夕日のひかりが沈むころ、彼女たちの密会は終わりを告げる。少女は約束を交わし、家路へとつく。それを見送るのはひとつのいのち。  
 昼と、夜。その境界を、今日も越えた。  
 
 夕暮れホライゾン  
 
 雨。音もなく、ただ静かに校庭を湿らせている。退屈な午後の6限目、私はそれに見とれていた。  
 授業は退屈だ。入学当初はやはり目新しかったものの、一週間、二週間と続けば小学校の全くの延長であることに気づいてしまう。  
特に午後の授業は、お昼ごはんを食べたこともあって眠気も襲ってくる。勉学へのモチベーションが下がってしまうのは致し方ない、そう心に言い訳をして窓の外を観察し続ける。  
 学校が嫌いなわけではない。むしろ、友達とのお喋りを楽しむ場として毎日の登校を楽しみにしているくらいだ。  
もちろんまだ若い学生として、不意の休日は歓迎するし、ベンキョウハキライ、と公言する権利を存分に使ってはいるが。  
 少々薹のたった教師が、黒板に新たな数式を書き込んでいく。教室に意識を戻した私は、硬質な音をなぞってノートに書き写していく。黒鉛で整理されたノートには予習のあとがあった。  
時計の針は誰にでも平等で、教師が予定していたとおりの内容を終えると、生徒を解放するチャイムが小さな校舎に響いた。彼が職員室に戻り、担任がやってくるまでの時間。それは私たちの時間になる。  
「茜ちゃーん、眠かったよ〜」  
机の収納から机脇にかけた鞄へとノートを詰め替えていた私に、まだ幼さの残る少女の声がかかる。顔を上げると、金色の髪を揺らした少女がいた。  
「前田先生も、もうちょっとわかりやすく教えてくれたらいいんだけどね。どう、今日のは理解できた?」  
「んー、まあまあ……。ところで、なんでわざわざかけ算のことを難しく言い直してるんだろう。混乱しちゃったよ、わたし」  
彼女の名前は、ひかり。人口の少なめなこの町には珍しい、純粋な金髪をもっている。私とひかりは、小学生からの友人で、無二の親友だった。  
しばしの雑談の後、担任が入室したことでひかりは自分の席へと戻っていく。彼女や他の友達との交流が楽しくて毎日登校しているのかな、ととりとめのない考えを巡らせる。  
 
 いつもと同じ教師の言葉。昨日と変わらぬ注意事項。知らなかった顔も見慣れれば日常になる。じゃあ、また明日。そういって彼は教室を離れる。  
そこから先は子どもの時間だ。誰それは部員の少ない部活へ行き、私は友達と帰路につく。教科書が入って重くなった鞄を提げて、既に扉の前に待機している友人の元に参じる。  
ひかりと、もうひとり。すこしやせ気味な肩、そこに届くくらいのしっとりとした漆髪の少女、美佳。私の髪は癖があるから、少しだけ羨ましい。  
彼女の黒縁メガネの奥、垂れがちな瞳が細くなって、艶のある唇が形を変える。  
「それじゃ、いこっか。ふたりは傘、もってきてる?」  
大丈夫だよ、と答える。午前の終わり頃に降り出した雨は、その勢いを変えずに降り続けていた。  
「茜ちゃん、いーれてっ」  
「忘れたの? ちゃんと天気予報くらいは見てから来なさいよ……」  
そういいながらも傘を差しだしてしまう。雨の日には必ず見る光景。彼女は可愛い赤い傘を持っているのだけど、学校があるときにはどうしてか私の傘に入ろうとする。  
「お母さんにも、いつも言われるんだけどねー。やっぱり、朝から降ってないと忘れちゃうよ、うん」  
 なぜか自慢げに話すひかり。けれど私は知っている。彼女のスクールバッグの底には、花柄の折りたたみ傘があることを。なんで彼女は私の傘に入ろうとするのだろう。  
何か大切なことがあった気がするけれど、思い出せない。  
 霧と言うには重い、糸のような細い雫が見慣れた田園を濡らしていく。まだ田植えは行われていない。夏になれば、ここは緑が映える美しい景色になる――。  
 いつもと変わらぬ他愛のない話。小学生から変わらないこの関係。美佳の薄桃の唇が動いて、ひかりが大仰に驚いて、雨に当たるよ、と私が体を寄せる。  
ひかりは可愛い。小柄で私たちよりも更に子どもっぽいから、という以前に、小動物のように庇護欲を誘う何かがある。ああ、そういえば。たしか彼女と初めて会話したとき、彼女は……。  
 
