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「次、100m8本。1分10秒サークル。よーい――」  
学校の室内プール。  
うちの水泳部は冬だろうが練習がある。  
昔は夏の一部で無いとプールなんて使えなかったというのに。  
文明の発達なのか、それともただ金をかければいいもんなのか。  
 
ピッ!  
 
笛の合図に合わせて壁を蹴る。  
そのまましばらく伸びた後、手を掻き始める。  
リズムよく、テンポよく。  
初めは色々と意識していたが、そのうち頭の中が真っ白になってくる。  
脳が酸欠気味になって、だんだんと体が熱くなる。  
この感覚が、俺は好きだった。  
 
「ふぃー。」  
練習は2時間ちょっと。終わるのは6時ごろである。  
結構きついが、それでもあっという間に終わってしまう。  
「お疲れー。」  
着替えを済ませ、タオルで髪を拭いながらロッカーを出ると、それを見つけた先輩に声をかけられた。  
「お疲れ様でーす。」  
こちらも挨拶を返す。  
「調子いいみたいだね、清夜クン。うん、良い事だ。」  
と、自分のことのように嬉しそうに笑う。  
それだけで、少し幸せな気分になった。  
 
国東 清夜、それが俺の名前だ。  
話しかけてきたのは、この水泳部のマネージャーである辰田 鈴先輩。  
何でむさい男の裸ばっかり見る羽目になる水泳部のマネージャーなんかをやってるのか不思議なくらい、綺麗な人だ。  
―――まぁ、理由は分かっているんだけれど。  
 
「で、清夜クンは今から帰り?」  
小首をかしげて顔を覗きこむようにきいてくる。  
こんな些細なことなのに、ドギマギしてしまう自分は重症だな、とつくづく思う。  
「ええっと…そのつもりでしたけど、先輩は?」  
「んー。いや、帰るんだったらいいや。」  
「なんすか、言ってくださいよ。」  
そんなこと言われて、帰れるわけがない。  
「んんー。」  
唸りながら、少し困ったような顔をする。  
「今のは、私の失敗だったかな。」  
「別に俺はかまわないですって。何なんですか?」  
「―――じゃあ、お言葉に甘えて。」  
 
「こういうのって、フツーは部長とかがやるんじゃないんですかー?」  
ここは部室。  
目の前にあるのは部費に関する書類の束。  
「うち部長ってあんなんじゃない?こういう仕事やりたがらないのよ。」  
全くしょうがないよねぇ、なんてため息を着く先輩。  
迷惑そうな口調と裏腹にその顔は柔らかで、なにかやりきれない思いになる。  
三学期になったら、すぐに後期の部費の予算折衝だ。  
プールの管理費やらで、他の部とは一回り多い部費を必要とする水泳部では死活問題である。  
そういうわけで、二学期のうちから部費関係の書類の整理くらいはしておかなきゃならないのだ。  
部活終わった頃はまだうっすらと明るかった空が、もうどっぷりと暮れてしまっている。  
「でもいいんですか、先輩。」  
「ん、何が?」  
「いや、こんな遅くまで、さ。どこに人の目があるのか分からないしわけだし―――」  
実際、学校でそういう噂は結構あった。  
色々多感な年頃だから、しょうがないっちゃしょうがないんだろうけど。  
自分はどうでも良かったが、先輩に関してそんな噂が流れるのは俺が耐えられそうになった。  
 
「ん?嬉しいねぇ、私でもそんな風に見てもらえてるんだ。」  
俺の顔を見ながら、先輩がからかうように言った。  
「い、いや!俺がどう思うとかではなくてっ!」  
きっと、赤くなってしまってると思う。  
自分ばかり妙に意識していたようで、恥ずかしかった。  
「冗談だよぉ。清夜クンのことだもの、もうそういう人はいるんでしょ?」  
「まさか!からっきしですよ。」  
その通りだった。  
まさにからっきしそういうことには縁がない。  
某友人曰く、周りが見えてないだけ、らしいけど。  
「んー。みんな見る目ないねぇ。誰か紹介してあげようか?」  
そう言って笑う。  
つられてこちらも苦笑いこぼした。  
「なんちゃってねー。やっぱりおばさんはイヤだよねー。」  
この人は………わかってやってるんじゃないだろうか。  
「年は関係ないっすよ。人間中身です。」  
「まぁ、そうだよねー。人間中身だ。」  
「そう、中身中身。」  
こんなんで会話が終わっていいんだろうか、なんて思うようなところで会話が止まるのは、いつものことだった。  
 
「いよっし、終わり!」  
作業は30分ほどで終わった。  
「結構早く終わりましたねー。」  
「今日は、整理だけだからね。」  
そういって書類をしまっていく。  
「ゴメンね、清夜クン。部活の後でわざわざつき合わせちゃって。」  
「別にいいっすよ。そうたいした作業でも無かったですし。」  
だいたい作業のペースが違いすぎる。  
俺も頑張ったが、到底先輩のペースには及ばなかった。  
俺の3倍はやってるんじゃないだろうか、先輩。  
「…そうだ、なんか奢ってあげようか?」  
「いいですって。なんで女の人に奢らせなきゃいけないんですか。」  
そんなことさせたら男が廃るってもんだ。  
「んー。」  
先輩は不満に唸る。  
並んで階段を下りて、校舎を出た。  
「なんかお礼したいんだけどな…、お。」  
何か見つけたようだった。  
駆け出す先輩。  
どうも、自販機で何かを買っているようだった。  
缶を取り出して、また駆けて戻ってくる。  
「はい。コーヒーでよかった?」  
そういって温かい缶コーヒーを差し出してくる。  
「いいって言ったのに…」  
遠慮がちに言う。  
「これくらいいいでしょ?手伝わせちゃったものは事実なんだし。  
 なんかしないと私の気が済みません。」  
半ば無理やり缶を握らされる。  
かじかんだ指先に、熱い缶の表面が心地よかった。  
 
