海でおかしなものに出会ったなら、目を伏せなさい。
海で死人に出会ったなら、近づいてはなりません。
嵐の夜に船を出してはなりません。嵐の夜は雨戸を開けてはなりません。
新月の夜には、海に出てはいけません。
この町に伝わる、漁師の掟。
ともだち
「ふぁいっおー、ふぁいっおー、ふぁいっおー」
気の抜けた掛け声とともに、校庭を駆け足が踏みしめていく。体育委員の安杖さんを先頭に、乱れのある隊列を組んでのランニング。
体育の授業前、準備運動の一環だ。男子は100メートル、私たちは75メートル。粗めの息を弾ませて足を動かし続ける。
「ふぁいっおー、ふぁいっおー、ふぁいっおー」
私の後ろからは、友恵と美里の声が聞こえる。……本当はあとひと組がすぐ後ろにいるはずなのだけど、そのことを誰も気にしていない。
私たちの誰かが転びでもしたらすぐに駆け足をやめるような安杖さんでさえ、遅れているふたりのことは視野に入れていないようだった。
「あるいてー」
ランニング終了の声が届いた。楕円を描いていた足たちがゆっくりとグラウンドへと集まっていく。息を整えるためのインターバルタイム。
じっとりとした汗が顎を伝って砂にしみた。
「はい、ふたり組作ってー。あ、今日って八森さん休みだったっけ?」
安杖さんに従い隣の佐藤さんとふたり組を作る。本来なら佐藤さんが組むのは八森さんなのだが、今日は休みなので私から後ろがひとり分繰り上がっている。
……そもそも、本来なら更にひとり分繰り上がっているのだけど。
とっとっと、と軽い足取り、ぜえぜえと、荒い息づかいのふたつが後方から追いついてきた。……遅れている、遅れていたふたりだ。
何の気なしに振り返ると、少し癖のある髪を揺らすふっくらとした顔立ちの少女と、
ここら辺ではあまり見ない金髪を靡かせる小柄な少女がいた。くせっ毛のある娘は見取茜さん。
彼女は別に足が遅いわけでも身体が弱いわけでもなく、ただ隣の遠藤さんに付き添っているだけなのだが……。
肩で荒い息を整える彼女。遠藤ひかりという日本人らしい名とは裏腹に、金色の髪に色素の薄く辛い運動で青白くなった肌、
蒼い瞳と日本人離れした特徴を持っている。話す言葉は当然日本語なのだが、私はあまり彼女の日本語を聞いたことがない。
というのも、彼女はあまり人とは話さないからで、他の言語を使えるわけではない。
彼女が楽しそうにお喋りをする相手は彼女の隣の見取さんと今日は風邪でいない八森さんだけなのだ。
遠藤さんの背中を撫でる見取さん。そんな一種ほほえましいふたりの姿を観察していると、早く準備運動を済ませよう、
と注意されてしまった。慌てて佐藤さんの腕をとって伸びの運動を始める。見られてしまっただろうか?あのふたりを見ていたところを……。
「佳香ー、縄持ってきたよ、早く練習しよう」
準備体操も終わり、そろそろ砂場へと行こうかとしていたとき、そう声をかけられた。
佳香というのは私の名前(少し平凡すぎると思う)で、声をかけてくれたのは六平友恵。農家の娘らしく、
この地域にしては肌が焼けている。日にさらされた髪は色素が薄れて茶色を覗かせていて、私からすればとてもおしゃれ。
塩水でごわごわになりかかっている私の髪と交換して欲しいくらいだ。
手渡されたのは縄、というよりはゴムバンドに近い。長年の土煙で表面が削れ、はじめは滑らかであったろう表面をがさつかせている。
体育祭の種目、障害物リレー中の2人3脚で使うものだ。目前に迫った体育祭、そのひと競技。組別得点に影響する大事な競技、らしい。
私のクラスの担任やクラス委員、体育委員はこういう行事事に燃える性質らしいので、今年も優勝を目指すぞ、だの青組には負けない、
だのと息巻いている。そのために一致団結するのは構わないけど、そのために運動ができない子たちが辛い思いをしているのは大変だな、
とは思っている。そういうことを口に出すのは憚られる雰囲気になっているのも、あまりいい気はしない。