 
「じゃあまたね、茜ちゃん、ひかりちゃん」  
 青い傘の下で手を振る美佳。黒い傘の縁を頭上に、私たちも手を振り返す。住宅地の少し前、旧地主の家。それが美佳の八森家だ。  
お屋敷と呼ぶにふさわしい豪奢な家にお邪魔させてもらったときは、胸を締め付けられるような気がしたくらいだ。  
 国道沿いに歩き、住宅街へ。交差点、本当ならここでひかりと別れるのだけど、彼女が雨に濡れるといけないから、家まで送ってあげることにする。  
わたしの番だよ、といってひかりは私の手から傘を奪い取り、少し足りない背丈を補うように腕を高く上げた。  
 ひかりが傘を持っているときの約束。いつから始めたのか、交差点からひかりの家までの道では、ふたり手を繋いで歩くようにしている。  
ひかりの、きめ細やかで小さな手。私の、水仕事で荒れた大きな手。会話もなく、ただコンクリートを歩く。2回、きゅっきゅとひかりが手を握る。それに応じて私も2回、きゅっきゅと握り返す。  
彼女が微笑んだ気がした。雨の日の日常。寂しがりやな彼女は、こうしてなにかを確認したがる。  
ひかりの家、遠藤家。築10年は経っているけれど、ひかりのおばさんの手によってきれいに保たれている。周りの家に比して大きめの庭も、緑が溢れて、花のつぼみも膨らんでいた。  
「茜ちゃん、また明日。いつものところにね」  
「ひかり、また明日。風邪、引かないようにね。それから、海に近づかないように」  
 はーい、と可笑しそうな声。名残惜しそうに離れた手のひらが、門の中へと吸い込まれていく。扉が閉まったのを確認すると、私の足は踵を返した。  
 先ほどの交差点、それを商店街の方へ歩いていく。大通りに出る前に小道を曲がり、どんな日でも陰の差している路地に至る。  
木のドアに青い看板で「スナック みどり」と名乗る小さな家。店先から裏に回って、従業員用の扉の前に立つ。錆び付いた鍵を差し込んで、すべりの悪くなったドアノブを回す。  
 家の中はいつでも暗い。お母さんは、この時間なら寝ている。7時までは店に降りてこないのだ。  
2階に上がり、私の部屋へ。雨のせい、とは言い切れないようなかび臭さが鼻につく。遊びに誘われて入ったひかりや美佳の部屋とは大違いに、陰鬱な雰囲気が漂っている。  
 鞄を畳に置いて、制服を脱ぐ。どこにでもあるような白い長袖のセーラー服。リボンの色で学年がわかるようになっていて、私たち1年生は濃い緑色だ。  
スカートのホックを外して、ジッパーを下ろす。これで下着のみの格好――ではなく、寒さ対策の体操着を上下に着ているので、それも脱ぐ。  
雨のせいで余計に気温が下がっていて、肌寒い。そういう血なのかどうか、私は同学年の子達と比べても発育がよいほうだ。  
お腹まわりに余計なお肉がついていない(はずだ)割りに、胸もお尻も大きめだ。そのせいで、太って見えるのが腹立たしいところだけど。眼下の黄緑色のブラも、ジュニアブラとはいえEカップのものを使っているくらいだ。  
 
 脱いだセーラーをしわが寄らないよう注意しながらハンガーに掛ける。スカートは水滴がついているので、他の服から離れた場所にかけて、床に新聞紙を引いておく。  
ぶるり、と身体が震えた。いつまでも下着のままだと風邪を引いてしまうので、外行きの服を引っ張り出すことにした。背の低いタンスから動きやすいようなシャツとパンツを取り出す。  
長袖のシャツの中は、ひんやりとしていて鳥肌が立ってしまう。両方を着た後、ねずみ色のパーカーを羽織る。色気のない格好だが、これが私の毎日の外着。  
小さな冷蔵庫から「きょうや」と書かれたビニール袋を取り出す。そろそろ尽きてしまいそうだ、また補充しなければ。  
玄関まで降りて、靴を履く。傘立てから透明なビニール傘を取りだした。  
「いってきます」  
誰が答えるわけでもないのに、私は必ずこれを言う。きっと、習慣になっているのだろう。  
 外はまだ、雨が降り続いていた。  
 
