教会の鐘が鳴り、扉が両端から開かれるのを群衆は今や遅しと待っていた。
女性陣は目を光らせ、男性陣は祝福と、半分くらいは羨望の眼差しで。
やがて鐘が鳴り、純白のウェディングドレスに身を包んだ新婦と、その腕を組んだ
新郎が姿を現す。
「おめでとう」 「おめでとう」
次々に祝福の言葉が飛び、夫婦は幸せそうに笑った。少し張り出した腹部を撫で、
新郎と目を合わせて手を振り上げると、花束が空を舞い、女性陣がわっと歓声を上げる。
その様を、多田明(あきら)は教会から少し離れた道路で微動だにせず見つめていた。
頭を上げた新婦の目が、一瞬明を捉えた。が、彼女はすぐに視線を
隣の夫に戻し、二度とこちらを見なかった。
「若社長!」
秘書の田村ひとみに呼ばれ、明は振り向いた。ひとみは両手に大量の資料を抱え、顎で
押さえつけてこちらを睨んでいる。
「社長の部分はともかく、若、は余計だ」
「じゃあ次から五代目とでもお呼びいたしましょうか」
「もっと勘弁してくれ」
田村ひとみは動じない。親子ほども年の離れた、二か月前の先代社長の急死に伴って
後を継いだ20代の小倅など、先々代社長の頃に入社し、先代社長の秘書を20年勤めた
ひとみにとっては頭に殻のついたヒヨコも同然である。
「若、の部分が取れたときが一人前の成り時です」
しらっと言ってのけた。
「明日の会議の書類です。東京支社と大阪支社の売り上げ報告、
経理部の定例報告、システム管理部の報告書、始末書、インフラ部からの提案書、諸々。
明日の会議までに目を通しておくように、とのことです」
「ちょっと待て、明日は商談が入ってなかったか」
「その商談が延期になったと、先ほどメールにて報告いたしました。
代わりに重役会議への参加を」
「嫌がらせか」
「一人前に渡り合って経営に口を出せとは、誰も申しておりません。今は席に座って
内容を理解するのが関の山でしょう。若社長はまだ中核としての期待はされておりませんし、
いずれ中核を担う時まで会社を健全に保つのが我々の務め、と管理職役員皆様申しております」
多田商事は大正時代から続く総合商社で、明で五代目になる。古くは江戸時代に権勢を誇った
大店が明治に入って時流に乗り、商売を海外まで広げ、大正時代に会社として成立した。
二度の大戦もバブルも不況も逆手にとって成長を遂げ、今に至っている。旧財閥に比べれば
その規模は微々たるものだが、この地方では大きな地盤を築き、東京と大阪に支社も持つ、
地方豪族という言葉通りの存在だった。
山と積まれた資料を前に、明はため息をついた。今夜の完徹は間違いない。
「お疲れ様です」
由香がコーヒーを用意していた。砂糖1杯にクリームひと匙が明の好みであることを、由香は熟知している。
「参った、今夜は完徹だ」
「その資料は?」
「明日の商談が急にキャンセルになって、今度は代わりに会議に出ろ、とさ」
机に顎を載せ、シャープペンシルを加えて明はおどけて見せる。
「では私は、厨房に夜食を頼んでまいります」
「ああ、ありがとう」
由香の後姿を明は見送った。湊由香は明と同じ24歳、私立小学校などないこの地域では明も
地元の小学校を卒業している。由香はその頃からの同級生で、中学を卒業後に東京の私立名門校、
イギリスの大学と地元を離れていた明に対し、由香は地元の高校の頃からこの屋敷でアルバイトをはじめ、
卒業後は正式に職を得ている。由香の母親もこの屋敷で働いていたから、いわゆる親子2代だった。
すっかり使用人姿に違和感のない由香の背中は少しばかりさびしい。もちろん、プライベートでは昔のように
読んでくれはするが、勤務中の姿はプロそのものだ。
小さいころは気が弱くて、いつも明ちゃん、明ちゃんなんて泣いてたのにな。
田圃畑に囲まれて、虫も蛇も蛙も日常茶飯事の環境だというのに、由香は蛙が大の苦手だった。
道の真ん中に死体が落ちているだけで立ちすくんでは動けずにいた。
―何が怖いんだよ、こんなの。
手をつないで道を通ったことも何度もある。
「なあ、由香」
「何でしょうか」
戻ってきた由香に問うてみた。
「蛙はまだ苦手なのか?」
「いえ、あの、その」
途端に言葉に詰まる。言葉は丁寧だが、動揺は隠し切れていない。その横顔は相応に年をとり、幼いころには
なかった華やかさが増している。自分の贔屓目を差し引いても由香は田舎には少ない整った顔立ちで、
人気も高かった。地元に戻ったときには流石に結婚もしているだろう、という予想を裏切って
