「まだ夜には早かろうに、なんだこの暗さは」
薄暗がりの街道に、不機嫌そうな声が発せられる。
今は黄昏時にはまだ少し早い時間だが、光射さない曇天は夜を待たずに闇を広げ始めている。
端整な顔を歪めてつぶやいたのは旅の連れ合いである若い女性。
短めの金髪と碧い瞳、少女の名残を薄く留めた小柄な体躯。
少し丈の大きな男物の旅装を纏ったその姿は、一見しただけでは少年と見紛わんばかり。
大きな荷物を背負い、杖をつきつき歩く様は、何の変哲もない旅人にしか見えない。
そんな彼女が、その身に最悪のネクロマンサー『黒死卿』を宿していると一体誰が思おうものか。
黒死卿の死霊術は魂を死体に留めて動かすだけに収まらず、他の死体に魂を転移させる事さえも可能にしている。
それによって、宿っていた死体が損壊すれば他の屍に乗り換える事を繰り返し、幾百年とも知れぬ間この世に在り続けたのだそうだ。
今も、世間では騎士団に討伐された事になっているが、実際はこうして人目に紛れて歩きまわる有様である。
ところで、かく言うおれはその下僕。
元は神に仕える教会の騎士であったが、それまでの記憶も力もそのままに、主たる黒死卿に傅く自動人形と化している。
なんでも「死霊術の真髄は、魂を侵し意のままにする事」だそうで、その応用で生者さえも支配できるようになったのだとか。、
かつての俺からすれば呪わしい事この上ないだろうが、今のおれには関係ない。
従僕として、盾として、そして替えの体として、主にとっての最善を自ら考え遂行するのみだ。
先の戦いの後、おれ達は教会の新手が来る前に、焼け残りの品をかき集めて半焼した屋敷を離れた。
そして今は、死霊術などとは全く無縁な旅の学者と、その護衛兼助手の二人組を装って旅をしているところである。
目的地は、主曰く「誰にも邪魔されずに研究に取り組める地を目指す」との事らしい。
具体的にどこを指すのか尋ねたところ、皮肉げな笑みと共に「黒い羊はどの群れにもいる」と返ってきた。
どういう意味なのかはよく分からないが、明確な目標に向けて進んでいるのは確かである。
なにせ、遠回りになるのを避けようと数日間の山越えを敢行し、今やっと平坦な街道に合流したところなのだから。
馬のひとつも持っていれば大人しく迂回もしただろうが、主が所有していた屍馬は戦いで全滅しており一頭も残っていない。
かといって農家か何かから適当に盗ってこようにも、そうはいかない。
戦闘と体の乗り換えに魔力を激しく消耗して、今の主は死霊術を十全に使えないのだ。
そのため、土地の兵等との衝突を避けるべく自重をやむなくされている訳だ。
と、しばらく歩いているうちに、寂れた宿駅が見えてきた。どうやら今夜は野宿せずに済みそうだ。
階段を登ってかび臭い二人部屋に入り、荷物を下ろして一休み。
丁度今日は他の宿泊客もなく、ほぼ貸切で泊まれるらしい。
ところで、主を含めたすべての亡者は睡眠を摂らない。ならば一々休まずに夜通し歩き続けていればいいと思うかもしれない。
とはいえ、生者であるおれには不本意ながら休息が必要であるし、獣や盗賊との襲来も避けたいところ。
夜度に足止めを食らう事に主はいらいらしていた様子だったが、せめて今夜くらいはゆっくり休んでいただきたいものである。
夕食は堅いパンに豆のスープという質素なメニュー。それでも、不味い保存食に比べれば御馳走と言える。
おれはありがたく舌鼓を打ったが、主は「食欲がない」と言ってほとんど手を付けなかった。
