雨だれ<5> この先エロなし。  
 
英幸にとってはありがたくなく、絵理にとっては都合がよいことに、高校生の帰宅ラッシュの時間であり  
地元の小・中の下校時間でもあった。人目につくようなことは出来まい。  
「・・・お、かえり」  
「駅までなにしに来てたの?俺を迎えにきた?」  
「みんなで敏ちゃんを見送りにきただけだよ。明日から本命の受験だもの」  
「ああ、そっか」  
 そのまま帰ろうとする絵理を、英幸は追いかけた。追いつき、前に立ちはだかる。  
「そんなに急がなくたって」  
「・・・部活はどうしたの」  
「期末テスト一週間前だからないよ」  
 息が詰まった。早くここから逃げ出したい。だが、英幸はまず逃さないだろう。  
「ピアノの練習があるから、帰る」  
「うちもこっちなんだ」  
 傍目にはごく真っ当にしか見えない笑顔で、英幸は言った。  
 
 結局、並んで歩くことになる。絵理は一言も話さなかった。下を向いたまま、  
家までの距離を着実に縮めることに専念した。  
「何か話してよ」  
「・・・英ちゃんと話すことなんかないよ」  
 今からでも走り去りたかった。せめてあの時、友人が電車に乗るまで待てば、  
この事態は防げたかもしれない。  
「兄貴とは、結局まだ付き合ってるんだ」  
 絵理は顔を上げた。足を止めて英幸を見る。  
「前に言ったよね。絵理姉と兄貴が結婚しようとどうしようと、俺は構わないって」  
 ぎらついて、どこか狂気すら孕んだ瞳だった。あと少しで家に着くというところで、絵理は息を飲んだ。  
「今からでも、体で教えてあげようか?」  
 空いていた絵理の片手を掲げ、口づける。言葉と行動に対して指先に込められた力は男の全力だ。  
優男の英幸とはいえ、絵理の指など造作ない。  
「英ちゃん、やめて」  
「どうして?」  
「指、痛い」  
 力が少し緩んだところで、絵理は英幸の手を振り払った。震える手を握りしめて対峙する。  
「もう、こんなの嫌だ。英ちゃんに怯えて、毎日毎日逃げ回って、どうすれば顔を見ずに済むかって、  
そればっかり考えて」  
 英幸の眼を見るのは怖かった。が、言わなければならないのは今だ。  
 もう、終わりにしなければならない。  
「敏ちゃんと付き合ってるのは本当だよ。親にも英ちゃんにも言わないって、二人で決めたんだもの」  
 実際の行動はともかくとして、第三者の見えるところでの二人は友人付き合いに終始していた。  
英幸が何を言って脅しても、絵理は一度も関係を認めなかった。  
「認めるんだ?」  
「けど、もし別れたとしても絶対に英ちゃんを選んだりしない。何をどうされても、  
あたしが英ちゃんを選ぶことは絶対にない」  
「どうして?」  
「・・・英ちゃん、前に言ってたね。自分と敏ちゃんの何が違うのかって。  
敏ちゃんは、あたしが嫌がることは一度もしなかった。  
無理やり体を開いたり、脅したり、そんなことは一度もなかった」  
「絵理姉」  
 絵理の瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。   
「英ちゃんは、あたしがどんなに嫌だって言っても、聞いてくれなかった。  
気持ちよかったことなんて一度もなかった。ずっとずっと、早く終わればいいって、そればっかり考えてた」   
 思いだしそうになるたび、絵理の体は震えた。二度と次がありませんように、と祈りながら、  
ますます慎重な行動を取らざるを得なくなった。英幸の行為は、絵理にとって単なる動物の交尾の強制でしかなかった。  
 動物は雌にも選択権があることを考えれば、絵理の意志も選択もあったものでない行為はそれ以下だ。  
 