まだ結婚どころか彼氏の一人もいたことがないと知り、密かに祝杯をあげたのはここだけの話だ。
今の由香は仕事モードに入っている。以前高速道路のSAで見つけた蛙のストラップを買ってきてやろう。
どんな表情をするだろうか。
地元企業に職を得るのは、何も使用人としてだけではない。れっきとした社員として多田商事に入社した明の同級生も何人もいる。
システム管理部の長谷実(みのる)もその一人だった。地元の公立名門校から県内の国立大学の情報学部に進学し、技術職として
就職して2年目、普段の仕事に加えて新人の育成も加わり、このところ定時に帰れたためしがない。
実は肩をこきこきと鳴らした。
「長谷、ちょっといいか。システムに不具合が」
「はい」
「先輩、こっちのプログラムにバグが」
「ちょっと待ってろ」
20代は仕事が恋人、というのはあながち間違っていないと実は思う。仕事の忙しさに浮いた話の一つもなく、
遊ぶところもない田舎の実家暮らしだから、給料の半分は貯金に回っている。
―ま、社会人はこんなもんか。
頬を叩き、気合を入れ直して、実はコンピュータに向かった。おそらく、今日も残業だ。
「由香!」
残業後の帰宅の車内から、実は窓を開けて前を歩いていた幼馴染の名前を呼んだ。由香の家から職場までは
15分、急ぐ距離ではないが、街灯の少ない田舎では猪や鹿も出る以上、安全とも言い切れない。
「実」
「送ってってやるよ」
「ありがと」
「明はどんな感じだ?」
「社長に就任してからはすごく大変みたい。今日も大量に資料持って帰ってきてた」
「親父さん、急に亡くなったもんな」
「うん。・・・心臓発作だったって」
二月前の盛大な葬式を、二人はまだよく憶えている。地元の名士、と言っても言い足りないくらいの人であった
先代社長の急死は地元紙に大きく取り上げられ、焼香客が門前市をなした。もともと後継ぎとして
既に明が擁立されていたから大きな混乱はなかったが、あと数年は気楽な見習いでいられただろう明の
身辺は、一転して嵐である。
「どうなるんだろうね、明ちゃん。会社も家も全部一気に継がなきゃいけないなんて」
「ま、ダメなら会社のほうは首切られるだけだろ」
「まさか」
多田商事は上場もしている株式会社だが、変なところで田舎の因習を残していると実は思う。就職活動では
全国からいくらでも優秀な人材がエントリーするのに、半分は必ず地元出身者で構成されているのだ、
実もそれで入ったほうだから、あまり大声では言えないが。
「家はともかく、カルロス・ゴーンでも呼ぶ時代だぜ?舵取り次第と時流次第で、生き残れるかなんてわかった
もんじゃねえよ」
「まだ二カ月だもん、これからだよ」
車は由香の家の前に着く。明じゃないが、また明日も朝っぱらから仕事が山積みだ。
「飲み会?」
実は眉をひそめた。覚えの悪い新人に手を焼き、年寄管理職のシステムの不慣れに手を焼き、本来午前中に
終わらせる予定だった仕事を完了させた時点で既に1時を回っている。
「今そんな余裕、あると思うか?」
「まあまあ、明もあの通り忙しいだろ?社長就任後初の息抜きってことでな?」
視線の先には明が例によって歩きまわっている。このところすっかり見慣れてしまった光景だった。
実に声を掛けてきたのは宮田で、こちらも中学校一学年二クラス時代からの同級生である。
例によって地元採用で就職し、同じ会社の人事部に籍を置いていた。どこで誰が働いているかを
把握しているから、幹事にも抵抗がない。
「高村とか山口とか、あと湊とか、この会社かあの家で働いてる奴だけでもさ」
湊の部分が本命だろ、と軽口を返したくなって、実はやめた。自分を勘定に入れても先輩後輩同級生合わせて
8人は由香を手中に収めたがっていることを実は知っている。自分が実力行使に出ないのは、単に
「一番付き合いの長い幼馴染」の座を失いたくないからだけではない。
いつも通りに部屋を掃除し、ベッドを整えて、由香は満足げに部屋を振り返った。
「よし、完璧」
とはいえ、当人は帰って寝て起きてまた出るだけの部屋だから、あまり激しく汚れる部屋ではない。
その上この部屋の主が帰ってきてまだ2年、使われなかった時間のほうが圧倒的に長かった。
イギリスにいた頃は本当に帰ってこなくて、そのままイギリスに住んじゃうんじゃないかって、何度も
メールしたっけ。
明が海外への大学の進学を見越して都内の高校に進学すると決めたとき、由香は明と離れたくないと大泣きした。
―絶対、絶対戻ってくるよね?