何故なら、亡者の栄養は魔力のみであり、それ以外の一般的な栄養というものは全くの無意味であるのだ。
新鮮な肉や魔力のこもった酒でもあれば話は別だったかもしれないが、そんな贅沢品がこんな安宿にあるはずもなし。
それに、主の死霊術は飽くまで『屍を』動かすものであり、術によって鮮度が保持されているとはいえ死体は死体。
脈のない心臓は血を巡らさず、液を出さない胃袋は食物を溶かさない。
そのため、食おうとして食えない事もないが得るものはなく、ただ腹が膨れて苦しくなるばかりというわけだ。
「服を脱げ」
主が唐突に命じてきたのは、食事も済ませ、後は寝るばかりになってからの事だった。
ベッドに寝転がって酒の小瓶をちびちび飲りながら本を読んでいた主だったが、既に自らも服を脱ぎ捨てている。
これが何を意味するかというと、要するに、おれに夜伽の相手となる事を御所望なのだ。
主がこのような命令を下すのは今夜に限った事ではなく、それ程頻繁にではないが時折ある事だ。
曰く、「魔力回復のためやむを得ず」との事だが、それは違うと思わざるをえない。
亡者が魂を保ち続けるためには、一般の栄養でなく魔力の補充が必要な事はすでに語った。
そして、そのために亡者は一般的に他者の血肉を貪る事が多いが、精液を啜る事でも代用が利くのは確かである。
しかし、そんな、常に獣紛いの真似をせずともすむ方法を、主は既に確立している。
主が飲んでいた酒は、錬金術の粋を凝らして創り上げた『命の水』。
主は死霊術の権威ではあるが、ただそれだけしかできないわけではない。
死霊術とは別系統の様々な魔術に、医学、薬学、錬金術等、関係のある学問を広く修めているのだ。
そして、その成果のひとつが、この命の水である。
これは、魔力のこもった酒を濃縮させ、魔力を帯びた酒精だけを集めてできた世界一純粋な酒。
血肉に引けを取らない量の魔力を秘め、魔力を体内に浸透させた後は乾いて消えてしまうために、胃もたれを起こす事もない。
ただの人間が飲めば一溜まりもなく潰れてしまうような狂水だが、死んだ体は毒も薬も受け付けないため問題はないのだ。
仮に、酒だけでは魔力が足りないとしても、何も体を重ねる必要などない。
主の場合は淫魔や吸血鬼のような魔力源の縛りもないのだから、おれの血を啜るなり肉を齧るなり、もっと手早い方法があるはずだ。
ならば、単純に色を好むだけなのだろうか?
しかし、主の普段の様子からはそんな素振りは見られなかった。
それどころか、老いや病に狂い、暴食や荒淫に乱れる者達を、主は「獣の同類」と呼んで憫笑を向けてさえいたものだ。
それがどうして……などと考えるのはおれの役目ではない。
余計な考えを差し挟まず、主の望む最善を叶えるのみだ。
主は一糸纏わぬ姿でベッドに横たわり、おれを待ち受けている。
その様は、あの夕暮れの彼女とほとんど変わっていない。
短いままの金髪に、小ぶりな胸。
主は生者に最も近い姿をした亡者であり、生者に溶け込む事によって無用な騒乱を避けている。
であるならば、生前と変わらぬ姿も当然という事だ。
強いて違っているところを挙げるならば、胸の烙印に血の気の薄い肌くらいか。
と言っても、血を全て抜いて防腐液と入れ替えてあるため、土気色になる事もない。
屍であると知らなければ、少々顔色が悪い程度にしか見えはしないだろう。
この世離れした妖しさを秘めるは、屍故の純白の肌に無性的な肢体。死によって得られた不変の清絶。
人の身でありながら人でない。それはさながら天使の似姿。
その美しさに、おれの中の獣が男根を太く大きくさせていく。