 
 この町の西側には日本海があって、すぐ後ろには大きな山脈がある。この山は世界遺産にもなっていて、一年を通して観光客が絶えない。  
絶えないとはいっても、この町目当ての人はほとんどいないので、あまり町は潤わないのだけど。  
 湿った落ち葉を踏んで、山を登る。ここは地元の人も滅多に来ないような道なので、噂になるというような心配もしなくてすむ。まあ、道というか、私の足でできた獣道なのだけれど。  
 
 葉の落ちて寂しい見た目を晒すブナの木をすり抜けて、山の奥の方へ。山と言っても坂道のようなもので、家から充分歩いてこられる距離だ。  
たいして体育の得意でない私でも疲れを感じることなくここまでこれる。  
 雨でとけた雪を踏みしめ進むと、鬱蒼とした木々の中に小さな洞窟があった。ここが私の目的地。  
 ぽとん、ぽとん。洞窟の中に、水滴の垂れる音が反響する。鍵に付けた豆ライトで照らしながら、狭い洞窟の中を進んでいく。  
道なりに足を運んでいくと、これまでとうって変わって開けた場所に着いた。  
 獣臭。獣の吐息。  
 枯れ草で作ったベッドの上に、大きなオオカミが眠っていた。  
「キョウヤ、起きて。ごはん、もってきたよ」  
灰色の毛並みのオオカミは、私の声に反応してまぶたを開ける。すんすんと鼻を鳴らしたあと、人懐こそうな声を上げて私に問いかけてくる。  
「茜、おはよう。今日のごはんはなにかな? 鹿の肉だとうれしいな」  
「鹿のお肉なんて、手に入らないよ。今日は、豚肉。それとツナ缶持ってきたけど、食べる?」  
ツナ缶はいらないな、そう言ってキョウヤはのっそりと起きあがる。  
 2足歩行。  
 そう、あれは半月ほど前。私がちょっとした家出をしたとき、このキョウヤを見つけたのだ。右前足に怪我をしていて、とても苦しそうだった。  
大丈夫、と駆け寄ったときにキョウヤが人の声を発したあの瞬間の驚きは、この先も忘れられそうにない。  
 それから、私はキョウヤの世話をし続けている。たぶん、世間で話題になっている特害獣(だったっけか)なのだろうけど、関係ない。彼は私を必要としてくれているし、彼は私がいなければ死んでしまうだろう。これはきっと、当然のことなのだ。  
「包帯、かえるよ」  
座り直してお肉を食べているキョウヤにそう告げる。頷いたのを確認して、黄ばんで固まりかかった包帯を解いていく。ほとんど貫通しかけていた傷も、今ではかさぶたにまで治癒している。  
やはりキョウヤは私の知っている生き物ではないのだ、と痛感させられた。  
 新しい包帯を巻き付け終わったときには、キョウヤはお肉を食べ終えていた。時計を確認すると、まだ4時43分。あと30分はここにいることができる。  
「ねえ、キョウヤ。今日はね、こんなことがあったの」  
それからの時間は、会話に費やす時間。私がただ延々と喋って、たまにキョウヤが相槌を打つ。私は、キョウヤがなんでここに倒れていて、なぜあれほどの怪我をしていたのかなにも知らない。  
キョウヤは、私がどこの誰で、どんな名前の学校に通っていてどんな友達がいるのか全て知っている。本当はそんなことしてはいけないのだろうけど、なぜだか全てを話してしまう。  
 寂しいのだろうか。  
 誰かに何かを、聞いて欲しいのだろうか。  
 キョウヤは優しい。どんな愚痴でもどんな悪口でも、なにも言わずに聞いてくれる。そんなだから、きっとなんでも話したくなってしまうのだ。キョウヤと出会って知ったことがある。私は思っていたより最低な人間だったということ。  
キョウヤ以外に誰も聞いていないと気づくや、私は平気で他人の陰口を叩いていた。  
 
 けれど私にも良心はあるようで、そういったイヤなことを言い続けていると胸が詰まって涙があふれ出てくる。そんなとき、キョウヤは私の頭を黙って撫でてくれる。  
 きっと、私は彼に甘えているのだろう。  
 ピピピピ、ピピピピ。腕時計のベルが鳴る。5時15分。そろそろお別れの時間だ。岩床に落ちたビニールを拾い、少し疲れた足を立てる。  
「茜、また明日」  
「うん。また、明日」  
 スクールシューズのつま先は洞窟の外へと向かっていく。空は赤い太陽が落ちかけていて、雨は止んでいた。  
 夕暮れは私だけの時間。それを過ぎれば、夜になる。  
 昼と、夜。その境界を今日も越えた。  
 
01.夕暮れホライゾン  
 
 

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