思い出すだけで顔から火が出そうになる。あの時は本当に二度と帰ってこないと思っていたのだから仕方ない。
親父の会社を継ぐんだから戻ってくるよ、と何度も言い聞かされて、絶対だよ、約束だよ、と何度も由香は
念を押した。明がいなくなるなんてことは由香にはあってはならないことであり、帰りを待つためにここで
アルバイトを始めたのだった。
家に帰ってきたときに、少しでも心休まる場所でありますように。願いはそれだけだった。
由香も帰った夜分遅く、漸く自室に着いたところで明のスマートフォンが鳴った。着信画面には長谷実とある。
「もしもし」
「よお、お疲れ」
電話の先は相変わらずの声だった。社内での上下関係はプライベートでは持ち込むまいと決めている。
実は明を社長と呼んで頭を下げるし、明は実をシステム管理部の長谷と呼ぶ。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「大した用じゃないんだ。宮田が久しぶりに飲み会でもどうかって話になってさ」
「飲み会、か」
「お前も社長社長で息つく暇もないだろうし、たまにはストレス発散も兼ねて」
言われて、明は確かにここ二カ月暇らしい暇もなかったのを思い出す。父の死を悲しむ暇もなく社長就任の大小があり、
それからは社内を歩き回る毎日だ。椅子に優雅に腰をかけて手を組む、なんてどこの話だ、と明は思う。ゴブレットで酒を飲むどころか、まともに飲んだのは由香のコーヒーくらいだ。
「宮田はお前の都合に合わせるってさ。俺もそのつもりだし、ついでに由香もお前なら誘いやすいだろ」
ついでに、の部分に明は聞き捨てがならなかった。そこが本音だろう、と言いたいのをこらえて、
「わかった。そっちも確認しておく」
とだけ返した。
素直じゃねえの。携帯電話を切って実は思った。連れてきたくないならいっそ宣戦布告されたほうがよほど
楽だ。そして明が素直に由香に手を出さない理由が実にはわからない。24という年齢は、
地方ではそろそろ子供の一人も生まれていておかしくない。事実、中学から付き合っていた連中の中にはそろそろ二人目が生まれるなんいうのもいる。
由香はいずれどこぞの縁談を受けるか誰かの手を取って嫁ぐだろう、おそらく仲間内でもそれは一番早いと思われていたし諦められてもいた。が、蓋を開けてみれば結婚どころか浮いた噂の一つ
もない。独身を通す理由が、明の帰国を待っていた以外の説明がつかないのだ。
あまりもったいぶっているなら、こちらもそろそろ幼馴染の立場に甘んじる必要はないのかもしれない。
携帯電話を充電機に立て、実は目を閉じた。
「飲み会には来ない?」
だが、周囲の思惑をひっくり返して由香の返事は欠席だった。
「その日はシフトが入っちゃって、ほかの人も予定があったりして、どうしても無理で」
そう言って、部署のシフトを見せる。遅番の由香のほかには数人が予定に組まれ、二人が休みの予定だが、
二人とも希望休として出ている。残りもそれなりに事情があるのだろう、当主権限で強制執行は後々のことを考えると憚られた。
「じゃ、仕方ないか」
「ごめんね、実には私から伝えておくから」
「ああ・・・それから」
明は背広のポケットを探り、SAの紙製の土産袋を取り出した。
「お土産」
ほい、と投げてよこす。
「開けていい?」
「どうぞ」
交通安全のお守りだってさ、と注釈もつける。果たして包みを開けると、出てきたのは蛙のストラップであった。
「明ちゃん!」
由香は一瞬蒼白になった後、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「高速道路じゃ「無事カエル」のお守りらしいぜ?」
まだ文句のありそうな由香が口を開こうとしたとき、1時の鐘が鳴った。休憩終了、の合図だ。
「さて、仕事仕事」
―明ちゃん、か。ある晩、大阪に向かうべく乗った新幹線の中で、明は由香の言葉を思い出していた。
田舎の旧家の使用人兼幼馴染という、時代錯誤も甚だしい関係だ。その上実や宮田も含め、由香に想いを寄せる連中はいくらでもいる。
更に悪いことに、父の急死で明にはもう一つ当主としての仕事が増えた。
―早く結婚して、後継ぎを作りなさい。葬儀の際伯母に言われた言葉は、おそらく父も若かりし頃に、そして
伯母自身も母も言われ続けた言葉であろう。事実明の母は別の地方の名家の出身で、文字通り後継ぎを生むために、嫁がされてきたのだ。