友恵の足と私の足をゴムでまとめながらそんなことを考えていると、結び目が緩くなってしまっていた。
早く動きたくてうずうずしている彼女をなだめつつ、しっかりと縄を縛る。走っているときにほどけてしまった失格になってしまうし、
何より危ない。この前も1組の男子ひと組が転んで怪我をしたと聞いた。鼻を折ったのだとか。
走っている途中は片手は相手の首に回している、そんな不安定な状態でバランスを崩したとすれば……。ぞっとする話だ。
しっかりと結べたのを確認して、いち、に、いち、にと声を合せながら50メートルコースへと足を運ぶ。
本来は100メートルトラックの半分だけを使って走るのだが、今はリレーチームが使っているので、
少し離れたところにあるここを使うことになっているのだ。
細く伸びた五重線には、すでに先客がふた組いた。男子の草階くんと、星宮くんのチーム。それと、見取さんと遠藤さんのチーム。
男子のほうはすでに走り始めていて、見取さんたちは脇にそれてまだ縄を結んでいる。私たちもここで結べばよかったね、と友恵が残念そうに言った。
草階くんたちが走りきったのを確認して、スタートラインにつく。見取さんに目を合わせると、お先に、と譲られた。
「用意……スタート」
冷めたような、気のない声で見取さんが掛け声をかける。その瞬間、友恵と息を合わせて「せーの!」と走り出す。
いち、に!いち、に!スタートラインへ戻っていくふたりを駆け抜け、ゴールラインを切った。走りきった開放感から空を見上げ、
バランスを崩してしまう。
「わっ、どおしたの、佳香!?」
「っとと、ごめん。大丈夫?」
転ぶすんでの所で友恵が踏みとどまってくれた。たたらを踏み欠けて、足をとどめる。
見上げた空は、雲を越えて高く澄んでいた。
遠藤さんが怪我をした。
2、3回目の練習中、見取さんたちのチームが転倒したのだ。見取さんはとっさに手をついて身体を守ったが、
遠藤さんはうまく身体が動かなかったみたいだ。擦り傷のようで、立てた右膝から濃い赤色が見えている。
大丈夫、大丈夫と見取さんは彼女の背中を撫でてなだめているが、遠藤さんは既に涙の雫を目の端まで貯めている。
私は急いで足のゴムを外すと、彼女に駆け寄る。傷口に砂利がついているが、状態はそれほど酷くはない。大きさは1センチほどだ。
「ん……、保健室いこうか。消毒して絆創膏貼ればいいだけだと思う」
たった1ヶ月前に決まったばかりの係、その初仕事だ。押しつけられたに近いけれど、仕事は仕事、こなすのが当たり前だろう。
「見取さん、手伝ってくれる? 遠藤さん、たてるかな?」
うん、立てるよ、と遠藤さんの戸惑っているようなか細い声が聞こえた。見取さんはなにも言わず、背中にあった腕を腋に回すと、
私に視線を送る。あなたもやって、ということだろう。それに応えて、反対側から腕を回す。せーの、と声を合わせて立ち上がらせた。
と、背後から声がかかる。友恵の声だった。
「佳香? えと……、その、いいの?」
「……ちょっと待っててね、すぐ戻るから」
ああやだなあ、もしかしたら明日から私の居場所はなくなっているかも知れない。友恵ならそんなことはしないと思うけど、彼女に迷惑はかけたくないなあ。
右足を不自然に曲げた遠藤さんを両脇から抱え、校舎を目指す。背中に視線を感じるが、気にしないことにした。
ちょっとだけ、ちょっとだけ胸が、すく思いがした。
「ちょっと佳香、佳香ってば」
午後の授業がすべて終わり、帰り支度を整えて、玄関まであと3歩、とまできたところで友恵に呼び止められた。
彼女に見つからないうちにそそくさと出て行こうとしたつもりなのだが、見つかってしまったようだ。
「ねえ佳香……、まずいよ、安杖さんたちおこってるよ……」
「……私は、怒られるようなことなにもしてないと思うけど」
「そ、それは……、その……。あ、あの子のことだよ。佳香、ただでさえあんまりよく思われてないんだから、
あんなことしたら佳香まで巻き込まれちゃうよ……」