「何度も言うけど、敏ちゃんはあたしの嫌がることは一度もしなかった。指を無理やり掴んだこともなかったし、  
手首を縛ったり、壁に押し付けたりもしなかった。  
それだけじゃない。ピアノを弾く指だからって、痛めたり、  
弾けなくなるような事態につながりかねないことは一切しないって、  
ずっと気を遣ってくれてた。付き合うずっと前、小学校の頃からだよ」  
 その言葉に、英幸は言葉を失った。指はピアニストの命と、知らないわけがない。  
その指に、自分は何をしてきた?嫌だと、痛いと、放せと訴える彼女の言葉を無視して、  
縛りあげて、押さえつけて、  
「絵理姉、の、指」   
―そして、強いてきた。  
「俺は、なんてことを」  
「敏ちゃんは、ピアノのことは何もわからなかった。曲の聞きわけも出来なかったし、音感もなかった。  
でも、ピアニストにとって一番大切なことは知ってた。  
 英ちゃんは、ピアノのことはたくさん知ってたけど、曲も知ってたけど、  
でも、一番大切なことは分かってなかった」  
 絵理はしゃくり上げた。英幸の手から逃れるためには、敏幸の手も離さなければならない。  
敏幸と英幸は兄と弟だ。敏幸一人の手を取った上で英幸から逃れることは今の絵理には不可能だった。  
「敏ちゃんとは別れなきゃいけないのかもしれない。でも、嫌いになったからでも  
英ちゃんを選ぶからでもない。敏ちゃんと英ちゃんが兄弟だから、切っても切れないから、  
英ちゃんから逃れたければ敏ちゃんごと切るしかなかった。どれだけ好きでも、一緒にいたくても、  
敏ちゃんと一緒にいると後ろに英ちゃんがいる。英ちゃんを思い出して、  
敏ちゃんを受け入れられなくなる」  
 敏幸に抱かれながら、英幸の影に怯える。そんな関係は、いずれ破たんする。事が露見して破たんするより、  
今のうちならまだ敏幸の受ける衝撃は少なくて済む。それが絵理の出した結論だった。   
「敏ちゃんとずっと一緒にいたかった」  
 ずっと隣で笑っていたかった。結婚して、子供を産んで、育てて、老いていきたかった。  
 触れようとしてきた手を、絵理は払いのけた。一年前まで信じて疑わなかった未来を、  
そしておそらく敏幸はまだ信じて疑っていない未来を、英幸は兄弟という切っても切れない縁を印籠にして、  
土足で踏み躙って壊したのだ。  
「敏ちゃんが好きだった。本当に、本当に」  
 山の端に、日が落ちる。  
「絵理姉、俺は」  
 先ほどまでの狂気はもう英幸にはなかったが、言葉は絵理には届かなかった。過去は消せない。  
絵理は敏幸に英幸を重ね合わせる苦しみにずっと苛まれ続ける。その原因を作った英幸が、たまらなく憎かった。  
「最近、夢を見るの。逃げても逃げても、英ちゃんの影が追ってくる。怖くて誰かって叫ぼうとしても、  
口を塞がれて声が出ない。 この町のどこにいても、安心できない。英ちゃんがいつ脅してくるかと思うと、  
眠ることも一人で出掛けることも出来ない」  
 絵理は顔を上げた。死刑宣告のようだと英幸は思った。  
 自業自得。まさに今の自分がそうだと英幸は理解した。絵理を欲するあまり、絵理の気持ちを無視し、  
行動と言葉で彼女を追い込んで苦しめた。その結果が、跳ね返ってきたのだ。  
「絶対に許さない。英ちゃんがいる限りここには帰らない。―絶対に帰らない」  
 
