母の病気は衝撃だった。悪さをすると怖くて煩かったけど、いつも優しかったあの母が、  
病室の真っ白なベッドに横たわり、青白いやつれた顔と掠れた声で僕に話しかけた時僕はその場に泣き崩れてしまった。  
僕を支えていた母の大きな存在が消えかかるろうそくの炎のように薄弱化した。  
だが僕にはどうすることもできなかった。ただ、母に泣きつくしかなかった。  
病院から帰宅しても、僕は心配で何も手につかなかった。  
しかし小学校だけは、母が普段通りの生活を続けろときつく僕に言い聞かせていたのと  
小学校の近くにある中学校へ通う姉が無理やり手を引っ張って連れていったお蔭で休むことはなかったが、  
宿題や遊びは全く手につかず、家にいる間はひたすらテレビを眺めてただ無意味に時間を過ごした。  
しかし姉は違った。姉は何かに目覚めたように母の代わりにバリバリ家事をこなすようになった。  
ある休日、姉はリビングの掃除をしていた。  
「そこ退いてよ。掃除機かけるから」僕は無視した。  
「どけっつってんの」姉は掃除機の先端で僕を突いた。  
僕は重い体を動かし、仕方なくダイニングの椅子の上に移動した。  
「あんたさ、せっかくの休日なんだからたまには外で運動してきたら?  
せっかく母さんが退院してきても、引きこもって青白くなったあんたを見たらうれしくないと思うよ?」  
「母さんなんてもう助からないよ…」僕はうわごとのように言った。  
「なに言ってんの。大丈夫だって。」姉は明らかな作り笑顔で答えた。  
「大丈夫じゃないよ…」医者はたまにやってくる父にしか病状を詳しく説明しなかったが、母が日に日に衰弱していってるのは  
毎日見舞いに行ってる僕らの目にも明らかだった。  
「お医者さんは大丈夫だって言ってたじゃん」  
姉は掃除を続けながら言った。  
「姉ちゃんそんな戯言信じてるの?」僕は鼻で笑った。  
すると突然、姉は掃除機を手から放した。ゴトンと床の上に落ちて小さな傷が入った。  
そして姉はずかずかと僕の目の前に歩いてきた。僕は姉を見上げた。  
「あんた、そんな気持ちで毎日お母さんのお見舞いに行ってんの?」  
「えっ?」僕は姉の言いたい事をすぐに悟った。  
「ご、ごめん…」急に涙が溢れてきた。信じなければならない。僕たちが弱気になってどうする。わかってはいるのだが。  
「ごめん。ごめんなさい。でも、でも…」一度流れた涙は止まらなかった。姉は僕の頭を抱いた。  
「大丈夫。お母さんが負けるもんか」姉は僕の頭を撫でた。  
 
数週間後  
突然小学校の校内放送で呼び出しを食らった。  
もしかして、先日友達と掃除をサボって廊下の陰で時間をつぶしていたのがバレたのだろうか。  
そんな事を考えながら僕は職員室へ向かった。  
「あのね、浩君、お母さんの容体が急変したみたいなの。今、中学校からお姉さんが来るから、早退して一緒に病院に行きなさい」  
担任は深刻そうな言い方で僕に言った。  
ついにこの時が来た。僕は溢れそうな涙を必死に堪えて教室に向かい、急いで荷物をまとめた。  
「どうしたんだよ浩、帰るのか?」友人は僕にそう尋ねた。でも僕は流れてきた涙を必死に隠すため彼を無視し、廊下に飛び出した。  
昇降口にいくと、担任が待っていた。そして担任に誘導されるまま僕は職員駐車場へ走った。  
するとすぐにシルバーの軽自動車が入ってきた。そして、ウインドウが開き、運転席に座る中年女性が僕に叫んだ。  
「後ろに乗りなさい!」担任は僕の背中を押した。  
僕は急いでその車に飛び乗った。助手席には姉が座っていた。姉は無言でうつむいていた。  
担任は窓から軽自動車の女性に「よろしくお願いします」といい、それと同時に車は発進した。  
