蛙の夢(後)  
 
 その朝起きた時点で、既に異変は始まっていた。頭が重く、ずきずきと痛む。しゃにむに体を起こすと、今度は眩暈がした。  
「由香」  
「・・・何?」  
「ごはん、出来てるわよ」  
 母の声もいつもより遠い。ふらつく体を押さえて階段を降り、なんとか居間に向かう。  
味噌汁とご飯、鮭と卵焼きの、平均的な日本の朝食だ。椅子に座ろうとしたその瞬間に、猛烈な吐き気が襲った。  
「うっ」  
 返す足でトイレに駆け込み、せり上がってくるものを全て吐き出す。中の消化物が全てなくなって胃液だけになると、喉の奥が焼けつくように痛んだが、  
それさえも全て出してしまいたかった。  
「どうしたの、由香。二日酔い?」  
 何も知らない母が声を掛けてくる。が、由香は事態を確信していた。心当たりなど今更挙げるまでもない。週に二度はそのための「仕事」をさせられていたのだ。  
事態を防ぐための対策もさせてもらえない産婦人科では、診断を受けたその瞬間に明に連絡が行くだろう。薬局で妊娠検査薬を買っただけでばれる田舎で、  
プライバシーや個人情報という言葉は明以外には適用されない。その明は、由香の妊娠の知らせを手ぐすね引いて待っているのだ。  
 朝食を押し込むようにして食べ、電車で一時間半も先の、新幹線の乗り換え駅近くにある産婦人科に駆け込む。  
名前を呼ばれるまでの時間が、閻魔の裁きを待つ時間のようだった。  
 
 止めろって言ったってなあ。実は机の上にコンビニのパンとサラダを広げて頭を抱え込んでいた。明はいつも通り社内を歩き回っているから、  
何を考えているか実にはわからない。とはいえ、由香の様子が嘘とも思えなかった。由香が明を陥れようとする理由はないし、  
失敗すれば由香の首が締まるような場所だ。  
 男女の抜き差しならぬ関係といったところで、自分のやろうとしていることは単なる出歯亀だ。それでもあの飲み会の夜、もう少しだけ、  
せめて明が目を覚ますところまであの場に留まれば、全ての悲劇は防げたかもしれない。そう考えてしまうことはどうしようもなかった。  
 いっそのこと、由香を横から攫うとか―もっと馬鹿馬鹿しい。こちらの根回しがよほどうまくいかない限り、明はいくらでも周囲を追いこんで由香を追い詰めるだろう。  
少なくとも、由香が彼の子供を産むまでは。産んだ後は子供を取り上げられ、地主のお手付きのレッテルを貼られるってわけだ。  
 東京ならともかく、ここは世間の狭い田舎だ。明が本気を出せば、由香一人経済的にでも社会的にでも  
物理的にでもどうとでも追い込める。それを恐れて、由香は泥沼の中で息も出来ずにいる。  
―東京、ねえ。  
 実は壁の貼り紙を見た。「東京支社、異動希望者募集。職種、年齢、経験年数不問」とある。東京支社はこのところ売り上げを伸ばしているらしい。  
特にシステム管理担当者はすぐにでも誰か来られないか、と部署直々に要請を受けている。異動願いを出せば即受理されるだろう。  
由香を説得して偽装結婚し、ほとぼりの冷めたところで多田を離れて転職する。由香が妊娠していようとしていなかろうと、明にばれる前に婚姻届を出してしまえば  
子供は法律上自分の子供になるから、後継ぎにはできまい。よしんば明が裁判を起こそうと養育環境と養育意志とが揃っていれば、地主との癒着のない東京での裁判ならこちらに分がある。  
 そこまで考えて、あほらしいと実は頭を横に振った。我ながら自己満足ばかりのいい加減な計画だ。第一、こちらに住んでいる家族が村八分を受けないとも限らない。  
 それでも、由香は体をいいようにされ、心は悲鳴を上げている。自分は道具ではないと泣いている。文字通り一番近くにいながらそんなことにも気付かない明が、  
実には信じられなかった。 昼休みも半分を切ろうとしたとき、携帯電話が鳴った。由香だった。  
 
