雨だれ<2> 愛故入ります  
 
「結局天文部に入ったんだと、あいつ」  
 本田家の居間で参考書を広げながら敏幸が言う。  
「ふうん」  
 絵理はドイツ語の辞書を手渡した。音楽科で必修のドイツ語は他の外国語と並んでライバルの多い英語より難易度が低いことが多いため、  
うまくすればセンター試験のいい抜け穴になる。  
「天文部かあ、あんまりぴんと来ないけどね」  
「運動部みたいに上下関係が面倒でなくて、理系でも文系でも役に立つことが多いからだそうだ。  
実際古代ギリシャ史とギリシャ神話、地学と天文は直結するしな」  
 そう言って、イヤホンを耳に当てる。ベートーヴェンの第九番交響曲、第四楽章の合唱部分、  
いわゆる「歓喜の歌」だ。発音と文法と単語を一気に覚えこむのに歌が一番効率が良い、  
と聞いて試す気になったらしい。どこぞの高校では卒業式に言語で全校合唱だという。  
「Freude, schoner Gotterfunken,Tochter aus Elysium Wir betreten feuertrunken.  
Himmlische, dein Heiligtum」  
「音が外れてる」  
「うるせ」  
「普段歌ってないからだよ」  
「文法はともかく、発音は分かりやすいんだな」  
「音楽の先生によると、文法は難しくても発音は日本人に合いやすいんだって」  
 耳は悪くないんだから、もっと音楽に興味を持てばいいのにと、絵理は心の中だけで呟いた。  
 
 その英幸は、敏幸が家に帰った時点で居間で眠りこけていた。入学して一月、  
ようやく日々の生活にも慣れてきたところで進学校としての勉強量が本領を発揮してきたらしい。  
周囲には参考書が散らばっている。  
「制服くらい脱げっての」  
「仕方ないんじゃない?さっきまでずっと参考書と首ったけだったんだもの。  
まして兄がトップなら弟もトップを狙え、みたいな期待があるんでしょ」  
「そんなもんかねえ」  
 周囲に散らばっている参考書の中には、星座図鑑やギリシャ神話と言った敏幸にはなじみのない文献が  
転がっている。遊び半分で読み始めると、小さな頃に聞かされた星座の神話もいくつか混じっていた。  
 ゼウスの好色ぶりといい寝取りといい、愛人やその子供を容赦なく手に掛けるヘラといい、  
ずいぶん自分勝手で好き放題な神様ばかりだ。成人向けゲームにでも置き換えればさぞ修羅場だろう。  
古事記によれば天皇家も昔は散々無茶をやらかしていたから、神様が人間になっただけでどこの王家もそのあたりは変わらないらしい。  
 修羅場、ねえ。  
―絵理姉って、彼氏とかいるの?  
 弟の言葉をふと敏幸は思い出した。英幸は絵理のピアノで音楽教育を受けたようなものだ。  
全く興味のない敏幸と違い、ピアノはほとんど弾けないが一度憶えた曲は忘れず、歌を歌えば音程も外さない。  
中学時代の合唱部では、音感と声の良さを武器にソロパートもつとめていたと聞く。  
―まさか、な。  
 一瞬思い浮かんだ嫌な予感を、敏幸は否定した。もしそれが現実だったとしても、  
絵理が英幸相手に首を縦に振らないことを、敏幸はよく知っている。  
それに、幼馴染の居心地の良いぬるま湯のような関係から気まずさを感じる関係に転じるリスクを英幸が取るとは思えなかった。  
 本を元に戻して敏幸は階段を上がり始めた。受験生には、やることが山ほどあった。  
 
 中間も終わり、五月も後半に入ったころだった。絵理は練習室のカーテンの隙間から外の様子を伺い、  
時計の時間を確認して楽譜を閉まった。あと十分で学校を出れば、待ち時間を殆ど挟まずに電車に乗れる。  
 敏幸はとうに下校していた。今頃は過去問でも解いている頃だろうか。  
―そういえばあの人、ドイツ語の勉強とか言って第九聞いてたっけ。  
 戯れに、右手で主旋律を弾いて左手で和音をつける。思えば逸話の多い曲だ。  
作曲者の生前はまともに評価されなかったとか、日本での人気に対して海外ではあまり歌われないとか、  
あげくCDのサイズはこの曲が収まるかどうかを基準にしているとか。  
 扉を叩く音がした。敏幸は既に下校しているはずだから、  
この時間に残っているとしたら天文部の英幸だろうか。それとも、他の音楽科の誰かや先生だろうか。  
 