彼女の心配は、たぶん正解だ。たぶん、私も標的にされるだろう。けど、私は別にそれでいい。
ただ見ているだけでワタシハカガイシャジャアリマセン、なんてまっぴらごめんだ。そんなことを続けるくらいなら、
私もされる側になった方が気が楽だというものだ。そう言うと、友恵は瞳に涙をためて言葉を作ろうとする。それを遮って、
「ひかりちゃん、いい子だよ。茜ちゃんも。私は、あの子達といっしょにいるのも悪くないと思うよ。
……たぶん、私と喋ってるのがばれたら、友恵も大変だと思うから……、じゃあね」
と捨てぜりふのように一方的に告げ、走り出した。……友恵は追ってこない。それでいいのかも知れない。きっと、それが賢いんだろう。私が、馬鹿なだけで。
太陽はまだでている。
けれど頬が、冷たかった。
ぎゅっ、と音を立ててウェットスーツに袖を通す。中に海水を入れて滑りをよくしたスーツは、
少しのきつさを感じさせながらも腕を迎え入れた。押し出された水が腋を伝い、お腹まわりに流れ込む。
後ろに縛った髪を巻き込まないよう気をつけながら背中のジッパーを閉じた。
私は海女だ。と、いうより漁師の娘だ。兄がいるため船に乗って漁の手伝いをすることはあまりないが、
貝や浅瀬の魚を採るときは私も手伝うことがある。それと、ときどき遊びに近い感覚で魚を採ったりすることもある。
そうやって採った魚は我が家のごはんになるのだ。今日も、新鮮な魚を食べたくなったという理由で海に出てきている。
ざぶん、ざぶん。フィンを着けた足で海を割る。水が胸までくるとシュノーケルをつけて水に顔を浸した。このまま、魚のいる岩場を目指す。
……家で落ち着く気分にはならなかった。だから、わざわざごはんを採りに来たなどと自分に変な言い訳をしてここにいる。
犬のナナが死んだとき、小学校からの友達が転校したとき、私は泣くのを堪えて海に出た。
ざぷん、波を砕いて水へもぐる。岩場の影に獲物を見つけた。ゆっくり、ゆっくりと近づいていく。
プラスチック越しに見える海底は、私の涙と同じ色だった。
手頃な魚を2、3採った頃。ソレに気づいた。
なんだ、あれは。身体が凍り付く。岩場の向こう、青い海の広がる沖の方に、ソレはいた。
海蛇――のように細長い身体をくねらせ、赤ん坊――のような小さな手足をかいて海底すれすれを泳いでいる。
その身体は真っ黒で、鱗の光沢のようなものが見受けられない。胴が土管ほどもあるウナギのような、そんな生き物がいた。
おそらくこちらの方へ泳いできている、しかしこちらに向いているはずの頭が見えない。
私は吐く息を止めた。海中で息を漏らせば、水泡となってアレに私の存在を知らせることになる。たぶん、それはまずいことだ。
アレには関わらない方がいい。
岩の陰に隠れた私に気づいていないのか、ソレはゆったりとした動きで方向を変え、去っていく。そろそろ息が辛い、
背後や横を見渡してアレがいないのを確認し、静かに浮上した。
「……ぷはっ! ……え、なに、これ」
海の外は、暗闇だった。頭上には薄い雲がかかって、月明かりがぼんやりと海をてらしている。
おかしい。ありえない。潜ったときには太陽はまだあったし、さっきあのおかしなものを見たときも、陽光は海中に差し込んでいた。
それが、こんなにいきなり夜になるはずがない。
慌ててまわりを見渡して、また驚愕した。町の光が遠い。ずいぶんと沖に流されていた。立ち泳ぎのまま恐る恐る海中を除くと、
眼下には月明かりの届かない黒い水がたまっていた。いつもみている青い海ではなく、夜の、底知れぬ深い海。
帰らなければ。真っ先にそう考えた。ここにいてはまずい、そのくらい考えつく。幸い港の灯りは見えている、時間はかかるだろうが泳いでいけない距離ではない。
と、少しばかり泳いだ頃、運良く漁船に出会った。こちらには気づいていないようだが、こちらに船体の腹を見せ、
闇の中で動く乗組員が作業しているのがここからでも分かる。ここからざっと、20メートル程だろうか?