明の足元には、見合い写真がいくつも積み上げられている。どれもこれも地方の旧家に生まれ、
または東京や大阪の会社経営者の一族に生まれて東京の名門女子大を卒業した、生まれ通りに嫁ぐことを定められた令嬢たちだった。
由香ではだめなのですか、と母に食って掛かったこともある。しかし母の答えは明瞭だった。
―家や会社のための道具になることに、あの子が耐えられると思いますか。
母は自分が実家と嫁ぎ先、そして双方の経営する会社の取引の道具となることをよく承知していたし、事実そうでなければ利権と因習が幅を利かせる田舎の旧家では生きていけまい。
指を咥えて由香が誰かのもとに嫁ぐのを見守り、そして自分は愛情のない結婚をして種を仕込め。
端的に言えばそういうことだ。
「クソっ」
「社長、遅いよー」
「お、社長」
明の慰労会を名目にしていたわりに、飲み会は主役を抜きにしてさっさと始められていた。一部は既に出来上がり、顔が赤い。
「悪い、仕事が長引いた」
「じゃ、改めて明の社長就任二カ月お疲れさまってことで乾杯ー」
かちんかちんと、あちらこちらでグラスが鳴る。ネクタイを寛げると、宮田と実が近付いてきた。
「よ、社長」
「お疲れ様ですぅ、社長」
酒のせいか、口調はふざけ半分だ。
「湊は連れてこなかったんですか?」
「仕事が抜けられないんだそうだ」
「そこを当主の鶴の一声で、なんとか」
「無茶を言うな」
ぐい、と明はビールを一気にあおった。
「ねーねー社長ー、お給料あげてくんないー?旦那の稼ぎが悪くってさあー」
向こうの席では既に元同級生現使用人女子がへべれけ口調で叫ぶ。あはははは、と歓声が上がった。
「そうそう、うちもー。ここだと多田か公務員か医療関係でない限りマジ安月給でやってらんない」
「下手するとあたしのほうが稼ぎ多いんだもん、参っちゃうよぉ」
「子供作るのも考えちゃうしねー」
「産婦人科なんかじいさんのところ一つだけだし」
「ってか、うちの旦那ソッチがヘタクソなんだけどー」
「マジ?マジ?」
酒が進むと、女子は明け透けな話に抵抗がなくなってくる。横目で見ながら、実は明の箸が進んでいないことに気づいた。
「食えよ、メシまだだろ」
「あ、ああ」
良家のおぼっちゃまは酔っ払い方までお上品だ。顔色は赤いが、言葉は変わらない。
「何考え込んでんの、社長」
「実たちは、結婚しないのか?」
「結婚?」
宮田も実も頓狂な顔になる。
「結婚、ねえ。ま、相手がいて、状況が許せばってところかな」
「まず相手が見つからないと」
「ここに独身の妙齢女性がいるんだけどー」
聞きつけた女子が返す。
「男にも選ぶ権利はあるし?」
「うるっさいバカ」
「そういう明はどうなんだ?」
「俺か?俺は―」
ちらつくのは由香と、沢山の見合い写真だ。顔も名前も憶えていない。
「まだ」
「ま、今は仕事が恋人だしな」
「そうそう」
酔った頭で勝手に結論付ける。
「そういえば、由香も結婚しないよねぇ」
また女子だ。男性連の心中を見透かすような発言が続く。
「彼氏がいたってこともないみたいだし」
「高校の時にも断られた男子、結構いたよ」
「あたし、実と付き合ってるとばかり思ってた」
「違えよ」
明の目がぐらつく。独身の由香と、跡取りを残すこととがダブった。いっそ由香との間に子供を作ってしまえば―。
馬鹿らしい。考えかけて明はやめた。代わりにジョッキを一気に空にする。
「でも、ありかもな」
実が横で顔を上げた。
「お、やるか?」
「それは宣戦布告的な?」
いつまで経っても据え膳の存在に気づこうとしないなら、それを横から頂いたところで文句は出るまい。
据え膳の所有者はいまだ確定されていないのだ。
―本気か、実?思わず出そうになった言葉を明は引っ込めた。本気だろうとおふざけだろ
うと、
自分が口を出す権利はない。
ずきりと頭痛がした。明日も昼から会議、終わったら支社からの定例報告会、取引先と
の商談と、やることは山積みだ。思い出したくないことばかりが押し寄せて、明はウイスキーの
ボトルに手を付けた。
「遅いなあ、明ちゃん」
由香は先ほどから何度目か忘れるほど時計を見上げていた。同級生との飲み会、しかも
ここからさして離れていない駅前とはいえ、既に時刻は11時を回っている。いつもならとうに由香も帰る時刻だが、
酔って帰った時に介抱する人手がいないと、との言葉で残らされているのだった。
―あんたもそろそろ結婚したらどう?