 果たして、扉の向こうにいたのは英幸だった。部活帰りだろうか、荷物を抱えている。  
昔は自分より小さかったのに、いつの間に追い越されたのか絵理には不思議でならない。  
絵理の身長は高くないほうだが、敏幸と英幸は170センチを超えている。  
同じ田舎育ちで同じ店で売ってる食べ物を食べてきたのに、どうしてここまで違うかな。  
「どうしたの?」  
「少し話があるんだけど、いい?」  
「いいよ」  
 絵理は英幸を招き入れた。扉のカーテンを閉め、鍵をかけた。  
 
 英幸はドアの前に荷物を置き、傍らの椅子に座った。絵理の荷物をまとめるのを待っているようだった。  
作業を終え、絵理がピアノの椅子に座る。   
「絵理姉に、聞きたいことがあるんだけど」  
「・・・何?」  
「彼氏っているの?」  
 どきりと絵理の胸が鳴った。敏幸と付き合うようになってから、この問いに対しては全てNOで返している。  
下手に勘ぐられたりあらぬ噂をたてられたりするのが面倒だからだ。好きな人はいる、とだけ、  
嘘の中に真実を交えて返してきたし、実際それで問題が起こったことはなかった。が、相手が相手だ。  
「好きな人は、いるけど」  
「誰?」  
 英幸の目つきが、いつにない真剣身を帯びてくる。  
「いや、それは、その」  
 まさかあなたのお兄さんと既に深い仲です、なんて言えるわけがない。英幸が椅子を蹴って立ち上がり、  
絵理は思わず後ずさった。壁に退路を阻まれ、咄嗟に絵理は言葉を濁した。  
「他校に」  
 
「嘘つき」  
 途端、英幸が絵理に覆いかぶさるように囁いた。  
「英ちゃん・・・?」  
 絵理の体を壁に押し付け、セーラー服のタイの結び目に指をかける。  
「普段兄貴とどんなセックスしてるの?」  
 その言葉に、絵理の顔がさっと赤らんだ。言葉を返せずにいる絵理の腿に手をやり、スカートをたくし上げる。  
「・・・っ!」  
「こんなのとか?」  
「英ちゃ、んっ」  
 英幸は強引に唇を奪い、赤いタイを解いた。押し返そうとする  
絵理の両手を掴んでひねり上げ、両手首を後ろ手で縛る。  
「普通科の優等生と音楽科の優等生が揃って淫行してました、なんてばれたら謹慎じゃ済まないよね?」  
「・・・英ちゃん」  
 セーラー服の前合わせのファスナーを降ろす。  
「絵理姉の、嘘つき」  
―もう、許してあげない。わざと聞こえるように、英幸は耳元で言った。  
ファスナーを降ろすと、セーラー服の上からでもその膨らみの大きさが分かるバストが現れる。  
クラスの男子がそういえば言っていた。音楽科三年の本田先輩の生乳はどんなもんか、と。  
ピアノの演奏よりそちらに意識が行って仕方ない、なんていう正直者もいた。  
「いやあっ」  
 ホックをはずし、直接その感触を確かめる。男の手でも余るその胸は丸く、ピンク色の突起がその存在を主張している。  
「放して・・・っ」  
「絵理姉がいけないんだ、俺に隠れて兄貴とセックスなんかするから」  
「そんなこと、んっ」  
 乳房を食みながら、英幸はスカートの中に手を差し入れた。足と足の間を指先でなぞると、  
童貞の英幸でもそれとわかるほど布地は湿り気を帯びている。ぐらりと絵理の足が揺れたのを、英幸は見逃さなかった。  
「濡れてる。普段からシてるからこっちは敏感なんだ」  
「違・・・っ」  
 布地を分けて、英幸の指が直接割れ目に割り入った。ぬめる襞をかき分け、  
蕾を探り当ててきゅう、と摘む。  
「うあっ」  
 絵理の視界が滲んだ。半分遺伝子が同じなだけあって、敏幸の指先と英幸の指先は殆ど同じ形をしている。  
なまじ敏幸の体を知る絵理にとっては拷問だった。自分を何度も抱いた手と、  
自分を今犯している手は同じ感触を伝えてくる。目を閉じれば、  
敏幸に抱かれているような錯覚さえ覚えてしまう。  
「やめて、英ちゃん」  
 絵理の膝が震えている。やめる気など、毛頭なかった。既に下半身は早く熱を放出させろと訴えている。  
「兄貴とのセックスはどうだった?こんなこともしたの?」  
「や、やだ」  
 パンティを膝まで降ろすと、そこは既に滴っていた。愛液が腿を伝い、  
本能と理性が戦っていることを教えている。  
指先を差し入れると、待ちかねていたかのようにずぶ、と音を立てて沈み込んだ。  
その感触に思わず首を横に振る絵理に、英幸はほくそ笑んだ。  
「大丈夫、兄貴とのことは黙っててあげる。でも、兄貴にも俺とのことは内緒だよ?」  
 片手で絵理を責め立て、もう片手でベルトを降ろして、英幸はポケットから銀の包みを取り出した。  
「あ・・・あ」  
 絵理の中から指を抜き、濡れた手でコンドームを付ける。諦めなのか、体が言うことをきかないのか、  
既に絵理は立っているだけで精いっぱいだった。両腿を愛液が伝い、一部はハイソックスにまで達している。  
足首に下着が引っかかり、はだけた胸がうっすらと汗ばんでいる様は淫らで美しい光景だ。  
その体を密着させ、逃れられないように片足を掲げて英幸は絵理の中に自身の滾りを押し進めた。  
「いやあ、あ、ああっ」  
 悲鳴を上げた唇とは裏腹に、体は英幸を飲みこみ、受け入れることに貪欲だ。  
散々兄の体で「学習」してきたのだろう、快感を求めて腰が動き始めている。  
 