事に入るに当たり、おれは荷物から小瓶を取り出し、中身のトロリとした液体を手で受け、主の乾いた秘所に塗りたくる。
ピクリと眉を顰めた主だが、それくらいは我慢してもらいたい。
この液体は、ほのかな死臭も完全にかき消すために主が常用している香油であるが、こうした時には潤滑油としても使われる。
死体からは汗も小水も涙も溢れてはこない。それらの御多分に漏れず、愛液とても染み出してこない。
そのために、挿入の妨げがないよう、交わる前には潤滑油が必要となってくるのだ。
いきり立った男根が、ゆっくりと秘裂に滑りこんでいく。
「ぐぅ…むぁ……くぅっ」
色の薄い肉襞を掻き分けて突入する陰茎に、 主は顔を顰め、押し殺した呻き声を漏らした。
油で滑りをよくしてあるために痛みはないはずなのだが、膣穴を侵攻する異物感が不快なのだろうか。
膣はあの夕暮れの時と相も変わらぬ狭さを保ち、されどあの時と違って緩む事なくおれを締め付けてくる。
肉棒と膣肉が擦れ合ってぎちゅぎちゅと音をたて、死を実感させる肉の冷たさが言いようもなく心地いい。
シーツを掴み、こらえるような顔をしている主の姿が真正面に映り、仕えるべき主を組み敷いている事に倒錯的な感情が湧き立ってくるのを感じる。
その物狂おしさが腰を加速させ、瞬く間におれは達してしまった。
「うぁっ、あああぁっ…あ、熱い……!」
体をびくりと震わせて、主が叫びをあげた。
腹の奥深くに埋め込まれた肉棒は、精を吐き終えたというのにまだ硬さを保っている。
引き抜こうとした正にその時、荒い息をついていた主だが、焦点の合わない目をおれに向け、ゆっくりと口を開いた。
「まだだ。まだ足りない。もっと…もっと滅茶苦茶にしてくれ……」
何故だろうか、その声に悲痛さのようなものが感じられたのは。
「んっ、あっ、ひぐっ、あっ、ぎぁっ、あぐっ、あっ!」
一心不乱の猛突に、主は苦悶に顔を歪め、たまらず呻き声をあげる。
そこにあるのは陵辱に打ち震える牝の姿だけであり、世界を恐れさせるネクロマンサーの面影はどこにもない。
ぱんぱんに膨れ上がった怒張が膣道を押し広げ、孕まぬ子袋の奥まで幾度となく貫き通す。
と、それまでシーツを掴んでいた主の手が、突如おれの腕を握る。
何を求めているのか? 腕の力を抜いて主の意に任せる。
すると、主はおれの手首を掴むと、そっと自らの喉首に押し当ててきた。
このまま絞めろと言う事だろうか? 問いかけるように、力を入れずに首に手をかける。
「そうだ! 喉を縊れ! 女陰を貫き壊せ! わたし、を……殺せぇっ!」
無言の問いに対して、答えは狂乱の絶叫。
何故そのような事を望まれるかは分からない。
しかし、おれの全ては御意のために。可能な限り、要望は満たさせていただきます。
徐々に両手に力を入れ、主の細首を絞め上げる。
「ごほっ…あぐ……ぐ、ぐるじ…ぃ……ぃぎ……」
苦悶に顔を歪め、主の口からくぐもった声が漏れる。
平生の天をも恐れぬ様からも、生前の凛とした顔からもかけ離れた醜い形相。
蒼い目を大きく見開き、ぱくぱくと喘ぐ口からは舌が突き出されている。
息を吸おうと足掻いているようだが、無駄な事。
魔力を糧とし術式で以て体を操る亡者に呼吸など不要。
幾ら息を吸おうと、絞め上げられる苦しみは去りはしない。
そんな事は本人も理解はしていようが、それでも体が勝手に求めるのだろう。
さて、亡者といえば、どれだけ体を傷つけられようと何も感じずに暴れ続ける知性なき屍肉の傀儡ではなかったのか?