担任は見えなくなるまで僕の乗った車を見送っていた。  
「浩君、あのね、お母さんの容体が急変してね―」女性は説明してくれたが、僕の頭にはその内容がほとんど頭に入ってこなかった。  
とにかく母の容体が急激に悪くなったんだということだけはわかっていた。手をギュッと握る。どうか、無事でいてほしい。  
女性が説明している途中、急に姉が喉の奥から悲鳴のような声を上げて泣き出した。  
僕もそれにつられて泣くのを我慢できなかった。運転する女性は説明するのをあきらめ、車を急がせた。  
僕達は、以前入っていた病室とは違う、ナースルームのすぐ隣の病室に案内された。  
そこは妙に静かで、他とは少し違う雰囲気が漂っていた。ベッドには今までとなんら変わらぬ姿のやつれた母が眠っていた。その傍には父が立っていた。  
姉は父に母の容体を訪ねた。父曰く、なんとか峠は越えたが、容体はよくはないそうだった。  
すぐに医者が説明に来るそうだ。父も今病院に駆け付けた直後のようだった。  
僕たちを送り届けてくれた中年女性は、姉の中学校の教諭だった。姉と父が礼を言うとすぐに帰ってしまった。  
しばらくして、白衣を着た50代と見られる医者が、僕たちが入ってきた入口とは別の入口から病室に入ってきた。  
その入口はナースルームと直につながっているようだった。  
医者は父に説明をはじめた。僕が聞いてもチンプンカンプンだったので、その間は静かに息をするやつれた母の手を握っていた。  
説明を受けたあと、父は母の隣においてあった椅子に座り、静かに母の手を握った。そして俯いた。  
ナースルームから看護師に呼ばれた医者は、一旦はその呼び出しを断ったが、しかしすぐに病室から出て行ってしまった。  
突然姉は僕の手を引いて病室から引っ張り出した。  
「な、なにすんだよ」僕はヒクヒクと喉を鳴らしながら言った。もう常に泣いている状態だった。  
「こっち来な。ジュース買ってあげる」何気ない誘いだったが、そこには有無を言わさぬ気迫を感じ、僕は姉につよく腕を握られたまま  
廊下の自販機の方へ連れられた。  
僕達は缶ジュースを一本ずつもち、一言も話さず、鼻を啜りながら廊下のベンチに座っていた。  
数十分が経ってから、戻ろうかと姉が言ったので僕たちは戻った。  
父は病室の同じ場所に座ってうつむいていた。  
「有紀。ありがとう」冷静に姉に礼を言った父の目は真っ赤になっていた。  
この日は父は病院に泊まった。何か変化があればすぐに向かいに来てと約束をし、僕たち二人は父によって帰宅させられた。  
 
それから数日が経った。母の容体は良くはならないが悪くもならないといった感じだった。  
しかし、完治する希望は極めて薄くなってしまった事は明白だった。  
夜、僕はまるで発作のように瞼から涙があふれ出てくる事が何度もあった。  
母がこの世から完全に消え去ってしまう事を何の前触れもなく突然想像してしまい、耐えられなくなるのだ。  
「母さん…やだよ…死なないでよ…」僕は枕を抱きしめた。  
「何?また泣いてんの?」隣に寝ていた姉が眠そうに首を上げ、僕の顔を覗き込んだ。  
姉は夜中すすり泣く僕を心配して、僕の部屋で一緒に寝るようになったのだ。  
「姉ちゃん、もし、もしも母さんがあのまま助からなかったら…」  
僕は姉の胸に縋るように言った。  
「大丈夫。」姉はそう言い、ぎゅっと僕の頭を抱きそっと撫でた。  
これは一体何度目のセリフだろうか。姉がそう言っても言っても僕は姉に何度も、母が死んだらどうしようと訴えた。  
その度、姉は嫌な顔ひとつせず、大丈夫だよと僕に言い聞かせた。そんなの、ただの気休めだということくらい僕にもわかっていた。  
僕は姉の体を抱きしめた。目を閉じ、彼女の体に密着した。  