「間もなくN駅、N駅に到着いたします」  
 新幹線のアナウンスが懐かしい駅名を告げ、絵理は荷物をまとめた。  
 悪夢は上京してからも絵理を苛んだ。拘束されて体をいいようにされた記憶が、  
追いかける夢が、一時は不眠症寸前まで絵理を追い詰めた。睡眠薬を手放せなかった時期さえある。  
 やむにやまれぬ帰省で一度だけ英幸の顔を見たが、体が許さなかった。吐き気と不快感が、  
故郷に帰ったことを後悔させた。  
 英幸本人は決して二の鉄を踏むまいと理性では分かっていたが、少しでも近くにいる、  
その可能性さえ絵理にとっては拷問だった。  
 敏幸を含め、安全圏全てを奪った英幸に、何度殺意を覚えたか分からない。おそらく実行していたら  
英幸は抵抗しなかっただろうが、しなかったのは自分のキャリアに傷が付くのと  
親の高額な学費の負担が無駄になるのを避けたかったからだ。英幸の人生を考えてのことではなかった。  
 大学に入ってすぐに敏幸と別れた。念願の早稲田大学に合格し、意気揚々と上京して  
携帯電話を手にした彼への二通目のメールで、他に好きな人ができたからと断腸の思いで送ったのを憶えている。  
 その後、敏幸とは成人式のための帰省で一度顔を会わせたきりだ。約束通り、何もなかったかのように振る舞った。  
―英ちゃんの死を悲しみに帰るんじゃない。英ちゃんと今生会わなくて済むことを確認して安心する  
ために帰るんだわ。  
 死んで、やっと拒否しなくて済む。もういないと納得することでやっと安心して眠れる。  
故郷に帰ることを躊躇わなくて済む。もう悪夢を見なくていい。  
目的はそれだけだった。   
 ローカル線の四十分を耐え、駅前でタクシーを拾って実家に戻る。隣家はひっそりと静まり返っていた。  
明日と明後日の法事の間中、近隣の女たちは息つく暇もないほどに働かされる。  
親族だけでひっそりと行うか全て葬儀会社に任せるという佐藤先生の常識はここでは通用しない。  
「ただいま」  
「お帰りなさい、絵理」  
 母の声が聞こえる。  
「はい、東京土産」  
 東京駅で買った銘菓を手渡す。  
「お土産って言ったって」  
 ちらりと母は隣家を見た。主目的はそちらだと言いたいのだろう。知ったことじゃないわ、  
と絵理は内心毒づいた。  
「そうそう、お隣の敏ちゃんがね、絵理が戻ったら寄って欲しいって言ってたの。  
いつでも構わないから、必ずって」  
 どきりとした。一方的に別れたきり、一度も連絡を取っていない。  
「分かった」  
 
 時刻は9時を少し過ぎようとする頃だった。用意していた喪服に着替え、隣家を訪ねる。  
チャイムを押すと、ややあって、見慣れた、けれど少し小さくなった影が現れた。兄弟の母親だった。  
「あらあら、絵理ちゃん、きれいになって」  
「お悔やみ申し上げます」  
「上がって行ってくれる?」  
「はい」  
 
 変わり果てたというには大げさだが、痩せ衰えた男の死に顔だった。死に化粧と綿でも、頬のこけ方は隠しきれない。  
髪だけが綺麗なのは、おそらくかつらだろう。絵理は大学時代ホスピスでの  
慰安コンサートに参加していたことがあるから、一目で判別がついた。  
「去年の春、悪性の腫瘍が見つかって。放射線治療も抗がん剤もやれるだけやったんだけど、  
若いから進行が早くて・・・」  
「まだ若いのに」  
 言葉とは裏腹に、絵理の心は悲しくなるほど冷静だった。幼馴染でいた時間のほうがずっと長く、  
思い出も沢山あるのに、憎しみが全てを押し流してしまったのかもしれなかった。  
 頬に触れると、ひやりと冷たかった。ああそうか、もう血は流れていないんだと、ようやく感じることができた。  
―ねえ、英ちゃん。いっぱい遊んで、いっぱいピアノも弾いたのにね。  
最後まで、どうしても許せなかった。  
 
 二度と目を覚まさないことに安堵している自分と、精いっぱい悲しもうとしている自分がいる。  
後ろの襖が開いた。背の高い男が静かに入ってくる。絵理は頭を下げようと向きなおり、そして言葉を失った。  
「絵理、か?」  
「・・・敏ちゃん」  
 外は雨が降り始めていた。  
 
雨だれ<5> 終わり  
 

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