それが間違っているとは言わないが、娼婦をはじめ、一定の知性や感覚を持たされる使い道の亡者もそれなりに存在する。
しかし、そうした亡者についても、苦痛についてはかなり鈍感である事が多い。
苦痛の鈍化は、道具としての利便性の追究のために当然と思われるが、そうではない。
主曰く、「感覚と知性には密接な繋がりがある」のだそうで、故に必然的に知性の低い亡者は苦痛に鈍くなってしまうのだとか。
ところで、我が主は生前の精神を完全に保ち、魔術や学問を修められる程に鋭敏な知性を持っている。
そのために、こうして生者と同じ苦痛を強いられてしまうのだ。
いや、それ以上と言うべきか。死を拒んだ亡者に、眠りの安息は存在しない。
主は「寝食に煩う事なく研究に打ち込める」と笑っていたが、気絶への逃避すら許されないのは果たして幸福なものなのだろうか。
「あぎ……げぁ……かはっ…えぁ…ぁ…ぎぃ……」
両手を除く主の体がじたばたとのた打ち回るが、全体重でそれを阻止する。
主の首を絞めながらも、おれの腰は止まらない。
あまりに強烈な締め付けに、おれの肉棒が滾りをみせる。
主の短い爪がおれの手首に食い込み、突き刺さって血が滲み出す。
「…ぃや…だぁ……だず…げ……げばっ……あ゛ぎゃ……」
ひしゃげた声が助けを求めるが、おれはけして止めるつもりはない。
主は言葉でこそ拒んでいるが、行動は違う。
おれの手首を潰れんばかりに握る両手は、おれの手を首から引き剥がそうとしているのではない。
それどころか、もっと絞めろと言わんばかりにおれの手を首に押し付けてきている。
既に、主は生者ならとっくに息の根が止まっているような長きに渡って絞められ続けている。
先にも述べたが、既に息絶えている亡者にとって、呼吸などは無用の長物。
糧となる魔力を供給しておきさえすれば、仮に千年先まで縊ろうと、主は滅びに至るまい。
「ぐぇあ゛……げっ…ぎひゅっ……え゛……う゛ぇ…がぁっ……」
生老病死の頚木を壊した主は、永遠の果てまでこうしていられよう。
だが、生憎とおれはただの人間。生物の限界からは逃れられない。
暴虐の営みの幕引きを前に、秘部を襲う刺突が激しさを増し、おれは絶頂に向けて上り詰めていく
そして、苦しみに喘ぐ主の顔を見据えながら、首を絞める両手に力の全てを叩き込む。
「ひゅ…っい゛ぐ……ぇあ゛…ぃぎゃぁっ!」
響き渡る断末魔と共に、ぎょるりと目玉が裏返り、手足がぴんと突っ張る。
最高潮に達した秘肉の締め付けに、おれは白濁の咆哮を主の胎の奥へとうち放った。
白目を剥き、口から舌をだらりと突き出して、ベッドに打ち捨てられた女の体躯。
それが我が主の今の姿。
亡者が気を失う事がないのは既に述べたが、それでも苦痛等によって思考も行動もできなくなる場合は存在する。
くらくらする頭を押さえ、ひとまず絞め上げていた首の骨が折れていないかを確認する。
主の体には生前の状態を維持するための術式が掛けられており、ある程度の傷は時間が経てば癒えていく。
とはいえ、深い傷を受けたり骨が折れたりしまえば、回復されず永久にそのままだ。
別段、首が折れようとそれで滅びる訳ではないが、首が据わらずぐらぐらしているのは非常に悪目立ちしてしまう。
幸いにも、今回はそれ程酷い事にはならずにすんだようだ。
主が夜伽を望むのは今夜に限った事ではないが、その最後は毎回苛虐を極めたものとなっている。
ある時は顔面が変形せんばかり殴打の嵐であり、またある時は腹をへこませ空気を吐かせる蹴撃の雨であった。
そしてその度に、取り返しの付かない事になっていないか心配させられるものである。
一体何が主にそうさせているのだろうか?