少しがんばればすぐに届く距離だ、あれに乗せてもらおう。ほっと胸をなで下ろす。
……あとちょっとでたどり着くと言うところで、気づいた。あり得ない。闇の中で、明かりもつけずに作業をする?
そんな船、あるわけがない。そして、月明かりを背景に浮かぶシルエット、それは少し前までは見ることのできたもので、
いまはみることができなくなった船体だ。
第八大旗丸。……一年程前の台風で難破し、そのまま帰ってこなかった船。船に乗っていたのはおじさんとその息子ふたり、
親戚づきあいがあったからいまでも顔を思い出せる。――いま目の前にある船で動いている人陰は、3人分。これは、つまり。
気づかれないよう、音を立てないようゆっくりゆっくりと後退していく。懐かしい幽霊船は結局私には気づかず走り出していった。
エンジン音も波を裂く音も、波も立てずに。
……あの掟を思い出した。
海でおかしなものに出会ったなら、目を伏せなさい。海で死人に出会ったなら、近づいてはなりません。
嵐の夜に船を出してはなりません。嵐の夜は雨戸を開けてはなりません。新月の夜には、海に出てはいけません……。
そうだ、あの黒いものに出会ったとき、私はアレを注視してしまった。魅入られたのかも知れない。何としてでもここから、
海から離れないと……。幸いかどうか、今日は新月でもなければ嵐でもない。幽霊船とあのおかしなものに気をつければ、
帰ることはできるはずだ。泳ぎっぱなしで足が疲れているが、もう少しの辛抱だ。
もう一度、奮起して町明かりを目指そうと顔を上げる。
顔があった。目が合った。
翁の面のように不自然に口角をあげ、不揃いな歯をすべて見せている。のっぺりとした鼻、取り繕うとして失敗したような不気味な笑顔。
粘膜か何かが月光を蛞蝓のように反射している。あの黒いものだ、と直感した。それが突然、目の前に現れた。
こんな時だというのに頭の中は妙に冷静で、ああ、水木しげるの描いた海坊主だ、なんて考えている。
「……ケタ、イレテ、ミ、イレテ」
ソレが言葉を発した。はじめの方はかすれてよく聞こえない上、聞こえた言葉らしきものは意味が分からない。
けれど明らかにそれは私に害をなすものだ、と読み取れる。こんな時に私の目の前に姿を現すものが私に優しくしてくれるわけがない、当たり前の発想だ。
「イレテ、ミ、イレテ、ナカイレテ」
おかしなものに出会ったら目を伏せなさい。その言葉通りソレから目を逸らそうとする。が、ソレから目をそらせない。
それどころかからだが動かせない。だらんと下げられた手足には力が入らず、立ち泳ぎを維持することすらできない――
しかし、私は浮かび続けている。……身体中に太い何かが巻き付いている感触。顔はソレを見続け、身体の自由は奪われている。
「イルヨ、ナカ、イルヨ」
老人の顔から若い男の声がする。全身が総毛立つ、しかし身体が動かない。カラダガウゴカナイ。
ぬるり、奇妙な感触が袖口から侵入してきた。冷え切った海の水とは違う、生暖かくて人肌よりも体温の高い、
けれど気持ちの悪く滑つく液体。ぬるり、ぬるりとそれは表皮を這っていく。
急速に重みを増したウェットスーツが浮力を失い、消えていく町明かりを水に浸しながら、私の身体は海に沈んだ。
海底には、なにもなかった。竜宮城も太古の遺跡も、あるのは壊れた蛸壺や折れた釣り竿だけ。
ゆっくり、ゆっくりと死体のように落ちていく。頼り気ない月光は海中を照らすのには足りず、一寸先さえ闇で覆われていた。
ただ一カ所、ソレに繋がる海底を除き。
だんだんとソレに引き寄せられ、ついにソレの本体と思しきものと対面した。それは大きな、両手に余る程大きなサザエだった。
その蓋は今外れ、中身が私に巻き付いている。真っ黒だというのに、それは仄かに光っていて、海ほたるみたいだ、と場違いに考えた。
ごぽり。口から気泡が漏れる。ああ、ここですべて吐き出してしまったなら私は楽になれるのだろう。