「大丈夫。お母さんはきっと帰ってくる。私たちが信じてあげなきゃ」あくまでポジティブな姉は優しい声で僕に言った。僕は鼻をすすり、うんとうなずいた。  
姉の甘いにおいが僕を包み込んだ。目を開けると、姉の腕につぶされた胸のふくらみがシャツの首元から見えた。僕はそこに顔をうずめた。  
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」僕は姉の胸元に顔をこすりつけた。涙でそこが濡れた。すると姉は僕を抱いていた腕に力を籠め、足を絡めてきた。  
僕はしばらく姉の腕の中で泣いた。そして姉がそっと僕の手を握った。  
僕はその手をぎゅっと握りなおした。姉の暖かさに直に触れ、少し安心し、僕はそのまま眠りにつくことができた。  
数日後、僕たちの願いはついに届かず母は完全に昏睡状態になった。もはや目覚める事はないし、臓器が弱っていくのを待つだけのような状況だった。  
頬がげっそり凹み、口は半開きになっていた。看護師が口の中の濡れたガーゼを交換した時、中を覗くと口内は乾燥してひび割れ少し出血していた。  
腹に穴が開けられていた。穴は胃に繋がっているので看護師が患部のケアのためにパイプを抜くと刺激臭がした。  
そこから流動食を胃袋の中に流し込むようになっていた。人工呼吸器もつけられ、機械に囲まれた母はもはや死んだように見えた。  
僕と姉は学校にすら行ける精神状況ではなくなり、毎日母の様子を見に、二人で病院に通った。  
しかしその努力の甲斐もむなしく、とうとう医者の口から直接、もう母の命は長くない事を告げられ、  
また父は、次心臓が止まったらもう蘇生処置は行われない事を僕たちに説明した。もはや、蘇生し、心臓が動き出したとしても良くなる見込みは全くないのだ。  
僕たちはある程度覚悟はしていたとはいえ、こうして直接告げられると耐えきれぬショックが襲った。  
僕と姉はわんわん母のベッドの傍で泣いた。隣にも患者は居たが、先日まで頭に包帯がぐるぐる巻きになった殆ど意識がない患者だった。  
しかしその患者はすぐにいなくなり(死亡し)また別の意識不明患者がこの病室に入っていた。要は、この病室は死の近い患者専用の病室なのだ。  
だからナースルームと直通になっているのだった。  
 
帰宅後、僕は放心状態で床に座っていた。  
「お風呂には入りなさい」姉は僕に指示した。  
僕はそれを無視した。  
「来な」  
姉は僕の手を引っ張り上げ、脱衣場まで向かわせようとした。  
「やめろよ」僕はその手を振り払った。  
「浩!」姉は僕に怒鳴った。そして僕を睨み付けた。  
「俺に命令するな。何様だよお前…」  
そう言った途端、姉は僕の頬を思いっきり殴った。  
一気に頭に血が上った僕は近くにあったテレビのリモコンを持ち姉を殴ろうとした。  
すると姉は両腕で頭を覆った。一瞬我に戻った僕は腕を止めた。姉は僕の暴力におびえていた。  
僕はリモコンを壁に投げつけ、ゴミ箱を蹴とばし家の外へ飛び出した。  
「待ちなさい!!!」姉は絶叫した。  
しかし僕は振り切り全力で走った。行くあてなんてない。  
僕はこの状況を受け止めることができなかった。あんな家にいると常に母の事を考えてしまう。  
とにかく走って、この生き地獄のような状況を少しでも紛らせ、現実から目を背けたかった。  
外はオレンジ色の夕日が街を照らしていた。僕たちはこんなに悲惨な状況に陥っているにも関わらず、  
人々は普段となんら変わらぬ生活をしていた。僕はそれに対し無性に腹が立った。なぜ僕たちだけがこんな目に?なぜ、あのコンビニに入った親子は普通の生活を送れて、  
なぜ僕にはそれが叶わないのか。母が一体何をした?僕が一体何をした?なぜうちだけ?なぜ?  