朝、母が持ってきたのは見合い写真だった。こっちからもあっちからも貰ってるんだけど、と、あっという間に見合いの写真が積み上がる。
「まだ、結婚は」
「まだ、じゃなくて。もうそろそろ考えていいんじゃない?」
試しに一枚を手に取ると、スーツを見た男性が畏まって座っている。28歳、年収450万、趣味は―。
「仕事が楽しいから、考えたこともないよ」
それだけ返して、家を出た。本当は、まだ昔の夢―明ちゃんのお嫁さんになる―を、捨てきれずにいる自分がいる。
田舎で20年も暮らし、旧家の暮らしを何年もつぶさに見てくれば、釣り合わないことなど十分わかっている。まして
明の母は他所の名家から嫁いできた人だ。由香個人との仲は良いが、それだけでは旧家の当主の妻そして母は務まらないことを由香はよく知っていた。
もう少しだけでいい。明ちゃんのそばにいたい。明が結婚したら、その時こそ自分はここを出て行こう。由香はそう決めていた。そのとき、玄関近くで物音がした。
「悪い、ここまで潰れるとは思わなかった」
実はすまなそうに言った。明日も早いし、さあ出ようとした時点で明は既に大量の空き瓶とグラスに囲まれて
意識をなくしていた。寝息はしっかりしているし吐いてもいない、泡も吹いていないから、
命に別状はあるまいと考えて店からここまで引っ張ってきたのだった。
「由香、片方持ってくれ」
せーの、で持ち上げて、2階の自室まで運ぶ。
「どうしたのかな、ここまで酔っ払うの、初めて見た」
自室のベッドに横たえ、由香はため息をついた。
「こいつなりにいろいろあるんだろ。社長もだし、当主もだし」
「鞄、ここでいいか?」
宮田が荷物を運んでくる。
「うん。ありがとう」
二人が去ってしまうと、由香はてきぱきと明の介抱を始めた。ベルトを緩め、ネクタイを解き、ボタンを外して
体の締め付けを減らす。目が覚めた時のために水と、吐きそうになった時のために洗面器も用意した。
「・・・由香」
「明様」
明が目を覚ました。酔いがまだ抜けていないらしく、瞳はどろりと濁っている。
「お目覚めでしたか。では私、人を呼んで」
来ますね、と言おうとした由香の手を、明は強い力で引いた。
「・・・明様?」
いつもと違う、と由香ははっきりと感じた。本能的に恐怖を感じて振りほどこうとし、
そのまま返す力でベッドに引きずり込まれる。間髪いれず、唇を塞がれた。
「やっ・・・」
誰か、助けて。叫ぼうとしたところを、再度塞がれる。圧し掛かってきた体の重さに、由香はめまいがした。
酒の臭いのせいだけではない。長年想いを寄せてきた人が、自分の意思を無視して自分を抱こうとしている。
「明ちゃ、」
明の手がブラウスの上から由香の胸を掴んだ。首筋を、舌が這う。
「由香」
熱のこもった言葉が、今は恐ろしい。
「俺の子供を産む気はあるか」
言われた言葉の意味が一瞬理解出来ず、由香は首を横に振った。別の何かが明の中に入り込んで、明の人格を
乗っ取りでもしてしまったか、そう思わずにいられなかった。指先は止まらずにブラウス
のボタンを外し、ブラの下に直接冷たい手が入る。力加減なしに男の手が乳房を掴んだ。
現実味のなさは明も同じだった。俺は由香相手にとんでもないことをしている、その自覚はあったが、それ以上に
由香が他の男に抱かれるのも、自分が他の女を抱くのも許せなかった。子供を作ってしまえば、誰もが由香を
諦めざるを得ない。他家からの縁談も、使用人に手を出して子供まで作ったとなれば遠のくことは確実だ。
「明ちゃん、やめて・・・っ」
ブラのホックを外し、由香の乳房を直接食んだ。男を知らない体はそれだけで雪のように白く、情欲をそそる。