けれど、まだ、死ぬ気にはなれなかった。だから、必死に抵抗しようとする。身体は動かないけれど、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と効くかどうかも分からない念仏を心で唱える。その効果かは分からないが、手足の感覚が戻ってきた。
そして、わずかにだが黒いソレの拘束も緩まってきた気がする。
必死に唱える。唱え続ける。そのうち、黒いソレが苦しむような動きを見せ始めた。ぶるぶるとのたうち、
海中に浮かぶ私も揺さぶられる。と、一瞬、全身からソレの感覚が消えた。……チャンスだ。隙をつく形で足を懸命にばたつかせ、浮上を試みる。
……試みは、試みで終わった。怒り狂うサザエから伸びる腕に私の右足を掴まれると、私は柔らかな砂の海底に叩きつけられた。
衝撃で、ごぽ、と肺の中の空気がすべて逃げていく。かわりに入ってきたのは、大量の海水と少しの砂。パニックにはならなかった。
ただ、薄くなりかかった頭の奥の方で、ああ、死ぬのだ、それだけを感じていた。外れたシュノーケル。涙が海に溶けた気がする。
なにも震わせない唇がかってに、誰かに謝ったように思う。
そこで私は、ワタシの意識は途切れた。
……大人の男たちの怒声。まだ暖かみの足りない日差し。海鳥の喧しい声。久しぶりに聞く救急車のサイレン。
それで私は眼を覚ました。誰かに抱えられ、硬い何かに乗せられた。これは、担架だろうか?
「目ぇ、覚ましたぞー!」
漁労組合のおじさんの声が張り上げられる。すると、わっという歓声が上がった。ふたりや三人ではない、
ひとクラス分くらいはありそうな歓声だった。
「佳香、わかる? 佳香!」
お母さんが泣きながら私に声をかける。視界がぼやけていてうまく見えないし、喉もがらがらして声を発せない。
だから私は、ゆっくり、力の入らない首を縦に振った。とたん、泣き崩れたお母さんが抱きついてくる。あったかいな、と思った。
そう言えば、私は裸になっている。……裸と言うには少しおかしいか。右肩から先、腰から先のウェットスーツの感覚がない。
少しはスーツは身体に残っているのだろう。大事な部分も丸見えだ。……そんなことを恥ずかしがっている余裕はなかったが。
では、お母様もお乗りになって下さい。せーの、いち、にの、さん! 二人三脚のような掛け声で救急の人たちは担架ごと私を車に乗せた。
そこは海と違って温かく、喧しくて。
だから私は、安心してまぶたを閉じた。
朝の会が終わった。行方不明になっていた佳香ちゃんが、浜辺で見つかったらしい。検査入院でしばらくはこられないらしい。
昨日は電話で情報をくれてありがとう、と先生はその時間を締めくくった。昨日、いろいろなひとが深夜まで彼女を捜し回っていた。
お父さんも、ひかりは安心して眠っていなさい、とだけ言って外に出ずっぱりだったはずだ。
先生が教室を出て行くと、普段よりも一層姦しい空間が訪れた。よかったよね、だの、海の魔物だ、だのと安堵や茶化す話しぶり、
その話題のタネになっているのは間違いなく彼女だ。
ふう、と息を吐いて周囲に目を配る。何か考え込んでいるかのような美佳ちゃん、いつも通りうとうととしている茜ちゃんがうつる。
陽光に船を漕ぐ茜ちゃんが少しだけ可笑しくて、つい笑みを零した。
一限目は、英語だ。教科書を取ろうと机脇の鞄に手を伸ばそうとすると、視界に膝下まできちんと伸ばされたスカートがあった。
顔を上げると、どこか思い詰めたような少女の顔がある。三熊さん……、今朝見つかった佳香ちゃんの友達で、いっしょの2人3脚だったはずだ。
「え……っと、なに、か、な」
心臓が跳ねるようだった。知らない人と話しているからか、顔が熱くなってくるのが分かる。
視界の端で険しい顔をした茜ちゃんが立ち上がったのが見えた。
「……」
彼女は、何か迷っているような、思い詰めているような顔をする。ただならぬ雰囲気を感じてか、それともわたしが気に入らないのか、
クラス中の視線が私たちに集まっているのが分かる。