自らを罰する事で悦びを感じる者がいると聞くが、主がそうであるとも感じられない。
痛みに泣き喚き、苦しみに身を硬くする有様は、心底からの苦痛と恐怖を表している。
だというのに、おれが虐げの手を止めようとすると、主はきまって続ける事を懇願なさるのだ。
最早おれは止めるのを諦め、逆にありったけの蹂躙を浴びせる事で、苦痛の時をなるべく短くしようと心がけている。
であるが、おれはいつか主が自らを苦しめる真似はなさらぬようになる事を常に願っている。
主が動けるようになるまでに、身繕いだけでもしてさしあげるべきだろう。
ぱっくりと開いて精を垂れ流す秘裂に指を差し込み、白濁の穢れを掻き出す。
次いで、全身を拭い、汚れていない方のベッドに横たえる。
「ご満足いただけたでしょうか」
問うてみるが返事はない。
おそらくは無事なのだろうが、万一の事態がないとも限らない。
主が答えられる状態になるまで、しばらくの間待つとしようか。
朝、鳥の音と共に目が覚める。
目に写ったのは染みで汚れた天井。ふと、自分がベッドに寝かされている事に気がつく。
体に掛けられた毛布をはだけながら、昨夜眠りに落ちる前の事を思い返す。
―――ベッド際で、主が動けるまでに回復するのを待っていたのが最後の記憶。
旅の疲れに激しい交合。おそらく、待っている間におれの体力が限界に至ったのだろう。
しかし、それならば、おれは床に転がっていなければおかしいはずだ。
「ふむ、目覚めたか。昨夜はご苦労だった」
声の方向に眼を向けると、主が椅子に腰掛けて本を読んでいるのが見えた。
きっと、床に倒れていたおれを、ベッドまで運んでくださったのだろう。
ふと、腕を見れば、血の滲んでいた爪痕が綺麗さっぱり消えている。
これも主の所業なのだろうか。
「申し訳ありませんでした」
主の無事を確認する前に寝こけてしまった愚と、主に無用な手間を掛けさせた自らの痴を謝罪する。
「なに、構わん。そちらも大丈夫か?」
本から目を離さずに答えた主だが、どうした事か「ん…くっ……」と、時折小さく声を漏らしている。
主が脚を開くと、下着を着けていない股間から液体が溢れ出してくる。といっても、これは愛液や小便の類ではない。
この液体は湖や沼に住む水精であり、獲物を押し包んで溶かす人食いの化物。
主は手を尽くしてこれを無害化し、体の中の食物や精液を食べさせ、掃除させるために利用しているのである。
おれ自身はこれを使った事はないが、主曰く、「異物が体内を蠢く感覚は、得も言われぬ気持ち悪さがある」との事だ。
ちなみに、かつて主と付き合いのあった秘薬屋が殖したこれを、貴族等の金持ちが高値で買い付けているのだとか。
その事に対して、「そこまでして太りたくないなら、はなから食うな」と呆れ顔をしていたのが、印象に残っている。
主は水精を瓶にしまうと、立ち上がって部屋の外へと向かい、扉のところでおれに向き直って口を開いた。
「私が体を洗ってくる間に、それを片付けておけ」
「それ」と言って指さしたのは、机の上に置かれた二人分の朝食。
主に食事は不要なのだから、はじめから一人分だけもらってくればいいと思うかも知れない。
しかし、一人が普通に食事を摂り、もう一人が絶食というのは如何にも怪しいというもの。
幸いにもと言うべきか、メニューは昨夜と同じで質素なもの。一人前の量も少なめに収まっている。
昨夜の失態に続けての粗相は避けるべく、さっさと食べ終えてしまうとしよう。
主は、短めの行水を終えて部屋に戻ってくると、素早く荷物をまとめて部屋を出て行った。
まだ朝食を食べ終えてなかったおれが慌てて荷造りを終えて階下に降りると、主は楽しげに宿の亭主に旅の話をしているところだった。
異教の呪術等を体系化して自らの死霊術に取り入れるべく、主はこれまで西海の島々や暗闇の大陸といった魔境を訪れてきたのだそうだ。
今亭主に話しているものが以前おれが聞かされたものと同じ内容なら、たしか反魂の秘香を求めて東方を旅した話だったはず。
「言葉が通じなかったために、秘香ではなく単なる胃腸薬を掴まされた」と悔しげな様子だったが、ともあれ現在上機嫌であるならば幸いである。
「昨夜はお楽しみでしたね」
おれが降りてくるのを見て、宿の主人が下卑た笑みを浮かべる。
そういえば、昨夜は他の客がいないからと音に気を使っていなかった。
陵辱殺人にしか見えないあれが楽しみと呼べるのかは甚だ疑問だが、人を呼ばれなかった事に安堵する。
ともかく、こちらは出発する準備が整ったが、ご機嫌な主の邪魔をするのはいただけない。
話が終わるのをしばらく待つ事にして、窓の外の空を見上げる。
昨日の曇天とは打って変わって、雲一つない澄み渡った青空が広がっている。
この旅が順調に進めばいいのだが。
何に祈るでもなしに、おれはただただ思うのだった。