僕はコンビニのゴミ箱を蹴とばした。すると、その蹴ったゴミ箱は転がり、隣にしゃがんでいた中学生に直撃した。  
ブチ切れた中学生に僕は胸座を掴まれた。  
なんだろう。全く怖くない。母の死という恐怖と比べればこれから繰り広げられるであろう暴力なんて屁でもなかった。  
僕は冷静にその中学生の顔を眺めていた。彼のような馬鹿でも、帰れば元気な母がいるのだろうか。幸せな家庭がそこにあるのだろうか。  
そう思うと体が痺れるほどの異常な怒りがこみ上げ、僕は唾を彼の顔面に吐きかけた。  
そしてあいてる右手で彼の顔面を殴りつけた。すると怒り狂った彼は僕を突き飛ばし、倒れた僕の腹を思い切り蹴とばした。  
尋常ではない痛みが腹を走ったが、すぐに攻撃が止んだ。周りにいた大人が彼を取り押さえたのだ。しかし彼はバカみたいに僕に対して何か叫んでいる。  
僕はよろよろと立ちあがり、コンビニから去ろうとした。  
すると、姉がやってきた。僕は駆け足で逃げようとした。  
「浩!!!!待ちなさい浩!!!!!!」姉は叫んだ。怒鳴る男子中学生の声を掻き消すほどの異常な気迫にその場にいた人々の視線が一気に姉に注がれた。  
さすがの僕も思わず歩を止めてしまった。  
「どこに行くの!!!」姉はそれを気にも留めず叫び続けた。  
「うるせぇよお前に関係ねぇだろ!!!」僕も姉に負けないくらいの声を出した。生まれてこのかた、これ程力いっぱい叫んだことはなかった。  
喉が痺れ、粘膜が擦れるような感じがした。  
僕はまだズキズキと痛む腹を抱えながら走り出そうとした。すると姉が追いかけてきた。  
なんとか逃げようとしたが、足が絡まって速度が出なかった。後ろから追ってきた姉がそのまま勢いを保ったまま僕を抱きしめそのまま二人で地面に倒れた。  
僕は姉の下敷きになった。しかし姉は僕を逃すまいと圧し掛かり抱きしめ続けた。  
「何をしてるのよ浩!」さっきと違い、姉は泣きながら声を絞り出すように言った。  
「こんなことして、お母さんが喜ぶとでも思ってんの?」なんだ、このありきたりな説得は。僕は力づくで姉の下から這い逃げようとした。  
「やだ!」姉はそう叫ぶと痛いほどの力で僕を抱きしめ、突然泣き出した。僕は姉の様子に驚き抵抗をやめた。  
「お母さんがいなくなって、あんたが居なくなったら、私、一人ぼっちだよ。そんなのやだよ!」姉は子供のように泣き出した。  
これまでに見たことないような姉の様子に僕の荒んだ心は徐々に正気に戻っていった。一体自分は何をやっているんだと、感情任せに突っ走っていた興奮が徐々に収まっていった。  
「ね、姉ちゃん…」僕はなんとか上半身を引き起こした。しかし姉は僕の体に抱きついて離れず、泣いていた。  
「ごめん…」  
僕はそっと、姉の頭を抱いた。姉はグスグスと鼻を鳴らしながら泣いた。  
周りの人々は呆然と僕たちの様子を眺めていた。  
「帰ろ」しばらくして僕は姉にそう言った。姉はうんと頷き、僕たちは立ち上がった。  
そしてゆっくりと家に向かって歩いた。僕に殴られた中学生は、目の前で繰り広げられた壮絶な光景の前に何もできなかった。  
 
「今日は…ごめん」  
ベッドの中で、横になっている僕の背後に眠る姉に言った。  
帰宅後、最低限の会話以外でははじめての姉に対しての発言だった。それまでは気まずくてお互い殆ど口をきけなかった。  
「いいよもう」  
沈黙の時間が流れた。  
「浩」  
「何?」  