―敏ちゃんじゃない、と頭では分かっている。が、体は止まらない。  
敏幸との行為に慣れた体が異物を飲み込み、もっともっと快感を得ようと求めている。  
乳房を愛撫する指先の感覚が、声が、律動のリズムが、何もかもが敏幸と違うようで似通っている。  
「いや、やめて、やめっ、ああっ」  
「兄貴とどっちが大きい?」  
「はなし、ひあっ」  
 繋がった部分がぐちゅりと音をたてた。奥まで挿入し、内側の感覚を楽しむように先端まで引き戻す。  
角度を変えて再突入すると、それに合わせて腰が揺らいだ。  
 処女ではなく、快感を知ってしまっている。その求め方も得方も知っている。だがそれは敏幸との時間のためだけだった。  
英幸に体を奪われて脅されるために敏幸に抱かれていたわけではない。  
 先ほどから壁に押し付けられている手が、体と壁に挟まれてずきりと痛んだ。  
英幸は構わずに絵理の両足を抱え、  
深く挿入してくる。  
「いやあっ」  
 せめてこの時間が早く終わってほしいと、それだけを絵理は願った。悪夢ならいっそ早く覚めてほしい。  
 英幸の体が絵理の奥底でどくりと震えた。ああ、射精だと絵理は半分瓦解した脳の奥で感じていた。  
 
「また明日ね、絵理姉」  
 身支度を整え、絵理の手首を解いて、何もなかったかのように英幸は言った。  
絵理は茫然としたまま立つことすら出来ずにいた。昨日までの幼馴染と目の前の雄とが一致しない。  
体を立たせようと英幸が引いた手を、絵理はせめてもの矜持で払いのけた。  
「はなして」  
「そろそろ先生が見回りに来るよ。さっきの時点で練習室を使ってたのは絵理姉だけだったし」  
「いいから、帰って!」  
 はだけたままのセーラー服をかきよせ、絵理は英幸を見ずに行った。同じ空間にいるのさえ厭わしかった。  
 
 英幸の足音が遠ざかって、絵理ははじめて声を上げて泣いた。敏幸との関係を悪いと思ったことは一度もない。  
好きになって、その延長上で体を許した。それだけだ。  
弟がその関係をもとに絵理を強請るなど、誰が信じるだろうか。  
 外は既に真っ暗で、風がざわざわと吹き始めている。どれだけ電車を待つことになっても、  
英幸と同じ電車には乗るまいと絵理は決めた。  
 
雨だれ<2>、終わり  
 

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