「今日、産婦人科に行ってきたんだ」  
 電話の向こうの由香の声は震えていた。ああ、この時がきたか、と実はぼんやりと思った。まともな避妊手段を一切封じられて、  
いわゆる「中に出されて」いたのだから、今更驚きはしなかった。  
「5週目、だって」  
「・・・やっぱりな」  
 由香は泣いているんだろう、と実は思った。言葉の端々で、しゃくり上げる声が聞こえる。妊娠そのものよりも、自分が本当に明の「道具」になってしまった、  
彼のお望み通りに後継ぎを身ごもってしまった、その絶望のほうが大きいのかもしれなかった。  
「お前、本当にこれでいいのか」  
「よくないのは、わかってる」  
「ずっと好きだった奴に、仕事の度に部屋に連れ込まれてレイプされて、そいつの思惑通りに妊娠して、思惑通りに子供を産んで、  
どこにも逃げ場もなくて、これでいいなんて、お前が一番思ってないだろ」  
 由香が電話の向こうで黙り込むのがわかった。先ほどのあほらしい逃亡話―自分の頭の中で練った、  
計画とも呼べない計画を、実は思い出していた。  
「結婚して、東京に逃げないか」  
 あくまで、提案だ。由香を逃がすための提案、と、実は自分に言い聞かせていた。横から奪うためじゃない、俺は由香を道具にさせたくないだけだ。  
「東京?」  
「東京支社が増員を募集してる。今日希望を出せば、すぐにでも受理されると思う」  
「でも」  
「バカ、偽装結婚でいいんだよ。本当に夫婦になれなんて言ってない」  
「本当の子供じゃないのに」  
「誰にも言わなきゃ誰にもわからねえよ。母親がお前なことに変わりはないんだ」  
「実に迷惑だよ」  
「迷惑なんて考えてねえよ」  
 もうひと押しだ、と実は考えた。子供を作られようと何をされようと、心はこちらにある。  
―絶対に明には渡さない。  
「このままあいつに子供を渡してお役御免でいいのか?お前は湊由香で、子供を産む道具じゃないだろ?」   
 その言葉に、由香が言葉を詰まらせる。  
「多少戸籍に傷はつくけど、あいつの思惑に振り回されて終わり、なんてことはさせたくないだろ?お前の人生なんだから、  
手遅れになる前に多田だろうと他人だろうと使えるものはとことん使えよ。他のことは逃げ切ってから考えても遅くないだろ」  
「実は、本当にそれでいいの?私と明ちゃんのことに無関係なのを巻き込んじゃうのに」  
「迷惑か?」  
「迷惑なんかじゃない。全然迷惑なんかじゃないよ。けど、実はどうなるの」  
 血のつながらない赤子一人のために実の人生を変えかねない。由香はそれを恐れているのだ。  
 何を今更、と実は思った。一度しかない人生に、狂いも何もあるか。なら手を差し伸べないで後悔するより、  
好きな女に地獄まで付き合う。それで十分だ。  
「俺が自己満足でやろうとしてるんだから、それでいいんだよ。幸い資格も貯金もあるし、どうにかなるからさ」  
 
 腹が決まれば、実の行動は驚くほど速かった。電話で母に婚姻届の用紙と戸籍謄本を頼み、その日のうちに東京支社への異動希望を出し、  
夜には双方の両親に挨拶をし―由香の父親には当然張り倒されたが、エコー写真を見せられれば認めざるを得ない―、翌日には婚姻届を役所に提出した。  
数日後には小さなアパートに最低限の荷物で引っ越しを済ませた。  
 子供を作る既成事実には、こちらも既成事実の積み重ねで対抗する。いずれ明にも情報が漏れるだろうが、婚姻届の取り消しは余程でない限り第三者には出来ない。  
そして事実上夫婦として暮らしてしまえば、その取り消しを求めること自体が明によからぬ噂を立てさせる。それがわからない男ではあるまい。  
 退職します、と由香が告げたのは、一週間後のことだった。明と明の母が揃った朝である。  
「今まで、長い間お世話になりました」  
 退職届を手渡し、深々と頭を下げる。  
「淋しくなるわね」  
 急な退職に、明の母が溜息をつく。  
「実は結婚が決まりまして」  
 最初から何もなかったかのように、努めて「仕事」の表情と言葉で、由香は告げた。  
「相手の東京への転勤が決まったので、一緒に来ないか、と」  
 その言葉で、明は息を飲んだ。実が東京支社に異動する、その希望を提出したのは一週間前だった。内心邪魔者が一人減る、  
と喜びながら東京支社に連絡し、双方の人事担当とすり合わせて、正式な辞令が昨日出たばかりだった。  
 そしてこの一週間、由香は生理を理由に明を拒んでいる。辻褄が合いすぎて、明は眩暈がした。  
「先日婚姻届も出したので、実はもう湊は旧姓なんです」  
 それを敢えて報告しなかったのは、すぐに退社することが分かっていたからか。  
「あら、おめでとう。じゃあ、今は?」  
 母がその先を促す。これ以上聞いていたくなかった。  
「―長谷。長谷由香、と」  
 