全部だ、全部欲しい。実にも宮田にも渡さない。理論はめちゃくちゃだというのに、結論と欲望は正直だ。
必死に逃げるようにして身を捩り、背を向けた由香のスカートに手を入れ、ストッキングごとショーツを降ろす。
「誰か、助け、んんっ」
由香の言葉を片手で塞ぎ、もう片手を剥き出しになった中心部にひたりと当てると、由香の体がびくりと震えた。
由香にとって、全ては悪夢の一言に尽きた。体の中心を押し割って入ってくる何かがある。自分の意志とは関係なしに
異物は否応なく侵入し、内側をこすり上げ、襞を広げていく。それは同時に由香の心を浸食してもいた。
ブラウス一枚残して、今まさに自分は明の欲望の玩具とされようとしているのだ。
―明ちゃんにとっての私は、子供を産ませるための、道具なの?
明はブラウスを脱いだ。滾った欲望は既に準備ができている。頑なに向けた肩を返し、泣き崩れる由香の額に
口づけた。抵抗らしい抵抗をやめた由香は、されるがままに身を任せている。
「どうして、こん、な」
由香にはわからない、と明は思った。明治時代に廃止されたはずの身分制度は貧富の差と家柄という形で残り、
田舎の因習と馴れ合いは根を張り、その家に生まれた瞬間から人生の全てのレールが敷かれる。自分の思い通りになることなど、何一つない。
なら、いずれ作らなければならない子供の母親だけは自分で選ぶ。どれだけ後ろ指を指されても認めさせてみせる。
反論は聞かなかった。身動きの取れない由香の足を広げ、自らをあてがう。欲望のままに貫いた。
「やっ、いやあああああ!」
破瓜の痛みを、由香はシーツを握りしめて耐えた。諦めきれずにいた夢も、明の幸せを
見届けてから去ろうと決めていたことも、全て崩れていく。一番の希望が一番の絶望に変わる。
痛みに指先は縋りつく先を求めているが、明の背に爪を立てるのだけはプライドが許さなかった。子供を産む道具となる運命を受け入れるのは嫌だった。
破瓜の血が自身に絡みつくのを見て、明は噂に間違いのなかったことを確信した。侵入者を許したことのなかった入り口は熱く滑り、力加減を知らないまま明を締め付ける。
「っは・・・」
それだけで達しそうになるのを堪え、明は深く深くへと腰を打ちつけた。
「やめて、いたっ、いやあ、いや!」
悲鳴を上げる由香の体を抱き込み。文字通り全身で味わった。口づけ、歯を舌で割り、深く絡める。耳を愛撫し、髪を梳き、肌と肌を密着させ、待ち望んだ女の体を貪った。限界が近いことを悟り、最奥まで割入る。
「お願い、中は、や」
それが目的である明は聞く耳を持たなかった。
「出すぞ」
「いやあっ」
全身が震え、脈動とともに明は全てを放った。一滴も逃すまいと接合を解かず、残滓ごと注ぎ込む。その様を由香は焦点の合わない瞳で見ていた。
言葉もなく身支度を整え、逃げるようにタイムカードを押し、息をすることも忘れて走って、転がり込むように家にたどり着いた時点で、時刻は既に一時を回っていた。
這いつくばるように部屋に戻り、ドアを閉めると、枯れたはずの涙がまた溢れてきた。声だけ殺して、由香は泣いた。
翌日の休みを挟み、通常通り由香は出勤した。悪夢は心を苛んだが、ここを辞めたところではいそうですかと
次の仕事が見つかるわけではない。まして明はこのあたりでは強力な地盤を持つ名士だ。由香の雇用に手を回すことなど、造作もない。
由香はいつも通り、コーヒーに砂糖とクリームを一杯づつ入れて差し出した。
その様子を内心驚きつつ、明は由香の淹れたコーヒーを飲んだ。以前より、苦い気がした。
蛙の夢(前)終わり