「…わかりました。じゃあ、ありがたくいただいておきます。」  
ため息混じりに言う。  
先輩は楽しそうに笑った。  
 
「それじゃ、また明後日、かな。」  
「はい。また明後日。」  
校門を出て、先輩は俺を反対方向の道を行く。  
先輩が角を曲がって消えるまで、俺はずっと校門の前を動けなかった。  
「何を鼻の下を伸ばしてる。」  
「うおぁっ!」  
突然、横から声。  
「そんなに驚いたか?」  
「そ、宗司…?なんでこんな遅くまで?」  
「予算折衝で忙しいのは生徒会も同じだ、たわけめ。」  
何か偉そうなこいつは、代々木 宗司。  
俺の友人且つクラスメイト。  
部活もやらず、生徒会一筋という変態だ。  
「それにしても…、なかなかいいムードだったじゃないか?」  
意地悪な笑みを浮かべて宗司が言う。  
「うっさい、ほっとけ。」  
プイと顔を背けて、道を歩き出す。  
「なんだ、連れない奴だな。」  
言いながら、宗司が後ろから付いてくる。  
高校に上がってから、これかいつものスタンスだった。  
 
「お前も、さ。そんなにぞっこんなら、さっさと告白しちまったらどうなんだ。」  
道中、宗司が突然そんな話を切り出してくる。  
「何の話だよ。」  
「いや、お前。あんな幸せそうな顔をしてて惚けるも何も無いと思うんだが。」  
チッ、と舌打ちをする。  
俺も、なんでこんな奴に打ち明けたんだか。  
「実際、綺麗な人だよな。早くしないと誰かに先を越されるぞ、お前。」  
宗司はズカズカと人のデリケートな部分に踏み込んでくる。  
一発、その顔面にお見舞いしてやろうかと本気で考えた。  
「もう、遅いよ…」  
風にかき消されそうなほど、小さな声だった。  
「ん?何だって?」  
「いや、何でもない。」  
その後、俺は一言も宗司と言葉を交わせずにいつもの交差点で別れた。  
別れる時、申し訳なさそうに手を振った宗司の顔を見て、本当に奴には悪いことをしたと、そう思った。  
 
 
プシュ!  
缶が開く音が自室に響く。  
温かかったコーヒーは、すっかりぬるくなっていた。  
最初、コーヒーを手渡された時は、密かに凄く嬉しかったので、いっそ飲まないでそのまま保管しようかとまで思ったが、なんだかストーカーチックだから止めた。  
そんなことを考えてしまう辺り、いよいよ重症だ。  
 
―――そう。  
俺こと国東清夜は、先輩であり部のマネージャーである辰田鈴のことが、好きだ。  
そりゃもう、現在進行形で。  
きっかけは、些細なことだった。(こんなことのきっかけは些細なことだと相場が決まっている)  
高校に入りたての頃、それまで地元の学校に行っていなかった俺は、どうも馴染めずにいた。  
そんな中、孤立しかけてた俺を、たまたま、本当にたまたま今の水泳部に誘ってくれた人。  
小学校・中学校と男子校に投獄されていて免疫が出来てなかった俺は、それだけでコロリといった。  
 
そして現在、水泳部に入ったはいいものの、未だ何のアクションも出来ていない自分がいた。  
というのも、目も前に大きな問題があるからだった。  
所詮俺は1年ボーズ、後から入ってきた存在だ。  
先輩にはそれまでの学園生活があったわけで。  
それなら、先輩に既にそういう相手がいるっていうのも、至極当然な話ってわけだ。  
 
敵は、水泳部部長の鹿浜勇輝。  
やる前から勝負を捨てるのは主義じゃないが、到底俺が適うような人じゃないのも事実。  
飄々としてるけど、頭は切れるし、水泳のタイムも半端じゃない。  
加えて、達の悪いことに俺もあの人のことは好きだった。  
そもそも嫌えるような人じゃないのだ。  
 
そんなこんなで、俺の恋路は絶望的。  
でも、まあこんなんでもいいかな、なんて思っている自分が居る。  
先輩は、今日も楽しそうに笑っていた。  
それならそれで十分じゃないか、と思う。  
無理してない、と言ったら嘘になる。  
きっと逃げてるんだろう。  
それでも、恋愛感情ってのは、必ずしも独占欲を伴うものじゃないだろう。  
 
「―――まったく。青春してるな、俺。」  
そうこぼして、クイっと最後の一口を飲み干す。  
『微糖』のコーヒーは、中途半端に甘かった。  
 
 
もうすぐ、冬休みがやってくる。  
 

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