 現場担当者を捕まえて由香のシフトを確認すると、本来出社予定だった部分はすべて有給扱いとなっていた。  
「月の終わりまでは居てくれないか、ってこっちもお願いしたんですけどねえ。旦那の転勤が急なのと、何より体調が良くないんだそうで」  
「体調?」  
 明が鸚鵡返しに言う。  
「どうもこうも、結婚した女の体調が良くない理由なんて一つっきゃないでしょう」  
 担当者はまだ分からないのか、と言いたげに唇をゆがめた。  
「コレですよ、コレ」  
 両手を腹の前で丸い形にし、上下に動かす。  
「二ヶ月目だそうで」  
 実君も由香ちゃんも全く隅に置けない、と笑った。  
 アパートに戻ると由香は、わざと切っていた携帯電話の電源を入れた。普段はほとんど来ない明からのメールが大量に届いている。内容はどれもこれも、一度話をしたい、との件だった。  
妊娠も、間違いなく伝わったことだろう。  
 完全に逃げ切れるとはまだ思えなかったが、家族が村八分にされているということは今のところなかった。  
周囲では由香と実ができちゃった婚をした、お前らもか、程度にしか考えられていない。明が口を挟む余地は今のところ、ない。  
 明日にでも来てほしいとの東京支社をなだめ、仕事の引き継ぎを済ませ次第東京へ引っ越す算段が整っていた。  
双方の実家から直接ではなくわざわざこのアパートを借りたのは、周囲に自分たちが夫婦であることを浸透させるためだけだった。  
「風邪引くぞ」  
「あ、うん」  
 床に座り込んでいた由香を、実が見咎めた。部屋は段ボールばかりで、布団とテーブル、最低限の家電と食器のほかにはまともな家具もない。  
東京に行ったら買おう、と二人で決めていた。  
「ごはん、私が作るよ」  
 そのまま台所に立とうとする由香を、実は止める。  
「妊婦はおとなしくしてなさい」  
「でも」  
「いいから」  
「・・・うん」  
 ふと、封のされていない段ボールの中から実の衣類が覗いた。その緑色に、由香は見覚えがあるような気がした。  
―なんだっけ、あの色。・・・そうだ、蛙だ。  
 由香はのろのろと立ち上がり、自分の段ボールを開けた。蛙のストラップは、明がお土産にと買ってきて  
由香に押しつけたものだった。これを貰ったのは三か月前だ。それまでと今との状況とは、あまりに違いすぎている。  
 窓の外に、田んぼが広がる。今日は蛙は鳴いていない。きれいな月だった。  
―交通安全のお守り。無事帰る、だってさ。  
 もう、明ちゃんのところには帰らない。田圃めがけてふっと放ると、それっきり蛙は見えなくなる。  
それを待っていたかのように、由香の携帯電話が鳴った。  
 明だ。  
 息を飲む由香の隣で、実が携帯電話を取り、通話ボタンを押した。  
 
「もしもし」  
 受話器の向こうから聞こえた声に、明は一瞬我が耳を疑った。番号は間違いなく由香だ  
が、声の相手は実だ。  
「実・・!?どうして」  
「どうしてもこうしてもないだろ。結婚したのをお前も知ってると思ってたけどな」  
 実の声音は苛立ちの段階を通り越して、既に嫌悪感を露わにしている。  
「由香は」  
 お前が言えた立場か、と言いたくなるのを押さえて、実は会話を続けた。  
「隣にいるよ」  
「じゃあ」  
「ふざけるな。俺はお前が由香に何をしたか全部知ってる。何を吹き込んで何をしようとしたか、そのために  
どれだけひどい目に遭わせていたかも知ってるし、根回ししていたことも知ってる。その結果はお前ももう知ってるよな?  
お前の声は聞きたくないし、聞かせたくもない」  
 明は言葉を失った。自分のもとに由香を留めたくて取った行動の結果がこのザマだ。自分は由香も子供も実に攫われていく、  
その未来を自らの手で手繰り寄せたのだ。  
「子供だけでも取り上げようなんて思うなよ。子供は俺の子供として認知する。金も一銭も要らない。会社もいずれ転職する。  
お前個人とかかわる気は二度とない」  
 返答を返せずにいる明の受話器の向こうで、  
「・・・少しだけ、話させて」  
 由香の声がした。  
「けど、お前」  
「私にかかってきた電話だもの」  
「俺は」  
 少しの押し問答の末、実は根負けしたようだった。  
「一度だけだぞ」  
「・・・うん」  
   
