36℃。これは人間の通常時の体温である。人体は体温をこの温度に保っておく機構が存在している。
逆を言えば、体温がこれより上昇しているときは、往々にして何らかの病気にかかっている場合が多い。
これを踏まえると、37.8℃というのは明らかに何か病気にかかっている人の体温である。
今日の朝起きてすぐに頭痛を覚えた恭介が脇に挟んだ体温計には、はっきりと「37.8℃」という文字が表示されていた。季節の変わり目である3月。体を壊しやすい時期と言える。
…どうりで頭痛いし喉も痛いわけだ。まいったな、せっかくの休みなのに。日曜日。しかも天気は晴れ。
本来なら妻を誘ってどこかデートにでも出かけようか、という日である。恭介の口から思わずため息が漏れる。
「おはよう。…どうしたの?」
先に起きて朝食を作っていた亜衣が寝室に入ってくるなり怪訝そうな声をかける。ベッドに腰掛けている1つ年下の夫は、体温計を片手にうなだれている。
よく見れば、顔色も若干悪い。黙って手渡された体温計は、亜衣の夫が風邪であることを告げていた。
「…風邪ね」
「ああ、風邪だな」
「そうとわかれば、ほら、布団に戻った戻った」
亜衣はやや強引に恭介を布団に戻した後、忙しそうに部屋を出ていった。
恭介は風邪をひいてるけど、こんなにいい天気なんだもの、洗濯しないと。それにお粥も作らないといけないし。
昼間の亜衣はいつにもまして献身的であった。食事はできる限り消化によく、かつ栄養価の高いものを作った。
恭介が汗をかけば、蒸しタオルで体をふき、新しい寝間着に着換えさせた。もちろん、氷枕がぬるくなれば取り換えた。
「悪いな、せっかくこんなに天気いいのにどこにも遊びに行けないよ」
「いいっていいって。ゆっくりしてなよ。せっかくの休みなんだから」
結婚してよかった。それは、「結婚したから」なのか、「相手が亜衣だから」なのかは言うまでもなかった。
夜、恭介は亜衣が作ったおかゆを平らげた。
「リンゴあるけど、剥こうか?」
「うん、じゃあお願い。」
「わかった。もってくる。」
亜衣はリンゴを半分に切り、片方をサランラップに包んで冷蔵庫に戻し、残り半分の皮をむいた後、食べやすい大きさに切り分けていった。
「はい、あーん」
亜衣は切ったリンゴをフォークに刺し、恭介の口元に近付ける。
「ちょ、いいよ、自分で食べれるから!」
「いいからいいから、ほら、あーん」
「…あーん」
恭介はしぶしぶ差し出されたリンゴにかぶりつく。
まるで子供のころに戻ったようなその行為に恥ずかしさを感じたが、体を起こすのも億劫な恭介にはとてもありがたかった。
「まだ食べる?」
「…いや、もういいや」
「わかった。じゃあもう寝てなさいよ」
「うん、おやすみ」
恭介が再び布団にもぐりこむのを背に、キッチンで洗い物をすませた。キッチンの窓からは、晴れた夜空に浮かぶ満月が見える。
「おやすみ…」
夫の布団からは規則正しい寝息が聞こえる。体を壊すくらい頑張っている夫には、この際だからゆっくり休んでもらいたいものである。
まあ、たまにはこんな日もいいかな。…いけないいけない、洗いものすませないと。
翌日。すっきり目覚めた恭介とは裏腹に、亜衣の目覚めは最悪だった。
なにしろ、起きてすぐくしゃみの3連発。それに続く鼻水。一晩のうちに、恭介の風邪がうつってしまったらしい。
妻の異変に気付いた恭介は、心配そうに声をかける。
「どうした?」
「うーん、頭が痛いの…」
「どれどれ…?」
恭介はなんの気なしに、自分の額を妻のそれにあてる。
「ちょ…」
ほぼ0cmまで近づけられた夫の顔にどぎまぎする亜衣。心拍数の上昇に伴い、顔に血液が集まっていく。
「熱があるな…」
当たり前じゃない、あんた自分が何やってるかわかってるの!?
とはいうものの、熱があるのは事実だし、そもそも口に出す気力などない。
そんな亜衣はただ
「うん…」
とだけつぶやくと、すっ…と額を離す。恭介は表情を変えることなく、
「何か食べたいものある?」
と聞くと、亜衣は少し悩んだのち、
「冷蔵庫に昨日のリンゴあるでしょ?」
冷蔵庫から取りだした昨日のリンゴをたどたどしい手つきで食べやすい大きさに切った恭介は、亜衣のいる布団へ戻る。
「おまたせ」
「うん」
布団から顔だけだした亜衣はちょっと逡巡したあと、消え入りそうな声で恭介に言った。
「ねえ、お願いがあるんだけど…」
珍しく大人しそうな声を出す妻にピンと来た恭介は少しためらった後、
「…食べさせてあげようか?」
「食べさせて…くれない…?」
同時に出た同じ内容の言葉は相手へと届き、その顔をほころばせた。
恭介は甘えてくる年上の妻にリンゴを食べさせていった。
まあ、たまにはこんな休日もいいか…珍しく甘えてくる亜衣も見れたことだし。
ところで恭介、リンゴ、皮くらいむいてよ。
…悪かったね、不器用で。