雨だれ<6> これで終わり。エピローグです  
 
「夜分遅くに悪いな。東京から今日戻ってきたんだろ?」  
「明日になれば女性はみんなお葬式の手伝いにされちゃうから、今日くらいしか話す時間がないと思って」  
 連れてこられたのは懐かしい敏幸の自室だった。昔のような雑然さはもうない。  
敏幸は早稲田の4年生のときに司法試験に合格し、修習を終えて今は東京でイソ弁だという。  
 敏ちゃんは昔の夢を叶えたんだ、と絵理は胸を撫で下ろした。  
「話ってのは他でもない、英のことなんだ」  
 絵理の胸が跳ねた。あのことだと、すぐに感づいた。  
「あいつ、自分がもう助からないって知ってたんだろうな。何日か前にどうしても俺に会いたいって、  
連絡してきたんだ」  
 敏幸は下を向いていた。  
「あいつが俺とお前の関係を知って、それを盾に―お前に、とんでもないことを、した、と」  
―俺、知ってるんだ。絵理姉が兄貴と別れた本当の理由。  
 弟の最期の言葉は、いまだに敏幸を苛む。弟が自分たちの関係を知っていたことそのものも信じられなかったが、  
そのあとに続いた言葉は、もっと信じがたいものだった。  
 俺、兄貴と絵理姉の関係、知ってた。知ってたけど、俺も絵理姉のことが好きだった。  
だから、悔しくて、認めたくなくて、どうしても絵理姉を自分のものにしたくて―  
 絵理を学校の練習室で手籠めにしたと、弟は言ったのだ。しかも、絵理を脅して複数回事に及んだと。  
「正直、信じられなかった。けど、思い出してみればあの頃のお前は確かに少し変だった。  
休みなく予定を詰め込んだり、いつも誰かと一緒に出かけたり俺といたりして、絶対に一人になりたがらなかった。  
別れてからも、余程の理由がない限り戻ってこなかったし、連絡もなかった」  
―もちろん、絵理姉は俺のものにはならなかった。けど、兄貴と一緒にいると俺を思い出す。それが辛いからって、  
兄貴とは別れたくないけど、俺がいる限りここには戻らないって。  
 何度も本当のことを言いたかったけど、怖くて言えなかった。絵理姉がずっと避けてるのは俺で、兄貴じゃない。  
俺が、あんなことをしたから。兄貴の影に俺を見るのが嫌だから。  
「あのとき、すぐにでも気付いてやれればよかったのにな。俺は受験受験で、  
自分のことばかりで、何も気づいてやれなくて」  
「敏ちゃんのせいじゃないよ」  
 全ては敏幸の手の届かない範囲で起こったことだ。敏幸との関係を後悔したことなど、絵理にはない。  
 