「由香」  
 子供を作るのは建前に過ぎなかった、といって何になるだろう。自分は後継ぎを残すための見合い話を蹴りながら、  
由香を留めるためと自分に言い聞かせながら、その実祖先と同じことを由香に強いたのだ。  
―あの子が会社や家の道具になることに耐えられると思いますか。  
 母の言葉は正しく由香を見抜いていた。実は自分が強いた無理を道理で破ったに過ぎない。  
「俺は」  
 言葉にならない。本当は由香にこそ側にいてほしかった。他の誰にも渡したくなかった。今何を言っても、もう由香には伝わるまい。  
「・・・明ちゃん、私は本当に、明ちゃんが好きだった。どんなにひどい目にあわされても、明ちゃんが  
私のことを本当に好きでいてくれて、それで抱いてたとしたら、それでよかった。  
一生日蔭者になっても、構わなかった。子供ができようと出来まいと、ずっと側にいたかった」  
 由香は感情をなくしたような、淡々とした声で言った。ああ、これが最後なんだ、と明は思った。  
「けど、明ちゃんは言ってた。私が後継ぎを産むのは仕事だって。・・・私は子供を産むための道具にはなりたくなかった。  
私にとっての明ちゃんは代わりのいない人だったけど、明ちゃんにとっての私はそうじゃなかった」  
「由香、違う、本当は―」  
 お前でなければならなかった、その言葉を、由香は途中で遮った。  
「―もう遅いよ、明ちゃん。明ちゃんの一番欲しかった子供が出来て、実が全部分かった上で支えてくれるって言ってくれた時、  
私、絶対に子供を明ちゃんには渡さないって決めた。明ちゃんのところには戻らない。子供のための道具にはならない。子供を多田家の後継ぎにはさせないって。  
・・・それだけだよ」  
 言い切って、由香は携帯電話の通話を切った。そのまま着信履歴から、明の番号を着信拒否に登録する。  
これで、本当にさよならだ。  
「・・・由香」  
 傍らで、実がものも言わずに由香の体を抱きよせた。腕に身をまかせながら、由香は目を閉じて涙を流した。  
 
 30年以上努めた会社を数年前に定年退職後、ひとみは東京に引っ越し、退職金と貯蓄、年金を元手に通信制大学に入学した。  
既に夫はこの世を去っているし、結婚した娘も東京に暮らしている。田舎の広い家で一人で日がな一日過ごす生活よりは、  
娘の育児を手伝いながら興味のあることでも好きに勉強してみようか、と思ったのがきっかけだった。  
 
 日が暮れた道を子供たちが競うようにして帰っていく。孫と同じくらいの子供たちだろうか、次々ひとみの傍らを走り抜けていく。  
揃いのユニフォームはサッカー教室の後の子供たちだろう、泥だらけで、それでも飽きずにサッカーボールを蹴りながら歓声を上げる。  
そのうちの一人が、昔どこかで見たことのある顔のような気がして、ひとみは目を瞬いた。  
 まさか、ね。  
 若社長は先代のようにはなれなかった。就任して数年で社内の女子に手をつけたとの噂がまことしやかに立ち・・・  
そしてそこから立ち直ることができなかった。  
 他人の空似だわ、・・・若社長の小さな頃に似てるなんて。  
   
「多田商事、新社長が決定」  
 夕刊の片隅に、小さな記事が写真つきで載っている。年嵩の男性の写真だった。  
 明の解任が決まったとの知らせを実は宮田から知らされた。経営悪化の責任を取って辞任、が表向きの理由だったが、  
実際のところは経営以上の問題で、社長の放蕩が原因だったらしい。多田だからと目をつぶってきた地元の取引先にいくつも逃げられ、  
株主と役員にそっぽを向かれたとのことだった。  
―旧家の嫁さんに暴力を振るって逃げられたとか、会社の金を博打に使ったとか、  
本当かどうか分からないけど最近の明の噂はそんなのばっかりだ。あいつ、どうかしてるよ。  
 多分、明は本気で由香を愛していたのだ。子供を作るのもそれが目的のすべてではなく、本当は由香を繋ぎとめるための手段ではなかったか、  
と思う。却って由香を失い、結果自分自身まで見失うほど、深く―。今はもう実にはわからない。  
「お父さん、ごはん出来たよ」  
「ああ、悪い悪い」  
 妻の声に、実は我に返った。  
「ただいまー」  
 サッカー教室が終わり、今日も汗と泥まみれになって帰ってきた息子の着替えを手伝い、2歳になる娘を抱きあげて食卓に着く。  
「今日は何?」  
「今日はシチュー」  
「やったあ!」  
 男同士、顔を合わせて歓声を上げた。その表情が、いつかどこかで見た横顔と重なって、実は幻を振り払った。  
 
蛙の夢、終わり  
 

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