「落ち着いて聞いてね」  
「うん」  
「お母さんは、たぶんもう助からないよ」  
「…うん」僕は少し間を開けてしまったが、しかし同意した。  
「これからは、私たち二人で暮らしていくんだよ」  
「うん」  
「どこにも行っちゃだめだよ」行くというのは、物理的にどこかの土地に行くという意味もあるかもしれないが、  
人間として間違った方向に向かってはダメだよという意味もある気がした。  
「わかってるって」  
「こっち向いて」姉は僕の背中のシャツを握った。  
僕はゆっくりと姉の方を向いた。姉と僕は一枚の布団の下で向かい合った。  
「約束して。もう私を一人にしないって。約束するから。私も。あんたを絶対に一人にしないって」  
「うん」  
「絶対だよ」  
「うん」僕と姉は少しの間見つめ合い、お互いの意思を確かめ合った。不思議と恥ずかしさはなかった。  
お互い縋りあって生きていかなければならないのだ。母だけでなく己の身をも滅ぼさぬために必要な儀式だった。  
「じゃあ、記念に契約書でも作ろっか」姉はニヤリと悪戯に笑った。  
「契約書って…どこかの魔法少女みたいだな」  
「ダメ?」  
「いやだめじゃないけどさ」  
「じゃあさ」  
突然、姉は僕の唇にキスをした。  
「ちょっ!!!」僕は思わず布団から腕を突出し、口を拭った。  
「これが、約束のしるし」姉は涙で腫れた目を細め、パッと笑顔になった。久しぶりに見た笑顔だった。  
「突然すぎるよ…」僕は急に恥ずかしくなり、下を向いた。心臓は妙にバクバクと鳴り、興奮していた。  
僕は顔を上げた。姉はこちらを見ていた。  
ドキドキドキ…  
心臓が高鳴る。  
僕達は見詰め合った。  
ゆっくりと姉の顔が近づいてくる。何をしようとしているのかはわかる。  
僕はどうすべきなのか。  
ドキドキドキ…体の興奮は高まってゆく。  
僕も徐々に姉に近づいた。姉も、僕の様子を確かめながらゆっくりとさらに近づいてゆく。  
唇が触れた。その瞬間、栓を切るように姉の口に吸いついた。姉も同時だった。  
姉は僕のシャツの裾から手を入れ、僕の背中に腕をまわした。  
僕も、姉のシャツの中に手を入れ、姉の体を確かめた。  
一度はじめたら僕たちは止まらなかった。腕を絡め、相手の口内や唾液をむさぼりつくす。  
僕たちはお互いの存在を確かめあい、心の隙間を埋めあうように、そして母の死という恐怖を紛らすために必死に求めあった。  
しかし、どんなに密着し、どんなに姉の体を感じようとしても、母が抜け落ちた心の大きな空洞を満たすのは難しかった。  
僕はもっともっとと、姉を求めた。そしてそれに応じるように姉も激しく僕の体を求めた。  
その過程で、僕たちの気持ちは徐々に変質してゆく。  
姉は僕の体に馬乗りになった。僕たちはハァハァと息を荒げ無言で見詰め合った。  
そして愛おしそうにそっと僕の頬を撫で、指で僕の唇に触れた。僕は唇でそっとその指を咥えた。  
僕は今姉になんと声をかければいいのか。恋人同士なら「大好きだよ」とかだろうか。だが、それは僕たちが決して口にしてはいけない言葉だった。  
そして、姉はどう感じているのだろうか。こんな常軌を逸した行為をして、どう思っているのだろうか。  
ふと僕は正気に戻りかけた。しかし、次の瞬間、そういった邪念は姉の一言で吹き飛んだ。  
 
「愛してる」姉はそっと囁いた。  
姉の母性溢れるその微笑みから発せられた「愛してる」という言葉。  