「最後にあいつに、許さないって言ったんだってな」  
「・・・うん」  
 あの時の本心は、今も変わらない。体を奪い、精神を擦り切れさせ、  
恋人との仲を破滅させた男だ。絵理にとっては敵でしかない。  
「許してやれ、なんて言えないさ。あいつはそれだけのことをした。正直俺が英と他人だったら  
どんな手段を使ってでも破滅させてやってたと思うし、今だって英が死んだから悲しめなんて、  
お前にだけは絶対に言えない」  
 被害者なのか、加害者の家族なのか、俺はどの立場なんだと敏幸は自嘲した。憎みきることも出来ず、  
かばうことも出来ない。許せずにいる気持ちと兄という親愛が内側で闘っている。  
「英の容態が急変したのは、俺の見舞いの翌日だった。伝えない限り、死んでも死にきれなかったんだろうな。  
だから、兄として思うんだよ。あいつはずっと苦しんでたんじゃないかって」  
「英ちゃんが?」  
「お前がここに来るまで、俺なりにあいつのことを思い返してたんだ。俺が大学に入って帰省するとき、  
あいつはお前のことを一切話さなくなった。何か言おうとしていたこともあったけど、  
いつも途中で飲み込んで、言おうとしなかった。彼女の一人でも作ったらどうだって話をしても、  
自分にはそんな資格はないって言ってた。  
 一度、自分で集めたショパンのCDを大量に捨ててたこともあったらしいんだ。お袋が、  
自分が聴くからって引き取ったらしいんだけど、それでも死ぬまで一切聴こうとしなかったらしい。  
病室に持って行っても、手を着けなかったそうだ」  
 今ならその理由が分かる。ショパンは英幸にとって自責の曲にしかならなかったのだと。  
絵理とのつながりを持ちたくて買い集め、その絵理を自分の身勝手な行動で失った。  
「あいつ、俺の帰り際に言ってたよ。俺に、自分の代わりに謝ってほしいってな」  
―絵理姉が来るとしたら、俺の葬式だろうね。多分俺は、絵理姉には二度と会えない。  
それだけの事をしたから。だから、兄貴に頼みがあるんだ。  
 自分勝手なのは分かってる。兄貴に頼めるようなことじゃないのも分かってる。  
でも、他の誰にもこんなことは頼めない。  
 絵理姉に伝えてほしいんだ。ずっとずっと、謝りたかったって。許さなくていい、  
許してほしいなんて思っていない。伝えてくれるだけでいいんだ。  
結局それが、兄弟の最後の会話となった。  
「馬鹿だよな、あいつ。後悔して苦しむような原因を自分で作って、  
泥沼にはまって、身動きが取れなくなって」  
 敏幸は口の端を持ち上げてみせたが、歪んだような笑みだった。  
「バカだよ、英ちゃん、本当に、なんであんなこと」  
 昔のままの三人でいられれば、ショパンなんかいつだって弾いていた。  
昔思い描いていた未来の中には英幸の居場所も確かにあったのに、彼が選んだのは  
誰もが傷ついて誰も幸せにならないままバラバラになる、  
取り返しのつかない道だった。  
 大切な幼馴染だからこそ許せず、憎み、苦しんだ。後悔しても、  
それを伝えるだけの手段と時間は永遠に彼から失われてしまった。もう、全ては取り戻せない。  
 泣くつもりはなかったのに、涙は止まらなかった。抱き寄せた敏幸も、涙を押さえていなかった。  
 
 体を離すと、お互いに泣きはらした目をしていた。階下から、母の声が聞こえる。  
 敏幸は絵理の左薬指を見た。指輪ははまっていないが、そこだけが他の指と比べてわずかに細い。  
「今、付き合ってる奴とかいるのか?」  
「うん。音大の頃に慰安コンサートで行ってた病院の看護師で、今一緒に暮らしてる。  
二人のほうが家賃も安いし」  
 とはいえ、体を許したのは最近だった。絵理が処女でないことは知っていたが、  
英幸の件は話していない。勘の鋭い男だから、絵理の濁した「いろいろ」も気付いているのだろう。  
戻ったら全部打ち明けようと絵理は決めていた。  
「お前は、ちゃんと前に進んでるんだな」  
「たまたま、そういう人を好きになっただけよ」  
 絵理は改めて敏幸を見た。少しだけ、彼と似ていると絵理は思った。  
 
 最後にもう一度だけ、英幸の顔に触れた。その冷たさに、また涙が出た。  
 
 家に帰る頃には、雨はますます激しくなっていた。絵理は居間の片隅に置かれたピアノの蓋をあけた。  
使う人間がいなくなったせいか音は多少曇っていたが、聞ける程度ではある。  
 鍵盤の布を外し、ピアノの前に座った。楽譜もないのに、指先は正確に動き始めた。  
「あら、何の曲?」  
 風呂から上がった母が声をかけてくる。  
「ショパンの、雨だれ」  
「ふうん」   
 母は窓の外を見た。  
「雨だれっていうより、嵐だけどねえ」  
 
―絵理姉、ショパン弾いて。  
―いいよ。何弾こうか。  
 英幸の声が、記憶の底から浮かび上がってきた。  
   
雨だれ、 終わり  
 

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