「……ちょっと、なんのよう」
抑揚をつけない茜ちゃんの声に彼女は振り返ると、ひとり何かを確認したかのように、こくんと頷いた。そして、
「遠藤さん。私と、友達になって下さい」
と、わたしに向き合って告げた。
しん、と静まりかえる教室。驚愕したクラスメイトの顔。ぽかんとした茜ちゃんと美佳ちゃんの顔。
「えと、え、あの……」
思いもよらぬ言葉に、どもってしまう。彼女は、す、とわたしの両手をとり、続ける。あなたと友達になりたい、と。
それは、とても強い瞳だった。昨日の佳香ちゃんを思い出させるような、強い瞳だった。
なぜか目頭が熱くなる。こくん、こくんとなんども頷いた。それを見た彼女は、にっこり、ありがとうと返す。
彼女も涙を瞳に貯めていた。
ありがとう、わたしも返す。ありがとう、三熊さんも返す。美佳ちゃんが微笑んでいた。茜ちゃんが苦笑していた。
他の人たちは、信じられないという顔をしていた。ぽろぽろと頬に涙が伝う。
その不思議で、おかしな光景は、授業の始まりを告げる鐘が鳴り響くまでずっと続いていた。
冷たい何かに包まれていた。黒くて、ぬるぬるした、なにか。程なくしてソレが海面でスーツに侵入してきたものだと理解する。
背中のチャックは下ろされていて、スーツはお腹のところまで下ろされている。水着のトップスの締め付けがなくなっている、
脱がされたか、とれてしまったのか。
なぜ、生きているのだろう。空気はすべて吐き出したし、水を大量に飲んだ。……考えるだけ無駄かも知れない。
そういえば、今私は確かに呼吸をしている。周りにあるのは黒いソレだけだ。空気と同じく感触はないけれど、
今私が飲んでいるものはコレなのだろう。
意識がぼんやりとしていて、覚束ない。手足を動かそうとする気も起きないし、周囲を伺うような気分でもない。
ただ、胎児のように手足を丸めて海水に浮かんでいるだけだ。
イルヨ、イルヨ。また、あの声が聞こえた。その声は今までと違い、私を囲うすべてから響いてくる。
肩に提げた魚籠が、それに釣られてゆらりと動く。
肌に密着しているぬるぬるがざわついた。全体がぐねぐねと、私の秘所を守る布きれの周りがばたばたと。
けれど水着はスーツに抑えられてそこをどかない。むしろ、引っ張られて秘裂に食い込み始めていた。
水着が縦筋に割り込んでしまったために全面を守る布がなくなり、薄く生えそろった陰毛がぬるぬるにそよぐ。
脱がすことを諦めたのか、ぬるぬるは水着を攻めるのをやめた。ずるずると身体中をはい回る感覚の後、
スーツの背中側から大量にぬるぬるが押し寄せてきて、おしりがぽっこりと膨れあがった。スーツと水着の間が開く。
ぐねぐねとぬるぬるが上から下へと蠕動して、水着のボトムズがだんだんと太ももへとずれていった。
布地と局部が完全に離れた辺りでぬるぬるの動きは止まる。
ずるり、とアソコを舐められた気がした。理科の授業で作ったスライムよりも固めの粘体がでこぼこの体表をうねらせて割れ目の奥を擦っていた。
誰にも見せたことのない場所を、恐ろしい化け物に晒している。けれど、私にはどうすることもできない。
――――!
秘密の穴に、水が流れこんできた。ぬるぬると共に侵入してきた海水は狭く閉まった膣を難なくすり抜け、深く深い奥まで到達する。
痛みはなかった。ただ、冷たかった。
ぎゅるり、お腹が鳴る。冷たいものが急に胎内に入ってきたからか、お腹の調子がおかしくなってきたようだ。
脂汗が海水に溶けて消える。
ずるり、ずるり。膣を通ってぬるぬるがお腹の中に溜まっていく。今まで意識したことがなかった子宮に、ぬるぬるが入っているのがわかる。
コップ一杯ほどもない、ぬるぬるが子宮に入りきると、膣から水やぬるぬるが抜けていった。子宮にずっしりとした重みが残る。
ぼうっとした意識も、薄れていく。きっとこれは夢なのだ。嫌な、悪い夢なのだ。
だから忘れよう。朝起きたら、暖かなお日様があるはずだから。
03.ともだち