家族だとか恋人だとか、そんな些細な事は頭から吹き飛んだ。その言葉は僕の心を一気に満たしていった。  
僕の目からは涙が溢れてきた。うれしい。僕はまだ人に愛されていた。  
そして同時に、そう言ってくれた姉がどうしようもなく愛おしくなった。  
姉は僕と体を密着させた。僕も姉を抱きしめた。姉の体重を全身で受け止めた。  
「僕も愛してるよ。お姉ちゃん」僕たちは乱れた布団の上で長い間抱き合った。  
数日後。母は死んだ。呆気なかった。母は僕たちに手を握られ見守られながら静かに息を引き取った。  
僕たちはやはり泣いた。しかし、以前のように過剰に取り乱したりはしなかった。  
葬儀等は非常に事務的に進んだ。葬儀関連の会社の人たちや親類の人たちが一斉に家に押しかけ、家の様子がガラリと変わった。  
父は仕事を休み、悲しむ暇もなくその対応に奔走した。僕たちもいつまでも悲しんでいないで、できる限り父に協力した。  
人々は僕達を憐れんだ。中には、父に今の仕事をどうにかできないのかと言いだす人まで出てきた。  
だが僕たちの未来は不安はあっても暗くはない。姉と一緒なら、僕はやっていける。そう確信していた。姉も同じようだった。  
一通りの式や保険等の手続きが住み、父が仕事に戻る日がやってきた。  
「じゃあ、父さん仕事に行くから。つぎ帰ってくるのは2か月後になる。もしも何かあったらお隣のおばさんに言うんだよ」  
「わかってるって」姉は笑顔で言った。  
しかし父は心配そうに僕に言った。  
「ごめんな、一緒に居てやれなくて」  
「大丈夫だよ」僕も父を安心させるために務めて笑顔で言った。  
「浩と一緒なら、大丈夫」姉はポンポンと僕の頭をたたいた。僕は姉の方へ向き、笑顔で合図した。  
「そうか。お前たちがそう言ってくれると父さんも助かる」  
「うん」僕と姉は頷いた。  
「じゃあ、行ってくるよ」  
「いってらっしゃい」僕と姉は笑顔で見えなくなるまで見送った。  
二人で家に戻る。ドアが閉まると、父が居なくなった分の寂しさが少しあった。  
すると、姉が僕の手を握った。  
僕は姉の方を向いた。姉はにっこりと笑った。  
「改めまして。これからよろしくね。浩くん」  
「こちらこそよろしく。有紀姉ちゃん」  
僕は突然なんだと思ったが、しかし笑顔でそう答えた。  
これから新しい生活がはじまる。期待と不安が入り乱れた悪くない気持ちだった。  
「さ、私たちも学校行かなきゃ」姉は言った。  
時計を見ると余裕がある時間じゃなかったので僕達は急いで用意をした。  
姉は僕より早く起き、すでに行く準備が整っていたが、僕はまだ何もしていなかった。  
「ほら、早くしなよ」姉は玄関の下駄箱の鏡で前髪を整えていた。  
僕は急いで靴を履こうとした。  
「よしできた!」僕はカバンを背負い、立ち上がった。  
すると姉は突然僕の頬に軽くキスをした。  
そしてニッと笑ってくるっとその場で回って見せた。スカートがふわりと舞った。  
「いってきますのキス」姉は恥ずかしそうに言い、玄関から飛び出した。  
「姉ちゃん…」僕は姉の唾液で少し湿った頬を摩りながら、玄関の鍵を閉め  
「行くよ」と言いながら走り出した姉を追いかけた。  
なんだか間違った感情を抱きそうで困る。  
 
 

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